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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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15/60

第15話 放課後の予定を先に取られただけなのに、なんでこんなに見られるんだ?

 木曜日の朝。


 昨日の雨が嘘だったかのように、空は薄く晴れていた。


 完全な青空ではない。白い雲がところどころに残り、濡れた住宅街の道路には朝日が淡く反射している。軒先から落ちる水滴が時折小さな音を立て、昨日より少しだけ涼しい風が、七瀬春樹の制服の裾を揺らしていた。


「おはよう」


「おう。おはよう」


 いつもの交差点で合流した西条雫へ、春樹は片手を上げた。


 雫は春樹の横へ並ぶ。


 そして最初に見たのは、春樹の顔ではなかった。


「鞄」


「ん?」


「昨日、本濡れなかった?」


「ああ。全然大丈夫だった」


「本当に?」


「帰ってすぐ確認した。中まで無傷」


「春樹のことだから、自分より先に本確認したんでしょうね」


「当然」


「当然じゃない」


 呆れた声だったが、雫の口元は少し緩んでいる。


 春樹は気にせず歩き出した。


「それより聞いてくれ」


「何?」


「昨日の新刊、めちゃくちゃ面白かった」


「結局読んだの?」


「読んだ。ちゃんと十二時前にはやめたぞ」


「十二時前まで読んだのね」


「一昨日より早い」


「比較対象がおかしいのよ」


「でも昨日は一時半だっただろ?」


「だから一昨日が駄目なの」


「厳しいなぁ」


 春樹は笑う。


 雫も小さく息を吐きながら、その横を歩いた。


 昨日の帰り道。


 一本の傘に二人で入り、いつもの道を帰った。


 別れ際には、雫から今日の帰りを約束した。


 そのことを意識しているのは、おそらく雫だけだった。


 春樹にとっては、幼なじみと帰る約束をしただけだ。


「そういえば」


 春樹が言う。


「今日、放課後一緒に帰るんだよな」


 雫の視線が少しだけ上がった。


「……覚えてたの?」


「何で忘れてると思われてんの?」


「本が絡むと判断力三割落ちるから」


「それは判断力であって記憶力じゃない!」


「似たようなものでしょ」


「全然違う!」


「じゃあ忘れないでよ」


「忘れないって」


 春樹はそう答えたあと、少し考えた。


「でも、九条さんの件が今日になる可能性あるな」


 雫の歩調がわずかに変わった。


「九条さんの件?」


「昨日言っただろ。剣道部の一年生に数学教える話」


「ああ……」


「本人がいいって言ったら、多分一回見てほしいって来ると思う」


「放課後?」


「そこまでは聞いてない」


「…………」


「どうした?」


「別に」


「最近その『別に』多くない?」


「春樹がいちいち聞くからでしょ」


「だって急に黙るじゃん」


「考えてただけ」


「何を?」


「……今日の帰り」


「帰るだろ?」


「そうだけど」


 雫は少し前を歩く。


 春樹は首を傾げながら隣へ追いついた。


「九条さん来たらどうする?」


「どうするって、約束したなら教えるんでしょ?」


「いや、まだ約束まではしてない。本人が嫌じゃなければ一回見るってだけ」


「じゃあ見るんじゃない」


「そうなるかな」


「……どれくらい?」


「時間?」


「うん」


「実際どこで詰まってるかによるけど、一時間もかからないんじゃないか? 小テスト範囲だけなら三十分くらいで――」


「私、待つから」


 春樹が雫を見る。


「え?」


「終わるまで待つ」


「いや、先帰っていいぞ?」


「一緒に帰るって約束したでしょ」


「したけど、わざわざ待つほどじゃ――」


「待つ」


 今度ははっきりしていた。


 春樹は数秒、雫の横顔を見る。


「……分かった」


「うん」


「でも長くなりそうなら帰れよ?」


「そのとき考える」


「了解」


 春樹は深く考えなかった。


 昨日から雫は、一緒に帰ることを妙に気にしている。


 やはり最近、図書室へ行く回数が増えて帰宅時間が合わなかったことが不満なのだろう。


(幼なじみって、こういうところあるよな)


