第19話 本を読んでいただけなのに、なぜかクラス代表候補にされています
火曜日の朝、清涼学園二年三組。
窓の外には昨日より明るい空が広がっていた。梅雨らしい湿気は残っているものの雨の気配はなく、グラウンドでは朝練を終えた運動部員たちが校舎へ戻り始めている。
そんな教室の窓際で、七瀬春樹はいつも通り文庫本を開いていた。
昨日、古本屋で買ったうちの一冊。
地方都市にある小さな喫茶店を舞台にした短編集で、派手な事件も恋愛もない。ただ、店を訪れる人たちの何気ない会話が少しずつ重なっていくタイプの作品だった。
(こういうのもいいな)
昨夜は雫から、借りた連作短編集の二編目を読み終えたという連絡が来た。
予想通り、真実とは違う部分を気にしていた。
真実は物語同士のつながりに興味を持ち、雫は登場人物同士の距離の変化を気にする。
栞ならまた別のところを見るだろう。
一冊の本について何人もの感想を聞くという経験は、春樹が思っていた以上に面白かった。
ただし。
(今日は読む)
昨日の昼休みは、ほとんど読めなかった。
放課後も、ひよりが来た。
最近の図書室は読書時間を確保する場所というより、読書について話す場所になりつつある。
それ自体は嫌ではない。
むしろ楽しい。
だが、それとこれとは別問題だ。
(俺は本が読みたい)
強い決意とともにページをめくる。
主人公の青年が、常連客から昔の手紙を預かったところだった。
差出人の名前はない。
宛先だけが書かれている。
(絶対これ、前の話の――)
「七瀬」
「今いいところです」
「まだ何も言ってないぞ」
頭上から低い声が落ちてきた。
春樹は顔を上げる。
担任の永山剛志が立っていた。
「……おはようございます」
「おはよう」
「今日もいい天気ですね」
「話を逸らすな」
「まだ先生、何も言ってないですよね?」
「お前が先に『今いいところです』と言ったんだろうが」
「確かに」
春樹は素直に本を閉じた。
永山が眉を上げる。
「今日は早いな」
「最近、先生方が俺から本を取り上げる速度を学習したので」
「お前が学習しろ」
「授業中じゃないですよ?」
「まだな」
「じゃあ合法です」
「読書を犯罪みたいに言うな」
近くの生徒から笑いが漏れた。
永山は呆れたように息を吐いたあと、教卓へ持ってきたプリントの束を持ち上げる。
「ちょうどいい。七瀬、これ配ってくれ」
「嫌です」
「即答するな」
「俺の読書時間が」
「あと十分ある」
「十分しかないんですよ!」
「十分で世界が滅びるのか?」
「今、手紙の差出人が分かりそうなんです」
「知らん」
「先生、本当に国語教師じゃなくてよかったですね」
「俺は社会科だ」
「知ってます」
「なら言うな」
教室のあちこちから笑い声が上がる。
春樹は仕方なく立ち上がり、永山からプリントを受け取った。
「何ですか、これ」
「来月――と言うほど先でもないか。今月末の校内スポーツ交流会の概要だ」
「ああ」
先週から話題に出ていた行事だった。
六月下旬に行われる、学年混合ではないクラス対抗形式の校内行事。体育祭ほど大規模ではないが、いくつかの競技に分かれてクラスごとに得点を競うらしい。
細かい説明は今週行うと聞いていた。
「やっと内容決まったんですね」
「元々決まっている。お前らへの正式な説明が今日なだけだ」
「なるほど」
春樹は一枚を見る。
競技名が並んでいる。
バスケットボール。
バレーボール。
卓球。
リレー。
そしてサッカー。
春樹の視線が一瞬だけ止まった。
「…………」
「七瀬」
「はい?」
「今、サッカー見ただろ」
「見ましたけど」
「出るか?」
「話が早すぎません?」
「神谷から聞いている」
「何を」
「お前を出せば勝てると」
「あいつ……!」
思わず声が出た。
その名前に反応したのか、教室の何人かがこちらを見る。
永山は口元だけで笑う。
「まあ、決めるのはクラスだ。さっさと配れ」
「先生」
「何だ」
「俺、読書競技なら出ます」
「ない」
