第14話 幼なじみの機嫌が悪い理由くらい、分かると思っていた
水曜日の朝。
七瀬春樹が家を出たとき、空には薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうなほど暗くはないものの、昨日までの朝日とは違い、町全体が白っぽい光に包まれている。六月らしく湿気を含んだ空気が肌へまとわりつき、住宅街の植え込みでは紫陽花が少しずつ色づき始めていた。
春樹は鞄を肩へ掛け直し、歩きながら小さく欠伸をする。
「……眠い」
理由は分かっている。
昨夜、雫から渡された放送部の小説を読み返した。
最初は一時間ほどで切り上げるつもりだった。
だが、雫が昼休みに話していた場面を意識して読み直すと、初読では軽く流していた描写が気になった。
主人公が自分の声を嫌っていること。
放送部の先輩との距離。
誰かに救われるのではなく、自分自身で一歩ずつ前へ進んでいく過程。
雫がどこを好きだったのか考えながら読むと、一度目とは違って見えた。
結果。
予定より大幅に遅れた。
そのあと新刊にも少し手を出した。
さらに、寝る直前に確認したウェブ小説がちょうど更新されていた。
読まないという選択肢はなかった。
(いや、最後のは俺が悪いな)
そこは認める。
だが後悔はしていない。
更新された一話は非常によかった。
翼がヒロインへプレゼントを渡そうとして三回失敗し、最終的に本人ではなく飼い犬へ懐かれるという見事な展開だった。
「翼……頑張れよ……」
思い出すだけで笑えてくる。
「朝から何を一人で笑ってるの?」
「うおっ」
真横から声がして、春樹の肩が跳ねた。
いつの間にか雫が隣を歩いている。
「驚かせるなよ」
「普通に声かけたわよ」
「今、翼のことで頭いっぱいだった」
「誰?」
「俺が読んでる恋愛小説の男」
「ああ。あの全然うまくいかない人」
「言い方!」
「違うの?」
「違わないけど! でも翼は頑張ってるんだぞ。昨日なんかプレゼント渡そうとして三回失敗したんだからな」
「やっぱりうまくいってないじゃない」
「そこがいいんだよ!」
春樹の声に熱が入る。
「何でも完璧にできる御曹司がヒロイン相手だと全部空回るんだぞ? 普段は仕事でも人間関係でも先回りできる男が、好きな子一人になると判断力なくなるのがいいんだって」
「春樹、そういうの好きよね」
「好き。めちゃくちゃ好き」
「自分がそうなったら?」
「嫌だ」
「即答」
「読むのとやるのは違うって昨日も桐谷先生に言った」
「そうだったわね」
二人は並んで歩く。
春樹の手に本はない。
以前なら、この道でも器用にページを開いていた。
今では代わりに、通学路の景色が目に入る。
「そういえば」
雫が言う。
「昨日の本」
「読んだ」
「え?」
「最後まで読み返した」
雫が足を止めかける。
「全部?」
「全部」
「新刊は?」
「読んだ」
「宿題は?」
「やった」
「ウェブ小説は?」
「更新されてたから読んだ」
「何時に寝たの?」
「一時半」
「馬鹿なの?」
「全部やったんだから褒めろよ!」
「睡眠削ってる時点で褒められないわよ!」
「でも約束守ったぞ」
「今日じゃなくてもよかったのに」
「昨日『ちゃんと読んでね』って何回も言ったのお前だろ」
「それは……」
雫が口を閉じる。
確かに言った。
何度も確認した。
鞄へ入っているかまで見た。
「で」
春樹は少し楽しそうに雫を見る。
「昨日、お前が言ってたところ意識して読んだら、結構印象変わった」
「本当?」
「うん。俺、一回目は主人公と先輩の関係を中心に見てたんだけど、お前が言ってた『自分の声を好きになるんじゃなくて受け入れる』ってところ意識すると、序盤からちゃんと積んでるんだよ」
雫の表情が明るくなる。
「最初の自己紹介のところとか?」
「そう! あそこ最初読んだときは単純に人前で喋るの苦手なんだと思ってた。でも違うな。人に聞かれることより、自分の声を聞かれるのが嫌なんだ」
「そうなのよ」
「あと中盤の録音」
「分かる!」
今度は雫が食いついた。
「あそこ、一回消そうとするでしょ?」
「でも消さない」
「そう」
「先輩に褒められたからじゃないんだよな。褒められても本人はまだ嫌い。でも残す」
「うん」
二人の会話が自然に熱を帯びていく。
気づけば、いつもの交差点を曲がっていた。
「……なあ」
「何?」
「これ、昨日図書室で俺と白石先輩がやってたのと同じだな」
雫の歩調が一瞬だけ止まりかけた。
「何が?」
「感想会。やっぱ同じ本読んだ人と話すの面白いわ」
「……そうね」
「お前とは昔から本貸し借りしてたけど、こんな細かく感想話すことあんまりなかったよな」
「春樹が一人で喋ることはあったけど」
「それは感想会じゃなくて俺の演説じゃん」
「自覚あるんだ」
「最近できた」
雫が笑う。
「でも、いいな」
春樹が続ける。
「何が?」
「こういうの。雫とも本の話できるなら、貸す本もっと増やせそう」
雫は少しだけ目を見開いた。
「……増やすの?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ今度、家にあるやつから何冊か――」
「何冊かはいらない」
「何で!?」
「春樹の『何冊か』は十冊くらいになりそうだから」
「さすがに五冊」
「多い」
「三冊」
「一冊ずつ」
「厳しい!」
「ちゃんと読んで返すから、それでいいでしょ」
「まあ……それもそうか」
春樹は納得した。
雫は前を向く。
昨日までなら、春樹が誰かと本の話をしていることばかりが気になった。
今朝は違う。
