第17話 幼なじみと本屋に行くだけなのに、どうしてデート扱いされるんだ?
土曜日の午前九時四十分。
六月に入って最初の週末は、梅雨の合間を縫うような晴天になった。薄い雲は浮かんでいるものの雨の気配はなく、駅へ向かう道には朝から柔らかな日差しが落ちている。
七瀬春樹は肩に掛けた鞄の位置を直しながら、住宅街を歩いていた。
もちろん、本は読んでいない。
以前なら駅までの十五分も貴重な読書時間として活用していたところだが、今は鞄の中に文庫本をしまっている。九条凛から注意されたことを守っているだけとはいえ、最近では歩きながら本を開かないことにも少しずつ慣れてきた。
その代わり、暇ではある。
「……十五分あれば結構読めるんだけどな」
未練がなくなったわけではない。
昨夜は予定通り新刊の続きを読み、無事に最後まで読了した。
途中、悠斗から『紗弥に次の映画勧められた』という報告が来た。
真実からは連作短編集について『三つ目まで読みました。最初と印象が変わってきました』というメッセージが届いた。
さらに十一時過ぎには、雫から一言。
『読み終わった』
その直後にもう一通。
『明日話すから、今は聞かないで』
当然、春樹は気になった。
ものすごく気になった。
しかし感想を先に聞いてしまえば、今日会う楽しみが減る。そう考えて『分かった。絶対ネタバレしないから明日全部聞かせろ』と返し、そのまま新刊へ戻った。
結果として、珍しく読書も人との約束も両方守れた。
(完璧な休日の始まりだな)
駅前の本屋へ行く。
新刊を確認する。
雫から昨日読み終えた本の感想を聞く。
帰ったら買った本を読む。
午後は予定なし。
素晴らしい。
春樹の基準では、百点に近い土曜日だった。
「春樹」
駅へ続く交差点の手前で、聞き慣れた声がする。
振り向くと、雫が小走りで近づいてきた。
「おはよう」
「おはよ。早いな」
「春樹も」
「本屋が十時開店だからな」
「知ってる」
「何で?」
「昨日言ってたでしょ」
「ああ、そうだった」
春樹は雫の姿を何気なく見る。
学校では当然制服だが、今日は私服だった。
淡い水色のブラウスに、膝より少し下まである白っぽいスカート。肩から小さめのバッグを掛けており、髪も普段より少しだけ整えているように見える。
「何?」
雫が視線に気づく。
「いや」
「何よ」
「今日ちょっと違うなと思って」
「……何が?」
「服」
「私服なんだから当たり前でしょ」
「それはそうなんだけど」
春樹は首を傾げる。
「いつもよりちゃんとしてない?」
「普段がちゃんとしてないみたいに言わないで」
「そういう意味じゃないって。何て言うか……」
春樹は言葉を探す。
服に詳しくない。
女子の服装を褒める機会もほとんどない。
けれど、似合っていることくらいは分かる。
「似合ってる」
雫の目がわずかに大きくなった。
「……そう?」
「うん。水色、お前に合うな」
「…………」
「何?」
「別に」
「またそれ?」
「うるさい」
雫は春樹から顔を逸らす。
耳のあたりにかかった髪を指で直す仕草が、普段より少しだけぎこちなかった。
「春樹はいつも通りね」
「服?」
「うん」
「本屋行くだけだからな」
「そうね」
春樹は黒いTシャツに薄手のシャツ、ジーンズという簡単な格好だった。
雫は一瞬だけ自分の服へ視線を落とす。
(……本屋行くだけなのに、私、何で昨日あんなに服選んでたんだろ)
クローゼットの前で十分以上迷った。
最初に出した服を戻して、別のものを出し、鏡を見て、また戻した。
結局選んだのが今の服だ。
別に春樹に見せるためではない。
休日に駅前へ出るなら普通だ。
そう思っていた。
けれど、今「似合ってる」と言われた瞬間、胸の奥が妙に軽くなった。
