↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/57

第20話 本を読む時間が欲しいだけなのに、放課後の予定が勝手に増えていく



 水曜日の朝。


 七瀬春樹は、いつもより五分早く家を出た。


 別に心境の変化があったわけではない。


 早起きして朝の空気を楽しみたくなったわけでもなければ、学校へ一番乗りして勉強しようと思ったわけでもない。


 理由は、極めて単純だった。


「あと五十七ページ……」


 鞄の中には、昨日から読んでいる古本が入っている。


 昨夜、春樹が掲げた目標は百ページだった。


 実際に読めたのは、四十三ページ。


 原因は複数ある。


 まず、帰宅して三十分ほど経った頃に雫から連作短編集の三編目を読み終えたという連絡が来た。


 感想を聞いた。


 返信した。


 そこから「真実はどこが好きだったの?」と聞かれたため答え、さらに雫が「私はそこより最後の場面の方が好き」と返してきたので、それについて話した。


 気づけば二十分。


 その直後、悠斗から映画原作について連絡が来た。


 映画では省略されていた登場人物の心情が小説だとかなり詳しく書かれていて、印象が変わったらしい。


 当然、春樹は食いついた。


 さらに夜九時過ぎ。


 ひよりから、


『借りた本、二章まで読みました! 商店街のパン屋のおじさん好きです!』


 というメッセージが来た。


 まだ読み終わっていないので詳しい話は避けつつ、春樹は、


『分かる。あのおっさん後半もいいぞ。ただし先に読むなよ』


 と返した。


 すると、


『先に読むってどういう意味ですか!?』


 と返ってきたため、


『飛ばして後半見るなって意味』


『しませんよ!』


『小日向ならやりそう』


『春樹先輩、私への信用低くないですか!?』


 というやり取りが始まった。


 そして寝る前。


 今度こそ読もうとしたところで、蓮から木曜日のサッカーについて連絡が来た。


『明日じゃなくて明後日だから忘れんなよ』


『忘れてない』


『本読んで忘れそう』


『お前までそれ言うの?』


『永山先生も言ってた』


『何で先生と情報共有してんだよ』


 そんなやり取りをしていた結果。


 百ページという目標は、半分にも届かなかった。


(俺の夜、どうなってるんだ……)


 春樹は住宅街を歩きながら、深い溜息をついた。


 もちろん本は開いていない。


 歩きながら読むことは、もうしていない。


 そこは凛との約束以前に、自分で危ないと理解したから守っている。


 だからこそ。


(学校着いたら読む。朝のホームルームまで絶対読む)


