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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第22話 サッカーに出ると決めただけなのに、どうして見に来る人が増えてるんだ?



 木曜日の夜、七瀬春樹は自室のベッドへ背中を預けながら、スマートフォンの画面に表示された時刻を見つめていた。午後十時十二分。机の上には学校から帰ってから読み進めていた文庫本が伏せて置かれており、本当なら今頃、その続きを読んでいる予定だった。


『だから、五編目の最後じゃなくて、その前の公園のところが好きなの』


「それは聞いた。俺もあそこ好きだって言っただろ?」


『違うの。そのあと考えたら、やっぱりちょっと違うかもって思って』


「何が?」


 スマートフォンの向こうから、わずかな沈黙が返ってくる。相手は雫だった。


 学校から一緒に帰る途中にも、連作短編集の五編目について散々話した。それでも家へ帰ってから続きを少し読み返したらしく、雫から届いたメッセージをきっかけに電話が始まり、気づけばずいぶん長く話している。


『あの人って、自分から誰かに頼るのが苦手だったじゃない?』


「うん」


『だから公園で待ってたのも、私は最初、相手に来てほしかったからだと思ったの。でも読み返したら、来てほしいっていうより……来なくても自分がそこにいるって決めたことの方が大事だったのかなって』


「あー……それ、分かるかも」


 春樹はベッドへ預けていた身体を起こした。伏せていた本へ伸びかけた手も自然と止まり、頭の中では五編目の公園の場面が鮮明に蘇ってくる。


「俺は最初からそっち寄りで読んでた。待つこと自体が答えというか、来るかどうかを相手に委ねてるように見えて、実際は自分で選んでるんだよ」


『やっぱりそう?』


「でも雫の最初の読み方も間違ってないと思う。来てほしくないなら、そもそも待たないし。だから多分、両方あるんじゃない? 自分でそこにいるって決めたけど、来てほしい気持ちもある。片方だけにすると、あの場面ちょっと綺麗すぎる気がする」


 電話の向こうが静かになったため、春樹はスマートフォンを耳へ当てたまま首を傾げた。


「雫?」


『聞いてる』


「ならいいけど」


『春樹ってさ、こういう話するとき、本当に楽しそうだよね』


「楽しいからな」


『サッカーしてたときも楽しそうだったけど』


「それは……まあ、楽しかった」


『やっぱり』


「何だよ」


『別に』


「またそれ?」


 春樹は笑いながら枕を背中へ押し込んだ。午後にグラウンドを走った疲労が今になって脚へ残り始め、太腿には普段の放課後にはない重さがある。


「でも明日は筋肉痛かも」


『えっ』


「何だよ、その反応」


『春樹でもなるんだと思って』


「なるよ! 一年以上まともにやってないんだぞ!」


『でも今日、普通に動いてたじゃない』


「三十分ちょっとだからな。あれを二時間やれって言われたら無理」


『昔はやってたのにね』


「昔の俺と今の俺を一緒にするな。今の俺は放課後二時間あったら百ページ以上読める人間なんだよ」


『基準が本なのよ』


「俺だからな」


 雫が電話の向こうで笑い、その声につられるように春樹の口元も緩んだ。電話を始めてからすでに二十分近く経っているが、不思議と以前のような焦りはない。


(……これも読書の延長ってことにしたからな)


 自分の中でそう分類してしまうと、「本を読む時間を奪われている」という感覚がずいぶん薄くなった。もちろん一時間も二時間も話していれば、その分だけ実際に本を読む時間は減るのだから限度はあるし、そこまで譲るつもりもない。


