第13話 本を一冊読み終えただけなのに、次に読む人が待っている
火曜日の朝。
七瀬春樹が二年三組の教室へ入ったとき、時計の針はホームルーム開始の二十分ほど前を指していた。
窓から差し込む朝日はまだ柔らかく、半分ほど開けられた窓から入る風がカーテンをゆっくり揺らしている。すでに登校している生徒は十人ほどで、友人同士で週末や昨日の話をしている者もいれば、机へ突っ伏して眠っている者もいた。
春樹は自分の席へ向かいながら、何気なく教室を見回した。
高坂悠斗はいる。
赤木紗弥もいる。
西条雫はまだ来ていない。
「おはよう」
「おう」
悠斗が片手を上げる。
「おはよ、春樹」
少し離れたところにいた紗弥も声をかけてきた。
「おはよう」
春樹は普段と変わらず返事をして、自分の席へ鞄を置いた。
そこで一度、悠斗を見る。
悠斗もこちらを見る。
数秒間だけ視線が重なった。
「何?」
紗弥が二人を交互に見た。
「いや、別に」
春樹が答える。
「朝から見つめ合って気持ち悪いんだけど」
「見つめ合ってない!」
「俺も嫌だわ!」
二人の声が綺麗に重なった。
紗弥が吹き出す。
「息ぴったりじゃん」
「やめてくれ」
「本気で嫌そうな顔すんなよ!」
悠斗が抗議する。
春樹は笑いながら椅子へ座った。
昨日、悠斗から恋愛相談を受けた。
相手は紗弥。
その事実を知ってから、二人を同時に見るのは今朝が初めてだった。
(……普通だな)
当たり前ではある。
悠斗が紗弥を好きかもしれないと知ったからといって、翌朝から二人の周囲だけ光ったり、花びらが舞ったりするわけではない。
紗弥はいつも通り。
悠斗も、少なくとも表面上は普段通りだった。
(小説だったら、読者だけ分かる視線とか仕草とか入るところなんだけどな)
そう考えたところで、春樹は鞄を開けた。
取り出したのは、昨日まで読んでいた連作短編集だった。
「終わった?」
悠斗が尋ねる。
「何が?」
「その本」
「ああ」
春樹は少し得意そうに表紙を見せた。
「読み終わった。昨日帰ってから最後まで読んだ」
「おお」
「やっぱ最後まで読むと一編目の意味変わるわ。最初に何気なく出てた台詞が最終編で――」
「待て」
「何だよ」
「朝から感想会始めるな」
「まだ三行くらいしか喋ってないだろ!」
「お前はそこから二十分行く」
「失礼な」
「昨日も白石先輩と十五分だけ話すつもりだったんだろ?」
春樹の動きが止まった。
「……なんで知ってる?」
「昨日別れる前に自分で言ってたじゃん。今の顔見れば、十五分で終わらなかったのも分かる」
「二十三分だった」
「ほら」
「八分しか超えてない」
「その八分を普段のお前なら命みたいに惜しむだろ」
「本の感想に使った八分なら有意義だ」
「じゃあ文句言うなよ」
「それとこれとは別なんだよ」
悠斗が呆れたように笑う。
春樹は本を開こうとしたところで、ふと思い出して声を落とした。
「そういや」
「ん?」
「昨日、送った?」
悠斗の肩がわずかに動く。
紗弥には聞こえない程度の声だった。
「……送った」
「お」
「普通に話せた」
「よかったじゃん」
「映画の話」
「ああ、昨日言ってたやつ?」
「うん」
「向こうから?」
「いや、俺から」
「おお」
思わず声が少し大きくなり、悠斗が慌てて人差し指を口元へ立てた。
「声!」
「悪い」
春樹も声を落とす。
「ちゃんと自分から送ったんだな」
「まあな」
「で、どうだった?」
「普通に返ってきた。結構話した」
「何時まで?」
「十一時くらい」
「長くない?」
「途中で映画見始めたから」
「昨日のうちに?」
「配信にあったから」
春樹は目を丸くした。
「行動早っ」
「気になったんだよ」
「面白かった?」
「面白かった」
「じゃあ今日、その話できるじゃん」
「……そのつもり」
悠斗がほんの一瞬だけ紗弥の方を見る。
すぐに視線を戻した。
春樹はそれを見て、口元を少し緩める。
「何だよ」
「いや」
「その顔やめろ」
「俺、何も言ってないぞ」
「顔が言ってる」
「最近俺、顔から情報漏れすぎじゃない?」
「昔からだよ」
「マジ?」
「本読んでるときとか特に」
「嘘だろ」
「面白い場面だとニヤついてるし、しんどい展開だと眉間に皺寄ってる」
「……知らなかった」
「あと好きなキャラ出るとちょっと前のめりになる」
「そこまで見てんの!?」
「付き合い長いからな」
春樹は軽く衝撃を受けた。
(俺、そんなに分かりやすいのか……?)
自分では静かに読んでいるつもりだった。
「何の話?」
紗弥が近づいてくる。
「うおっ」
悠斗の背筋がわずかに伸びた。
春樹はそれを見た。
見たが、何も言わない。
「春樹が本読んでるとき、顔に出るって話」
悠斗が答える。
「ああ、出る出る」
紗弥が即答した。
「赤木まで!?」
「たまにすごい顔してるよ」
「どんな?」
「悲しいところ読んでると、世界の終わりみたいな顔」
「そんなに!?」
「前に雫と『今絶対ヒロイン泣いてるね』って話したことある」
「俺を観察して遊ぶなよ!」
「だって分かりやすいんだもん」
紗弥が笑う。
その隣で悠斗も笑った。
春樹は二人を見比べる。
(……普通に話せてるじゃん)
昨日の相談を聞いていたときより、悠斗の表情はずっと自然だ。
少なくとも春樹が余計な手助けをする必要はなさそうだった。
「そうだ、赤木」
悠斗が言う。
「何?」
「昨日の映画、見た」
紗弥の目が大きくなる。
「えっ、もう?」
「配信にあったから」
「早くない!?」
「気になったんだよ」
「どうだった?」
「面白かった。最後の駅のところ、あれ結構好き」
「分かる!」
紗弥の表情が一気に明るくなった。
「私もあそこ好き! 最初見たとき、絶対あそこで追いかけると思ったのに、追いかけないじゃん?」
「そう。それがよかった」
「だよね!」
二人の会話が始まる。
春樹は少しだけ聞いていたが、知らない作品の詳しい話になりそうだと判断したところで本を開いた。
「……春樹」
悠斗が呼ぶ。
「ん?」
「今読むの?」
「お前ら映画の話してるじゃん」
「いや、そうだけど」
「俺その映画知らないし、ネタバレされたくない」
「混ざれば?」
紗弥が言う。
「見てない作品の核心聞くくらいなら、俺はこっち読み返す。二人は続けて」
春樹は何の含みもなく答えた。
悠斗が一瞬だけこちらを見る。
春樹はすでに本へ視線を落としている。
「本当に自由だね、春樹」
「褒め言葉?」
「半分くらい」
「じゃあ褒め言葉として受け取る」
紗弥が笑った。
悠斗も小さく息を吐き、彼女へ向き直る。
「で、あの駅のあとなんだけどさ」
「うん」
二人の会話が再開した。
春樹は文字を追いながら、その声をぼんやり聞いていた。
邪魔だとは思わなかった。
◇◇◇
「何、この状況」
数分後。
雫が教室へ入ってくるなり足を止めた。
春樹は本。
悠斗と紗弥は映画の話。
三人ともそれぞれ楽しそうにしている。
「おはよう」
紗弥が先に気づく。
「おはよう。何の話?」
「映画。昨日、高坂に勧めたやつ」
「へえ。もう見たの?」
「昨日見た」
悠斗が答える。
「早いわね」
「配信にあったから」
「面白かった?」
「結構」
雫はそれ以上深く考えず、自分の席へ向かった。
途中で春樹の机を指先で二度軽く叩く。
「おはよう」
「ん。おはよう」
春樹は本から顔を上げた。
雫はそのまま通り過ぎるかと思ったが、春樹の机の横で止まった。
「それ、読み終わったんじゃなかった?」
「終わった。読み返してる」
「もう?」
「最後まで読むと最初の意味変わるんだよ。昨日気になってたところ確認してる」
「ふうん」
雫は春樹の手元にある本を見たあと、机の上へ片手をついた。
「昨日も白石先輩とその本の話してたんでしょ?」
「した。五編目と六編目。六編目なんか二編目の二人が別視点で出てきてさ――」
「待って」
「何?」
「朝から全部説明しなくていい」
「聞いたのお前だろ」
「そこまで聞いてないわよ」
雫はそう言いながらも、すぐには自分の席へ行かなかった。
春樹が本へ視線を戻そうとすると、そのページの上へ雫の指が伸びてくる。
ぱたん。
本が閉じた。
「おい!」
「そういえば、私の本」
「雫の本?」
「土曜日に春樹が選んだやつ。昨日読み終わったって言ったでしょ」
「ああ」
春樹の顔が明るくなる。
「そうだった。昼に感想聞いたけど、時間なくて途中だったよな」
「そう」
雫は閉じた本から指を離さず、そのまま春樹を見る。
