↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/70

第18話 後輩が一人増えただけで、俺の昼休みが静かじゃなくなった


 月曜日の朝。


 週末の晴天はどこかへ消え、清涼学園の上空には厚い雲が広がっていた。


 雨こそ降っていないものの、空気には湿気が多く含まれている。開け放たれた二年三組の窓から吹き込む風もどこか生ぬるく、教室では登校してきた生徒たちが「今日暑くない?」「午後降るらしいよ」と天気の話をしていた。


 そんな中、七瀬春樹は自分の席で文庫本を開いていた。


 土曜日に買った新刊のうち二冊目。


 残り、およそ四十ページ。


(朝のホームルームまでにいけるか……?)


 時計を見る。


 あと十二分。


 普通に読めば微妙なところだ。


 だが、ここからは物語の終盤。主人公とヒロインが互いに抱えていた誤解もほぼ解け、残る問題は二人が自分の気持ちを言葉にできるかどうかだけだった。


(ここまで来て閉じろって方が無理だろ)


 ページをめくる。


 主人公がヒロインを呼び止めた。


 駅のホーム。


 電車が来るまで、あと三分。


(行け。今だ。ここで言わなかったら次の巻まで持ち越すぞ)


 春樹の目が真剣になる。


「春樹」


 聞こえない。


「春樹」


 主人公が一歩踏み出す。


「春樹ってば」


 ヒロインが振り返る。


「七瀬春樹」


「今いいところ!」


 反射的に答えてから、春樹は顔を上げた。


 雫が机の横に立っていた。


「……おはよう」


「三回呼んだ」


「悪い。今、主人公が告白するかもしれない」


「私よりそっち?」


「今だけは」


「即答するんだ」


「あと四十ページなんだよ!」


「知らないわよ」


 雫は呆れた顔をしながらも、春樹の本を取り上げることはしなかった。


 土曜日のことがあってから、雫自身も春樹との本の話を以前より楽しむようになっている。だから読書そのものを邪魔したいわけではない。


「で、何?」


 春樹は栞を挟む。


「ちゃんと閉じるんだ」


「お前が三回も呼ぶからだろ。何かあるんじゃないの?」


「別に大したことじゃないけど」


「じゃあ四十ページ読ませて」


「閉じたんだから聞きなさいよ」


「理不尽!」


 近くで聞いていた紗弥が笑う。


「朝から元気だね、二人とも」


「赤木、聞いてくれよ。雫が大した用じゃないのに俺の告白シーンを止めた」


「春樹の告白みたいに言わないで」


「俺じゃない。本の主人公」


「それは分かってる」


 紗弥が苦笑する。


「で、雫は何の用だったの?」


「土曜日のこと」


 春樹の手が止まる。


「土曜日?」


「次に貸してもらう本。いつ決めるのかなって」


「ああ!」


 春樹の表情が一気に明るくなった。


「それならもう候補決めてる」


「本当に?」


「三冊まで絞った」


「また三冊」


「今回は重要だからな」


「文庫本一冊のために?」


「違う」


 春樹は机へ肘をつき、少し得意そうに笑う。


「三冊連続でお前の好みに合う本を選べるかどうかの勝負だろ。ここまで来たら絶対当てたい」


「勝手に勝負にしたの春樹だけどね」


「雫も乗ったじゃん」


「まあ、そうだけど」


 紗弥が二人を交互に見る。


「何の話?」


「春樹が私に三冊続けて本を勧めて、それが全部面白かったら一冊買ってあげるって約束」


「へえ」


「逆に外したら、私が春樹に本を選ぶ」


「どっちにしても本なんだ」


「そうなんだよ」


 春樹が嬉しそうに頷く。


「俺、どっちに転んでも楽しいことに土曜日気づいた」


「ずるくない?」


「雫にも言われた」


 紗弥は小さく笑ったあと、ふと思い出したように尋ねた。


「そういえば土曜日、一緒に本屋行ったんだっけ?」


 雫の肩がわずかに動いた。


「……うん」


「どうだった?」


「普通よ」


「楽しかった?」


「まあ」


「へえ」


「何、その顔」


「別に?」


「最近みんなそれ言うのやめて!」


 雫が眉を寄せる。


 春樹は不思議そうに二人を見ていた。


「何の話?」


「春樹は知らなくていい」


「俺もいたのに!?」


 そこへ悠斗が登校してくる。


「おはよー……って、朝から何騒いでんの?」


「高坂、聞いてくれ。俺だけ土曜日の話から除外された」


「お前、土曜何してたの?」


「雫と本屋」


 悠斗が鞄を机へ置こうとして止まった。


「……二人で?」


「そう」


「へえ」


「何だよ、その反応」


「いや、別に」


「お前まで!?」


 紗弥が口元を押さえて笑う。


 雫は悠斗を睨んだ。


「ただ本屋行っただけだから」


「俺、何も言ってないけど」


「顔が言ってる」


「どんな顔だよ」


「面倒くさい顔」


「酷くない?」


 春樹はますます分からないという顔になった。


「土曜日も佐藤たちにデートとか言われたんだけど、そんなに二人で本屋行くの珍しいか?」


「佐藤たちにも会ったの?」


 紗弥の目が少し輝く。


「会った」


「何て?」


「だからデートって」


「それで?」


「違うって言った」


「雫も?」


「言ったわよ」


「即答で?」


「……即答で」


「そっか」


 紗弥はそれ以上何も言わなかった。


 しかし、その「そっか」が妙に含みを持って聞こえ、雫は少しだけ落ち着かなくなる。


「そもそもさ」


 春樹が口を開く。


「俺、まだデートの定義に納得してないんだよ」


「まだ考えてたの!?」


 雫が驚く。


「大事だろ」


「何が?」


「恋愛小説読む上で」


「結局そこなのね……」


 春樹は真面目な顔で続ける。


「二人で出かけたら全部デートなら、俺と雫は昔から何回デートしたことになるんだって話だろ?」


「…………」


 雫の表情が止まる。


 紗弥も黙る。


 悠斗は一瞬だけ春樹を見たあと、雫へ視線を移した。


「小学生の頃から本屋とか図書館とか行ってるし、中学のときも買い物付き合わされたことあるし。あれ全部デートってことになるなら、定義広すぎない?」


「春樹」


「ん?」


「もう喋らなくていい」


「何で!?」


「いいから本読んでなさい」


「さっき止めたのお前だろ!」


 雫は自分の席へ戻る。


 頬がわずかに熱い。


(昔から何回デートしたことになるって……)