 五分早く家を出た。


 信号で止まり、青になるのを待つ。


 朝の住宅街には、自転車で駅へ向かう会社員や制服姿の学生が行き交っていた。道路脇の植え込みには昨夜の湿気が残っていて、葉の先に小さな水滴が光っている。


「おはよう、春樹」


「おは……」


 聞き慣れた声。


 隣を見る。


「何でいるの?」


 雫だった。


「何でって、通学路だから」


「今日、俺五分早いぞ」


「私も早く出たの」


「何で?」


「別に」


「また?」


「……昨日、三編目まで読んだから」


「それで?」


「感想、もう少し話そうかなって」


 春樹の目が少し開く。


「マジ?」


「うん」


「じゃあ話そう」


 読書時間を確保するために五分早く出たはずなのに。


 春樹は迷わなかった。


「三編目、最後の女の子の台詞あるじゃん」


「うん」


「あれ、俺は最初読んだとき強がりだと思ったんだけど、新海は違うって言ってたんだよ」


「真実ちゃんは?」


「半分本気なんじゃないかって」


「ああ……」


 雫は少し考える。


「私も真実ちゃん寄りかも」


「やっぱり?」


「強がってるのはそうだと思う。でも、全部嘘ではない気がする」


「理由は?」


「その前に、自分から席を立ってるでしょ?」


「うん」


「本当に引き止めてほしいだけなら、あそこまで迷わず立たないんじゃないかなって」


「なるほど」


 春樹は楽しそうに頷く。


「そこ見るのか」


「変?」


「いや。俺、台詞ばっかり見てた」


「春樹、会話好きだもんね」


「好き。特に言ってることと本音がちょっとずれてるやつ」


「分かる」


「だろ?」


 二人は信号を渡る。


 春樹の歩調は、いつもより少し遅かった。


 本を読んでいるわけではない。


 雫の話を聞いているからだ。


「それでさ」


「うん」


「四編目から、ちょっと見え方変わるから」


「ネタバレ?」


「しない」


「今、一瞬言いそうだった」


「危なかった」


「気をつけてよ」


「ごめん」


 春樹は笑う。


 雫も笑った。


 学校が近づくにつれ、同じ制服の生徒が増えていく。


 その中で、雫はふと思った。


 少し前なら。


 春樹が五分早く家を出た理由を知れば、「じゃあ邪魔しない方がいいかな」と思ったかもしれない。


 今は違う。


 感想を話したいと思った。


 だから自分も早く出た。


 そして春樹も、本を読みたいと言いながら普通に話を聞いている。


「春樹」


「何?」


「本、読みたかったんじゃないの?」


「読みたいよ」


「私と話してていいの?」


「何で?」


「五分早く出たんでしょ?」


「学校着いてから読む」


「時間減るじゃない」


「減るけど」


 春樹は少し考える。


「感想は今聞けるじゃん」


「……本は?」


「あとでも読める」


 雫は黙った。


 春樹自身は何でもないことのように言っている。


 けれど以前なら、「あとで話そう」と言って先に本を選んでいた可能性もある。


「何?」


「ううん」


「また何でもない?」


「今日は違う」


「じゃあ何?」


「ちょっと嬉しかっただけ」


「感想話せたから?」


「……まあ、そんな感じ」


「俺も楽しいよ」


「そっか」


「うん」


 春樹はそれ以上追及しなかった。


 雫も、それでよかった。


 今はまだ。


 このくらいの言葉で十分だった。


     ◇◇◇


 学校へ着いた春樹は、宣言通り自分の席で本を開いた。


 雫との会話で五分ほど失った。


 しかしホームルームまでは、まだ十分以上ある。


(よし。今度こそ)


 一ページ。


 二ページ。


 三ページ。


「七瀬」


「今度は誰!?」


 思わず顔を上げる。


「何で怒られたんだ、俺」


 高坂悠斗が立っていた。


「高坂か」


「悪かったな」


「今、俺は本当に本を読みたい」


「いつもだろ」


「今日は特に」


「でもちょっと聞いてくれ」


「恋愛相談?」


「声!」


 悠斗が慌てて周囲を見る。


 幸い、教室はまだ登校途中の生徒も多く、紗弥は来ていない。


「お前、自分から相談って言ったじゃん」


「お前が聞くとは思わなかったんだよ!」


「じゃあ何?」


「……昨日さ」


 悠斗が声を落とす。


 春樹は本へ栞を挟んだ。


「座れば?」


「いいの?」


「その顔で立たれてる方が気になる」


「どんな顔だよ」


「話したくて仕方ない顔」


「お前、そういうのは分かるんだな」


「何でみんな最近含みある言い方するの?」


「気のせい」


「絶対違う」


 悠斗は前の席の椅子を借りて座った。


「昨日、赤木とメッセージしてたんだけど」


「うん」


「映画の話からスポーツ交流会の話になってさ」


「うん」


「赤木、バレー希望するらしい」


「昨日言ってたな」


「で、俺もバレーにしようかなって」


「それも聞いた」


「……どう思う?」


「何が?」


「わざと合わせてるって思われるかな」


 春樹は数秒考えた。


「お前、バレー嫌い?」


「別に」


「できる?」


「普通」


「赤木がいなかったら候補に入らない?」


「……バスケにしてたかも」


「じゃあ多少合わせてる」


「だよなぁ……」


「でも別にいいんじゃない?」


 悠斗が顔を上げる。


「いいの?」


「同じ競技に出たいから選ぶくらい普通だろ。赤木に『お前と一緒に出るために選んだ』って圧かけるなら話は別だけど、お前そんなことしないだろ?」


「しない」


「じゃあ好きなの選べば?」


「軽いな」


「だって競技選択だぞ」


 春樹は笑う。


「付き合ってもない相手と同じ競技を選んだら違反、なんて校則ないだろ」


「九条に聞くか?」


「やめろ。真顔で『ありません』って言われるぞ」


「ありそう」


 二人で笑う。


 悠斗は少し肩の力を抜いた。


「あとさ」


「まだあるの?」


「悪い」


「いいよ。もう本閉じたし」


「……赤木、昨日おすすめしてくれた原作の話、結構してくれたんだよ」


「お」


「俺が映画との違い言ったら、『そこ気づいたんだ』って」


「嬉しかった?」


「……まあ」


「じゃあよかったじゃん」


「それだけ?」


「それ以上、俺に何言ってほしいの?」


「何か分析とか」


「赤木がどう思ってるか?」


「うん」


「知らん」


「即答」


「そこは勝手に決めたら駄目だろ」


 春樹の声は軽い。


 だが言っていることははっきりしていた。


「お前が赤木を好きなのは聞いた。でも赤木の気持ちは本人しか分からない。普通に映画の話が楽しいだけかもしれないし、お前に興味あるのかもしれない。今の段階で俺が『脈あり』とか言って、お前がそれ信じたら面倒だろ」


「……そうだな」


「だから分かってる事実だけ見ればいいんじゃない?」


「事実?」


「赤木はお前に映画を勧めた。お前は見た。原作も読んだ。今も話が続いてる」


「うん」


「少なくとも嫌がられてはない」


「……そっか」


「それで十分じゃない?」


 悠斗はしばらく黙ったあと、笑った。


「お前、こういうときだけ妙にまともだよな」


「こういうときだけって何だよ」


「自分のことになると壊滅的なのに」


「何が?」


「何でもない」


「またそれ!」


 そのとき、教室の入口から紗弥が入ってきた。


「おはよう」


「お、おはよう!」


 悠斗の声が少し裏返る。


 春樹はそれを聞いて、思わず笑いそうになった。


 紗弥が不思議そうに見る。


「高坂、どうしたの?」


「何でもない!」


「朝から変なの」


 紗弥は自分の席へ向かう。


 悠斗は小声で春樹に言った。


「笑うな」


「笑ってない」


「口元」


「翼みたいだなって」


「誰だよ」


「俺が読んでる恋愛小説の男主人公」


「一緒にすんな!」


「有能なのに好きな子の前だけ判断力落ちる」


「やめろ!」


「声」


「お前のせいだろ!」


 悠斗は顔を赤くしながら自分の席へ戻っていった。


 春樹はその背中を見送り、本を開く。


(分かりやすいなぁ)


