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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第10話 俺の読書時間、最近ちょっと賑やかすぎないか?


 土曜日の朝。


 清涼学園へ向かう通学路を歩きながら、七瀬春樹は珍しく何も読んでいなかった。


 両手は空いている。


 スマートフォンもポケットの中。


 鞄には昨日まで読んでいた連作短編集が入っているものの、取り出す気配すらない。


 以前の春樹を知っている者が見れば、それだけで体調不良を疑ったかもしれない。


 もちろん理由は単純だった。


(歩きながら読むなって言われたしな)


 風紀委員の九条凛に注意された。


 危ないと言われて考えてみれば、その通りだった。


 ならばやめる。


 春樹は本が絡むと周囲への注意が多少――永山剛志の言葉を借りるなら三割程度――落ちる自覚はあるものの、正しいと理解した注意を意地になって無視するほど頑固ではない。


 ただし。


「暇だな……」


 駅から学校までの徒歩時間が、急に長く感じるようになった。


 これまでは数ページ読んでいるうちに着いていた道だ。


 今は住宅街を抜け、交差点で信号を待ち、同じ制服を着た生徒たちに混ざって歩く時間を、すべて自分の目で受け止めなければならない。


 春樹は青信号になった横断歩道を渡りながら、空を見上げた。


 五月末の空は明るく、薄い雲がゆっくり流れている。朝の空気にはまだ涼しさが残っているものの、日差しには少しずつ初夏の気配が混じり始めていた。


(そういや、この道ってパン屋あったんだな)


 毎日のように通っている道なのに、店の存在へ初めて気づいた。


 ガラス越しに焼きたてのパンが並んでいる。


 少し先の家では、庭先に紫色の花が咲いていた。


 電柱の上では鳥が鳴いている。


「……俺、今まで何見て歩いてたんだ?」


「本じゃない?」


「うおっ!」


 真横から声がして、春樹は大きく肩を揺らした。


 振り返る。


 西条雫がいた。


 通学鞄を肩へ掛け、呆れたような顔でこちらを見ている。


「いつからいた!?」


「交差点渡ったところから」


「声かけろよ!」


「かけたわよ。二回」


「嘘だろ」


「本を読んでなくても周り見えてないじゃない」


「いや、今日は景色見てたんだよ」


「春樹が?」


「その反応やめろ!」


 雫が笑う。


 二人は自然に並んで歩き始めた。


「でも珍しいわね。本持ってないの」


「持ってるよ。鞄の中に」


「そういう意味じゃなくて」


「九条さんに注意されたから、歩きながら読むのやめた」


「ちゃんと続いてるんだ」


「俺だって一回納得したことくらい守るよ」


「えらいえらい」


「子供扱いするな」


「だって今まで何回言っても聞かなかったじゃない」


「雫に言われるのと、風紀委員に言われるのは違う」


「何それ」


「お前の場合、『危ないからやめなさい』の前後に『馬鹿』『アホ』『いい加減にしなさい』がつくだろ」


「事実じゃない」


「ほら!」


 朝からいつもの言い合いが始まる。


 近くを歩いていた同じ学校の生徒が二人をちらりと見たが、春樹も雫も気にしなかった。


 長い付き合いである。


 これくらいは挨拶と大差ない。


 少し歩いたところで、雫が春樹の鞄を見る。


「例の本、もう読み終わった?」


「まだ。昨日四編目まで終わった」


「結構かかってるのね」


「短編集だからな。一話ごとに一回止めて考えたり、白石先輩と話したりしてるから、普通に読むより時間かかってる」


「白石先輩と、そんなに本の話するんだ」


「するよ。昨日も四編目の感想話した」


「へえ」


「先輩、俺と見るところ結構違うんだよ。俺は伏線とか話の繋がりに目が行くけど、白石先輩は人物の言葉とか沈黙をよく見ててさ。『ここでこの人、本当はこう言いたかったんじゃないか』とか。聞くと、なるほどってなる」


 春樹の声が自然に弾む。


 雫は隣を歩きながら、それを聞いていた。


「楽しそうね」


「楽しいぞ?」


「そう」


「雫も読めばいいのに」


「今貸してるんでしょ?」


「図書館の本だから、俺が返したあとなら借りられる」


「考えとく」


「絶対読めとは言わないけど、雫ならたぶん三編目より二編目の方が好きだと思う」


「なんで?」


「人間関係が一番分かりやすいから」


「私を単純って言ってる?」


「違うって! 雫、話の仕掛けより登場人物に感情移入するタイプだろ。昔一緒に映画見たときも、俺が『この伏線すげえ』って言ってる横でお前泣いてたじゃん」


「……いつの話よ」


「中二くらい?」


「よく覚えてるわね」


「面白かったからな、あの映画」


「映画を覚えてるだけじゃない」


「お前が泣いたあと、『泣いてない』って言い張ってたのも面白かった」


「忘れなさい!」


「無理」


 雫が春樹の腕を軽く叩く。


「痛い」


「痛くしてない!」


「暴力反対」


「うるさい」


 春樹は笑った。


 雫も少し遅れて笑う。


 朝の通学路を並んで歩くこと自体、二人にとっては珍しくない。


 けれど最近は、その間に出てくる名前が少し増えた。


 新海真実。


 白石栞。


 九条凛。


 神谷蓮。


 以前から春樹の世界にいた人間もいれば、ここ数日で急に会話するようになった相手もいる。


 雫はその変化を、まだはっきりと何かに結びつけてはいなかった。


 ただ。


(春樹、最近本の話する相手増えたな)


 そう思った。


 以前なら、本について熱く語り始めた春樹を止めるのは自分か悠斗だった。


 今は、最後まで聞いてくれる人がいるらしい。


 それが悪いことだとは思わない。


 むしろ春樹にとっては嬉しいことだろう。


「雫?」


「何?」


「信号」


「あ」


 雫は赤信号の手前で足を止めた。


 春樹が少し笑う。


「俺より周り見えてないじゃん」


「今のは考え事してただけ!」


「何考えてた?」


「別に」


「最近みんなそれ言うな」


「じゃあ春樹には関係ないこと」


「余計気になる言い方するなよ」


「教えない」


「なんだよ」


 信号が青になる。


 二人はまた歩き始めた。


     ◇◇◇


 土曜日の授業は午前までだった。


 清涼学園では週によって土曜授業があり、この日は四時間目まで通常授業が組まれている。


 春樹にとっては素晴らしい日だった。


 なぜなら、四時間耐えれば午後が丸ごと空く。


(図書室で読んで、そのあと本屋寄って帰る。完璧)