 春樹にとっては、ただの例えだ。


 分かっている。


 それなのに、その言葉だけが妙に耳へ残った。


「西条」


 紗弥が小声で呼ぶ。


「何?」


「顔、ちょっと赤いよ」


「暑いの!」


「今日蒸すもんね」


「そう!」


「うんうん」


「その顔やめて!」


 春樹は二人の会話を聞きながら首を傾げ、やがて時計を見る。


「あっ」


 残り七分。


「俺の四十ページ!」


「無理でしょ」


「行けるところまで行く!」


 春樹は慌てて本を開いた。


 悠斗が笑う。


「お前、ほんと変わんねえな」


「何が?」


「いや」


 悠斗は一瞬だけ雫を見た。


「変わってんのは、お前じゃない方かも」


「何?」


「何でもない」


「お前もそれ言うの!?」


     ◇◇◇


 二時間目が終わった休み時間。


 春樹は机へ突っ伏していた。


「……最悪だ」


「何が?」


 悠斗が尋ねる。


「告白しなかった」


「は?」


「朝読んでた本」


「ああ」


「主人公、駅で呼び止めたのに『また明日』って言った」


「知らねえよ」


「四十ページ期待させてこれだぞ!?」


「俺に怒るなよ」


「でもな」


 春樹は顔を上げる。


「これはこれでいい」


「どっちだよ」


「考えたら、あそこで告白するより自然だった。主人公まだ自分の気持ちを整理できてないし、ヒロインも家の問題残ってるから」


「お前さ」


「何?」


「そういうの、本当に好きだよな」


「好き」


「じれったくない?」


「じれったいよ」


「じゃあ何で?」


「じれったいからいいんだろ」


 春樹は当然のように答える。


「簡単に答え出ない方が、その間の言葉とか態度とか楽しめるじゃん。本人が気づいてないのに読者だけ分かる時期とか最高だぞ」


 悠斗が微妙な顔になる。


「……お前、それ自分のことになると駄目なんだな」


「俺?」


「いや、何でもない」


「今日みんなそれ多くない?」


「気のせい」


「絶対気のせいじゃない」


 悠斗は笑いながら自分の席へ戻った。


 入れ替わるように、教室の入口から女子生徒が顔を覗かせる。


「七瀬先輩」


「あ、新海」


 真実だった。


 手には、あの連作短編集がある。


「今、大丈夫ですか?」


「大丈夫。どうした?」


「読み終わりました」


 春樹の顔が変わる。


「マジで!?」


「はい」


「全部?」


「全部です」


「どうだった?」


「七瀬先輩」


「何?」


「今ここで始めたら、休み時間終わります」


 春樹が時計を見る。


 残り六分。


「……確かに」


「なので、お昼にしませんか?」


「いいぞ。図書室?」


「はい。白石先輩にも話してみたいので」


「分かった」


「あと」


 真実が少しだけ本を持ち直す。


「西条先輩も、次に読むんですよね?」


「その予定」


「じゃあ、ネタバレしない方がいいですか?」


「雫が読む前ならそうだな」


「難しいですね」


「分かる。あの本、後半の話したら前半の意味まで変わるから」


「そうなんです」


 真実の表情が明るくなる。


「私、一編目を読み直しました」


「だろ!?」


 春樹の声が大きくなった。


 教室の何人かがこちらを見る。


「……悪い」


「やっぱりそうなると思いました」


「でも読み直したくなるよな!」


「なりました」


「俺も最終話まで読んだあと最初に戻った」


「同じです」


「新海は最初の――」


「昼」


「……はい」


 真実が笑う。


「じゃあ昼休みに」


「おう」


 真実が教室を出ようとした、そのとき。


「真実先輩!」


 廊下から、よく通る声が響いた。


 春樹の眉が動く。


「……この声」


 真実も振り返る。


「ひよりちゃん?」


「やっぱりいました!」


 小日向ひよりが勢いよく教室の入口へ現れた。


 昨日までの私服ではなく、今日は一年生の制服姿だ。小柄な身体に鞄を掛け、朝から変わらないらしい元気さで教室を覗き込んでいる。


「おはようございます!」


「もう二時間目終わってるぞ」


「細かいことはいいんです!」


「よくないだろ」


「春樹先輩!」


「何?」


「昨日の続き、話しましょう!」


「昨日?」


「土曜日です!」


「一昨日な」


「そうとも言います!」


「そうとしか言わない」


 真実が二人を見比べる。


「知り合いだったんですか?」


「あ」


 春樹が気づく。


「新海と小日向って知り合い?」


「はい。同じ学年ですから」


「クラスは違いますけど!」


 ひよりが答える。


「真実先輩は有名です!」


「その呼び方やめてって言ってるでしょ」


「えー、かわいいじゃないですか!」


「同級生でしょ?」


「でも真実先輩は真実先輩です!」


「意味分からない……」


 春樹は思わず笑う。


「新海も苦労してるんだな」


「七瀬先輩に言われたくないです」


「何で!?」


「ひよりちゃんと話してる七瀬先輩、ちょっと似てます」


「誰に?」


「西条先輩と話してるとき」


「そう?」


「遠慮がない感じ」


「ああ」


 春樹は納得した。


「小日向、遠慮する暇くれないからな」


「酷いです!」


「褒めてる」


「本当ですか?」


「半分くらい」


「半分!」


 真実が吹き出した。


 そのとき、予鈴が鳴る。


「あっ」


 ひよりが廊下を見る。


「戻らないと!」


「何しに来たんだよ」


「春樹先輩に会いに!」


「目的それだけ!?」


「あと本の話です!」


「どっちにしてもわざわざ二年の教室まで来ることじゃないだろ!」


「またお昼に来ます!」


「待て!」


「では!」


 ひよりはそのまま走り去った。


「廊下走るな!」


 春樹が叫ぶ。


 少し離れたところから、


「はーい!」


 返事だけが戻ってきた。


「絶対止まってないだろ……」


「元気ですね」


 真実が苦笑する。


「新海、あいつ昔からあんな感じ?」


「話したことはありますけど、あそこまででは……」


「じゃあ何で俺にはあれなんだよ」


「気に入られたんじゃないですか?」


「何で?」


「知りません」


「俺も知らない」


 真実は時計を見る。


「私も戻ります」


「おう。昼な」


「はい」


 真実も教室を出る。


 春樹が席へ戻ろうとすると、雫がこちらを見ていた。


「何?」


「……別に」


「また!?」


「後輩増えたわね」


「増えたって何だよ」


「真実ちゃんに、小日向さん」


「別に俺の後輩ってわけじゃないだろ。学校の後輩」


「そうだけど」


 雫はそれ以上言わず、教科書を机へ出す。


「雫」


「何?」


「小日向と新海、知り合いだったの知ってた?」


「知らない」


「俺も」


「そう」


「……機嫌悪い?」


「悪くない」


「本当に?」


「本当」


「ならいいけど」


 春樹はまだ少し不思議そうだったが、自分の席へ戻った。


 雫は教科書を開く。


 別に機嫌は悪くない。


 ただ。


 土曜日に一日一緒に過ごした余韻が、学校へ来れば簡単に薄まっていくような気がした。


 真実が来る。


 ひよりが来る。


 昼になれば栞のところへ行く。


 春樹の周りは、少し前より確実に賑やかになっている。


(……別に、いいんだけど)


