第12話 他人の恋愛相談なら、いくらでも答えられるんだけど
昼休み終了を告げる予鈴が鳴る少し前、七瀬春樹は図書室から二年三組の教室へ戻ってきた。
廊下を走ってはいない。本も読んでいない。それでも歩く速度だけは普段より少し速く、教室へ入るなり壁の時計を確認してから、自分の席へ向かった。
「三分前。完璧」
「何が完璧なのよ」
西条雫が呆れた顔を向けてくる。
「遅刻してない」
「それは普通」
「最近みんな俺に対して厳しくない?」
「春樹が普通のことを褒めてもらおうとするからでしょ」
「九条さんにも同じこと言われたんだけど」
「じゃあ私たちが正しいのよ」
「多数決で正しさを決めるなよ」
春樹は文句を言いながら椅子へ座り、机の中へ連作短編集をしまった。
結局、図書室では感想を話す時間が長くなり、読み進められたのは数ページだけだった。それでも不満ばかりというわけではない。白石栞と五編目について話したことで、自分では見落としていた箇所に気づけたし、六編目についても次に話したいことが増えている。
(ただ、このペースだと読み終わるの明日になるな。新海にも貸す約束してるし、今日は家でちゃんと進めよう)
そんな予定を頭の中で組み立てていると、斜め前から高坂悠斗の視線を感じた。
目が合う。
悠斗は何も言わない。
春樹も数秒黙った。
「……お前、忘れてないよな?」
「何を?」
「朝の話」
「ああ」
「その『ああ』、ちょっと怪しいぞ」
「忘れてねえよ。放課後だろ?」
「絶対だからな」
「分かったって」
悠斗は苦笑しながら教科書を出す。
春樹はまだ少し疑っていたが、午後の授業を始めようとする教師が入ってきたため、それ以上は追及しなかった。
ただし、頭の片隅には残った。
同じクラスにいる、悠斗が「好きかもしれない」と思っている女子。
以前相談されたときには、まだ悠斗自身も気持ちを決められていなかった。
あれから何かあったのだろう。
(まあ、放課後に聞けばいいか)
春樹は教科書を開く。
人の恋愛事情を無理に暴く趣味はない。
ただ、友人が自分から相談してくるなら話は別だった。
◇◇◇
午後の授業は、春樹にとって少し長かった。
別に内容が難しかったわけではない。
眠かったわけでもない。
ただ、机の中には読みかけの本があり、さらに悠斗が朝から持ち越している話もある。
それが二つ並ぶと、普段以上に時計が気になった。
六時間目。
社会科。
担当は担任でもある永山剛志だった。
「七瀬」
「はい」
「時計を見るな」
「まだ一回しか見てませんよ」
「五分で三回だ」
「数えてたんですか?」
「教卓から丸見えだ」
教室のあちこちで笑いが起きる。
春樹は時計から視線を外した。
「ちゃんと聞いてますって」
「じゃあ答えろ。今説明した制度が導入された背景は?」
春樹は教科書へ目を落とすことなく答える。
永山が黙った。
「……聞いてたな」
「だから言ったじゃないですか」
「なら時計を見るな」
「時間が気になるのと授業聞いてるかは別問題でしょう」
「何をそんなに急いでる」
「放課後に予定があるんです」
その瞬間。
近くの席にいた数人が春樹を見る。
雫もわずかに顔を上げた。
永山の眉が動く。
「珍しいな」
「先生まで何ですか、その反応」
「お前の放課後の予定なんて、図書室か本屋か家で読書だろ」
「俺だってそれ以外の予定くらいありますよ」
「何だ?」
「悠斗と話します」
一瞬だけ生まれた空気が、急速にしぼんだ。
「なんだ、高坂か」
永山があっさり言う。
「なんだって何ですか!」
「授業を続けるぞ」
「先生、今ちょっと面白い予定期待してたでしょう!」
「してない」
「絶対してた!」
「七瀬」
「はい」
「次に喋ったら、お前の放課後の予定を十分削る」
「黙ります」
春樹は即座に口を閉じた。
教室に笑いが広がる。
「効き目すごいな」
悠斗が小声で言った。
春樹は返事をせず、恨めしそうに横目で見る。
十分。
本ならかなり読める。
恋愛相談なら、話の重要なところまで進められる。
永山は春樹の扱い方をよく理解していた。
◇◇◇