「雫、あと十分な」


『読書?』


「読書」


『はいはい』


「何だよ、その分かってましたみたいな返事」


『分かってたから』


「……まあ、お前なら分かるか」


 何気なく口にした言葉だったが、電話の向こうから返事が来るまでに、ほんの少しだけ間があった。


『そうね。それくらいは分かる』


 聞こえてきた声は、先ほどよりわずかに柔らかかった。


     ◇◇◇


 翌朝、家を出て数分ほど歩いたところで、春樹は右の太腿に残る鈍い張りを感じて顔をしかめた。


「痛い」


「ほら」


 隣を歩く雫が、予想通りだったと言わんばかりに笑う。


「笑うな」


「昨日言った通りじゃない」


「言ったの俺だよ!」


「でも本当になったじゃない」


「軽くだから。普通に歩ける」


「階段は?」


「問題ない」


「走るのは?」


「今日走る予定ないだろ」


「体育あるけど」


「……今日あったっけ?」


「四時間目」


 春樹の足がわずかに止まりかけるのを見て、雫が呆れたような目を向けてきた。


「忘れてた?」


「時間割を全部記憶する必要ないだろ。教室行けば分かる」


「あるでしょ」


「必要な教科書は学校にある」


「置き勉してるからでしょ」


「合理的と言ってくれ」


 そんなやり取りをしながら校門を抜け、昇降口へ向かっていると、前方から見覚えのある黒いポニーテールが揺れながら近づいてきた。


「おはよう」


 九条凛だった。


「おはよう、九条」


「おはよう」


 雫も挨拶を返す。凛は二人へ軽く頷き、そのまますれ違いかけたところで春樹の足運びに気づいたらしく、数歩進む前に立ち止まった。


「七瀬、歩き方が少し変だぞ」


「分かる?」


「右を庇っている。怪我ではないのか?」


「違う違う。筋肉痛。昨日サッカーしたから」


「ああ、神谷と練習すると言っていたな」


「三十分だけのはずだったんだけど、あいつが勝手に人数増やしてミニゲームまでやらされた」


「お前なら断れただろう」


「途中から楽しくなった」


「なら神谷だけの責任ではないな」


「正論で殴るなよ」


「殴ってはいない」


「九条の場合、比喩じゃなくても強そうだから怖いんだよ」


「七瀬」


「冗談です」


 春樹が笑うと、凛は呆れたように息を吐いた。


「だが、急に運動量を戻すな。昔できたことと、今できることは別だ」


「雫と同じこと言う」


「西条も?」


「昨日から体力落ちてるって話してる」


「なら聞いておけ」


「二対一はずるくない?」


「多数決の問題ではない」


「はいはい。気をつけます」


 最後には素直に頷いた春樹を見て、凛はわずかに目を細めた。


 以前なら、注意をすれば何か一つくらい屁理屈が返ってくると思っていたし、実際に今も十分なほど返ってきている。それでも春樹は、言われた内容そのものが正しいと思えば最後には受け入れる。歩きながら本を読む危険性を指摘したときもそうだった。


「……ならいい」


「九条」


「何だ?」


「今ちょっと『こいつ意外と素直だな』って思った?」


「なぜ分かった」


「本当に思ってたの!?」


 春樹の声に雫が吹き出し、凛もほんの少しだけ口元を緩める。


「顔に出てた?」


「いや、何となく」


「お前は時々、妙なところで察しがいいな」


「他人のことなら割と分かるんだよ」


「……そうか」


 凛の視線が一瞬だけ雫へ向かったが、当の雫は気づいていない。もちろん春樹も、その視線にどんな意味が含まれているかまでは考えなかった。


「そういえば、森下が礼を言っていた」


「森下?」


「数学だ」


「ああ。どうだった?」


「この前の小テストは前よりできたらしい。本人がお前に直接言うと言っていたが、まだ会えていないそうだ」


「わざわざいいのに」


「そう言うと思った」


「だって九条から聞いたし」


「それでも本人は言いたいんだろう」


「じゃあ会ったら聞くよ」


 春樹が軽く答えると、凛は小さく頷いた。こういう反応にも、もう以前ほど驚かなくなっている。


「では私は行く」


「おう」


「またね、凛」


「ああ」


 校舎へ向かって歩き出した凛の背中へ、すぐに春樹と雫の会話が追いかけてくる。


「雫、今日体育何やるんだっけ?」


「男子はバスケじゃなかった?」


「筋肉痛にバスケは嫌だなぁ……」


「自業自得」


 凛は振り返らなかったが、口元にはかすかな笑みが残っていた。


(サッカーもできて、勉強も教えられて、それでも本人は本を読んでいたいだけ、か)


 以前なら、ただ理解しづらい人間だと思っていただろう。今も変わっているという評価自体は変わらないが、七瀬春樹という人間を、それだけの言葉で片づけることはできなくなっていた。


     ◇◇◇


 朝のホームルームで、永山剛志は出席簿を閉じると、黒板の端へ大きく「スポーツ交流会」と書いた。


「昨日までに競技希望を出してもらったが、人数の偏りが出た」


「でしょうね」


 春樹が何気なく呟くと、永山の視線がすぐに飛んでくる。


「七瀬」


「はい?」


「まだ何も言ってないぞ」


「でも偏るだろうなと思って」


「正解だ」


「ほら」


「嬉しそうにするな」


 教室に笑いが起こる中、永山は黒板へ競技名を書き足していった。


「特に男子はサッカーとバスケが多い。女子はバレーが少し多く、卓球は男女とも少なめだ」


「先生」


 後方の男子が手を上げる。


「リレーは?」


「リレーは希望者と各競技の人数を見て後で決める。兼任する奴が出る可能性もあるから、今の段階では確定させない」


「えー」


「文句言うな。全員最低一競技だ」


 教室にざわめきが広がる中、春樹は机の中へ手を入れ、隙を見て本を取り出そうとした。


「七瀬」


「まだ出してません」


「手を止めろ」


「触っただけです」


「今からお前の名前が出る」


「嫌な予感しかしない」


 永山は名簿へ視線を落とした。


「サッカー希望者、十一人」


「多いですね」


「一クラスで十一人は多い」


「じゃあ俺、卓球に移れば――」


「移すとは言ってない」


「先読み失敗した」


 また教室に笑いが起こる。


「今年のサッカーは生徒会側で試合時間と交代方式を調整している。人数が多い場合でも、できる限り交代で全員を出場させる方向だ」


「全員?」


「できる限りな。まだ最終決定ではない」


 その説明を聞きながら、春樹は昨日、一ノ瀬怜華と話した内容を思い出した。経験者だけが長時間出続けるより、交代を増やして多くの生徒がボールへ触れた方がいい。自分も確かに、そんな意見を口にした。