「行くぞ?」
「分かってる」
二人は並んで駅前へ向かう。
歩幅は、今日も自然に揃っていた。
◇◇◇
駅前の書店は、開店直後だというのに思ったより客が多かった。
自動ドアが開くと、新しい紙とインク、わずかに木材を思わせる棚の匂いが混ざって鼻へ届く。入口近くには今月の新刊と話題作が平積みにされ、奥へ続く通路には出版社ごとの文庫棚が並んでいる。
春樹の顔が変わった。
「……やっぱいいな」
「何が?」
「開店直後の本屋」
「そんな違う?」
「違う。まだ棚が荒れてない」
「そこ?」
「新刊も綺麗に並んでるし、人も午後より少ない。それに入った瞬間の匂いがいい」
「春樹、本屋に住めそうね」
「住めるなら住みたい」
「ご飯どうするのよ」
「併設カフェ」
「お風呂は?」
「近所の銭湯」
「本気で考えないで」
「夢くらい見させろ」
雫が笑う。
春樹は入口横の新刊台へ向かおうとした。
しかし途中で足を止める。
「そうだ」
「何?」
「先に聞く」
「何を?」
「昨日の本」
雫が少し目を瞬く。
「もう?」
「俺、それ楽しみに来たんだけど」
「新刊じゃなくて?」
「新刊も楽しみ。でも雫の感想も聞きたい」
「……そう」
「どっか座る?」
「本屋の中で?」
「上の階に休憩スペースあっただろ。買う本決めてからでもいいけど」
「じゃあ先に見よ。春樹、絶対途中で気になる本見つけるから」
「否定できない」
二人で新刊台へ向かう。
春樹はすぐに一冊を手に取った。
「あ」
「もう見つけた」
「これ昨日発売だったんだよ」
「買うの?」
「多分」
「多分なんだ」
「家に未読があるからな」
「それ気にするんだ?」
「気にする。でも買う」
「意味ないじゃない」
「積んでおく安心感ってあるんだよ」
「分からない」
「いつか分かる」
「分かりたくない」
春樹は笑いながら本を裏返し、あらすじを確認する。
雫はその横顔を見る。
学校で本を読んでいるときも楽しそうだが、本屋にいる春樹は少し違う。
棚から棚へ視線が動く。
新刊を見つければ手を伸ばし、帯を読み、時には数ページだけ試し読みする。
自分の世界へ入り込んでいるようでいて、雫が隣にいれば普通に話しかけてくる。
「雫」
「何?」
「これ、お前好きそう」
「もう?」
「いや、買えって意味じゃないぞ」
春樹が一冊を差し出す。
「大学生の姉妹が一緒に暮らす話。前に言ってた家族関係のやつとは別だけど、こっちはもっと日常寄り」
「恋愛は?」
「ほぼない」
「春樹、私に恋愛もの勧めなくなってない?」
「そんなことないぞ。昨日の写真部は恋愛入ってただろ」
「そうだけど」
「何なら幼なじみもの――」
「今はいらない」
「まだ駄目なの!?」
雫は春樹から本を受け取る。
「これちょっと見る」
「どうぞ」
春樹はまた新刊棚へ戻る。
二人で来ているのに、常に会話しているわけではない。
春樹は自分の本を探し、雫も渡された本を眺める。
少し離れても、気づけばまた同じ棚の前にいる。
昔からそうだった。
小学生の頃も、中学生の頃も、本屋へ一緒に来れば春樹は勝手に本を探し始めた。
雫はその後ろをついていくこともあれば、自分の見たい棚へ行くこともあった。
それを寂しいと思ったことはない。
むしろ春樹と本屋へ来ると、一人で来るより長居してしまう。
「西条?」
聞き覚えのある声に、雫が顔を上げる。
「あ」
少し離れた棚の向こうから、同じクラスの女子生徒が二人歩いてきた。
一人は佐藤美咲。
もう一人は小川梨奈。
二人とも雫とは普通に話す程度のクラスメイトで、休日らしい私服姿だった。
「やっぱ西条じゃん」
「おはよう」
「おはよ。何して――」
美咲の視線が、雫の後ろへ動く。