「白石先輩の本だけじゃなくて、私のもちゃんと最後まで感想聞いてよ」
「もちろん聞くけど」
「今日」
「今日?」
「昼」
春樹が瞬きをした。
「昼は図書室行くぞ。白石先輩と最終編の感想話したいし」
「じゃあ、その前」
「弁当食いながら?」
「それでいいでしょ」
「いいけど……」
春樹は少し不思議そうに雫を見る。
「お前、そんなにあの本の話したかった?」
雫の指先が、閉じた表紙の上で一瞬止まった。
「……春樹が勧めたんでしょ」
「うん」
「だったら、読んだ感想くらい聞きなさいよ」
「いや、聞くって。むしろ聞きたい」
「ならいい」
ようやく雫は本から手を離した。
春樹はもう一度開こうとして、そこで笑う。
「でも面白かったんだな」
「何よ」
「だってお前、自分から感想聞けって言うの珍しいじゃん」
「……面白かったから」
「よかった。選んだ甲斐あった」
春樹が嬉しそうに笑う。
雫はその顔を数秒見てから、ふいと視線を外した。
「じゃあ昼、忘れないでよ」
「忘れないって。本の約束は忘れない」
「……そうね」
雫はようやく自分の席へ向かった。
椅子を引きながら、鞄の中に入っている放送部の小説へ一度触れる。
別に、急いで感想を聞いてもらう必要などない。
今日でなくてもいい。
明日でもいい。
春樹が栞とどんな本の話をしているかも、自分には関係ない。
それなのに、春樹が楽しそうに「白石先輩と話した」と言った瞬間、昨日途中までしか話せなかった自分の本のことを思い出した。
(……せっかく春樹が選んだんだし)
それだけだ。
雫はそう考えながら教科書を机へ入れた。
「なんか二人、今日よく喋るわね」
今度は悠斗と紗弥へ声をかける。
「そうか?」
悠斗の動きがわずかに硬くなる。
「うん。まあ、映画の話してるから?」
「昨日勧めたんだよ」
紗弥が答える。
「高坂が興味あるって言うから」
「へえ」
雫は頷いた。
それだけだった。
本を開き直した春樹だけが、その向こうで少し眉を上げる。
(悠斗、分かりやすいな)
雫に指摘された瞬間だけ、明らかに動きが変わった。
だが雫も紗弥も気づいていない。
春樹は口を挟まず、文字へ意識を戻した。
◇◇◇
午前中。
二時間目の国語。
教室へ入ってきた桐谷美月は、教卓へ教材を置くと、いつものように生徒たちを見回した。
二十代後半。肩より少し長い髪を後ろで緩くまとめ、落ち着いた服装をしている。生徒との距離が比較的近く、話しやすい教師として人気があるが、春樹にとって重要なのは別の部分だった。
この教師は、本が好きだ。
「今日は教科書、少し置いておきましょうか」
美月が言う。
「先週提出してもらった読書記録、全部読みました」
教室の何人かが小さくざわついた。
春樹も顔を上げる。
「本を読む人、ほとんど読まない人、漫画なら読む人、ウェブ小説中心の人。いろいろいました」
春樹の反応が少し変わる。
隣からそれを見た雫は、すぐに気づいた。
(食いついた)
分かりやすい。
「学校の読書課題って、『名作を読みなさい』になりがちなんですけど」
美月は教卓へ軽く腰を預けた。
「私は、入口は何でもいいと思っています。恋愛でもミステリーでも、ライトノベルでもウェブ小説でも。読んで面白かったなら、そこから次へ行けばいい」
「先生」
春樹の手が上がった。
雫が額へ手を当てる。
美月は予想していたように笑った。
「はい、七瀬君」
「今の発言、記録していいですか?」
「何に使うの?」
「今後、誰かに『そんなの読書じゃない』って言われたときの反論材料に」
「私を盾にしないでください」
教室に笑いが起きる。
「でも先生、ウェブ小説読むんですか?」
「読みますよ」
春樹の目が変わった。
「ジャンルは?」
「七瀬君」
「はい」
「授業です」
「……すみません」
「でも後でなら話してもいいですよ」
「本当ですか?」
「その代わり、今は授業を聞く」
「聞きます」
返事が異様に早い。
悠斗が肩を震わせ、紗弥も笑っている。
「春樹、分かりやすすぎ」
雫が小声で言う。
「だって桐谷先生、ウェブ小説読むって」
「先生だって読むでしょ」
「ジャンル聞きたい」
「授業終わってからにしなさい」
「分かってる」
美月は二人のやり取りを見ていたが、やがて黒板へ向き直った。
「今日は、その読書記録を使います」
チョークが黒板を走る。
書かれたのは、
『好きな作品を、人へ勧める』
春樹の目がさらに輝いた。
「……七瀬君」
「はい?」
「まだ何も説明してないのに嬉しそうですね」
「得意分野です」
「でしょうね」
美月が笑う。
「ただし今日は、『自分が面白かったから読んで』だけでは駄目です。相手がどんな人なのかを考えて、その人に合う作品を紹介してください」
春樹の表情が少し変わった。
今度は単純な興奮ではない。
興味だった。
「相手に合う……」
「そうです。自分の好きなものを押しつけるのではなく、相手が何を好むか、どんな作品なら読みやすいかを考える」
春樹は先日、真実の友人である藤崎美優へ本を選んだときのことを思い出した。
好きな本と、人に勧めやすい本は別。
自分でそう言った。
「二人一組になって、お互いに話を聞いてください。最近見た映画やドラマ、好きな漫画、趣味でも構いません。それを参考に一冊選びます」
教室がざわつき始める。
「本は学校の図書室にあるものから選んでもいいですし、自分が読んだ作品でも構いません。ただし、相手が読んだことのないものにしてください」
美月が時計を見る。
「今日は候補を考えるところまで。実際の紹介は次回にします」
生徒たちが隣同士で組み始める。
春樹はほとんど反射的に雫を見る。
「雫」
「何?」
「俺ら組む?」
「いいけど」
答えた雫の手が、すぐに机の上のノートを春樹側へ寄せる。
「お前の好み大体知ってるから楽だな」
「……それ、課題の意味なくない?」
「確かに」
美月の声が飛んでくる。
「七瀬君、西条さん」
「はい」
「せっかくなので、普段あまり本の話をしない相手と組んでください」
「狙い撃ちされた!」
「聞こえてましたから」
教室に笑いが起きる。
「先生、俺ら幼なじみだから本の好みまで大体知ってるんですよ」
「だからです」
「なるほど」
春樹は素直に納得した。
その横で、雫が春樹側へ寄せていたノートをゆっくり自分の前へ戻す。
「今日は反抗しないんですね」
美月が少し意外そうに言う。
「先生の言ってること正しいですから」
「七瀬君って、意外と素直ですよね」
「意外いらなくないですか?」
「日頃の行いです」
「永山先生と同じこと言う!」
また笑いが起きた。
春樹は組む相手を探すため周囲を見る。
その視線の途中で、悠斗と紗弥が目に入った。
「高坂」
紗弥が先に声をかける。
「組む?」
「お、おう」
春樹は危うく凝視しそうになり、慌てて視線を外した。
(見るな俺。自然にしろ)
相談内容を知っているせいで、余計に気になる。
そして雫は、そんな春樹が一瞬だけ悠斗たちを見たことには気づいたものの、その理由までは知らない。
「春樹」
「ん?」
「相手」
「ああ」
春樹が雫を見る。
「お前、誰と組む?」
「もう決まった」
雫は自分の反対側にいる女子生徒を指した。
「早いな」
「春樹がぼーっとしてるからでしょ」
「ぼーっとしてたわけじゃないぞ」
「じゃあ早く探したら?」
「分かってるって」
春樹の相手は、前の席の男子になった。
普段から話す相手ではあるが、本について話したことはほとんどない。
「七瀬、俺マジで本読まないぞ」
「むしろ燃える」
「怖いんだけど」
「大丈夫。いきなり千ページの海外文学とか勧めないから」
「絶対やめろよ」
「まず好きな映画」
「えー……アクション」
「邦画? 洋画?」
「どっちも」
「主人公一人が無双する系と、チームで戦う系なら?」
「チームかな」
「現代? SF? ファンタジー?」
「質問多くない!?」
「本選ぶんだから必要だろ!」
「面接かよ!」
周囲から笑いが起きる。
美月も教卓からその様子を見ていた。
春樹は本当に楽しそうだった。
相手が普段ほとんど本を読まないと知っても、馬鹿にする様子はない。むしろ、だからこそ何なら読みやすいのかを真剣に考えている。
「長い文章苦手?」
「苦手」
「じゃあ短編か、章短いやつ。会話多めの方がいい?」
「たぶん」
「恋愛は?」
「なくてもいい」
「ミステリー?」
「謎解きは好き」
「よし」
春樹はノートへ候補を書き始める。