「それで七瀬、お前はサッカーでいいな?」


「希望出したんだから、人数的に問題ないなら」


「分かった。現時点ではサッカー組に入れる。ただし最終確定は生徒会との調整後だ」


「了解です」


「あと、神谷から聞いた」


 春樹の眉がぴくりと動いた。


「先生、蓮と連絡取りすぎじゃない?」


「学校内で会っただけだ」


「何を聞いたんです?」


「昨日、お前が普通に動けていたと」


「報告いらないだろ!」


 教室中から笑いが起こる。


「七瀬、サッカー上手いの?」


 前の席の男子が振り返る。


「普通」


「神谷が普通って言ってないぞ」


「蓮の評価は大げさなんだよ」


「昨日サッカー部とやったんだろ?」


「ちょっとだけ」


「じゃあ交流会、勝てるんじゃね?」


「待て待て。俺一人で試合するわけじゃないんだから、俺が出るイコール勝てるにはならないぞ。そもそも他クラスにも経験者いるし、蓮なんか普通にサッカー部だし」


「でも経験者なんだろ?」


「それはそうだけど」


「ポジションどこ?」


「中学のときは中盤が多かった」


「やっぱ司令塔系?」


「そんな格好いい呼び方するほどじゃない」


「七瀬、昨日めっちゃ周り見てたよ」


 雫が自然に口を挟んだため、春樹は思わず横を向いた。


「何でお前が宣伝するんだよ」


「本当のことでしょ?」


「そうだけど」


「西条、見に行ったの?」


 佐藤美咲がすぐに食いつき、雫の動きが一瞬止まった。


「あ……うん。ちょっとだけ」


「へえー」


「何、その顔」


「別に?」


「絶対何かある」


「土曜は二人で本屋、昨日はサッカー見学かぁ」


「佐藤!」


 その言葉に近くの生徒たちまで反応し、「え、二人で本屋?」「デート?」と声が重なった。


「違う!」


 春樹と雫の声がほとんど同時に響き、そのあまりの息の合い方に、今度は教室全体から笑いが起こる。


「何で笑うんだよ!」


「七瀬、息ぴったりじゃん」


「幼馴染なんだからこれくらい普通だろ!」


「はいはい」


「その『はいはい』やめろ!」


 教卓の前で様子を見ていた永山は、笑いを堪えるように額を押さえてから黒板を軽く叩いた。


「お前ら、そろそろ話を戻すぞ」


「先生、止めるの遅くないですか?」


「面白かったからな」


「教師!」


「静かにしろ」


「理不尽!」


 まだ笑いの残る教室で、永山は競技調整についての説明を続けていった。


 雫は頬杖をつきながら前を向いていたが、さっき聞こえた「デート」という言葉だけが妙に耳の奥へ残っていた。


 土曜日にも言われた。そのときも違うとすぐに否定したし、今だって違うと思っている。春樹もまったく同じように否定しているのだから、自分だけが意識する必要などない。


(本屋に行っただけだし)


