第21話 本を読んでいたいだけなのに、昔の俺まで引っ張り出さないでくれ
木曜日の朝。
昨夜、雫との電話を切ったのは午後十時四十分を少し過ぎた頃だった。
連作短編集の四編目について話し始めたとき、春樹はせいぜい十分程度で終わると思っていた。ところが雫が「あの女の人は最初から気づいていたと思う」と言い出したところから話が広がり、途中で五編目以降の内容を口走りそうになった春樹が何度も止められ、気づけば三十分以上が経過していた。
それでも、電話を切ったあとに春樹が最初に考えたのは、読書時間を三十分失ったことではなかった。
(雫、前より感想を言うようになったよな)
そんなことだった。
以前の雫なら、春樹から本を借りても「面白かった」「ここ好きだった」くらいで終わることが多かった。それが今では、登場人物の行動の理由を考えたり、自分と春樹で受け取り方が違う部分を面白がったりする。
春樹にとって、それはかなり嬉しい変化だった。
だから今朝。
「昨日、結局何時まで読んだ?」
いつもの通学路で隣を歩く雫へ、春樹は自然にそう尋ねていた。
「電話切ってから、少しだけ」
「五編目入った?」
「入ったけど、途中でやめた。眠かったし」
「正しい」
「春樹に言われたくない」
「俺だって最近は気をつけてるよ。昨日も十一時半には寝た」
「十分遅いでしょ」
「高校生なら普通じゃない?」
「その前の日、一時半だった人が言っても説得力ない」
「それは特殊事情」
「本読んでただけでしょ?」
「俺にとっては重大な事情だよ」
春樹が真顔で返すと、雫は呆れたように息を吐きながらも口元を緩めた。
六月の朝はすでに日差しが強くなり始めている。住宅街の塀沿いには紫陽花が色づき、少し離れた道路からは通勤時間帯の車の音が絶えず流れてきていた。
春樹は歩きながら本を開かない。
代わりに、昨日読み終えた古本のことを考えていた。
「そういえばさ」
「何?」
「昨日、別の本一冊読み終わったんだけど」
「また?」
「またって何だよ。本は読むものだろ」
「春樹の場合、ペースがおかしいの」
「普通だよ」
「普通の人は学校行って、友達と話して、電話して、その間に何冊も読まないと思う」
「だから一冊だって」
「数日前にも別の読んでたでしょ?」
「それはそれ」
「ほら」
雫は小さく笑った。
「で、その本がどうしたの?」
「雫も好きかもしれないと思って」
「……私?」
「うん。ただ会話は少なめなんだよな。人間関係はかなり丁寧だけど」
春樹がそう言うと、雫は少しだけ歩調を緩めた。
「また貸してくれるの?」
「読みたいなら。ただ、今の連作短編集終わってからでいいだろ」
「そうね。何冊も同時に借りたら、春樹が次々持ってきそうだし」
「そんなことしないよ」
「本当に?」
「……二冊くらいなら」
「するじゃない」
「選択肢だよ。強制じゃない」
「同じ」
「全然違う!」
二人の声が朝の通学路に重なる。
少し前を歩いていた同じ学校の女子生徒二人が振り返り、春樹と雫を見て何か小声で話してから笑った。
雫はそれに気づいたが、特に何も言わなかった。
春樹は気づいてすらいない。
「そうだ。今日、本当にサッカーするの?」
「多分」
「多分?」
「蓮が勝手に三十分って決めただけだから」
「でも行くんでしょ?」
「行かないと教室まで来そうなんだよ、あいつ。下手したら鞄持ってグラウンドまで連行される」
「それはありそう」
「だろ?」
「何時くらい?」
「放課後すぐ。着替えてからだから……四時前くらいじゃない?」
「じゃあ、そのくらいに行こうかな」
春樹が雫を見る。
「本当に見るの?」
「昨日も言ったでしょ」
「いや、聞いたけど。練習だぞ? 試合でもないし、蓮とちょっと合わせるだけだと思う」
「いいの」
「暇じゃない?」
「本持っていくから」
「それなら図書室で読めばいいじゃん」
「春樹がそれ言う?」
「最高の環境だぞ」
「今日はグラウンドで読む」
「砂飛ぶぞ?」
「じゃあ読まない」
「何しに来るんだよ」
「春樹のサッカー見に行くの」
雫は、ごく普通のことを言うように答えた。
春樹は一瞬だけ言葉を止めたあと、首を傾げる。
「そんな見たい?」
「見たい」
「中学のとき散々見ただろ」
「高校に入ってからは、ほとんど見てないから」
「この前ちょっとやったけど」
