↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
70/130

第70話 休日は静かに本を読みたいだけなのに、どうしておすすめの一冊を選ぶだけでこんなに悩むんだ?


 土曜日の朝、俺は目覚まし時計が鳴るよりも少し早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、窓の外では鳥の声が聞こえている。平日なら制服へ着替えて学校へ向かう時間を気にするところだが、今日は休日なので、布団の中でしばらく天井を眺めていても問題はない。


 もっとも、俺には休日だからこそ早く起きたい理由があった。


(……今日は、思い切り本が読めるな)


 昨日までの学校生活では、読書週間の準備が少しずつ本格化していた。


 紹介カードの文章を考えたり、展示する本の分類について話し合ったり、図書室で借りた本を読み進めたり。どれも楽しいことばかりなのだが、授業や委員会の活動がある以上、好きなだけ読書をするわけにはいかない。


 その点、今日は違う。


 午前中は部屋でゆっくり本を読み、気が向いたら午後に本屋へ行く。帰宅したら買ってきた本を眺めながら、また読書をする。


 我ながら素晴らしい休日の計画だと思う。


 俺は布団から起き上がり、机の上へ目を向けた。


 昨夜読んでいた、駅を舞台にした連作短編集が置かれている。白石先輩に薦めてもらい、学校の図書室で借りた本だ。


 物語は終盤に差しかかっていた。


 それまで別々の話に登場していた人物たちが、少しずつ互いの人生に関わっていたことが明らかになり、最初は何気なく読んでいた会話にも別の意味が生まれている。


 特に印象に残っているのは、同じ出来事を経験した二人が、その思い出をまったく違う形で覚えていた場面だった。


 一人にとっては、何でもない日の小さな親切。


 もう一人にとっては、長い間忘れられなかった大切な出来事。


 その違いが明らかになる瞬間には、派手な事件など何も起きていない。それなのに、登場人物が言葉を探して沈黙する場面を読んでいるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。


(……やっぱり、こういう話はいいよな)


 俺は本を手に取り、昨夜栞を挟んだページを確認した。


 残りはそれほど多くない。


 朝食を食べてから読み始めれば、午前中には読み終わるだろう。


 そう考えていると、机の端に置いていたスマートフォンが震えた。


 画面を見ると、雫からメッセージが届いている。


『春樹、おはよう。今日はゆっくりできそう?』


 俺は思わず笑った。


 昨日の帰り道にも、雫は俺が休日にきちんと休むかどうか気にしていた。どうやら、読書週間の準備で忙しくしていることを、思っていた以上に心配してくれているらしい。


『おはよう。今日はのんびりする予定だよ。まずは読みかけの本を読み終わらせようと思ってる』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『ふふ、やっぱり春樹らしいね。私も今日は本を読むつもり』


『借りてる短編集?』


『うん。まだ全部は読めてないけど、すごく気に入ってるよ』


 その言葉が嬉しくて、俺は自然に頬を緩めた。


 雫に貸しているのは、この前一緒に公園で過ごした日に渡した、日常を題材にした新しい短編集だ。


 彼女は一つひとつの話を丁寧に読んでいるらしく、登場人物の何気ない行動や、会話の中に隠れた優しさについて、何度か感想を伝えてくれている。


『気に入ってもらえてよかった。急がなくていいから、ゆっくり読んでね』


『ありがとう。あとね、おすすめする本のことも考えてるから』


 昨日の帰り道にした約束を思い出した。


 雫が自分の好きな本を、俺に薦めてくれるという話だ。


『そっちも楽しみにしてるよ。でも、無理して選ばなくていいからね』


『うん。分かってる。春樹に読んでもらいたい本だから、ちゃんと自分で選びたいの』


 俺はその文章を読み、少しだけ考えた。


 誰かに本を薦めるとき、俺は相手が楽しんでくれそうな作品を考える。


 雫も同じように、俺が楽しめる本を探してくれているのだろう。


 そう思うと、どんな本が選ばれるのか、ますます楽しみになった。


『ありがとう。待ってるね』


 返信を送ると、雫から可愛らしい笑顔のスタンプが届いた。


 俺はスマートフォンを机へ戻し、着替えを始めた。


 どうやら、今日も本に関する楽しい一日になりそうだ。


     ◇◇◇


 朝食を済ませたあと、俺は部屋の窓を少し開けた。


 外から入ってくる風は心地よく、カーテンが静かに揺れている。机の上には温かい飲み物を置き、読みかけの連作短編集を開いた。


 休日の午前中に、誰にも急かされず好きな本を読む。


 これ以上に贅沢な時間があるだろうか。


 少なくとも、今の俺には思いつかない。


 物語の終盤では、駅の小さな待合室が舞台になっていた。


 これまでの話に登場した人々が、別々の理由で同じ場所を訪れる。


 誰かに会うため。


 どこかへ旅立つため。


 あるいは、もう会えないと思っていた人との思い出を確かめるため。


 それぞれの事情は違うのに、駅という場所を通じて、彼らの時間がわずかに重なっていく。


 俺はページをめくりながら、最初の話に登場した人物のことを思い出していた。


 あのときは何気なく読み流した一言が、最後の場面で別の意味を持って戻ってくる。


 こういう構成は、読み終えたあとに最初から読み直したくなる。


(……白石先輩、よくこんな本を見つけてくるよな)