 生活の一部になっていた習慣が変わると落ち着かない。


 自分だって、雫が急に朝の通学路からいなくなれば多少は違和感があると思う。


 そう考えれば自然だった。


「何?」


 雫が横目で見る。


「いや。今日はちゃんと一緒に帰ろうな」


「……うん」


 その返事だけが、少し柔らかかった。


     ◇◇◇


 教室へ入ると、高坂悠斗が珍しく本を持っていた。


 春樹は入口で止まった。


 一度瞬きをする。


 もう一度見る。


 間違いない。


「悠斗」


「おはよ」


「お前……」


「何だよ」


「本持ってる」


「持ってるけど」


「どうした?」


「その反応失礼じゃない?」


「いや、だってお前が朝の教室で本持ってるんだぞ?」


「俺だって本くらい持つわ!」


「教科書以外を?」


「お前、俺を何だと思ってんの?」


「文字を読むなら映画の字幕で十分だと思ってる人」


「そこまでじゃねえよ!」


 悠斗が笑いながら本を机へ置く。


 春樹はすぐ表紙を見る。


 知らない作品ではなかった。


「これ、映画原作じゃん」


「そう」


「もしかして」


 春樹が紗弥を見る。


 紗弥は少し離れた席で友人と話している。


「赤木?」


「声」


「あ、悪い」


 悠斗が周囲を確認してから声を落とす。


「昨日、映画の話してただろ」


「うん」


「原作も面白いって言われて」


「借りた?」


「いや、図書室にあったから昨日帰りに」


「お前、図書室行ったの!?」


「そこまで驚く!?」


「だって俺、図書室でお前見たことほとんどないぞ!」


「お前の住処と一緒にするな!」


「住んでねえよ!」


「半分住んでるだろ」


「昼休みと放課後に行くだけだ!」


「十分多いわ」


 春樹は笑いながら、もう一度本を見る。


「でもいいじゃん。映画見てから原作読むのも面白いぞ。先に映像の印象あるから、文章でどこ違うか見つけやすいし」


「紗弥もそんなこと言ってた」


「へえ」


「……その顔やめろ」


「何もしてない」


「してる」


「俺、最近顔の管理厳しくない?」


「お前が分かりやすすぎるんだよ」


 そこへ雫が鞄を置いた。


「何の話?」


「高坂が本読んでる」


 春樹が即答する。


「珍しい!」


「西条まで!?」


 雫が表紙を見る。


「あ、これ紗弥が好きな映画の原作じゃない?」


「知ってるの?」


「前に聞いたことある」


「昨日借りた」


 悠斗が答える。


「へえ」


 雫の目が悠斗から紗弥へ移る。


 紗弥はまだこちらに気づいていない。


 それから春樹を見る。


 春樹は楽しそうに本の話を始めている。


「映画から原作入るなら、映像で削られた心理描写とか見ると面白いぞ。あと逆に原作だと短い場面が映画で膨らんでたり――」


「七瀬」


「何?」


「俺、まだ一ページも読んでない」


「じゃあ読んでから話そう」


「切り替え早いな」


「ネタバレしたくないから」


 春樹はすぐ自分の席へ向かった。


 その後ろを雫が追う。


「春樹」


「ん?」


「今日の放課後」


「覚えてる」


「まだ何も言ってない」


「どうせ帰る約束だろ?」


「……そうだけど」


「大丈夫だって」


 春樹は鞄を机の横へ掛ける。


「九条さんの件がなければ、そのまま帰る。あったら終わってから」


「うん」


「そんなに心配しなくても忘れないぞ」


「本当に?」


「昨日から疑われすぎだろ、俺」


「実績があるから」


「何の実績!?」


 雫は答えず、自分の席へ向かった。


 だが途中で一度だけ振り返る。


 春樹はもう新刊を取り出していた。


「……春樹」


「今度は何?」


「ホームルームまで十分」


「知ってる」


「読みすぎないでよ」


「時間見てるって」


「私が声かけるから」


「目覚まし時計みたいだな」


「誰のせいよ」


 春樹は笑って本を開いた。


 雫も席へ座る。


 以前なら、そんな春樹を放っておいた。


 チャイムが鳴っても読んでいれば教師に怒られるだけだと思っていた。


 今も、基本的にはそう思う。


 なのに最近は、春樹がどこへ行くのか、誰と話すのか、何時まで本を読むのか。


 そんなことまで目に入るようになっていた。


 雫は机の中から教科書を出す。


(……面倒くさい)