終礼が終わった。
教室の空気が一気に緩み、生徒たちが帰宅や部活動の準備を始める。椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音、廊下から聞こえてくる運動部の掛け声が混ざり合い、午後の校舎に放課後特有の賑わいが広がった。
春樹は珍しく、すぐには本を取り出さなかった。
鞄へ教科書を入れながら、悠斗を見る。
「よし」
「何がよしなんだよ」
「聞く準備」
「気合い入れすぎだろ」
「朝から待たされたんだからな」
「悪かったって」
悠斗は苦笑した。
雫も帰り支度をしている。
紗弥はすでに鞄を肩へ掛けていた。
「じゃあ私、先行くね」
「うん。また明日」
雫が紗弥へ手を振る。
紗弥は春樹と悠斗にも「またね」と声をかけ、そのまま教室を出ていった。
春樹はその後ろ姿を何となく見送る。
悠斗が一瞬だけ黙った。
春樹は気づかなかった。
「雫、今日は部活?」
「今日はないわよ」
「じゃあ帰る?」
「そのつもり」
「俺、悠斗と話したあと図書室寄るけど」
「そう」
「一緒に帰るなら待ってなくていいぞ。どれくらいかかるか分からないし」
「分かった」
雫はそこで悠斗を見る。
以前の相談内容を知らない。
春樹が「悠斗から相談された」とだけ言い、詳細を伏せたからだ。
「じゃあ、また明日」
「おう」
「またな」
雫が教室を出ていく。
春樹はその姿が廊下の向こうへ消えてから、悠斗へ向き直った。
「で?」
「圧が強い」
「朝から待ってた」
「分かったって」
教室にはまだ何人か残っている。
悠斗は周囲を見回したあと、顎で廊下を示した。
「ちょっと場所変えようぜ」
「屋上?」
「入れねえよ」
「体育倉庫の裏?」
「お前の読書スポット基準で考えるな」
「じゃあどこ」
「中庭の端。あそこなら人少ないだろ」
「了解」
二人は鞄を持って教室を出た。
◇◇◇
校舎に囲まれた中庭には、いくつかのベンチが置かれている。
昼休みなら弁当を食べる生徒も多いが、放課後は部活動へ向かう者が大半で、人影はまばらだった。
花壇には季節の花が植えられ、風が吹くたびに細い茎が揺れている。五月も終わりに近づき、午後の日差しには朝より明らかな暖かさがあった。
春樹と悠斗は、校舎から少し離れたベンチへ座った。
「ここならいいだろ」
「別に教室でもよかったけどな」
「クラスのやつに聞かれたくない」
「なら最初からここ来ればよかったじゃん」
「お前が教室で『で?』って詰めてきたんだろ」
「朝から引っ張るからだよ」
「はいはい」
悠斗が息を吐く。
その横顔を見て、春樹は少しだけ表情を変えた。
いつもの冗談を言っているときより、わずかに硬い。
春樹は急かすのをやめた。
「それで、何かあった?」
「……あったっていうか」
悠斗は膝の上で両手を組んだ。
「前、お前に言われたじゃん。もうちょっと話してみろって」
「言ったな」
「相手のこと知りもしないで、好きかどうか悩んでも仕方ないって」
「そこまで言い切ってないけど、まあ近い」
「だから、ちょっと話すようにした」
「おお」
春樹は頷く。
「どうだった?」
「普通に楽しかった」
「じゃあいいじゃん」
「早い早い」
「まだある?」
「ある」
悠斗が少し俯く。
「日曜にさ、メッセージ来たんだよ」
「その子から?」
「うん」
「何て?」
「土曜の授業で出た課題のことで聞かれて。最初はそれだけだったんだけど、そのあと普通に雑談になって」
「何時まで?」
「一時間くらい」
「結構話してるな」
「だろ?」
悠斗が少しだけ嬉しそうに笑う。
春樹もつられて口元を緩めた。
「それで?」
「で、俺も楽しかったんだけど……」
「うん」
「メッセージ終わったあと、もうちょっと話したかったなって思った」
春樹は何も言わなかった。
悠斗が続ける。
「今日も学校来て、その子が教室入ってきたとき、なんか最初に見ちゃったし。別の男子と喋ってるの見たら、ちょっと気になった」
「前も似たこと言ってたな」
「そうなんだよ」
「そのときより強くなった?」
「……たぶん」
