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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第11話 国語の先生まで、俺の読書時間を狙わないでください

 月曜日の朝、七瀬春樹は清涼学園の正門をくぐりながら、鞄の中に入っている二冊の本について考えていた。


 一冊は図書室から借りている連作短編集。土曜日の夜に六編目まで読み終え、残すところあとわずかになっている。もう一冊は駅前の書店で買ったシリーズの新刊で、こちらは日曜日のうちに読み終えていた。


(新刊はよかった。めちゃくちゃよかった。ただ、あの終わり方で次巻が三か月後なのは人の心がない)


 昨夜、最終ページを閉じた瞬間の絶望が蘇る。


 物語そのものに不満があるわけではない。むしろ面白かったからこそ困っているのだ。主人公とヒロインの関係がようやく一歩進んだところで、明らかに次へ続く形で終わった。


 しかも次巻の発売予定は三か月後。


 三か月。


 約九十日。


 時間にすれば二千時間を軽く超える。


(いや、寝たり学校行ったり別の本読んだりするから、実際に待ってる感覚はもっと短いけどさ。それでも三か月は三か月だろ。あそこで切るか普通? 作者、絶対分かっててやってるよな。読者が次を買うって分かってて……買うけど)


 悔しい。


 だが買う。


 むしろ予約する。


 そんなことを考えながら歩いていた春樹の両手には、今日も本がなかった。


 九条凛から歩き読みを注意されて以降、これはきちんと守っている。


 最初こそ手持ち無沙汰だった通学路にも、少しずつ慣れてきた。以前なら視界の端にも入っていなかった店の看板や庭先の花、登校中の生徒たちの会話まで、意識しなくても目や耳に入ってくる。


 もっとも、それを楽しいと思っているかと聞かれれば、本を読んでいる方が楽しい。


「七瀬君」


「ん?」


 正門を抜けたところで呼び止められ、春樹は声のした方へ顔を向けた。


 少し先に、黒いポニーテールが見える。


 凛だった。


 今朝も風紀委員の仕事らしく、腕章を着けて正門付近に立っている。隣には別の委員もおり、登校してくる生徒の服装や危険な行動へ目を配っていた。


「おはよう、九条さん」


「おはよう」


 凛の視線が春樹の手元へ落ちる。


 何も持っていない。


 春樹はそれに気づき、少し得意げに両手を広げた。


「どうです?」


「何が?」


「歩き読みしてません」


「……毎回報告するつもり?」


「だって九条さんに注意されてから一回もやってないぞ。もうちょっと評価されてもよくない?」


「普通のことをして褒めてもらおうとしないで」


「永山先生と同じこと言うなよ!」


 凛が呆れたように息を吐く。


 その横で、もう一人の風紀委員の女子生徒が小さく笑った。


「九条さん、この人がこの前言ってた人?」


「言ってた?」


 春樹の眉が上がる。


 凛がすぐに隣を見る。


「別に七瀬君の話をしてたわけじゃないわ。歩きながら本を読んでいた生徒に注意したって、活動報告で話しただけ」


「なるほど」


「何よ、その顔」


「いや、俺もとうとう風紀委員の会議に名前が上がるほどの男になったかと思って」


「名前までは出してないわよ」


「出てなかった」


「残念そうにしないで」


「いや、別に有名になりたいわけじゃないけど」


「だったら普通に教室へ行きなさい。もうすぐ予鈴よ」


「まだ七分ある」


「七分しかないの」


「七分もあるんだよ。教室まで二分として、五分読める」


「朝から計算することがそれなの?」


「大事だぞ。五分あれば結構読めるからな」


 春樹が真剣に答えると、凛は何か言い返そうとして、結局やめた。


 すでに何度か話しているうちに、この男へ読書時間の価値を一般論で説明しても意味がないと理解し始めている。


「廊下では読まないこと」


「分かってるって。教室に着いて座ってから読む」


「ならいいわ」


「じゃあ仕事頑張って」


「ええ」


 春樹は数歩進んだところで振り返った。


「九条さん」


「何?」


「土曜の鬼塚先生の物真似、本人公認になったから、今度から堂々とやっていいよな?」


「よくない!」


「なんで!?」


「朝から騒がないで!」


 凛の声を背中で聞きながら、春樹は笑って校舎へ向かった。


 注意されたことを守る。


 会えば冗談を言う。


 最初に話したときより、凛との会話はずいぶん気楽になった。


 だからといって、春樹がそこへ何か特別な意味を見つけることはない。


(さて、五分)