 誰が。


 春樹が。


 多分。


 そういうことにしておいた。


     ◇◇◇


 三時間目が終わった休み時間。


 春樹が廊下へ出たところで、向こうから黒いポニーテールが近づいてきた。


「七瀬君」


「九条さん」


 凛だった。


 その隣には、小柄な女子生徒が一人いる。


 一年生だろう。


 肩までの髪を耳へ掛け、緊張したようにノートを胸元へ抱えている。


「昨日の話」


「ああ」


 春樹は隣の女子を見る。


「その子?」


「ええ」


 凛が一歩横へずれる。


「一年二組の森下さん」


「森下です」


「七瀬です」


「知ってます」


「え?」


「九条先輩から聞きました」


「ああ、そういう意味」


 春樹は少し笑う。


 森下も緊張がわずかに解けたようだった。


「数学、苦手なんだって?」


「……はい」


「どの辺?」


「今やってる二次関数が……」


「ああ」


「問題見ると、何からやればいいか分からなくなって」


「式変形そのものは?」


「それも少し……」


「なるほど」


 春樹は頷く。


「じゃあ問題見た方が早いな」


「すみません」


「謝らなくていいよ。俺も教えられるか見てみないと分からないし」


「七瀬君」


 凛が言う。


「放課後、少し大丈夫?」


「大丈夫だけど」


 春樹はそこで朝の約束を思い出した。


「三十分くらい?」


「それくらいでいいわ。あまり長く部活を抜けさせるのも難しいから」


「じゃあ一回見てみる」


 森下が頭を下げる。


「ありがとうございます」


「いやいや。まだ何もしてないから」


「場所は?」


「図書室……だと俺が本に気を取られる可能性あるな」


「自覚あるのね」


「最近かなり」


 凛が少し笑う。


「空き教室を借りられるか確認しておく」


「それがいいかも」


「じゃあ放課後、私が迎えに来る」


「分かった」


 話がまとまる。


「七瀬君」


「ん?」


「本当にありがとう」


「だからまだ早いって。森下さんが小テスト乗り切ってから言って」


「……そうね」


 凛の表情が柔らかくなる。


 森下も少し笑った。


 そのとき。


「春樹」


 背後から声がした。


 振り返る。


 雫が立っていた。


「お、雫」


「次、移動教室」


「あ」


「忘れてたでしょ」


「……ちょっとだけ」


「ほら」


 雫は春樹の袖を掴む。


「あと三分」


「まだ三分あるだろ」


「教室戻って教科書取って移動するの」


「分かってるって」


 春樹は凛を見る。


「じゃあ放課後」


「ええ」


「森下さんも」


「はい。お願いします」


「おう」


 春樹が歩き出す。


 雫はまだ袖を離していない。


 数歩進んでから春樹が自分の腕を見る。


「雫」


「何?」


「もう逃げないぞ」


「別に逃げると思ってない」


「じゃあ離してくれない?」


 雫が指先を見る。


「……あ」


 ようやく気づいたように手を離した。


「悪い」


「珍しいな。お前が謝るの」


「春樹、たまに一言多い」


「褒めたんだけど!?」


 二人は教室へ戻る。


 その途中。


「さっきの子?」


 雫が聞いた。


「うん。森下さんだって」


「そう」


「二次関数で詰まってるらしい」


「放課後?」


「三十分くらい」


「……私も行こうかな」


 春樹が足を止めた。


「何で?」


「待つから」


「教室で待ってればよくない?」


「別に見ててもいいでしょ」


「まあ、いいけど」


「邪魔はしない」


「そこは心配してない」


 春樹は少し考える。


「でも森下さんが嫌じゃないならな。勉強苦手なの、人に見られたくないかもしれないし」


 雫は一瞬黙った。


「……そうね」


「だからそこだけ聞いてみる」


「うん」


 春樹は再び歩き出した。


 雫も隣へ並ぶ。


 自分がなぜ「行こうかな」と言ったのか。


 森下という一年生が気になったわけではない。


 多分。


 凛が春樹を迎えに来て。


 春樹が凛と一緒に教室を出て。


 自分だけ残って待つ。


 その光景を想像したら、何となく嫌だった。


 ただ、それだけ。


(……何が嫌なんだろ)