「私はちゃんと見てない」
「ああ、そっか」
春樹はそこで納得した。
雫にとって、春樹がサッカーボールを追いかけている姿は珍しいものではなかった。
小学生の頃も、中学生の頃も、何度も見てきた。
けれど高校へ入ってから、春樹はサッカー部に入らなかった。
制服姿で本を抱えている春樹を見る時間の方が、圧倒的に増えた。
雫自身、それを不自然だと思ったことはない。
春樹は昔から本が好きだったし、サッカーを嫌いになったわけではないことも知っている。
それでも。
(今の春樹がサッカーしてるところ、ちゃんと見たいんだよね)
理由を言葉にしようとすると、少し難しい。
昔を懐かしみたいだけでもない。
格好いいところを見たい、と素直に認めるのは少し恥ずかしい。
だから雫は、それ以上説明しなかった。
「来るのはいいけど、期待すんなよ」
「何を?」
「俺、中学のときみたいに毎日練習してないから」
「分かってる」
「体力落ちてるし」
「それも分かってる」
「じゃあ問題ないな」
「うん」
「でも蓮に煽られて本気出す可能性はある」
「それも分かってる」
「何で?」
「春樹だから」
「雑!」
雫の笑い声が朝の道に響いた。
◇◇◇
昼休み。
春樹は弁当を食べ終えると、机の上の時計を確認した。
「じゃあ行ってくる」
「桐谷先生?」
雫が尋ねる。
「うん。昨日約束したから」
「本の話?」
「連作短編集の感想」
「何分?」
「先生は十二分を目標にするって言ってた」
「絶対無理じゃない?」
「俺もそう思う」
隣でパンを食べていた悠斗が吹き出した。
「お前ら、本の話始めたら授業一個分くらい普通にいけそうだもんな」
「俺は止められるよ」
「昨日、雫と何分電話してた?」
「……三十分ちょっと」
「ほら」
「それは雫が質問するから」
「私のせい?」
「違う違う。いい意味で」
「どういう意味よ」
「感想聞くの楽しかったって意味」
雫が一瞬黙る。
その横で紗弥が口元を押さえた。
「何?」
雫が紗弥を見る。
「別に」
「今、笑ったでしょ」
「笑ってないって」
「絶対笑った」
「西条、七瀬相手だと細かいな」
悠斗が言った瞬間、雫の視線が飛ぶ。
「高坂?」
「俺、何も言ってません」
「言った」
「春樹、助けて」
「自分で何とかしろ」
「冷たい!」
「他人の恋愛相談なら手伝うけど、幼馴染に余計なこと言って怒られた友達までは面倒見られない」
「恋愛相談って言うな!」
悠斗の声が大きくなり、近くの生徒が何人か振り返った。
紗弥も不思議そうに悠斗を見る。
「恋愛相談?」
「違う!」
「今、七瀬が」
「春樹!」
「俺、相手の名前言ってないぞ」
「そういう問題じゃない!」
悠斗が頭を抱える。
春樹は笑いながら立ち上がった。
「じゃ、俺行くわ」
「逃げんな!」
「先生との約束だから。頑張れ」
「何を!?」
教室を出る直前、春樹は振り返った。
「高坂、バレーの希望出すなら今日中だぞ」
「……分かってる」
「じゃあな」
春樹が去る。
残された紗弥は、悠斗を見た。
「高坂、バレーにするの?」
「あー……まあ、まだ迷ってる」
「そうなんだ」
「赤木はバレーだろ?」
「うん。中学でちょっとやってたし」
「経験者だったの?」
「一年だけね。上手くないよ」
「へえ」
悠斗の顔が少し明るくなる。
雫はそれを横目で見て、昨日までなら春樹が何か言いそうな場面だと思った。
けれど春樹はいない。
だからこそ、悠斗自身が紗弥と話している。
それでいいのかもしれない。
「高坂」
「何?」
「バレー、やれば?」
「西条まで?」
「やりたいんでしょ?」
「……まあ」
「じゃあ決まり」
「軽いな!」
「春樹みたいなこと言うな」
「本当に幼馴染だなお前ら!」
「どういう意味よ!」
今度は雫の声が教室に響いた。
◇◇◇
桐谷美月は、国語準備室の窓際に二脚の椅子を用意していた。
壁際には古典全集や文学作品、教材研究用の資料が並び、机の上には採点途中らしいプリントが積まれている。窓が少し開いており、校庭から運動部の声が遠く聞こえていた。
「失礼します」
「どうぞ」
春樹が入る。
「本当に十二分ですか?」
「入って最初の言葉がそれ?」
「大事なので」
「一応、そのつもりです」
「一応」
「七瀬君」
「はい」
「あなたも話し始めると止まらないでしょう?」
「本によります」