 朝のホームルーム中、春樹はそんな予定を頭の中で組み立てていた。


「七瀬」


「はい」


「聞いてるか?」


「六月の予定表配布ですよね」


 永山が少し黙る。


「……聞いてたな」


「先生、俺を疑いすぎじゃない?」


「お前が窓の外見ながら妙に嬉しそうな顔してるからだ」


「午後の予定考えてました」


「それを聞いてると言うかどうかは微妙だな」


 教室に笑い声が起きる。


 春樹は配られた予定表へ目を落とした。


 六月。


 中間試験の返却はすでに終わっているが、月末には小テストや提出物が増える。


 さらに体育行事の準備も少しずつ始まるらしい。


(面倒なの増えそうだな)


 学校行事そのものが嫌いなわけではない。


 ただ、放課後の拘束時間が増えるのが困る。


 本が読めないからだ。


「春樹」


 隣から雫が小声で呼ぶ。


「何?」


「今、絶対『面倒くさい』って思ったでしょ」


「なんで分かる?」


「顔」


「そんな出てた?」


「出てた」


「気をつけよう」


「何に?」


「本音を読まれないように」


「そっち?」


 雫が呆れる。


 永山の視線が飛んできたため、二人とも口を閉じた。


     ◇◇◇


 午前の授業は大きな事件もなく進んだ。


 春樹は四時間すべて出席した。


 本も開かなかった。


 授業中にスマートフォンへ手を伸ばすこともない。


 本人はかなりの達成感を覚えていたが、永山からは「それが普通だ」と言われた。


 四時間目終了のチャイムが鳴る。


「終わったぁ……!」


 春樹は両腕を上へ伸ばした。


「土曜日の四時間って妙に長く感じるよな」


 悠斗が鞄へ教科書を入れながら言う。


「でも午後がある」


「何すんの?」


「図書室」


「知ってた」


「そのあと駅前の本屋」


「それも知ってた」


「俺の予定把握しすぎじゃない?」


「毎回同じなんだよ」


 悠斗が笑う。


 紗弥も近くで帰り支度をしていた。


「雫は?」


「今日は部活ちょっとある」


「土曜も?」


「午前授業の日は午後練あるの」


「大変だな」


 春樹が素直に言う。


「春樹もサッカー部入ってたら同じだったのにね」


「だから入らなかったんだよ」


「迷いがない」


「サッカーは好き。でも毎週土曜の午後まで練習になったら、いつ本読むんだよ」


「家」


「そういう問題じゃない」


「どういう問題なのよ」


「休みの日の午後に図書室とか本屋行く時間って特別だろ?」


 雫には分からないという顔をされた。


 春樹は肩をすくめる。


「まあいい。部活頑張れ」


「うん」


「悠斗は?」


「俺は帰る」


「赤木は?」


「私も今日は帰るかな」


「じゃあ俺は図書室」


「お前だけ行き先聞かれてないぞ」


「言いたかった」


 春樹は鞄を肩へ掛ける。


 そこへ教室の入口から声が飛んできた。


「七瀬先輩」


 春樹の足が止まる。


「……ん?」


 入口には真実がいた。


 昨日と同じように一年生が二年生の教室を訪ねてきたことで、数人の生徒がまたそちらを見る。


 春樹は一瞬だけ嫌な予感を覚えた。


「新海」


「こんにちは」


「こんにちは」


「今、大丈夫ですか?」


「先に確認する」


「はい?」


「今日は数学?」


 真実が一瞬きょとんとしたあと、笑った。


「違います」


「よかったぁ……」


「そんなに嫌だったんですか?」


「嫌じゃない。でも今日は午後全部読書に使う予定だから」


「相変わらずですね」


「俺から本取ったら何が残ると思う?」


 悠斗が横から口を挟む。


「サッカー」


「勉強」


 紗弥も続く。


 雫が腕を組む。


「あと、口」


「おい」


「よく喋るし」


「俺、結構残るじゃん!」


 教室に小さな笑いが起きる。


 真実も笑った。


「今日は、この前のお礼です」


「お礼?」


 真実が鞄から小さな紙袋を取り出した。


「数学、教えてもらったので」


「え、いいよそんなの」


「でも、美優も助かったって言ってたので」


「藤崎さんも?」


「私が教えてもらったやり方を説明したら分かったみたいです」


「それならよかった」


「それで二人からです」


 差し出された紙袋を、春樹は少し困った顔で見る。


「本当にいいのに」


「高いものじゃないです。クッキーです」


「クッキー」


「甘いもの、嫌いですか?」


「いや、好き」


「じゃあ受け取ってください」


「……なら、ありがたく」


 春樹は紙袋を受け取った。


「ありがとう。藤崎さんにも言っといて」


「はい」


 真実の表情が明るくなる。


 その様子を、雫は少し離れたところから見ていた。


 胸の奥で何かが引っかかる。


 不快というほど強くない。


 怒る理由もない。


 真実は自分も知っている後輩で、普通にいい子だと思っている。


 春樹が勉強を教え、その礼にクッキーをもらう。


 ただそれだけ。


(……別に普通よね)


 そう考えたところで、自分がわざわざ「普通」と確認したことに気づく。


 雫はわずかに眉を寄せた。


「雫?」


 春樹がこちらを見る。


「何?」


「なんか怖い顔してるけど」


「してない」


「してたぞ」


「気のせい」


「最近気のせい多いな」


「うるさい」


 春樹は首を傾げる。


 やはり理由は分からない。


 真実がそんな二人を見て、小さく笑った。


「本当に仲いいですね」


「よくない」


「普通」


 雫と春樹の返事が重なる。


 二人とも相手を見る。


「なんで否定するのよ」


「お前こそ」


「春樹が普通って言うからでしょ」


「幼なじみとしては普通だろ」


「だったら最初からそう言いなさいよ」


「細かいな!」


 真実がまた笑う。


 その表情には、以前のような緊張はほとんどなかった。


 春樹と話すことにも、雫と一緒にいることにも少しずつ慣れてきている。


「それで七瀬先輩」


「ん?」


「図書室行くんですよね?」


「うん」


「私も行っていいですか?」


「いいけど」


 春樹は即答した。


「本探す?」


「この前言ってた連作短編集、まだ七瀬先輩が読んでるから借りられないじゃないですか」


「そうだな」


「だから別の本、見ようかなって」


「おお」


 春樹の目が輝く。


 雫が嫌な予感を覚えた。


「新海」


「はい?」


「気をつけて。春樹に『本選んで』って言うと長いから」


「分かってます」


「もう学習してる!」


 春樹が抗議する。


「今日は俺が選ぶとは言ってないだろ」


「でも今、選びたそうな顔したじゃない」


「したけど」


「ほら」


「興味ある人に本勧めるの楽しいんだよ!」


 真実が笑う。


「じゃあ、三冊まででお願いします」


「最初から制限!?」


「前回多かったので」


「白石先輩まで候補出したからだろ!」


「七瀬先輩だけでも増やしそうでした」


「否定できない……」


 春樹は少し落ち込んだ。


 悠斗がその肩を叩く。


「行ってこい、本屋店員」


「図書室だよ!」


     ◇◇◇


 図書室へ向かう途中、真実は春樹の半歩後ろを歩いていた。


 土曜授業を終えた生徒たちが次々と昇降口へ向かっているため、廊下は平日より賑やかだった。運動部の生徒たちは昼食を取ってから練習へ向かうらしく、部活仲間同士で固まって歩いている。