 分からない。


 だから考えるのをやめた。


     ◇◇◇


 昼休み。


 春樹は珍しく図書室へ行かなかった。


「今日は行かないの?」


 雫が尋ねる。


「行きたい」


「じゃあ行けば?」


「新刊読みたい」


「だから行けばいいじゃない」


「でも放課後、森下さんに数学教えるだろ?」


「うん」


「昼にちょっと復習しとこうかなって」


 雫が目を丸くする。


「春樹が?」


「何だよ」


「勉強を?」


「俺を何だと思ってる?」


「本以外の予習復習を自主的にしない人」


「否定しづらい!」


 悠斗が笑う。


「西条の認識、正しいじゃん」


「今回は人に教えるんだから必要なんだよ。二次関数自体は分かるけど、自分が解けるのと説明できるのは別だろ」


 春樹は数学の教科書を開く。


「新海に教えたときも思ったけど、分かってる側って途中式飛ばしやすいんだよな」


「真面目だな」


「森下さん、問題見た時点で何すればいいか分からなくなるって言ってたから、公式だけ説明しても多分駄目だし」


 紗弥が感心したように春樹を見る。


「そういうのちゃんと考えるんだ」


「頼まれた以上はな」


「本読む時間削って?」


「……そこは痛い」


「今、顔曇った」


「でも三十分くらいなら」


 春樹は教科書へ視線を落とす。


 雫はその横顔を見ていた。


「何?」


 気づいた春樹が尋ねる。


「別に」


「また?」


「春樹って、頼まれると結局断らないなって」


「内容によるぞ。宿題全部やってとかなら断る」


「そうじゃなくて」


 雫は箸を止める。


「困ってる人から頼まれたとき」


「……まあ、できることなら」


「自分の時間減っても?」


「毎日全部寄越せって言われたら嫌だけど、一回くらいならいいだろ」


「そう」


 雫は小さく笑う。


「何だよ」


「何でもない」


「絶対何かあるだろ」


「ない」


「最近のお前、本当に分かんないな」


「春樹にだけは言われたくない」


「俺、分かりやすいってみんなに言われてるぞ」


「本のことだけね」


「他も分かりやすいだろ」


「……そうかな」


 雫は春樹から視線を外した。


「何だよ、その間」


「自分で考えれば?」


「難題出された!」


 悠斗がそのやり取りを聞いて笑う。


「七瀬、数学よりそっち考えた方がいいんじゃね?」


「何を?」


「いや、何でもない」


「お前まで!?」


 紗弥が吹き出した。


 春樹だけが納得できない顔をしている。


     ◇◇◇


 放課後。


 帰りのホームルームが終わると、春樹は机の上へ数学の教科書とノートを残した。


 鞄は閉じない。


 どうせ三十分ほどで戻る。


「春樹」


「ん?」


「行く?」


 雫はすでに鞄を持っていた。


「九条さん待ち」


「そっか」


 雫は自分の席から動かない。


「お前、本当に待つの?」


「昨日約束したでしょ」


「いや、帰る約束はしたけど、勉強終わるまで待つとは――」


「朝言った」


「そうだった」


「忘れてるじゃない」


「違う! 今一瞬抜けただけ!」


「同じでしょ」


「記憶力は落ちてない!」


「落ちてる」


「厳しい!」


 雫は笑う。


 そこへ。


「七瀬君」


 凛が教室の入口へ現れた。


「来た」


 春樹が立ち上がる。


 その直後。


 雫も立った。


「西条さん?」


 凛が少し驚く。


「私も行っていい?」


「勉強?」


「見てるだけ」


 凛が春樹を見る。


「私は構わないけど、森下さんがどう思うかしら」


「俺もそれ言った」


 春樹が答える。


「本人に聞いて、嫌そうなら雫は教室で待つってことで」


「うん」


「分かったわ」


 三人で廊下へ出る。


 春樹が中央。


 右に凛。


 左に雫。


「……何、この並び」


 春樹が呟く。


「何か問題?」


 凛が聞く。


「いや、両側から風紀を監視されてる気分」


「私は風紀委員だけど」


「私は違うわよ」


「雫は生活監視委員」


「誰がよ」


「朝起こす、宿題確認する、本読みすぎると止める」


「必要だからやってるんでしょ」


「俺、そんなに生活能力ない?」


「本が絡まなければ普通」


「永山先生と同じ評価だ……」


 凛が小さく笑う。


「本が絡むと判断力三割落ちるんでしょう?」


「何で九条さんまで知ってるの!?」


「有名なの?」


 雫が笑う。


「広めるなよ!」


