第23話 本を貸しただけなのに、感想を聞く相手がまた一人増えました
金曜日の朝、七瀬春樹が教室へ入ると、自分の席の上に見覚えのある一冊の本が置かれていた。
「……何で俺の本が先に登校してるんだ?」
「本だけで歩いてきたみたいに言わないで」
隣の席では、西条雫が鞄から教科書を取り出している。春樹は机の上に置かれた連作短編集と雫を交互に見たあと、ようやく状況を理解した。
「読み終わった?」
「昨日の夜にね」
「何時?」
「十一時くらい」
「結構遅いじゃん」
「誰かさんと電話してたから、読み始めるの遅くなったの」
「俺だけの責任みたいに言うなよ。電話かけてきたのお前だろ」
「最初はメッセージだったでしょ」
「そこから電話にしたのは?」
「……私だけど」
「ほら」
春樹は勝ち誇った顔で本を持ち上げ、まず表紙と背表紙を確認した。角に潰れはなく、帯もそのまま。ページを軽くめくってみても、折れや汚れは見当たらない。
その様子を横から見ていた雫が、だんだん呆れた顔になっていく。
「本当に状態確認するんだ」
「昨日言っただろ」
「私が何年、春樹から本借りてると思ってるの?」
「それとこれとは別だ。次に貸す人がいる以上、一度確認するのが貸主としての責任だろ」
「図書館の人みたい」
「図書館ほど厳密じゃないけどな」
春樹は本を閉じると、今度は雫の顔を見た。
「で?」
「何?」
「感想」
「朝から?」
「読み終わったんだろ?」
「ホームルームまであと十分もないよ」
「十分あれば導入くらい聞ける」
「感想に導入って何よ」
「最初に全体の印象、そのあと好きだった話、気になったところ、読み返して印象変わった場所とか」
「聞く気満々じゃない」
「当たり前だろ」
春樹が椅子へ座りながら机へ身を乗り出す。つい数分前まで眠そうだった目はすっかり覚めており、雫はその分かりやすい変化に小さく笑った。
「六編目、よかったよ」
「そこから?」
「昨日、五編目の話はしたでしょ。六編目は最後だから、全部読み終わったあとの印象が変わった」
「どこが一番?」
「最初の喫茶店」
春樹の目が少しだけ細くなる。
「やっぱそこ戻った?」
「うん。最初に読んだときは、本当にただの導入だと思ってた。でも最後まで読むと、あの席に座ってた人も、店員さんも、窓の外を歩いてた人も、みんな別のところでちゃんと生きてたんだって分かるから」
「そうなんだよ」
春樹は嬉しそうに頷いた。
「俺も読み終わって最初に戻った。あれ、最初の時点で全員いるんだよな。でも名前も出ないし、読者は誰が誰か分からない。最後まで読んで初めて、あの何でもない場面が六つの話の交差点だったって分かる」
「真実ちゃんが一話目を読み返したって言ってた理由、分かった」
「新海は三編目が一番好きだったけどな。白石先輩は五編目で、俺は六編目」
「みんな違うね」
「だから面白いんだよ。同じ本読んでも見るところ違うから」
春樹はそこで言葉を切り、少し考えてから雫へ尋ねた。
「雫は?」
「何が?」
「一番好きなの」
「……五編目かな」
「昨日話してた公園のやつ?」
「うん」
雫は机の端へ指先を置いたまま、昨日読んだ文章を思い返した。
「待ってる人の話だからっていうのもあるけど、相手が来るかどうかだけが大事じゃないところが好きだった。自分で待つって決めて、そこにいるのが……なんか、いいなって」
「分かる」
「春樹、昨日もそれ言った」
「好きな解釈だから何回でも言う」
「そういうところだよね」
「何が?」
「本の話になると急にしつこくなるところ」
「悪口?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「さあ?」
「最近みんなそこで逃げるな!」
少し大きくなった春樹の声に、近くで鞄を片づけていた赤木紗弥が振り返った。
「朝から楽しそうだね」
「本の感想聞いてた」
「昨日返すって言ってたやつ?」