「例の本は?」
「止まらない可能性あります」
「ではお互い様ですね」
桐谷が笑い、春樹も苦笑しながら椅子へ座った。
「それで」
桐谷は机に置いていた一冊を手に取る。
「読み終えたんですよね?」
「全部読みました。あと最初の話だけ読み直しました」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「最後まで読むと最初の印象が変わる構成でしょう?」
「変わりました。あれ、ずるいですよ」
「褒めています?」
「めちゃくちゃ褒めてます」
春樹の目がすぐに明るくなる。
「最初の話だけだと、駅前の喫茶店で偶然会った二人の話に見えるじゃないですか。でも最後まで読むと、あのとき背景にいた人とか、会話の中で名前だけ出てた場所とか、全部別の話につながってる」
「そうですね」
「しかも『実は全部伏線でした』って感じで主張してこないんですよ。気づかなくても話として成立するのに、気づくと町全体が急に広がる」
「七瀬君、そういう構成好きですよね」
「好きです」
「即答」
「だって楽しいじゃないですか。読み終わったあとに最初へ戻りたくなる本」
桐谷は満足そうに頷いた。
「私が勧めた理由の一つです」
「先生、俺が読み直すところまで狙ってました?」
「少し」
「怖いな、この教師」
「教師に向かって怖いとは失礼ですね」
「褒めてます」
「便利な言葉にしないでください」
二人は笑った。
そこから話は三編目へ移り、さらに四編目へ移った。
春樹が登場人物の台詞の曖昧さを面白がれば、桐谷はむしろ語られていない行動の方を重視する。
同じ場面について意見が分かれる。
だからこそ話が続く。
「先生は、あの女の人最初から気づいてたと思います?」
「私は気づいていたと思っています」
「あ、雫と同じだ」
「西条さん?」
「今あいつ読んでるんですよ。昨日四編目まで行って」
「感想を話したんですか?」
「電話で三十分くらい」
「へえ」
桐谷の目が少し細くなる。
春樹はその変化に気づいた。
「何ですか?」
「何でもありません」
「最近みんなそれ言う」
「では言い換えます。楽しそうですね」
「楽しいですよ」
「西条さんと本の話をするのが?」
「雫だけじゃなくて」
春樹は少し考えながら答える。
「白石先輩とも、新海とも、小日向とも。みんな見るところ違うんで」
「以前より随分増えましたね」
「そうなんですよ」
春樹は椅子の背にもたれた。
「最初は読書時間減ってるだけだと思ってたんですけど」
「今は?」
「減ってるのは減ってます」
「そこは譲らないんですね」
「事実なので」
桐谷が笑う。
「でも、昨日雫とも話したんですけど、本について話してる時間なら読書の延長に入れてもいいかなって」
桐谷は、すぐには返事をしなかった。
窓の外から、昼休みの校庭でボールを蹴る音が聞こえてくる。
「それは、いい変化ですね」
「変化なんですかね?」
「少なくとも以前の七瀬君なら、『話す時間があるなら一ページでも読みたい』と言っていたでしょう?」
「……言いそう」
「でしょう?」
「でも一人で読む時間も欲しいですよ」
「もちろん」
桐谷は穏やかに答えた。
「広がることと、元々好きだったものを捨てることは別ですから」
春樹はその言葉を聞き、少しだけ視線を落とした。
図書室で一人静かに読む時間は、今でも好きだ。
誰かと感想を話す時間も、好きになってきた。
どちらかを選ぶ必要はない。
「……先生」
「はい?」
「今、何分です?」
桐谷が時計を見る。
「二十一分」
「倍近い!」
「七瀬君も喋っていたでしょう!」
「先生も止めなかったじゃないですか!」
「私も楽しかったので」
「認めた!」
春樹は慌てて立ち上がった。
「もう戻ります! 昼休み終わる!」
「はい。ありがとうございました」
「こちらこそ。また面白いのあったら教えてください」
「もちろん」
「ただし授業中に読む前提で渡すのは禁止です」
「そんな前提で勧めません」
「先生ならやりそう」
「私を何だと思っているんですか?」
「本好き」
「否定できませんね」
春樹が笑う。
「じゃ、失礼します」
「七瀬君」
扉へ向かいかけたところで呼び止められた。
「何です?」
「スポーツ交流会、サッカーに出るんですって?」
「先生まで知ってるんですか」