「新設しましょう」
「何を競うんだ」
「制限時間内に何ページ読めるか」
「お前が有利すぎるだろ」
「だから出たいんですよ」
「却下だ」
「横暴!」
「いいから配れ!」
春樹は渋々プリントを配り始めた。
その途中。
「七瀬」
男子の一人に呼び止められる。
「サッカー出る?」
「まだ決めてない」
「出ろよ。神谷が言ってたぞ。お前めちゃくちゃ上手いんだろ?」
「蓮は話を盛るから信用するな」
「でも前に体育で見たけど普通に上手かったじゃん」
「普通だよ」
「普通の基準がおかしいんだって」
別の男子まで会話へ入ってくる。
「俺も七瀬サッカーに一票」
「勝手に投票始めるな!」
「じゃあ俺も」
「二票!」
「だから決めるの早いって!」
教室に笑いが広がる。
春樹は残りのプリントを配りながら嫌な予感を覚えた。
(これ、絶対面倒なことになるやつだ)
サッカーが嫌なわけではない。
むしろ好きだ。
久しぶりにボールを蹴るのも楽しい。
問題は、こういう学校行事で一度「できる」と知られると、だいたい話が大きくなることだった。
「春樹」
自分の席へ戻る途中、雫に呼ばれる。
「何?」
「サッカー出るの?」
「お前まで聞く?」
「だって、出たらいいじゃない」
「読書時間が減る」
「当日はどっちにしても読めないでしょ」
「待ち時間がある」
「そこまで読む気なの?」
「当たり前だろ」
雫は呆れたように笑う。
「でも、春樹がサッカーしてるところ、久しぶりに見たいかも」
春樹が少し止まった。
「この前やったじゃん」
「少しだけでしょ」
「二十分くらい」
「ちゃんと試合するところ」
「中学以来?」
「多分」
雫の表情が、ほんの少し懐かしそうに緩む。
「春樹、試合のときだけ結構真面目だったし」
「普段も真面目だよ」
「授業中に本読んでる人が?」
「それとこれは別問題」
「先生に聞かせてあげたい」
「やめろ」
雫はプリントのサッカー欄へ目を落とす。
「出れば?」
「そんなに見たい?」
「……まあ」
「じゃあ考えとく」
春樹は軽く答え、自分の席へ戻った。
雫はその背中を少しだけ見つめる。
昔は、春樹がサッカーをする姿なんて珍しくなかった。
中学時代は部活で毎日のようにボールを蹴っていたし、試合を見に行ったことも何度かある。
高校へ入って、春樹がサッカー部へ入らないと決めたときも驚きはした。
けれど理由を聞けば、いかにも春樹らしかった。
本を読む時間が減るから。
冗談のようで、本人は本気だった。
(久しぶりに見たい、か)
口に出してから、自分でも少し不思議だった。
サッカーが見たいのか。
サッカーをしている春樹が見たいのか。
似ているようで、少し違う。
「西条」
「何?」
紗弥が隣から声をかける。
「七瀬、出るといいね」
「別に、どっちでもいいけど」
「今、出てほしそうだったよ」
「久しぶりだからよ」
「うん」
「何?」
「何も言ってない」
「最近それ禁止」
「じゃあ、了解」
「それも何か腹立つ!」
紗弥が笑った。
◇◇◇
ホームルームが始まると、永山からスポーツ交流会について正式な説明が行われた。
六月下旬、通常授業を一日使って開催。
午前と午後に複数の競技が行われ、一人最低一競技には参加する。
運動が得意ではない生徒でも参加しやすいよう、卓球やレクリエーション要素の強い種目も用意されていた。
クラスごとに競技別の順位を点数化し、総合得点を競う。
「今日全部決める必要はない。明後日までに希望を出せ」
永山が黒板を軽く叩く。
「ただし人数が偏れば調整する。特にサッカー、バスケ、リレーに運動部を全部突っ込むような真似はするな。全員が参加する行事だからな」
「先生」
一人の男子が手を上げる。
「七瀬はサッカー固定でいいですか?」
「何でお前が決めるんだよ!」
春樹がすぐ反応した。
教室が笑いに包まれる。
「本人と相談しろ」
永山は笑いながら答えた。
「七瀬も、嫌なら嫌と言っていい。ただし」
「ただし?」