風が中庭を抜ける。
花壇の葉が擦れ、小さな音を立てた。
春樹はベンチの背もたれへ少し身体を預ける。
「じゃあ、前より分かりやすくなってるんじゃない?」
「やっぱそう思う?」
「俺が決めることじゃないけどな」
「そこは前と同じなんだな」
「当たり前だろ。俺が『お前はその子が好きです』って認定してどうするんだよ」
春樹は笑う。
「でも、前は『好きかもしれないけど分からない』だっただろ? 今は話すと楽しい、もっと話したい、来たら見ちゃう、他の男子と話してると気になる。だったら少なくとも、その子が他のクラスメイトより気になる存在なのは確かじゃない?」
「……だよな」
「うん」
「じゃあ俺、好きなのかな」
「だから、それを俺に聞くなって」
「相談してんだよ!」
「相談と判定は違う!」
春樹は少し笑ったあと、悠斗の表情を見る。
本人は本気で悩んでいる。
なら、茶化して終わらせる話ではない。
「たださ」
「ん?」
「無理に『今日から好きってことにしよう』って決めなくていいと思うぞ」
「またそれ?」
「またそれ。だって気持ちって、決めるものじゃないだろ」
春樹は少し考えながら言葉を選ぶ。
「小説なら読者は外から見てるから、『こいつ絶対好きじゃん』って分かることあるけど、本人はそうじゃないじゃん。自分の中にあるものだから、近すぎて逆に分からないこともあるし」
「……お前、こういう話になると急にまともだよな」
「普段もまともだわ」
「体育倉庫の裏で授業サボって本読んでたやつが?」
「それとこれは別問題!」
悠斗が笑う。
張っていた空気が少し緩んだ。
春樹も笑ってから続ける。
「今は、もっと話したいなら話せばいいと思う。メッセージ来て嬉しかったなら、今度はお前から送ってもいいし」
「何て送るんだよ」
「それくらい自分で考えろ」
「そこまで相談乗れよ!」
「俺が文章作ったら、お前じゃなくて俺とその子が会話してることになるだろ」
「確かに」
「格好つけすぎるのもやめた方がいいぞ。普段のお前と全然違う文章送ったら、そのうち絶対疲れる」
「お前なら何送る?」
「俺?」
春樹は少し考えた。
「本の話なら普通に『この前言ってたやつ読んだ?』とか送るけど」
「相手が本好きじゃなかったら?」
「知らん」
「役に立たねえ!」
「俺に万能恋愛相談員を求めるなよ!」
悠斗が笑いながら額を押さえる。
春樹も笑った。
「でも、共通の話題くらいあるだろ。同じクラスなんだから。課題でも授業でも先生でも」
「永山の頭が今日も眩しかったな、とか?」
「それ送ったら俺は責任取らないぞ」
「お前がいつも言ってるやつだろ」
「本人の前で言うのと女子にメッセージで送るのは違う!」
「本人の前で言う方が危ないだろ!」
「確かに」
二人の笑い声が中庭に広がる。
近くを通った一年生がちらりと見たが、すぐに校舎へ入っていった。
笑いが収まったあと、悠斗は少しだけ空を見上げた。
「なあ、春樹」
「ん?」
「もしさ」
「うん」
「俺が本当にその子のこと好きだったとして」
そこで一度言葉を切る。
「告白って、いつするもんなんだ?」
「知らん」
「即答すんなよ!」
「いや、これは本当に人によるだろ」
「恋愛小説いっぱい読んでるんだろ?」
「読んでるけど、作品によって全然違うぞ。出会って三日で告白するやつもいれば、十年幼なじみやってからようやく言うやつもいる」
「十年……」
「長い作品だと読者が『早く言え!』って叫ぶ」
「お前も?」
「叫ぶ。特に両想いなのに本人たちだけ気づいてないやつ」
「へえ」
悠斗が横目で春樹を見る。
「じゃあ、お前なら?」
「俺なら?」
「もし好きなやつできたら」
「できない前提の話されてもな」
「仮定でいいから」
「うーん……」
春樹は腕を組んだ。
本の登場人物ならいくらでも考えられる。
だが、自分となると途端に像が浮かばない。
「たぶん、ちゃんと相手のこと知ってからじゃない?」
「土曜もそんなこと言ってたよな」
「俺、新海にも似たこと聞かれた気がする」
「新海さんに?」
「図書室で本選んでるときに、どういう人好きになるのかって」
