第16話 クラス対抗戦に俺を巻き込むなら、せめて読書時間は保証してください
金曜日の朝。
前日まで空を覆っていた雲は夜のうちに薄くなったらしく、七瀬春樹が家を出た頃には、東の空から柔らかな朝日が住宅街へ差し込んでいた。雨に濡れたアスファルトはまだところどころ黒く、植え込みの葉には小さな水滴が残っている。
湿気はあるものの、昨日より空気は軽い。
春樹は鞄を肩へ掛け直しながら、欠伸を一つ噛み殺した。
(今日はちゃんと寝た)
昨夜は珍しく日付が変わる前に布団へ入った。
新刊は読みたかった。かなり読みたかった。正確には、あと三章ほど進めたかった。
しかし前日の寝不足を雫に散々言われたこともあり、途中で栞を挟んだ。
もちろん、それだけが理由ではない。
最近、本を読む以外の予定が妙に増えている。
真実から連作短編集について質問が届き、悠斗からは紗弥に勧められた映画原作について連絡が来て、雫からは自分が選んだ本の感想が送られてきた。
結果、夜の読書時間が削られた。
以前の春樹なら、それだけでかなり不満だったはずだ。
今も不満がないわけではない。
(でも、まあ……嫌じゃないんだよな)
真実が本を楽しんでくれているのは嬉しい。
悠斗が原作まで読もうとしているのも面白い。
雫が自分の選んだ本を気に入ったと言ってくれたのも、普通に嬉しかった。
問題は、その全部が読書に関係しているせいで、春樹自身が切り捨てる理由を見つけられないことだ。
「俺の敵、本じゃなくて本を介した人間関係になってないか……?」
「朝から何と戦ってるの?」
「うおっ!」
横から聞こえた声に春樹が肩を跳ねさせる。
昨日とほとんど同じ位置に、雫がいた。
「お前さ、最近気配消す技術上がってない?」
「春樹が考え事してるだけでしょ」
「本について考えてると周りが見えなくなるんだよ」
「知ってる」
「即答だな」
「何年一緒にいると思ってるのよ」
雫は呆れたように言いながら、春樹の隣へ並んだ。
昨日の帰りとは違い、今日は傘一本分の狭い距離ではない。それでも二人の歩幅は昔から合っているため、意識しなくても自然と同じ速度になる。
「そういえば」
春樹が雫を見る。
「昨日の本、どこまで読んだ?」
「聞くと思った」
「だって一章読んで『結構好きかも』で終わったじゃん。あれだけ送って寝るの、続き気になるだろ」
「春樹、私が読むまで読み返さないって言ったもんね」
「言った。だからネタバレ踏まない範囲で進捗を知りたい」
「進捗管理されてるみたいで嫌なんだけど」
「じゃあ聞かない」
「そこは聞きなさいよ」
「どっちだよ!」
雫が小さく笑う。
「三章の途中」
「結構読んだな」
「昨日帰ってから時間あったし」
「どう?」
「好き」
今度の返事は早かった。
春樹の眉が上がる。
「お、断言した」
「主人公がいい。思ってたより静かな子だけど、何も考えてないわけじゃなくて、ちゃんと自分の中に意見があるでしょ」
「そうそう。あいつ、喋らないだけで流されるタイプじゃないんだよ」
「写真部の先輩に言われたことも、全部そのまま受け入れないし」
「そこがお前向きだと思った」
雫が春樹を見る。
「やっぱり?」
「うん。雫、誰かに全部助けてもらう主人公より、自分でもちゃんと動く主人公の方が好きだろ。周りに支えてもらうのはいいけど、最後の一歩は本人が踏み出すやつ」
「……そうね」
「あと、人間関係が急に変わらない」
「それも好き」
「だと思った」
春樹は満足そうに頷く。
雫はその横顔を見たあと、前へ視線を戻した。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
昨日、春樹が森下へ勉強を教えていたときに感じた、妙な落ち着かなさ。
その正体はまだ分からない。
けれど、こうして春樹が自分の好みを当たり前のように言い当てると、それだけで気持ちが落ち着く。
「でも」
雫が口を開く。
「恋愛要素あるって言ってたわよね?」
「あるぞ」
「誰と?」
「言うわけないだろ!」
「まだ相手分からないのよ」
「だから面白いんだろ! 俺に聞くな!」
「候補くらい」
「駄目。絶対駄目」
「春樹、そういうところ妙に厳しいわね」
「読書の楽しみを守ってるんだよ。特に恋愛ものは『誰とどうなるか』を知って読むのと知らずに読むのじゃ全然違うだろ」
「春樹は誰が好きなの?」
「俺?」
「違う。本の中で」
「ああ」
「何で一瞬自分の話だと思ったの?」
「文脈が急に切れたからだろ!」
春樹は少し考える。
「俺は写真部の部長かな」
「女の先輩?」
「そう」
「へえ」
「何だよ、その反応」
「別に」
「またそれ!」
雫は笑いながら歩く。
「でも意外。春樹、もっと大人しい子好きそう」
「キャラとして好きなのと現実の好みは別だって」
「現実だと?」
「だから知らないって。前にも言ったけど、一緒にいて疲れなくて、本読んでても怒らない人ならいいんじゃない?」
「……ふうん」
「何?」
「私、春樹が本読んでると怒ることあるけど」
「お前は状況が悪いときだろ。授業中とか、歩いてるときとか」
「分かってるんだ」
「最近はな」
「成長したわね」
「保護者みたいに言うなよ」
春樹が不満そうに眉を寄せる。
雫はまた笑った。
その笑顔を見て、春樹も何となく笑う。
昨日感じた「最近の雫は少し変だ」という感覚は、今朝はあまりなかった。
(やっぱ一緒に帰る時間減ってただけだったのか?)