「読書したいから、は理由として認めん」
「まだ何も言ってない!」
「顔に書いてある」
「先生、俺の顔読みすぎじゃないですか?」
「一年以上担任をやっていれば分かる」
「雫みたいなこと言わないでください」
「何で私!?」
突然巻き込まれた雫が声を上げる。
「だって最近、俺の考えてること分かるとかいう話になってるじゃん」
「それを先生と一緒にしないで!」
「違うの?」
「違う!」
「何が?」
「知らない!」
「結局それ!」
再び笑いが起きる。
永山は黒板へ向き直りながら、肩を揺らしていた。
「夫婦漫才はあとでやれ」
「誰が夫婦ですか!」
今度は雫の声だけが響いた。
春樹は一拍遅れて永山を見る。
「先生、それはさすがに飛躍しすぎですよ」
「そこは二人で否定しろよ」
「何でですか?」
「もういい」
永山が諦めた。
悠斗は机へ突っ伏して笑っている。
「春樹、お前ほんと……」
「何だよ」
「いや、何でもない」
「またそれか!」
ホームルームが終わっても、教室では競技の話が続いた。
誰がどこへ出る。
運動部は何人いる。
女子のバレー経験者は誰だ。
リレーはどうする。
普段の朝よりずっと賑やかだった。
春樹はようやく文庫本を開き直した。
「七瀬、サッカーな」
「まだ決めてない!」
「七瀬、リレーもいける?」
「一人一競技じゃなかったのか!?」
「最低一競技だから複数ありじゃね?」
「絶対嫌だ!」
「バスケは?」
「俺を分裂させる気か!」
読めない。
まったく読めない。
春樹は本を閉じ、机へ額をつけた。
「……俺はただ本が読みたいだけなのに」
「知ってる」
雫の声が飛んでくる。
「誰も信じてくれない」
「信じてるわよ」
「じゃあ助けて」
「サッカー出たら?」
「裏切り者!」
「ふふっ」
雫は楽しそうに笑った。
◇◇◇
昼休み。
春樹は弁当を食べながら、スポーツ交流会のプリントを睨んでいた。
「そんな嫌?」
悠斗が尋ねる。
「嫌じゃない」
「じゃあ出れば?」
「そこなんだよ」
「何が?」
「サッカー自体はやりたい」
「なら決まりじゃん」
「でも一回出るって言ったら、蓮が絶対練習しようとか言い出す」
「いいじゃん」
「放課後が潰れる」
「部活じゃないんだから毎日じゃないだろ」
「一日でも貴重なんだよ」
「お前の放課後、最近図書室で喋ってるだけじゃね?」
「喋ってるだけじゃない!」
「昨日何ページ読んだ?」
「……二十六」
「少なっ」
「小日向がいたんだよ!」
「人のせいにするなよ」
悠斗が笑う。
紗弥も弁当を食べながら会話へ加わる。
「高坂は何出るの?」
「俺? まだ決めてない。バスケかな」
「へえ」
「赤木は?」
「バレーか卓球」
「バレーやるの?」
「中学の授業で好きだったから」
「じゃあ俺バレーにしようかな」
「何で?」
「別に?」
悠斗が平静を装う。
春樹は箸を止めた。
悠斗を見る。
次に紗弥を見る。
もう一度悠斗を見る。
「高坂」
「何だよ」
「お前――」
悠斗の目が「言うな」と訴えてくる。
春樹は数秒黙った。
「……バレーできるの?」
「そこ!?」
「何を言うと思ったんだよ」
「いや、何でもない」
「ならいいけど」
紗弥は不思議そうに二人を見ている。
雫も気づいたらしく、
「また二人で何か隠してる」
「高坂の話だから俺は言わない」
春樹が即答する。
「前もそれ言ってたわね」
「本人に聞いて」
「高坂?」
「いや、マジで大した話じゃないから!」
悠斗が慌てる。
春樹は笑いながら弁当へ戻った。
悠斗が紗弥と同じ競技を選びたがった理由など、聞くまでもない。
他人のことなら分かる。
分かりやすい。
だからこそ、余計なことは言わない。
「春樹先輩ー!」
そして。
「来た」
雫が呟く。
「何で来る前から分かるんだよ」
「声」
「確かに」
教室の入口からひよりが顔を出した。
昨日と同じく弁当を持っている。
その後ろには真実までいた。
「今日は新海も?」
「連れてこられました」
「真実先輩、一緒に食べましょう!」