 先輩は以前、この作品について、読み終えたあとに登場人物たちの何でもない会話が心に残ると話していた。


 その意味が、今なら少し分かる気がする。


 物語の最後で、ある人物が待合室の窓から外を眺める。


 そこには特別な景色が広がっているわけではない。


 いつもどおりの駅前の通りと、行き交う人々の姿があるだけだ。


 けれど、その人物にとっては、昨日までと少し違う景色に見えている。


 俺は最後のページを読み終え、しばらく本を閉じずにいた。


 窓の外では、遠くを走る車の音が聞こえている。


 物語の余韻が薄れてしまうのが惜しくて、最後の数行をもう一度読み返した。


(……うん。これは、かなり好きだな)


 読み終えた満足感と、もう少しこの物語の中にいたかったという気持ちが同時に湧いてくる。


 俺は静かに本を閉じた。


 白石先輩に、どんな感想を伝えようか。


 そう考えると、自然にノートへ手が伸びた。


 普段なら読み終えた本の感想を頭の中で整理するだけのことも多いが、この作品については、忘れないうちに書き留めておきたい。


 俺はノートの新しいページを開き、作品名と読み終えた日付を書いた。


『駅を舞台にした連作短編集』


『別々の人生を歩いているように見える人々が、知らないところで少しずつつながっている構成が面白かった』


 そこまで書いて、少し考える。


 作品の仕掛けについて詳しく書きすぎると、まだ読んでいない人には重要な部分が伝わってしまう。


 白石先輩へ感想を伝えるときは問題ないかもしれないが、読書週間の紹介カードへ応用するなら、別の言い方を考えた方がよさそうだ。


『何気ない出会いが、誰かの人生に残っている。読み終えたあと、いつもの景色を少し違う気持ちで眺めたくなる一冊』


 俺は書いた文章を読み返した。


 悪くない気がする。


 ただ、紹介カードとしては少し長いかもしれない。


(……いや、今日は準備を進めるつもりじゃなかったんだけどな)


 自分で書いた文章を見つめながら、俺は苦笑した。


 休日は読書を楽しむと決めていたのに、気づけば読書週間の紹介文を考えている。


 もっとも、好きな本について考えること自体が楽しいので、あまり問題はない。


 俺はノートを閉じ、椅子の背もたれへ体を預けた。


 そのとき、机の端に置いていたもう一冊の本が目に入った。


 大学で再会した幼馴染を描く恋愛小説だ。


 こちらも、そろそろ物語の大きな転換点へ差しかかっている。


 幼いころの約束を覚えているヒロインと、その約束を忘れてしまっている主人公。


 二人の距離は近いようでいて、肝心なところですれ違っている。


 俺は表紙を眺め、少しだけ考えた。


(……午後はこっちを読もうかな)


 しかし、その前に本屋へ行きたい気持ちもある。


 読み終えた本が一冊増えたのだから、新しい本を探しに行く理由としては十分だろう。


 俺は時計を確認した。


 まだ昼食まで少し時間がある。


 午後に出かけるなら、今のうちに読みたい本の候補を整理しておくのも悪くない。


 そう考え、机の引き出しから小さなメモ帳を取り出した。


 ところが、最初に書こうとしたところで手が止まった。


 俺自身が読みたい本は、いくらでも思いつく。


 けれど、昨日から何度も考えていることがあった。


 誰かに薦めたい本と、自分が読みたい本は、必ずしも同じではない。


 その違いを、もう少し考えてみたかった。


     ◇◇◇


 同じころ、西条雫は自分の部屋で本棚を眺めていた。


 棚には、学校の授業に使う参考書や以前から集めている小説が並んでいる。その一角には、春樹から薦めてもらったことがきっかけで読み始めた作品もあった。


 雫は本棚の前に座り込み、一冊の文庫本を手に取った。


 表紙には、夕暮れの住宅街を歩く二人の後ろ姿が描かれている。


 以前読んだ、幼馴染同士の日常を描いた恋愛小説だった。


 大きな事件が起きるわけではない。


 同じ道を歩き、学校で顔を合わせ、何気ない会話を重ねていくうちに、主人公たちが互いの存在を少しずつ特別なものとして意識していく物語だ。


 雫はその表紙を指先でなぞった。


(……これ、春樹に読んでもらったらどう思うかな)