 そう考えてみても、二度目に同じ言葉を向けられたせいなのか、前より少しだけ気になってしまう。


 雫は答えを探す代わりに、机の中へ入れてある連作短編集へそっと指先を触れた。


     ◇◇◇


 昼休み。


「春樹先輩!」


 教室の扉から聞こえてきた声に、春樹は弁当箱の蓋を開けながら顔を上げた。


「声で分かるようになってきたな」


「すごい! 愛ですね!」


「違う。音量と呼び方が特徴的なんだよ」


「即否定!」


「あと愛って便利に使う言葉じゃないぞ」


「じゃあ親しみ!」


「それならまあ」


「認めた!」


「そこまで喜ぶこと?」


 楽しそうに教室へ入ってきた小日向ひよりの後ろには、新海真実もいた。


「こんにちは、七瀬先輩」


「おう。新海も一緒?」


「廊下で捕まりました」


「捕まえました!」


「言い方」


 真実が苦笑し、雫は二人が座れるように机を少しずらした。


「ひより、今日は小テストないの?」


「大丈夫です!」


「本当に?」


「朝確認しました!」


「成長したな」


「春樹先輩まで!」


 ひよりが頬を膨らませると、向かい側でパンを開けていた悠斗が笑った。


「七瀬の昼休み、最近一年生まで普通に来るようになったな」


「俺も不思議」


「原因お前だろ」


「俺、呼んでないぞ」


「呼ばなくても来るんだよ」


「何で?」


「知らねえよ!」


「高坂先輩、ツッコミ大変ですね」


 ひよりが楽しそうに言う。


「分かってくれるか、小日向」


「はい!」


「こいつ、本の話になるともっと面倒だからな」


「知ってます!」


「何で嬉しそうなんだよ」


 春樹は卵焼きを箸で持ち上げながら首を傾げた。


「そういえば、小日向。次に読みたいって言ってた連作短編集だけど、今雫が五編目まで行った」


「おお!」


「今日か明日には終わるんじゃない?」


 春樹が雫へ視線を向けると、雫は少し考えてから頷いた。


「多分今日」


「じゃあ次、私ですか?」


「雫がいいなら」


「いいよ。読み終わったら春樹に返して、そのあと貸してもらえば?」


「やった!」


 ひよりが両手を小さく上げる横で、真実は少し驚いたように目を瞬いた。


「小日向さん、あれ読むの?」


「はい。真実先輩も読んだんですよね?」


「先輩やめてって言ってるでしょう。同学年だから」


「でも真実先輩って感じなんです!」


「どういう感じなの……」


「分かる」


 春樹が頷く。


「七瀬先輩まで?」


「新海ってしっかりしてるからな」


「ほら!」


「ほらじゃないです」


 真実は困ったように笑ってから、ひよりへ視線を戻した。


「でも、連作短編集は面白かったよ。最初は一つずつ別の話に見えるんだけど、読んでいくと少しずつ――」


「新海、そこまで」


 春樹が途中で止めると、真実もすぐに気づいたらしく口元を押さえた。


「あ……」


「小日向、知らない方が面白いと思う」


「分かりました! 忘れます!」


「今聞いたばかりで忘れられる?」


「努力します!」


「無理だろ」


 周囲に笑いが広がり、真実も申し訳なさそうに笑った。


「すみません」


「いや、それくらいなら大丈夫。ただ、あの本はできるだけ知らずに読む方が面白いと思うんだよ」


「七瀬先輩、そういうところ細かいですよね」


「ネタバレは重大問題だから」


「本が絡むと本当に真剣だなぁ」


 ひよりが感心したように言う。


「小日向、お前昨日一冊読み終わったばっかりなのに次行くんだな」


「面白かったので!」


「いい傾向だ」


「先生みたい」


「俺、別に読書普及委員じゃないけど」


「でも人に本勧めるの好きですよね?」


 真実に言われ、春樹の箸が少しだけ止まった。


「……最近そうかも」


「最近?」


「前は自分が読む方が優先だったから」


「今もそうじゃないですか?」


「今もそう」


「じゃあ同じでは?」


「違うんだよ、新海」


 春樹はどう説明するか考えながら箸を置いた。


「前は、人に本を勧めるなら俺が好きな本をそのまま勧めればいいと思ってたんだけど、最近はその人が何を好きか考えて選ぶ方が面白くなってきた」


「私のときも?」


「もちろん」


「私も?」


 ひよりが身を乗り出す。


「小日向は特に分かりやすい。厚い本は嫌、暗すぎるのも怖いのも嫌。会話が多い方が読みやすくて、ちょっと笑える方がいい。恋愛はあってもいいけど重すぎない方が好き」


「すごい!」


「全部お前が言ったんだよ」


「覚えてるのがすごいです!」


 春樹は不思議そうに首を傾げた。


「本選ぶなら覚えてないと選べないだろ?」


 ひよりはすぐに返事をせず、一度だけ視線を落とした。いつもの明るさが消えたわけではないが、その表情には一瞬だけ静かなものが混じる。


「……春樹先輩って、そういうの普通に覚えてるんですね」


「必要な情報だからな」


「必要……」


「本選びに」


「あ、はい」


 ひよりはなぜか二度頷いた。


 真実はその横顔を見ながら、自分にも似た経験があったことを思い出していた。以前話したことを春樹が覚えていて、自分がどんな本を読みやすいのか、どこで引っかかり、何を面白いと思ったのかまで、本を選ぶための情報として残している。


 春樹本人にとっては、ただ相手に合う本を探すための材料なのだろう。


(……でも、覚えてもらってる側は、ちょっと嬉しいんだよね)


 真実はそんなことを考えながら弁当へ視線を戻したが、春樹本人は何も気づかず、今度は雫へ話しかけていた。


「雫、六編目まで読み終わったら先に俺へ返して。小日向に貸す前に状態確認するから」


「図書館の本じゃないんだから」


「俺の本だから大事なんだよ」


「私が汚すと思ってる?」


「思ってない。でも貸す相手増えるなら一応」


「はいはい」


「あと小日向、風呂で読むなよ」


「読みません!」


「飲み物こぼすな」


「子供じゃないです!」


「ページ折るな。本を開いたまま伏せるのも――」


「春樹、過保護」


 雫に止められ、春樹は心外そうな顔をした。


「本には過保護でいいんだよ」


「やっぱり読書普及委員じゃなくて、本の保護委員ですね」


 真実が言うと、ひよりが「上手い!」と笑い、悠斗までパンを持ったまま吹き出した。


「新海、七瀬の扱い上手くなったな」


「高坂」


「何だよ」


「それ褒めてる?」


「褒めてる」


「ならいい」


「そこは受け入れるんだ……」


 昼休みの教室に、しばらく笑い声が広がっていた。


     ◇◇◇


 四時間目の体育。


 体育館へ移動した春樹は、準備運動をしながら太腿をゆっくり伸ばしていた。


「七瀬、大丈夫か?」


 隣にいたクラスメイトが心配そうに尋ねる。


「軽い筋肉痛だけ」


「休む?」


「そこまでじゃないよ。無理しなきゃ平気」


 男子体育はバスケットボールで、授業前半はシュートとパスの練習、後半は短時間のゲーム形式になった。春樹としては昨日サッカーをしたばかりなのだから、今日は無理に走らず適当に流すつもりだった。