春樹の中では、昨日立てた仮説がさらに補強されていく。
もちろん、正解には少しも届いていない。
◇◇◇
「全員、席につけ」
朝のホームルーム。
永山剛志が教室へ入ってきた瞬間、それまで騒がしかった二年三組の空気が少しだけ締まった。
春樹は机の下で開こうとしていた文庫本を、静かに鞄へ戻す。
その動きを、永山は見逃さなかった。
「七瀬」
「まだ開いてません」
「何も言ってない」
「先に弁明しておこうかと」
「やましい奴ほどよく喋るな」
「先生、それ偏見です」
「お前に関しては経験則だ」
教室から笑いが起こる。
春樹は納得いかない顔をしながらも、本を完全に鞄へしまった。
永山は出席簿を教卓へ置き、黒板へ向かう。
「今日は六月末に予定されている校内スポーツ交流会について説明する」
その言葉に、教室の空気が一気に変わった。
「来た!」
「やっと競技分かる?」
「サッカーあるかな」
「バレーやりたい!」
あちこちから声が上がる。
春樹だけが、嫌そうに目を細めた。
「先生」
「何だ、七瀬」
「交流って名前なら、見学しながら本を読むことで精神的交流を――」
「却下だ」
「まだ最後まで言ってません!」
「どうせ参加したくないという話だろう」
「理解が早い!」
「お前との付き合いも長いからな」
永山は黒板へ大きく『校内スポーツ交流会』と書いた。
「今年は学年ごとのクラス対抗。二年はサッカー、バスケットボール、バレーボール、卓球、クラス対抗リレーの五種目だ」
春樹の表情が止まる。
隣の雫が、ゆっくりと春樹を見る。
前方の悠斗も振り返った。
「……七瀬」
「言うな」
「サッカー」
「聞こえてる」
「出るよな?」
「まだ何も決まってないだろ」
春樹は即座に視線を逸らす。
しかし周囲では、すでに何人かの男子がこちらを見ていた。
「七瀬、サッカーだろ」
「絶対七瀬じゃん」
「神谷と中学一緒だったんだろ?」
「この前体育でめっちゃ上手かったし」
「待て待て待て」
春樹が両手を上げる。
「まだ先生が説明してる。まず聞こう。話はそれからだ」
「逃げる気だ」
「逃げる準備してる」
「してない!」
「静かにしろ」
永山の低い声が落ちる。
教室が一瞬で静まった。
「種目ごとに人数が違う。原則、一人一種目以上。ただし人数調整の都合で二種目出る者もいる。競技ごとの細かいルールは今日中に配布するプリントを確認しろ」
黒板へ必要人数が書かれていく。
サッカー。
男女混合ではなく男子種目。
バスケットボール、バレーボールは男女別。
卓球は個人戦とダブルス。
最後にクラス対抗リレー。
「来週の水曜までに出場者を決めろ。ホームルーム委員を中心に話し合え」
永山はそこで一度、教室全体を見渡した。
「それから、念のため言っておくが、経験者だけに押しつけるな。クラス行事だ。勝ちたい気持ちは分かるが、参加する本人の意思も確認しろ」
何人かの視線が、また春樹へ向いた。
春樹は思わず永山を見る。
「先生……」
「何だ」
「今日ちょっと好きです」
「気持ち悪いからやめろ」
「酷い!」
教室が再び笑いに包まれる。
永山も口元をわずかに緩めた。
「ただし」
「嫌な予感」
「七瀬」
「はい」
「お前は昨日までに『クラス全体で必要なら考える』と言ったそうだな」
「誰から聞いたんですか!?」
春樹が勢いよく雫を見る。
雫は首を横に振った。
「私じゃない」
「じゃあ誰!?」
「赤木から聞いた」
「紗弥!」
「だって先生が昨日、行事のことで何か話してたか聞いたから」
「情報共有が早い!」
紗弥が笑いながら肩を竦める。
永山は腕を組む。
「無理に出ろとは言わん。ただ、必要になったときに『本を読みたいから』だけで逃げるのはなしだ」
「……それは分かってます」
「ならいい」
春樹は机へ額をつけた。
「俺の放課後が……」
「まだ放課後じゃないわよ」
雫が呆れる。
「練習とか始まったら読書時間減るだろ」
「本番だけじゃないものね」
「そうなんだよ。サッカー自体は嫌いじゃない。むしろやれば楽しい。でも練習が始まると時間が消える。三十分あれば短編一つ読めるし、一時間あれば文庫の三分の一くらい進むんだぞ」
「でもクラスのためなら考えるんでしょ?」
「……考える」
「じゃあまだいいじゃない」
「雫、お前どの競技出る?」
「まだ決めてない」
「卓球にしろ」
「何で春樹が決めるのよ」
「練習少なそう」
「私の読書時間は関係ないでしょ!」
「俺と一緒に帰れる時間が――」
そこまで言って、春樹は止まった。
雫も止まる。
「……何?」
「いや」
昨日、雫が一緒に帰る時間を気にしていた。
なら部活や練習で遅くなれば、また機嫌が悪くなるかもしれない。
そう考えただけだった。
「お前、最近一緒に帰る時間気にしてたから」
「……それで?」
「練習長い競技だと帰る時間ずれるかなって」
雫は数秒黙った。
頬杖をつき、窓の方へ顔を向ける。
「別に」
「気にしない?」
「……春樹がサッカー出るなら、どうせ春樹も遅くなるでしょ」
「俺が出るの確定してないからな?」
「もう半分くらい確定してる顔してるけど」
「誰が!?」
「周りが」
春樹が教室を見渡す。
数人の男子が目を逸らした。
「お前ら覚えてろよ……」
◇◇◇
二時間目の休み時間。
春樹は廊下の窓際で新刊を読んでいた。
教室にいるとスポーツ交流会の話題に巻き込まれる。
ならば逃げればいい。
実に合理的な判断だった。
「七瀬」
「見つかった」
「何で第一声がそれなんだよ」