春樹が自分の感想を覚えて、その部分を意識して一冊を読み返してきた。
ただそれだけで、昨日胸の奥に残っていた落ち着かなさが少し薄れている。
雫自身は、その変化の理由まで考えなかった。
◇◇◇
「七瀬」
一時間目が始まる前。
春樹が机で新刊を読んでいると、前の席の男子が振り返った。
昨日、桐谷美月の国語の授業でペアになった男子だ。
「ん?」
「昨日のやつ」
「ああ、本?」
「候補決まった?」
春樹は本へ栞を挟む。
「三冊まで絞った」
「一冊じゃないの?」
「最終選考」
「大げさだな」
「人に本勧めるんだぞ。合わないの渡して『やっぱ本つまんねえ』ってなったら悔しいじゃん」
「そこまで?」
「そこまで」
春樹はノートを取り出した。
昨日聞いた好みが簡単にまとめてある。
「お前、チームで動く話好き。アクション好き。謎解きも好き。でも長文苦手で、会話多い方が読みやすい」
「うん」
「だから一冊目は、五人組の高校生が町の小さい事件を解く連作ミステリー。章短め。二冊目は特殊部隊ものだけど、文章軽い。三冊目は――」
「ちょっと待て」
「何?」
「お前、マジで考えたの?」
「課題だぞ?」
「いや、俺もっと適当にやるもんかと」
「本に関して俺が適当にやると思う?」
「……思わない」
「だろ?」
春樹が得意そうに笑う。
「で、俺としては一冊目がおすすめ。お前が言ってた条件に一番合う」
「じゃあそれにする」
「早いな」
「七瀬がそこまで考えたなら、それでいいかなって」
春樹の動きが少し止まった。
「……ちゃんとあらすじ聞かなくていいの?」
「聞くけど」
「ならよし」
「何でお前が安心してんだよ」
「せっかく読むなら自分で決めてほしいんだよ。俺が選んだってだけで読むんじゃなくて」
「面倒くさい本屋だな」
「本屋じゃねえ!」
近くにいた悠斗が笑った。
「昨日、新海にも本屋みたいって言われてなかった?」
「何で知ってんの?」
「昼に来てたじゃん」
「ああ」
春樹はノートを閉じる。
「最近俺、無料選書サービス扱いされてるんだよ」
「向いてるんじゃない?」
紗弥も会話へ加わる。
「春樹、人に本勧めるの楽しそうだし」
「楽しいけど、俺の読書時間は減る」
「またそれ」
「重要なんだって」
「七瀬先輩」
そのとき、教室の入口から声がした。
春樹が振り返る。
真実が立っていた。
手には一冊の本。
昨日借りた連作短編集だ。
「新海?」
「おはようございます」
「おはよう。どうした?」
「ちょっとだけ」
真実が教室へ入ってくる。
春樹はすぐ本へ目をやった。
「まさか読み終わった?」
「終わってません」
「だよな」
「でも一編目、読みました」
「どうだった?」
春樹の反応が一気に変わった。
椅子ごと真実の方へ向く。
「面白かったです」
「本当?」
「はい」
「どこ?」
「言っていいんですか?」
「一編目ならいい。俺全部読んでるし」
「そうじゃなくて、七瀬先輩が喋り始めそうだから」
「……今日は耐える」
「信用できません」
「昨日から信用がない!」
真実が笑う。
「でも、ちょっと分かりました」
「何が?」
「七瀬先輩が好きそうな理由」
「お」
「派手な話じゃないのに、会話の途中で『この人、本当はこう思ってるのかな』って考えたくなる感じ」
春樹の表情が明るくなる。
「そう! そこ!」
「声」
「悪い」
教室にいた何人かが振り返ったため、春樹が慌てて声を落とす。
「でもそうなんだよ。全部説明しないんだよ、あの作者。だから読む側が行間考えられる」
「白石先輩もそういうところ好きなんですか?」
「好き。むしろ俺より先輩の方がそういうの見る」
「へえ」
真実が少し考える。
「じゃあ、読み終わったら白石先輩とも話してみたいです」
「いいじゃん。絶対喜ぶぞ」
「七瀬先輩も?」
「もちろん」
「西条先輩も読むんですよね?」
「読むって言ってた」
「じゃあ、本当に四人ですね」
「そうなるな」
春樹は楽しそうに笑った。
そのとき。
「おはよう」
教室の入口から、もう一つ声がした。
雫だった。
「あ、雫」
「西条先輩、おはようございます」
「おはよう、真実ちゃん」
雫は普段通り真実へ返す。
そのまま自分の席へ向かうかと思ったが、春樹の机の前で止まった。
「何の話?」
「昨日の本。新海、一編目読んだって」
「もう?」
「昨日、家で少し読みました」
「どうだった?」
「面白かったです」
「そっか」
雫が笑う。
「私も次に借りるから、真実ちゃんがどこ好きだったか覚えておいて」
「はい」
「俺の感想は?」
春樹が尋ねる。
「春樹は聞かなくても勝手に喋るでしょ」
「否定できない!」
悠斗が吹き出した。
「扱い分かってんなぁ」
「幼なじみだからね」
雫がさらりと言う。
昨日なら、その言葉を口にしたあと少しだけ何かを考えたかもしれない。
今朝は違った。
春樹が昨夜、自分の感想を覚えたまま本を読み返してくれた。
その事実があるだけで、真実と春樹が楽しそうに本の話をしていても、昨日ほど気にならない。
「そうだ、新海」
春樹が言う。
「二編目読む前に一個だけ」
「ネタバレですか?」
「違う!」
「本当ですか?」
「信用しろよ!」
「内容によります」
「二編目から登場人物増えるけど、名前覚えようとしすぎなくていいぞ。後で自然に分かるから」
「あ、それ助かります」
「最初俺、全員覚えようとしてちょっと戻ったから」
「七瀬先輩でも?」
「俺、人名覚えるのそんな得意じゃない」
「意外」
「本の内容は覚えるけど、人名だけ飛ぶことある」
「あるあるね」
雫が口を挟む。
「春樹、昔から『あの主人公の友達の眼鏡』とか言うもの」