「だからその呼び方……」
「まあ入れよ」
春樹が笑う。
昨日より自然に、机が二つ追加された。
ひよりは春樹の向かい。
真実は雫の隣。
「二年生の教室に一年生が普通に混ざり始めたな」
悠斗が言う。
「俺のせいじゃない」
「春樹先輩のおかげです!」
「小日向、その言い方だと俺が呼んだみたいになるからやめて」
「違うんですか?」
「違う」
「でも嫌じゃないですよね?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ問題なしです!」
「お前の中ではな」
ひよりは満足そうに弁当箱を開ける。
「そういえば」
真実が机の上のプリントを見る。
「二年生もスポーツ交流会の競技決め始めたんですね」
「一年も?」
「はい」
「小日向は?」
「卓球です!」
「意外だな」
「何でですか!?」
「何となくリレーとか言うと思った」
「走るの疲れるじゃないですか!」
「急に現実的!」
ひよりが胸を張る。
「卓球なら室内です!」
「スポーツ交流会への情熱が俺と同レベルだな」
「春樹先輩は何ですか?」
「まだ決めてない」
「サッカー」
雫が横から答えた。
「決めてないって言ってるだろ!」
「サッカー得意なんですよね?」
真実も反応する。
「あ」
春樹が嫌な顔をする。
「新海も知ってたっけ」
「前に少し聞きました」
「春樹先輩、サッカーできるんですか!?」
「できるよ」
「見たいです!」
「増えた!」
「私も見たいです」
「新海まで!?」
真実は少し笑う。
「七瀬先輩って、運動してる印象があまりないので」
「体育やってるだろ」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味?」
「いつも本を持ってる印象が強すぎます」
「それは正しい」
「でもサッカー上手いんですよね?」
「普通」
「春樹の普通は信用しない方がいいよ」
悠斗が口を挟む。
「この前見たけど普通に上手かったから」
「高坂まで余計なことを!」
「事実じゃん」
「七瀬先輩、出ましょう!」
真実が少し楽しそうに言う。
「何で新海まで押すんだよ」
「見てみたいので」
「……そんな理由?」
「駄目ですか?」
「駄目じゃないけど」
「じゃあ決まりですね!」
「小日向、お前がまとめるな!」
周囲から笑いが起きる。
春樹は額を押さえた。
(何で俺の競技なのに、俺以外が一番楽しそうなんだ)
「でも」
真実が少し声を落とした。
「七瀬先輩が本当に嫌なら、出なくてもいいと思います」
「嫌ではないんだよ」
「そうなんですか?」
「サッカーは好き」
春樹は素直に答える。
「今でもたまにやると楽しいし、見るのも嫌いじゃない。ただ部活に入ると毎日練習あるだろ。それより本読みたかっただけ」
「本当にそれだけなんですね」
「何だと思ってたの?」
「何か辞めた理由があるのかなって」
「ないない」
春樹は笑う。
「別にサッカーで嫌なことがあったわけでも、怪我したわけでもない。単純に本の方が好きだった」
真実はしばらく春樹を見る。
そして小さく笑った。
「七瀬先輩らしいですね」
「褒めてる?」
「褒めてます」
「ならいい」
雫はその会話を黙って聞いていた。
真実は、また一つ春樹を知った。
以前なら、そのことだけで胸の奥が少しざわついたかもしれない。
けれど今は、そこまで強くない。
自分も知っている。
春樹がサッカーを辞めた理由も。
昔どんなふうにプレーしていたかも。
試合の前だけ少し口数が減ることも。
負けたあと、自分のミスより味方が落ち込んでいる方を気にすることも。
そういう春樹を、自分は昔から見てきた。
(……張り合うことじゃないのよね)
ほんの少しだけ、そう思えた。
知らない部分を誰かが知ることと、自分が知っているものが消えることは同じではない。
最近まで、その二つをどこかで混同していたのかもしれない。
「雫?」
「何?」
「どうした?」
「別に」
「また?」