 他人の恋愛なら。


 本当に、よく分かる。


     ◇◇◇


 三時間目。


 桐谷美月の国語の授業。


「では、今日は前回の続きです」


 教卓の前に立った桐谷が、プリントを軽く持ち上げた。


「ペアで選んだ本について、実際に相手へ紹介してもらいます。ただし、本を読ませるための営業大会ではありません」


「先生、売り込みじゃないんですか?」


 男子生徒の一人が聞く。


「違います。相手に合うと思った理由を、自分の言葉で説明する練習です」


 桐谷は黒板に三つの項目を書く。


『相手について知ったこと』


『本について伝えたいこと』


『なぜ、その二つが合うと思ったのか』


「七瀬君」


「はい?」


 突然名前を呼ばれ、春樹が顔を上げる。


「三つ目、大事ですよ」


「何で俺だけ?」


「あなた、そこだけ五分くらい喋りそうなので」


 教室から笑いが起きる。


「五分じゃ足りないかもしれません」


「増やさなくていいです」


「先生、良い本を人に勧めるとき五分で足ります?」


「私は足りません」


「ほら!」


「だから授業では我慢してください」


「教師が共感してから封じてきた!」


 桐谷が楽しそうに笑う。


「一人二分です」


「短い!」


「七瀬君だけ一分半にしましょうか?」


「黙ります」


「よろしい」


 また笑いが広がった。


 春樹のペアは、以前から本をほとんど読まないと言っていた男子生徒だった。


 彼は映画やゲームは好きだが、長い文章を読むことに苦手意識がある。


 春樹が選んだのは、高校生五人が町で起きる小さな謎を追う連作形式の青春ミステリーだった。


「じゃあ俺から?」


「頼む」


「分かった」


 春樹は机の上のプリントを見る。


 だが、すぐに相手へ視線を戻した。


「お前、前に長い説明続くと読むのしんどいって言ってたじゃん」


「うん」


「あと、一人の主人公がずっと考えてるより、何人かで喋りながら進む方が好き」


「そうそう」


「だからこれ」


 本を指で軽く示す。


「一話が短い。会話多い。登場人物五人いるけど、役割かなり分かりやすい。謎も殺人とかじゃなくて、『何で毎週同じ日にだけ店の看板が裏返ってるのか』とか、そのくらい」


「地味じゃね?」


「地味」


「認めるんだ」


「でもお前、ゲームでも世界滅亡より仲間同士の会話イベント好きって言ってたじゃん」


「あー……言った」


「この本、そっち寄り。謎は話を動かす理由で、メインは五人の関係」


「なるほど」


「あと」


 春樹は少しだけ身を乗り出す。


「別に全部読まなくていい」


「え?」


「一話読んで合わなかったらやめればいい」


「勧めてんのに?」


「勧めてるから」


 相手の男子が目を丸くする。


 近くのペアで話していた雫も、少しだけ春樹の方を見た。


「俺、本あんまり読まない人に『これ絶対面白いから最後まで読め』って言うの嫌なんだよ」


「何で?」


「合わなかった一冊を無理して最後まで読んで、『やっぱ本ってつまんねえ』って思われたら損じゃん」


「……本好きなのに?」


「本好きだからだよ」


 春樹は笑う。


「合う本なんて他にいくらでもあるし。これが駄目なら、次はもっと短いの探せばいい」


 男子生徒は手元の本を見る。


「じゃあ一話だけ読んでみる」


「おう。それで十分」


「面白かったら?」


「二話読めばいい」


「その次は?」


「三話」


「当たり前だろ!」


 二人で笑う。


 少し離れたところで、桐谷がその様子を見ていた。


 彼女は何も言わない。


 ただ、わずかに口元を緩めて次のペアへ視線を移した。


 雫も自分のペアとの話へ戻る。


 けれど胸の中には、さっきの春樹の言葉が残っていた。


(本好きだから、無理に読ませないんだ)


 それは、雫自身も何度も経験している。


 春樹は本を貸す。


 おすすめもする。


 感想も聞きたがる。


 けれど「面白いと言え」と迫ったことは一度もない。


 自分が好きなものを、相手にも好きになってほしい。


 けれど同じ感想でなくていい。


 最近、春樹と本の話をするようになって、その姿勢が前よりよく分かるようになった。


 そして。


(……だから話しやすいのかも)


 春樹が自分の感想を否定しないと分かっている。


 違えば、むしろ楽しそうに理由を聞いてくる。


 だから雫も、以前より本について言葉にするようになった。


「西条さん?」


「あ、ごめん」


 ペアの女子に呼ばれ、雫は意識を戻す。


「続けよ」


「うん」


 授業は進んでいく。


 やがて悠斗と紗弥のペアにも順番が回った。


 悠斗が選んだのは、映画化された青春小説。


 紗弥が映画好きだと知って選んだらしい。


「高坂、ちゃんと考えたんだ」


「ちゃんとって何だよ」


「もっと適当に選ぶかと思ってた」


「酷くない?」


「でも、これ見たことない」


「映画版あるらしいぞ」


「へえ。じゃあ先に本読もうかな」


「マジ?」


 悠斗の顔が明るくなる。


 春樹は少し離れた席からそれを見ていた。


(よかったじゃん)