ちょうど春樹が二冊の本を抱えて戻ってきた。
「雫、こっちの方が――あれ?」
春樹も二人に気づく。
「佐藤と小川?」
「七瀬!?」
梨奈が目を丸くする。
美咲と梨奈が雫を見る。
次に春樹を見る。
そして、もう一度雫を見る。
「……二人で?」
「うん」
春樹が普通に答える。
「本見に来た」
「二人で?」
「だからそうだけど」
美咲の口元がにやりと上がった。
「へえ」
「何だよ」
「いやあ、土曜の朝から二人で本屋ねえ」
「昔から来るぞ?」
「そこじゃないんだけど」
「何が?」
春樹が本気で分からない顔をする。
梨奈が雫を見る。
「西条、今日かわいいね」
「え?」
「服。似合ってる」
「あ、ありがとう」
「七瀬もそう思う?」
「思うよ」
即答だった。
雫の肩が小さく揺れる。
「朝も言ったし」
「言ったの!?」
美咲の声が少し大きくなり、近くの客がこちらを見る。
「あ、ごめんなさい」
美咲が声を落とす。
「朝も一緒だったの?」
「途中で会った」
「待ち合わせ?」
「時間は決めてた」
「それ待ち合わせじゃん」
「そうなの?」
「七瀬、お前……」
「何だよ」
美咲は額を押さえた。
梨奈は笑いを堪えている。
「で、この後は?」
「雫の本の感想聞いて、俺は新刊買って帰る」
「どこで感想聞くの?」
「上の休憩スペースかな」
「二人で座って?」
「本の感想聞くんだからそうなるだろ」
「その後は?」
「まだ決めてない」
「西条」
美咲が雫を見る。
「これデートじゃないの?」
「違う!」
雫の返事は早かった。
春樹もすぐに続く。
「違う違う。普通に本屋来ただけ」
「二人で待ち合わせして?」
「そう」
「七瀬が服褒めて?」
「似合ってたから」
「本選んで?」
「それはいつもやってる」
「この後二人で座って話して?」
「本の感想な」
「それを世間ではデートって言うんじゃない?」
「言わないだろ」
春樹が真顔で答える。
美咲は数秒黙った。
「西条、大変だね」
「何で私を見るのよ!」
「いや、何となく」
「意味分かんない!」
雫の頬が少し赤い。
春樹はまだ首を傾げている。
「そもそもデートって、付き合ってるとか、そういう相手と行くもんじゃないの?」
「付き合う前でも言うでしょ」
梨奈が答える。
「そうなの?」
「二人で遊びに行ったらデートって言う人もいるし」
「じゃあ男同士で本屋来てもデート?」
「それは普通そう言わないかな」
「基準曖昧すぎない?」
「そこ掘る!?」
「言葉の定義大事だろ」
春樹が真剣に考え始める。
「恋愛小説だと、本人たちがデートだと思ってるかどうかで意味変わるし。片方だけデートのつもりってパターンもあるけど――」
「春樹」
雫が止める。
「何?」
「もういい」
「でも気になるだろ。どこからデート判定になるのか」
「今考えなくていい!」
「何で怒るんだよ」
「怒ってない!」
美咲と梨奈は顔を見合わせた。
「じゃ、邪魔しちゃ悪いから行くね」
「別に邪魔じゃないぞ?」
「うん。知ってる」
「絶対分かってない返事だろ」
「西条、また学校でね」
「う、うん」
二人は去っていく。
数歩離れたところで、美咲が梨奈へ何か耳打ちした。
二人同時に笑う。
「……何だったんだ?」
春樹が呟く。
「知らない」
雫は手に持った本へ視線を落とす。
さっきまで普通だったのに、急に落ち着かない。
(デートって……)
違う。
春樹とは昔から本屋へ来ている。
今日だって、本を見るだけだ。
ただ。
服を選んだ。
春樹に似合っていると言われて嬉しかった。
昨日から今日の予定を楽しみにしていた。
感想を話すために、本も最後まで読んだ。
(……それでも、別に)
名前をつける必要はない。