神谷蓮が笑いながら近づいてきた。
サッカー部の練習着ではなく制服姿だが、朝から何か聞いたらしく表情が楽しそうだ。
「お前、二組だろ。何でこっち来るんだよ」
「交流会の競技発表されたから」
「帰れ」
「冷たっ」
「絶対サッカーの話だろ」
「正解」
「聞きたくない」
春樹は本へ視線を戻す。
蓮はその横から覗き込んだ。
「何読んでんの?」
「新刊」
「面白い?」
「面白い。だから話しかけるな」
「じゃあサッカー出る?」
「話聞いてた!?」
春樹が本を閉じる。
蓮は満足そうに笑った。
「二組、俺出るぞ」
「サッカー部なんだから出るだろ」
「だから三組もお前出ろよ」
「何でだよ」
「試合したい」
「部活でやれ」
「お前、部活入ってないじゃん」
「だから平和に読書してるんだよ」
春樹はため息をつく。
「何回も言ってるけど、俺はサッカー嫌いじゃないぞ。お前らと蹴るのも楽しいし、試合も好きだよ。でも交流会のために練習始まったら放課後潰れるだろ? 俺にとってそこが最大の問題なんだよ」
「一週間くらいだろ」
「一週間あったら何冊読めると思ってる」
「知らねえよ」
「平日一日一時間でも五時間。休日含めたらもっとだぞ。文庫なら二、三冊いける」
「本を単位に時間計算するのやめろ」
「分かりやすいだろ」
「お前にしか分かりやすくねえ」
蓮が笑う。
「でも出るんだろ?」
「クラスで必要ならな」
「じゃあ出るな」
「何で確定するんだよ」
「三組でお前より上手い奴いる?」
「サッカー部いるだろ」
「いるけど、お前も必要になるだろ」
「俺を戦力計算に入れるな」
「無理」
春樹は本で顔を隠した。
「最悪だ……」
「そこまで嫌がることか?」
「サッカーが嫌なんじゃないって言ってるだろ。俺は予定を勝手に奪われるのが嫌なんだよ」
「じゃあ条件つければ?」
「条件?」
「練習毎日参加しなくていいとか」
春樹が本を少し下げる。
「……それはありだな」
「経験者なら基礎練毎回いらないだろ。連携合わせる日だけ出るとか」
「神谷」
「何?」
「お前、今日すごく頭いいな」
「今日“は”みたいに言うな」
「いや、それなら現実的だ」
春樹は顎へ手を当てる。
「本番は出る。練習は必要な日だけ。あとは昼休みとか短時間で合わせる」
「結局出る気になってんじゃん」
「条件次第!」
「はいはい」
「まだ確定じゃないからな」
「じゃあ楽しみにしてる」
「聞けよ!」
予鈴が鳴る。
蓮は笑いながら自分の教室へ戻っていった。
春樹はその背中を見送り、閉じた本を見る。
(……条件交渉か)
悪くない。
少なくとも、毎日放課後を奪われるよりはいい。
サッカーそのものは嫌いではない。
むしろボールを蹴れば楽しいことも、自分が一番よく知っている。
問題は、楽しいからこそ時間を使ってしまうことだった。
「本とサッカーの両立……」
春樹は小さく呟く。
「大げさね」
「うわっ!」
背後から声をかけられ、春樹が振り返る。
九条凛が立っていた。
「九条さんまで気配消すのやめてくれない?」
「普通に歩いてきただけよ」
「最近みんなそう言う」
「七瀬君が周り見てないんじゃない?」
「否定できない」
凛は小さく笑った。
「森下、昨日ありがとうって言ってたわ」
「ああ。どうだった?」
「家でも問題集やったみたい」
「ならよかった」
「今日も少し聞きたいところがあるらしいんだけど」
「今日?」
春樹の顔がわずかに引きつる。
凛はすぐ察した。
「無理ならいいわよ」
「いや、何分くらい?」
「本人は一問だけって言ってた」
「なら昼休みでもいい?」
「私から伝えておく」
「助かる。放課後は予定あるから」
「読書?」
「違う」
春樹が少し胸を張る。
「幼なじみと帰る約束」
凛の目が一瞬だけ止まった。
「……そう」
「昨日、先に予約された」
「予約?」
「最近俺が図書室とか寄って帰る時間ずれてたから、雫が不満だったみたいでさ」
凛は春樹をじっと見る。
「何?」
「七瀬君」
「うん」
「それ、西条さん本人がそう言ったの?」
「一緒に帰る時間が減るのは嫌って感じだったから、多分そう」
「多分」
「何だよ」
凛は何か言いかけた。
しかし口を閉じる。
「……別に」
「またそれ! 最近女子みんな『別に』って言わない?」
「あなたが余計なことを言うからじゃない?」
「俺、何か言った?」
「分からないならいいわ」
「気になるだろ!」
「予鈴鳴ったわよ」
「あ、逃げた」
「授業へ戻るだけ」
凛は教室へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで、振り返った。
「でも」
「ん?」
「約束したなら忘れない方がいいと思う」
「それは大丈夫。今日は図書室も昼に行く」
「ならいいんじゃない?」
「何で九条さんまで確認するんだよ」
「さあ」
今度こそ凛は去った。
春樹は一人、廊下に残される。
「……何なんだ?」
考えても分からない。
授業が始まるため、春樹も教室へ戻った。
◇◇◇
昼休み。
「七瀬先輩!」
教室の入口から元気な声が響いた。
春樹は弁当箱の蓋を開けたところで顔を上げる。
「……誰?」
そこに立っていたのは、小柄な女子生徒だった。
一年生用のリボン。
肩に届く程度の明るい茶色の髪が、動くたびにふわりと揺れている。大きな目と表情の分かりやすい顔立ちで、教室を覗き込んだ瞬間から、明らかに春樹を探していた。
彼女は春樹を見つけると、ぱっと笑った。