「職員室で永山先生が嬉しそうに話していました」
「何で先生が嬉しいんだよ……」
「普段本ばかり読んでいる生徒が、学校行事へ自分から参加するからでは?」
「一人最低一競技ですよ?」
「それでもです」
「大げさだなぁ」
春樹は肩をすくめる。
「まあ、出るならちゃんとやりますよ」
「怪我には気をつけて」
「はい」
扉が閉まる。
準備室に一人残った桐谷は、春樹が座っていた椅子を見た。
最初に本の話をした頃より、春樹の口から出てくる人の名前が増えている。
白石。
新海。
小日向。
そして西条。
それを本人は、すべて「本の話ができる相手」として並べている。
「……本当に、自分のことになると分からないのね」
小さく呟き、桐谷は採点途中のプリントへ手を伸ばした。
教師としては。
急いで答えを教える必要など、まったくない。
◇◇◇
放課後。
春樹は自分の机に座ったまま、鞄から文庫本を取り出そうとしていた。
「七瀬」
永山の声。
手が止まる。
「何ですか?」
「グラウンド」
「まだ何もしてませんけど!?」
「知ってる」
「じゃあ何で!」
「神谷が職員室まで来た」
「蓮ぇ……!」
教室に残っていた生徒たちから笑いが起きる。
「『七瀬が本読み始める前に捕まえないと来ないかもしれません』だそうだ」
「信用なさすぎません!?」
「日頃の行いだ」
「俺、約束は守りますよ!」
「なら行け」
「着替えてから!」
「分かってる」
永山は笑いながら教室を出ていく。
春樹は文庫本を鞄へ戻した。
「……三十分」
自分に言い聞かせる。
「今日は三十分だけ」
「何が?」
雫が近づいてくる。
「サッカー」
「増えそう」
「増やさない」
「神谷君次第じゃない?」
「俺が帰る」
「できる?」
「できる!」
春樹は立ち上がる。
「じゃあ着替えてくる」
「私もあとで行く」
「本当に来るんだ」
「行くって言ったでしょ」
「分かった。じゃあグラウンド」
「うん」
◇◇◇
十分後。
春樹は学校指定の体育着姿でグラウンドへ出た。
六月の日差しはまだ高く、昼間ほどではないものの、土の上にはじんわりと熱が残っている。サッカー部はグラウンドの半面を使い、別の場所では陸上部が準備運動を始めていた。
「遅い!」
「十分しか経ってないだろ!」
蓮がボールを足元で転がしながら近づいてくる。
「お前なら五分で来られる」
「着替えがあるんだよ」
「本読んでただろ」
「読もうとはした」
「ほら!」
「読んでない!」
蓮は笑いながらボールを春樹へ蹴った。
強くはない。
春樹は右足の内側で受ける。
ボールが足元へ吸い付くように止まった。
「……やっぱ変わってねえな」
「何が?」
「トラップ」
「これくらい普通だろ」
「お前の普通は信用してない」
「最近そればっかり言われる」
春樹はボールを返す。
蓮は受けながら、少し離れた場所を顎で示した。
「今日はサッカー部から三人借りた」
「は?」
「軽く回す」
「二人でパスするだけじゃなかったの?」
「実戦感覚見たい」
「聞いてない!」
「今言った」
「お前さぁ!」
少し離れたところで、サッカー部の男子三人が笑っている。
一人は春樹も顔だけ知っていた。同学年の部員だ。
「神谷先輩、その人が七瀬先輩ですか?」
一年生らしい男子が尋ねる。
「そう」
「中学のとき上手かったっていう?」
「現在進行形で上手い」
「蓮、勝手にハードル上げるな」
春樹は嫌そうな顔をする。
「二年以上まともに練習してないからな」
「一年ちょいだろ」
「細かい」
「全然違う」
「俺の中では長い」
そのやり取りを聞きながら、一年生の男子は春樹を見た。
噂では聞いたことがある。
授業中に本を読んで教師に怒られる二年生。
図書室にいつもいる先輩。
それがサッカー部の神谷と昔から知り合いで、かなり上手いらしい。
正直、半信半疑だった。
「とりあえず五人いるから、鳥かごからやろうぜ」
「三十分だからな」
「分かった分かった」
「その言い方信用できない」
春樹は溜息をつきながら輪へ入った。
最初は簡単なパス回しだった。
中央に一人。
外側四人。
取られた者が中央へ入る。
春樹は無理に目立とうとはしなかった。
来たボールを止める。
空いている相手へ出す。
それだけ。
けれど数分すると、一年生の部員は違和感を覚え始めた。
(……この先輩、見るの早くないか?)