そう思うのに、一度意識してしまった言葉はなかなか頭から消えてくれなかった。
「雫」
「何?」
「これどうする?」
春樹が持っていた二冊のうち、一冊を差し出す。
「さっきの姉妹ものと、こっちだったら今のお前はこっちかも」
「どんな話?」
「地方の小さい映画館が舞台。閉館するかもしれない映画館を、高校生の主人公たちが何とか残そうとする話」
「また青春もの?」
「お前、今そういうの好きそうだから」
「恋愛は?」
「ある」
「幼なじみ?」
「違う」
「じゃあ見る」
「幼なじみへの当たり強くない!?」
春樹が笑う。
雫もつられて笑った。
少しだけ、変な緊張が抜ける。
やっぱり春樹は春樹だ。
自分も、自分だ。
今はそれでいい。
◇◇◇
午前十一時過ぎ。
二人は書店の上階にある休憩スペースへ移動した。
窓際には小さな丸テーブルが並び、その向こうには駅前のロータリーが見える。買い物客やバスが絶えず行き交い、時折、駅へ入る電車の音が遠く響いてきた。
春樹の前には購入した新刊が二冊。
雫の前には一冊。
「結局買ったんだ」
「どっちも」
「未読あるんでしょ?」
「ある」
「何冊?」
「……七冊」
「増やしてどうするのよ」
「未来の俺が読む」
「未来の春樹に押しつけないで」
「未来の俺も喜んでる」
「会ったことあるの?」
「心で繋がってる」
「適当なこと言わないで」
春樹は笑いながら、新刊を鞄へしまう。
「じゃあ本題」
「はいはい」
「写真部のやつ」
雫が昨日まで読んでいた本をテーブルへ置いた。
表紙を見た春樹の顔が、少し嬉しそうになる。
「まず全体どうだった?」
「好きだった」
「どのくらい?」
「かなり」
「よし」
「何で春樹が達成感出すのよ」
「俺が選んだ本だから」
「そうだけど」
「これで二冊連続成功だろ?」
雫が少し笑う。
「覚えてたんだ」
「何を?」
「三冊連続で当てたら、一冊買ってあげるって約束」
「忘れるわけないだろ!」
「そこまで?」
「本一冊だぞ!」
「高いの駄目だからね」
「分かってる。文庫一冊」
「ならいい」
「あと一回……」
春樹が本気で考え込む。
「何をそんなに悩むのよ」
「次外せないだろ」
「別に外してもいいじゃない」
「嫌だ。ここまで来たら三連勝したい」
「勝負になってる」
「雫の好みならかなり分かるからな」
その言葉が、また胸へ落ちる。
昨日も似たことを言われた。
それでも、何度聞いても嫌ではない。
「じゃあ」
雫が少しだけ身を乗り出す。
「次も当ててみて」
「任せろ」
「自信あるんだ」
「ある」
「外したら?」
「何かある?」
「……じゃあ」
雫は考える。
「私が春樹に一冊選ぶ」
「罰じゃなくない?」
「春樹が普段自分じゃ選ばない本」
「なるほど」
春樹の目が少し輝く。
「それも面白いな」
「どっちに転んでも春樹が得してない?」
「本が絡む勝負で俺が損する方が難しい」
「ずるい」
「ルール決めたの雫だろ」
二人で笑う。
「それで、どこが一番好きだった?」
春樹が本へ視線を落とす。
雫も表紙へ指先を置いた。
「主人公が、最後の写真を選ぶところ」
「ああ」
「春樹、そこ好きだと思ってた?」
「お前なら好きだろうなとは思った」
「何で?」
「それまでずっと他人に『いい写真』を決めてもらってた主人公が、最後は評価じゃなくて自分が残したい写真を選ぶから」
「……うん」
「雫、そういうの好きだろ」
「好き」
雫は静かに頷いた。
「最初は先輩に褒められたくて撮ってたのに、最後は自分が何を見てたのか考えるようになるのがよかった」
「分かる」
「あと、あの男の子」
「同級生?」
「うん」
「恋愛の方な」
「結局、最後まではっきり付き合わなかったわね」