 昇降口へ入った瞬間、頭の中はもう読書へ切り替わっていた。


     ◇◇◇


「おはよう」


 二年三組の教室へ入ると、高坂悠斗が自分の席から片手を上げた。


「おう。おはよう」


「今日はちゃんと本閉じて歩いてきた?」


「なんでみんな俺の歩き方確認するんだよ」


「前科があるから」


「一回注意されただけだろ」


「その一回まで何日やってたんだ?」


「……過去を掘り返すな」


 春樹は鞄を机の横へ掛け、すぐに中から連作短編集を取り出した。


 悠斗が時計を見る。


「ホームルームまで五分だけど」


「五分もある」


「九条にも同じこと言った?」


「言った」


「だと思った」


 春樹は椅子へ座ると、栞を挟んでいたページを開いた。


 六編目の途中ではない。昨夜そこまでは読み終えているため、今日は最終編へ入るつもりだった。


 ただ、その前に少しだけ一編目を読み返したい。


 六編目まで進んだことで、最初の物語に出てきた何気ない会話の意味が変わって見えていた。


「春樹」


「ん?」


「ちょっと聞きたいことあるんだけど」


「今?」


「今」


 ページへ落ちかけた視線が止まる。


 春樹は時計を見る。


 四分四十秒。


「内容による」


「なんだよ、その返事」


「俺はいま、この四分四十秒をどう使うか真剣に考えてる」


「そんな国家予算みたいな顔で言うことか?」


「読書家にとって朝の四分は貴重なんだよ」


「じゃあ昼でいい」


「気になるじゃん!」


 春樹は本を閉じた。


 悠斗が呆れる。


「読むんじゃなかったのかよ」


「『聞きたいことがある』だけ残されて読書に集中できると思う? 小説で言ったら章の最後に『そのとき、彼はまだ知らなかった』って書かれて次巻に続くようなもんだぞ」


「昼休みまで数時間だよ」


「時間の問題じゃない」


「めんどくせえ読者だな」


「で、何?」


 春樹が身体ごと悠斗へ向き直る。


 悠斗は少しだけ周囲を確認した。


 教室にはすでに半分以上の生徒が来ている。月曜の朝らしいざわめきが広がり、週末にあったことを話している者もいれば、机へ突っ伏して眠そうにしている者もいた。


「いや……ここじゃいいや」


「おい!」


「昼休み」


「気になるだろ!」


「自分で聞いたくせに!」


「お前が意味深にしたんだろ!」


 二人が小声で揉めていると、前の扉から雫と紗弥が入ってきた。


「朝から何やってるの?」


 雫が呆れた顔をする。


「悠斗が『聞きたいことある』って言ったくせに教えてくれない」


「子供?」


「違う! 気になるだろ普通!」


 悠斗が雫を見る。


「西条、こいつどうにかして」


「無理。昔からこうだから」


「諦めるなよ!」


「春樹、本の続きでも読んでれば?」


「もう集中できない」


「面倒くさいわね」


「原因は悠斗だぞ」


「はいはい」


 雫は自分の席へ鞄を置いた。


 その動きの途中で、机の中へ入れるつもりだった一冊の本が春樹の目に入る。


「あ」


 春樹がすぐ反応した。


「それ!」


「何?」


「土曜に借りたやつ」


「そうだけど」


「どこまで読んだ?」


「昨日読み終わった」


「早っ!」


 春樹の表情が一気に明るくなる。


「ほら! 絶対半分じゃ止まらないって言っただろ!」


「……面白かったから仕方ないでしょ」


「だろ!? どこが一番よかった?」


「朝から始める気?」


「聞きたい」


「ホームルーム始まるわよ」


「あと三分ある」


「三分しかない」


「九条さんと同じこと言うなよ!」


 雫が笑った。


「昼休みに話してあげる」


「悠斗も昼、雫も昼……俺の昼休み、予約制になってない?」


「図書室にも行くんでしょ?」


「行く。白石先輩と感想話す約束してる」


「忙しいわね」


「おかしいな。俺、昼休みって本読むためにあると思ってたんだけど」


「学校では違うと思う」


 紗弥が横から笑う。


「七瀬君の中では休み時間全部読書時間なんじゃない?」


「分かってるじゃん、赤木」


「褒めてないよ?」


「最近それ言われすぎて、褒められてるかどうか分からなくなってきた」


 春樹が肩を落としたところで、教室の前扉が開いた。


 永山が入ってくる。


「席につけ」