 よくないとは思っていない。


 真実も嫌いではない。


 ひよりも、少し騒がしいが悪い子ではなさそうだ。


 栞だって、土曜日に会ったわけではない。


 なのに。


 自分でも説明できない小さな引っかかりが、また胸の奥に戻ってきていた。


     ◇◇◇


 昼休み。


「七瀬先輩ー!」


「早い!」


 弁当箱を開けるより先に、ひよりが二年三組へ現れた。


 春樹は思わず時計を見る。


 昼休み開始から二分。


「お前、一年の教室どこだよ」


「一階です!」


「ここ二階だぞ」


「階段使いました!」


「そういう意味じゃない!」


 ひよりは楽しそうに笑いながら春樹の机まで来る。


「お昼、一緒に食べましょう!」


「何で?」


「駄目ですか?」


「駄目じゃないけど、友達は?」


「います!」


「置いてきたの!?」


「誘いました!」


「来るの?」


「断られました!」


「何でそんな元気なんだよ」


 春樹が額を押さえる。


 その隣では悠斗が笑いを堪えていた。


「七瀬、お前すげえな」


「何が?」


「一年の女子が昼飯持って教室まで来るって、なかなかないぞ」


「俺もそう思う」


「春樹先輩人気者ですね!」


「お前が原因だよ!」


 雫は自分の弁当を持って近づいてくる。


「小日向さん、本当に来たんだ」


「西条先輩!」


「こんにちは」


「一緒に食べましょう!」


「私も?」


「はい!」


「……いいけど」


 雫は春樹の隣の席へ椅子を寄せる。


 それはいつもの位置だった。


 ひよりが反対側へ椅子を持ってくる。


「じゃあ私ここ!」


「お前、自由だな」


「ありがとうございます!」


「褒めてない」


 紗弥と悠斗も加わり、机を囲む。


「何か増えたな」


 悠斗が言う。


「人を物みたいに言うなよ」


「高坂先輩ですよね!」


 ひよりが悠斗を見る。


「え、俺知ってんの?」


「はい!」


「何で?」


「春樹先輩とよくいる人!」


「その覚え方!?」


「あと赤木先輩!」


「私も?」


「はい! 西条先輩のお友達!」


「間違ってないけど」


 紗弥が笑う。


「小日向さん、結構人覚えてるんだね」


「得意です!」


「俺、人名覚えるの苦手なのに」


 春樹が感心する。


「春樹先輩は本の登場人物も役割で覚えるそうですね!」


「何で知ってる!?」


「真実先輩に聞きました!」


「新海!」


「いませんよ」


 悠斗が突っ込む。


「情報回るの早すぎない?」


「一年生ネットワークです!」


「怖い言い方するなよ」


 昼食が始まる。


 最初こそひよりの勢いに押されていたが、数分もすると会話は自然に流れ始めた。


 ひよりは話す量こそ多いが、一方的に自分の話だけをするわけではない。


 紗弥が映画の話をすれば興味を示し、悠斗が部活の話をすれば質問する。


 雫にも普通に話しかける。


「西条先輩、土曜日の本屋どうでした?」


 そして、唐突にそこへ踏み込んだ。


 雫の箸が止まる。


「……楽しかったけど」


「ですよね!」


「何で小日向さんが嬉しそうなの?」


「春樹先輩、ずっと楽しそうでしたから!」


「そうなの?」


 雫が春樹を見る。


「楽しかったって土曜日言っただろ」


「そうだけど」


「古本屋で三冊も買えたし」


「そこ?」


「お前の感想も聞けたし」


「…………」


「何?」


「別に」


「今日も多いな、それ」


 ひよりが二人を交互に見る。


「やっぱりデートだったんじゃ――」


「違う」


 春樹と雫の声が重なった。


 一瞬の沈黙。


 悠斗が噴き出した。


「息ぴったりじゃん!」


「笑うな!」


「笑わないで!」


「そこまで一緒!」


「高坂!」


 雫が睨む。


 紗弥も肩を震わせている。


「いや、ごめん。でもこれはちょっと」


「赤木まで!」


 ひよりは目を輝かせていた。


「すごいです!」


「何もすごくない!」


 春樹が否定する。


「俺と雫が同じこと言うのなんて珍しくないだろ」


「まあ、それはそうだけど」


 紗弥が頷く。


「昔から一緒だしね」


「だろ?」


「うん」


 雫は少しだけ黙った。


 春樹は何も気づかず、弁当のおかずを口へ運ぶ。


「そうだ、小日向」


「はい!」


「昨日言ってた本の感想、昼に話すって言ってたけど」


「はい!」


「俺、今日図書室行くんだよ」


「じゃあ私も行きます!」


「即決!?」


「駄目ですか?」


「駄目じゃないけど」


「やった!」