「そこがいいんだよ」
春樹の声が少し弾む。
「俺、あれで告白までやったら逆に早いと思う。二人ともやっと自分のこと分かり始めたところだろ? そこで恋愛まで答え出したら、成長の話と恋愛の話が同時に終わっちゃう」
「春樹、そういうの好きよね」
「何が?」
「すぐ付き合わないやつ」
「好き」
即答だった。
「恋愛小説って付き合う瞬間だけが面白いわけじゃないからな。むしろ付き合う前の『これ本人だけ気づいてないだろ』とか、『今の言葉絶対特別だろ』とか、そういう時期が一番楽しい作品もある」
「……本人だけ気づいてない」
「あるあるだろ?」
「そうね」
「幼なじみものなんか特に多い」
雫の指が、本の表紙の上で止まった。
「……幼なじみ」
「ずっと一緒にいるから、特別が普通になってるんだよ。それで他の誰かが入ってきたときに初めて『あれ?』ってなる」
「…………」
「でもそこで即『好きだったんだ!』ってなると俺はちょっと早いと思うんだよな。まず自分が何に引っかかってるのか分からなくて、言動だけ変わって、周りが先に気づくくらいが――」
春樹が止まる。
「雫?」
「何?」
「何でそんな顔してる?」
「どんな顔?」
「難しい顔」
「……別に」
「本の話だぞ?」
「分かってる」
「幼なじみもの、今嫌なんだっけ」
「そういうわけじゃない」
「じゃあ何?」
「春樹って、本当に他人の恋愛はよく分かるのね」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分何だよ」
「知らない」
「またそれ!」
雫は窓の外へ視線を向けた。
ロータリーをバスがゆっくり曲がっていく。
春樹が今説明した話。
ずっと一緒にいる。
特別が普通になっている。
誰かが入ってきたときに、初めて引っかかる。
言動だけが先に変わる。
(……違う)
何が違うのか、自分でも分からない。
ただ、その話を自分に重ねることだけは、今はしたくなかった。
「春樹」
「ん?」
「この本の話に戻して」
「戻してるつもりだったんだけど」
「途中から春樹の恋愛小説論になってた」
「……ごめん」
「ふふ」
「笑うなよ」
「いいけど」
それから二人は、本の話を続けた。
主人公が撮った写真。
苦手だった先輩との関係。
写真部の仲間たち。
恋愛として描かれなかった関係まで含め、雫は思っていた以上に細かいところを覚えていた。
春樹も嬉しそうにそれへ応じる。
気づけば三十分以上が経っていた。
「……やっぱり」
雫が呟く。
「何?」
「春樹と本の話するの、楽しい」
春樹が一度瞬きをする。
それから笑った。
「俺も」
「…………」
「だから勧めるのも楽しいんだよ。お前、ちゃんと自分の感想言うし」
「春樹と違う感想でも?」
「むしろ違う方が話広がるだろ」
「そう」
「全部同じなら『分かる』で終わっちゃうし」
雫は小さく頷いた。
「じゃあ次もちゃんと読む」
「任せろ。絶対当てる」
「そこまで言ったら外したとき恥ずかしいわよ」
「大丈夫。俺、お前がどんな話好きか知ってるから」
まただ。
その言葉。
昔なら何とも思わなかったはずなのに、今は胸の奥へ残る。
「……春樹」
「何?」
「私も」
「うん?」
「春樹がどんな本好きか、結構知ってると思う」
「そりゃそうだろ」
あまりにも当然のように返された。
「昔から俺が読んでるの見てるし」
「……うん」
「だから雫が選ぶ方も楽しみだな」
「まだ私が負けるって決まってないけど」
「俺が勝ったら雫が俺に本買うんだぞ?」
「あ、そうだった」
「お前が選ぶのは俺が外した場合」
「じゃあ外して」
「嫌だよ!」
雫が笑った。
◇◇◇
「腹減った」
本屋を出た頃には、正午を少し過ぎていた。