「役割覚えてれば話はできる!」
「名前で呼んであげなさいよ」
「作者に申し訳ないとは思ってる」
真実が笑った。
その笑い声へ重なるように、ホームルーム開始五分前の予鈴が鳴る。
「あ、戻ります」
「おう」
「真実ちゃん、またね」
「はい。また」
真実が教室を出ていく。
春樹はその背中を見送ってから、机の新刊へ手を伸ばした。
だが。
雫はまだそこにいた。
「何?」
「昨日の続き」
「本の感想?」
「うん」
「今?」
「ホームルームまで五分あるでしょ」
「新刊……」
「五分だけ」
春樹が雫を見る。
雫も見る。
「……分かったよ」
「嫌ならいいけど」
「そう言われると俺が嫌がってるみたいじゃん。嫌じゃないって」
春樹は新刊を閉じる。
「どこから?」
「中盤の録音のところ」
「まだあったの!?」
「春樹だって本の話長いでしょ」
「それ言われたら何も言えない」
雫が自分の椅子を少しだけ春樹側へ寄せた。
春樹は気にせず、昨日読み返した内容を思い出す。
悠斗がその様子を見ていた。
隣にいた紗弥も見ている。
「なあ」
悠斗が小声で言った。
「何?」
「雫、最近ちょっと変じゃない?」
紗弥はすぐには答えなかった。
春樹と雫を見る。
雫が何かを説明し、春樹が「ああ、そこか」と頷いている。
「……どうだろ」
「分かんない?」
「分かるような、まだ分かんないような」
「何それ」
「本人が一番分かってないと思うから」
悠斗が眉を上げる。
「何の話?」
「高坂にはまだ内緒」
「俺だけ?」
「春樹にも」
「余計気になるんだけど」
紗弥は笑った。
「じゃあ自分で見てれば?」
「俺、人のこと見てる余裕ないんだけど」
「へえ」
「……何?」
「別に」
「最近みんなそれ言わない?」
悠斗が顔をしかめた。
◇◇◇
二時間目。
国語。
桐谷美月が教室へ入ると、生徒たちの机には昨日の読書課題用ノートが置かれていた。
「昨日の続きからやります」
美月は出席簿を教卓へ置く。
「紹介する一冊、決まりましたか?」
教室のあちこちから「決まった」「まだ」という声が上がる。
「まだの人は今日の前半で決めてください。後半は紹介文を書きます」
春樹はすでにノートを開いていた。
前の席の男子が振り返る。
「七瀬」
「決めた?」
「お前が言ってた一冊目にする」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ一応、あらすじ説明するぞ」
「まだ説明するの?」
「自分で納得して選んでほしいんだよ」
「真面目だな」
「本に関してはな」
「他も真面目にやれよ」
「余計なお世話だ!」
美月の声が飛ぶ。
「七瀬君」
「はい」
「授業中ですよ」
「課題の話です!」
「なら声を半分にしてください」
「はい」
教室から笑いが起こる。
春樹は声を落とし、相手へ本の概要を説明した。
町で起きる小さな謎。
五人の高校生。
それぞれ得意なことが違い、一人では解けない問題を会話しながら追っていく。
文章は比較的軽く、一章も短い。
「アクション少ないけど、その代わりチーム感は強い。昨日お前が言ってた『一人だけ強いより、全員役割ある方が好き』って条件なら合うと思う」
「それなら読めそう」
「ただ最初の二十ページくらいは登場人物紹介多め」
「そこ越えれば?」
「一個目の謎始まる」
「じゃあいけるかな」
「無理なら無理でいいぞ」
「昨日も言ってたけど、お前それ気にするよな」
「だって、本って合う合わないあるから」
春樹はノートの端を指でなぞる。
「俺が好きな本を相手が嫌いでも別にいいんだよ。でも、普段本読まない人が一冊合わなかっただけで『本って全部つまらない』になるのはもったいない」
「なるほど」
「映画だって一本つまらなかったから映画全部嫌いにはならないだろ?」
「まあな」
「だから本も同じ」
前の席の男子が少し笑う。
「お前、本当に本好きなんだな」
「今さら!?」
「知ってたけど、何か思ってたよりだった」
「どのくらいだと思ってたんだよ」
「趣味」
「人生のかなり上位だぞ」
「重い」
「本への愛を重いって言うな!」
「七瀬君」
再び美月。
「声」
「……すみません」
春樹が小さくなる。
美月は呆れながらも少し笑っていた。
◇◇◇
授業の後半。
紹介文を書く時間になると、教室は静かになった。
鉛筆やシャープペンシルが紙を擦る音が続く。
春樹も真面目に文章を書いていた。
題名。
簡単なあらすじ。
相手へ勧める理由。
ネタバレしない範囲での魅力。
(……こういうの、意外と難しいな)
自分の感想を書くのとは違う。
相手が読みたくなるように書く必要がある。
ただ褒めればいいわけでもない。
その本の特徴を、相手の好みと繋げなければならない。
春樹は一度書いた文章を消し、書き直す。
「珍しい」
隣から雫が囁いた。
「何が?」
「春樹が書き直してる」
「俺だって推敲くらいするぞ」
「テストの記述は一発で書くのに」
「これは本の紹介だから」
「そっちの方が重要なんだ」
「当たり前だろ」
「当たり前じゃないわよ」
雫が小さく笑う。
「雫は何勧めるの?」
「映画の原作」
「へえ」
「相手が映画好きって言ってたから」
「いいじゃん。原作と映画で違うところもある?」
「あるみたい」
「お前は読んだ?」
「前に一回」
「じゃあ話しやすいな」
「うん」
春樹は雫のノートを覗こうとした。
雫が腕で隠す。
「見るな」
「何で?」
「まだ書いてる途中」
「別にいいじゃん」
「駄目」
「ケチ」
「春樹だって見せなさいよ」
「いいぞ」
「いいの!?」
春樹はあっさりノートを雫側へ押した。