 本当に、そのつもりだった。


「七瀬!」


「はい!」


 味方から飛んできたパスを受けた瞬間、春樹の視線がコート全体を走る。正面に守備が一人、左に味方が一人、右奥には別の味方がフリーになりかけている。


 春樹が一度左へ顔を向けると、守備の意識がそちらへ寄った。その瞬間に右へボールを送り、受けた味方がそのままシュートを決める。


「ナイス!」


 得点した男子が手を上げる。


「……七瀬、サッカーと同じことしてない?」


「球技って似てるところあるから」


「お前、バスケも上手いじゃん」


「普通だって」


「その普通、もう信用しねえ」


「何でだよ!」


 体育館の反対側では女子も別のコートを使っていた。


 休憩に入った雫は、タオルで額の汗を押さえながら男子側へ視線を向ける。春樹は派手に一人で攻め込むのではなく、相手の動きを見ながら空いた味方へボールを回していた。


「春樹って、バスケでもあんな感じなんだ」


 隣にいた紗弥が感心したように言う。


「そうみたい」


「自分で行けそうなのに」


「サッカーもそうだよ」


「昨日言ってたね」


「うん。昔から」


 雫は少し笑った。


 その「昔から」という言葉が、最近は以前と違う響きを持っている気がする。


 昔から知っている。それは雫にとってずっと当たり前であり、誰にも取られない、自分だけが持っている長い時間でもあった。だからこそ、他の誰かが春樹の新しい一面を知ると、理由の分からない落ち着かなさを覚えることもあった。


 今も、まったく何も感じないわけではない。


 けれど昨日、グラウンドでサッカーをする春樹を見て、今日こうして体育館で同じように周囲を見ながら動く春樹を見ていると、少しだけ考え方が変わってきていた。


(私が知ってる春樹を、他の人も知るだけなんだ)