「春樹、朝食べた?」
「食べた。でも本屋って何か腹減らない?」
「分からない」
「頭使うからかな」
「本探すのに?」
「かなり使うぞ」
「じゃあ帰る?」
「昼どうする?」
「え?」
「俺、駅前で食って帰ろうかなと思ってたけど」
雫が春樹を見る。
「……一緒に?」
「嫌なら別にいいけど」
「嫌じゃない」
「じゃあ食う?」
「うん」
二人は駅前を歩く。
飲食店が並ぶ通りは昼時で混み始めており、店の前には家族連れや学生の姿が増えていた。
「何食べたい?」
「春樹は?」
「ラーメン」
「即答」
「朝から決めてた」
「じゃあ聞かないでよ」
「雫が嫌なら変えるよ」
「別にラーメンでいい」
「じゃあ駅裏のとこ行く?」
「うん」
二人で横断歩道を渡る。
その途中。
「春樹先輩!」
春樹の肩がびくりと動いた。
「……まさか」
振り返る。
予想通りだった。
小日向ひよりがいた。
「いたー!」
「何で!?」
「買い物です!」
「それは普通だった!」
ひよりは大きめの紙袋を片手に、ぱたぱたとこちらへ走ってくる。
今日は制服ではない。
黄色いパーカーにショートパンツという動きやすそうな格好で、昨日よりさらに年下に見えた。
「春樹先輩と西条先輩!」
「こんにちは、小日向さん」
「こんにちは!」
ひよりは二人を交互に見る。
そして春樹の手にある書店の袋を見る。
「本屋ですか?」
「うん」
「二人で?」
「そう」
「デートですね!」
「何で今日みんなそれ言うんだよ!」
春樹が頭を抱えた。
「みんな?」
ひよりの目が輝く。
「他にも言われたんですか?」
「クラスの奴に会ってな」
「やっぱりデートじゃないですか!」
「違う!」
「何が違うんです?」
「雫と本屋なんて昔から来てる」
「でも今日は休日ですよ?」
「昔から休日にも来てる!」
「二人で?」
「二人で」
「それデートでは?」
「お前まで定義論争する気か!?」
ひよりが楽しそうに笑う。
雫は少し困ったような顔をしている。
「これからどこ行くんですか?」
「飯」
「二人で!?」
「何でいちいち驚くんだよ」
「デートじゃないですか!」
「飯食うだけだ!」
「何食べるんです?」
「ラーメン」
「デート感なくなりました!」
「ほら見ろ!」
「何に勝ち誇ってるのよ」
雫が呆れる。
ひよりはしばらく笑ったあと、持っていた紙袋を持ち直した。
「そうだ!」
「今度は何?」
「昨日の本、読みました!」
「早っ!」
春樹の顔が変わる。
「全部?」
「全部!」
「どうだった?」
「面白かったです!」
「どこが?」
「文化祭の準備で、クラスが二つに分かれるところ!」
「あそこか!」
「最初、主人公が全部一人で何とかしようとするじゃないですか」
「うん」
「でも結局無理で、みんなに頼るところ好きでした!」
「分かる。あそこ、前半で主人公がずっと『自分がやった方が早い』って言ってるのが効いてるんだよ」
「そうなんです!」
春樹とひよりの会話が一気に加速する。
雫は隣で二人を見る。
昨日も見た光景だ。
本の話になると、春樹は相手が誰でも楽しそうに話す。
年齢も性別も関係ない。
自分だけに見せる顔ではない。
そんなことは昔から知っている。
それなのに。
「春樹」
「ん?」
「小日向さん、買い物途中なんじゃない?」
「あ」
春樹がひよりを見る。
「そうなの?」
「はい。でも大丈夫です!」
「いや、友達待たせてない?」
「お姉ちゃんと来てます!」
「姉いるんだ」
「今、服見てます!」
「なら大丈夫か」
雫が春樹を見る。
「私たちもお昼行くんでしょ?」
「そうだった」
「…………」
ひよりが雫を見る。
ほんの一瞬。
昨日からずっと明るく勢いのある表情が、少しだけ変わった。