 口には出さない。


 紗弥が本を読むと言ったからといって、そこに恋愛的な意味があるとは限らない。


 ただ。


 悠斗が嬉しそうなら、それでいい。


「七瀬君」


「はい?」


「他のペアを観察するのもいいですが、自分のプリントを書いてください」


「見られてた」


「見ています」


「先生怖い」


「知っています」


「否定してくださいよ」


「早く書いてください」


「はい」


 春樹は笑いながらペンを取った。


     ◇◇◇


 昼休み。


「今日は図書室行く?」


 弁当を食べ終えた雫が尋ねる。


「行く」


「即答」


「昨日あんまり読めなかったから」


「私のせい?」


「違う違う」


 春樹は箸を置く。


「雫の感想聞いてた時間は別枠」


「別枠?」


「読書関連だから」


「それなら読書時間に含むの?」


「……最近、含めてもいい気がしてきた」


 雫が少し目を丸くした。


「春樹が?」


「何だよ、その反応」


「だって前なら、本そのものを読んでる時間しか数えてなかったでしょ」


「まあ」


「変わったね」


「そう?」


「うん」


 雫は少し笑う。


 春樹は首を傾げた。


「本の話するのも読書の延長だろ」


「そう思うようになったってことでしょ?」


「……言われてみれば」


 春樹は考える。


 以前の自分なら。


 図書室で三十分話した日は、「三十分読めなかった」と考えていた。


 今は違う。


 栞と本について話す。


 真実の感想を聞く。


 雫と同じ本の違う部分について話す。


 ひよりに次の本を選ぶ。


 悠斗と映画原作の違いについて話す。


 そういう時間まで含めて、自分の読書生活なのかもしれない。


「桐谷先生が言ってたの、こういうことかな」


「広がってるってやつ?」


「多分」


「侵食じゃなくて?」


「まだ半分は侵食」


「半分も?」


「小日向は結構侵食してる」


「本人に言ったら怒るよ」


「でも面白いから許す」


「何、その上から目線」


 雫が笑う。


 そのとき。


「七瀬先輩!」


「ほら来た」


 春樹が入口を見る。


 ひより。


 そして今日は、真実はいない。


「小日向、一人?」


「はい! 真実先輩は委員の用事です!」


「だから先輩じゃないだろ」


「私の中では先輩です!」


「どういう基準だよ」


 ひよりは春樹の机へ来ると、鞄から昨日借りた本を出した。


「読み終わりました!」


「早い!」


「ちゃんと寝ました!」


「何時?」


「十二時半です!」


「微妙!」


「普段と同じです!」


「なら……まあ」


 春樹は本を受け取る。


「どうだった?」


「パン屋のおじさん、やっぱり好きです!」


「そこ?」


「あと主人公の友達!」


「どっち?」


「眼鏡の子です!」


「ああ」


「最初ちょっと嫌な人かと思ったんですけど、後半で主人公が一人で調べようとしたとき怒るじゃないですか」


「うん」


「あそこ好きです」


「何で?」


「怒ってるけど、置いていかれたことに怒ってるんじゃなくて、頼られなかったことに怒ってる感じがして」


 春樹の表情が少し変わる。


 軽い驚き。


 それから楽しそうな笑み。


「そこ見るんだ」


「変ですか?」


「いや」


 春樹は本の表紙を見る。


「俺、最初読んだときパン屋のおっさんの伏線ばっかり見てた」


「春樹先輩、謎好きなんですね」


「好き。でも人間関係も好きだよ」


「じゃあ私と違います?」


「少し違う」


「それって駄目ですか?」


「何で?」


「同じ本好きなのに」


「違う方が面白いじゃん」


 春樹は当たり前のように言う。


「俺と同じ感想しか出ないなら、一人で二回読めばいいだろ」


「……なるほど」


「小日向が違うところ見てるから、俺もそこ見直せる」


「じゃあ役に立ってます?」


「役に立つっていうか、面白い」


「やった!」


「声」


「……やった!」


 ひよりが小声で拳を握る。


 雫はその様子を見ていた。


 以前なら、春樹が別の女子へ「面白い」と言うだけで、胸の奥に少し引っかかるものがあったかもしれない。


 今も何も感じないわけではない。


 けれど。


 ひよりが見つけたものを春樹が楽しそうに聞いている理由も、今は分かる。


 春樹は「自分とは違う感想」を喜ぶ。


 だからこそ。


(私の感想も、聞きたがってくれてるんだ)