「そう。これで小日向に回せる」
「ああ、一年生の子」
紗弥が納得したように頷いたところで、教室の後方から高坂悠斗も近づいてきた。
「何? また読書会?」
「感想会」
「同じようなもんだろ」
「全然違う」
「七瀬基準だと?」
「読書会は同じ場所で読むのも含められるけど、感想会は読み終わったあとに――」
「ごめん。聞いた俺が悪かった」
「最後まで聞けよ!」
「朝から長くなる予感しかしねえ!」
悠斗が笑いながら自分の席へ逃げると、紗弥もつられて笑う。
その直後、教室前方の扉が開き、永山剛志が出席簿と何枚かのプリントを抱えて入ってきた。
「席つけ。あと七瀬」
「まだ何もしてませんよ?」
「その返事をする時点で普段の行いを自覚してるだろ」
「失礼な。今日は本を読んでません」
「机の上にあるのは?」
「返却された本です」
「なるほど」
永山は一度頷いた。
「じゃあ没収はしない」
「先生、普段も没収してないでしょ」
「しようか?」
「結構です」
教室に笑いが広がる中、春樹は連作短編集を鞄へしまった。
「それで七瀬。ホームルーム終わったら少し残れ」
「嫌な予感がするんですけど」
「安心しろ。五分で終わる」
「五分あれば十ページ読めるんですよ」
「なら今日は十ページ分、学校運営に貢献しろ」
「何で俺が……」
春樹が不満そうに呟く一方、雫は昨日の一ノ瀬怜華とのやり取りを思い出していた。
(もしかして……)
嫌な予感がしているのは、どうやら春樹だけではなかった。
◇◇◇
ホームルーム終了後、永山の机の前に呼ばれた春樹は、一枚のプリントを渡された。
上部には『校内スポーツ交流会 競技代表者連絡会』と印刷されている。
「先生」
「何だ」
「返していいですか?」
「駄目だ」
「まだ名前も書いてませんよ」
「もう書いてある」
春樹が用紙へ目を落とすと、サッカーの欄にしっかりと『二年三組 七瀬春樹』と印刷されていた。
「印刷済み!?」
「昨日のうちに提出したからな」
「本人の同意は!?」
「今取ってる」
「順番おかしいでしょ!」
教室に残っていた生徒たちから笑いが起こる。
「代表といっても、チームのキャプテンをやれという意味じゃない。生徒会から連絡を受けて、クラスの参加者へ伝える係だ」
「一番嫌なタイプの地味な仕事じゃないですか」
「派手な仕事がしたいのか?」
「したくないです」
「ならいいだろ」
「そういう問題じゃない!」
永山は春樹の抗議を聞き流しながら、プリントの下部を指で叩いた。
「来週月曜の放課後。視聴覚室。三十分程度だ」
「三十分……」
「昨日サッカーした時間と同じくらいだな」
「それは楽しかったからいいんです」
「代表者連絡会も楽しいかもしれんぞ」
「絶対嘘だ」
「始まる前から決めつけるな」
「プリント配られて説明聞いて持ち帰る会議のどこに娯楽要素があるんですか」
「一ノ瀬が進行するらしい」
「余計嫌な予感するんですけど」
春樹が真顔になると、永山は珍しく少しだけ楽しそうに笑った。
「何だ。もう知り合いか?」
「昨日と一昨日に話しただけです」
「そうか。ならちょうどいい」
「何が?」
「話が早い」
「先生、俺を売りました?」
「人聞きの悪いことを言うな。サッカー経験者で、周りを見られて、必要なことを他人に説明できる奴を選んだだけだ」
春樹は反論しようとして口を開いたが、そこで少し止まった。
サッカー経験者というのは事実だ。周囲を見ることも昔からやっていたし、人に説明することについても、最近は後輩の勉強を見たり、本を選ぶ理由を話したりする機会が増えている。
「……他にいないんですか」
「いる。ただ、お前が向いてると思った」
「それ褒められてます?」
「褒めてる」
「だったら、まあ……」
春樹はプリントを持ったまま眉を寄せる。
(褒められたあとだと断りづらいな)
永山がそれを狙ったのかどうかは分からない。少なくとも目の前の担任は、春樹の表情を見ながら明らかに面白がっている。