 春樹は本を取り出していない。


 真実がそれを見る。


「七瀬先輩」


「ん?」


「本、読まないんですね」


「廊下ではもう読まない」


「九条先輩との約束?」


「約束っていうか、注意されたから」


「ちゃんと続いてるんですね」


「新海まで雫と同じ反応するのやめてくれない?」


「だって、最初に会ったときの七瀬先輩って、体育倉庫の裏で授業休んで本読んでた人ですよ?」


「そこだけ切り取るとすごい問題児だな」


「違うんですか?」


「……最近は改善してる」


「否定しないんですね」


「事実を捻じ曲げるのはよくない」


 春樹は真顔で言った。


 真実が笑う。


「七瀬先輩って、変なところで真面目ですよね」


「また変って言われた」


「褒めてます」


「白石先輩も似たこと言うんだよな」


「白石先輩も?」


「『七瀬君らしい』って」


「それ、同じ意味ですか?」


「俺の中では褒め言葉として処理してる」


「便利ですね」


「前向きと言ってくれ」


 二人で話しながら廊下を進む。


 途中、階段を下りたところで、前から一人の女子生徒が歩いてきた。


 黒いポニーテール。


 凛だった。


 今日は風紀委員の腕章をしていない。


「九条さん」


 春樹が先に声をかける。


 凛も二人に気づいた。


「七瀬君」


 視線が真実へ移る。


「こんにちは」


「こんにちは」


 真実が軽く頭を下げる。


 凛も返す。


 春樹は凛が手に持っている袋を見る。


「部活?」


「ええ。これから昼食を取って、そのあと剣道部」


「土曜も大変だな」


「普通よ」


「運動部にとってはな。俺なら毎週土曜午後まで潰れたら泣く」


「読書できないから?」


「よく分かったな」


「それだけ話してれば分かるわよ」


 凛が呆れる。


 真実が二人のやり取りを見ていた。


「仲良くなったんですね」


「なんでみんなそれ言うんだ?」


 春樹が真実を見る。


「普通に話してるだけだぞ」


「二日前まで名前も知らなかったんでしょう?」


「そうだけど」


「だったら仲良くなってるじゃないですか」


「……そういうもの?」


 春樹が凛を見る。


「私に聞かないで」


「九条さん的には?」


「知り合い」


「ほら」


「でも、最初よりは話すようになったわね」


「じゃあちょっと仲良くなった?」


「どうしてそんなに確認したがるのよ」


「新海に言われたから」


「自分で考えなさい!」


 凛が呆れた声を出す。


 真実が笑った。


 春樹は少し考える。


「じゃあ知り合い以上、友達未満?」


「何その分類」


「分かりやすいだろ」


「恋愛小説みたいな分類しないで」


「恋愛関係ないだろ!」


「あなたが言うと何でもそっちに聞こえるのよ」


「偏見だ!」


 少し離れたところを通った生徒が、何事かと三人を見る。


 春樹は声を落とした。


「で、九条さんも図書室?」


「違う。食堂へ行くところ」


「ああ」


「あなたたちは?」


「図書室」


「やっぱり」


「今『どうせ』って言いかけなかった?」


「言ってない」


「顔に出てるぞ」


「あなたにだけは言われたくない」


「なんで!?」


 凛が小さく笑った。


 真実はその表情を見て少し驚く。


 校内で見かける九条凛は、いつも真面目で凛とした印象が強い。


 こんなふうに同級生と冗談を言い合っている姿は珍しかった。


「じゃあ、部活頑張って」


 春樹が言う。


「ええ」


「鬼塚先生に怒鳴られないように」


「余計なお世話」


「物真似しようか?」


「しなくていい!」


「何の話ですか?」


 真実が尋ねる。


 凛の顔がわずかに引きつる。


「新海さん、聞かなくていいわ」


「昨日、鬼塚先生の物真似したら九条さん笑ったんだよ」


「七瀬君!」


「えっ」


 真実が凛を見る。


 凛の頬に少しだけ熱が集まる。


「笑ったんですか?」


「……少しだけ」


「似てたんですよ」


「自分で言う?」


「自信あるからな」


「じゃあ今やってください」


「新海さん!?」


「お、聞く?」


「ちょっと気になります」


「やめなさい!」


 三人の声が廊下に重なった。


 その直後。


「何をやめるんだぁぁぁぁぁ!!」


 背後から腹に響く大声が飛んできた。


 三人とも固まった。


 ゆっくり振り返る。


 鬼塚鉄平が立っていた。


 身長百九十センチ近い大柄な身体。


 短く刈り込んだ髪。


 腕を組み、三人を見下ろしている。


「鬼塚先生」


 凛の声がわずかに硬くなる。


「九条! これから稽古だな!」


「はい!」


「新海! お前は一年だったな!」


「は、はい!」


「七瀬ぇ!」


「なんで俺だけ呼び捨てで圧強いんですか!?」


「サッカー部に入る気になったかぁ!」


「なってません!」


「即答!」


「何回聞かれても変わりませんって!」


 鬼塚が豪快に笑う。


「で! 何の話をしていた!」


「先生の物真似です」


 春樹が答えた。


 凛が勢いよく春樹を見る。


「七瀬君!?」


「隠しても仕方ないだろ」


「そこは隠しなさいよ!」


 鬼塚が眉を上げる。


「俺の物真似?」


「はい」


「やってみろ!」


「先生!?」


 凛が声を上げる。


 春樹は少し考えた。


「いいんですか?」


「やれ!」


「じゃあ……」


 春樹は一度喉を整える。


 姿勢を伸ばし、胸を張る。


 そして。


「七瀬ぇぇぇぇ!! もっと走れぇぇぇぇ!! 若者が昼休みに本ばっかり読んでるんじゃなぁぁぁい!!」


 廊下に声が響いた。


 真実が吹き出す。


 凛は口元を押さえる。


 鬼塚は数秒黙った。


「…………」


「先生?」


「七瀬」


「はい」


「似てるな!」


「本人公認!」


「声量が足りん!」


「そこ!?」


「腹から出せぇぇぇ!」


「廊下でやらせないでくださいよ!」