ボールが来てから相手を探していない。
受ける前に首を動かし、周囲を確認している。
だからボールが足元へ届いたときには、もう次が決まっている。
一度、中央の選手が右側を切った。
普通なら左へ返す。
けれど春樹はボールを受ける直前、ほんの少し身体を右へ向けた。
中央の選手が反応する。
その瞬間。
左足の外側で、逆方向へボールを流した。
「うわっ」
「はい」
春樹は何事もなかったように言う。
「今の何ですか?」
「パス」
「それは分かります!」
周囲が笑う。
蓮だけは楽しそうだった。
「だから言っただろ」
「何が?」
「変わってねえって」
「体力は落ちてるよ」
「そこじゃねえ」
十分ほど身体を動かしたあと、蓮がミニゲームを提案した。
「三対三にしたいな」
「五人しかいないけど」
「一人呼ぶ」
「誰を?」
「そこ」
蓮が手を上げる。
「おーい、三浦! 五分だけ入れ!」
別メニューをしていた同学年のサッカー部員が振り返った。
「何で俺?」
「人数足りない」
「先輩に言えよ」
「今空いてんのお前だけ」
「五分な!」
男子生徒――三浦拓海がこちらへ走ってくる。
春樹は眉を寄せた。
「蓮」
「何?」
「三十分の話どこ行った?」
「まだ二十分しか経ってない」
「……時計見てるからな」
「分かってるって」
六人で三対三。
狭い範囲にコーンを置き、小さなゴールを二つ作る。
春樹と蓮は別チームになった。
「何で?」
「敵で見たいから」
「交流会でも敵だろ」
「だから」
「本当にサッカー好きだなお前」
「お前もだろ」
「好きだけど本の方が好き」
「知ってる!」
ゲームが始まる。
最初の一分。
春樹はほとんどボールに触らなかった。
同じチームになった一年生が少し戸惑う。
噂ほどではないのか。
そう思った直後だった。
「右」
短い声。
一年生が反射的に右へ出す。
春樹はそこにいない。
いや。
一瞬後にいた。
相手の背中側へ回り込みながら受け、止めずに中央へ戻す。
「そのまま!」
返された一年生の前が空いた。
シュート。
小さなゴールへ入る。
「え?」
決めた本人が驚いた。
「ナイス」
春樹が笑う。
「今、俺……」
「空いてたから」
「いや、でも」
「次来るぞ」
春樹の声で、一年生は慌てて切り替える。
蓮がボールを持っている。
春樹は奪いに行かない。
少し距離を取る。
「来いよ」
蓮が笑う。
「嫌だ」
「何で!」
「お前、俺抜きたいだけだろ」
「バレた?」
「中学から何回やってると思ってんだ」
蓮が右へ動く。
春樹はついていく。
一歩。
二歩。
蓮がボールを左へ切り返す。
春樹は動かなかった。
「ちっ」
「それも知ってる」
「じゃあこれは?」
今度は縦。
春樹が身体を寄せる。
肩が触れる。
蓮が踏ん張る。
春樹は無理に奪わず、進路だけを消した。
「うざっ!」
「褒め言葉?」
「昔からそういう守り方するよな!」
「取れないなら行かせなきゃいいだろ」
「地味!」
「勝てればいい」
蓮が後ろへ戻す。
その瞬間。
春樹が動いた。
パス先を読んで一歩先に入り、ボールを奪う。
「ほら!」
「それ待ってたのかよ!」
「蓮、自分で行けないと一回戻すじゃん」
「昔の癖覚えてんじゃねえ!」
「そっちも俺の癖知ってるだろ!」
春樹が笑いながら前へ出る。
その顔は。
教室で本を読んでいるときとは、まるで違った。
◇◇◇
「……楽しそう」
グラウンド脇のフェンス近く。
雫は、そこに立っていた。
手には鞄。
中には読むつもりだった本も入っている。
けれど一度も出していない。
春樹がボールを蹴っている。
それだけで、視線がそちらへ向いたままだった。
「西条?」
声をかけられ、雫が振り返る。
紗弥だった。
「紗弥?」
「何してるの?」
「春樹見てる」
「……すごい素直に言ったね」
「サッカーを」
「ああ」
「その顔やめて」
「何も言ってないよ」
紗弥は笑いながら隣へ立つ。
「私、体育館行く途中。バレーの希望人数見るって言われて」
「高坂は?」
「バレーに名前書いてた」
「へえ」
「何、その顔」
「何も」
「西条と同じこと言ってる」
二人で小さく笑う。
それから紗弥もグラウンドを見る。
「七瀬、上手いんだね」
「うん」
「知ってた?」
「昔から」
雫の返事には、ほんの少しだけ誇らしさが混じった。