 そう考えると、前ほど不安にはならなかった。


「小日向さん」


「はい?」


「次、あの連作短編集読む?」


「読みたいです!」


「私、まだ途中だから待って」


「もちろんです!」


「今四編目」


「どうですか?」


「まだ言わない」


「何でですか!?」


「春樹がネタバレするなって」


「俺のせい?」


「大事でしょ?」


「大事」


「じゃあ春樹のせい」


「理不尽!」


 ひよりが笑う。


「楽しみにしてます!」


「うん」


 雫も笑った。


 春樹は二人を見て、少し不思議そうにする。


「何か仲良くなった?」


「駄目?」


「いや。いいけど」


「春樹先輩のおかげです!」


「何で?」


「本!」


「ああ」


 春樹は納得する。


「ならいいことだな」


 自分が好きな本が、誰かと誰かの会話を増やす。


 少し前なら、そんなことを考えたこともなかった。


 けれど今は。


 それが結構嬉しい。


     ◇◇◇


 昼休み後半。


 春樹は予定通り図書室へ来ていた。


 今日は雫もひよりも来ていない。


 雫は紗弥と用事。


 ひよりは「午後の小テスト忘れてました!」と言って一年の教室へ走って戻った。


 だから。


「静かだ……」


 春樹は窓際の席に座り、しみじみ呟いた。


「嬉しそうですね」


 カウンターから栞が言う。


「いや、白石先輩が嫌とかじゃないですよ?」


「分かっています」


「最近、人多かったから」


「今日は静かですね」


「最高です」


「そこまで言います?」


「俺、図書室にはこれを求めてたんですよ」


 春樹は本を開く。


「静かで、本があって、誰にも邪魔されない」


「私がいますけど」


「白石先輩は邪魔しないじゃないですか」


 自然に出た言葉だった。


 栞が一瞬だけ黙る。


「……そうですか」


「はい」


「なら、よかったです」


 栞は返却本の整理へ戻る。


 春樹も本へ視線を落とした。


 数分。


 紙をめくる音。


 遠くから聞こえる校内放送。


 窓の外では、薄い雲の間から日が差している。


 やはり静かな読書はいい。


 誰かと感想を話すのも楽しい。


 でも一人で読む時間も必要だ。


 どちらかではない。


 どちらも欲しい。


(……欲張りになったな、俺)


 そんなことを考えたところで。


 図書室の扉が開いた。


 春樹は反射的に顔を上げる。


「……誰だ?」


「七瀬君、警戒しすぎです」


「最近ここ来る人、だいたい俺に用事あるんですよ」


「自意識過剰では?」


「だったらいいんですけど」


 入ってきたのは、一人の女子生徒だった。


 三年生。


 胸元には三年生を示す学年色。


 肩より少し下まで伸びた艶のある黒髪は整えられ、制服にも乱れがない。


 姿勢は真っ直ぐ。


 歩き方まで落ち着いている。


 春樹も、その顔には見覚えがあった。


 直接話したことはない。


 けれど清涼学園の生徒なら、知らない方が珍しい。


「一ノ瀬先輩」


 栞が先に声をかけた。


「こんにちは、白石さん」


 女子生徒――一ノ瀬怜華が微笑む。


 清涼学園生徒会長。


 成績優秀。


 教師からの信頼も厚い。


 生徒の間でも有名な三年生。


 整った容姿と柔らかな物腰から、男女問わず人気がある。


 春樹は一度だけ彼女を見て。


 すぐ本へ視線を戻した。


(生徒会長か)


 自分には関係ない。


 多分。


「少し資料を借りてもいい?」


「はい。どの資料ですか?」


「去年の校内行事記録です。スポーツ交流会の運営確認で」


「ああ。それなら奥の資料棚にあります」


「ありがとう」


 怜華が奥へ向かう。


 春樹は本を読む。


 一ページ。


 二ページ。


 三ページ。


「七瀬君」


「はい?」


 栞ではない。


 顔を上げる。


 一ノ瀬怜華が、春樹の机の横に立っていた。


「……俺ですか?」


「七瀬君ですよね?」


「そうですけど」


「二年三組の」


「はい」


「よかった」


 怜華は柔らかく笑う。


「少し聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」


 春樹は開いている本を見る。


 残り約四十ページ。


 次に怜華を見る。


「長いですか?」


「内容次第ね」


「じゃあ先に内容聞いていいですか?」


 一瞬。


 怜華の目がわずかに細くなった。


 笑顔は変わらない。


「面白い返しをするのね」


「いや、普通だと思いますけど」


「大抵は生徒会長に『少しいい?』と聞かれたら、先に『はい』と言うものよ」


「長かったら本読みたいので」


「…………」


 栞がカウンターで俯いた。


 肩が少し揺れている。


「白石先輩、笑ってます?」


「笑ってません」


「絶対笑ってる」


 怜華が栞を見る。


「白石さん、七瀬君とは仲がいいの?」


「本の話をよくします」


「なるほど」


 怜華の視線が春樹の本へ落ちる。


「噂通りなのね」


「何の噂ですか」


「授業中でも本を読んで永山先生に怒られている二年生がいるって」


「広まり方が最悪!」


 思わず声が上がる。


「七瀬君」


 栞が小声で注意する。


「すみません」


 春樹も声を落とす。


 怜華は口元へ手を添え、上品に笑った。


「ごめんなさい。悪い意味ではないの」


「良い意味になる要素ありました?」


「成績はいいのに授業中に本を読んで怒られて、それでもやめない変わった後輩がいると」


「悪化してる!」


「ふふっ」


「一ノ瀬先輩、絶対面白がってますよね?」


「そんなことないわ」


 笑顔。


 完璧な笑顔。


 けれど。


 春樹は数秒その顔を見る。


「……いや、面白がってるでしょ」


 怜華の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。


「どうして?」


「目」


「目?」


「口はすごい綺麗に笑ってるけど、目が『面白いもの見つけた』って感じです」


「…………」


 今度は栞まで顔を上げた。


 怜華は数秒、春樹を見つめる。


 そして。


「ふふ」


 さっきまでとは少し違う笑い方をした。


 上品さは残っている。


 けれど、わずかに素に近い。


「本当に面白い人ね、七瀬君」


「やっぱり面白がってた!」


「少しだけ」


「認めた!」


「ごめんなさい」


「絶対反省してないですよね?」


「どうかしら?」


「ほら!」


 春樹は額を押さえる。


(何だ、この人)