「何冊出す気?」
「とりあえず五冊」
「一冊って言われたよな!?」
「そこから絞るんだよ!」
教室にまた笑いが起きた。
少し離れた席で別の相手と話していた雫が、春樹の方へ視線を向ける。
楽しそうに本の候補を並べている。
それはいつもの春樹だった。
けれど、しばらく見たあと、雫は自分のノートへ視線を戻した。
そして相手との話が一段落すると、余白へ小さく一冊の題名を書いた。
土曜日に春樹から選んでもらった本だった。
◇◇◇
授業終了後。
チャイムが鳴ると同時に、春樹は教卓へ向かった。
「桐谷先生」
「来ると思いました」
「ウェブ小説の話」
「覚えてたんですね」
「本の話は忘れません」
「西条さんから聞いた通りですね」
「雫から何聞いてるんですか?」
「前に面談で少し」
「怖いな……」
美月は笑いながら教材をまとめる。
「それで、何が聞きたいんですか?」
「ジャンル」
「いろいろ読みますよ。恋愛も、ファンタジーも」
「恋愛!」
「食いつきますね」
「俺、恋愛小説好きなんですよ」
「知ってます」
「なんで?」
「読書記録」
「ああ」
春樹は納得した。
美月がプリントの束から一枚抜く。
「七瀬君、かなり書いてましたから」
「書く欄あったので」
「普通は三行くらいです」
「足りなくないですか?」
「あなたは裏まで使ってました」
「書きたいことあったから」
「ええ。よく分かりました」
美月は少し笑う。
「恋愛小説を読むのは好き。でも自分が恋愛することには興味がない」
「そうです」
「面白いですね」
「何がです?」
「そこまで人の恋愛感情を読むのが好きなのに、自分のことは完全に別なんだなって」
「読むのとやるのは違いますよ」
「徹底してますね」
「読者が一番楽しいですから」
春樹は即答した。
「登場人物が悩んで、すれ違って、やっとくっつくのを安全なところから読む。最高じゃないですか」
「安全なところから、ね」
「はい」
美月は教材を抱え直した。
「でも七瀬君、最近、前より人と話してません?」
春樹は瞬きをした。
「そうですか?」
「授業中の様子しか知りませんけど。前は休み時間になるとすぐ本を開いてた印象があります」
「今も開いてますよ」
「その前後に誰かと話してるでしょう?」
「……まあ」
春樹は教室を見る。
悠斗がいる。
紗弥がいる。
雫がいる。
最近なら、真実が教室へ来ることもある。
図書室へ行けば栞がいる。
廊下では凛と話すこともある。
「増えたかもしれません」
「嫌ですか?」
美月が尋ねた。
春樹は少し考える。
「読書時間減るのは困ります」
「そこは即答なんですね」
「重要なので。でも……本の話できる人増えるのは、結構楽しいです」
「なるほど」
「あと、まあ……普通に喋るのも嫌いじゃないです」
「でしょうね」
「何で分かるんです?」
「七瀬君、よく喋りますから」
「また言われた!」
美月が笑う。
「じゃあ最近の七瀬君は、少し賑やかなんですね」
「俺の読書時間が勝手に賑やかになってる感じです」
「ラブコメみたいですね」
春樹が固まった。
「……先生」
「はい?」
「やめてください。縁起でもない」
「そんなに嫌?」
「俺、読む側がいいんですよ。主人公とか絶対面倒じゃないですか」
「例えば?」
「誤解される。すれ違う。告白で悩む。デートで緊張する。それに幼なじみが急に意識し始めたり、後輩が距離詰めてきたり、先輩が意味深なこと言ったり」
少し離れた席で教科書を片づけていた雫の手が止まった。
春樹は気づかない。
「読んでる分には最高です。でも自分でやりたいかって言われたら別です」
「なるほど」
美月は楽しそうに笑う。
「七瀬君らしいですね」
「最近それもよく言われるな……」
「じゃあ、主人公にならないように気をつけてください」
「気をつけてどうにかなるものですか?」
「さあ?」
「先生が言ったんでしょう!」
美月は笑いながら教室を出ていった。
春樹はその背中を見送る。
「変な先生だな」
「春樹」
背後から雫の声がした。
「ん?」
「今の話」
「何?」
「幼なじみがどうとか言ってなかった?」
「ああ、ラブコメの定番」
「……ふうん」
「何?」
「別に」
「またそれ!」
雫は鞄へ手を伸ばした。
だが、すぐには持ち上げない。
「春樹」
「今度は何?」
「私が急に春樹を意識し始めたら、困る?」
「は?」
春樹の目が丸くなる。
雫は自分で言ってから、ほんのわずかに唇を引き結んだ。
だが、次の瞬間には春樹の机に置かれていた消しゴムを指先で弾く。
「例えばの話よ。さっき春樹が言ってたから」
「ああ、そういうこと」
春樹は消しゴムを拾う。
「困るっていうか、まず信じないと思う」
「……なんでよ」
「だって雫だぞ?」
「それ理由になってない」
「小さいころから知ってるし、今さら急に『春樹君のこと、男の子として意識しちゃう……』とか言われても、熱あるのかと思う」
「……そう」
「あとその喋り方したら絶対笑う」
「最低」
雫は春樹の肩を軽く叩いた。
「痛っ! 何で!」
「なんとなく」
「理不尽!」
「じゃあ昼、忘れないでよ」
「感想?」
「そう」
「分かったって」
雫は今度こそ席を離れた。
その足取りはいつもと変わらない。
ただ、春樹の肩を叩いた手を、自分の席へ戻る途中で一度だけ握り直していた。
春樹はそれを見ていない。
◇◇◇
昼休み。
春樹が弁当の蓋を開けると、ほぼ同時に雫が自分の椅子を持ってきた。
「お」
春樹が目を丸くする。
「何?」
「今日は早いな」
「感想聞くって言ったでしょ」
「覚えてるよ」
雫は春樹の机の横へ椅子を置いた。
いつもなら紗弥も交えて何となく集まることが多い。今日は紗弥が悠斗と話しながらこちらへ来ようとしていたが、雫は先に本を机へ置いた。
「これ」
土曜日に借りた放送部の小説だった。
「返却はあとでいいんだろ?」
「期限まだあるから。でも読み終わった」
「じゃあ昨日の続き聞かせて」
春樹は箸を持ったまま、自然に身体を雫の方へ向けた。
雫は少しだけ満足そうに本の表紙を撫でる。
「昨日、先輩との関係がよかったって言ったでしょ?」
「うん」
「あれだけじゃなくて、最後に主人公が校内放送するところもよかった。最初は自分の声が嫌いだったのに、最後は『好きになった』じゃなくて、『これが私の声だから』って受け入れるじゃない」
「分かる」
春樹がすぐ頷いた。
「そこいいよな。急にコンプレックス全部消えるんじゃなくて、嫌いだったものと付き合えるようになる感じ」
「そう。それ」
「だから雫に合うと思ったんだよ」
「……どうして?」
「お前、そういう主人公好きじゃん」
「それは昨日も聞いた」
「じゃあ何で聞いた?」
「もう少し具体的に」
「注文多いな」
「いいから」
春樹は卵焼きを一口食べ、少し考える。
「雫って、誰かに助けてもらって全部解決する話より、自分でちゃんと立とうとする主人公の方が好きだろ。周りの人が支えてくれるのは好きだけど、最後の一歩は本人が進むやつ」
雫は黙って聞く。
「あと、最初から何でもできる子より、苦手なものとか嫌いなところがあって、それでも頑張る子の方が好き。恋愛も相手が王子様みたいに全部解決するより、一緒に進む方が好きだろ?」
「……うん」
「だから選んだ」
「そっか」
雫は本へ視線を落とした。
口元が少し緩む。
春樹はそれに気づかず、自分の弁当へ戻る。
「白石先輩もこの本好きって言ってたぞ」
その一言で、雫の指先が止まった。
「……そうなんだ」
「うん。今度三人で話せるじゃん。先輩、多分お前とは違うところ見てると思う。あの人、台詞そのものより――」
「春樹」
「ん?」
「今は私の感想でしょ」
春樹が瞬きをした。
「あ、悪い」
「白石先輩の話はあとで聞くから」
「そうだな」
「今はこっち」
雫は本の表紙を指先で軽く叩いた。
「ほら、まだあるから」
「おう。聞く」
春樹は素直に向き直る。
その瞬間、雫の肩からわずかに力が抜けた。
本人は気づいていない。
少し離れたところで、紗弥がその様子を見ていた。
「赤木?」
悠斗に呼ばれ、紗弥は視線を戻す。
「何?」
「いや、そっち行かないのかなって」
「ああ……」
紗弥は春樹と雫を見る。
雫が本を開き、春樹へ何か説明している。
春樹は箸を止めて聞いていた。
「今日はいいかな」
「いいの?」
「うん」
紗弥は少しだけ笑う。
「なんとなく」
悠斗はその意味を知らない。
そして春樹も、もちろん知らなかった。