「いた!」
「いや、だから誰?」
春樹の率直な反応に、周囲の生徒が何人か笑う。
女子生徒は気にした様子もなく、まっすぐ春樹の机へやってきた。
「小日向ひよりです!」
「……小日向?」
「はい!」
「一年?」
「一年三組です!」
「初対面だよな?」
「ちゃんと話すのは初めてです!」
「その言い方だと、ちゃんとじゃない接触があったみたいに聞こえるんだけど」
「見かけたことは何回もあります!」
「怖い怖い怖い」
「何でですか!?」
春樹は箸を置いた。
向かいの悠斗が面白そうにこちらを見ている。
紗弥も目を丸くしていた。
そして隣では、雫がゆっくりとひよりを見る。
「それで、小日向さん?」
「ひよりでいいです!」
「初対面の後輩をいきなり名前呼びするのハードル高いんだけど」
「じゃあ私も春樹先輩って呼びます!」
「話聞いてた!?」
「はい!」
「絶対聞いてない!」
ひよりはにこにこしている。
春樹は額へ手を当てた。
「とりあえず用件は?」
「本を選んでください!」
「…………」
春樹が止まる。
悠斗が吹き出した。
「またかよ!」
「何で笑うんだよ!」
「無料選書サービス、口コミ広がってんじゃん!」
「誰が広げた!?」
「私です」
ひよりが元気よく手を上げた。
「お前なの!?」
「正確には、聞きました!」
「誰に!」
「新海先輩です!」
「新海は一年だぞ! お前と同学年だろ!」
「あ、そうでした」
「そこじゃない!」
教室のあちこちから笑い声が上がる。
春樹は完全に昼食の手を止めていた。
「新海と知り合いなの?」
「はい。同じ学年ですし、友達の友達です。昨日、本を読んでたから珍しいなって思って聞いたら、七瀬先輩に勧めてもらったって」
「あいつ……」
「それで、すごく楽しそうに説明してくれたから」
「新海が?」
「はい。『変な先輩だけど、本選ぶの上手だよ』って」
「褒められてる気がしない!」
「褒めてました!」
「前半いらなくない!?」
ひよりが笑う。
春樹はため息をつきながら、改めて彼女を見る。
少なくとも悪意はなさそうだ。
距離が近い。
ものすごく近い。
初対面とは思えないほど遠慮がない。
「で、本を選んでほしいって?」
「はい!」
「普段読む?」
「漫画ならいっぱい!」
「小説は?」
「学校の朝読書で読むくらいです!」
「好きなジャンル」
「面白いやつ!」
「広い!」
「笑えるやつも好きです!」
「他は?」
「恋愛も好きです!」
「なるほど」
春樹の顔が少し変わる。
雫がそれを見逃さなかった。
「春樹」
「何?」
「楽しそうね」
「本選ぶんだから楽しいだろ」
「そう」
雫は弁当のおかずを一つ口へ運ぶ。
ひよりは春樹の机へ両手をついた。
「あと、長いの苦手です!」
「どのくらいなら読める?」
「分かりません!」
「堂々と言うな!」
「厚いと怖いです!」
「ページ数で威圧されるタイプか」
「はい!」
「じゃあ二百ページ前後かな。文章軽めで会話多い方がいい?」
「たぶん!」
「主人公は男と女どっちがいい?」
「どっちでも!」
「恋愛はメイン?」
「ちょっとあればいいです!」
「泣ける話は?」
「泣きすぎるのは嫌です!」
「怖いのは?」
「夜トイレ行けなくなるから嫌です!」
「子供か!」
「高校一年生です!」
「高校一年生ならトイレくらい行け!」
悠斗が机へ突っ伏して笑っている。
「お前ら初対面だよな?」
「俺も確認したい」
春樹が真顔で答える。
ひよりは楽しそうだった。
「春樹先輩、面白いですね!」
「俺は本を選ぼうとしてるだけなんだけど」
「でも楽しいです!」
「そうかよ」
春樹は頭の中で候補を探す。
漫画は読む。
小説は慣れていない。
長編は苦手。
会話が多く、テンポが良い。
恋愛要素は少し。
重すぎず、怖すぎず、笑える。
「……三冊くらい候補あるな」
「本当ですか!?」
「一冊は学園もの。文化祭の実行委員になった男女が、クラスの問題を解決していくやつ。恋愛は薄めだけど会話が面白い」
「おお!」
「二冊目は、商店街の喫茶店を舞台にした連作。毎回客が変わる。ちょっと恋愛あり。短編だから読みやすい」
「それ気になります!」
「三冊目は――」
「春樹」
雫の声が入る。
「ん?」
「ご飯」
「……あ」
春樹は弁当を見る。
まだほとんど食べていない。
「昼休み終わるわよ」
「まだ二十五分ある」
「そのまま話してたら終わるでしょ」
「確かに」
ひよりが雫を見る。
「西条先輩ですよね?」
「知ってるの?」
「はい!」
「何で?」
「春樹先輩とよく一緒にいるからです!」
雫の箸が止まる。
春樹も止まる。
「……小日向」
「はい?」
「お前、本当にどこで俺見てるの?」
「普通に学校です!」
「普通に学校で見てるだけで、俺と雫がよく一緒にいるって分かる?」
「朝、一緒に来てますよね?」
「まあ」
「放課後もたまに一緒です!」
「たまに?」
「図書室にもいます!」
「待て」
春樹が目を細める。
「お前、図書室来るの?」
「たまに!」
「本あんまり読まないのに?」
「涼しいので!」
「理由!」
「あと友達待つとき!」
「ああ、それなら分かる」
春樹が納得する。
ひよりは笑顔のまま続ける。
「春樹先輩、だいたい窓側の同じ席にいますよね」
「…………」
「本読むとき、最初ちょっと前屈みになって、面白くなると背もたれに寄りかかるんですよ」
「待て待て待て」
「あと面白いところだと口元笑ってます!」