 誰かが春樹を知ったからといって、自分が一緒に過ごしてきた時間が消えるわけではない。むしろ他の誰かが春樹のことを褒めていると、少しだけ誇らしい気持ちになる。


「西条」


「ん?」


「また嬉しそう」


 紗弥に言われ、雫は眉を寄せた。


「紗弥、最近そればっかり」


「だって分かりやすいんだもん」


「……そんなに?」


「七瀬のことになると、ちょっと」


「ちょっとって何よ」


「さあ?」


 紗弥は楽しそうに笑いながら、逃げるようにコートへ戻っていった。


「ちょっとって何……」


 雫は小さく呟きながら春樹へ視線を戻したが、その答えを今すぐ出す必要はないような気もしていた。


     ◇◇◇


 放課後、春樹が教室で鞄へ本を入れていると、廊下側が少しざわついた。


「七瀬君」


 聞き覚えのある落ち着いた声に顔を上げると、教室の入口に一ノ瀬怜華が立っていた。


 生徒会長であり、成績優秀で教師からの信頼も厚い三年生が二年三組へ直接やって来たことで、教室に残っていた生徒たちの視線が自然と集まる。


「はい?」


「少しいい?」


「俺ですか?」


「他に七瀬君はいないでしょう?」


「いや、そうですけど。スポーツ交流会ですか?」


「察しがいいわね」


「一ノ瀬先輩が俺に用事あるなら、それくらいしか思いつかないので」


「寂しいことを言うのね」


「昨日初めてまともに話した人に言われても」


 教室の空気が一瞬だけ止まった。


 怜華は整った笑顔を崩さず、春樹も特別なことを言ったつもりはない。少し離れたところでは、佐藤美咲が雫へ声を潜めていた。


「七瀬、生徒会長にもあんな感じなの?」


「春樹だから」


「説明になってない」


「私にも分からない」


 怜華は周囲の反応にも気づいている様子だったが、あえて触れずに話を続けた。


「昨日の話を受けて、サッカーの運用がほぼ決まったの」


「本当に俺に報告必要です?」


「一部、あなたの意見が採用されたから」


「え」


「前後半を短くして、交代回数を増やす方向。経験者だけに出場時間が偏らないようにする」


「それならいいと思います」


「でしょう?」


「でも、それ俺じゃなくても言いそうですけど」


「言う人はいるでしょうね」


「じゃあ俺に報告しなくてもよかったんじゃ」


「そこまで私と話したくない?」


「そうじゃなくて」


 春樹は少し困ったように眉を下げた。


「先輩、忙しいでしょ。わざわざ三年の教室からここまで来る必要あったのかなって」


 怜華は一瞬だけ言葉を止め、春樹の顔を見つめた。


「……七瀬君。あなた、私が忙しいかどうか心配しているの?」


「生徒会長って忙しそうだから」


「私がわざわざ来たのが不思議、ではなく?」


「それもあります」


「どちらが先?」


「半々」


 怜華は数秒ほど春樹を見つめたあと、いつもの整った微笑みとは少し違う、形の崩れた笑みを漏らした。


「ふふっ。やっぱり面白いわね、あなた」


「またそれですか」


「嫌?」


「何が面白いのか分からないだけです」


「それを教えたら、つまらなくなりそうだから教えない」


「性格悪いですね」


「生徒会長にそんなこと言う?」


「本人が楽しんでるなら」


 怜華の目が、ほんのわずかに細くなった。


「……本当に見てるわね」


「何を?」


「こっちの話」


「はあ」


「それと、もう一つ。来週、各クラスの競技代表を集めて簡単な説明をする予定なの」


「代表?」


「連絡係に近いわ。サッカーは各クラス一人」


「俺じゃないですよね?」


「どうして?」


「面倒だから」


「即答なのね」


「本読む時間減るじゃないですか」


「安心して。まだ決まっていないわ」


「よかった」


「でも、担任推薦も受け付ける予定」


 その瞬間、春樹の顔から安心した色が消えた。


「……永山先生」


「まだ何も言ってないわよ?」


「嫌な予感がする」


 怜華は楽しそうに笑った。


「では、報告は以上」


「わざわざありがとうございます」


「どういたしまして」


 怜華が教室を出ていくと、春樹はその背中を見送りながら小さく息を吐いた。


「変わった先輩だな」


「春樹」


 雫が近づいてくる。


「何?」


「一ノ瀬先輩と仲いいの?」


「どこを見てそう思った?」


「普通に話してたから」


「昨日初めてまともに話したって今言っただろ」


「でも向こう、春樹のこと面白いって」


「俺も意味分からない」


「ふうん」


「何?」


「別に」


「また!」


 春樹は思わず頭を抱えた。


「今日何回目だよ、それ!」


「知らない」


「最近みんな俺に説明不足じゃない?」


「春樹が気づかなすぎるときもあるんじゃない?」


「何に?」


「……そういうところ」


「だから何だよ!」


 教室の後ろでは美咲が笑い、その隣にいた小川梨奈も春樹と雫を見ながら肩を震わせていた。


「何でお前らまで笑ってるんだよ!」


「七瀬って本当に面白いね」


「一ノ瀬先輩と同じこと言うな!」


     ◇◇◇


 二年三組から少し離れた階段を上りながら、一ノ瀬怜華は手元の資料を軽く整えていた。


 本来なら、先ほどの報告は担任を通して伝えれば済む。七瀬春樹へ直接知らせる必要などなく、それは本人が言った通りだった。


(分かっているのに、そこから先へ行かないのね)


 自分がわざわざ教室まで来たことを不思議には思っている。それでも、「なぜ自分に興味を持ったのか」という方向へは考えず、先に生徒会長は忙しいだろうと心配してくる。


「変な子」


 怜華は誰にも聞こえない声で呟いた。


 昨日は、自分の笑顔を見て、こちらが会話を面白がっていると見抜いた。今日もまた、こちらが春樹とのやり取りを楽しんでいることを当然のように指摘してきた。


 学校では、多くの生徒が一ノ瀬怜華を「完璧な生徒会長」として見る。それは自分が望んで作り上げた立場でもあり、別に苦痛ではない。人に信頼されることは嫌いではなく、期待されれば応えようとも思う。


 ただ、七瀬春樹はそこばかりを見ていない。


(本当に面白い)


 もちろん、恋などではない。そんなものを考えるほど、まだ互いのことを知らない。


 ただ少しだけ、もう一度くらい反応を見てみたい。今は、その程度の興味だった。


 怜華は手元の資料へ視線を落とした。来週予定している競技代表者向けの説明会について書かれた名簿には、まだ空欄が多く、サッカー代表も決まっていない。


「担任推薦、ね」


 生徒会長が個人的な興味だけで代表者を決めるわけにはいかないし、そんなつもりもない。


 けれど、もし永山剛志が七瀬春樹を推薦してきたなら。


(そのときは、止める理由もないわね)