◇◇◇
弁当を食べ終えた春樹が時計を見る。
「よし。図書室行ってくる」
椅子を戻そうとした雫が、春樹より先に机の上の空になった弁当箱を掴んだ。
「これ片づけてから」
「今やるよ」
「ハンカチ落ちてる」
「え?」
春樹が足元を見る。
本当に落ちていた。
「危な」
「ほら」
「ありがと」
春樹が拾い上げる。
雫は春樹の机の横に立ったまま、時計を見た。
「今日は何分?」
「図書室にいられる時間?」
「そう」
「二十分ちょい」
「白石先輩と感想話すんでしょ?」
「最終編」
「また時間なくなるんじゃない?」
「今日は秘密兵器がある」
「何?」
「タイマー」
雫が吹き出した。
「本当に使うの?」
「白石先輩と相談した」
「二人とも止まらないのね」
「本の話してると時間消えるんだよ」
「……ふうん」
雫は春樹の制服の袖を指先で摘まんだ。
「ん?」
「何?」
「いや、お前が掴んだんだろ」
「……糸」
「糸?」
「ほつれてた」
雫は袖口から出ていた細い糸を摘まんで切る。
「はい」
「ありがと」
「どういたしまして」
春樹はまったく疑わない。
雫は手を離した。
「じゃあ行ってくる」
「うん」
春樹が教室を出る。
その背中を見送ってから、雫は自分の指先を見る。
袖を掴む必要などなかった。
糸なら、声をかけるだけでもよかった。
(……何してるんだろ、私)
ほんの少しだけ眉を寄せる。
けれど、答えを考える前に紗弥が戻ってきた。
「感想会、終わった?」
「うん」
「満足?」
「……何よ、その聞き方」
「別に?」
「紗弥までそれ言うの?」
雫が笑う。
紗弥も笑った。
それ以上は何も言わなかった。
◇◇◇
図書室へ着くと、春樹は扉を開けるなりカウンターへ向かった。
栞が顔を上げる。
春樹を見ると、少しだけ表情が明るくなった。
「七瀬君」
「白石先輩」
「読み終わりました?」
「終わりました」
春樹は本を持ち上げる。
「全部」
「どうでした?」
「話したいことが多すぎます」
「やっぱり」
「なので今日は秘密兵器があります」
春樹がスマートフォンを出した。
栞が少し驚く。
「スマートフォン?」
「タイマー」
「あ……」
「十五分」
栞が笑った。
「本当に使うんですね」
「昨日の反省です」
「でも十五分で足ります?」
「足りません」
「最初から分かってるんですね」
「だから重要なところだけ!」
春樹はカウンター横の時計も確認する。
「始めますよ」
「はい」
タイマーを開始した。
「まず最終編なんですけど、一編目の最初に出てきたあの台詞――」
そこから春樹は止まらなかった。
そして栞も、止まらなかった。
最終編で明かされた人物同士の繋がり。
最初は偶然に見えた場面。
二編目で描かれていた沈黙。
三編目の主人公が見ていた景色。
五編目にあった何気ない一文。
それらが最後に少しずつ意味を変えていく。
「俺、最初は一編目の主人公って、相手の気持ち全然分かってないと思ってたんですよ」
「はい」
「でも最後まで読むと、分かってなかったんじゃなくて、分かるのが怖かったんじゃないですか?」
栞が少し目を見開く。
「私も、そう思いました」
「やっぱり!」
春樹の声が大きくなり、近くの生徒がこちらを見る。
「……すみません」
すぐに声を落とす。
栞が口元を押さえて笑った。
「それで」
春樹も少し笑って続ける。
「気づいてないふりしてたんですよね。相手が自分を好きかもしれないって認めたら、自分もどう思ってるか考えなきゃいけなくなるから」
「はい。だから、あの人はずっと『分からない』って言っていたんだと思います」
「でも読者には分かる」
「分かりますね」
「こういうの好きなんですよ、俺」
「知ってます」
「またそれ」
「違いました?」
「いや、合ってます」
春樹は笑った。
「やっぱ白石先輩、俺の好み分かってきましたね」
「七瀬君も、私がどこを好きだったか分かります?」
「たぶん」
「どこですか?」
「最後の告白じゃなくて、その前の駅のベンチ」
栞が止まった。
「……どうして分かったんですか?」
「白石先輩、はっきり言葉にする場面より、その前の言えない時間の方が好きでしょう?」
栞の指先が、カウンターの端へ触れたまま動かなくなる。
春樹は何でもないことのように続けた。
「前も台詞より沈黙の方を見てたから。多分あそこ好きだろうなって」
「……はい」
栞が少しだけ俯く。
「好きです」
「やっぱり」
春樹は嬉しそうに笑った。
栞は顔を上げる。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に小さな熱が残った。
(七瀬君も、私のことを知ってきてる)
以前、彼と話したことを思い出す。
これからもっと、知っていることが増えるかもしれない。
たった一冊の本。
その感想を何度も話しただけ。
それでも、自分がどんな場面を好むのかを春樹は覚えている。
「白石先輩?」
「え?」
「どうしました?」
「……何でもないです」
「最近みんなそれ言う!」
春樹が思わず声を上げかけ、慌てて抑えた。
栞が笑う。
「すみません」
「ほら、今度は謝った」
「あ……」
「俺、先輩の癖だいぶ分かってきたな」
「そうですね」
栞は今度こそ素直に笑った。
そのとき、春樹のスマートフォンが震える。
二人とも画面を見る。
「……十五分」
「早いですね」
「嘘だろ」
「タイマーは嘘つかないと思います」
「まだ半分も話してない」
「重要なところだけじゃなかったんですか?」
「全部重要だった」
栞が吹き出した。
「七瀬君らしいです」
「じゃあ残りは放課後」
「はい」
春樹は本をカウンターへ置く。
「これ、返します」
「分かりました」
「新海に貸すって言ったけど、図書館の本だから一回返却処理必要ですよね?」
「はい。新海さんが来たら借りられます」
「じゃあ伝えときます」
栞が返却処理をする。
春樹はその本を少しだけ見た。
数日前までなら、図書館から借りた一冊は、自分が読んで返して終わりだった。
けれど今回は違う。
この本をきっかけに栞と話すようになった。
そして今度は真実が読む。
(本一冊で結構広がるもんだな)
不思議だった。
読書は一人でするものだと思っていた。
もちろん、それは今も間違っていない。
一人で静かに読む時間が好きだ。
けれど、読み終えたあとに誰かと話すことも、思っていた以上に楽しい。
「じゃあ戻ります」
「はい」
「放課後、残り」
「待ってます」
「今度は時間制限なしで」
「本、読めなくなりますよ?」
「……三十分まで」
栞が笑った。
「分かりました」
◇◇◇
教室へ戻ると、予鈴まで四分あった。
「勝った」
春樹が呟く。
「何に?」
雫が尋ねる。
「時間」
「意味分からない」
「ちゃんと戻ってきただろ」
「タイマー効果あった?」
「あった。でも全然話し足りない」
「……そう」
「放課後続き」
雫は持っていたペンを机へ置いた。
「また行くの?」
「行くけど」
「今日二回目じゃない」
「本の感想に回数制限ないだろ」
「別に止めてないわよ」
雫はそう言ったあと、春樹の机の上へ自分の本を置いた。
「何?」
「これ」
「朝から見てるけど」
「春樹も読んで」
「俺が勧めた本だから読んでるぞ?」
「もう一回」
「再読!?」
「私の感想聞いたんだから、今度は春樹が読み返して、ちゃんと話してよ」
「いや、内容覚えてるけど」
「細かいところ忘れてるかもしれないでしょ」
「まあ……確かに好きな本だし、読み返してもいいけど」
「じゃあ決まり」
雫は本を春樹の机へ滑らせた。
春樹は表紙を見る。
「返却期限大丈夫?」
「まだ余裕ある」
「じゃあ今日持って帰る」
「うん」
雫はそれだけ言うと、少しだけ機嫌よく自分の席へ戻った。
春樹は何も疑わない。
(白石先輩と話す本もあるし、新刊も読みたいし、これも再読……)
読む本が増えた。
普通なら喜ぶところだ。
だが時間には限りがある。
「……俺の読書予定、また増えてない?」
「いいじゃない。本なんだから」
雫が言う。
「それはそう」
春樹はあっさり納得した。
雫の口元が、ほんの少しだけ上がった。
そのとき。
「七瀬先輩」
教室の入口から声がした。
真実だった。
「お、新海」
春樹が振り返る。
「ちょうどよかった」
「何がですか?」
「読み終わった」
真実の表情が明るくなる。
「あの本?」
「うん。今返してきたから借りられるぞ」
「本当ですか?」