「何でそんな知ってんの!?」
教室がまた笑いに包まれる。
雫はひよりを見つめている。
栞とは違う。
真実とも違う。
凛とも違う。
目の前の一年生は、最初から距離が近い。
春樹が本を読む場所も、読むときの癖も知っている。
胸の奥に、小さな何かが引っかかった。
「小日向さん」
雫が呼ぶ。
「はい!」
「春樹のこと、前から知ってたの?」
「有名じゃないですか?」
「……有名?」
「授業中に本読んで怒られてる先輩!」
「そっち!?」
春樹が頭を抱える。
「あとサッカー上手いって聞きました!」
「誰から!?」
「一年のサッカー部!」
「情報経路が広い!」
「それと、図書室にいつもいる先輩!」
「それは見れば分かるだろ!」
「だから気になってました!」
ひよりは悪びれずに言う。
春樹は完全に疲れた顔をした。
「俺、変な意味で有名になってない?」
「今さらじゃない?」
雫が冷静に返す。
「幼なじみまで!」
「事実でしょ」
「否定してくれよ!」
「授業中に本読んで怒られてるのは事実」
「ぐうの音も出ない!」
ひよりが楽しそうに笑う。
「じゃあ、今度図書室で本選んでください!」
「今度っていつ?」
「今日!」
「今日!?」
「昼休み!」
「今もう昼休み!」
「じゃあ今から!」
「俺まだ弁当食ってない!」
「じゃあ食べ終わるまで待ちます!」
「距離感どうなってんだお前!」
「後輩距離です!」
「そんな距離ない!」
春樹の叫びに、教室のあちこちからまた笑いが起こった。
雫はひよりを見る。
明るい。
遠慮がない。
春樹が困っていても気にせず踏み込んでいく。
けれど嫌な感じはしなかった。
本当にただ、興味を持った相手へ一直線なのだろう。
それでも。
「春樹」
「何?」
「今日、放課後の約束忘れてないわよね?」
雫が突然確認する。
「忘れてないって」
「本当に?」
「帰る約束だろ」
「うん」
ひよりが二人を見る。
「一緒に帰るんですか?」
「そうだけど」
春樹が答える。
「いいなあ」
「何が?」
「幼なじみ!」
「そこ?」
「漫画みたいじゃないですか!」
「やめろ」
春樹の声が低くなる。
「何でです?」
「俺にそういう属性をつけるな。幼なじみは幼なじみだ。現実でラブコメみたいなことが起きたら読書時間がなくなる」
「もう結構なくなってません?」
「初対面の後輩に刺された!」
悠斗が笑いすぎて咳き込んだ。
紗弥が背中を叩く。
雫は少しだけ視線を逸らした。
ひよりは何も知らない。
だからこそ、その言葉は妙に真っ直ぐだった。
(幼なじみは幼なじみ)
春樹はずっとそう言っている。
自分も少し前までは、それで何の問題もなかった。
今も、問題があるとは思っていない。
ただ。
昨日から自分は、一緒に帰る約束を先に取るようになった。
春樹が誰かと話していると、その相手が気になる。
そして今も、新しく現れた一年生を見ながら、無意識に放課後の約束を確認した。
「……雫?」
「何?」
「ぼーっとしてる」
「してない」
「ならいいけど」
「早く食べなさいよ」
「はいはい」
春樹は弁当へ戻る。
ひよりは本当にその場で待つらしく、近くの空いている椅子を持ってきた。
「何で座るんだよ」
「待つって言ったので!」
「自分の教室で食べてこい!」
「もう食べました!」
「早いな!」
「昼休み始まってすぐ食べました!」
「俺を探しに来るために?」
「はい!」
「何でそこまで本選んでほしいんだよ」
ひよりは少しだけ首を傾げた。
「だって」
さっきまで勢いだけで喋っていた彼女が、そこで初めて少し考えるように間を置いた。
「新海さんが、楽しそうだったから」
春樹の箸が止まる。
「新海が?」
「はい。本の話してるとき」
ひよりは笑う。
「普段もちゃんとしてて優しいんですけど、昨日はいつもより楽しそうだったんです。だから、そんなに面白いなら私も読んでみたいなって」
春樹は少しだけ目を見開いた。
昨日、真実にも似たことを言われた。
『七瀬先輩が楽しそうだから、読んでみようって思った』
今度は、その真実が楽しそうにしていたから、ひよりが来た。
一冊の本が、人から人へ繋がっている。
「……なるほど」
「駄目ですか?」
「いや」
春樹は首を横に振る。
「それならちゃんと選ぶ」
「やった!」
「ただし飯食わせろ」
「はい!」
「あと静かに待て」
「はい!」
三秒。
「春樹先輩、好きなおかず何ですか?」
「静かにって言ったよな!?」
◇◇◇
二十分後。
「結局来た……」
春樹は図書室の入口で小さく呟いた。
隣にはひより。
少し後ろには雫までいる。
「何で雫も?」
「私も本返したいから」
「昨日買った本は?」
「それじゃなくて学校で借りてたやつ」
「ああ」
「何?」
「いや、今日はちゃんと理由あるんだなって」
「昨日だってあったわよ」
「俺に本選ばせるためだったろ」
「それも理由でしょ」
「まあそうだけど」
ひよりが二人の間へ顔を出す。
「本当に仲いいですね!」
「近い近い!」
「ひより、小さいから間に入れます!」
「物理的な話じゃない!」
「小日向さん」
雫が笑顔で呼ぶ。
「はい!」
「春樹、本選ぶと長いから覚悟した方がいいわよ」
「そうなんですか?」
「何冊も候補出して、好み聞いて、あらすじ説明して、最後に『無理なら読まなくていい』って言う」
「雫」
「何?」
「何で俺の選書パターン完全に把握してるの?」
「何回見たと思ってるのよ」
春樹は言葉に詰まる。
ひよりが感心したように頷いた。