「ただ図書室だから静かにな」


「できます!」


 春樹は疑うような目を向ける。


「本当に?」


「失礼ですね!」


「お前、昨日から声でかいぞ」


「図書室では小さくします!」


「ならいいけど」


 雫の箸がまた止まる。


「春樹」


「ん?」


「図書室、真実ちゃんも来るんでしょ?」


「来る」


「白石先輩もいる?」


「多分」


「小日向さんも?」


「今決まった」


「……そう」


 春樹が首を傾げる。


「雫も来る?」


「え?」


「連作短編集、次お前が借りるんだろ?」


「あ……」


 春樹は当然のように続ける。


「新海が今日読み終わったって持ってきたから、そのまま借りればいいじゃん」


「でも感想会するんじゃないの?」


「するけど、雫が読んでないところはネタバレしないようにする」


「私いたら話しにくくない?」


「別に?」


 春樹は本当に不思議そうだった。


「前もいたじゃん。それにお前も次読むなら、最初の一編くらいの話は一緒にできるだろ」


「……行く」


「おう」


 雫は弁当へ視線を戻す。


 さっきまで胸にあった小さな引っかかりが、少しだけ薄れた。


 春樹は誰かが増えたからといって、自分を外へ押し出しているわけではない。


 むしろ当然のように「来る?」と聞く。


 それだけのことで安心している自分に、雫はまだ名前をつけなかった。


     ◇◇◇


 昼食を終えたあと。


 図書室へ向かう集団は、普段より明らかに人数が多かった。


「何で俺が先頭なんだよ」


「春樹先輩についていけば着くからです!」


「お前、この学校の生徒だろ!」


「図書室あんまり行かないんです!」


「威張るな」


 春樹の隣には雫。


 少し後ろを真実とひよりが歩いている。


 悠斗と紗弥は教室に残った。


「新海」


 春樹が振り返る。


「小日向と仲いいの?」


「普通です」


「真実先輩!」


「その呼び方やめて」


「仲良しです!」


「勝手に決めないで」


「冷たい!」


「ひよりちゃんが近すぎるの」


「いいじゃないですか!」


「同じクラスでもないのに、何でそんなに来るの?」


「好きだからです!」


 真実が足を止めた。


「……私のこと?」


「はい!」


「あ、そう」


「何だと思ったんです?」


「何でもない」


 春樹が笑う。


「新海も『何でもない』使うんだな」


「誰かさんたちのせいで増えました」


「俺?」


「主に」


「何でだよ」


 雫が小さく笑う。


「春樹の周り、そればっかりね」


「俺が悪いみたいに言うなよ」


「半分くらいは春樹のせいじゃない?」


「残り半分は?」


「知らない」


「ほら!」


 そんな会話をしながら図書室へ到着する。


 春樹が扉を開けると、冷房の効いた少し乾いた空気と、本棚特有の匂いが流れてきた。


 カウンターには栞がいる。


 こちらを見て。


 一度瞬きをした。


「……今日は多いですね」


「俺もそう思います」


 春樹が答える。


「こんにちは、白石先輩」


「こんにちは、西条さん。新海さんも」


「こんにちは」


「こんにちは」


「初めまして!」


 ひよりだけ声が大きい。


 図書室にいた数人の生徒が振り返る。


 春樹がすぐひよりの頭へ手を置いた。


「声」


「……初めまして」


 一気に小さくなる。


「極端だな」


「図書室なので!」


「できるじゃん」


「やればできます!」


 栞が小さく笑った。


「一年生ですか?」


「はい。小日向ひよりです!」


 声が少し上がる。


 春樹が無言で見る。


「……小日向ひよりです」


「ふふ。白石栞です」


「春樹先輩から聞いてます!」


 今度は小声を保った。


「私のことを?」


 栞が春樹を見る。


「本の話です。本の」


「分かってます」


「何でちょっと笑ってるんですか」


「何でもありません」


「白石先輩まで!」


 栞がさらに笑う。


 雫はそのやり取りを見ていた。


 春樹と栞の間には、以前よりずっと自然な空気がある。


 最初に会ったときのような遠慮は薄れ、春樹も栞も相手の反応を予想しながら話している。


 けれど今日は、そこだけを見て胸がざわつくことはなかった。


 自分もここにいる。


 真実もいる。


 ひよりまでいる。


 いつの間にか、春樹が一人で本を読むために通っていた場所が、随分賑やかになった。


「新海さん」


 栞が真実の本を見る。


「読み終わったんですね」


「はい」


「どうでした?」


「面白かったです」