 生徒会長という肩書きから想像していた人物像と、少し違う。


 もっと隙がなくて、真面目で、堅い人だと思っていた。


 少なくとも。


 人をからかって楽しむタイプには見えなかった。


「それで」


 春樹が改めて尋ねる。


「俺に何の用ですか?」


「スポーツ交流会のことで、二年生の何人かに確認しているの」


「俺、生徒会でも委員でもないですけど」


「知ってるわ」


「じゃあ何で?」


「サッカー経験者でしょう?」


「……誰から聞きました?」


「永山先生」


「先生ぇ……」


「それと神谷君」


「蓮まで!」


「有名ね」


「嫌な方向に!」


 怜華が楽しそうに笑う。


「まだ競技希望の段階だと聞いているから、参加を強制する話ではないわ。ただ今年はサッカーの試合時間を少し短くして、出場人数を増やす案が出ているの」


「はい」


「経験者から見て、交代を多くするなら一試合何分くらいが無理なく動けるか、何人かに聞いているところ」


「ああ」


 春樹の表情が変わる。


 さっきまでの警戒が少し薄れた。


「それなら、人数にもよりますけど――」


 春樹は資料を覗く。


「去年と同じコートサイズですか?」


「予定では」


「前後半?」


「十分快速の前後半案」


「高校生なら動けますけど、普段運動してない人も混ざるならちょっときついかも」


「やっぱり?」


「交代自由なら別です。あと経験者ばっかり前に出ると、未経験の人ほとんどボール触れなくなると思うんで」


 怜華の表情から、からかう色が消える。


「どうしたらいいと思う?」


「交流会なら勝敗より全員参加が目的ですよね?」


「そうね」


「だったら出場時間を均等にするより、経験者が後ろで支える方がいいかも」


「後ろ?」


「上手い人が前で全部やると、その人だけで終わるから。後ろからパス出したり、危ないところだけカバーしたりした方が、未経験の人も触れます」


「なるほど」


「もちろんクラス対抗だから勝ちたい人もいると思いますけど」


「七瀬君なら?」


「俺?」


「もし出るなら」


 春樹は少し考えた。


「味方見ます」


「味方?」


「誰がどのくらい動けるか。足速い人、ボール怖い人、蹴れる人。そこ分かれば、全員が触れるようにできます」


「自分で点を取りに行くより?」


「必要なら行きますけど」


 春樹は自然に答える。


「サッカーって一人でやるものじゃないですから」


 怜華は黙った。


 春樹自身は、特別なことを言ったつもりはない。


 中学までサッカーをしていた人間なら普通に考えることだと思っている。


「……神谷君が推す理由、少し分かった気がする」


「蓮、何言ったんですか」


「『あいつ入れとけば試合が壊れない』って」


「褒め方が分かりにくい!」


「かなり褒めてると思うけど」


「本人から聞くと腹立つやつです」


「仲がいいのね」


「まあ」


 怜華は手元の資料へ何か書き込む。


「ありがとう。参考になったわ」


「これで終わりですか?」


「ええ」


「じゃあ読んでいいです?」


「本当にすぐ戻るのね」


「残り四十ページなんですよ」


「そんなに続きが気になる?」


「気になります」


「私と話すより?」


「今は本」


 即答。


 怜華がまた一瞬止まる。


 そして今度は、明らかに楽しそうに笑った。


「そう」


「何ですか?」


「何でもないわ」


「今日それ何回聞くんだろ」


「では、邪魔してごめんなさい」


「いえ。内容聞いたら普通に必要な話だったので」


「内容を聞く前は?」


「長かったら困るなって」


「ふふっ」


 怜華は資料を持ち直す。


「またね、七瀬君」


「はい」


 春樹は本へ戻る。


 怜華は数歩進んでから、一度だけ振り返った。


 すでに春樹は本を読んでいる。


 こちらを見てもいない。


「……なるほど」


 小さく呟く。


「一ノ瀬先輩?」


 栞が首を傾げる。


「何でもないわ」


 怜華はいつもの整った笑顔へ戻った。


「白石さん、資料ありがとう」


「はい」


 そのまま図書室を出ていく。


 扉が閉まったあと。


「七瀬君」


「はい?」


「一ノ瀬先輩にああいう話し方をする人、初めて見ました」


「失礼でした?」


「そういう意味ではなくて」


「じゃあ普通ですよ」


「……七瀬君にとっては、そうなんでしょうね」


「何ですか、その言い方」


「何でもありません」


「白石先輩まで!」


 栞は小さく笑う。


 春樹は納得できない顔をしながらも、再び本へ戻った。


     ◇◇◇


 放課後。


 二年三組では、スポーツ交流会の希望表が黒板横に貼り出されていた。


「七瀬」


「何?」


「サッカー、名前書いとけよ」


「はいはい」


 クラスメイトに促され、春樹はペンを持つ。


 サッカーの欄。


 すでに男子数名の名前がある。


 春樹はその下へ、


『七瀬春樹』


 と書いた。


「よし!」


「何でお前が喜ぶんだよ」


「勝率上がった」


「俺一人でそんな変わらないって」


「またまた」


「本当だよ」


「七瀬、リレーは?」


「出ない!」