「今回は本当に何でもない」
「毎回そう言うじゃん」
「春樹」
「何?」
「サッカー、出たら?」
「またそこに戻るの?」
「うん」
雫は笑う。
「久しぶりに見たいから」
今度は、朝より少しだけ素直に言えた。
春樹は雫を見た。
「……分かった」
「え?」
「じゃあサッカー希望にしとく」
「いいの?」
「嫌じゃないって言っただろ」
「でも読書時間」
「一日くらいなら」
「一日?」
悠斗が笑う。
「練習あるだろ」
「だからそれが嫌なんだよ!」
春樹が叫ぶ。
ひよりが楽しそうに手を上げた。
「応援行きます!」
「一年は一年の競技あるだろ!」
「空いてる時間に行きます!」
「真実先輩も行きましょう!」
「勝手に決めないで」
「でも見たいですよね?」
「……少し」
「ほら!」
「俺、見世物じゃないんだけど!?」
春樹の抗議は、昼休みの賑やかな教室に溶けていった。
◇◇◇
そして放課後。
「春樹!」
「嫌な予感しかしない」
教室を出たところで神谷蓮に呼び止められた。
サッカー部の練習着姿。
しかも笑顔。
春樹は即座に踵を返そうとした。
「待て!」
「待たない!」
「何で逃げるんだよ!」
「お前が朝から余計な情報流したって聞いたぞ!」
「何のこと?」
「とぼけるな! 永山先生が『神谷から聞いてる』って言ってた!」
「ああ」
「認めた!」
蓮が笑いながら春樹の肩を掴む。
「で、出るんだろ?」
「何で知ってる?」
「さっき高坂に聞いた」
「情報網どうなってんだよ!」
「サッカー」
「……希望は出す」
「よし!」
「まだ確定じゃない」
「人数足りるからほぼ確定」
「何でお前が二年三組の人数把握してんの!?」
「友達いるから」
「怖いよ!」
廊下を歩く生徒たちが笑いながら二人を見る。
蓮はまったく気にしない。
「じゃあ木曜」
「何が?」
「放課後、軽く合わせようぜ」
「ほら来た!」
「ほらって何だよ」
「俺が一番恐れてたやつ!」
「三十分くらいだって」
「三十分あったら何ページ読めると思ってる!?」
「知らねえよ!」
「作品によるけど三十から五十はいける!」
「具体的だな!」
蓮は呆れたように笑う。
「頼むって。クラス違うけど、当日までに一回くらい蹴ろうぜ」
「お前と同じチームじゃないだろ」
「だからだよ」
「は?」
「お前がどれくらい動けるか見たい」
「敵情視察じゃねえか!」
「ばれた?」
「帰れ!」
「俺これから部活!」
「じゃあ行け!」
蓮は笑いながら手を振る。
「木曜な!」
「返事してない!」
「グラウンドで待ってる!」
「待つな!」
蓮はそのまま走っていった。
春樹は廊下に立ち尽くす。
「……最悪だ」
「楽しそうですね」
「どこが!?」
横から声がして振り向く。
九条凛が立っていた。
「九条」
「こんにちは」
「今の見てた?」
「途中から」
「俺、被害者だから」
「神谷君、嬉しそうでしたね」
「俺の読書時間を奪えるからだよ」
「違うと思いますけど」
凛は少し笑った。
以前なら、春樹が廊下で大声を出していればまず注意から入ったかもしれない。
今は理由を見てから笑う程度には、二人の距離も変わっている。
「スポーツ交流会、サッカーに出るんですか?」
「希望だけ」
「意外ですね」
「俺だって運動くらいするよ」
「それは知っています」
「そうだった」
「体育でも見ていますし」
凛は一瞬だけ春樹の姿を見る。
「七瀬君、身体の使い方は上手いですから」
「剣道部に言われると何か怖いな」
「褒めています」
「なら受け取っとく」
「素直ですね」
「俺、褒め言葉は基本受け取るよ」
「そういうところは知っています」
「最近みんな俺のこと知りすぎじゃない?」
「七瀬君が分かりやすいだけでは?」
「そんなことないと思うんだけど」
「本を見せれば大体機嫌が直るでしょう?」
「……否定できない」
「ほら」
凛が笑う。
そこへ、階段の下から別の生徒が凛を呼んだ。
「九条先輩!」
「今行く!」
凛が返事をする。