 真実が本を両手で持ち直す。


「でも、七瀬先輩が言ってた意味がやっと分かりました」


「どの意味?」


 春樹が尋ねる。


「読み終わったあと最初に戻りたくなるっていう」


「だよな!」


「声」


 三人から同時に言われた。


 春樹が口を閉じる。


「……すみません」


 ひよりが肩を震わせる。


「春樹先輩、私より怒られてます」


「うるさい」


 全員で、窓際のいつもの席へ移動する。


 真実が借りていた連作短編集をテーブルへ置いた。


「私、一番好きだったの三編目です」


「お」


 春樹が反応する。


「意外」


「七瀬先輩は違うんですか?」


「俺は最終話。でも三編目も好き」


「白石先輩は?」


「私は五編目と最終話で迷います」


「やっぱり」


 春樹が言う。


「白石先輩、五編目好きですよね」


「どうして分かるんですか?」


「会話少ないから」


「理由が雑です」


「いや、ちゃんと意味ありますって。あの話、一番言葉にしないじゃないですか。白石先輩、そういう場面好きだから」


 栞は少しだけ目を丸くする。


 それから、柔らかく笑った。


「……確かに好きです」


「ほら」


「七瀬君、本当に覚えてますね」


「最近結構話してますから」


「そうですね」


 二人のやり取りを、真実が静かに見る。


 雫も見る。


 ひよりはもっと露骨に、春樹と栞を交互に見ていた。


「何?」


 春樹が気づく。


「春樹先輩、白石先輩の好み分かるんですね」


「本の?」


「はい」


「話してれば分かるだろ」


「西条先輩のも?」


「分かる」


「真実先輩のは?」


「まだそんなに分からない」


「私のは?」


「昨日一冊感想聞いただけで分かるわけないだろ」


「じゃあこれからですね!」


「何が?」


「私の好きな本を覚えてもらいます!」


「何でそんな目標できたの?」


「駄目ですか?」


「駄目じゃないけど」


 ひよりが嬉しそうに笑う。


 雫の指が、テーブルの上にある短編集の端へ触れた。


「春樹」


「ん?」


「私、これ借りていい?」


「ああ」


 春樹はすぐ本を雫側へ押す。


「新海、いいよな?」


「もちろんです」


「ありがとう」


 雫が受け取る。


 春樹が少し考えてから言った。


「一編目読んだら感想聞かせて」


「全部じゃなくて?」


「全部でも聞く。でも途中でも聞きたい」


「何で?」


「新海の一編目の感想と比べたい」


「私も聞きたいです」


 真実が乗る。


「同じところ気になるか、違うところ気になるか」


「面白そうですね」


 栞も頷く。


「読み終わった人が増えるたびに、同じ本の見え方が少しずつ変わりそうです」


「ですよね」


 春樹は楽しそうに笑う。


「これ、最終的に全員読んだらかなり話せるな」


「私も読みたいです!」


 ひよりが手を上げる。


「お前も!?」


「駄目ですか?」


「駄目じゃないけど……」


 春樹は雫の手にある本を見る。


「雫の次な」


「はい!」


「急がなくていいからな」


「分かってます!」


「本当に?」


「多分!」


「不安しかない」


 真実が笑う。


「ひよりちゃん、こういうとき本当に早いから」


「昨日も一冊読んだぞ」


「え?」


「俺が貸したやつ」


「一日で?」


「面白かったので!」


「でも無理は駄目だよ」


「真実先輩、お母さんみたいです!」


「誰がお母さん」


「痛いです!」


 真実がひよりの頬を軽くつまむ。


 図書室なので二人とも声を抑えているが、やっていることは教室とあまり変わらない。


 春樹はその様子を見て笑った。


「何か」


 栞が小さく言う。


「本当に賑やかになりましたね」


「すみません」


「嫌だとは言ってません」


 春樹は栞を見る。


「前は俺一人でここ来て、本読んで帰ってたんですけどね」


「そうでしたね」


「最近、本読みに来ても全然進まないんですよ」


「今日も読めそうにありませんね」


「……俺、何しに図書室来てるんだろ」


「本の話をしに?」


「本を読む場所だったはずなのに!」


 声を上げそうになり、春樹は途中で自分から音量を落とした。


 栞が笑う。


 雫も笑う。


 真実も。


 ひよりも。


 春樹は四人を見回した。


 少し前なら、図書室で誰かと会話すること自体が珍しかった。


 今では、自分が読んだ本を誰かが読み、その感想を聞き、また次の誰かへ本が渡っていく。


 自分の読書時間が減っている。


 これは間違いない。


(……でも、まあ)