 ざわめきが少しずつ収まった。


 春樹は本を机の中へしまう。


 永山がその動きを見逃さなかった。


「七瀬」


「まだ読んでませんよ?」


「何も言ってない」


「先生、俺が本しまうと絶対何か言うじゃん」


「被害妄想だ」


「日頃の積み重ねです」


「それはこっちの台詞だ」


 教室に笑いが起こる。


 永山は出席簿を机へ置きながら、わずかに口元を緩めた。


     ◇◇◇


 二時間目は国語だった。


 春樹にとって、国語は嫌いな科目ではない。


 むしろ好きな方だ。


 ただし、授業で扱う文章を「ここからここまで読んで、設問へ答える」という形式になると、ときどき妙な窮屈さを感じる。


 物語なら最後まで読みたい。


 評論なら前後の論旨まで確認したい。


 教科書に一部分だけ載っている小説など、特に困る。


(ここで切るの? 続きは?)


 そう思って出典を調べ、原作を買ったことも一度や二度ではない。


 この日の授業を担当する桐谷美月は、教卓へ教材を置くと、教室を見回した。


 二十代後半。肩に触れる程度の髪を整え、柔らかな雰囲気を持つ教師で、生徒からの人気も高い。


 ただし春樹は知っている。


 この教師は、本の話になると少し危険だ。


「今日は教科書を少し離れて、短編小説の読み方をやります」


 桐谷がプリントを配り始めた。


 春樹の顔が上がる。


「七瀬君」


「はい」


「今、ちょっと嬉しそうな顔したでしょう」


「短編って聞いたので」


「分かりやすいわね」


「先生も人のこと言えないでしょう」


 教室の何人かが春樹を見る。


 桐谷の眉がわずかに上がった。


「どういう意味?」


「先月、授業で近代文学の話したとき、予定より十五分くらい脱線してましたよね」


「あれは必要な補足です」


「途中から先生の好きな作家の話になってました」


「必要な補足です」


「二回言った」


 教室に笑い声が広がる。


 桐谷は咳払いを一つした。


「七瀬君。教師には授業内容を決める権限があります」


「権力で押し切った!」


「文句があるなら、あなたも国語教師になれば?」


「嫌ですよ。授業中に本読めないじゃないですか」


 一瞬の沈黙。


 それから教室のあちこちで笑いが起きた。


 桐谷は額へ手を当てる。


「あなた、教師になってまで授業中に読むつもりなの?」


「違います。教師になったら仕事中だから読めない。それが困るって話です」


「普通はそこを基準に職業を選ばないの」


「大事じゃないですか?」


「大事だけど、あなたの場合優先順位がおかしいのよ」


 春樹は納得していない顔をしたが、授業を止めるつもりはない。


 プリントへ目を落とす。


 そこには、ある短編小説の一部が載っていた。


 数分間、全員で黙読する時間になる。


 教室から話し声が消え、紙をめくる音と、窓の外から聞こえる体育の掛け声だけが残った。


 春樹も読む。


 読み始めれば速い。


 文章を追いながら、語り手の言葉と実際の行動のずれに気づく。


(これ、本人が言ってるほど嫌ってないだろ)


 作中の主人公は、幼いころからの友人を「苦手だ」と語っている。


 しかし、その人物が何を好み、どんな癖があり、困ったときにどういう顔をするのかまで細かく知っている。


 春樹はプリントの端へ軽く印をつけた。


 数分後。


「では、この主人公は相手をどう思っているでしょう」


 桐谷が問いかける。


 何人かの生徒が手を挙げる。


 恋愛感情。


 本当は好き。


 素直になれない。


 そんな意見が続いた。


 春樹は手を挙げなかった。


 桐谷が気づく。


「七瀬君は?」


「俺ですか?」


「さっきから何か書いてたでしょう」


「いや、別に正解ある話じゃないですよね?」


「もちろん。だから聞きたいの」


 春樹はプリントへ目を落とした。


「俺は、この段階だと『好き』まで決めなくていいと思います」


 教室が少し静かになる。


 桐谷が続きを促すように待つ。


「主人公は相手のことをすごくよく見てるし、昔のことも覚えてる。でも、それって付き合いが長ければ普通にあり得るじゃないですか。嫌いって言いながら気にしてるのは確かですけど、それが恋愛なのか、単に昔から近くにいるからなのか、この文章だけだとまだ両方取れると思います」