「では、私は部活なので」
「おう」
「七瀬君も頑張ってください」
「何を?」
「サッカー」
「まだ先だよ」
「練習もあるのでしょう?」
「聞いてたな!」
「では」
「逃げた!」
凛は少しだけ笑いながら階段を下りていった。
春樹は一人になる。
「……図書室行こ」
こういうときこそ本だ。
静かな場所で読む。
今日は絶対に読む。
春樹はそう決意して図書室へ向かった。
◇◇◇
「七瀬君」
「はい」
「さっきから同じページですよ」
「……分かります?」
「十分くらいめくってません」
放課後の図書室。
窓際の席で本を開いた春樹は、栞に指摘されて顔を上げた。
「考え事ですか?」
「サッカーのこと」
「珍しいですね」
「白石先輩までそれ言うんですか」
「七瀬君が本以外のことで考え込んでいるので」
「俺を何だと思ってるんです?」
「本が好きな人」
「間違ってないから反論しにくい」
栞は返却された本を棚へ戻す途中だったらしく、数冊を胸元に抱えている。
「スポーツ交流会ですか?」
「そうです」
「何に出るんですか?」
「多分サッカー」
「サッカー、できるんですね」
「白石先輩も知らなかった」
「知りませんでした」
「何かちょっと安心した」
「どうしてです?」
「最近みんな俺の情報持ってるから」
栞が小さく笑う。
「私は、まだ知らないことの方が多いですよ」
「俺も白石先輩のこと、知らないこと多いですけどね」
「そうですね」
「でも本の好みは前より分かる」
「私もです」
静かな声だった。
けれど、その言葉には少しだけ温度があった。
「七瀬君がどこで笑うかも、少し分かるようになりました」
「え?」
「本を読んでいるときです」
「俺、笑ってます?」
「たまに」
「マジですか」
「はい。面白いところだと、ほんの少し口元が動きます」
「……恥ずかしいな」
「悪いことではないと思います」
栞はそう言って微笑んだ。
春樹は自分の口元へ触れる。
(そんなに顔に出てるのか)
自覚がなかった。
「じゃあ白石先輩も結構出てますよ」
「えっ」
「好きな場面読んでるとき、ページめくる前にちょっと止まる」
「……見ていたんですか?」
「同じ場所で何回も読んでれば気づきますって」
「そうですか」
栞が少しだけ視線を落とす。
頬が赤くなった、というほどではない。
ただ、抱えていた本を持ち直す指が少しだけ動いた。
「お互い様ですね」
「ですね」
春樹は笑う。
栞も小さく笑った。
そのあと栞は棚へ戻り、春樹も読書へ戻った。
今度はちゃんと文字が頭へ入る。
五分ほど経った頃。
窓の外から笛の音が聞こえた。
グラウンドではサッカー部が練習している。
春樹は反射的に顔を上げる。
遠くに、練習着姿の蓮が見えた。
ボールが動く。
右へ展開。
中央へ戻す。
前線の選手が裏へ走る。
(そこ、今出せる)
一瞬遅れて、実際にパスが出た。
春樹の視線が自然にボールを追う。
身体は動かしていない。
ただ見ているだけだ。
それでも、昔なら自分がどこへ走っていたかが分かる。
「……七瀬君?」
「あ」
気づけば、栞が少し離れたところからこちらを見ていた。
「すみません」
「いえ」
栞は窓の外を見る。
「サッカー、好きなんですね」
春樹ももう一度グラウンドを見る。
「好きですよ」
「本より?」
「それは本」
即答だった。
栞が笑う。
「でも」
春樹は少し考える。
「久しぶりにちゃんとやるのは、ちょっと楽しみかもしれないです」
「なら、出てよかったですね」
「まだ出るって確定してないんですけど」
「出そうな顔をしています」
「俺、そんなに分かりやすい?」
「少し」
「今日そればっかり言われるな……」
春樹は苦笑して、本へ戻った。
けれどページをめくる前に、もう一度だけ窓の外を見る。
ボールを蹴る音。
仲間を呼ぶ声。
笛。
土の匂いまで、開いた窓から微かに流れてくる。
懐かしい。
嫌な懐かしさではなかった。
◇◇◇
その日の帰り道。
「春樹」
「ん?」