紗弥はそれに気づいたが、何も言わなかった。
「でも何か、思ってたのと違う」
「どういう意味?」
「もっと一人で抜いたりするのかと思った」
「できるよ」
「できるんだ」
「でも春樹、昔からああいう感じ」
雫はグラウンドを見たまま続ける。
「自分が目立つより、周り見てるの」
「へえ」
「前の子が走ったらそこに出すし、困ってる子がいたら近くに行くし。本人は普通にやってるつもりなんだけど」
「……西条、詳しいね」
「ずっと見てたから」
自然に答えたあと。
雫は少しだけ口を閉じた。
小学生の頃から。
中学生の頃まで。
何度も見てきた。
勝った試合も、負けた試合も。
春樹が点を取った日も。
ほとんど目立たず、誰かの得点を作っていた日も。
そして今。
高校生になった春樹が、久しぶりにボールを追っている。
背が伸びた。
身体つきも変わった。
けれど。
(ああいうところは、変わってない)
味方がボールを持った瞬間に、その子が出しやすい位置へ動く。
ミスをしても責めない。
次のプレーを指示する。
昔と同じ。
それなのに。
昔とは少し違って見える。
「西条」
「何?」
「顔、ちょっと嬉しそう」
「……そう?」
「うん」
「久しぶりだから」
「そっか」
紗弥は、それ以上踏み込まなかった。
代わりにグラウンドへ視線を戻す。
ちょうど春樹が蓮のパスを読んで奪ったところだった。
「うわ、今のすご」
「でしょ?」
雫が反射的に答える。
紗弥が横を見る。
「何?」
「いや」
「何よ」
「本当に嬉しそうだなって」
「……体育館行けば?」
「はいはい」
紗弥は笑いながら手を振った。
「じゃあまた明日」
「うん」
紗弥が去ったあと。
雫はもう一度、春樹を見る。
胸の奥にあるのは、嫉妬でも不安でもない。
もっと穏やかなものだった。
自分が昔から知っている春樹を、今の学校で見ることができた。
それが、ただ嬉しい。
◇◇◇
「終了!」
春樹が叫んだ。
「まだいける!」
「三十二分!」
「二分くらい誤差だろ!」
「俺の読書時間における二分を舐めるな!」
「お前、サッカー中までそれ言うのかよ!」
蓮が笑いながらボールを止める。
春樹は膝へ手をつき、息を整えた。
「……体力落ちた」
「言うほどじゃねえだろ」
「中学ならこの程度で息上がらなかった」
「一年以上まともにやってない奴と比べたら十分だよ」
三浦も近づいてくる。
「七瀬、お前本当に部活入らないの?」
「入らない」
「即答かよ」
「毎日練習だろ?」
「当たり前だろ」
「無理」
「何で?」
「本読めない」
「神谷から聞いてたけど、本当なんだな……」
三浦は呆れた顔をした。
「お前、普通にレギュラー狙えるだろ」
「それとこれとは別」
「もったいなくね?」
「俺はそう思わないよ」
春樹はタオルで額の汗を拭う。
「サッカー好きだけど、本読む方が好きだから」
言い方に迷いはなかった。
三浦は少しだけ目を丸くする。
蓮は、隣で笑った。
「こいつ昔からこうだから」
「中学の頃から?」
「中学は部活やってたけどな。でも遠征のバスでも本読んでた」
「酔わないの?」
「俺、車強いんだよ」
「そこじゃねえよ」
また笑いが起こる。
一年生の部員が春樹へ近づいた。
「あの、七瀬先輩」
「ん?」
「さっき、俺が右に出したとき」
「ああ」
「何であそこ空くって分かったんですか?」
「相手が真ん中見てたから」
「それだけですか?」
「あと、お前が右足で持ってたから」
「……はい?」
春樹は地面へボールを置く。
「右足でここ持ってて、相手が正面から来るとするじゃん」
「はい」
「このまま左に出そうとすると、一回身体開かないと出しにくいだろ?」
「はい」
「だから相手も左をちょっと気にする。でも俺が右に動けば、お前は身体の向き変えなくても出せる」
「……あ」
「それだけ」
「いや、それだけって……」
「慣れれば分かるよ」
春樹は軽く笑った。
蓮が後ろから言う。
「こいつの『それだけ』は信用すんな」
「お前、さっきから俺の評価下げたいのか上げたいのかどっち?」
「上げてる」
「絶対やり方間違ってる」
そこへ。
「春樹」
聞き慣れた声。
振り返る。
「あ、雫」
フェンスの向こうに雫が立っていた。
「いつからいた?」
「途中から」
「言えよ」