「月曜だけですよね?」
「連絡会はな。その後、必要があれば連絡事項をまとめてもらう」
「増えてるじゃないですか」
「数分だ」
「先生の数分は信用しない」
「俺もお前の『一ページだけ』は信用してない」
「ぐっ……」
「お互い様だ」
言い返せなくなった春樹は、しぶしぶプリントを二つ折りにした。
「分かりましたよ。やればいいんでしょ」
「頼んだ」
「その代わり、必要以上に仕事増やさないでくださいね」
「それは生徒会に言え」
「一ノ瀬先輩に直接言います」
「そうしろ」
話が終わり、春樹が自分の席へ戻ると、雫が予想通りという顔で待っていた。
「代表になった?」
「連絡係」
「同じようなものでしょ」
「全然違う。俺は人を率いるつもりないからな」
「でも向いてるんじゃない?」
「雫まで先生側につくの?」
「だって春樹、なんだかんだ言って頼まれたことちゃんとやるし」
「……それ、最近よく言われる」
「本当のことだから」
「俺はもっと自由に本を読んでいたいんだけど」
「読めばいいじゃない」
「時間が減る」
「でも断らなかった」
「先生が褒めてから頼むっていう卑怯な手を使った」
「春樹、褒められるの弱いもんね」
「そんなことない」
「あるよ」
「ない」
「ある」
「……根拠は?」
「昔、サッカーのコーチに『春樹ならできる』って言われた次の日、いつもより早く練習行ってた」
「何年前の話だよ!」
「覚えてる」
雫が楽しそうに笑う。
「お前、本当に変なところ覚えてるよな」
「幼馴染だから」
その言葉を口にした瞬間、雫の笑顔がほんの少しだけ揺れた。
昨日から胸の奥に残っている、小さな引っかかり。
幼馴染だから知っている。幼馴染だから覚えている。それは間違っていないし、今までなら何の迷いもなく口にできた。
それでも最近は、その言葉で全部をまとめるたびに、何かを置き去りにしているような感覚が残る。
「……雫?」
「何でもない。ほら、次移動教室でしょ」
「お前、最近『何でもない』多くない?」
「春樹が気にしすぎ」
「いや、明らかに増えてると思うんだけど」
「気のせい」
「そうかなぁ……」
春樹は納得しきれない顔をしていたが、チャイムが鳴りそうになったため、それ以上追及しなかった。
◇◇◇
昼休みになると、春樹は弁当箱を机へ置いたあと、鞄から連作短編集を取り出した。
「さて」
「何、その儀式みたいな顔」
悠斗が呆れる。
「本日、長い旅を終えたこの本が次の読者へ渡ります」
「三人くらいしか読んでないだろ」
「俺、白石先輩、新海、雫だから四人」
「お前は所有者だろ」
「所有者も読者だ」
「どうでもいいわ!」
そんな会話をしているうちに、廊下から聞き慣れた声が近づいてきた。
「春樹せんぱーい!」
「ほら来た」
「何でペット呼んだみたいな言い方なんですか!」
教室へ入ってきた小日向ひよりは、春樹の机の上に置かれた本を見つけた瞬間、目を輝かせた。
「あっ!」
「雫が読み終わったから、今日から小日向な」
「やった!」
「ただし条件がある」
「何ですか?」
「風呂で読むな、飲み物の横に置くな、ページを折るな、開いたまま伏せるな、鞄に入れるとき――」
「春樹」
雫が横から止める。
「昨日と同じ説明してる」
「大事だから」
「私も言われたんですか?」
ひよりが雫へ尋ねる。
「最初はね。でも途中から言わなくなった」
「信用されてる!」
「年数が違うから」
ひよりは一瞬だけ雫を見て、それから春樹へ視線を戻した。
「じゃあ私も長く借りてれば信用されます?」
「いや、本を綺麗に扱えば一冊目から信用するよ」
「そこは本なんですね」
「他に何があるんだ?」
「ですよね!」
ひよりは笑いながら両手で本を受け取った。表紙を眺め、厚さを確認すると、以前なら少し身構えていた程度のページ数なのに、今日はすぐには嫌そうな顔をしない。
「これ、前に借りたのよりちょっと厚いですよね?」
「厚い。でも短編六つだから、一気に読まなくていい」