「なるほど」


「むしろ作者がわざと決められないように書いてる気がします。ここで『実は好きなんだ』って断定すると、主人公自身がまだ分かってない感じが消えるというか」


 春樹は少しずつ言葉が増えていく。


「こういうのって、読者の方が先に『もしかして』って思うくらいが面白くないですか? 本人はずっと『昔から一緒だから』って説明してる。でも、その説明だけじゃ足りなくなる瞬間が少しずつ増えて、そこで初めて本人も考える。俺はそっちの方が好きです」


 教室の何人かが頷く。


 桐谷は楽しそうに目を細めた。


「七瀬君らしい読み方ね」


「それ最近よく言われるんですけど、どういう意味です?」


「人の感情を決めつけないところ」


「そうですか?」


「小説でも、現実でもね」


「現実?」


「何でもない」


「先生までそれ言うのやめてくださいよ!」


 教室に笑いが起きる。


 春樹の斜め前に座る雫は、笑わなかった。


 プリントへ視線を落としている。


 春樹が語った内容が、妙に耳へ残った。


 昔から近くにいる。


 相手のことをよく知っている。


 本人はそれを、付き合いが長いからだと説明する。


 その説明だけでは足りなくなる瞬間が少しずつ増える。


(……別に、関係ないわよね)


 そう思ったところで、雫の指がプリントの端を少し強く押さえた。


 土曜日、図書室で感じた小さな引っかかりが頭をよぎる。


 真実が春樹へクッキーを渡したとき。


 栞と春樹が自然に本の話をしていたとき。


 自分でも意味の分からない感覚が残った。


 けれど、それと教科書の中の物語を重ねるのは馬鹿らしい。


 春樹自身が言ったばかりだ。


 長く一緒にいるから相手を知っていることと、恋愛は同じではない。


 なら、自分たちもそうだ。


(そうよ。春樹は春樹だもの)