「昼休みはもう時間ないから、放課後にでも図書室行けば」
「分かりました」
「ただし」
「はい?」
春樹は少し真面目な顔になる。
「読み終わるまで俺の前で内容の質問しないで」
「普通、逆じゃないですか?」
「聞かれたら喋りたくなるから」
「自制してくださいよ」
「無理」
真実が笑う。
「じゃあ感想も、読み終わってから?」
「途中でもいいけど、俺が先の話しそうになったら止めて」
「難易度高くないですか?」
「頑張れ」
「私が頑張るんですか?」
「俺も頑張る」
「信用できない……」
雫が横から言う。
「真実ちゃん、ネタバレ嫌なら春樹には『面白い』だけ言う方がいいわよ」
「経験者ですか?」
「何回も被害に遭ってる」
「事故だよ!」
「事故が多すぎるのよ」
真実が笑う。
「分かりました。気をつけます」
「そこ納得するの!?」
予鈴が鳴る。
真実は慌てて時計を見る。
「戻らないと」
「放課後、図書室な」
「はい」
真実が教室を出ていこうとする。
その直前。
「真実ちゃん」
雫が呼び止めた。
「はい?」
「その本、読み終わったら私にも感想聞かせて」
真実が少し驚く。
「西条先輩も読んだんですか?」
「まだ。でも春樹があれだけ面白いって言うなら、そのうち読もうかなって」
「お前、読むの?」
春樹が反応する。
「何よ。駄目?」
「いや、全然。むしろ読めよ。そしたらまた話せるじゃん」
「……そうね」
雫は春樹を見る。
その返事を聞いてから、真実へ戻る。
「だから、先に読んだら教えて」
「はい」
真実は素直に頷いた。
「じゃあ、また放課後」
「おう」
真実が教室を出る。
春樹はその背中を見送ったあと、雫を見る。
「お前、読む本増えてるじゃん」
「春樹に言われたくない」
「俺はいいんだよ。本読むの趣味だから」
「私だって読むわよ」
「知ってるけど」
「だったらいいでしょ」
「何でちょっと張り合ってんの?」
「張り合ってない」
「そう?」
「そう」
雫は教科書を開いた。
春樹は首を傾げたが、すぐに午後の授業へ意識を切り替える。
机の中には、雫から渡された放送部の小説が増えていた。
◇◇◇
放課後。
春樹は教室を出る前に、一度だけ悠斗を見る。
悠斗は紗弥と話していた。
「じゃあ、あの監督の別のやつも面白いよ」
「マジ?」
「うん。ちょっと古いけど」
「配信ある?」
「たぶん」
自然な会話だった。
春樹は声をかけなかった。
(大丈夫そうだな)
昨日の相談に対して、自分ができることはもうない。
悠斗は自分から話している。
紗弥も楽しそうだ。
それ以上は二人の時間だ。
春樹が鞄を肩へ掛ける。
その中には、自分の本だけでなく、雫から渡された一冊も入っている。
「春樹」
「ん?」
雫が自分の席から呼ぶ。
「図書室?」
「うん」
「真実ちゃんも来るんでしょ?」
「多分。あの本借りるって言ってたし」
「白石先輩とも感想の続き?」
「その予定」
「……そう」
雫は少しだけ考えるように黙った。
春樹が首を傾げる。
「どうした?」
「私も行こうかな」
「図書室?」
「うん」
「いいけど、部活は?」
「今日はない」
「帰るって言ってなかった?」
「気が変わった」
雫は鞄を肩へ掛ける。
「借りたい本もあるし」
「さっき俺に一冊渡したばっかりなのに?」
「読む本なくなったから」
「じゃあ行く?」
「うん」
春樹にとって、それ以上の意味はなかった。
二人で教室を出る。
廊下を並んで歩きながら、春樹は鞄の肩紐を直した。
「何借りる?」
「まだ決めてない」
「じゃあまた選ぶ?」
「……春樹が?」
「俺以外誰がいるんだよ」
「白石先輩もいるじゃない」
「ああ。先輩にも聞けば候補増えるな」
「…………」
「雫?」
「やっぱ春樹が選んで」
「何で?」
「春樹が私の好み分かるって言ったから」
「分かるけど」
「じゃあ選べるでしょ」
「いいけどさ」
「三冊まで」
「新海と同じルール!?」
「いっぱい出されても困るから」
「分かったよ」
春樹は笑う。
「じゃあ今日も選書会だな」
「……うん」
雫はその横を歩く。
ほんの少しだけ、春樹との距離が近い。
制服の袖同士が、歩調によって何度か軽く触れた。
春樹は気にしない。
雫も離れなかった。
◇◇◇
階段を下りる途中。
「七瀬君」
前から声がした。
黒いポニーテール。
凛だった。
「九条さん」
春樹が手を上げる。
「また図書室?」
「何で分かった?」
「そっちへ行くときのあなた、いつも少し歩くの速いから」
春樹が止まる。
「……そんな特徴まで覚えられてるの?」
「何度か見れば分かるわよ」
「俺、最近いろんな人に行動読まれてない?」
「普段が分かりやすいのよ」
「今日それ何回言われるんだよ……」
凛が少し笑う。
その隣で、雫が春樹を見る。
凛が春樹の行動を覚えている。
以前なら気にも留めなかったはずの一言が、今日は妙に耳へ残った。
雫は何も言わず、春樹の鞄の肩紐を軽く引いた。
「ん?」
「廊下の真ん中で止まってる」
「あ、悪い」
春樹が端へ寄る。
雫も一緒に動く。
「西条さんも図書室?」
凛が尋ねた。
「うん。借りたい本があるから」
「そう」
「九条さんは部活?」
「ええ」
「頑張って」
「ありがとう」
自然な会話だった。
春樹はふと思い出す。
「そうだ、九条さん」
「何?」
「桐谷先生に今日、変なこと言われた」
「変なこと?」
「最近俺の生活がラブコメみたいだって」
「…………」
凛の表情が止まった。
雫も止まった。
「俺も意味分かんないだろ?」
「……そうね」
凛が答える。
「だよな!」
春樹は心強い味方を得たように頷く。
「俺は本読んでるだけだし」
「ええ」
「恋愛とか面倒だし」
「そう」
「読む方が絶対楽しい」
「……七瀬君」
「何?」
「あなた、そういう話、あまり女の子の前でしない方がいいんじゃない?」
「なんで?」
「なんでも」
「九条さんまで!?」
凛はそれ以上答えず、春樹の横を通り過ぎた。
「じゃあ、部活あるから」
「お、おう。頑張って」
「ありがとう」
数歩進んだところで、凛が振り返る。
「あと」
「ん?」
「今日も歩きながら読んでないわね」
「当たり前だろ。約束したし」
「そう」
凛は少しだけ表情を柔らかくした。
「ならいいわ。またね」
「また」
春樹も自然に返す。
凛が去っていく。
「……何で女の子の前で言わない方がいいんだ?」
春樹が首を傾げた。
その瞬間。
ぐい。
鞄の肩紐が後ろへ引かれた。
「何!?」
「行くわよ」
雫だった。
「まだ俺、九条さんの言った意味考えてたんだけど」
「考えても分からないでしょ」
「なんで断言するんだよ」
「春樹だから」
「理由になってない!」
「ほら」
雫は先に階段を下りる。
春樹も追いかけた。
「雫、今日ちょっと急いでない?」
「別に」
「またそれ!」
「図書室行くんでしょ?」
「行くけど」
「だったら早く」
「俺より図書室行きたがってない?」
「春樹が遅いだけ」
「理不尽だなぁ」
春樹は笑いながら隣へ並ぶ。
雫は何も言わなかった。
ただ、歩く速度をほんの少しだけ落とし、春樹が隣へ来るのを待った。
◇◇◇
図書室の扉を開ける。
午後の柔らかな光が、長机と本棚の間へ斜めに差し込んでいた。
カウンターには栞がいる。
少し離れた棚の前には、すでに真実がいた。
「あ、七瀬先輩」
「早いな、新海」
「本、探してました」
「例のやつ?」
「はい」
真実が連作短編集を持ち上げる。
つい数時間前まで春樹が持っていた本だった。
「見つけた」
「借ります」
「おう」
春樹は嬉しそうに笑った。
「面白かったら教えて」
「面白くなくても言っていいですか?」
「もちろん」
真実が少し意外そうに瞬く。
「そこはいいんですね」
「当たり前だろ。本の感想なんて人それぞれなんだから。俺が好きだからって、新海も好きじゃなきゃいけない理由ないし」
「……そういうところ」
「何?」
「いえ」
「何だよ」
真実は小さく笑う。
「七瀬先輩らしいなって思っただけです」
「今日三人目!」
「何がですか?」
「それ言った人!」
栞がカウンターから小さく笑う。
「誰ですか?」
「桐谷先生と白石先輩」
「私も?」
「昼に言ったでしょう」
「あ……言いましたね」
「俺らしいって何なんだよ。本人が一番分かってないんだけど」
「そういうところもじゃないですか?」
真実が言う。
「雑!」
春樹が抗議する。
その横で雫は、真実の手にある本を見たあと、春樹の鞄へ目を移した。