「で、何て答えた?」
「一緒にいて疲れない人。本読んでても怒らない人」
「……それだけ?」
「あと何がいるんだよ」
「いや」
悠斗が何とも言えない顔になる。
「お前、条件だけ聞くと結構身近にいそうだけどな」
「誰?」
「いや、いい」
「何だよ!」
「今は俺の相談だから」
「自分から振ったんだろ!」
春樹は不満そうに眉を寄せる。
悠斗は笑って誤魔化した。
「じゃあ、俺もまだ告白とか考えなくていい?」
「いいんじゃない? 今は相手と話すの楽しいんだろ」
「うん」
「ならまずそこ大事にすればいいじゃん」
「でも、誰かに取られたら?」
春樹の表情が少し変わった。
「それが怖いなら、何もしないままずっと待つのも違うと思う」
「……だよな」
「焦って告白する必要はないけど、何もしなくていいって意味でもない。話す回数増やすとか、相手の好きなもの知るとか、一緒にどっか行けそうなら誘うとか。そういうのはしていいんじゃない?」
「二人で?」
「最初から二人が重いなら何人かでもいいだろ。仲良くなる方法なんていくらでもあるし」
「なるほどな」
悠斗は真剣に頷いた。
「お前、本当に自分のこと以外なら頼れるな」
「最後の一言いる?」
「いる」
「失礼な」
春樹は鞄を膝の上へ置いた。
「で、そろそろ一番大事なこと聞いていい?」
「何?」
「相手誰?」
悠斗が固まる。
春樹は真顔だ。
「前も教えてくれなかっただろ。もう結構具体的な相談してるし、そろそろ名前くらい教えてくれてもよくない?」
「……知りたい?」
「そりゃ知りたい。知らないまま相談乗るの難しいし」
「でも同じクラスだぞ」
「それも前聞いた」
「絶対言うなよ」
「言わないって。雫にも聞かれたけど黙ってただろ」
「そうだけど」
「信用ない?」
「いや、ある」
悠斗は答えたあと、少し黙った。
校舎から吹奏楽部の音が聞こえてくる。
まだ曲にはなっておらず、いくつもの楽器が別々に音を鳴らしている。
悠斗は一度深く息を吐いた。
「……赤木」
春樹は瞬きをした。
「ん?」
「だから、赤木紗弥」
「…………」
「その顔やめろよ」
「いや」
春樹は教室での光景を思い出した。
雫の近くにいることが多い紗弥。
自分と雫が言い合いを始めれば止めることもあり、悠斗とも普通に話している。
特別に二人を意識して見たことはなかった。
「マジか」
「マジ」
「赤木かぁ……」
「何だよ」
「いや、全然気づかなかった」
「お前でも気づかないんだな」
「だって俺、お前らの恋愛を観察するために学校来てないし」
「本読むためだもんな」
「そう」
「即答」
春樹は少し考える。
今日、紗弥が先に教室を出たとき。
悠斗が一瞬黙ったような気がする。
今になって思い返せば、そうだったかもしれない。
「いつから?」
「それが分からないから相談してるんだよ」
「そりゃそうか」
「たぶん最近……なのかな。でも、前から普通に話してたし」
「赤木と?」
「うん。西条とお前が言い合ってる横で話すこともあったし」
「俺らを背景に使うなよ」
「勝手に始めるんだろ」
「否定できない」
春樹は腕を組む。
「じゃあ日曜にメッセージ来たのも赤木?」
「そう」
「課題聞かれた?」
「うん」
「そのあと一時間雑談?」
「うん」
「へえ……」
春樹は少し笑った。
「何だよ」
「いや、お前嬉しそうだなと思って」
「……うるせえ」
「顔に出てるぞ」
「お前にだけは言われたくない」
「最近それもよく言われる!」
悠斗が笑う。
春樹も笑った。
ただ、相手の名前が分かったことで、相談の重みは少し変わった。
紗弥は自分にとっても友人だ。
だからこそ、勝手に相手側の気持ちを推測して悠斗へ伝えることはできない。
「一個だけ言っとく」
「何?」
「赤木がどう思ってるかは、俺には分からないぞ」
「分かってる」
「日曜に向こうから連絡来たってだけで『脈あり』とか決めるのも早い。課題がきっかけだったなら、本当に聞きたかっただけかもしれないし」
「うん」
「でも一時間話したのは事実なんだから、少なくとも話すの嫌がられてはないと思う。今はそれくらいで考えとけば?」