 雫は小さく息を吐いた。


 その答えで、今は十分だった。


     ◇◇◇


 授業終了のチャイムが鳴ったあと、春樹は教科書を閉じながら悠斗へ振り向いた。


「面白かったな」


「何が?」


「短編」


「お前、授業中めちゃくちゃ喋ってたもんな」


「先生が聞くからだろ」


「西条」


 悠斗が雫を見る。


「こいつ、小説の登場人物の気持ちはあんなに考えるのな」


「……そうね」


「何?」


 春樹が二人を見る。


「別に」


「また別に!」


 最近、本当に多い。


 春樹が納得できない顔をしていると、教卓から声が飛んできた。


「七瀬君、ちょっといい?」


「はい?」


 桐谷が教材をまとめながら手招きしている。


 春樹は席を立ち、教卓へ向かった。


「何ですか?」


「あなた、最近図書室によくいるでしょう」


「最近というか、前から行ってますよ」


「そうね。白石さんからも聞いたことある」


「白石先輩から?」


 春樹が少し驚く。


「図書委員の活動について話してたときに、よく本を借りる生徒の話になっただけ。個人的な話じゃないわよ」


「ああ」


「それで、最近何読んでるの?」


 春樹の顔が変わった。


「聞きます?」


「その顔を見る限り、聞かない方がよかったかしら」


「今、連作短編集読んでるんですよ。最初は一話ずつ独立してるように見えるんですけど、二編目から少しずつ場所とか人物が繋がってきて――」


「待って」


「はい?」


「授業間の休み時間は十分しかないわ」


「先生から聞いたんでしょう!?」


「あなたが本の話を始めると十分では足りないことを思い出したの」


「ひどい!」


 桐谷が笑う。


「じゃあ要点だけ」


「難しい注文だな……」


「国語の訓練だと思いなさい」


「本の魅力を要約しすぎると取りこぼすものがあるんですよ」


「そういうところが七瀬君らしいのよ」


「また!」


 春樹は不満そうにしながらも、結局は短く説明した。


 現在六編目まで読んだこと。


 最初に出てきた駅や花屋などが別の話にも現れ、一編目の見え方まで変わってきたこと。


 図書委員の栞に勧められたのがきっかけだったこと。


 桐谷は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


「それ、私も読んだことあるわ」


「本当ですか?」


「ある」


「先生はどの話好きです?」


「それを答えると、まだ読んでない部分へ影響するかもしれないから言わない」


 春樹の目が少し見開かれる。


「先生、信用できる」


「教師への評価基準がネタバレするかどうかなの?」


「かなり重要です」


「成績評価に入れようかしら」


「横暴だ!」


 桐谷は笑いながら、教材を抱え直した。


「全部読み終えたら感想聞かせて」


「先生も?」


「嫌?」


「嫌じゃないですけど……」


 春樹は少し黙った。


 そして、廊下へ出ていこうとする生徒たちを見た。


 教室には雫がいる。


 悠斗がいる。


 昼になれば栞と話す約束がある。


 真実には読み終わった本を貸す約束がある。


 そこへ国語教師まで加わった。


「先生」


「何?」


「俺の読書時間、最近いろんな人に侵食されてる気がするんですけど」


「あなたが自分から本の話をしてるんでしょう?」


「……否定できない」


「なら侵食じゃないわね」


「じゃあ何です?」


「広がってるんじゃない?」


 春樹が目を瞬いた。


「読書って、一人でもできるけど、読んだあと誰かと話す楽しみもあるでしょう。七瀬君は最近、それが増えてるんじゃない?」


「……なるほど」


 春樹は少し考える。


 確かに、誰かに無理やり感想を言わされているわけではない。


 むしろ自分から話していることの方が多い。


「でも、その分読む時間減りますよね?」