そこには、自分が渡した放送部の小説が入っている。
「春樹」
「ん?」
「私の本」
「入ってるぞ」
「見せて」
「何で?」
「ちゃんと持ってきたか確認」
「今教室で渡されたのに忘れるわけないだろ!」
「いいから」
春樹は不思議そうにしながら鞄を開き、本を取り出す。
「ほら」
「……うん」
雫は表紙を見て、すぐに頷いた。
「何の確認だったんだよ」
「別に」
「今日何回目!?」
真実が笑う。
栞も静かに口元を緩めた。
雫は春樹から本を受け取るのではなく、逆にその本を春樹の胸元へ押し戻す。
「ちゃんと読んでね」
「分かってるって」
「感想も」
「聞かせる」
「忘れないで」
「本の約束は忘れないって」
その答えを聞いて、雫はようやく春樹から半歩離れた。
「西条先輩も何か借りるんですか?」
真実が尋ねる。
「うん」
「何読むんです?」
「まだ決めてない」
「春樹に選ばせるんだって」
春樹が答える。
「また七瀬先輩が?」
「またって何だよ」
「最近、本屋さんみたいになってきましたね」
「無料選書サービスです」
「じゃあ私もまたお願いします」
「いいぞ」
「春樹」
「ん?」
雫が即座に呼ぶ。
「先に私」
「分かってるよ。今日頼まれたのは雫が先だろ」
「……ならいい」
春樹は本棚へ向かう。
「三冊までだろ?」
「うん」
「ちょっと待って。土曜のが成長系だったから、今日は違う感じにするか」
背表紙を眺めながら歩いていく。
雫はすぐにその後ろを追い、やがて春樹の隣へ並んだ。真実は借りる本が決まっているため少し離れた場所に残り、栞もカウンターから二人の様子を見守っている。
「これ、どう?」
春樹が最初に抜いたのは、淡い青色の表紙をした一冊だった。
「日常系?」
「うん。高校の写真部が舞台。大事件とかは起きないけど、人間関係が丁寧なんだよ。写真を撮る理由が登場人物ごとに違ってて、最初は全然まとまってない部員が少しずつ仲良くなっていく」
「恋愛は?」
「少しある。でも主軸じゃないな。友情七、恋愛三くらい」
「細かいわね」
「本を勧めるんだから、そのくらい説明するだろ」
「春樹ならするわね」
「どういう意味だよ」
雫は答えず、受け取った本の裏表紙へ目を落とした。
春樹はその間に次の棚へ移る。
「じゃあ二冊目は……これかな」
「今度は?」
「姉妹もの。家族関係が中心」
差し出された本は、一冊目より少し厚い。
「ちょっと重い話だけど、最後は明るい。姉と妹のどっちかが一方的に悪いとかじゃなくて、お互い言わなかったことが積み重なって距離ができてる感じ」
「春樹は好き?」
「好きだよ」
「じゃあ候補」
「俺が好きかどうかで決めるなよ。読むのお前なんだから」
「分かってるわよ」
「本当に?」
「春樹が好きな理由も聞いてから決めたいだけ」
そう言われ、春樹が少し考える。
「俺が好きなのは、仲直りの仕方かな。全部言葉で説明して『はい解決』じゃないんだよ。話してもすぐ昔みたいには戻らなくて、でも翌朝に姉が妹の分まで朝飯作ってたり、妹が何も言わずに洗い物してたりする」
「へえ」
「関係って、一回壊れたら会話一つで完全修復するわけじゃないだろ。だから、ああいう少しずつ戻っていく描き方は好き」
「……そういうところ見るのね」
「雫も好きそうだけど」
「多分ね」
二冊目も雫の手へ渡る。
「最後は……」
春樹は少し離れた恋愛小説の棚へ移った。
数冊の背表紙を確認し、そのうち一冊を抜き取る。
「あ、これ」
「どんな話?」
「恋愛多め。幼なじみ二人が――」
「それはやめる」
「早っ!」
説明を始めて数秒だった。
「まだ幼なじみとしか言ってないぞ!?」
「今、幼なじみもの読む気分じゃない」
「何で?」
「気分じゃないから」
「じゃあ別の探す?」
「二冊から選ぶ」
「三冊までって言ったのお前じゃん」
「三冊絶対とは言ってないでしょ。上限」
「そうだけど……」
春樹は幼なじみものを棚へ戻した。
雫は一冊目と二冊目を両手に持ち、交互に表紙を見る。
少し迷った末、一冊目の写真部を題材にした小説を春樹へ見せた。
「こっちにする」
「やっぱり」
「分かってた?」
「多分そっちかなって思ってた。今のお前なら」
「今の私?」
「土曜に頑張る主人公の話を読んだばっかりだろ? だから次はもう少しゆっくりした話を選びそうだなって。これも成長はするけど、もっと日常寄りだし」
雫は手元の表紙へ視線を落とした。
「……ふうん」
「何?」
「何でもない」
「もう慣れてきたぞ、その返事」
「慣れないでよ」
「じゃあ言うなよ!」
雫が小さく笑った。
選ばなかった姉妹ものを春樹へ返し、写真部の小説を胸元へ抱える。
土曜日にも春樹は自分のために本を選んだ。
今日もそうだった。
どんな主人公が好きか。
どんな関係を好むか。
今ならどちらを選びそうか。
春樹はそれを特別なことだとは思っていない。
幼いころから一緒にいたのだから、知っていて当然だと思っている。
雫自身も、これまでは同じように考えていた。
けれど今日は、その「知っている」が妙に心地よかった。
「行くぞ」
「うん」
二人でカウンターへ戻る途中、真実の横を通る。
「真実ちゃん」
「はい?」
「その本、読み終わったら本当に感想聞かせてね」
「もちろんです」
「私も読むから」
真実が少し驚いたように本を見る。
「西条先輩も?」
「うん」
「じゃあ三人で話せますね」
「……三人?」
真実が春樹を見る。
「七瀬先輩も入れて三人です」
「ああ」
雫は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「そうね」
「私も読んでます」
カウンターにいた栞が穏やかに言った。
雫の足が止まる。
「白石先輩も?」
「はい。その本、好きです」
「じゃあ四人だな」
春樹が嬉しそうに言う。
「新海が読み終わったら四人で感想会できるじゃん。絶対それぞれ見るところ違うぞ」
「……増えたわね」
「いいじゃん。感想なんて違う方が面白いんだから」
「そうね」
雫はそう答え、カウンターへ本を差し出した。
栞が貸出処理を進める。
その間、春樹は隣で返却棚を眺めていた。
「あ、これ新しく入ったんだ」
「七瀬君」
「はい?」
「借ります?」
「いや、今日はやめときます。雫から再読する本渡されたし、昨日買った新刊もあるし」
雫の視線がすぐ春樹へ向く。
「ちゃんと覚えてるじゃない」
「何で忘れてる前提なんだよ」
「確認」
「信用ないなぁ」
「日頃の行い」
「それ今日先生にも言われた!」
真実が笑う。
「七瀬先輩、いろんな人に同じこと言われてません?」
「最近みんな俺への扱い雑じゃない?」
「自業自得じゃないですか?」
「後輩まで!」
栞も笑いながら貸出処理を終えた。
「西条さん、どうぞ」
「ありがとうございます」
雫は本を受け取る。
だが、そのまま帰ろうとはしなかった。
春樹の隣へ戻り、長机の方を見る。
「帰らないの?」
「少し読んでく」
「ここで?」
「うん」
「じゃあ俺も――」
「七瀬君」
栞が呼んだ。
春樹が振り返る。
「感想の続きは?」
「あ」
完全に忘れていたわけではない。
ただ、本棚を見たことで新しい本へ意識が引っ張られていた。
「そうだった。最終編の続き!」
「三十分まで、ですよね?」
「覚えてたんですか」
「本の約束は忘れないんでしょう?」
「俺の台詞取られた」
栞が少し楽しそうに笑う。
そのやり取りを、雫は隣で聞いていた。
栞と春樹の間に、自分の知らない会話がある。
いつからか「本の約束」という言葉まで、二人の間で自然に通じるようになっている。
それ自体が嫌なわけではない。
栞を嫌っているわけでもない。
土曜日に話したときも、静かで話しやすい先輩だと思った。
それなのに。
雫は借りたばかりの本を開かなかった。
「春樹」
「何?」
「私も聞いてていい?」
「感想?」
「うん」
「でもお前、その短編集まだ読んでないだろ」
「だから全部は聞かない」
「最終編の話だから、ほぼ全部ネタバレになるぞ」
「じゃあ最初の方だけ」
「最初の方?」
「春樹がそんなに面白いって言ってる理由くらい聞きたい」
「それなら説明できるけど……」
春樹が少し考える。
「でも読もうと思ってるなら、何も知らない状態で読んだ方がよくない?」
「ネタバレしない範囲ならいい」
「難しい注文だな」
「春樹ならできるでしょ」
「俺への信頼が変な方向に高い!」
「できないの?」
「できる」