「即答!」


「一競技で十分!」


 周囲が笑う。


 春樹はペンを戻した。


 そこへ雫が来る。


「書いた?」


「書いた」


「本当にサッカー?」


「見れば分かるだろ」


 雫は希望表を見る。


 そこに書かれた春樹の名前を確認する。


「そっか」


「嬉しそうだな」


「楽しみって言ったでしょ」


「そんなに俺のサッカー珍しくないのに」


「高校では珍しいの」


「まあ、それはそうか」


「練習、木曜だっけ?」


「蓮が勝手に決めてるだけ」


「行くんでしょ?」


「……多分」


「じゃあ見に行こうかな」


「何で?」


「駄目?」


「駄目じゃないけど、練習だぞ?」


「知ってる」


「面白くないぞ?」


「それは見てから決める」


「何だそれ」


 春樹は笑う。


「好きにすれば」


「うん」


 雫も笑った。


「じゃあ帰る?」


「今日は図書室寄る」


「また?」


「昼、四十ページ残ってた」


「一ノ瀬先輩と話してたんでしょ?」


 春樹が止まる。


「何で知ってるの?」


「さっき廊下で聞いた」


「誰に?」


「クラスの子。生徒会長が七瀬探してたって」


「情報回るの早すぎない?」


「で、何の話?」


「スポーツ交流会のサッカー」


「それだけ?」


「それだけ」


「……そう」


 雫は小さく息を吐いた。


「何?」


「何でもない」


「また!」


「でも今日は先に帰る」


「本読む?」


「うん。四編目の続き」


「読み終わったら――」


「連絡する」


「先に言われた!」


「分かってるから」


「最近それ多いな」


「嫌?」


「いや」


 春樹は笑う。


「楽」


「……そっか」


 雫はその一言を胸の中で受け取る。


「じゃあ、また明日」


「おう」


 雫が教室を出ていく。


 春樹も鞄を持ち、図書室へ向かおうとした。


 その途中。


「七瀬君」


「今日は何!?」


 反射的に答えてから振り向く。


 桐谷美月だった。


「……先生」


「何ですか、その反応」


「今日、人に呼び止められすぎて」


「人気者ですね」


「違います」


「そうですか?」


「俺は静かに本が読みたいだけです」


「知っています」


 桐谷は少し笑う。


「だから、手短にします」


「助かります」


「例の連作短編集、読み終えたでしょう?」


「あ」


 春樹は思い出す。


 以前、読み終えたら感想を聞かせてほしいと言われていた。


「すみません。完全に忘れてた」


「本の約束を?」


「最近、本の約束が増えすぎてるんですよ!」


「それは素敵ですね」


「俺には管理が大変なんです!」


「では明日のお昼、十分だけどうですか?」


「十分?」


「本当に十分」


「先生、本の話十分で止められます?」


「……努力します」


「今の間!」


「七瀬君もでしょう?」


「俺は無理かもしれない」


「正直ですね」


 二人で笑う。


「分かりました。明日の昼」


「ありがとう」


「ただし十五分超えたら俺帰りますよ」


「十二分を目標にします」


「増えてる!」


「では、また明日」


「先生!」


 桐谷は笑いながら職員室の方へ歩いていった。


 春樹はその背中を見送る。


「……また予定増えた」


 木曜。


 昼に桐谷と本の話。


 放課後は蓮とサッカー。


 雫が練習を見に来るかもしれない。


 ひよりからは、また次の本を頼まれる可能性が高い。


 真実からも、連作短編集の話がまだ残っている。


 栞とは、図書室で読みたい本の話をする。


 悠斗の相談も続くだろう。


 そして。


 今日初めてまともに話した生徒会長、一ノ瀬怜華。


「……いや、あの人は関係ないか」


 春樹はそう結論づけた。


 ただスポーツ交流会について聞かれただけだ。


 それ以上でも以下でもない。


 だから。


 もう会話することも、しばらくないだろう。


 そう思いながら図書室へ向かう。


     ◇◇◇


 同じ頃。


 生徒会室。


「会長、二年生への聞き取り終わりました?」


「ええ」


 一ノ瀬怜華は、机の上へ資料を置いた。


 生徒会役員たちがスポーツ交流会の資料を整理している。


 競技時間。


 審判担当。


 救護。


 使用場所。


 確認することは多い。


「サッカーどうでした?」


「経験者を後方に配置して、未経験者へボールが回るようにする案は使えそうね」


「誰か言ってたんですか?」


「二年三組の七瀬君」


「七瀬?」


「知ってる?」


「名前だけ。永山先生によく怒られてる人ですよね?」


「そうみたい」


 怜華は資料へ目を落とす。


 口元には、いつもの完璧な微笑み。


 けれど頭に浮かんでいるのは、図書室でのやり取りだった。


『長いですか?』


『今は本』


 自分に対して、あそこまで遠慮なく返してくる生徒は珍しい。


 教師の前でもそうなのだろう。


 相手が生徒会長でも、三年生でも。


 必要以上に緊張しない。


 かといって礼儀がないわけでもない。


 必要な話になれば、すぐ真面目に考える。


(変な子)