「……そうする」
「俺も変に赤木の様子探ったりしないからな」
「頼む」
「雫にも言わない」
「それも頼む」
「了解」
春樹は軽く頷いた。
友人から預かった話だ。
本人の許可なく誰かへ渡すつもりはない。
「ありがとうな」
悠斗が言った。
「何が?」
「聞いてくれて」
「別にそれくらい」
「あと、前に相談したときも」
「俺、そんな大したこと言ってないぞ」
「でもちょっと楽になったから」
春樹は一瞬黙った。
それから少し照れくさそうに鼻の頭を掻く。
「ならよかった」
「お前、そういうとき照れるんだな」
「うるさい」
「珍しいもの見た」
「相談料取るぞ」
「何円?」
「新刊一冊」
「高い!」
「じゃあ文庫一冊」
「本しか選択肢ないのかよ!」
二人はまた笑った。
◇◇◇
悠斗と別れたあと、春樹は図書室へ向かった。
時刻は午後四時前。
相談は思っていたより長くなったが、不思議と「読書時間を奪われた」という気分にはなっていない。
(赤木か)
廊下を歩きながら、さっき聞いた名前が頭に浮かぶ。
紗弥。
雫とよく一緒にいる女子。
春樹とも普通に話す。
悠斗とも普通に話す。
今までなら、それだけだった。
だが「悠斗が好きかもしれない相手」という情報が加わった瞬間、今まで何気なく見ていた二人の会話が少し違って見える。
(こういうの、小説と同じだな)
物語でも、ある事実を知ったあとに前の場面を読み返すと、何でもなかった会話の意味が変わることがある。
ただし、現実は小説と違う。
作者が答えを用意しているわけではない。
紗弥が悠斗をどう思っているのか。
悠斗自身の気持ちがこれからどうなるのか。
春樹には分からない。
(まあ、俺が考えすぎても仕方ないか)
本人たちのことだ。
必要なら相談には乗る。
それ以上は踏み込まない。
そう決めたところで、図書室の前へ着いた。
扉を開ける。
夕方の図書室には、西日が差し込んでいた。
昼より利用者は少なく、長い机には数人の生徒が座っている。
カウンターを見る。
栞がいた。
春樹に気づく。
「七瀬君」
「こんにちは。本日二回目です」
「こんにちは」
栞が小さく笑う。
「今日はもう来ないかと思いました」
「俺ももっと早く来る予定だったんですけど、悠斗と話してたら遅くなりました」
「高坂君?」
「はい」
そこまで答えて、春樹は口を閉じた。
相談内容は言わない。
栞も、それ以上は尋ねなかった。
「じゃあ、今日は読む時間が少ないですね」
「そうなんですよ」
春樹は時計を見る。
「閉室まで一時間くらい?」
「はい」
「十分です」
「昼は二十分でも足りないって言ってませんでした?」
「一時間あればかなり読めます」
「今日は感想を話さなければ、ですね」
「……その罠があった」
栞が笑う。
「六編目の話は?」
「したい」
「読む時間は?」
「欲しい」
「どっちにします?」
春樹は真剣に悩んだ。
「……十五分だけ話して、そのあと読む」
「分かりました」
「白石先輩、十五分経ったら止めてください」
「私が?」
「俺、絶対止まらないから」
「自覚あるんですね」
「あります」
「じゃあ十五分」
栞が時計を確認する。
春樹はカウンターの前へ立ったまま、本を取り出した。
「六編目なんですけど、あれ絶対二編目の二人ですよね?」
「やっぱりそう思いました?」
「ですよね!?」
声が大きくなりかけ、春樹は自分で口元を押さえた。
栞が肩を揺らす。
そして結局。
二人が六編目について話し終えたのは、二十三分後だった。
「白石先輩」
「……はい」
「十五分って言いましたよね?」
「七瀬君も止まりませんでした」
「先輩が途中から考察追加したからでしょう!」
「七瀬君が先に聞いたんです」
「それは……そうですけど」
二人は顔を見合わせた。
数秒後、どちらからともなく笑う。
「次からタイマー使います?」
「そこまでします?」
「俺たち、たぶん必要ですよ」
「……否定できません」
春樹は笑いながら窓際の席へ向かった。
残り時間は三十分少々。