「ほら」
「……本当にいいんだ」
「見られて困ること書いてないし」
雫は春樹の文章を読む。
相手の好みをきちんと拾いながら、本の魅力を説明している。
最後には、
『普段あまり本を読まないなら、最初から全部理解しようとしなくていい。五人のうち一人でも好きな登場人物が見つかれば、その人物を追うだけでも楽しめると思う』
と書かれていた。
「……春樹らしい」
「またそれ!」
静かな教室だったため、春樹は声を抑えながら抗議する。
「昨日から何回言われるんだよ」
「だって本当にそうなんだもん」
「具体的に説明してくれ」
「本が好きだからって、相手にも同じ読み方をさせようとしないところ」
春樹が止まる。
「そう?」
「うん」
「普通じゃない?」
「春樹にとってはね」
雫はノートを返す。
「いいと思う」
「そっか」
「うん」
春樹は少し嬉しそうに文章を見直した。
雫はその横顔を一度見てから、自分の紹介文へ戻る。
昨日までなら、春樹が栞に「自分の好みを分かってもらえた」と喜んでいたことが少し引っかかった。
けれど今、自分も春樹のことを知っている。
それを言葉にできた。
春樹も、自分の好みを知っている。
そう思うと、不思議と胸の奥が落ち着いた。
◇◇◇
昼休み。
「今日は図書室行くの?」
弁当を食べながら、雫が尋ねた。
「行く」
「白石先輩?」
「それもあるけど、新刊読みたい」
「教室じゃ駄目なの?」
「悠斗がうるさい」
「おい!」
向かい側から悠斗が抗議した。
「俺、今日何もしてないだろ!」
「昨日までの実績」
「理不尽!」
「春樹に言われたくないでしょ」
紗弥が笑う。
四人で机を囲んでいる。
最近では珍しくもない昼の光景だった。
「そういや高坂」
春樹が弁当のおかずを口へ運びながら言う。
「昨日の映画の別作品、見るの?」
悠斗の箸が止まった。
紗弥も一瞬だけ春樹を見る。
「……何で知ってる?」
「昨日帰る前に話してただろ」
「ああ」
「見るつもり」
「へえ」
春樹はそれ以上言わない。
紗弥も何も言わない。
雫だけが三人を順番に見た。
「何?」
悠斗が聞く。
「いや」
雫は首を傾げる。
「春樹、最近高坂のことよく気にしてるなって」
「えっ」
悠斗の声が裏返った。
「何、その反応」
「いや、別に!」
春樹が危うく笑いそうになる。
だが耐えた。
「男同士の秘密」
「気持ち悪い言い方しないでよ」
「酷くない!?」
「私も気になる」
紗弥が言った。
「春樹と高坂、最近たまに小声で話してるじゃん」
「ほら」
雫も乗る。
「何隠してるの?」
春樹は悠斗を見る。
悠斗も春樹を見る。
相談内容は言わない。
それは約束している。
「……本の話」
春樹が言った。
「嘘」
雫が即答した。
「早い!」
「春樹が高坂と小声で本の話するわけないでしょ。普通に大声で喋る」
「確かに」
紗弥が頷く。
「赤木まで!」
「じゃあ何?」
「言えない」
春樹は素直に答えた。
「悠斗の話だから」
雫の表情が少し変わる。
紗弥も黙った。
「高坂の?」
「うん。俺から言うことじゃない」
「……そっか」
雫はそれ以上聞かなかった。
紗弥も「分かった」とだけ答える。
悠斗が小さく息を吐いた。
春樹は弁当へ戻る。
数秒の沈黙のあと、紗弥が別の話を始めた。
「そういえば、六月末のスポーツ関係の行事、クラスで何出るんだろうね」
「ああ、まだ決まってないやつ?」
雫が応じる。
「来週くらいに説明あるって聞いた」
「サッカーあったら春樹出されるんじゃない?」
「嫌だ」
春樹が即答した。
「まだ競技も分かってないよ」
「先に拒否しとく」
「何でだよ」
悠斗が笑う。
「お前サッカー上手いじゃん」
「上手いことと出たいことは別」
「また読書?」
「当然」
「でもクラス対抗だったら?」
紗弥が聞く。
「……必要なら考える」
「そこは完全拒否じゃないんだ」
「クラス全員でやるやつなら、俺だけ『本読みたいから嫌です』は違うだろ」
雫が春樹を見る。
「そういうところはちゃんとしてるのよね」
「そういうところって何だよ」
「普段が普段だから」
「また日頃の行い!」
四人が笑う。
まだ何の競技があるかも決まっていない。
ただ六月の予定表に書かれていた「スポーツ関連行事」という文字が、少しだけ現実味を帯び始めていた。
◇◇◇
弁当を食べ終える。
「じゃ、図書室行ってくる」
春樹が立ち上がる。
雫は今日は袖を掴まなかった。
「行ってらっしゃい」
「おう」
「白石先輩と喋りすぎて遅れないように」
「今日は読むのが目的!」
「本当に?」
「本当だって」
春樹は笑いながら教室を出た。
雫はその背中を見送る。
昨日とは違う。
追いかけようとは思わなかった。
朝、春樹と二人で本の感想を話した。
春樹は昨夜、自分が好きだと言った場面を意識して本を読み返してくれた。
それだけで、今日は妙に満たされている。
「……雫」
紗弥が呼ぶ。
「何?」
「今日、行かないんだ」
「図書室?」
「うん」
「毎日行くわけじゃないわよ」
「昨日は行ったのに」
「読みたい本あったから」
「今日は?」
「昨日借りたからある」
「そっか」
紗弥はそれ以上言わなかった。
雫が眉を寄せる。
「何?」
「何でもない」
「最近みんなそれ言うんだけど」
「春樹みたいなこと言ってる」
「……最悪」
「そこまで?」
二人が笑う。
悠斗はその隣で、スマートフォンを見ていた。
画面には配信サービスの作品ページ。
昨日、紗弥から教えてもらった別の映画だった。
◇◇◇
図書室は昼休み特有の静かなざわめきに包まれていた。
完全な無音ではない。
ページをめくる音。