「練習中だったから」
「本読んでた?」
「読んでない」
「暇だったろ」
「だから見てたって」
春樹はタオルを首へ掛ける。
「どうだった?」
何気ない質問。
けれど雫は、一瞬だけ答えに迷った。
「……格好よかったよ」
春樹が止まる。
蓮も止まる。
三浦と一年生たちまで、わずかに空気を読むように黙った。
「何、その間」
雫が眉を寄せる。
「いや」
春樹が頬を掻く。
「雫が普通に褒めるの珍しいなって」
「失礼ね」
「いつも『調子乗らないで』とか一言つくじゃん」
「じゃあつけようか?」
「いや、せっかくだから褒められたままにしとく」
「そうして」
「ありがと」
春樹は素直に笑った。
雫の胸が、小さく跳ねた。
サッカーをしていたときの鋭い目ではない。
いつもの春樹。
それなのに汗で少し濡れた前髪や、まだ呼吸の整いきっていない様子が、普段とは違って見える。
(……何で今さら緊張するのよ)
昔から何度も見てきた。
サッカーのあとに話すことだって、珍しくなかった。
なのに。
高校生になった今の春樹だからなのか。
それとも、自分の方が変わってきているのか。
雫にはまだ分からない。
「七瀬」
蓮がにやにやしている。
「何だよ」
「いや、別に」
「その顔やめろ」
「何でもない」
「今日それ何回目だよ!」
春樹が声を上げる。
雫まで笑った。
「じゃあ俺、着替えて帰る」
「図書室は?」
「……行きたい」
「行くの?」
「でも汗かいたし、一回着替えてからな」
「まだ読むの?」
三浦が呆れる。
「今日、昼に二十一分も本の話してて読めなかったんだぞ」
「二十一分って細かいな」
「俺にとっては重要」
「本当に本好きなんだな」
「だから最初から言ってるだろ」
春樹は鞄を肩へ掛ける。
「俺はただ本が読みたいだけなんだよ」
その言葉に。
蓮が笑う。
三浦も笑う。
一年生たちもつられて笑った。
雫だけは。
少し違う気持ちで、その言葉を聞いていた。
(そうだよね)
春樹は変わっていない。
本が好き。
静かに読みたい。
それが一番。
けれど。
その周りには、以前よりたくさんの人がいる。
そして自分も、その一人だ。
「雫?」
「何?」
「帰るなら待ってる?」
「図書室行くんでしょ?」
「三十分くらい読んでから帰ろうかなって」
「じゃあ私も行く」
「また?」
「私も続き読むから」
「お、五編目?」
「うん」
「じゃあ読み終わってもその場で感想言うなよ」
「何で?」
「図書室だから」
「春樹が一番危ないでしょ」
「俺は守れる」
「昨日、桐谷先生と二十一分話したんでしょ?」
「それ準備室!」
「同じ」
「違う!」
二人が言い合いながら校舎へ戻っていく。
その背中を見送りながら、三浦が蓮へ尋ねた。
「なあ」
「何?」
「あの二人、付き合ってんの?」
「知らん」
「幼馴染って聞いたけど」
「幼馴染らしいぞ」
「……あれで?」
蓮は少し考えた。
中学時代から、春樹と雫が一緒にいるところは何度も見ている。
だから昔なら、特に何とも思わなかっただろう。
けれど今。
雫が春樹のプレーを見る目。
褒めたあと、春樹が笑ったときの一瞬の沈黙。
そして当たり前のように一緒に図書室へ向かう二人。
「まあ」
蓮はボールを足元で転がした。
「本人たちに聞いても、たぶん『幼馴染』って言うぞ」
「本人たち?」
「両方」
「余計分かんねえ」
「俺も」
蓮は笑った。
「だから放っとけ」
◇◇◇
着替えを終えた春樹と雫が図書室へ着いた頃には、窓から入る日差しが少し傾き始めていた。
放課後の図書室には十人ほどの生徒がいる。
試験期間でもないため混雑はしておらず、紙をめくる音と、カウンターで本を処理する小さな音だけが静かに続いていた。
「こんにちは」
栞が二人に気づく。
「こんにちは」
「こんにちは、白石先輩」
春樹はいつもの窓際へ向かいかける。
栞が少し首を傾げた。
「七瀬君」
「はい?」
「今日、何かしてきました?」
「何で分かるんですか?」
「髪」
「あ」
着替える前に水道で顔を洗ったため、前髪がいつもより少し乱れている。
「サッカーしてました」
「スポーツ交流会の?」
「練習というか、神谷に付き合わされて」
「春樹、楽しそうだったけどね」
雫が横から言う。
「それはそれ」
「否定しないんだ」