十分ではない。
だが悪くない。
鞄を置き、椅子へ座る。
連作短編集を開く。
ようやく最終編だ。
(よし。今度こそ読む)
ページへ視線を落とした春樹は、すぐに物語の中へ入っていった。
◇◇◇
三十分後。
閉室時間が近づき、栞が利用者へ声をかけ始めた。
春樹は本から顔を上げる。
「……終わらなかった」
「あとどれくらいですか?」
カウンターへ戻ってきた栞が尋ねる。
「三十ページくらい」
「今日、家で読みます?」
「絶対読みます」
「じゃあ明日には」
「感想話せます」
春樹が即答すると、栞は少しだけ嬉しそうに笑った。
「待ってます」
その言葉に、春樹も自然に頷く。
「はい」
鞄へ本をしまう。
歩きながらは読まない。
家へ帰るまで続きは我慢だ。
それが以前より少しつらい。
ただ、今日の春樹には、もう一つ考えることがあった。
(悠斗と赤木か)
昇降口へ向かいながら、二人の顔を思い浮かべる。
明日から教室で見れば、少し意識してしまうかもしれない。
だが、余計なことはしない。
悠斗が自分で動くと言ったのだ。
なら見守ればいい。
他人の恋愛は、外から見ているくらいがちょうどいい。
「……やっぱ俺、読者側がいいな」
誰もいない廊下で、春樹は小さく呟いた。
物語の登場人物が悩み、すれ違い、少しずつ距離を縮めていく。
それを安全な場所から読む。
最高だ。
自分が同じような面倒なことへ巻き込まれる必要はない。
(恋愛は読むもの。俺は本が読めればいい)
その結論に、今日も一切の迷いはなかった。
けれど春樹はまだ知らない。
他人の恋愛を見守るつもりでいる自分自身もまた、少しずつ誰かの日常の中で存在感を増していることを。
教室では、雫が彼の何気ない言葉を以前より少しだけ意識するようになっている。
図書室では、栞が明日の感想を待っている。
真実には、読み終えた本を貸す約束がある。
正門では、凛がもう彼を「歩き読みをする問題生徒」としてだけ見てはいない。
それらを春樹は、一つも恋愛には結びつけていない。
明日の朝になれば、きっとまた本を持って学校へ来る。
歩いている間だけは我慢して、教室へ着いた瞬間にページを開く。
今の春樹にとって重要なのは、その程度のことだった。
そして同じころ。
二年三組を出て駅へ向かっていた悠斗は、スマートフォンの画面を何度も見ていた。
開いているのは、紗弥とのメッセージ画面。
最後のやり取りは昨夜で止まっている。
入力欄は空白だった。
「……普通でいい、か」
春樹に言われた言葉を思い出す。
格好つけすぎなくていい。
普段と違う自分を作らなくていい。
話したいなら、話せばいい。
悠斗はしばらく迷ったあと、文字を打ち始めた。
『赤木、今日の国語のプリントって――』
そこまで入力して止まる。
「いや、これは露骨すぎるだろ……」
一度消した。
また打つ。
また消す。
春樹が見れば、おそらく「考えすぎだ」と笑うだろう。
それでも悠斗にとっては、たった一通のメッセージが妙に難しい。
恋愛小説の中なら数行で済む場面でも、現実では送信ボタンを押すだけで時間がかかる。
悠斗は駅前の信号で立ち止まり、もう一度入力欄を開いた。
今度は、余計な理由を作るのをやめた。
『赤木、昨日話してた映画のタイトル、もう一回教えて』
確認する。
不自然ではない。
昨日、本当に話した内容だ。
「……よし」
送信。
画面に自分のメッセージが表示された。
送った瞬間、心臓が少し速くなる。
「こんなんで緊張すんのかよ……」
自分で呆れながら、スマートフォンをポケットへ入れる。
十秒後。
震えた。
早い。
悠斗は反射的にスマートフォンを取り出す。
『いいよ! これ!』
タイトルと一緒に、映画の公式画像が送られてきた。
その下に、もう一通。
『高坂君、興味持ってくれたの?』
悠斗の口元が、自然に緩んだ。
『うん。昨日聞いてたらちょっと気になった』
送る。
少しして。
『面白いよ! 私あれ三回見た笑』
「三回……」
悠斗は歩き始めながら、小さく笑った。
次に何を送るか。
今度はさっきほど迷わなかった。