「さすが幼なじみ」
「……まあね」
雫は短く答えた。
その声が、ほんの少しだけ嬉しそうだったことに春樹は気づかない。
三人で図書室へ入る。
カウンターにいた栞が顔を上げた。
「こんにちは、七瀬君。西条さんも」
「こんにちは」
「こんにちは、白石先輩」
栞の視線が、ひよりへ移る。
「えっと……」
「小日向ひよりです!」
「一年生?」
「はい!」
「本を探しに来たんですか?」
「春樹先輩に選んでもらいに来ました!」
栞が春樹を見る。
雫も春樹を見る。
春樹は両手を上げた。
「俺から営業してないですからね」
「誰も聞いてません」
栞がくすりと笑う。
「最近、七瀬君に本を選んでもらう人、多いですね」
「俺もそう思います」
「向いてるんじゃないですか?」
「赤木にも言われました」
「私もそう思います」
「増えた!」
ひよりが目を輝かせる。
「白石先輩も春樹先輩に本選んでもらったんですか?」
「私は逆ですね」
「逆?」
「七瀬君に勧めることの方が多いです」
「おお!」
ひよりが春樹を見る。
「春樹先輩にも本を選ぶ人がいる!」
「何で俺が一方的に選ぶ人みたいになってんだよ」
「白石先輩はすごいですね!」
「え?」
「春樹先輩に本を勧められるんですよね?」
「まあ……はい」
「それ、かなり難しそうです!」
栞が少し困ったように笑う。
「七瀬君は何でも読みますよ」
「でもいっぱい読んでる人に勧めるのって難しくないですか?」
「それは……少し」
「小日向、意外と鋭いな」
「意外は余計です!」
春樹は笑いながら、本棚へ向かう。
「じゃあ選ぶぞ」
「はい!」
「さっき言った三冊からまず現物見よう。厚さで嫌になる可能性あるから」
「大事です!」
「そんなに厚い本怖いのか」
「三百ページ超えると『私に読めるの?』ってなります」
「気持ちは分からなくもない。読み慣れてないと数字が壁になるんだよな」
「春樹には分からないでしょ」
雫が横から言う。
「俺だって千ページ超えると一瞬考えるぞ」
「一瞬なんだ」
「上下巻ならむしろ喜ぶ」
「やっぱり分かってない」
四人の声が少し大きくなり、近くで勉強していた生徒がこちらを見る。
栞が人差し指を口元へ立てた。
「静かに」
「すみません」
春樹とひよりの声が同時に小さくなる。
雫が笑いを堪えた。
◇◇◇
「これ」
春樹が棚から一冊抜く。
「二百十二ページ。学園もの。文化祭実行委員の男女が中心だけど、恋愛だけじゃなくクラス内の小さい問題を解決していく」
ひよりが表紙を見る。
「かわいい」
「表紙で選ぶのも全然あり」
「いいんですか?」
「いいに決まってるだろ。本を手に取る理由なんて何でもいい。表紙でも題名でも、帯の一文でも、友達が読んでたからでも」
栞が少し離れたところで頷いている。
春樹は続ける。
「重要なのは、読んでみて自分に合うかどうか。入口に正解なんてない」
「じゃあ表紙好きです!」
「一ポイント」
「ポイント制なんですか?」
「今作った」
「適当!」
「次」
二冊目。
商店街の喫茶店を舞台にした連作短編集。
ひよりは最初の本より少し地味な表紙を眺める。
「こっちは一話ずつ短い。途中で止めやすいし、主人公も毎回変わる」
「恋愛あります?」
「ある話もある」
「笑えます?」
「店主がかなり変な人」
「春樹先輩みたいな?」
「俺を変人枠に入れるな!」
雫が肩を震わせる。
「否定しきれないのがね」
「幼なじみが援護してくれない!」
「事実だから」
三冊目は、部活を題材にした青春コメディだった。
ひよりは三冊を抱え、真剣な顔で見比べる。
さっきまで騒がしかったのが嘘のように黙り込んだ。
「悩む?」
「はい」
「全部借りてもいいけど、最初から三冊はおすすめしない」
「何でです?」
「読まなきゃって義務になる可能性あるから。一冊読んで、面白かったら次でいい」
「なるほど……」
「俺はたくさん読むけど、それを他人にも要求する気はないからな」
「春樹先輩」
「ん?」
「本当に本屋さんみたいですね」
「最近それ何回目だよ!」
ひよりは最終的に、最初の学園ものを選んだ。
「これにします!」
「理由は?」
「表紙!」
「いいじゃん」
「あと文化祭好きです!」
「さらにいい」
「恋愛もちょっとある!」
「それもいい」
「会話多い!」
「完璧だな」
春樹が笑う。
ひよりは本を胸の前で抱えた。
「読み終わったら感想言いに来ます!」
「無理に最後まで読まなくていいぞ」
「出た」
雫が言う。
「何が?」
「さっき私が言ったやつ」
「……本当だ」
「でしょ?」
「俺、毎回同じこと言ってる?」
「言ってる」
栞まで頷く。
「白石先輩まで!?」
「でも、大事なことだと思います」
「ですよね?」
「はい」
「ほら雫!」
「何で私に勝ち誇るのよ」
ひよりが三人を見回す。
「何かいいですね」
「何が?」
「本の話してるの」
その一言に、春樹が少し止まる。
ひよりは気にせずカウンターへ向かった。
「借りてきます!」
その背中を見ながら、春樹はふと笑った。
「……また一人増えた」
雫が聞く。
「何が?」
「本の話する相手」
「嬉しい?」
「まあな」
春樹は少し考え、それから素直に頷いた。
「読書時間は減るけど」
「結局そこなんだ」
「重要だから」
「でも嫌じゃない」
栞が静かに言った。
春樹は彼女を見る。
「……そうですね」
以前なら、誰かに話しかけられて本を閉じることを、単純に邪魔だと思っていたかもしれない。