椅子を引く小さな音。
貸出カウンターで交わされる短い会話。
窓の外からは、グラウンドで遊ぶ生徒たちの声が遠く聞こえてくる。
春樹はカウンターを見る。
栞がいた。
目が合う。
「こんにちは」
「こんにちは」
春樹は自然に近づく。
「今日は感想会しませんよ」
「まだ何も言ってません」
「先に宣言しとこうと思って」
「今日は本を読むんですか?」
「はい。新刊が全然進んでないので」
「昨日、西条さんの本を読んだんでしたっけ」
「そうなんですよ。読み返したら止まらなくなって」
栞が少し驚く。
「全部読んだんですか?」
「全部」
「早いですね」
「寝るの遅くなりました」
「それは駄目ですよ」
「雫にも言われました」
「西条さんの方が正しいです」
「味方がいない!」
春樹が声を抑えて嘆く。
栞が小さく笑った。
「でも、どうでした?」
「面白かったです。雫の感想聞いてから読むと、前と違うところ見えました」
「そういう読み返し方、楽しいですよね」
「ですよね」
春樹はそこで止まる。
「……危ない」
「何がですか?」
「このまま話すとまた始まる」
栞も気づいたように口元を押さえる。
「確かに」
「今日は読む」
「はい」
「絶対読む」
「頑張ってください」
「読書するのに応援されるの変じゃないですか?」
「七瀬君の場合、最近話してる方が長いので」
「否定できない……」
春樹はいつもの席へ向かった。
椅子へ座る。
鞄から昨日買った新刊を出す。
ページを開く。
数行読んだところで、ふとカウンターへ視線を向けた。
栞は返却された本を整理している。
(よし)
今日は話さない。
読む。
そう決める。
ページをめくる。
一ページ。
二ページ。
三ページ。
ようやく物語へ意識が沈み始めたところで。
「七瀬先輩」
声がした。
春樹の肩が落ちた。
「……新海」
「何で残念そうなんですか?」
「違う。新海が嫌なんじゃない」
「じゃあ何です?」
「今、やっと物語に入ったところだった」
「あ……すみません」
「いや、謝らなくていいって」
春樹はすぐ本を閉じる。
「どうした?」
真実は昨日借りた本を持っていた。
「二編目、少し読んだんですけど」
「うん」
「分からないところがあって」
「どこ?」
「この人って、一編目にも出てました?」
春樹の目が輝いた。
「出てる」
「あ、やっぱり」
「ただし名前は出てない」
「え?」
「一編目の喫茶店」
「喫茶店……」
「主人公が窓際に座ってるとき、店員に傘渡してる男いたろ?」
「あ!」
真実の顔が明るくなる。
「いた!」
「そいつ」
「そういうことなんだ……」
「面白いだろ?」
「面白いです」
「だよな!」
春樹は新刊を完全に机へ置いた。
カウンターから栞がこちらを見ている。
目が合った。
栞が少し笑った。
春樹は無言で両手を上げる。
(不可抗力です)
口には出さない。
だが栞には伝わったらしく、さらに笑われた。
「七瀬先輩?」
「いや、何でもない」
「じゃあもう一個聞いていいですか?」
「いいぞ」
春樹はすでに読書を諦め始めていた。
◇◇◇
昼休み終了五分前。
「……結局十二ページしか読めなかった」
春樹が廊下を歩きながら呟く。
隣には真実がいる。
「すみません」
「だから謝らなくていいって。俺も喋ったし」
「でも新刊読みたかったんですよね?」
「読みたかった」
「すごく残念そう」
「残念ではある」
「じゃあやっぱり……」
「でも新海が質問してくれたのは嬉しかったから、それは別」
真実が春樹を見る。
「別なんですか?」
「別。読みたかったのと、話したくなかったは同じじゃないだろ」
「……そういうものですか?」
「俺の中では」
春樹は肩を竦める。
「それに、あの本を俺が勧めたんだから、分からないところ聞かれて無視するのも違うし」
「七瀬先輩って」
「ん?」
「本当に、本が絡むと面倒くさいですね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「昨日赤木にも似たこと言われた!」
真実が笑う。
階段の分かれ道へ着く。
「じゃあ私、下なので」
「おう。次の話も無理に急がなくていいぞ」
「分かってます」
「あと――」
「名前、無理に覚えなくていい」
「……先に言われた」
「何度も言うからです」
「俺、そんな同じこと言ってる?」
「結構」
「マジか」
「はい」
「気をつける」
「でも」
真実は階段を一段下りたところで振り返った。
「七瀬先輩が楽しそうだから、読んでみようって思ったのはあります」
春樹が瞬きをする。
「俺が?」
「はい」
「……そっか」
「じゃあ、また」
「おう。また」
真実が階段を下りていく。
春樹は少しだけその場に残った。
(俺が楽しそうだから、か)
自分が本を好きなのは、自分の問題だと思っていた。
誰かに読書を強制するつもりはない。
けれど、自分が楽しんでいる姿を見て、誰かが一冊を手に取る。
それは少し嬉しい。
「……悪くないな」
春樹は小さく呟き、教室へ戻った。
◇◇◇
放課後。
帰りのホームルームが終わると、教室は一気に騒がしくなった。
部活へ向かう者。
友人と帰る者。
掃除当番。
机を動かす音と話し声が重なる。
春樹は鞄へ教科書を入れながら、今日の予定を考えていた。
(今日はまっすぐ帰る)
図書室には行かない。
昼に十二ページしか読めなかった新刊を家で読む。
昨日寝るのが遅かったため、今日は早めに宿題も終わらせる。
完璧だ。
「春樹」
「ん?」
雫が呼ぶ。
「今日、帰る?」
「帰る」
「図書室は?」
「行かない。今日は家で読む」