 悪くはない。


 そのくらいには、もう認めてもいい気がしていた。


     ◇◇◇


「じゃあ、私そろそろ戻ります」


 昼休み終了まで十分ほどになったところで、真実が立ち上がった。


「私も!」


 ひよりも続く。


「小日向、お前今日ちゃんと飯食った?」


「食べました!」


「いつ?」


「教室出る前に急いで!」


「急いで食うなよ」


「春樹先輩に会いたかったので!」


「飯優先しろ!」


「明日から気をつけます!」


「本当だな?」


「多分!」


「信用できない!」


 ひよりが笑う。


「じゃあ春樹先輩、また放課後!」


「待て」


「はい?」


「放課後も来るの?」


「駄目ですか?」


「お前、部活は?」


「今日はないです!」


「俺は?」


「図書室!」


「勝手に決めるな!」


「違うんですか?」


 春樹は答えようとして止まる。


 放課後の予定。


 特にない。


 新刊は朝読み終わった。


 宿題も多くない。


 そして昨日買った古本が鞄に一冊入っている。


「……行く可能性はある」


「じゃあ行きます!」


「何でだよ」


「次の本選んでください!」


「昨日読み終わったばっかりだろ!」


「一冊ずつって言いましたよね?」


「言ったけど、間隔まで一日ずつとは言ってない!」


「お願いします!」


「分かったから図書室で大声出すなよ」


「やった!」


「今のは大きい」


「……やった!」


 小声でやり直す。


 栞が口元を押さえた。


「七瀬君」


「はい?」


「小日向さんと相性いいですね」


「どこがですか!?」


「会話のテンポが」


「俺、ずっと振り回されてるんですけど」


「楽しそうですよ」


「…………」


 春樹はひよりを見る。


 ひよりは満面の笑みで手を振っている。


「……疲れます」


「否定はしないんですね」


「面白くはあるので」


「春樹先輩!」


「聞こえてるぞ」


「嬉しいです!」


「ほら、こうなる!」


 真実がひよりの背中を押す。


「もう戻るよ」


「はーい。では皆さん、また!」


「廊下走るなよ!」


「はい!」


 二人が図書室を出ていく。


 扉が閉まると、急に静かになったように感じた。


「嵐みたいね」


 雫が呟く。


「本当に」


 春樹は椅子へ深く座り直す。


「昨日からずっとあの調子」


「でも春樹、嫌じゃなさそう」


「嫌じゃないよ」


 春樹は素直に答えた。


「本の話できるし。ちょっとうるさいけど」


「……そう」


「何?」


「別に」


「またそれ」


 春樹は笑いながら、雫が持っている連作短編集を見る。


「今日読む?」


「帰ったら少し」


「一編目読んだら連絡して」


「そんなに感想聞きたいの?」


「聞きたい」


「すぐ?」


「できれば」


「……分かった」


 雫は本を鞄へしまう。


 栞はその様子を見ながら、返却本をまとめていた。


「西条さん」


「はい?」


「一編目だけなら、今度私も感想を聞いていいですか?」


「もちろんです」


「ありがとうございます」


 雫は少し笑う。


「白石先輩と春樹、どこが違ったかも聞いてみたいです」


「俺と?」


「うん」


「多分結構違うぞ」


「それが面白いんでしょ?」


 春樹が一瞬止まった。


 それから、嬉しそうに笑う。


「……分かってきたじゃん」


「何、その上から目線」


「痛っ」


 雫が春樹の腕を軽く叩く。


「図書室ですよ」


 栞が注意する。


「俺ですか!?」


「二人ともです」


「すみません」


「すみません」


 今度は春樹と雫の声が揃った。


 栞が笑う。


「本当に仲がいいですね」


「幼なじみですから」


 雫が答える。


 その言葉は、これまで何度も使ってきた。


 説明として一番簡単で。


 一番正しくて。


 それ以上を考えなくて済む言葉。


 けれど今日は、その言葉を口にしたあと、ほんの少しだけ胸に何かが残った。


     ◇◇◇


 放課後。


「春樹先輩!」


「本当にいた!」


 図書室へ入った瞬間、ひよりの声が飛んできた。


「何でお前が先にいるんだよ!」


「待ってました!」


「待つな!」


「十分くらいです!」


「時間の問題じゃない!」


 ひよりはすでに窓際の席に座っていた。


 机の上には一冊の本。


「それ何?」


「自分のです!」


「本持ってたんだ」


「私だって読みます!」


「どういうジャンル?」


「恋愛です!」


「へえ」


 春樹が向かいへ座る。


「どんなの?」


「幼なじみの男の子と、転校してきた男の子の間で女の子が悩む話です!」


「……雫が今絶対読みたくないやつだ」


「西条先輩、幼なじみもの嫌いなんですか?」


「嫌いじゃないらしいけど、今は気分じゃないって」


「どうしてです?」


「知らない」


「春樹先輩、幼なじみなのに?」


「幼なじみだからって全部分かるわけじゃないぞ」


 ひよりが少し考える。


「でも本の好みは分かるんですよね?」


「ある程度は」


「不思議ですね」


「何が?」


「本の好みは分かるのに、気分は分からないんですね」


 春樹が止まる。


「……そりゃそうだろ」


「そうですか?」


「本の好みは今まで何読んでたかで分かる。でも今何考えてるかなんて、本人に聞かなきゃ分からないじゃん」


「聞かないんですか?」


「聞いたよ」


「何て?」


「『知らない』って」


「なるほど!」


「何がなるほどなんだよ」


 ひよりは楽しそうに笑った。


「じゃあ、私の次の本!」


「切り替え早いな」


 春樹は鞄から一冊の本を出す。


「実は持ってきた」


「えっ」


「昨日、お前が一冊目の感想言ってただろ。好きだったところ聞いて、候補考えた」


「春樹先輩……!」


「近い近い」


 ひよりが机越しに身を乗り出したため、春樹が本で額を軽く押し戻す。


「座れ」


「はい!」


「今回は学校ものじゃない」


「何ですか?」


「商店街が舞台の日常ミステリー」


「ミステリー?」


「殺人とかじゃないぞ。商店街で起きる小さい謎を、高校生の主人公が友達と調べる話」


「恋愛あります?」


「少し」


「どのくらい?」


「友情七、謎二、恋愛一くらい」


「恋愛少ない!」


「お前、昨日の感想で恋愛部分一個も言わなかったじゃん」


「……あ」


「文化祭のクラスが割れるところとか、主人公が一人で抱え込むところとか、仲間に頼るところが好きって言ってた。だから今回は人間関係寄り」


 ひよりが本を見る。


「ちゃんと考えてくれたんですね」


「そりゃ勧めるなら考えるだろ」


「私、昨日一冊読んだだけですよ?」


「一冊読めば一冊分は分かる」


「…………」


「何?」