「一日一個でもいいですか?」
「もちろん。むしろその方が合うかも。一編ごとに主人公違うから、いったん区切れる」
「恋愛あります?」
「ある話もある。でも恋愛だけじゃない」
「怖いです?」
「怖くない」
「泣きます?」
「そこは人による」
「春樹先輩は?」
「俺は泣いてない」
「西条先輩は?」
突然振られた雫が少し考える。
「泣いてはないかな。でも五編目はちょっと……くるものあった」
「おお……」
「ただ、小日向」
春樹が人差し指を立てる。
「誰がどの話好きだったとか、今はあんまり聞かない方がいいぞ。先入観なしで読んだ方がいい」
「分かりました」
「あと登場人物の名前、全部覚えようとしなくていい。最初は――」
「春樹」
「何だよ」
「言いすぎ」
雫に再び止められ、春樹は口を閉じた。
「……確かに」
「珍しく自分で認めた」
「小日向は先に情報入れすぎると、それ追いながら読みそうだから」
「私そんなに単純ですか?」
「素直なんだよ」
「それ褒めてます?」
「褒めてる」
「じゃあいいです!」
「扱いやすいな」
「高坂先輩!」
悠斗が笑っている横で、真実もやって来た。
「渡ったんですね」
「はい!」
「読み終わったら話そうね」
「真実先輩とも!」
「だから先輩じゃないって……」
真実は苦笑しながらも、本を抱えるひよりを見てどこか嬉しそうだった。
自分が春樹から借り、読んで、雫へ渡り、今度はひよりへ渡っていく。たった一冊の本なのに、それを中心として会話する相手が少しずつ増えている。
「何かすごいですね」
「何が?」
春樹が尋ねる。
「この本、ずっと誰かのところにありますね」
「ああ」
「七瀬先輩、しばらく自分の手元にないですけど平気なんですか?」
「読みたくなったら返してもらう」
「返してって言えるんですか?」
「言うよ。俺の本だぞ」
「そこは容赦ないんですね」
「当然」
春樹は笑いながら答えたあと、ひよりが抱えている本へ視線を向けた。
確かに、ここしばらく自分の本棚へ戻ってきていない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ次に返ってくるときには、また一人分の感想が増えている。
(本そのものは同じなのに、返ってくるたびに話せることが増えるんだよな)
そんなふうに考えるようになったこと自体、少し前の自分なら想像していなかった気がする。
「春樹先輩?」
「ん?」
「絶対感想聞いてくださいね」
「もちろん」
「長くても?」
「むしろ歓迎」
「途中でよく分かんなくなっても?」
「それも感想だからいいよ。分からなかったなら、どこで分からなくなったか聞けばいいし」
「面白くなかったら?」
ひよりが少しだけ慎重な顔になる。
春樹はほとんど迷わなかった。
「それも普通に言えばいい」
「いいんですか?」
「本なんて合う合わないあるから。俺が好きでも小日向が好きとは限らないだろ」
「でも春樹先輩の本ですよ?」
「俺の本だからって褒める必要ないよ。つまらなかったら、何が合わなかったか聞けるし、次選ぶときの参考になる」
「……次も選んでくれるんですか?」
「読みたいなら」
ひよりは一瞬だけ目を丸くしたあと、本を胸元へ抱え直した。
「じゃあ、ちゃんと読みます」
「ちゃんとって、無理して最後まで読むって意味じゃないからな?」
「はい」
「合わなかったら途中で止めても――」
「春樹先輩」
「何?」
「そういうところ、やっぱり本屋さんみたいです」
「本屋は途中で読むのやめても返金してくれないぞ」
「そこじゃないです!」
ひよりの声に周囲が笑い、春樹は最後まで何が違うのか分からないまま首を傾げていた。
◇◇◇
午後の授業が終わり、春樹が図書室へ行くために廊下を歩いていると、階段の踊り場で九条凛と鉢合わせた。
「七瀬」
「九条。今日は歩き方普通だろ?」
「自分から言うな」
「朝チェックされたから」