 周囲の生徒たちまで笑い始めた。


 凛はとうとう耐えきれず、声を出して笑った。


「九条さん、やっぱり笑うじゃん」


「今のは仕方ないでしょう!」


「何が仕方ないんだ!」


「先生は黙っててください!」


「九条ぉ!?」


 鬼塚まで楽しそうに笑う。


 しばらくして、別の教師から「廊下で騒がないでください」と注意が飛んできた。


 春樹と凛と鬼塚が同時に口を閉じる。


 真実だけが肩を震わせていた。


「……怒られた」


 春樹が呟く。


「七瀬君のせいよ」


「先生がやれって言ったんだろ!」


「俺か!?」


「先生です!」


「新海は?」


「私は見てただけです」


「一番強い立場!」


 また笑いが起きる。


     ◇◇◇


 ようやく図書室へ着いたころには、春樹が教室を出てから十五分近く経っていた。


 春樹は入口の前で時計を見る。


「……おかしい」


「何がですか?」


「真っ直ぐ来たら三分くらいなのに」


「九条先輩と鬼塚先生に会いましたからね」


「俺、図書室行くだけなのに最近毎回何か起きるんだけど」


「人気者なんじゃないですか?」


「やめてくれ。俺は静かに本が読みたいんだ」


 真実が笑う。


 春樹は扉を開けた。


 土曜日の昼過ぎということもあり、平日より利用者は少なかった。


 窓から明るい光が差し込み、机の上に四角い光の帯を作っている。校庭から運動部の声がかすかに聞こえるものの、館内にはページをめくる音の方がよく響いた。


 春樹はまずカウンターを見る。


 栞がいた。


 返却された本を整理している。


 扉の音に気づき、顔を上げた。


「七瀬君」


「こんにちは」


「こんにちは」


 栞の視線が真実へ移る。


「あ、新海さんも」


「こんにちは、白石先輩」


「こんにちは」


 真実が頭を下げる。


 春樹は二人を交互に見る。


「もう名前覚えてるんですね」


「この前来てくれたから」


「私も白石先輩に本選んでもらいましたし」


「なるほど」


 春樹は納得する。


「今日は新海が別の本見たいらしくて」


「七瀬先輩に三冊まで選んでもらおうと思ってます」


「三冊まで?」


 栞が春樹を見る。


「制限かけられました」


「必要だと思います」


「白石先輩まで!?」


 栞が小さく笑う。


「前回、七瀬君はたくさん持ってきそうだったので」


「本は出会いが大事なんですよ」


「選択肢が多すぎると選べなくなります」


「正論……」


「九条先輩にも正論で負けてましたね」


 真実が言う。


「今日俺、正論に殴られすぎじゃない?」


「殴ってません」


「比喩です!」


 栞がまた笑った。


 春樹は少し不満そうな顔をしながらも、楽しそうだった。


「じゃあ新海。何読みたい?」


「それを決めるところからお願いしたいです」


「広いな!」


「だから三冊です」


「分かった。まず、今どんな気分?」


「気分?」


「重い話読みたいのか、明るいのがいいのか。恋愛なのか、ミステリーなのか、日常ものなのか。長いのか短いのか」


「……そんなに考えるんですね」


「本選ぶんだから考えるだろ」


 春樹は当然のように答える。


 栞も隣で頷いている。


「新海さん、最近疲れてますか?」


 栞が穏やかに尋ねる。


「え?」


「疲れてるときに重い話だと、読むのが大変なこともあるから」


「ああ……」


 真実は少し考える。


「今週は数学で疲れました」


「俺が昨日解決しただろ」


「解決する前に疲れたんです」


「なるほど」


「なら、あまり重くない方がいいかもしれませんね」


 栞が言う。


「恋愛は?」


 春樹が尋ねる。


「嫌いじゃないです」


「じゃあ青春寄りかな。短めで、文章軽くて、でもちゃんと最後に余韻あるやつ」


「もう候補あるんですか?」


「二冊」


「早い……」


「もう一冊は少し違うの入れよう。日常ミステリーとかどう?」


「読んだことないです」


「じゃあそれ」


 春樹は本棚へ向かう。


 栞も少し迷ったあと、カウンターから出た。


「私も一冊、いいですか?」


「もちろん」


「三冊制限なのに白石先輩枠あるんですか?」


 春樹が真実を見る。


「七瀬先輩二冊、白石先輩一冊で三冊です」


「俺の枠減った!」


「平等です」


「先輩後輩で平等とは」


「本選びに上下関係あります?」


「ないな」


「じゃあ決まりです」


「強くなったな、新海」


「七瀬先輩に慣れてきました」


「それ雫にも言われるんだけど、俺って慣れが必要な人間なの?」


 真実と栞が顔を見合わせる。


 二人とも、すぐには答えなかった。


「なんで黙るんです?」


「本、選びましょうか」


 栞が言う。


「白石先輩!?」


「行きましょう」


 真実まで続く。


「逃げた!」


 静かな図書室なので、春樹も声は抑えている。


 その分、表情だけが大きかった。


     ◇◇◇


 三人で本棚を回る時間は、春樹が想像していた以上に長くなった。


 春樹は候補を二冊に絞ると言いながら、途中で四冊手に取った。


 真実に「二冊ですよ」と言われ、悩みに悩んで二冊を棚へ戻した。


 栞はその様子を横で見ながら、何度か小さく笑っていた。


「こっちは絶対読みやすい」


 春樹が一冊を真実へ見せる。


「高校の写真部が舞台。恋愛はあるけど、それだけじゃなくて友達関係も結構いい」


「七瀬先輩、読んだんですか?」


「二回」


「二回?」


「一回目は普通に読んで、二回目は主人公の友達側に注目して読んだ」


「同じ本をそんな読み方するんですね」


「する。視点変えると結構印象違うぞ」


「じゃあ、これは候補」


「よし」


 春樹が嬉しそうに頷く。


 栞は別の棚から一冊持ってきた。


「新海さん、これはどうでしょう」


 淡い水色の表紙。


 海辺の町を舞台にした短編集らしい。


「一話が短いので、少しずつ読めます。恋愛の話もありますけど、家族とか友達の話もあって」