「私は広めてないわよ」


「じゃあ誰だ!」


「本人じゃない?」


「俺!?」


 三人の声が廊下へ混じる。


 周囲の生徒がちらりと見る。


 春樹はそこで声を落とした。


「……最近俺、廊下で喋りすぎだな」


「自覚が遅いわ」


 凛が言う。


「本当に」


 雫も続く。


「二対一ずるくない?」


 そんな話をしているうちに、凛が借りていた空き教室へ着いた。


 森下はすでに中で待っていた。


「お待たせ」


「いえ」


 森下が立ち上がり、春樹を見る。


 そのあと雫へ視線を移した。


「あの」


「西条雫。春樹と同じクラス」


「幼なじみ」


 春樹が補足する。


 雫が一瞬だけ春樹を見る。


 森下は軽く頭を下げた。


「森下です」


「勉強してるところ、私がいても大丈夫?」


 雫が尋ねる。


「はい。全然」


「本当に?」


「大丈夫です」


「じゃあ邪魔しないように後ろにいるね」


 雫は教室後方の席へ向かった。


 凛は森下の隣へ座ろうとしたが、春樹が言う。


「九条さんも部活戻っていいぞ?」


「でも」


「三十分くらいだろ? 終わったら森下さん戻るし」


「大丈夫?」


「勉強教えるだけだぞ」


「……そうね」


 凛は森下へ確認する。


「一人で大丈夫?」


「はい」


「じゃあ七瀬君、お願い」


「おう」


「終わったらそのまま道場へ来て」


「分かりました」


 凛が教室を出る。


 扉が閉まる。


 春樹は森下の向かいへ座った。


「じゃあ、とりあえず問題見せてもらっていい?」


「はい」


 森下がノートを開く。


 春樹は覗き込む。


 数問解いてある。


 途中で止まっている問題も多い。


「……なるほど」


「やっぱり駄目ですか?」


「いや、逆」


「え?」


「思ってたより全然できてる」


 森下が顔を上げる。


「本当ですか?」


「うん。計算そのものはそんなに間違ってない。多分、問題文から何を使うか選ぶところで止まってる」


 春樹は一問を指す。


「これ、最初どこまで分かった?」


「二次関数なのは……」


「そこは分かる?」


「はい」


「じゃあ次。何を求めろって書いてある?」


「最大値と最小値」


「そう。なら、まず頂点がどこにあるか見る」


 春樹は答えを書かない。


 代わりに、問題文の必要な箇所へ印をつける。


「公式覚えるのも大事だけど、森下さんの場合は『この問題なら何を探すか』を先に決めた方がいいと思う」


「何を探すか……」


「うん。いきなり解こうとしなくていい。問題文から材料拾う感じ」


 後ろの席で、雫は静かに二人を見ていた。


 春樹の声は普段より少しゆっくりしている。


 真実へ数学を教えていたときもそうだった。


 相手が分からないと言っても、急かさない。


 答えを言うより、どこまで分かっているのかを探す。


「ここまでなら?」


「分かります」


「じゃあ次は?」


「頂点を……出す?」


「そう」


「あ」


「今、自分で出たじゃん」


「……はい」


「じゃあやってみよう」


 森下が式を書く。


 途中で手が止まる。


 春樹は待つ。


 すぐには口を出さない。


 数秒後、森下がもう一度書き始める。


「できた」


「合ってる」


「本当?」


「うん」


 森下の顔が明るくなる。


 その瞬間、雫も少しだけ笑った。


 春樹はこういう人だ。


 本ばかり読んでいる。


 授業中にも隙があれば本を開く。


 読書時間を奪われれば本気で嘆く。


 けれど誰かが困っていて、自分にできることがあると、結局こうして時間を使う。


(……知ってる)


 昔から。


 自分は知っている。


 そう思った直後だった。


「七瀬先輩って、教えるの上手ですね」


 森下が言った。


「そう?」


「はい。先生より分かりやすいかも」


「それ本人の前で言うなよ。俺が怒られるから」


 森下が笑う。


「九条先輩が頼んだ理由分かりました」


「新海に教えたって話聞いただけらしいぞ」


「でも、優しいですね」


「いや、普通だろ」


「普通じゃないです。部活も違う一年生なのに」


「そんな大げさな」


 春樹は困ったように笑った。


 後ろで。


 雫の指が、机の端を一度だけ軽く叩いた。


 とん。


 小さな音だった。


 誰も気づかない。


 もう一度。


 とん。


 雫は自分の指を見る。


 そして止めた。


(……何してるんだろ)