 怜華の口元には、ほんのわずかな笑みが残っていた。


     ◇◇◇


 放課後の図書室へ入ると、紙と本の匂いに混じって、開いた窓から入り込む六月の風が頬を撫でた。今日は雫が委員の仕事で少し遅れるため、春樹は一人でやって来ている。


「こんにちは」


 カウンターにいた栞が顔を上げる。


「こんにちは、白石先輩」


「今日はサッカーしないんですね」


「毎日やったら部活ですよ」


「確かに」


「俺は帰宅部です」


「図書室部では?」


「それなら入ります」


「部活動になったら毎日活動ですよ」


「……退部します」


 春樹が真剣な顔で答えたため、栞は思わず吹き出した。


「判断が早いです」


「読書を義務にされたくないんですよ。読みたいときに読みたい本を読むのがいいんです」


「七瀬君らしいですね」


 春樹はいつもの窓際へ向かい、鞄を置いてから一冊の本を取り出した。朝からずっと続きを読みたかった本で、ようやく開けると思うと、それだけで気分が上がる。


「そんなに嬉しいですか?」


「嬉しいですよ。昼は小日向たち来たし、放課後は一ノ瀬先輩来たし」


「一ノ瀬先輩?」


「スポーツ交流会の話です」


「また?」


「またです」


 栞が少し首を傾げた。


「気に入られました?」


 春樹の手が止まる。


「白石先輩まで何言ってるんですか」


「違いますか?」


「昨日初めてまともに話したんですよ」


「でも、一ノ瀬先輩がわざわざ二年生の教室へ?」


「運営の報告です」


「担任の先生経由でもよさそうですね」


「俺もそう言いました」


「それで?」


「面白いって言われました」


 栞は少し考えるように黙ったあと、静かに答えた。


「……気に入られているのでは?」


「白石先輩」


「はい」


「一ノ瀬先輩と同学年だからって、適当なこと言ってません?」


「言ってません。一ノ瀬先輩、興味がない人をわざわざからかいに行くほど暇ではないので」


 春樹はその言葉をしばらく考えた。


「つまり、変な後輩として興味持たれた?」


「多分」


「あー、それなら分かる」


「分かるんですか?」


「俺、先生にも変って言われるし」


「そこを受け入れるんですね」


「事実なら仕方ない」


 栞は困ったように笑った。


「まあいいや。読む」


「はい」


 春樹が本を開きかけたところで、栞がもう一度だけ声をかける。


「七瀬君、一つだけ」


「何です?」


「一ノ瀬先輩、悪い人ではないですよ」


「知ってますよ」


 春樹は本から顔を上げた。


「昨日話した感じで、そこは分かりました。人をからかうのは好きそうだけど、相手が本気で嫌がるところまでやる人には見えなかったし、生徒会の仕事もちゃんとやってるみたいだし」


 栞は少し驚いたように目を瞬いた。


「……そこまで分かったんですか?」


「話せば何となく」


「七瀬君、やっぱり他人のことはよく見ていますね」


「でしょ?」


「はい」


 栞は穏やかに笑った。


 その笑顔にどんな意味が含まれているのかまでは、春樹には分からない。


「じゃあ今度こそ読みます」


「どうぞ」


 ようやく静かな時間が戻り、春樹は物語の中へ意識を沈めていった。ページをめくる音と、窓の外を通り抜ける風、遠くから聞こえる運動部の声が混じり合い、十五分ほどが過ぎた頃、図書室の扉が静かに開いた。


「遅くなった」


 雫だった。


「おう。委員終わった?」


「うん」


「じゃあそこ」


 春樹は自分の隣にある椅子を指先で軽く示した。あまりにも自然な動作で、雫も何も言わずそこへ座り、鞄から連作短編集を取り出す。


「六編目?」


「今から」


「じゃあ読み終わったら――」


「図書室では話さない」


「分かってるよ」


「本当に?」


「昨日学んだ」


「昨日も同じこと言ってなかった?」


「人間は失敗から成長する生き物なんだよ」


「一日で同じ失敗しそうだけど」


「失礼な」


 二人は声を抑えて笑い、それぞれ本を開いた。


 少し離れたカウンターからその様子を見ていた栞は、春樹が最初から隣の席を雫のために空けていたことに気づいていた。雫もそこへ座ることを迷わず、まるで長い間そうしてきたように自然に収まっている。


 きっと二人にとっては、本当に特別なことではないのだろう。


(幼馴染って、こういう感じなんですね)


 栞はそう思いながら返却本へ視線を戻した。


 羨ましい、と言い切れるほど強い感情ではない。ただ、自分には持っていない時間の長さを、ほんの少しだけ意識した。


「白石先輩」


 しばらくして春樹が小声で呼んだ。


「はい?」


「この前言ってた作家の短編集、どの棚でしたっけ?」


「あ……案内します」


「ありがとうございます」


 春樹が席を立ち、栞もカウンターを出る。雫は本から一度だけ顔を上げ、その二人が並んで棚へ向かう姿を見た。


 以前なら、胸の奥にもう少し強いざわつきがあったかもしれない。今もまったく何も感じないわけではないが、栞が春樹にとって本について話せる大切な先輩であることを、雫はもう知っている。


(白石先輩は白石先輩。私は私)


 そう考えられた自分に、雫自身が少し驚いた。


 春樹の周囲に人が増えても、自分と春樹の間に積み重なったものが消えるわけではない。昨日のサッカーを見たことで、そのことを少しだけ実感できたのかもしれない。


「ありました。これです」


 栞が一冊の本を抜き取る。


「ありがとうございます。あ、思ってたより薄い」


「短編が四つですから」


「今日の候補にしようかな」


「今読んでるのは?」


「あと三十ページ」


「先にそちらを」


「もちろんです」


 二人が戻ってくると、春樹は再び雫の隣へ座った。


「何?」


 視線に気づいた春樹が尋ねる。


「別に」


「またそれ?」


「本読んで」


「言われなくても読むよ」


「じゃあ静かに」


「はいはい」


 春樹が本へ視線を落とし、雫も六編目を開く。栞はカウンターへ戻り、三人は同じ空間でそれぞれ別の本を読み始めた。


 誰も話していない。


 それでも図書室に流れる静けさは、以前とは少し違っていた。


     ◇◇◇


 四十分ほど経った頃、春樹は最後のページまで読み終え、すぐには次の本へ手を伸ばさずに物語の余韻へ浸っていた。


 派手な物語ではなかったが、最後の数ページで序盤の何気ない台詞の意味が変わる構成が気持ちいい。


(これ、栞先輩好きそうだな)