「できるんじゃない」
「今の誘導ずるくない!?」
真実が堪えきれずに笑った。
「西条先輩、七瀬先輩の扱い上手ですね」
「長いから」
「何が?」
「付き合い」
雫はごく自然に答えた。
その言葉に春樹も何の反応も示さない。
「まあ、腐れ縁だよな」
「誰が腐ってるのよ」
「そこに食いつく?」
「言い方の問題」
「じゃあ長い縁」
「最初からそう言いなさい」
いつものやり取りだった。
真実が少し笑う。
栞も二人を見て、穏やかに目を細めた。
雫は長机の椅子を引いた。
春樹が座ろうとしていた席のすぐ隣だった。
「そこ座るの?」
「駄目?」
「いや、全然」
春樹は気にせず腰を下ろす。
雫も隣へ座り、借りた本を机へ置いた。
向かい側には真実が座る。
栞は図書委員の仕事があるためカウンターから完全には離れられないが、利用者が途切れたところで会話へ加わる形になった。
「じゃあ」
春樹が声を少し落とす。
「ネタバレなしで説明すると、この短編集は一見それぞれ別の話なんだよ。でも読んでいくと、前の話に出てきた人物が次の話では脇役になったり、全然関係なさそうな場所が実は同じだったりする」
「へえ」
雫が頷く。
「ただ、それだけなら連作短編ではよくあるだろ?」
「私はそんなに読んだことないから知らない」
「あ、そうか。じゃあ……一冊の中に六つの窓があると思って」
「窓?」
「同じ町を別々の窓から見てる感じ。それぞれ見える景色が違うんだけど、最後まで読むと『あ、この窓とこの窓、実は同じ場所を見てたんだ』って分かる」
雫の表情が少し変わる。
「それは面白そう」
「だろ?」
春樹が嬉しそうに身を乗り出した。
「しかも作者が露骨に『ここ繋がってますよ』ってやらないんだよ。何気ない台詞とか、駅のベンチとか、店の名前とかで――」
「七瀬先輩」
真実が止める。
「何?」
「もうネタバレ始まりそうです」
「まだ大丈夫!」
「信用できません」
「新海、お前これから読むんだった!」
「だから止めたんです!」
「危なっ!」
春樹が口元を押さえる。
雫が呆れたように笑った。
「やっぱり春樹に感想言うとき気をつけないと駄目ね」
「事故だから」
「事故を起こす人はみんなそう言うのよ」
「そんな犯罪者みたいな扱いする!?」
少し離れた席にいた生徒がこちらを見る。
春樹は慌てて声を落とした。
「……図書室だった」
「今さら?」
雫が囁く。
「最近ここで喋ること増えたから感覚狂ってきた」
その言葉に、栞がカウンターから春樹を見る。
「前は、本当にほとんど話しませんでしたよね」
「図書室って読む場所だと思ってたので」
「今は?」
「読む場所ですよ」
春樹は当然のように答えたあと、少し考えた。
「……あと、本の話する場所にもなったかも」
栞の表情が柔らかくなる。
「そうですね」
「白石先輩と話すようになってからですけど」
「……はい」
雫の指が、机の上に置いた本の角を一度だけなぞった。
「春樹」
「ん?」
「その短編集、次に借りる」
「え?」
真実が手元の本を見る。
「私、今から借りるんですけど」
「真実ちゃんの次」
「お前、本当に読むの?」
「読むってさっきから言ってるでしょ」
「いや、そこまで急ぐとは思ってなかった」
「急いでない」
「じゃあ別に予約しなくても」
「忘れたら嫌だから」
「図書館の予約表あるぞ?」
「そういう意味じゃない」
「え?」
「何でもない」
「また!」
雫は真実を見る。
「読み終わったら教えてね」
「はい。でも私、読むのそんなに速くないですよ?」
「大丈夫。待つから」
「分かりました」
真実が笑う。
春樹も満足そうに頷いた。
「いいな。これで雫も読んだら四人で話せる」
「四人……」
「俺、新海、雫、白石先輩」
「分かってる」
「絶対面白いぞ。白石先輩と俺でも見てるところ結構違ったし、新海は普段あんまりこういうの読まないから、また別の感想出そうだし。雫も多分――」
「春樹」
「何?」
「楽しそうね」
「そりゃ楽しいだろ」
即答だった。
春樹は少しも迷わない。
「同じ本読んでも全員同じ感想になるわけないじゃん。俺、自分じゃ気づかなかったところ言われるの好きなんだよ。『そこ見るのか』ってなるし、読み返したくなる」
「……そっか」
「だから雫も読めよ。お前の感想も聞きたい」
雫は春樹を見る。
春樹は何でもないことのように笑っている。
「うん」
今度の返事は、少しだけ素直だった。
「読む」
「おう」
春樹はすぐ栞へ向き直る。
「じゃあ白石先輩、今度こそ続き――」
「待って」
雫が袖を摘まんだ。
「今度は何?」
「私、本読むから」
「うん」
「春樹も隣で話すんでしょ?」
「白石先輩と?」
「そう」
「まあ」
「大きい声出さないでよ。集中できないから」
「それは俺じゃなくて感想の内容次第――」
「出さないで」
「はい」
春樹が素直に頷く。
雫はようやく袖から指を離し、本を開いた。
だが一ページ目へ目を落とすまで、ほんの数秒かかった。
自分でも、少しおかしいとは思っている。
栞と春樹が話すことを止めたいわけではない。
真実が春樹の勧めた本を読むことも、嫌ではない。
凛と春樹が廊下で話すことだって、本来ならどうでもいいはずだった。
それでも今日は、春樹が誰かの方へ向かうたびに、自分もそこへ行きたくなった。
春樹が栞と本の話をするなら、自分も聞いてみたい。
真実が春樹の好きな本を読むなら、自分も読みたい。
春樹が自分へ選んだ本なら、感想を最後まで聞いてほしい。
そして春樹には、自分が好きなものを覚えていてほしい。
(……何なのよ、これ)
雫はページへ視線を落とした。
答えは出さない。
出したくない、というところまでさえ考えていない。
ただ、いつもなら春樹が本へ向けているはずの時間に、最近は少しずつ別の誰かが入っている。
そのことを意識すると、なぜか自分までそこへ入りたくなる。
「白石先輩」
隣で春樹が小声で話し始める。
「さっきの駅のベンチのところなんですけど」
「はい」
「俺、もう一個気づいたんですよ」
「何ですか?」
「一編目だと――」
春樹の声が続く。
雫は本を読んでいる。
読むつもりだった。
けれど、数行進むたびに隣から聞こえる声へ意識が引かれた。
春樹が楽しそうに話している。
栞も楽しそうに返している。
「……雫?」
突然呼ばれ、雫が顔を上げた。
「何?」
「ページ、さっきからそこじゃない?」
「読んでるわよ」
「五分くらい同じページだけど」
「じっくり読んでるの」
「一ページを?」
「悪い?」
「いや、悪くないけど」
春樹は首を傾げる。
「集中できないなら席変える?」
「いい」
雫は即答した。
「ここで読む」
「そう?」
「うん」
「ならいいけど」
春樹はまた栞との話へ戻る。
雫は本へ視線を落とした。
席を変えれば静かになる。
それは分かっている。
なのに、動く気にはならなかった。
◇◇◇
三十分後。
「……終わった」
春樹が机へ突っ伏した。
「何が?」
雫が尋ねる。
「感想会」
「疲れるものなの?」
「喋りすぎた」
「自業自得」
「でも満足」
春樹が顔を上げる。
栞もカウンターへ戻りながら、小さく笑っていた。
「七瀬君、途中から全然時間見てませんでしたね」
「三十分って意外と長いですね」
「二十三分で長いって言ってた人が何言ってるんですか」
「楽しい時間は体感速度が違うんですよ」
「それは分かります」
栞が答える。
春樹は嬉しそうに頷いた。
雫はそのやり取りを聞きながら本を閉じる。
「帰る?」
春樹が尋ねる。
「うん」
「どこまで読んだ?」
「三十ページくらい」
「さっき五分一ページだったのに後半速くない?」
「うるさい」
「何で怒るんだよ」
雫が立ち上がる。
真実も少し離れた席から顔を上げた。
「あ、西条先輩たち帰るんですか?」
「うん。真実ちゃんは?」
「もう少し読んでいきます」
真実の手には、連作短編集がある。
「もう読んでるの?」
春樹が反応した。
「少しだけ」
「どう?」
「言いません」
「何で!?」
「七瀬先輩が先の話しそうになるから」
「まだ一編目なら大丈夫だって!」
「さっき事故起こしかけましたよね?」
「……確かに」
「だから読み終わるまで秘密です」
「気になる!」
「我慢してください」
真実が楽しそうに笑う。
春樹は不満そうだが、どこか嬉しそうでもある。
「じゃあ読み終わったら絶対教えろよ」
「はい」
「途中で合わないと思ったら、それも言って」