「そこなの?」


「大問題ですよ」


「欲張りねえ」


「読みたいし、話したいんですよ」


「だったら時間の使い方を覚えなさい」


「正論で終わらせないでください」


「教師だから」


「便利だな、その立場!」


 次の授業を担当する教師が廊下の向こうから来るのが見えた。


 桐谷は「じゃあね」と教室を出ていく。


 春樹は席へ戻った。


 悠斗が待っていたようにこちらを見る。


「何の話?」


「本」


「知ってた」


「桐谷先生まで感想聞かせろって」


「よかったじゃん」


「よくない。俺の読書時間がさらに減る」


「嫌なら話さなきゃいいだろ」


「それは嫌だ」


「めんどくせえ!」


 悠斗が笑った。


 春樹も自分で少しおかしくなり、笑う。


     ◇◇◇


 昼休み。


 春樹は机の上へ弁当を置きながら、時計を確認した。


 いつもなら早めに食べて図書室へ向かう。


 今日は予定がある。


「悠斗」


「おう」


「朝の話」


「ああ」


 悠斗が少しだけ表情を変える。


 雫と紗弥も近くで昼食を広げていたが、悠斗は二人を見てから首を振った。


「やっぱあとでいい」


「また!?」


「いや、別に大したことじゃないから」


「お前、朝から俺の頭に未回収の伏線置いてるんだぞ!」


「現実でその言い方するな」


「気になるものは気になる!」


「じゃあ放課後」


「今日こそ言えよ?」


「言うって」


「絶対だぞ?」


 悠斗は苦笑しながら頷いた。


 雫が卵焼きを口へ運びながら春樹を見る。


「春樹、他人のことになると本当に気にするわよね」


「友達が『聞きたいことある』って言って途中でやめたら気になるだろ」


「まあ、それはそうだけど」


「雫だって昨日、本読み終わったんだろ? 感想聞かせて」


「今?」


「食べながらでいいから」


「図書室行くんじゃないの?」


「行く。だから要点だけ」


「桐谷先生に言われたからって急に要約覚えた?」


「なんで知ってるんだよ」


「教卓の近くだったから聞こえた」


「じゃあ先生が俺の読書生活を侵食してる件も?」


「『広がってる』って言われてたところまで」


「どっちだと思う?」


「私は先生に一票」


「裏切り者!」


 紗弥が笑う。


「私も先生かな」


「赤木まで!」


「だって七瀬君、楽しそうだし」


「何が?」


「本の話してるとき」


「そりゃ本好きだからな」


「そういう意味じゃなくて……まあ、いいや」


「赤木まで『いいや』で終わらせるのやめてくれない?」


 春樹は最近、自分の周囲だけ会話の説明不足が増えている気がしてならない。


 だが、その理由を考えても答えは出そうにない。


「で、雫。あの本どうだった?」


「面白かった。最初は主人公が自分の声嫌いっていうのが、そこまで大きな悩みになるのかなって思ったけど……」


 雫が話し始めると、春樹はすぐに真剣な顔になった。


 途中で口を挟みそうになって一度止まり、雫が最後まで話すのを待つ。


 雫は主人公が放送部へ入ってから少しずつ自分の声を受け入れていく流れがよかったこと、恋愛相手との関係よりも、最初は苦手だった先輩との関係が変わっていくところが好きだったことを話した。


「やっぱそこか」


 春樹が嬉しそうに笑う。


「何よ」


「雫、絶対そこ好きだと思ってた」


「なんで?」


「お前、人が頑張って変わる話好きだから。恋愛ものでも、恋が全部解決してくれるやつより、本人が自分で進んで最後に恋愛もついてくる方が好きだろ?」


 雫は箸を止めた。


「……よく覚えてるわね」


「そりゃ何回も一緒に映画見たり、本貸したりしてるからな」


 春樹にとっては当然の答えだった。


 雫は何も言わず、少しだけ視線を弁当へ落とす。


 土曜日にも似たことを言われた。


 何年一緒にいると思っているのか、と。


(こういうところなのかな)