それは恋愛を察したような顔ではない。
ただ、何かを観察したときの顔だった。
すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「じゃあ続きは学校で話します!」
「おう」
「次の本もお願いします!」
「一冊ずつな」
「はい!」
「読み切れなくても気にすんなよ」
「分かってます!」
ひよりが手を振る。
「西条先輩もまた!」
「うん。またね」
雫も手を振った。
ひよりは数歩進み、ふと振り返る。
「春樹先輩!」
「何?」
「ラーメン食べ終わってもデートは続きますか?」
「だから違う!」
ひよりは笑いながら逃げていった。
「……元気だな」
「そうね」
「俺、あいつと話すと声量上がる気がする」
「春樹も楽しそうだけど」
「面白い後輩ではある」
「ふうん」
「何?」
「何でもない」
「またかよ」
雫は先に歩き始める。
春樹も追う。
「雫」
「何?」
「飯食ったらどうする?」
「帰るんじゃないの?」
「いや」
春樹は少し考える。
「せっかく出てきたし、駅の反対側に新しい古本屋できたらしいから寄ろうかなって」
「また本?」
「本」
「本当に一日中ね」
「嫌なら先帰っていいぞ」
「…………」
雫が春樹を見る。
「行く」
「古本屋?」
「うん」
「珍しいな。お前、そんなに古本屋好きだったっけ?」
「今日から好きになるかもしれないでしょ」
「そんな理由ある?」
「ある」
「じゃあ行くか」
「うん」
雫の返事は短い。
けれど、その歩調は少しだけ軽くなった。
◇◇◇
昼食を終えた二人が古本屋を出たのは、午後二時を少し回った頃だった。
「……買いすぎた」
「三冊じゃない」
「予定は一冊だった」
「知らないわよ」
「百円棚が悪い」
「棚のせいにしない」
春樹の紙袋には、午前中に買った新刊二冊と古本三冊。
雫は古本屋では何も買わなかったものの、春樹が棚を漁るのを隣で眺めていた。
「でも意外だった」
「何が?」
「雫、二時間近く付き合ったな」
「暇だったし」
「途中で帰ると思ってた」
「帰ってほしかった?」
「いや?」
春樹は首を傾げる。
「別にいて困らないし」
「……そう」
「むしろ『これお前好きそう』って言えるから楽だった」
雫が少し黙る。
昨日も似たことを言われた。
自分が隣にいることを、春樹は特別なことだと思っていない。
けれど、邪魔だとも思っていない。
それどころか、いる方が楽しいと自然に言う。
「春樹」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「楽しかったぞ」
「本買えたから?」
「それもある」
「他は?」
「雫の感想聞けたし」
「……それだけ?」
「古本屋も当たりだった」
「そうじゃなくて」
「ん?」
雫は口を閉じる。
何を聞こうとしたのか、自分でも分からなくなった。
「何でもない」
「今日それ多くない?」
「気のせい」
「絶対気のせいじゃない」
駅へ向かう人の流れを避けながら、二人は歩く。
朝より日差しは強くなっていたが、風があるため暑すぎない。
雫のスカートの裾が風で少し揺れた。
「雫は?」
「え?」
「楽しかった?」
今度は春樹が聞いた。
「…………」
「何で黙るんだよ」
「楽しかった」
「ならよかった」
春樹はそれだけ言って笑った。
あまりにも普通の笑顔だった。
雫は一瞬だけ視線を逸らす。
「また行く?」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
「本屋?」
「うん」
「行くけど」
「そうじゃなくて」
「一緒に?」
「……うん」
「いいぞ」
春樹の返事は、驚くほど早かった。