「筋肉痛は?」
「ほぼ治った」
「若いな」
「九条も同い年だろ!」
凛は小さく笑ってから、何かを思い出したように手元のファイルを持ち直した。
「ちょうどよかった。森下がお前を探していた」
「森下?」
「昼休みに二年の教室まで来たらしいが、見つけられなかったそうだ」
「俺ずっと教室いたぞ?」
「教室を間違えたらしい」
「……一年二組から二年三組って、そんな難しい?」
「本人も落ち込んでいた。あまり言ってやるな」
「言わないよ」
「今、剣道場にいる。練習前なら少し話せると思うが」
「じゃあ行くか」
春樹が進行方向を変えたため、凛が少し意外そうな顔をした。
「図書室へ行くところではなかったのか?」
「行くけど、その前に寄る。わざわざ探してたんだろ?」
「そうだが」
「五分くらいならいいよ」
「本当に五分で済むか?」
「九条まで永山先生みたいなこと言うなよ」
「何かあったのか?」
「月曜の放課後、スポーツ交流会のサッカー代表連絡係にされた」
「代表?」
「連絡係!」
「そこにこだわるのか」
「俺はキャプテンじゃない」
「だが、適任だと思う」
「何でみんなそう言うんだよ」
凛は歩きながら少し考えた。
「お前は、自分が目立つことには興味がないが、必要なことは周りへ伝えるだろう。それに、相手に合わせて説明を変えるのも上手い」
「数学一回教えただけで評価高くない?」
「森下から聞いた。分からないところをすぐ答えず、自分で考えさせてくれたと」
「答えだけ教えても次できないからな」
「そういうところだ」
「どこ?」
「今、自分で証明した」
「納得いかない」
二人が校舎から渡り廊下を通り、剣道場へ向かう。外からは野球部の掛け声が聞こえ、湿り気を含んだ風に土の匂いが混じっていた。
剣道場の入口近くでは、一年生の女子生徒がノートを抱えて待っている。
森下だった。
「あっ、七瀬先輩!」
「おう。探してたって?」
「はい!」
森下は勢いよく頭を下げた。
「この前、ありがとうございました!」
「そんな改まらなくても」
「小テスト、七十八点でした!」
「おお。前は?」
「四十六点です」
「かなり上がったじゃん」
「はい!」
森下の顔がぱっと明るくなる。
「でも、一個だけまだ分からない問題があって……」
「持ってる?」
「あります」
ノートを開く森下の横から春樹が覗き込む。
「これか。ここ、式作るところで止まった?」
「そうです」
「じゃあ前と同じ。最初から計算しようとしないで、問題文の数字が何を表してるか書いてみて」
「はい」
春樹は答えを言わず、森下がノートへ書き込むのを待った。途中で一度だけ「そこは何の数?」と尋ねると、森下はしばらく考えてから自分で間違いに気づく。
「あっ」
「分かった?」
「ここ逆です!」
「そう」
「じゃあ……こうして……」
鉛筆が再び動き始める。
少し離れて見ていた凛は、春樹が急かさず待っている姿に目を細めた。普段の春樹は読書時間を一分でも確保したがるくせに、誰かが本当に困っている場面では、その数分を惜しまない。
(だから頼まれるんだろうな)
本人だけが、その理由をあまり分かっていない。
「できました!」
「正解」
「ありがとうございます!」
「次、似た問題出てもできそう?」
「多分!」
「多分じゃなくて?」
「……やります!」
「よし」
春樹が笑う。
「じゃあ練習頑張って」
「はい!」
森下はもう一度頭を下げてから、道場の中へ走っていった。
「七瀬」
「ん?」
「五分だったな」
「だろ?」
「珍しい」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「本が絡むと時間感覚を失う男」
「永山先生の影響受けてない?」
「事実だろう」
「否定しづらいけど!」
春樹は腕時計を確認すると、満足そうに頷いた。
「よし。図書室行く」
「そんなに急がなくても本は逃げない」
「逃げなくても時間は逃げるんだよ」