「面白そう」


「疲れてるときでも読みやすいと思います」


「じゃあこれも」


 真実が受け取る。


 春樹は最後の一冊を持ち上げた。


「そして俺の二冊目」


「日常ミステリー?」


「そう。殺人事件とかじゃなくて、『教室から消えたプリントはどこへ行った』とか、『毎週同じ時間に図書室へ来る人は何してるのか』みたいな小さい謎を解くやつ」


「へえ……」


「恋愛要素もちょっとある」


「七瀬先輩、本当に恋愛好きですね」


「読むのはな」


「現実では?」


「別にいらない」


 即答だった。


 真実は苦笑する。


 栞は春樹を見る。


「本当に迷いませんね」


「何がです?」


「前も同じこと言ってたから」


「だって本当にそうだし」


 春樹は三冊を見比べる真実へ視線を戻した。


「俺、恋愛してる時間あったら恋愛小説読みたいですもん」


「それ、相手ができても言えるんですか?」


 真実が尋ねた。


「相手?」


「好きな人」


「できないから分からない」


「絶対?」


「絶対とまでは言わないけど、今のところ想像できないな」


 春樹は少し考えた。


「そもそも好きになるって、相手のこと結構知ってからじゃない?」


「一目惚れもありますよ」


「あるけど、俺はたぶんしない気がする。見た目綺麗だなとか可愛いなとは思っても、それだけで付き合いたいとはならないし」


 真実の指が、本の表紙の上でわずかに止まる。


 栞も静かに聞いていた。


「じゃあ七瀬先輩は、どういう人を好きになるんですか?」


「だから分からないって」


「想像で」


「うーん……」


 春樹は腕を組む。


 本気で考え始めた。


「一緒にいて疲れない人?」


 栞のまつ毛が少し動いた。


「本読んでても怒らない人」


 真実が笑う。


「そこ大事なんですね」


「超大事」


「雫先輩、怒りますよね?」


「怒る」


「じゃあ駄目なんですか?」


「なんで雫が候補に入ってるんだよ」


「幼なじみだから?」


「関係ないだろ」


 春樹は不思議そうな顔をする。


「雫は雫だよ」


 真実が少しだけ首を傾げた。


「それ、答えになってます?」


「なってるだろ。小さいころから一緒にいる幼なじみ。家族とは違うけど、今さら恋愛対象として考える理由もないし」


 栞は春樹を見る。


 真実も何か言いかけた。


 だが、どちらも言わなかった。


 春樹自身がそう思っている。


 今はそれが事実だ。


「それより本決めた?」


 春樹が話を戻す。


「話の切り替え早いですね」


「本選びに来たんだから」


「じゃあ……」


 真実は三冊を見る。


「白石先輩のにします」


「俺、負けた!?」


「勝負だったんですか?」


「二冊出したのに!」


「でも、次は七瀬先輩のも読みます」


「ならいい」


「立ち直るの早いですね」


「読んでくれるなら問題ない」


 栞が笑う。


「七瀬君、本当に本を勧めるの好きなんですね」


「好きですよ。自分が面白いと思ったものを誰かも面白いって言ってくれたら嬉しいじゃないですか」


「……そうですね」


 栞の声が少し柔らかくなる。


     ◇◇◇


 真実が借りる本を決めたあと、春樹はようやく自分の読書へ戻った。


 いつもの窓際の席。


 連作短編集を開く。


 栞はカウンター。


 真実は少し離れた席で、借りる前に冒頭だけ読んでみるらしい。


 三人とも喋らない。


 図書室に、静かな時間が戻る。


 春樹は五編目を読み始めた。


 数ページ進んだところで、ふと顔を上げる。


 窓から風が入り、カーテンがゆっくり膨らんでいる。


 真実は本へ目を落としている。


 栞はカウンターで作業している。


(……静かだな)


 春樹は満足する。


 人がいる。


 それでも静かに読める。


 必要なら本の話ができる。


 話さないときは、それぞれ好きに本を読む。


(やっぱ図書室いいな)


 再びページへ視線を戻した。


 しばらくして。


「…………」


 真実が顔を上げた。


 春樹を見る。


 窓際で本を読んでいる。


 今は会話していたときとは別人のように静かだ。


 眉が少し動く。


 ときどき口元が緩む。


 物語の中で何か面白いことがあったのだろう。


(本当に楽しそう)


 真実は思う。


 体育倉庫の裏で初めて見たときから、そこは変わっていない。


 春樹は本を読んでいるとき、本当に楽しそうだ。


 だからこそ、その時間を削って自分へ数学を教えてくれたことが、今になって少し違って見える。


 本人は「困ってたから」としか言わなかった。


 真実は視線を自分の本へ戻した。


(七瀬先輩って、やっぱり変な人)


 でも。


 最初にそう思ったときとは、もう意味がかなり違う。


 今はその「変」が、少し面白い。


 もっと知れば、また違うものが見える気がする。


 その気持ちに名前をつける必要は、まだなかった。


     ◇◇◇


 カウンターにいる栞も、ときどき窓際へ目を向けていた。


 春樹は読んでいる。


 真実も読んでいる。


 いつもより図書室が少しだけ違って見えた。


 以前の栞にとって、ここは静かに本を読む場所だった。


 利用者と話すことはある。


 貸出や返却の手続きをする。


 尋ねられれば本の場所を教える。


 それ以上の会話は、それほど多くなかった。


 春樹と話すようになってから、本について誰かと話す時間が増えた。


 今日は真実の本まで一緒に選んだ。


(……楽しかった)


 素直にそう思う。


 以前なら、誰かと本を選ぶときも「自分の勧めた本が合わなかったらどうしよう」と考えすぎたかもしれない。


 今日は春樹が次々と候補を出し、真実が笑いながら制限をかけるのを見ているうちに、自然に自分も一冊持っていくことができた。


 そして真実は、それを選んだ。


 嬉しかった。


 栞は貸出用のカードを整理しながら、ほんの少し口元を緩めた。


(七瀬君が話しやすいから……なのかな)