 怜華の口元が少しだけ上がる。


「会長?」


「何?」


「何か楽しそうですね」


「そう見える?」


「ちょっと」


「気のせいよ」


 怜華は笑う。


 今度は、いつもの綺麗な笑顔。


 けれど。


 ほんの少しだけ。


 清涼学園の完璧な生徒会長の中に、


『面白い後輩を見つけた』


 という感覚が残っていた。


 それはまだ。


 恋でもなければ、特別な好意でもない。


 ただの興味。


 少しからかってみたら、予想より面白い反応が返ってきた。


 その程度だ。


 けれど一ノ瀬怜華という少女にとって。


 自分の笑顔の奥を、初対面同然の相手からあっさり指摘された経験は。


 思っていたより、少しだけ印象に残っていた。


     ◇◇◇


 その夜。


 春樹は自室のベッドへ寝転がり、ようやく古本の最後のページを閉じた。


「……よかった」


 派手な終わり方ではなかった。


 最初に登場した喫茶店の常連客。


 名前のない手紙。


 何話かを経て、その手紙が別の登場人物へ渡る。


 最後は誰かが大きく救われるわけでもない。


 ただ少しだけ、明日が昨日より楽になる。


 そういう終わり方だった。


(これ、白石先輩好きそうだな)


 真っ先に浮かんだ。


 次に。


(雫は……どうだろ。会話少ないけど、人間関係は好きそうだな)


 さらに。


(新海は最初の二話でちょっと退屈するかも。でも後半は好きそう)


 そして。


(小日向は……途中で寝る可能性あるな)


 思わず笑う。


 以前なら。


 本を読み終えたあとは、自分の中で感想を整理して終わりだった。


 面白かった。


 ここが好きだった。


 あそこは少し合わなかった。


 次に何を読むか。


 それだけ。


 今は違う。


 誰なら好きだろう。


 誰ならどこを見るだろう。


 誰と話したら、自分とは違う感想が返ってくるだろう。


 そういうことまで考える。


 机の上でスマートフォンが震えた。


 雫。


『四編目読んだ』


 春樹はすぐ起き上がる。


『どうだった?』


 数秒後。


『電話していい? 文章だと長くなる』


「お」


 春樹は少し笑った。


『いいよ』


 すぐに着信。


「もしもし」


『春樹?』


「うん」


『あのさ、四編目の最後なんだけど』


「うん」


『あれって、女の人は最初から気づいてたと思う?』


「そこから来たか」


『何よ』


「いや、俺もそこ悩んだ」


『春樹は?』


「最初は気づいてないと思った。でも最後まで読んでから読み直すと――あ、これ言ったら後のネタバレになる」


『危ない!』


「ごめん!」


『本当に気をつけてよ!』


「でも言いたい!」


『我慢して!』


「つらい!」


 電話越しに雫が笑う。


 春樹も笑った。


 机の上には、読み終えたばかりの本。


 ベッドの横には、まだ読んでいない本が何冊も積んである。


 明日の昼には桐谷と本の話をする。


 放課後には図書室へ行くかもしれない。


 明後日にはサッカーまである。


 少し前の春樹なら。


 予定が増えるたびに、ただ読書時間が削られると考えていた。


 今も、それが惜しい気持ちはある。


 なくなったわけではない。


 むしろ本はもっと読みたい。


 けれど。


『それで春樹はどう思ったの?』


「俺はさ――」


 誰かと同じ本について話す時間を。


 もう、ただの邪魔とは思えなかった。


 春樹はまだ知らない。


 図書室で静かに隣にいられる先輩が、自分の読書中の癖を覚え始めていることも。


 真面目な風紀委員が、自分を「校則違反をする変な男子」だけでは見なくなっていることも。


 後輩たちが、自分に本を選んでもらうことを楽しみにし始めていることも。


 幼なじみが、「昔から知っている」という言葉だけでは説明できない気持ちに少しずつ近づいていることも。


 そして。


 今日初めてまともに話した生徒会長が、自分をほんの少しだけ面白いと思ったことも。


 何一つ知らない。


 本人にとって大事なのは、もっと単純なことだった。


『春樹? 聞いてる?』


「聞いてるって。今、雫が四編目の女の人は最初から気づいてたんじゃないかって話だろ?」


『ちゃんと聞いてた』


「失礼だな」


『だって春樹、本があると急に意識飛ぶから』


「電話中に読まないよ」


『本当に?』


「……机の上にはある」


『春樹』


「読んでない!」


 雫の笑い声が聞こえる。


 春樹も笑った。


 読みたい本は、まだ山ほどある。


 明日も。


 明後日も。


 その先も。


 春樹はきっと本を読む。


 ただ。


 最近、その本の隣に。


 少しずつ、人が増えている。


 それが何を意味するのか。


 七瀬春樹は、まだ考えていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。