「サッカー嫌いじゃないって何回言えば分かるんだよ」
栞が小さく笑う。
「西条さんは見ていたんですか?」
「はい」
「どうでした?」
「格好よかったです」
「雫!」
「何?」
「何で白石先輩には即答なんだよ!」
「本当のことだから」
「さっき俺に言うとき間があったじゃん!」
「本人に言う方が恥ずかしいでしょ!」
言ってから。
雫が止まった。
春樹も止まった。
栞は二人を交互に見る。
「……あ」
雫が視線を逸らした。
「いや、今のは」
「何?」
「何でもない」
「だから最近それ多いって!」
春樹は本気で分からない顔をしている。
栞は口元へ手を添えた。
「白石先輩まで笑わないでくださいよ」
「ごめんなさい」
「絶対面白がってる」
「少しだけです」
「昨日の一ノ瀬先輩と同じ!」
「あの人ほどではありません」
「白石先輩、一ノ瀬先輩のこと結構分かってます?」
「同学年ですから」
「なるほど」
春樹はそこで納得し、いつもの席へ向かった。
雫も隣へ座る。
鞄からそれぞれ本を出す。
春樹は読みかけの文庫本。
雫は連作短編集。
「三十分な」
「何が?」
「今日は三十分読んだら帰る」
「分かった」
「五編目読み終わっても話しかけるなよ」
「春樹こそ、私が閉じた瞬間に『どうだった?』って聞かないでよ」
「……気をつける」
「今の間は何?」
「読了した人が隣にいるのに感想聞けないの、結構きついなと思って」
「家帰ってからでいいでしょ」
「電話?」
「別にいいけど」
「じゃあそうする」
「決めるの早い」
二人は小声で笑った。
それから、本を開く。
静かな時間が始まった。
春樹は数分で物語へ入り込む。
雫も五編目の続きへ戻る。
カウンターからその様子を見た栞は、少しだけ目を細めた。
以前から春樹はこの席で本を読んでいた。
一人で。
今も一人で来ることはある。
けれど最近は、その隣に誰かがいることが増えた。
新海真実。
小日向ひより。
そして、西条雫。
不思議なのは。
誰かが隣にいても、春樹はちゃんと本を読めていることだった。
会話が始まれば楽しそうに話す。
それでも静かに読むときは読む。
(七瀬君の図書室、少し変わりましたね)
栞はそう思いながら、返却本へ視線を戻した。
寂しい、とは少し違う。
自分しか知らなかった場所を取られたような感覚でもない。
ただ。
春樹の周りに人が増えていくことを、以前より意識するようにはなった。
その感覚に名前をつけるには。
栞自身も、まだ早かった。
◇◇◇
三十分後。
春樹は栞を挟んで本を閉じた。
「よし」
隣を見る。
雫も、ちょうど数ページ先を読んでいる。
声をかけようとして。
止める。
(読み終わるまで待つか)
春樹は黙って鞄へ本をしまった。
そのまま一分ほど。
雫がページをめくる。
さらに少しして。
本が閉じられた。
「終わった?」
「五編目まで」
「どうだった?」
「やっぱり聞くんじゃない」
「閉じたからいいだろ!」
「図書室」
「あ」
春樹は口を閉じる。
カウンターから栞の笑いを堪える気配がした。
「帰ろう」
雫が小声で言う。
「うん」
二人は図書室を出る。
廊下へ出た瞬間。
「で?」
「早い!」
「もう図書室じゃない」
「せめて階段まで待ちなさいよ」
「気になるんだよ」
「春樹」
「はい」
雫は呆れながらも笑っていた。
「五編目ね。私、たぶん今までで一番好き」
「マジ?」
「うん」
「どこ?」
「最後じゃなくて、その少し前」
「ああ!」
春樹の顔が明るくなる。
「公園のところ?」
「そう!」
「分かる! あそこさ――」
二人は階段を下りながら話し始める。
春樹は身振りまで交え、雫は途中で「声大きい」と笑いながら注意する。
窓の外では、サッカー部の練習が再開していた。
少し前まで春樹が立っていたグラウンド。
今はもう、そこに春樹はいない。
体育着から制服へ戻り、鞄には本が入っていて、隣には雫がいる。
サッカーをしていた春樹も。
本について止まらなくなる春樹も。
どちらかが本物で、どちらかが意外な一面というわけではない。
どちらも七瀬春樹だった。
そして。
本人だけが、まだ気づいていない。
自分がただ好きなことをしているだけなのに。
それを見る人たちの中で、少しずつ。
七瀬春樹という一人の男子を見る目が、変わり始めていることに。