 以前、自分で口にした言葉を思い出す。


 まだ答えは分からない。


 ただ、彼が図書室へ来るようになって――正確には以前から来ていたが、会話するようになって――自分が以前より少しだけ話すようになったことは確かだった。


     ◇◇◇


 三十分ほど経ったころ。


 図書室の扉が開いた。


 春樹は本から顔を上げない。


 誰かが入ってくることなど珍しくないからだ。


 ところが。


「やっぱりいた」


 聞き慣れた声がした。


 春樹が顔を上げる。


「……雫?」


 西条雫が立っていた。


 肩には部活用のバッグ。


「部活は?」


「予定より早く終わった」


「そうなんだ」


「帰ろうと思ったんだけど、どうせ春樹ここにいると思って」


「正解」


 春樹は本へ栞を挟んだ。


「でも俺、まだ読むぞ?」


「分かってる。ちょっと待ってる」


「待つの?」


「駅前の本屋行くんでしょ?」


「行く」


「私も寄りたい」


「ああ、この前買った本の続き?」


「それも見たい」


「じゃあ一緒に行く?」


「そのつもりで来たんだけど」


「最初から言えよ」


「今言ったでしょ」


 雫が呆れる。


 そのとき、少し離れた席から真実が顔を上げた。


「雫先輩」


「あ、真実ちゃん」


 雫が気づく。


「まだいたんだ」


「はい。本、読んでました」


「春樹に付き合わされてる?」


「違います!」


 春樹が小声で抗議する。


「自分で選んだ本読んでるんだよ」


「白石先輩に選んでもらいました」


「春樹じゃないの?」


「俺も二冊出した」


「負けたのね」


「なんで全員勝負扱いするんだよ!」


 栞がカウンターで小さく笑う。


 雫はその声に気づき、栞を見る。


 これまで名前は聞いていた。


 姿をきちんと見るのは初めてだった。


 腰まで届く黒髪。


 落ち着いた雰囲気。


 春樹が「静か」と何度も言っていた理由が分かる気がした。


 栞も雫を見る。


 春樹から何度も名前を聞いている幼なじみ。


「こんにちは」


 栞が先に頭を下げた。


「あ、こんにちは。西条雫です」


「白石栞です」


「知ってます。春樹から聞いてるので」


 栞の目がわずかに大きくなる。


「俺も白石先輩に雫の話してるから、お互い名前だけは知ってると思う」


 春樹が何でもないことのように言う。


「……私の何話してるの?」


 雫が春樹を見る。


「本取り上げるとか」


「春樹!」


「あと授業に連れ戻されるとか」


「もっと他にないの!?」


「幼なじみ」


「情報薄い!」


「でも一番重要だろ?」


 春樹は不思議そうに答える。


 雫が言葉に詰まる。


「小さいころから一緒で、俺のことよく知ってる。世話焼きで、たまにうるさい」


「最後いらない!」


「でも面倒見いいし、困ったときは頼れる」


 雫の動きが一瞬止まった。


 春樹は何も気づかず続ける。


「あと俺が勧めた本は文句言いながら結構読む」


「……それは」


「違う?」


「違わないけど」


 雫は少しだけ視線を逸らした。


 栞はその様子を静かに見ていた。


 真実も何も言わない。


 春樹だけが首を傾げる。


「どうした?」


「何でもない」


「また?」


「いいから読みなさいよ。待ってるから」


「おう」


 春樹は素直に本を開いた。


 雫は空いている席へ座る。


 しばらくして。


「……暇」


「まだ三分しか経ってないぞ」


 春樹が本から顔を上げる。


「だって私、本持ってきてないし」


「図書室だぞ」


「借りろって?」


「読むなら」


「……じゃあ何か選んで」


 春樹の目が輝いた。


「本当に?」


「なんでそんな嬉しそうなのよ」


「雫から選んでって言うの珍しいだろ!」


「三冊までです」


 真実が横から言う。


「新海!?」


「大事ですよ」


 栞まで頷く。


「そうですね」


「白石先輩!?」


 雫が吹き出した。


「春樹、もうそういう扱いなんだ」


「納得いかない!」


「じゃあ三冊ね」


「お前まで!」


「早く選んで」


「……分かったよ」


 春樹は本を閉じた。


 せっかくの読書時間。


 それでも、顔はまったく嫌そうではない。


「雫なら、まず恋愛一冊。あと――」


「待って」


「何?」


「私、恋愛しか読まないわけじゃないんだけど」


「知ってるよ。だから二冊目は青春ミステリーにしようと思ってた」


「……ちゃんと分かってるのね」


「何年一緒にいると思ってるんだ」


 朝、雫が言ったのと同じ言葉。


 雫は少しだけ目を丸くしてから、笑った。


「そうね」


「じゃあ行くぞ」


「はいはい」


 春樹と雫が本棚へ向かう。


 真実は二人の後ろ姿を見る。


 栞も一度だけ視線を向ける。


 春樹は本棚の前で、迷いなく何冊かの背表紙へ指を伸ばしていた。


 雫がどんな本を読むのか。


 どんな話なら途中で飽きないのか。


 どれくらいの長さなら読みやすいのか。


 長い付き合いの中で自然に知っている。


 春樹自身は、それを特別だと思っていない。


 雫もまた、それが当たり前すぎて、普段は意識しない。


 けれど、少し離れた場所から見ると、その距離には確かに積み重ねた時間があった。


     ◇◇◇


「これ」


 春樹が一冊目を出す。


「前に読んだことある」


「じゃあこっち」


「それもある」


「マジ?」


「春樹が昔貸した」


「ああ!」


「忘れてたの?」


「本の内容は覚えてるけど、誰に貸したかまで全部覚えてない」


「さっき本の約束は忘れないって言ってなかった?」


「約束は覚えてる。過去の貸出履歴までは無理」


「図書館じゃないんだから」


「じゃあこれは?」


 別の一冊。


 雫が表紙を見る。


「知らない」


「よし。一冊目」


「どんな話?」


「高校の放送部が舞台。主人公は女子。恋愛もあるけど、どっちかっていうと自分の声が嫌いな主人公が放送を通して変わっていく話」


「へえ」


「雫、こういうの好きだろ」


「なんで?」


「主人公が頑張る話好きじゃん」


「……まあ、好き」


「じゃあ候補」


 春樹が嬉しそうに持たせる。


 二冊目。


 三冊目。


 雫は説明を聞きながら、最終的に一冊目を選んだ。


「やっぱこれ」


「だと思った」


「なら最初から一冊でよかったじゃない」


「選ぶ過程が楽しいんだよ!」


「面倒くさい読書家ね」


「褒め言葉として受け取る」


「褒めてない」


 二人がカウンターへ戻る。


 栞が貸出処理をする。


「西条さん、これにしたんですね」


「読んだことあります?」


「はい。私も好きです」


「本当ですか?」


「主人公が初めて校内放送をするところが……」


 栞がそこまで言って、口を止める。


「ごめんなさい。読んでからの方がいいですね」


「ネタバレ防止ですね」


 春樹が満足そうに頷く。


「白石先輩は信用できる」


「俺は?」


 雫が聞く。


「お前も信用してるよ」


「今の流れで?」


「何の話?」


「……もういい」


 雫はため息を吐く。


 栞が少しだけ笑った。


 その笑いにつられて、真実も笑う。


「なんだよ、みんなして」


 春樹だけが分かっていない。


     ◇◇◇


 午後一時半を過ぎたころ。


 真実は先に帰ることになった。


「七瀬先輩、白石先輩、今日はありがとうございました」


「おう」


「またね、新海さん」


「雫先輩も。また」


 真実は借りた本を鞄へ入れる。


「七瀬先輩」


「ん?」


「今度、連作短編集読み終わったら貸してくださいね」


「もちろん。あと少しだから」


「忘れないでください」


「本の約束は忘れない」


「それ、雫先輩にも言ってましたね」


「本当だから」


 真実が笑う。


「じゃあ、また月曜日」


「またな」


 真実が図書室を出る。


 扉が閉まる。


 雫は借りたばかりの本を少し読み始めていた。


 栞はカウンターへ戻っている。


 春樹も自分の席へ戻った。


 静かになる。


 ページをめくる音が三方向から聞こえる。


 春樹は本へ目を落としたまま、ふと不思議な感覚を覚えた。


(……なんか増えたな)