今でも、いいところで止められれば悔しい。
昼休みに十二ページしか読めなければ嘆く。
けれど、読んだ本について誰かと話すことも、人に合いそうな一冊を考えることも、思っていた以上に楽しい。
「俺、一人で読むのが好きなのは変わってないんですけどね」
「それでいいと思います」
栞が答える。
「一人で読む時間と、誰かと話す時間は、別ですから」
「それ、昨日新海に似たようなこと言いました」
「七瀬君が?」
「『読みたかった』と『話したくなかった』は別だって」
栞が少し笑う。
「七瀬君らしいですね」
「また言われた!」
「今日何回目?」
雫が楽しそうに聞く。
「数えたくない!」
◇◇◇
教室へ戻る途中。
ひよりは一年生の教室がある階で別れた。
「春樹先輩!」
「何?」
「明日までに読みます!」
「急ぐなって!」
「でも早く感想言いたいです!」
「分かったから無理すんな!」
「はい!」
元気よく手を振り、ひよりは階段を下りていく。
春樹と雫はその背中を見送った。
「嵐みたいだったな」
「元気な子ね」
「俺、昼休みだけで体力使った気がする」
「楽しそうだったけど」
「本選ぶのは楽しいって」
「ふうん」
「何?」
「別に」
「また!」
雫が先に歩く。
春樹も並ぶ。
「でも意外だった」
「何が?」
「雫、小日向に普通だったな」
「どういう意味?」
「いや、昨日とか最近、俺が誰かと喋ってるとちょっと機嫌悪いことあったから」
雫の歩みが一瞬だけ鈍る。
「……別に真実ちゃんや白石先輩や九条さんが嫌なわけじゃないもの」
「それは分かってる」
「小日向さんも同じ」
「じゃあやっぱ俺の時間の問題?」
「……知らない」
「そこ本人が考えてくれないと俺には永遠に分からないぞ」
「春樹に分からなくていい」
「理不尽!」
雫は小さく笑った。
確かに、ひよりが嫌だったわけではない。
むしろ明るくて面白い後輩だと思う。
真実も嫌いではない。
栞も、凛もそうだ。
だから余計に分からない。
相手が嫌いだから春樹と話してほしくないわけではない。
春樹が誰かと仲良くなること自体を止めたいわけでもない。
それなのに、自分が知らない春樹を誰かが知っていると落ち着かず、春樹が誰かへ時間を使っていると、自分との時間が残っているか確かめたくなる。
(……面倒くさい)
誰が。
春樹ではない。
多分、自分だ。
「雫?」
「何?」
「また考え事?」
「ちょっとだけ」
「本?」
「違う」
「じゃあ何?」
「言わない」
「気になるだろ」
「春樹には関係ない」
「最近俺に関係あることで機嫌変わってる気がするんだけど」
「気のせい」
「絶対違うだろ」
教室が近づく。
雫は少し歩調を速めた。
春樹が追いつく。
「なあ」
「何?」
「放課後、一緒に帰る約束は覚えてるからな」
雫の足が止まりかけた。
春樹はそのまま続ける。
「だからそんな確認しなくていいぞ。森下の質問も昼に終わらせるし、今日は寄り道もしない」
「……そう」
「うん」
「じゃあいい」
「ほら、やっぱそれじゃん」
春樹が得意そうに笑う。
「一緒に帰る時間減ったのが不満だったんだろ」
「…………」
「俺、結構当たってない?」
雫は春樹を見る。
得意げな顔。
本気で正解だと思っている。
「……半分くらい」
「半分!?」
「多分」
「残り半分何だよ!」
「知らない」
「だから本人が知らないと俺には無理だって!」
雫は答えず教室へ入った。
けれど、その口元にはわずかに笑みが残っていた。
◇◇◇
放課後。
「じゃあ今日は帰るか」
春樹が鞄を肩へ掛ける。
「うん」
雫も立ち上がる。
「珍しいな」
悠斗が言った。
「何が?」
「七瀬が放課後すぐ帰るの」
「俺だって帰る日くらいある」
「最近図書室ばっかだったじゃん」
「今日は予約入ってるから」
「予約?」
悠斗が雫を見る。
雫は一瞬だけ春樹を睨んだ。
「何で言うのよ」
「別に隠すことじゃないだろ」
「何の予約?」
紗弥が面白そうに聞く。
「雫が昨日、『明日一緒に帰ろ』って先に――」
「春樹!」
「何!?」
「言わなくていい!」
「何で!?」
悠斗と紗弥が同時に笑った。
「へえ」
「予約ねえ」
「お前らその顔やめろ!」
雫が鞄を持って先に教室を出る。
「ほら春樹、帰るわよ!」
「待てって!」
春樹も慌てて追う。
教室を出る直前、悠斗の声が飛んできた。
「デート楽しんでこい!」
「ただの帰宅だ!」
春樹が振り返って叫ぶ。
廊下にいた生徒まで何人か振り返り、雫が片手で顔を覆った。
「春樹……」
「何?」
「声大きい」
「悠斗が変なこと言うからだろ」
「反応しなきゃいいでしょ」
「無理だろ!」
「何でよ」
「事実と違うこと言われたら訂正したくなる!」
「……事実と違うんだ」
「だって帰るだけだろ?」
「そうだけど」
「なら合ってるじゃん」
雫は少しだけ唇を尖らせる。
春樹は気づかない。
二人は昇降口へ向かった。
今日は雨の心配もない。
校庭では部活動が始まり、遠くからホイッスルの音が聞こえてくる。
サッカー部のグラウンドでは、すでに何人かがボールを蹴っていた。
「あ」
春樹が足を止める。
蓮がこちらに気づいた。
「七瀬!」
「嫌な予感」
蓮が走ってくる。
「今日、ちょっとだけ蹴ってかない?」
「帰る」
「十分!」
「帰る」
「五分!」
「値下げ方式やめろ」
「じゃあ三分」
「短すぎて何するんだよ!」
「リフティング」
「それなら一人でやれ!」
蓮が笑う。