「……お前らしいな」
凛は呆れながらも、少しだけ楽しそうに笑っていた。
◇◇◇
図書室へ到着すると、白石栞はカウンターで返却された本を整理していた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は遅かったですね」
「九条に捕まってました」
「七瀬」
背後から低い声が飛んでくる。
「まだいたの!?」
「今のは訂正しろ」
「森下に数学聞かれてました!」
「最初からそう言え」
「言い方の問題じゃないですか」
「印象が違う」
凛は図書室の入口から中へは入らず、栞へ軽く会釈した。
「失礼しました」
「いえ」
「九条は読まないの?」
「部活だ」
「そっか」
「それと七瀬」
「まだ何か?」
「月曜の代表者連絡会、私も出る」
「え?」
「剣道ではなく、クラスのリレー代表だ。競技代表者全体の説明があるらしい」
「九条も巻き込まれた側?」
「私は自分で引き受けた」
「裏切り者」
「何の仲間だったんだ」
「面倒事を避けたい高校生同盟」
「入った覚えはない」
凛は呆れたように息を吐きながらも、最後には小さく笑って去っていった。
「九条さんと、ずいぶん仲良くなりましたね」
栞が言う。
「そうですか?」
「最初に見た頃よりは」
「最初って?」
「廊下で注意されていた頃です」
「ああ……」
春樹は遠い目をした。
「歩きながら本読んでた頃か」
「最近はしませんね」
「正論で怒られたので」
「素直です」
「今日それ二回目」
「誰かにも言われました?」
「九条本人に」
「ふふっ」
「何で笑うんです?」
「七瀬君らしいと思って」
「最近、その言葉便利に使われてる気がするんですよね」
春樹は不満を口にしながら、いつもの席へ向かった。
窓際の席には午後の柔らかな光が落ちている。昨日と違い、今日は隣の席も空いていた。
春樹は一瞬だけそこを見たあと、鞄から本を取り出した。
(雫、今日は来るって言ってなかったな)
来るかもしれないし、来ないかもしれない。
どちらでもいい。図書室は本を読む場所であり、一人でも十分に楽しい。
そう思って本を開いたところで、扉が勢いよく開きかけ、途中で急に速度を落とした。
「……こんにちは」
妙に抑えた声が聞こえる。
春樹は顔を上げた。
「小日向?」
入口には、昼に本を渡したばかりのひよりが立っていた。
「どうした?」
「来ちゃいました」
「何しに?」
「本、読むためです」
ひよりは胸元に連作短編集を抱えていた。
「もう?」
「一編だけ読もうかなって」
「教室でも読めるだろ」
「でも、ここなら春樹先輩いるかなと思って」
「俺がいたら何か変わる?」
「分かんなくなったら聞けます」
「読んでる途中で聞いたらネタバレするかもしれないぞ」
「じゃあ読み終わるまで聞きません!」
「それならいいけど」
春樹は向かい側の席を指した。
「座れば?」
「はい!」
「声」
「……はい」
ひよりは口元を押さえ、小声で返事をしてから椅子へ座った。
栞はカウンターから二人を見ていた。
春樹はすぐに自分の本へ戻り、ひよりも最初のページを開く。最初の数分こそひよりは落ち着かなそうに姿勢を変えていたが、やがてページをめくる間隔が一定になり、表情から余計な力が抜けていった。
昨日までなら、春樹の近くで静かに本を読む人といえば、自分か雫くらいだった。
そこへまた一人、新しい人が加わっている。
(七瀬君の周り、本当に賑やかになりましたね)
ただし今は、誰も話していない。
ページをめくる小さな音だけが、静かな図書室へ重なっている。
栞はその空気を嫌いではないと思った。
◇◇◇
三十分ほどして、ひよりが本から顔を上げた。
「……春樹先輩」
「ん?」
春樹も栞に注意されない程度の小声で返す。
「一個目、終わりました」
「どうだった?」
「何か……思ってたのと違いました」
「悪い方?」
「違います」
ひよりは本を閉じず、読み終えたページへ指を挟んだまま言葉を探した。