 以前なら、図書室で読むときは一人だった。


 周囲に利用者はいても、名前を知っているわけではない。


 誰かと話すこともほとんどなかった。


 今は違う。


 カウンターには栞がいる。


 少し離れた席には雫がいる。


 さっきまでは真実もいた。


 廊下へ出れば凛と会うこともある。


 教室へ戻れば悠斗や紗弥がいる。


 昼休みには神谷にサッカーへ連れ出されることもある。


(……俺、最近人と喋りすぎじゃないか?)


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。


 春樹は本から顔を上げる。


 雫は真剣に本を読んでいる。


 栞は静かに仕事をしている。


 誰も春樹の読書を邪魔していない。


 むしろ今は、三人ともそれぞれ自分の本や作業に集中している。


(まあ、今静かだからいいか)


 結論は早かった。


 春樹は再び本を開いた。


     ◇◇◇


 十分ほどして。


「春樹」


「ん?」


 雫が小声で呼ぶ。


「これ、面白い」


「だろ?」


 春樹の顔がすぐに明るくなる。


「まだ最初だけど」


「主人公が放送部入るところまで?」


「うん」


「そこから――」


「ネタバレ禁止」


「まだ何も言ってない!」


「言いそうな顔してた」


「俺、そんな信用ない?」


「本の話すると止まらないから」


 栞がカウンターから小さく笑う。


「白石先輩まで笑わないでくださいよ」


「すみません」


「ほら。また謝る」


「あ……」


「別に笑われたくらいで怒らないですって」


「……はい」


 栞が少し照れたように笑う。


 雫はそのやり取りを見る。


 ほんの少しだけ胸の奥に引っかかるものがあった。


 けれど、その正体を探る前に、春樹がこちらを見る。


「雫」


「何?」


「面白かったら読み終わったあと感想聞かせて」


「いいけど」


「白石先輩も読んでるから三人で話せるぞ」


「……三人で?」


「うん。読んだ人同士で話すの面白いし」


「そうね」


 雫は本へ視線を戻した。


(春樹は、本当にそれだけなのよね)


 誰かと本の話がしたい。


 面白い本を共有したい。


 感想を聞きたい。


 春樹の中では、それ以上でもそれ以下でもない。


 だから栞とも自然に話す。


 真実にも本を勧める。


 自分にも同じように本を渡す。


 そこに特別な区別はない。


 そう思った瞬間。


 雫の胸に、ほんの少しだけ妙な感覚が残った。


(……なんで私、区別してほしいみたいに考えてるの)


 自分で浮かんだ疑問に、雫は戸惑う。


 答えは出ない。


 出そうとも思わなかった。


 今はまだ。


「雫?」


「何?」


「ページ止まってるぞ」


「読んでるわよ」


「三分くらい同じページだけど」


「見てたの?」


「視界に入った」


「自分の本読みなさい!」


「なんで怒られた!?」


 春樹が慌てて自分の本へ戻る。


 栞がまた小さく笑った。


     ◇◇◇


 午後二時。


 春樹は五編目を読み終えた。


 本を閉じ、しばらく余韻に浸る。


(……これ、一編目に戻りたくなるな)