「じゃあ一緒に――」
「七瀬君」
教室の入口から声がした。
雫の言葉が途中で止まる。
春樹が振り返る。
凛が立っていた。
「九条さん?」
「少しいい?」
「俺?」
「ええ」
春樹は鞄から手を離す。
「何?」
「ここだとちょっと」
「怒られるやつ?」
「どうして最初にそれを疑うのよ」
「九条さんが教室まで来ること珍しいから」
「怒りに来たわけじゃないわ」
「じゃあ何だろ」
春樹は立ち上がる。
雫はその様子を見ていた。
「すぐ戻る?」
春樹が凛に尋ねる。
「多分」
「じゃあ鞄置いとく」
春樹が教室を出る。
凛も続く。
雫は二人の背中を見る。
さっきまで、自分は何を言おうとしていたのか。
『じゃあ一緒に帰ろう』
ただそれだけだった。
いつもなら、言い直せばいい。
春樹が戻ってきたら言えばいい。
なのに。
雫は机の上に置いた鞄の持ち手を握ったまま、なぜか座り直した。
「雫?」
紗弥が声をかける。
「帰らないの?」
「春樹待つ」
答えは早かった。
「……そっか」
「何?」
「何でもない」
「その言い方やめて」
「ごめんごめん」
紗弥が笑う。
雫は教室の入口を見る。
春樹はまだ戻ってこない。
◇◇◇
「それで?」
春樹は廊下の窓際で凛と向き合った。
放課後の廊下は、部活へ向かう生徒が行き交っている。
「何かあった?」
「お願いがあるの」
「九条さんが俺に?」
「そんなに意外?」
「ちょっと」
「……やっぱり頼む相手間違えたかしら」
「待って待って。内容聞く前に帰らないでくれ」
春樹が慌てて止める。
「俺でできることならやるよ」
「本当に?」
「内容によるけど。校則違反を見逃せとかなら無理」
「私が頼むと思う?」
「思わない」
「でしょうね」
凛が小さく息を吐く。
「剣道部の一年生に、勉強がかなり苦手な子がいるの」
「勉強?」
「ええ。次の小テストで一定以下だと、補習になるかもしれなくて」
「それで?」
「数学が特に駄目らしいの」
「……なるほど」
春樹は察した。
「俺に教えてほしい?」
「少しだけ」
「九条さんは?」
「私は数学、人に教えるのがあまり得意じゃないの」
「意外」
「点数は取れるけど、説明すると『こうすれば解けるでしょう』になってしまうのよ」
「ああ」
春樹は何となく想像できた。
「新海さんに教えていたって聞いたから」
「誰から?」
「西条さん」
「雫?」
「昨日少し話したときに」
「いつの間に」
凛が眉を寄せる。
「嫌なら断っていいわ。私から頼んでいることだから」
「いや、いいよ」
「……いいの?」
「困ってるんだろ?」
「ええ」
「じゃあ一回その子がどこで詰まってるか見ないと分からないけど、それでよければ」
凛の表情が少し柔らかくなる。
「ありがとう」
「ただし毎日は無理」
「もちろん」
「俺にも読書という重大な予定がある」
「そこは予想してた」
「理解が早くて助かる」
「あと、ちゃんと本人にも確認する。私が勝手に話を進めても意味がないから」
「それがいい」
春樹は頷く。
「教えてほしくない相手から教えられても頭入らないし」
「じゃあ明日、本人に聞いてみる」
「分かった」
「ありがとう、七瀬君」
「どういたしまして」
話は終わった。
凛が部活へ向かおうとする。
「九条さん」
「何?」
「その子、剣道部?」
「ええ」
「鬼塚先生に知られたら大声で『勉強しろ!』って言われそうだな」
凛が一瞬黙った。
そして吹き出す。
「やめて。想像できるから」
「『学生の本分は勉学だぁ!』」
「似てるけど声抑えて!」
「図書室じゃないからいいだろ」
「廊下でも駄目!」
凛が笑いを堪える。
春樹も笑った。
「じゃあ、また明日」
「おう。部活頑張って」
「ありがとう」
凛が去っていく。
春樹は教室へ戻った。
◇◇◇
「ただいま」
「遅い」
教室へ戻った瞬間、雫に言われた。
春樹は時計を見る。
「七分くらいだぞ?」
「十分近い」
「細かいな」
「何だったの?」
「九条さん?」
「うん」
雫はすでに鞄を持っている。
紗弥と悠斗はまだ教室の後方で話していた。
「勉強教えてほしいって」
雫の表情が止まる。
「……九条さんに?」
「違う。剣道部の一年生」
「一年生?」
「数学苦手な子いるんだって。補習かかるかもしれないらしい」
「ああ」
雫の肩から、目に見えない程度に力が抜ける。
「引き受けたの?」
「本人が嫌じゃなければ一回見るって」
「そう」
「新海に教えた話、お前が九条さんにしたんだって?」
「したけど」
「俺、最近家庭教師みたいになってない?」
「無料選書サービス兼家庭教師ね」
「何でも無料じゃん!」
「お金取るの?」
「取らないけど!」
雫が笑う。
「帰る?」
「おう」
二人で教室を出る。
廊下へ出たところで、春樹が横を見る。
「雫」
「何?」
「さっき機嫌悪かった?」
雫の足が一瞬止まった。
「……何で?」
「戻ったとき『遅い』って」
「待ってたからでしょ」
「それだけ?」
「それだけ」
「ならいいけど」
春樹は前を向く。
雫も歩き出す。
だが、数歩進んだところで春樹がまた口を開いた。
「昨日も思ったんだけどさ」
「何?」
「お前、最近ちょっと変じゃない?」
雫の心臓が一度だけ強く鳴った。
「……どこが?」
「何か、俺が誰かと喋ってるとき急かすこと増えた気がする」
「気のせいじゃない?」
「そうかな」
「そうよ」
「あと昨日、図書室までついてきたし」
「本借りたかったから」
「俺の袖とか鞄とかよく引っ張るし」
「昔からでしょ」
「まあ、そうか」
春樹は顎へ手を当てる。
本気で考えている。
雫はその横顔を見る。
(……気づいた?)