 森下が春樹を褒めただけ。


 それも勉強を教えてもらった相手として、自然な言葉だ。


 何もおかしくない。


 雫自身だって、春樹が人に教えるのは上手いと思っている。


 なのに。


「春樹」


「ん?」


 気づけば呼んでいた。


「あと何分?」


 春樹が時計を見る。


「十五分くらい」


「そう」


「退屈?」


「別に」


「先帰っててもいいぞ?」


「待つって言ったでしょ」


「そうだった」


 春樹は森下へ戻る。


 雫は鞄から本を取り出した。


 昨日、図書室で春樹に選んでもらった一冊。


 開く。


 一行読む。


 二行目。


 三行目。


 ページの文字が、なぜか頭へ入ってこない。


 前の席から森下の笑い声が聞こえた。


 雫はページを一枚めくった。


 まだ前のページをほとんど読んでいないことに気づき、元へ戻す。


(……集中できない)


 春樹のせいだ。


 多分。


     ◇◇◇


「今日はここまで」


 三十分後。


 春樹がノートから顔を上げた。


「最初よりかなり解けてる」


「本当ですか?」


「うん。ただ今日できても明日忘れる可能性あるから、同じ形の問題を二、三問やってみて。全部じゃなくていい」


「分かりました」


「分からなくなったら、どこで止まったかだけ印つけとくといいぞ」


「はい」


 森下はノートを大事そうに閉じた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


「また分からなかったら聞いてもいいですか?」


 春樹は少し考える。


「俺でよければ。ただ毎日は無理だぞ」


「読書ですか?」


「何で一年生にまで知られてるの!?」


 森下が笑う。


「九条先輩が言ってました」


「九条さん!」


「『七瀬君は本の時間を削られると露骨に残念そうな顔をするから、毎日は頼まないように』って」


「気を遣われてる!」


「でも教えてくれるって」


「まあ、困ってたらな」


 森下がもう一度頭を下げる。


「ありがとうございます」


「おう。小テスト頑張って」


「はい」


 森下は荷物をまとめ、教室を出ていった。


 扉が閉まる。


 春樹は大きく伸びをする。


「終わったー」


「お疲れ」


 雫が本を閉じた。


「読めた?」


「……まあまあ」


「何ページ?」


「七ページ」


「三十分で!?」


「悪い?」


「いや、お前もっと読むだろ」


「今日は集中できなかったの」


「眠い?」


「違う」


「じゃあ何?」


「春樹が喋ってたから」


「勉強教えてたんだから仕方ないだろ!」


「分かってるわよ」


 雫が立ち上がる。


「帰る」


「はいはい」


 春樹も教科書をまとめる。


 そのとき、雫が春樹のノートを見る。


「……丁寧に書いてたね」


「何が?」


「説明」


「ああ」


 春樹は自分のノートを見た。


 公式だけでなく、問題文のどこを見るか、何を先に探すかまで簡単に書いてある。


「森下さん、計算苦手っていうより、最初の一歩で止まってただけだったから」


「ふうん」


「慣れれば普通にできると思う」


「そう」


「何だよ」


「別に」


「またかよ!」


 雫は先に教室を出る。


 春樹も慌てて追う。


「待てって。約束通り一緒に帰るんだろ?」


 その言葉で。


 雫の足が少しだけ遅くなった。


「……そうね」


 春樹が隣へ並ぶ。


「三十分待たせたから、何か奢る?」


「何で?」


「待たせたお詫び」


「別にいい」


「コンビニ寄るならアイスくらい」


「……じゃあ」


「お」


「駅前の本屋」


「え?」


「寄って」


 春樹の顔が一瞬で明るくなる。


「本屋!?」


「何で春樹が得するのよ」


「だって本屋だぞ!」


「私が見たい本あるの」


「いいじゃん行こう!」


「現金ね」


「本屋への寄り道は寄り道じゃない」


「何なの?」


「有意義な移動」


「意味分からない」


 雫は呆れながらも笑った。


     ◇◇◇


 駅前の本屋。


 夕方の店内は学校帰りの学生や仕事帰りの客が少しずつ増え始めていた。


 入口近くには新刊の平台。


 奥には文庫。


 壁際には漫画やライトノベルが並んでいる。


 春樹は入店した瞬間、雫との距離を忘れかけた。


「新刊コーナー見てくる!」