 最初に読んだときは気づかなかったものが、かなり増えている。


 最終編まで読んだら、最初からもう一度読み直したくなるタイプの作品だ。


 春樹は満足そうに息を吐く。


「白石先輩」


 小声で呼ぶ。


 栞が顔を上げる。


「五編目終わりました」


「どうでした?」


「めちゃくちゃ話したい」


 栞が笑う。


「分かりました」


「ただ、今日は雫もいるし、このあと本屋行くから全部は無理そうです」


「また今度でも大丈夫ですよ」


「じゃあ月曜?」


「はい」


「忘れないでくださいね」


「七瀬君こそ」


「俺、本の約束は忘れません」


 栞が少し笑う。


「知ってます」


 春樹はそこで一瞬止まった。


「……なんか、それ言われると嬉しいですね」


「え?」


「俺のこと分かってきた感じする」


 栞の指が、手元の貸出カードの上で止まる。


「知り合ってまだ少しですけど」


「でも最初よりは知ってるでしょう?」


「……はい」


「俺も白石先輩のこと、最初より知ってますよ」


「私のこと?」


「本読む。静か。ミステリー好き。人に本勧めるとき慎重。意外と笑う。あとよく謝る」


「最後の二つ……」


「違う?」


「違わないですけど」


「ほら」


 春樹が笑う。


 栞も少しだけ笑った。


「じゃあ、これからもっと増えるかもしれませんね」


 栞が言った。


「何が?」


「知ってること」


「ああ」


 春樹は自然に頷く。


「そうですね」


 その言葉に特別な意味を見つけることなく。


     ◇◇◇


 図書室を出たあと、春樹と雫は駅前へ向かった。


 朝と同じ道。


 ただし今度は、雫の鞄にも一冊の本が入っている。


「どこまで読む予定?」


 春樹が聞く。


「今日半分くらい」


「絶対もっと読むと思う」


「なんで?」


「雫、面白い本だと止まらないじゃん」


「春樹ほどじゃない」


「俺と比較するな」


「自覚あるんだ」


「当然」


 二人は並んで歩く。


 春樹は鞄から本を出さない。


 雫がそれに気づく。


「本、読まないの?」


「歩きながらは読まないって」


「本当に変わったわね」


「九条さんのおかげだな」


「……九条さん、ね」


「何?」


「別に」


「今日何回目だよ、それ」


「数えてない」


「俺、最近周りから『別に』『何でもない』ばっかり言われるんだけど」


「春樹が気づかなくていいことなんじゃない?」


「それ一番気になる言い方だぞ」


 雫は答えず、少しだけ歩調を速めた。


「おい、待てよ」


 春樹も追いつく。


「本屋、先行くから」


「なんで急に競争になるんだよ」


「知らない」


「理不尽!」


 雫が笑う。


 春樹も笑いながら、その隣へ並んだ。


     ◇◇◇


 駅前の書店へ入ると、春樹は一瞬で機嫌がさらに良くなった。


「新刊台変わってる!」


「先週も来たでしょ」


「一週間あれば本は増える」


「当たり前みたいに言わないで」


「当たり前だよ!」


 春樹は新刊コーナーへ向かう。


 雫もその後ろをついていく。


 レジには、以前二人を見た店員の長谷川奈緒がいた。


 春樹と雫に気づき、少しだけ笑う。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


 春樹が自然に返す。


 雫も軽く頭を下げる。


 奈緒は二人が並んで新刊台へ向かうのを見送った。


「これ!」


 春樹が一冊を取る。


「何?」


「前に読んだシリーズの新刊」


「買うの?」


「買う」


「即答」


「このために来たと言っても過言じゃない」


「図書室では別の本読んでたじゃない」


「それはそれ。これはこれ」


「本に関してだけ欲張りよね」


「だけ?」


「……結構いろいろ欲張りかも」


「何だよ」


「何でもない」


「また!」


 春樹が抗議する。


 雫は笑いながら、自分も恋愛小説の棚を見る。


 しばらくして、春樹は新刊を一冊。


 雫も一冊。


 二人でレジへ向かった。


 会計を終え、店を出る。


 夕方にはまだ少し早い。


 駅前を行き交う人の流れの中で、春樹は買ったばかりの本が入った袋を大事そうに持っていた。


「帰ったら読む?」


 雫が聞く。


「読む」


「図書室の本は?」


「そっちも読む」


「Web小説は?」


「更新来てたら読む」


「宿題は?」


「…………」


「春樹」


「日曜がある」


「逃げた」


「計画的延期と言ってくれ」


「永山先生に言ってあげようか?」


「やめて!」


 春樹が慌てる。


 雫が笑う。


「ちゃんとやりなさいよ」


「分かってるよ」


「本当に?」


「提出期限には間に合わせる」


「最低ライン!」


「守ることが大事だろ」


「もっと上目指しなさいよ」


「その時間で本読む」


「もう!」


 雫が呆れる。


 けれど、声は楽しそうだった。


 春樹も笑っている。


 彼が望んでいるものは、今も変わらない。


 静かな場所。


 面白い本。


 誰にも邪魔されず、好きなだけページをめくる時間。


 それだけあれば十分だと思っている。


 実際、それは嘘ではない。


 ただ。


 最近の春樹の読書時間には、少しだけ別のものが増えていた。


 読み終わった本について話したいと思う先輩がいる。


 次にどんな本を勧めようか考える後輩がいる。


 廊下で会えば冗談を言い合うようになった同級生がいる。


 昔から当然のように隣にいて、どんな本が好きなのかまで知っている幼なじみがいる。


 友人たちと騒ぎ、教師に叱られ、サッカーへ誘われる日もある。


 それらは確実に、春樹が一人で本を読むための時間を削っていた。


 それなのに。


(……まあ、今日は結構読めたしな)


 春樹は満足していた。


 その事実について、本人はまだ深く考えていない。


 ただ一つだけ、最近なんとなく思うことがある。


「雫」


「何?」


「俺の読書生活、最近ちょっと賑やかすぎない?」


 雫は数秒黙った。


 それから呆れたように笑う。


「今さら?」


「今さらって何だよ」


「春樹が勝手にいろんな人と話すようになったんでしょ」


「俺から?」


「半分くらいは」


「そんなに?」


「本の話になると自分から行くじゃない」


「……確かに」


「真実ちゃんにも本勧めるし、白石先輩とは感想話すし、九条さんには冗談言うし」


「九条さんとは本関係ないな」


「そういうことよ」


「どういうこと?」


「自分で考えなさい」


「またそれ!」


 春樹が不満そうな声を出す。


 雫は前を向いたまま笑った。


 春樹には、まだ分からない。


 自分が物語の主人公になりたいなど、一度も思ったことはない。


 恋愛小説は読む側でいたい。


 誰かの恋を外から眺め、すれ違いにやきもきし、ようやく気持ちが通じれば喜びたい。


 それが一番楽しい。


 自分自身の恋愛など必要ない。


 今も本気でそう思っている。


 けれど、春樹が静かにページをめくっている間にも、彼の周囲では少しずつ関係が積み重なっている。


 幼なじみとして長い時間を共有してきた雫。


 春樹を知るたび、もう少し知りたいという気持ちを増している真実。


 同じ本について語り、沈黙さえ心地よいと感じ始めている栞。


 真面目な風紀委員として出会い、変な読書好きの同級生という印象を少しずつ変え始めた凛。


 まだ誰の感情にも、はっきりした名前はない。


 誰も恋を告げてはいない。


 春樹自身は、なおさら何も始まったとは思っていない。


 今はただ、顔と名前を知る人が増えただけ。


 会話が増えただけ。


 一緒に過ごす時間が、ほんの少し増えただけだ。


 だからこそ、春樹には分からない。


 自分が好きな恋愛小説でも、最初はいつもそうだったということに。


 何でもない会話。


 偶然の出会い。


 少しずつ増えていく、相手について知っていること。


 気づけば当たり前になっている存在。


 春樹が昨日、悠斗へ語ったばかりのことだった。


 けれど、それを自分自身へ当てはめる発想だけは、きれいに抜け落ちている。


「そうだ」


 春樹が突然言った。


「何?」


「帰ったら先に新刊読む」


「好きにすれば?」


「で、夜に図書室の続き読む」


「宿題は?」


「…………明日の午前」


「絶対よ」


「分かってるって」


「私、明日確認するからね」


「なんで!?」


「やらない可能性あるから」


「信用がない!」


「積み重ねです」


「永山先生と同じこと言うなよ!」


 雫の笑い声が、土曜日の駅前に溶けていく。


 春樹は文句を言いながら、その隣を歩いた。


 鞄には読みかけの本。


 手には買ったばかりの新刊。


 隣には幼なじみ。


 月曜日になれば、また図書室へ行くつもりだった。


 栞と五編目の感想を話す約束がある。


 連作短編集を読み終えれば、真実へ貸す約束もある。


 学校へ行けば凛ともまた顔を合わせるかもしれない。


 悠斗の恋愛相談がどうなったのかも、少し気になっている。


 少し前までなら、学校で楽しみにしていることといえば、休み時間にどこで何を読むかくらいだった。


 今はそこへ、いくつか別の予定が混じり始めている。


 春樹はまだ、その変化へ名前をつけなかった。


 つける必要があるとも思っていない。


 ただ本を読みたい。


 その気持ちは何一つ変わっていない。


 なのに彼の読書生活は、本人の望みとは少し違う方向へ、確実に賑やかになり始めていた。

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