何に。
自分でも分かっていないのに、春樹が何かに気づくはずがない。
「分かった」
春樹が言った。
「何が?」
「最近、俺が図書室ばっか行ってるからだ」
「……は?」
「前より一緒に帰る回数減っただろ?」
雫が瞬きをする。
「だからお前、ちょっと不満なんじゃない?」
「…………」
「幼なじみが急に付き合い悪くなったみたいな」
春樹は自分の推理に納得したように頷く。
「それなら言えよ。毎日図書室行くわけじゃないし、今日みたいに帰る日は普通に一緒に――」
「春樹」
「何?」
「馬鹿」
「何で!?」
雫は春樹より先に歩く。
「待てよ! 今の推理かなり筋通ってただろ!」
「通ってない!」
「じゃあ何なんだよ!」
「知らない!」
「本人が知らないの!?」
「うるさい!」
雫の歩く速度が上がる。
春樹も追う。
「怒るなって!」
「怒ってない!」
「怒ってるだろ!」
「春樹が変なこと言うから!」
「どこが変なんだよ!」
校舎を出る。
靴を履き替える。
昇降口の外には、白っぽい曇り空が広がっていた。
雫はそのまま歩き出そうとして。
「……あ」
小さな冷たいものが頬へ当たった。
春樹も空を見る。
「雨?」
ぽつ。
ぽつ。
数秒後には、昇降口前のコンクリートへ小さな黒い点が増え始める。
「マジか」
「傘持ってる?」
雫が尋ねる。
「ない」
「天気予報見なかったの?」
「朝、本のこと考えてた」
「馬鹿」
「二回目!」
雨脚が少しずつ強くなる。
傘を持っていない生徒たちが昇降口へ戻り、あちこちで「降ってきた」「傘ない」という声が上がった。
雫は鞄を開く。
折り畳み傘を取り出した。
「入る?」
「いいの?」
「このまま待ってても止まなそうだし」
「助かる」
雫が傘を開く。
少し大きめではあるが、二人で入れば自然と距離は近くなる。
「お前、昔から折り畳み持ってるよな」
「春樹が持たなさすぎなの」
「雨の日は持つぞ」
「今日も降ってるけど」
「朝は降ってなかった!」
「予報」
「見てない!」
「威張らないで」
二人で傘の下へ入る。
歩き出す。
雨粒が傘を叩く音が、一定の間隔で頭上に響く。
春樹は雫が傘を持っていることに気づき、手を伸ばした。
「俺持つよ」
「いい」
「いや、身長俺の方があるし」
「別に重くない」
「でもお前側に寄ってるぞ」
「春樹が濡れないようにしてるからでしょ」
「なら俺持った方がいいって」
春樹は雫の手から傘の柄を受け取った。
「ほら」
「……ありがと」
「おう」
春樹が傘を持つ。
今度は自然と雫側へ少し傾ける。
「春樹」
「何?」
「そっち濡れてる」
「肩だけ」
「意味ないでしょ」
「二人入るとこんなもんだろ」
「もう少しこっち来れば?」
「狭くない?」
「濡れるよりいいでしょ」
「じゃあ」
春樹が半歩寄る。
肩が触れた。
雫の身体が一瞬だけ硬くなる。
「これでいい?」
「……うん」
春樹は何も気づかない。
前を向いたまま歩く。
雫も前を見る。
雨の音が近い。
いつもの帰り道なのに、傘一つあるだけで妙に狭く感じる。
「そういや」
春樹が言う。
「何?」
「さっきの話」
「まだ言うの?」
「いや、違う」
「何よ」
「一緒に帰る回数減ってたのは本当だなって」
雫は黙る。
「俺、最近図書室いること多いし」
「……うん」
「だから」
春樹は少し考えた。
「帰れる日は帰ろうぜ」
雫が春樹を見る。
「何、その言い方」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
「……うん」
「別に毎日じゃなくてもさ。部活とかあるだろうし、俺も本屋寄るときあるし」
「うん」
「でもタイミング合ったら」
「……うん」
雫は前を向く。
さっきまで春樹に「馬鹿」と言った。
推理は外れている。
多分。
少なくとも、それだけではない。
けれど。
『前より一緒に帰る回数が減ったから不満なんじゃないか』
完全に間違いだとも言い切れなかった。
栞と話す時間。
真実へ本を勧める時間。
凛と廊下で話す時間。
春樹の周囲に人が増えたことで、今まで何も考えず自分のものだと思っていた時間が、少しずつ別の形に変わっている。
もちろん春樹の時間は、雫のものではない。
そんなことは分かっている。
それでも。
昔から当たり前にあった帰り道までなくなるのは、嫌だった。
(……嫌、なんだ)
そこだけは、少し分かった。
理由はまだ分からない。
幼なじみだからなのか。
長年の習慣が変わるのが嫌なのか。
それとも。
そこから先へ思考が進みそうになり、雫は傘の外へ視線を向けた。
雨に濡れた道路が灰色の空を映している。
「雫」
「何?」
「寄りすぎじゃない?」
「……春樹が傘そっちにやるからでしょ」
「俺、結構端持ってるぞ」
「じゃあもっと真ん中」
「こう?」
「うん」
春樹が傘を動かす。
それでも二人の肩は離れなかった。
雫も離れなかった。
◇◇◇
しばらく歩いたところで、雨脚が少し弱くなった。
「これ、家着くころ止むんじゃない?」
春樹が空を見る。
「止んだら?」
「傘畳む」
「それだけ?」
「他に何があるんだよ」
「……別に」
「またそれ!」
雫が笑う。
春樹も笑った。
「でも助かった。ありがとな」
「何が?」
「傘」
「別に。一本しかなかったし」
「お前いなかったら学校で雨止むの待ってたわ」
「図書室行けばよかったじゃない」
「……その手があった!」
「今気づいたの?」
「雨宿りしながら本読めたじゃん!」
春樹が本気で悔しそうな顔をする。
雫の眉がぴくりと動いた。
「じゃあ戻る?」
「いや、もうここまで来たし」
「図書室なら白石先輩もいるわよ」
「多分いるな」
「戻れば?」
「何でちょっと怒ってんの?」
「怒ってない」
「さっきから機嫌変わるの早くない?」
「春樹のせい」
「何で!?」
雫は少し前へ出ようとする。
だが傘は春樹が持っている。
一歩出れば雨へ入る。
「おい、濡れるって」
春樹が雫の肩を軽く引いた。
雫が止まる。
肩へ置かれた手。
すぐ近くに春樹の顔。
雫は一瞬だけ言葉を失った。
「何?」
「……何でもない」
「今日も多いな!」
「いいから歩いて!」
「はいはい」
春樹はすぐ手を離した。
雫はその場所を意識しながら歩く。
雨のせいだ。
距離が近いからだ。
急に肩を掴まれたから驚いただけだ。
(……本当に?)