「待って」


 制服の袖を掴まれた。


「何?」


「私が見たい本に付き合う約束でしょ」


「……そうだった」


「今、完全に忘れたわね」


「本屋だから仕方ない」


「仕方なくない」


「で、何探してる?」


「昨日、春樹に選んでもらった本と似た感じのやつ」


「もう次?」


「まだ読み終わってないけど」


「珍しいな」


「何が?」


「お前、読んでる途中で次探すタイプじゃないだろ」


「……そう?」


「だいたい読み終わってから『次なんかある?』って聞いてくるじゃん」


 雫は答えなかった。


 自分でも理由は分かっているようで、分かっていない。


 春樹と本屋へ寄りたかった。


 ただ帰るだけではなく。


 もう少し一緒にいたかった。


 けれど、それをそのまま口にする理由が見つからなかったから、本を理由にした。


「まあいいや」


 春樹はすぐ棚を見る。


「昨日のやつ、どこまで読んだ?」


「まだ最初の方」


「雰囲気は?」


「好き」


「じゃあ近い系統なら……」


 春樹が歩き出す。


 雫も隣へついていく。


 本棚の前で止まり、春樹は何冊か背表紙を見る。


「これ読んだ?」


「ない」


「こっちは?」


「映画だけ」


「原作結構違うぞ」


「へえ」


「あとこれ。恋愛薄めだけど、人間関係は濃い」


「春樹は?」


「読んだ。好き」


「じゃあそれ」


「早い!」


「何よ」


「中身もう少し聞けって」


「春樹が好きなんでしょ?」


「好きだけど、それと雫に合うかは別だって昨日も――」


「春樹」


「何?」


「私に合うと思う?」


 春樹は本を見る。


 次に雫を見る。


「……合うと思う」


「じゃあ読む」


「本当にそれでいいの?」


「いい」


 雫は春樹の手から本を取った。


「春樹が私に合うと思ったんでしょ」


「うん」


「なら、それでいい」


 春樹は少し不思議そうな顔をした。


 けれど、やがて笑った。


「じゃあ読み終わったら感想聞かせて」


「うん」


「俺も久しぶりに読み返そうかな」


「……本当?」


「話すなら細かいところ覚えてた方がいいだろ?」


 雫の指が、本の表紙を少し強く抱える。


「じゃあ、読んで」


「おう」


「ちゃんと」


「分かったって」


「私より先に読み終わらないでよ」


「何そのルール!?」


「感想、途中で言いそうだから」


「ああ……それは否定できない」


「でしょ」


「じゃあ雫が読み終わるまで待つ」


「うん」


 その返事は、今日一番満足そうだった。


     ◇◇◇


 本屋を出るころには、空が薄い橙色に変わっていた。


 昨日の雨の名残はもうほとんどない。


 二人は並んで歩く。


 雫の鞄には、新しい一冊が増えている。


「今日さ」


 春樹が言った。


「何?」


「結局、待たせて悪かったな」


「別に」


「三十分だぞ」


「本読んでたし」


「七ページしか進んでないけど」


「うるさい」


「やっぱ集中できなかったんじゃん」


「春樹が喋ってたから」


「勉強だって!」


「分かってる」


「じゃあ何で怒るんだよ」


「怒ってない」


「最近そればっかりだな」


「春樹がいちいち聞くから」


「だって分かんないんだよ」


 春樹は少し困ったように頭を掻く。


「俺、何かした?」


 雫の歩調が少し落ちる。


「何もしてない」


「なら何で」


「……本当に何もしてないから」


「余計分からないんだけど」


「分からなくていい」


「それ、解決する気ないだろ」


「ない」


「断言された!」


 春樹が笑う。


 雫も少しだけ笑った。


 数歩。


 沈黙が続く。


 夕方の住宅街では、自転車で帰る学生が二人の横を通り過ぎていった。


「でも」


 雫が言う。


「ん?」


「今日は、ありがと」


「何が?」


「本屋」


「ああ」


「あと、待っててって言ったのに、ちゃんと帰ってくれたから」


「約束しただろ」


「うん」


「俺、本の約束以外も一応守るぞ?」


「一応なの?」


「言い方間違えた」


「馬鹿」


「今日初めてだからまだいい」


「回数数えてるの?」


「昨日二回言われたからな!」


 雫が笑う。


 その笑顔を見て、春樹は少しだけ安心した。


(今日は機嫌直ったな)