「次はいつ?」
「まだ決めてない」
「じゃあ新刊出る日に合わせる?」
「春樹の?」
「お前のでもいいけど」
「じゃあ今度調べる」
「了解」
簡単に次の約束が決まった。
雫は少し拍子抜けする。
もっと何か言われると思った。
どうして急に、とか。
珍しいな、とか。
けれど春樹にとって、自分と本屋へ行くことは、それほど不思議ではないらしい。
(……それはそれで)
安心する。
同時に、少しだけ物足りない。
その二つが同時に存在することが、自分でもよく分からなかった。
「なあ雫」
「何?」
「今日、佐藤たちに言われたことなんだけど」
雫の肩がわずかに固くなる。
「……何?」
「デートってどこからなんだろうな」
「まだ考えてたの!?」
「だって気になるだろ」
「気にしなくていい!」
「小説読む上でも結構重要なんだよ。本人たちの認識と周囲の認識が違うと――」
「本の話!?」
「他に何があるんだよ」
雫は額へ手を当てた。
「春樹……」
「何だよ」
「何でもない」
「また!」
「もういい!」
「何で怒るんだよ!」
「怒ってない!」
二人の声が、休日の駅前に混ざる。
周囲を歩く人たちは、少しだけこちらを見て、また自分たちの目的地へ向かっていった。
春樹は結局、デートの定義について納得できないままだった。
雫もまた、自分が今日をどう呼びたいのか分からない。
ただ、本屋へ行った。
本の感想を話した。
一緒に昼を食べた。
古本屋へ寄った。
次も一緒に行く約束をした。
それだけだ。
昔から何度も似たことはしている。
けれど、今日一日を思い返したとき。
朝、服を褒められたこと。
クラスメイトに二人でいるところを見られたこと。
ひよりが「デート」と笑ったこと。
春樹が自分の好みを当然のように分かっていたこと。
春樹から「楽しかった?」と聞かれたこと。
そして、自分から「また行く?」と聞いたこと。
その一つ一つが、以前より少しだけ強く残っている。
(……何なんだろ)
答えはまだ出ない。
出したくないのかもしれない。
「雫?」
「何?」
「今度の本」
「うん」
「ちょっと候補思いついた」
「もう?」
「三冊目だからな。絶対外せない」
「そんなに本一冊欲しいの?」
「それもある」
「他は?」
春樹が少し考える。
「お前に『やっぱ春樹が選ぶ本、面白い』って言わせたい」
雫が足を止めた。
春樹も二歩ほど先で止まり、振り返る。
「何?」
「……それだけ?」
「それ結構大事だぞ?」
「何で?」
「好きなもの勧めて、相手が楽しんでくれたら嬉しいだろ」
「…………」
「特に雫は昔から好み知ってるし。外したらちょっと悔しい」
「そう」
「うん」
「じゃあ」
雫は春樹へ追いつく。
「期待してる」
「任せろ」
「外したら私が選ぶからね」
「それも楽しみなんだよな」
「本当にずるい」
「何が?」
「何でもない」
「今日何回目だよ!」
雫は笑いながら、春樹の半歩前を歩いた。
けれど少し進むと速度を緩める。
春樹が追いつき、また隣へ並ぶ。
いつもの距離。
昔から変わらない距離。
ただ、その距離を気にし始めた時点で、本当はもう以前とまったく同じではない。
雫はまだ、それを知らない。
そして春樹は。
(帰ったらどれから読むかな。新刊二冊あるし、古本も気になる。でも真実から短編集の感想来るかもしれないし……)
今日一日を一緒に過ごした幼なじみの変化より、紙袋の中の五冊について真剣に悩んでいた。
「春樹」
「ん?」
「何考えてるの?」
「読む順番」
「……そう」
「何で呆れるんだよ」
「別に」
「だからそれ何回目!?」
六月の青空の下。
二人はいつものように言い合いながら、並んで家へ向かった。