答えは出ない。
◇◇◇
分かれ道へ着くころには、雨はかなり弱くなっていた。
雫の家と春樹の家へ向かう道が分かれる。
「傘」
春樹が差し出す。
「ありがとう」
「こっちこそ」
「春樹、ここから大丈夫?」
「走れば二、三分」
「濡れるでしょ」
「小雨だし」
「風邪引いたら?」
「そのときは本読む」
「寝なさい」
「冗談だよ」
雫が呆れたように息を吐く。
「じゃあ明日」
「おう」
春樹が自分の道へ向かおうとする。
「あ、春樹」
「ん?」
「明日」
「何?」
「一緒に帰れる?」
言ったあと、雫自身が少し驚いた。
これまでは、そんな確認をわざわざすることは少なかった。
帰れるなら自然に帰る。
部活があれば別。
それだけだった。
春樹も少しだけ目を丸くする。
「明日?」
「うん」
「今のところ予定ないけど」
「図書室は?」
「昼に行くつもり。放課後は多分行かない」
「じゃあ」
雫は傘の柄を握り直した。
「一緒に帰ろ」
春樹は数秒、雫を見る。
その数秒が妙に長く感じられ、雫は視線を逸らしかけた。
「いいよ」
あっさりした返事だった。
「……うん」
「でも何で今日のうちに予約するんだ?」
「予定入れられたら困るから」
「俺の放課後、予約制になったの!?」
「一日だけでしょ」
「まあいいけど」
春樹は笑った。
「じゃあ明日な」
「うん」
「忘れて図書室行ってたら呼びに来て」
「最初から忘れる前提なの?」
「本が絡むと俺、判断力三割落ちるらしいから」
「永山先生のやつ?」
「最近ちょっと否定できなくなってきた」
「今さらね」
二人が笑う。
「じゃあな」
「また明日」
今度こそ別れる。
雫は傘を差したまま、自宅へ向かう。
数歩進んだところで振り返った。
春樹は小雨の中を走っている。
鞄を頭の上へ載せるようなことはせず、普通に肩へ掛けたままだ。
「本、濡らさないでよ!」
雫が声を上げる。
春樹が振り返る。
「鞄、防水!」
「ならいいけど!」
「また明日!」
春樹が手を上げる。
雫も手を上げた。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで、ほんの少しだけ立ち止まっていた。
今日、春樹は自分の変化へ初めて気づいた。
『最近ちょっと変じゃないか』
そう言われた。
雫は否定した。
実際、自分でも何が変わったのか説明できない。
ただ。
春樹が誰かと話していると、少し気になる。
自分の知らない春樹を誰かが知っていると、知りたくなる。
誰かと過ごす時間が増えると、今まで自分と過ごしていた時間が減ったことに気づく。
そして明日の帰り道を、先に確保した。
それが何なのか。
まだ雫には分からない。
嫉妬という言葉も、恋という言葉も、浮かばない。
けれど行動だけは、少しずつ答えへ近づき始めていた。
◇◇◇
一方。
家へ着いた春樹は、制服の肩をタオルで拭きながら自室へ入った。
「危なかった……」
濡れたのは肩と髪の一部だけ。
鞄は無事。
中の本も無事だった。
「よし」
春樹にとって最重要確認を終え、机へ座る。
鞄から新刊を取り出す。
昼休みに十二ページしか進まなかった本。
ようやく続きを読める。
表紙を開く。
その瞬間。
(……雫、やっぱ最近ちょっと変だよな)
手が止まった。
昨日は図書室まで来た。
今日は帰るのを待っていた。
明日の帰りまで先に約束した。
誰かと話していると、時々妙に急かされる。
「…………」
春樹は考える。
幼なじみ。
昔から一緒。
最近、自分は図書室にいる時間が増えた。
帰る時間も少し変わった。
「やっぱ、一緒に帰る時間減ったからか?」
そこへ戻る。
春樹の中では、それが一番自然だった。
恋愛小説なら別の答えを疑ったかもしれない。
登場人物なら、視線や距離や言葉の端から感情を読む。
幼なじみが他の女子との会話を気にし、二人の時間を確保しようとする。
物語の中なら。
春樹はたぶん、数ページ前から気づいている。
けれど。
「雫だしな」
その一言で候補から外した。
春樹は本を開く。
「よし。読む」
数秒後には、意識が物語へ沈んでいく。
他人の恋愛なら、よく分かる。
自分が読者なら、きっと分かる。
ただ、自分自身がその物語の中にいる可能性だけは。
七瀬春樹の中で、最初から検討対象に入っていなかった。