 最初にそう思い、続いて真実なら主人公より妹の方を見るかもしれない、小日向なら途中の喫茶店の店員を気に入りそうだ、と自然に考える。


 そして雫なら――と考えたところで、春樹は自分の思考に気づいた。


「……俺、最近変わったな」


 思わず小さく漏れた声を、隣の雫が拾った。


「何?」


「いや、最近、本読み終わると誰がどこ好きそうか考えるようになったなって」


「今さら?」


「今さらって」


「前からじゃない?」


「ここ最近、特にだよ」


「ふうん。嫌なの?」


「いや」


 春樹は首を振り、閉じた本の表紙を指先で撫でた。


「面白い」


「ならいいじゃない」


「そうなんだけどさ。昔なら読み終わったら、次に何を読むかしか考えてなかったんだよ」


「今は?」


「次に何を読むかと、誰に勧めるか」


「増えただけね」


「……そうなんだよな」


 春樹はその言葉を一度自分の中で転がしてから、小さく笑った。


「減ってないんだよ」


「何が?」


「俺が好きなもの。本を読むのが好きなのは変わってないけど、本の話をするのも、人に合いそうな本を選ぶのも増えた」


「うん」


「だったら、まあいいか」


「何が?」


「読書時間が多少減っても」


 雫の目が少し大きくなる。


「春樹がそれ言うの?」


「多少だからな!?」


「そこ大事?」


「めちゃくちゃ大事!」


 思わず声が大きくなり、カウンターにいる栞が人差し指を唇へ当てた。


「……すみません」


 春樹は即座に声を落とした。


 雫は隣で肩を震わせている。


「笑うなよ」


「だって」


「図書室では静かにする。分かってます」


「成長したね」


「九条にも今日似たようなこと言われた」


「凛に?」


「俺、意外と素直だって」


「意外とは言ってないでしょ」


「顔が言ってた」


「春樹、そういうのは分かるのね」


「他人のことならな」


 雫は返事をせず、口元に小さな笑みを残したまま本へ視線を落とした。


 春樹もその表情には気づいた。


(六編目、面白いんだな)


 当然のように、そう解釈した。


     ◇◇◇


 図書室を出た頃には、外の光が少しずつ橙色を帯び始めていた。二人で昇降口へ向かう廊下には運動部の掛け声が遠く響き、開いた窓から昼間より涼しい風が流れ込んでくる。


「六編目、終わった?」


「あとちょっと」


「じゃあ今日読み終わるな」


「多分」


「明日持ってくる?」


「うん」


「じゃあ小日向に渡せるか」


「その前に春樹に返すんでしょ?」


「状態確認」


「本当にするの?」


「する」


「信用ないなぁ」


「雫じゃなくて、本を貸すときの習慣」


「はいはい」


 靴を履き替えて外へ出ると、夕方の風が制服の裾を揺らした。


「そういえば、交流会のサッカー、ほぼ決まりなんでしょ?」


「人数調整次第だけどな」


「また練習する?」


「どうだろ。蓮は誘ってきそうだけど、毎日はやらないぞ」


「クラスでも合わせるんじゃない?」


「それは必要かもな」


 春樹が今後の予定を考えている横で、雫は少し迷ってから尋ねた。


「見に行っていい?」


「また?」


「嫌?」


「別に嫌じゃないけど、そんなサッカー好きだったっけ?」


「サッカーが見たいんじゃない」


「じゃあ何?」


 問い返された瞬間、雫の歩調がほんの少しだけ緩んだ。


 言おうと思えば言える。


 春樹がサッカーをしているところを見たい。昨日だって、そう言った。


 けれど今日は、その言葉が昨日より少し違う意味に聞こえてしまう気がした。


「……春樹がやってるから」


「俺?」


「昔から見てたし」


「ああ、懐かしい?」


「それもある」


「じゃあ好きに見に来れば?」


「うん」


「ただ、毎回は来なくていいぞ。俺も毎日やる気ないし、読書時間なくなるから」


「分かってる。それも含めて春樹でしょ」


「さすが幼馴染」


 春樹が何の迷いもなく笑う。


 雫も笑い返したが、胸の奥では、その「幼馴染」という言葉がほんの少しだけ引っかかっていた。


 嫌なわけではない。


 幼馴染であることは大切で、誰より長く春樹を知っていることを嬉しいとも思っている。それなのに最近、その言葉だけですべてを説明されると、何かがほんの少しだけ足りないように感じる。


(……何でだろ)


 まだ、その先にある答えは分からない。


「雫?」


「何?」


「ちょっと遅れてる」


「あ」


 考えている間に春樹が二歩ほど先へ進んでいた。雫が少し早足で追いつくと、春樹も自然に歩調を緩めて隣へ並ぶ。


「どうした?」


「何でもない」


「またそれ?」


「今日はいいの。ほら、帰るよ」


「何だよそれ」


 二人は並んだまま、夕方の住宅街を歩いていく。


 春樹の頭の中には、帰ったら何を読むか、雫が連作短編集を読み終えたらどんな感想を聞けるのか、小日向にはどこまで事前情報を与えずに貸すべきかと、本に関する考えが次々と浮かんでいた。


 その隣で雫は一度だけ春樹の横顔を見てから、何も言わず前を向く。


 昔から歩いてきた帰り道で、昔から隣にいる幼馴染と一緒に帰っている。


 何も変わっていないはずなのに、最近はその「変わらない」という言葉だけでは説明できないものが、雫の中に少しずつ増えていた。


 それが何なのか。


 雫はまだ、その感情につける名前を知らなかった。

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