「もっと、一個ずつ完全に終わる話だと思ってたんです。でも最後に、最初の喫茶店の人がまた出てきて……」
「うん」
「これ、次にも誰か出ます?」
春樹は少し笑った。
「それは読め」
「ですよね!」
「ただ、一個目読んだ時点でそこ気づいたなら十分」
「本当に?」
「俺、小日向はもっと主人公の友達の方に行くと思ってた」
「好きでしたよ。あの子面白かったです」
「やっぱり」
「何で分かるんですか」
「小日向、会話が楽しいキャラ好きだろ」
「……そうです」
「でも喫茶店の方も気になったなら、思ったよりこの本合うかもな」
春樹が嬉しそうに笑う。
ひよりはその顔を見て、一瞬だけ言葉を止めた。
本を面白いと言っただけなのに、どうして自分よりこの人の方が嬉しそうなのだろう。
(春樹先輩って、本当に本が好きなんだ)
それはもう知っている。
けれど最近、少し違うことにも気づき始めていた。
春樹は、自分が本を読むことだけが好きなのではない。
誰かが読んで、その人が何を感じたのかを聞くことも、同じくらい楽しそうにする。
「春樹先輩」
「何?」
「私が全部読み終わったら、いっぱい話していいですか?」
「もちろん」
「長くなりますよ?」
「望むところだ」
「一時間とか」
「それはちょっと長い」
「そこは読書時間なんですね!」
「一時間あったら相当読めるからな」
ひよりが笑いを堪えようとして肩を震わせる。
春樹も小さく笑ったあと、ふと窓の外へ視線を向けた。
グラウンドではサッカー部が練習を始めている。神谷蓮の姿も見え、昨日一緒にボールを蹴った感覚がわずかに足へ蘇った。
月曜日には代表者連絡会がある。
その先にはスポーツ交流会があり、今までより少しだけサッカーへ時間を使うことになるだろう。
そして目の前では、小日向ひよりが自分の本を読んでいる。
雫から返ってきた本は、自分の本棚へ戻ることなく次の読者へ渡った。
少し前なら、どちらも読書時間を削る予定としてしか考えなかったかもしれない。
(……でも、別に嫌じゃないんだよな)
サッカーをすることも、誰かに本を貸すことも、感想を聞くことも。
もちろん本を読む時間は欲しい。それだけは絶対に譲れない。
けれど、自分の好きなものが別の何かへつながっていくことまで拒む必要はないのかもしれない。
「七瀬君」
カウンターから栞が呼ぶ。
「はい?」
「さっきから同じページですよ」
「え?」
春樹が手元を見る。
本を開いてから数分経っているのに、確かにページが進んでいない。
「……最近これ多くないですか?」
「考え事が増えたからでは?」
「俺は静かに本を読みたいだけなのに」
「静かですよ?」
「そういう問題じゃないんですよ」
「春樹先輩」
向かい側のひよりが小声で笑う。
「何だよ」
「楽しそうです」
「俺が?」
「はい」
春樹は思わず黙った。
図書室は静かだ。
栞はカウンターにいて、ひよりは自分の本を読んでいる。窓の外では運動部の声が聞こえ、机の上には読みかけの本がある。
何も騒がしくない。
それなのに以前より、自分の周りには確実に人が増えている。
「……まあ」
春樹は本へ視線を戻しながら、少しだけ笑った。
「悪くはないかな」
ひよりはその言葉を聞いて嬉しそうに笑ったが、それ以上は何も言わず、再び二編目の最初のページへ視線を落とした。
栞もまた、カウンターから二人の様子を見たあと、静かに返却作業へ戻る。
そして春樹も、ようやく止まっていたページをめくった。
窓から入る六月の風が、机の上に広げられた紙をわずかに揺らしていく。
来週になれば、スポーツ交流会の準備はさらに本格的に動き始める。
サッカーのことも、生徒会のことも、今までより関わる人間が増えることも、春樹はまだ深く考えていない。
ただ一つ確かなのは、静かに本を読んでいたいだけだったはずの高校生活が、本人の知らないところで少しずつ広がり続けていることだった。