「交流会、三組サッカー誰出るか決まった?」
「まだ」
「お前は?」
「まだ!」
「出ろよ」
「だからクラスで必要なら考えるって」
「じゃあ練習試合しようぜ」
「話飛びすぎ!」
雫が少し離れたところで待っている。
春樹はそれに気づいた。
「悪い神谷。今日は帰る約束してるから」
「西条と?」
「うん」
蓮が雫を見る。
そして春樹へ戻る。
「……へえ」
「何だよ」
「いや、別に」
「今日それ何回目だよ!」
「じゃあまた今度な」
「練習参加するとは言ってないからな!」
「分かってるって」
絶対に分かっていない顔で、蓮はグラウンドへ戻っていく。
春樹はため息をついた。
「行くか」
「うん」
二人で校門を出る。
金曜の放課後。
週末を前にした生徒たちの足取りはどこか軽く、駅へ向かう道にも同じ制服の姿が多い。
「スポーツ交流会」
雫が言う。
「春樹、出るの?」
「まだ分からない」
「でもサッカーでしょ?」
「多分な」
「嫌?」
「さっきも言ったけど、サッカー自体は嫌じゃない」
春樹は歩きながら少し考える。
「むしろ試合になったら普通に楽しいと思う。でも毎日練習ってなると嫌」
「本読めないから?」
「そう」
「本当に一貫してるわね」
「俺から本取ったら何が残るんだよ」
「サッカー」
「残った!」
「勉強」
「それもあるな」
「あと、人に教えるの上手い」
「最近追加された」
「友達多い」
「普通くらいだろ」
「女子の知り合いも増えた」
「本関係ばっかだけどな」
「……そうね」
雫の声がほんの少しだけ変わった。
春樹が横を見る。
「また機嫌悪くなった?」
「なってない」
「本当に?」
「本当に」
「ならいいけど」
雫は数歩進んでから、春樹を見る。
「小日向さん」
「うん?」
「これからも来るのかな」
「本読んだら感想言いに来るって言ってたから、来るんじゃない?」
「そう」
「何?」
「別に」
「それ絶対何かあるやつだろ」
「春樹」
「何?」
「明日、学校ある?」
「ない。今週は土曜授業ないだろ」
「予定は?」
「午前は本屋行くかも。新刊見たい」
「午後は?」
「読む」
「それだけ?」
「最高の予定だろ」
「……じゃあ」
雫は一度、言葉を止めた。
春樹が待つ。
「私も本屋行こうかな」
「昨日行ったじゃん」
「行ったら駄目なの?」
「いや、全然」
「春樹が行くところ、駅前?」
「うん」
「何時?」
「十時くらいかな」
「じゃあ私も行く」
「いいけど」
春樹は不思議そうに雫を見る。
「欲しい本あるの?」
「ない」
「じゃあ何で?」
「行ったら見つかるかもしれないでしょ」
「それはそう」
「それに」
「うん?」
「昨日買った本の続きを、今日読んでおくから」
「……まさか」
春樹の目が少し輝く。
「読み終わる?」
「多分」
「マジで?」
「そんなに嬉しそうにする?」
「だって感想聞けるじゃん!」
「やっぱりそっち」
「当たり前だろ。俺も読み返せるし」
雫は春樹を見る。
本当に楽しそうだ。
自分が本を読み終えることを、春樹が楽しみにしている。
ただ感想を聞きたいだけ。
きっと春樹にとっては、それ以上でも以下でもない。
それでも。
「じゃあ」
雫が笑う。
「今日中に読む」
「無理すんなよ」
「春樹に言われたくない」
「俺は無理してない」
「一昨日一時半まで読んでた人が?」
「それは……」
「昨日は?」
「十二時前に寝た」
「えらい」
「だから保護者みたいに言うな!」
「ふふ」
二人の声が、夕方の通学路へ溶けていく。
春樹はまだ知らない。
明日の本屋が、雫にとってただ本を買うだけの予定ではなくなりつつあることを。
雫自身も、それをまだ説明できない。
ただ、春樹と一緒に本を見たい。
春樹が自分へ選ぶ本を知りたい。
自分が読んだ本について、春樹と話したい。
そして、今日現れた元気な一年生が「春樹先輩」と何度も呼んでいた声が、ほんの少しだけ耳に残っている。
嫌いではない。
むしろ面白い子だった。
だからこそ、自分の胸に残る小さな引っかかりを、誰かへの悪意として処理することもできなかった。
(……明日は、私が先に約束したんだから)
そこまで考えて、雫は自分で少しだけ眉を寄せる。
別に競争ではない。
誰とも競っていない。
それなのに「先に」という言葉が自然に浮かんだ。
「雫?」
「何?」
「また難しい顔してる」
「春樹のせい」
「今日、俺何した!?」
「知らない」
「理不尽!」
雫が笑う。
春樹は納得できないまま隣を歩く。
少し先では、昨日の雨を残した水たまりが夕日を反射していた。
その脇を二人で避けながら、いつもの道を帰っていく。
春樹にとっては、昔から何度も繰り返してきた幼なじみとの帰り道。
雫にとっても、つい最近までは同じだった。
けれど今は、その当たり前の時間を自分から約束し、次の日の予定まで重ねようとしている。
変わり始めているのは距離ではない。
距離の意味だった。
そして、その変化に一番気づいていないのは。
「帰ったら新刊の続き読むぞ……今日は絶対邪魔されない」
「そう言って、また誰かから連絡来るんじゃない?」
「やめろ! 不吉なこと言うな!」
「真実ちゃんとか」
「質問なら答える」
「高坂とか」
「相談なら聞く」
「白石先輩とか」
「本の話なら……ちょっとだけ」
「小日向さんとか」
「……連絡先知らないから大丈夫」
「そう」
「何でそこで安心した顔するんだよ?」
「してない」
「しただろ!」
やはり、春樹だった。