「春樹先輩って、こういうこと普通にするんですね」


「どういうこと?」


「相手が言ったこと覚えて、本選んでくれるの」


「本勧めるなら普通じゃない?」


「そうなんですね」


「何だよ」


「何でもないです!」


「お前までそれ使うようになったの!?」


 ひよりは本を受け取る。


 表紙を眺め、裏返してあらすじを読む。


「面白そうです」


「だろ?」


「借りていいんですか?」


「そのために持ってきた」


「ありがとうございます!」


「ただし」


「はい!」


「明日までに読まなくていい」


「……先に言われた」


「絶対やりそうだから」


「ばれました?」


「ばれる」


「でも面白かったら読みます!」


「それは止めない。でも寝る時間削るなよ」


「春樹先輩に言われたくないです」


「何で知ってる!?」


「真実先輩が!」


「新海ぃ……!」


 春樹が頭を抱える。


 少し離れたカウンターで栞が笑っていた。


「白石先輩!」


「私は何も言ってません」


「笑いましたよね?」


「少しだけ」


「俺、図書室で威厳なくなってません?」


「最初からあまりなかったと思います」


「酷い!」


 ひよりが声を殺しながら笑う。


 春樹もつられて笑った。


 そのあと、ひよりは借りた本の最初の数ページを読み始めた。


 春樹もようやく鞄から古本を出す。


 会話が止まる。


 ページをめくる音だけが残る。


 五分。


 十分。


 春樹はふと顔を上げた。


 ひよりは意外なほど真剣に本を読んでいた。


 いつもの勢いはなく、眉を少し寄せながら文字を追っている。


(ちゃんと静かにできるんだな)


 少し失礼な感想だった。


 だが、そのまま口にすると確実に怒られるため黙っておく。


 カウンターでは栞が貸出処理をしている。


 窓の外は曇っている。


 遠くで運動部の掛け声が聞こえた。


 春樹はもう一度本へ目を落とす。


 少し前まで、これが普通だった。


 図書室へ来る。


 一人で読む。


 誰にも話しかけられない。


 静かな時間を過ごす。


 今は向かいに後輩がいる。


 カウンターには、読書の好みをある程度知っている先輩がいる。


 昼には幼なじみと、別の後輩までいた。


(……本当に増えたな)


 桐谷美月に言われた言葉を思い出す。


 読書生活が侵食されているのではなく、広がっている。


 最初に聞いたときより、その意味が少し分かるようになった。


 それでも。


(今日はちゃんと読むぞ)


 そこだけは譲れない。


 春樹は本へ集中した。


     ◇◇◇


 三十分ほど経った頃。


 図書室の扉が開いた。


 春樹は気にしなかった。


 誰かが入ってくるのは普通だ。


 そのままページをめくる。


 だが。


「……やっぱりいた」


 聞き慣れた声で顔を上げる。


「雫?」


 西条雫が立っていた。


 手には、昼に借りた連作短編集。


「どうした?」


「一編目読んだ」


「もう!?」


「帰る前に少し時間あったから」


「で?」


 春樹の目が輝く。


「どうだった?」


「その前に」


「何?」


 雫の視線が、春樹の向かいへ動く。


 ひよりがいる。


「西条先輩!」


 ひよりが小声で手を振る。


「こんにちは」


「こんにちは。小日向さんもいたんだ」


「はい! 春樹先輩に次の本選んでもらってました!」


「……そう」


 雫はひよりの手元を見る。


 見覚えのない本。


 春樹が選んだもの。


「雫?」


「何?」


「感想」


「今?」


「そのために来たんじゃないの?」


「……そうだけど」


 春樹は隣の椅子を引いた。


「座れば?」


「うん」


 雫は春樹の隣へ座る。


 向かいにはひより。


 少し離れたカウンターに栞。


「それで?」


 春樹が待ちきれない様子で聞く。


「一編目、どうだった?」


 雫は本をテーブルへ置いた。


「思ってたより静かな話だった」


「うん」


「でも、最後まで読んだあと最初の喫茶店の場面をもう一回見たくなった」


 春樹の口元が上がる。


「早いな」


「何が?」


「一編目だけでそこ気になったんだ」


「だって、最後の会話読んだら最初の言い方ちょっと違って見えるでしょ?」


「新海はそこ、最初あんまり気にしてなかった」


「そうなの?」


「うん。新海は主人公が窓の外見てるところを気にしてた」


「白石先輩は?」


「俺が最初に話したときは――」


「私は、店員さんの台詞でした」


 栞がカウンターから答える。


 ちょうど貸出対応が途切れたらしい。


「ほら」


 春樹が楽しそうに笑う。


「全員違う」


 雫も少し笑った。


「本当だ」


「面白いだろ?」


「うん」


「これなんだよ。同じ話読んでも見るところ違うから、感想聞くの楽しいんだって」


 春樹は本を指差す。


「だから最後まで読んだら、また変わると思う」


「春樹はどこ見てたの?」


「俺?」


「うん。一編目を最初に読んだとき」


 春樹は少し考える。


「主人公がコーヒー冷めるまで一口も飲まないところ」


「そんなところ?」


「俺、あれ絶対意味あると思ったんだよ」


「実際あった?」


「それはまだ言えない」


「ネタバレ?」


「ネタバレ」


「じゃあ聞かない」


「偉い」


「子供扱いしないで」


 雫が春樹の腕を軽く小突く。


「痛くないけど図書室だから」


「声出してないでしょ」


「そういう問題?」


 向かいでひよりがじっと二人を見ていた。


「何?」


 雫が気づく。


「いえ」


 ひよりは少し首を傾げる。


「春樹先輩、西条先輩と話してるとき、本当に普通ですね」


「どういう意味?」


「何て言えばいいんでしょう」


 ひよりは考える。


「私とか真実先輩とか白石先輩と話すときも楽しそうなんですけど、西条先輩には説明する前から通じてる感じがします」


 雫が瞬きをする。


 春樹は首を傾げた。


「幼なじみだからじゃない?」


「多分そうです!」


「じゃあ普通だろ」


「はい!」


「何だったんだ今の」


 春樹はすぐ本へ視線を戻す。


 雫は戻せなかった。


 ひよりの言葉が、少しだけ胸に残る。


『説明する前から通じてる感じ』


 自分では考えたこともなかった。


 春樹が何を言おうとしているのか分かること。


 春樹が本について熱くなったとき、どこで止めればいいか知っていること。


 春樹が本当に嫌がっているのか、口だけで文句を言っているのか、何となく区別できること。


 逆もそうなのだろうか。


 春樹は自分の本の好みを知っている。


 自分がどういう物語を好きなのか、昔から見ている。


 当たり前すぎて、特別だと思ったことはなかった。


(……幼なじみだから)