「分かりました」
「無理して最後まで読まなくても――」
「七瀬先輩」
「何?」
「分かってます」
「……俺、言うこと読まれてない?」
「何度か聞いたので」
「新海まで俺の行動パターン覚えてきてる……」
真実が笑った。
雫はその会話を聞きながら、鞄を肩へ掛ける。
そして春樹の制服の袖を二本の指で摘まんだ。
「春樹」
「ん?」
「帰るんでしょ」
「あ、うん」
「なら行くわよ」
「分かったって」
春樹が栞と真実へ手を上げる。
「じゃあまた明日」
「はい」
「また明日」
二人の返事が重なった。
雫は春樹の袖を離した。
そのまま二人で図書室を出る。
◇◇◇
校舎を出ると、夕方にはまだ少し早い空が広がっていた。
六月に入り、日が長くなっている。
グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえ、体育館の方からボールが床を打つ音が響く。春樹と雫は校門へ向かう生徒の流れに混ざり、いつもの道を並んで歩いた。
春樹の手には本がない。
鞄の中には何冊も入っているが、歩きながら読むことはしなくなった。
「今日も読まないのね」
雫が言う。
「歩きながら?」
「うん」
「読まないって。九条さんにも約束したし、普通に危ないって分かったから」
「そっか」
「何?」
「別に」
「今日それ多すぎない?」
「そう?」
「多いよ。俺、もう十回くらい『何でもない』って言われた気がする」
「数えてたの?」
「体感」
「じゃあ正確じゃないじゃない」
「でも多い」
「気のせいよ」
「絶対違う」
春樹が笑う。
雫も少しだけ笑った。
しばらく歩く。
「なあ」
「何?」
「今日の本、面白そう?」
「まだ三十ページだけど、好きかも」
「よかった」
「まだ分からないわよ」
「でも最初の感触は悪くないんだろ?」
「うん」
「じゃあ選書成功率二連勝だな」
「何よ、それ」
「土曜のと今日の」
「勝負だったの?」
「今決めた」
「適当ね」
「三連勝したら何かくれ」
「何で私が?」
「選書料」
「無料選書サービスじゃなかったの?」
「聞いてたの!?」
「隣にいたでしょ」
「そうだった」
雫が呆れたように笑う。
「じゃあ三連勝したら」
「したら?」
「春樹が読みたい本、一冊買ってあげる」
春樹が立ち止まりかけた。
「マジ!?」
「高いのは駄目」
「文庫なら!?」
「一冊だけ」
「よし」
急に真剣な顔になる。
「次、絶対外せない」
「そんなに?」
「本一冊だぞ!?」
「春樹にとっては大きいのね」
「当たり前だろ。しかも自分で買わなくていい本ほど美味しいものはない」
「言い方」
「じゃあ雫が俺のために買ってくれた本」
「……」
雫の歩調が一瞬だけ乱れた。
「何?」
「何でもない」
「十一回目!」
「数えてないでしょ!」
「体感!」
春樹が笑う。
雫も笑った。
けれど数歩進んだあと、雫は春樹より半歩だけ前へ出た。
顔を見られたくなかったわけではない。
少なくとも本人は、そう思っている。
「でもさ」
春樹が後ろから言う。
「今日、珍しかったな」
「何が?」
「雫があんなに図書室いたの」
「そう?」
「普段なら俺が本の話始めたら『長い』って言って帰るじゃん」
「……今日は読みたい本があったから」
「それだけ?」
雫が振り返る。
春樹は本当に不思議そうな顔をしている。
「それだけよ」
「そっか」
あっさり納得した。
雫は前を向く。
数歩歩いてから、口を開いた。
「春樹」
「ん?」
「私が図書室にいたら邪魔?」
「何で?」
「白石先輩と本の話するんでしょ」
「するけど、別に雫がいても困らないぞ」
「……そう」
「むしろお前も読んだ本なら話に入ればいいじゃん。今日みたいに」
「真実ちゃんも?」
「新海も。感想多い方が面白いし」
「九条さんが来ても?」
「九条さん本読むのかな」
「例えば」
「読みたいならいいんじゃない?」
「……そっか」
春樹は少し考える。
「でも雫は昔からいるから、今さら邪魔とか考えたことないけど」
雫の足が止まった。
春樹が二歩進んでから気づく。
「どうした?」
「……春樹」
「ん?」
「それ、どういう意味?」
「どういうって?」
「昔からいるからって」
「そのままだよ」
春樹は当然のように言う。
「お前が隣にいるのって昔から普通じゃん。俺が本読んでても勝手に喋るし、勝手に覗くし、たまに本閉じるし」
「後半悪口じゃない?」
「事実」
「最低」
「でも別に嫌じゃないぞ」
雫が黙る。
春樹は続ける。
「本当に嫌なら昔から言ってるって。俺、読書邪魔されるの嫌いだし」
「それは知ってる」
「だろ? だから雫は別にいい」
何気ない言葉だった。
春樹にとっては、本当にそれだけだ。
幼なじみ。
昔から隣にいる。
読書中でも存在が邪魔にならない。
その程度の意味しか込めていない。
けれど雫は、すぐに歩き出さなかった。
「……何だよ」
「別に」
「十二回目」
「しつこい!」
雫が春樹の腕を軽く叩く。
「痛っ!」
「数えるからよ!」
「体感だって!」
「同じ!」
二人はまた歩き出す。
雫はさっきより少しだけ春樹の近くを歩いていた。
袖が触れる。
肩が近い。
それでも離れない。
春樹も気にしない。
それが二人にとって、昔から普通だったから。
ただし。
今日の雫にとっては、その「普通」が少しだけ違って感じられていた。
栞と話している春樹を見れば、自分もそこへ行きたくなる。
真実が春樹の好きな本を読むと聞けば、自分も読みたくなる。
凛が春樹の歩き方を覚えていると知れば、なぜか春樹の鞄を引いて先へ進みたくなる。
自分へ選んでくれた本の感想は、他の誰かの話をする前に最後まで聞いてほしい。
自分が渡した本は、ちゃんと鞄に入っているか確かめたくなる。
春樹が図書室へ行くなら、自分も行く。
帰るときは、袖を摘まんで連れていく。
どれも大したことではない。
昔からの幼なじみなら、それくらいする。
そう説明しようと思えば、いくらでも説明できた。
だから雫は、まだその行動へ名前をつけなかった。
つける必要もないと思っている。
「そうだ」
春樹が突然言った。
「何?」
「帰ったら雫の本、先に読み返すわ」
「新刊は?」
「夜」
「ウェブ小説は?」
「更新来てたらそのあと」
「宿題」
「…………」
「春樹?」
「明日がある」
「今日やりなさい」
「昨日も似た会話した気がする!」
「昨日ちゃんとやった?」
「やったよ!」
「なら今日もできるでしょ」
「本が増えたんだよ!」
「自分で増やしたんでしょ」
「半分お前のせいだぞ!」
「私が渡したの一冊だけじゃない」
「その一冊が今日の予定に割り込んだんだよ!」
「じゃあ読まなくていい」
「読む!」
即答だった。
雫が春樹を見る。
「読むの?」
「読むよ。約束しただろ」
「……そっか」
「それに、お前がどこ好きだったか聞いたあとに読み返すの面白そうだし」
春樹は前を向いたまま続ける。
「最初に読んだときと違うところ見えるかもしれない」
「うん」
「だから読む」
「……うん」
雫は二度頷いた。
今度は「別に」とは言わなかった。
夕方の道を二人で歩く。
春樹の鞄には、読み終えた本の代わりに別の本が増えている。
図書室では真実が、春樹の読み終えた連作短編集を読み始めている。
栞とは、その本について話し終えたばかりだ。
雫は春樹から選んでもらった二冊目を抱え、さらに同じ短編集を読むつもりでいる。
本を一冊読み終えただけだった。
本来なら、それで終わるはずだった。
返却して、次の一冊へ進む。
春樹にとって読書とは、ずっとそういうものだった。
けれど今は、一冊を読み終えると、その本を次に読む人がいる。
感想を待っている人がいる。
同じ本を読もうとする人がいる。
そして、その輪へ自分から入ってくる人までいる。
「俺さ」
春樹が歩きながら呟く。
「最近、本一冊読むたびに予定増えてない?」
「いいじゃない」
「よくないよ。読む時間が減る」
「でも楽しそうよ」
「……まあ」
春樹は少し考えた。
「楽しいけど」
「ならいいでしょ」
「よくない。本は読みたい」
「結局そこなのね」
「そこは絶対変わらない」
春樹は胸を張る。
「俺は本が読みたいだけなんだから」
「はいはい」
雫が笑う。
「知ってる」
春樹も笑った。
その隣を、雫が歩く。
昔からそうしてきたように。
ただ、今日の雫は何度も自分からその隣を選んでいた。
春樹はまだ、その違いに気づいていなかった。