 理由は結局よく分からない。


 けれど、一緒に帰った。


 本屋にも寄った。


 雫が読みたい本も選んだ。


 それで機嫌が戻ったのなら、やはり最近一緒にいる時間が減ったことが原因だったのだろう。


 春樹の推理は、少しだけ当たっている。


 そして大事な部分で、やはり外れていた。


     ◇◇◇


 分かれ道。


「じゃあ明日」


 春樹が手を上げる。


「うん」


 雫も返す。


 春樹が自宅側へ歩き出す。


 雫も自分の道へ向かう。


 数歩。


 昨日と同じように、雫は一度だけ振り返った。


 春樹はもう前を向いている。


 その背中を見ながら、今日一日を思い返す。


 凛が春樹を迎えに来たとき、一緒についていった。


 森下が春樹を褒めたとき、なぜか落ち着かなかった。


 帰りを待った。


 本屋へ誘った。


 春樹に、自分に合う本を選んでもらった。


 そして今。


 昨日より少しだけ、胸の奥が静かだった。


(……何なんだろ)


 誰かに春樹を取られたわけではない。


 そもそも春樹は自分のものではない。


 そんなことは分かっている。


 それでも、春樹の時間の中に自分がいると安心する。


 昔からそうだったはずなのに。


 最近になって、急にそれを確かめたくなっている。


 雫は鞄の中へ手を入れた。


 さっき春樹に選んでもらった本の角へ指が触れる。


 それだけで、少し嬉しい。


「……ほんと、何なのよ」


 答える人はいない。


 雫は小さく息を吐き、再び歩き出した。


 まだ名前はつけない。


 つけられない。


 けれど、昨日までより一つだけ分かったことがある。


 春樹と一緒にいる時間が減るのは、嫌だ。


 他の誰かが春樹のことを知っていくと、少し気になる。


 そして。


 自分が春樹のことを知っていると確かめられると、嬉しい。


 その三つだけは、もう誤魔化しにくくなっていた。


     ◇◇◇


 同じころ。


「よし」


 自室へ戻った春樹は、机の上へ二冊の本を置いた。


 一冊は読みかけの新刊。


 もう一冊は、今日雫が買ったものと同じ作品。


 自宅の本棚から引っ張り出してきた。


「久しぶりだな」


 表紙を撫でる。


 だが、すぐには開かない。


 雫が読み終わるまで待つ。


 約束したからだ。


 代わりに新刊を手に取る。


「今日は読める」


 昨日は雨。


 昼は真実。


 放課後は雫。


 今日は森下の勉強。


 そのあと雫と本屋。


 最近、本当に自分の読書時間へ人が入ってくる。


 けれど。


「……まあ、今日は楽しかったしな」


 春樹は何気なく呟いた。


 自分で言ってから、少しだけ止まる。


 本屋へ行ったから楽しかったのか。


 雫と本の話をしたからなのか。


 森下が問題を解けるようになったからなのか。


 全部かもしれない。


「よし、読むか」


 結論を出す必要もない。


 春樹は新刊を開いた。


 数ページ進んだところで、机の上のスマートフォンが震える。


「ん?」


 画面を見る。


 雫からだった。


『さっきの本、最初の章読んだ』


 その下に、もう一通。


『結構好きかも』


 春樹の顔が明るくなる。


 すぐに返信画面を開いた。


『だろ? でもまだ俺は何も言わない。約束したから』


 送信。


 十秒ほどで返事が来る。


『珍しく偉い』


「珍しくは余計だろ」


 笑いながら打つ。


『読み終わったらちゃんと話そうぜ』


 送る。


 今度は少し間があった。


 やがて。


『うん。約束』


 短い返事。


 春樹はそれを見てから、スマートフォンを伏せた。


「さて」


 新刊へ戻る。


 だが、その数分後。


 また画面が光った。


 今度は高坂悠斗。


『原作、映画と結構違う』


「お前もかよ!」


 思わず笑った。


 返信する。


 さらに少しすると、真実からも連作短編集について質問が届いた。


「…………」


 春樹はスマートフォンを見る。


 新刊を見る。


 もう一度スマートフォンを見る。


「俺は本が読みたいだけなんだけどなぁ……」


 口ではそう言いながら。


 その表情は、そこまで嫌そうではなかった。

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