「本当にサッカー出るの?」
隣を歩く雫が聞いた。
「多分」
「多分なんだ」
「人数調整あるからな」
「でも希望は出す?」
「出す」
「そっか」
雫は少し嬉しそうに笑った。
「何?」
「別に」
「それ禁止じゃなかった?」
「じゃあ、楽しみ」
「そんなに?」
「うん」
今度ははっきり答えた。
春樹は少し意外そうに雫を見る。
「俺がサッカーしてるだけだぞ?」
「知ってる」
「中学のとき散々見たじゃん」
「高校ではほとんど見てないから」
「そうだけど」
「だから楽しみ」
「……分かった」
春樹は前を向く。
「じゃあ、ちょっとくらい真面目にやるか」
「ちょっとなの?」
「本気でやるよ。出るなら」
声が少し変わった。
冗談混じりではない。
雫には、その違いが分かった。
昔からそうだった。
春樹は練習前には文句を言う。
暑い。
疲れる。
本を読みたい。
帰りたい。
けれど試合が始まれば、中途半端にはやらない。
自分が点を取ることより、味方が動きやすい場所を探す。
誰かが失敗しても責めない。
負ければ悔しがる。
それでも必要以上に引きずらない。
(変わってないんだ)
高校でサッカーをやめても。
本ばかり読んでいても。
昔の春樹が消えたわけではない。
「雫?」
「何?」
「また見てる」
「見てない」
「今、完全にこっち見てたぞ」
「見てたけど、見てない」
「どういう理屈!?」
「知らない」
「便利だな、それ!」
雫が笑う。
春樹も呆れながら笑った。
しばらく歩いたところで、春樹が思い出したように尋ねる。
「そういえば短編集」
「三編目?」
「読んだ?」
「まだ」
「そっか」
「今日帰ったら読む」
「じゃあ感想――」
「送る」
「……先に言われた」
「分かるから」
「ひよりが言ってたやつ、本当だな」
「何が?」
「説明する前から通じる」
雫の足が一瞬だけ遅くなる。
昨日も聞いた言葉。
けれど今日は、春樹自身が当たり前のように口にした。
「楽でいい」
「……またそれ?」
「何?」
「何でもない」
「結局言うじゃん!」
雫は小さく笑いながら歩く。
春樹の周りには、確かに人が増えた。
真実。
栞。
凛。
ひより。
悠斗や蓮。
桐谷先生や永山先生まで、本の話や学校生活を通じて春樹と関わっている。
自分の知らない春樹を見る人も、これからもっと増えるのだろう。
それでも。
昔から知っている春樹まで、なくなるわけではない。
今日、少しだけそう思えた。
一方。
「でも木曜三十分か……」
「何が?」
「蓮にサッカー付き合わされる」
「いいじゃない」
「三十分だぞ」
「たった三十分でしょ」
「文庫なら結構読める」
「はいはい」
「その反応!」
「頑張ってね」
「他人事だと思って!」
春樹の抗議を聞きながら、雫はまた笑った。
スポーツ交流会までは、まだ少し時間がある。
サッカーへ出ることも、クラス内ではまだ正式決定ではない。
けれど春樹の日常には、また一つ、本とは違う予定が入り始めていた。
そして本人だけが、まだ気づいていない。
本を読む時間を守ろうとしているはずなのに。
最近の春樹は、誰かと本について話す時間も、後輩に本を選ぶ時間も、幼なじみと帰る時間も、久しぶりにボールを蹴る時間さえも。
以前ほど、本気で「無駄だ」とは思わなくなっていた。
それでも春樹は、帰宅後に雫から届くであろう短編集の感想と、読みかけの古本の続きを天秤にかけながら、真剣な顔で呟く。
「……今日は絶対、最低百ページ読む」
「家に帰ってから言いなさいよ」
「宣言は大事なんだよ」
「真実ちゃんとか小日向さんから連絡来たら?」
「……読む」
「白石先輩から本の話来たら?」
「読む……」
「高坂から恋愛相談来たら?」
「それは無視できない」
「蓮君から木曜の連絡」
「…………読む」
「間が長い」
「うるさい!」
雫の笑い声が、夕方の住宅街に響いた。
春樹の読書時間は、今日も少しずつ賑やかになっていく。
本人が望んだ覚えなど、まったくないままに。