 便利な言葉だ。


 最近、それを何度も使っている。


 けれど、その言葉で説明したあとに残るものが、少しずつ増えている気がした。


「雫?」


「何?」


「また難しい顔してる」


「してない」


「してる」


「本のこと考えてたの」


「ならいいけど」


「……春樹」


「ん?」


「今日、一緒に帰れる?」


 春樹が時計を見る。


「帰れるよ」


「図書室は?」


「今いるじゃん」


「そうじゃなくて」


「分かってるって」


 春樹が笑う。


「あと二十分くらい読んだら帰る」


「じゃあ待ってる」


「おう」


 答えは簡単だった。


 雫は本を開く。


 春樹も自分の本へ戻る。


 ひよりも借りた本を読む。


 栞はカウンターで仕事を続ける。


 四人が同じ空間で、それぞれ違う本を読んでいる。


 会話はない。


 けれど、以前の静けさとは違った。


 誰かがいることを意識しながら、それでも本を読める静けさだった。


     ◇◇◇


 約二十分後。


「じゃあ白石先輩、また明日」


「はい。また明日」


「小日向は?」


「もうちょっと読みます!」


「一人で帰れるよな?」


「高校生ですよ!?」


「いや、お前なら本読んでて時間忘れそうだから」


「春樹先輩にだけは言われたくありません!」


「確かに」


 雫が即答する。


「雫まで!?」


「事実でしょ」


「否定できないけど!」


 栞が笑う。


 春樹と雫は図書室を出た。


 廊下には部活動へ向かう生徒がまだ多く、窓の向こうからはグラウンドの掛け声が響いている。


「なあ雫」


「何?」


「今日、わざわざ一編目読んで図書室来たの?」


「悪い?」


「悪くないけど」


「感想聞きたいって言ったの春樹でしょ」


「言った」


「だから来た」


「そっか」


 春樹は少し笑う。


「嬉しい」


 雫の足がわずかに止まりかけた。


「……何が?」


「読んですぐ感想持ってきてくれたの」


「…………」


「俺、あの本好きだからさ。新海も読んでくれたし、雫も読み始めたし、小日向まで次に読むって言ってるし。何か一冊の本が回ってくの、いいな」


「ああ……本の話ね」


「他に何があるんだよ」


「別に」


「また?」


 雫は少しだけ口を尖らせる。


 けれど、そのまま春樹の半歩前を歩き、すぐ速度を落として隣へ戻った。


「春樹」


「ん?」


「土曜日のことなんだけど」


「本屋?」


「うん」


「何?」


「次も一緒に行くって言ったでしょ」


「言ったな」


「忘れないでね」


「忘れないって」


「本当に?」


「何でそんな確認するんだよ」


「春樹だから」


「理由になってない!」


「本が絡むと判断力三割落ちるんでしょ?」


「永山先生の言葉を便利に使うな!」


 雫が笑う。


 春樹も笑った。


 昇降口へ着き、靴を履き替える。


 外へ出ると、朝から垂れ込めていた雲が少しだけ薄くなっていた。


 雨はまだ降っていない。


「今日、傘持ってきた?」


 雫が聞く。


「持ってきた」


「珍しい」


「土曜日じゃなくて先週の雨で学習した」


「成長したわね」


「もっと褒めろ」


「偉い偉い」


「雑!」


 二人は校門へ向かう。


 春樹の周りには、人が増えた。


 図書室へ行けば栞がいる。


 真実が本を読んで、感想を持ってくる。


 ひよりは頼んでもいないのに勢いよく飛び込んでくる。


 凛とは廊下で話すことが増えた。


 悠斗からは恋愛相談をされる。


 桐谷美月には、自分の生活をラブコメのようだと言われた。


 そして雫は。


 昔からいる。


 あまりにも昔からいるせいで、その存在を数える必要すらなかった。


「雫」


「何?」


「今日、帰ったら二編目読む?」


「読むと思う」


「読み終わったら――」


「連絡する」


「お」


「どうせ聞くんでしょ?」


「聞く」


「分かってる」


「……確かに、ひよりの言った通りかもな」


「何が?」


「説明する前から通じてる」


 雫の歩みがほんの少しだけ遅くなる。


 春樹は気づかず、そのまま続けた。


「楽でいいな」


「……楽?」


「うん。雫相手だと、いちいち説明しなくていいこと多いし」


「それ、褒めてる?」


「めちゃくちゃ褒めてる」


「そう」


「何で?」


「別に」


「だから今日何回目だよ、それ!」


 雫は笑いながら春樹の鞄を軽く引いた。


「早く帰るわよ」


「引っ張るなって!」


「帰ったら本読むんでしょ?」


「読む!」


「私も読む」


「じゃあ早く帰ろう」


「うん」


 二人は並んで歩き出す。


 雫の胸の奥には、まだ答えの出ないものがある。


 誰かが春樹へ近づけば気になる。


 自分の知らない春樹を知っている人がいれば、その話を聞きたくなる。


 春樹との時間が減れば、少し落ち着かない。


 だから帰り道を約束し、本屋へ行く日を先に確保し、同じ本を読んで感想を話す。


 それでもまだ、雫はその行動に名前をつけていない。


 一方の春樹は。


(帰ったら古本の続き読む前に、雫から二編目の感想来るかな。新海の感想と違ったら面白そうだな。あと小日向に貸したやつも、どこ気に入るか予想しとくか……)


 恋愛小説なら、こういう人物を見たとき何と言うのか。


 春樹は誰よりよく知っている。


 知っているはずなのに。


 自分と幼なじみのことになると、その知識は今日も見事なくらい役に立っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。