 何が、とは自分でも分からない。


 春樹は普段、細かいことを忘れる。


 宿題の期限をぎりぎりまで放置する。


 授業の予定より新刊発売日を優先して覚えている。


 けれど、自分がどんな物語を好きなのかは知っている。


 昔一緒に見た映画で泣いたことまで覚えている。


 それを特別だとは、本人はまったく思っていない。


「雫?」


「……何でもない」


「またそれ!」


 春樹の声に、雫は思わず笑った。


「ごめん。今のは本当に何でもない」


「信用できない」


「いいから図書室行けば? 白石先輩待ってるんでしょ」


「あ」


 春樹が時計を見る。


「やばい。話しすぎた」


「自分から聞いたんでしょうが」


「感想面白かったから仕方ない」


「……そ」


 雫は小さく笑う。


「行ってらっしゃい」


「おう。今度、白石先輩ともこの本の話しようぜ」


「三人で?」


「うん。先輩も好きって言ってたし」


「……分かった」


 春樹は残りの昼食を急いで食べる。


 ただし廊下を走るつもりはない。


 歩きながら本も読まない。


 最近そこだけは妙に優等生だった。


     ◇◇◇


 図書室へ入ったとき、昼休みはまだ二十分以上残っていた。


 窓際には柔らかな日差しが差し込み、開いた窓から風が入っている。カーテンが静かに揺れ、その向こうから校庭の声が遠く聞こえていた。


 カウンターには栞がいる。


 春樹を見つけると、少しだけ表情が柔らかくなった。


「七瀬君」


「こんにちは」


「こんにちは。今日は時間、大丈夫ですか?」


「二十二分あります」


「ちゃんと確認したんですね」


「最近、俺への信用が少しずつ回復してる気がする」


「最初から信用してないわけじゃ……」


「分かってます。時間関係だけですよね」


「……はい」


 栞が小さく笑う。


 春樹はカウンターの前へ立った。


「五編目の話、していいですか?」


「もちろん」


「あと六編目も昨日読んだんですけど、まず五編目から」


「順番なんですね」


「混ぜると絶対長くなるので」


「もう長くなる前提なんですね」


「俺を分かってきましたね」


 土曜日と似た言葉を口にすると、栞は一瞬だけ目を丸くしたあと、穏やかに笑った。


「少しずつ」


「じゃあ俺も、先輩が途中で『それ私も思いました』って言いたくなっても、一回我慢するタイプなの分かってきました」


「……そんなことまで分かります?」


「顔に出ますよ」


「七瀬君に言われると複雑です」


「なんでです?」


「七瀬君も、かなり顔に出るので」


「嘘だ」


「本を読んでるとき、特に」


「マジですか」


「面白いところだと少し笑いますし、納得してないと眉が寄ります」


「見られてた……」


 春樹は少し驚いたが、不快ではなかった。


 むしろ自分では気づいていなかったことを言われ、興味深そうに眉を上げる。


「じゃあ今度、自分で意識してみよう」


「意識すると読めなくなりませんか?」


「確かに」


 二人が笑う。


 それから春樹は五編目の感想を話し始めた。


 最初の駅の場面が別の人物視点から描かれたことで、一編目の主人公が見落としていたものが見えるようになったこと。青い花が単なる小道具ではなく、それぞれの登場人物に違う意味を持っているように感じたこと。


 栞は途中で何度か頷き、自分が気づいた点も返した。


 春樹とは違い、栞は人物が言わなかった言葉や、会話の途中に置かれた沈黙へ注目している。


「そこ、俺あんまり考えてなかった」


「私は逆に、駅の時計の時間までは気づかなかったです」


「三編目と五編目で同じなんですよ。だから多分、あの場面ほぼ同時刻で」


「あ……」


 栞が本を開き、該当する箇所を確認する。


「本当ですね」


「でしょ?」


 春樹が嬉しそうに身を乗り出しかけ、カウンターの向こうにいる栞との距離が少し近くなった。


 その瞬間、春樹は自分で気づき、一歩戻る。


「すみません。興奮した」


「いえ」


 栞もわずかに身体を引いていたが、嫌そうではない。


 ただ、ほんの少しだけ視線が本へ落ちる。


 春樹はもう作品の話へ意識を戻している。


「あと六編目なんですけど――」


「七瀬君」


「はい?」


「時間」


「え?」


 時計を見る。


 残り九分。


「十三分消えた!?」


「話してましたから」


「俺、まだ一ページも読んでない!」


 栞が口元へ手を添えて笑う。


「またですね」


「笑い事じゃないですよ。俺、図書室に読書しに来てるのに!」


「感想を話しに来たんじゃないんですか?」


「両方です!」


「欲張りですね」


「今日それ桐谷先生にも言われました!」


「桐谷先生?」


「国語の先生。あの短編集読んだことあるらしくて、読み終わったら感想聞かせてって」


「桐谷先生、本が好きですからね」


「知ってるんですか?」


「図書室にもよく来ます」


「そうだったんだ」


 春樹はそこで嫌な予感を覚えた。


「……待ってください」


「はい?」


「白石先輩と桐谷先生が両方いるときに、俺がこの本読み終わったらどうなります?」


 栞は少し考える。


「三人で話せますね」


「俺の読書時間がさらに減る!」


 思わず声が大きくなり、近くで本を読んでいた生徒が顔を上げた。


 春樹はすぐに口元を押さえる。


「……すみません」


 栞は肩を震わせている。


「笑わないでくださいよ」


「ごめんなさい」


「また謝った」


「あ」


「別にいいですけど」


 春樹もつられて笑った。


 静かに本を読みたい。


 それは今も本心だ。


 けれど、本について誰かと話す時間も、以前よりずっと楽しくなっている。


(……桐谷先生の言った『広がってる』って、こういうことなのかな)


 春樹はそんなことを考えながら、残り時間で少しでも読み進めるため、いつもの窓際の席へ向かった。


 カウンターへ戻った栞は、その後ろ姿を一度見てから、自分の作業へ戻る。


 数分後。


 図書室には、いつものようにページをめくる音が静かに重なっていた。


 春樹の望んでいた読書時間は、確かに以前より賑やかになった。


 けれど、その賑やかさは不思議なことに、本から彼を遠ざけるばかりではない。


 読んだものを誰かへ話したくなる。


 誰かの感想を聞けば、もう一度ページを開きたくなる。


 自分では気づかなかった一文へ、別の人が気づかせてくれる。


 そしてまた、本が面白くなる。


 春樹は窓際でページをめくりながら、口元をわずかに緩めた。


(まあ、悪くないか)


 ただし。


(読む時間は、もうちょっと欲しいけど)


 そこだけは、どうしても譲れなかった。

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