 好きな作品ではある。


 けれど、薦めるとなると少し勇気が必要だった。


 幼馴染同士の恋愛。


 昔から一緒にいる二人。


 当たり前だと思っていた関係が、ある日を境に少しずつ変わっていく。


 その設定は、どうしても自分と春樹の関係を意識させる。


 春樹なら、きっと純粋に作品を楽しんでくれるだろう。


 登場人物の心理を丁寧に読み取り、何気ない会話に込められた意味を考え、読み終えたあとには嬉しそうに感想を話してくれるはずだ。


 けれど、その感想を聞いたとき、自分が平静でいられるかどうかは分からなかった。


(……もし、幼馴染の女の子の気持ちが分からないって言われたら、ちょっと悲しいかも)


 雫は小さく息を吐いた。


 それでも、彼に読んでほしいと思う気持ちは消えない。


 春樹は恋愛小説を読むのが好きだ。


 物語の中で描かれる恋心には、とても敏感なところがある。


 登場人物が何気なく言った言葉の裏にある感情を見つけたり、視線の動きから相手への好意を読み取ったりする。


 なのに、現実の春樹は驚くほど気づかない。


 自分がどれだけ彼を大切に思っているのかも、長い間胸にしまってきた気持ちも、きっとまだ知らない。


 雫は文庫本を胸元へ引き寄せた。


 丘の上の見晴らしのいい場所で交わした、幼いころの約束。


 あの日の言葉を、自分は今でも覚えている。


 春樹は忘れてしまっているけれど、それを責めたいとは思わない。


 ただ、いつかもう一度、あの場所で話してみたい。


 昔の約束を思い出してもらうためだけではなく、今の自分が何を感じているのか、ちゃんと伝えられるようになりたい。


(……でも、いきなりこの本を薦めるのは、ちょっと分かりやすすぎるかな)


 雫は苦笑し、文庫本をいったん膝の上へ置いた。


 春樹は気づかないかもしれない。


 けれど、自分の方が意識しすぎてしまいそうだった。


 それに、春樹が求めているのは、雫が本当に好きな作品だ。


 彼の好みに合わせるためだけでも、自分の気持ちを遠回しに伝えるためだけでもなく、純粋に面白いと思った本を薦めたい。


 そう考えると、候補は一冊に絞れなかった。


 雫は別の棚へ目を向け、以前読んだ短編集を取り出した。


 こちらは、季節ごとの日常を描いた作品だ。


 春の新しい出会い、夏の夕立、秋の帰り道、冬の温かな飲み物。


 特別な出来事がなくても、日々の暮らしの中に小さな幸せを見つけられるような物語だった。


 春樹が貸してくれた短編集とも、少し似た雰囲気がある。


 けれど、登場人物の心情を描く方法は違っていて、比較して読むのも楽しそうだ。


(……こっちもいいな)


 雫は二冊を並べて置いた。


 そして、ふと笑みを浮かべた。


 今まで、自分が春樹へ何かを薦めるとき、ここまで真剣に悩んだことがあっただろうか。


 お菓子や飲み物なら、彼の好みを考えながら選ぶことはある。


 けれど、本は少し違う。


 春樹にとって、読書は何より大切な時間だ。


 その時間の一部を、自分が選んだ作品に使ってもらえる。


 そう考えるだけで、胸が温かくなる。


 雫は膝の上に置いた本を見つめ、ゆっくり微笑んだ。


「……もう少し、考えてみようかな」


 誰もいない部屋で、小さく呟いた。


 急いで決める必要はない。


 春樹は待っていると言ってくれた。


 だからこそ、自分が心から薦めたいと思える一冊を選びたかった。


     ◇◇◇


 昼食を済ませたあと、俺は近所の本屋へ向かった。


 空はよく晴れていて、歩道には街路樹の影が落ちている。休日の午後らしく、通りには買い物帰りの人や親子連れの姿があり、店先からは穏やかな音楽が聞こえてきた。


 いつもなら、真っ先に新刊の棚へ向かうところだ。


 けれど、今日は少し違うことを試してみたかった。


(……普段あまり見ない棚も、ゆっくり回ってみるか)


 読書週間の展示候補を考えるなら、自分の好みだけでなく、ほかの人がどんな作品に興味を持つのかも知りたい。


 もちろん、本屋で見つけた本をそのまま学校の展示へ加えられるとは限らない。


 図書室に所蔵されているかどうかも確認が必要だし、最終的な選定は図書委員会で相談することになる。


 それでも、知らない作品を見つけること自体は楽しい。


 俺は店内へ入り、入口近くの平台を眺めた。


 そこには、最近話題になっている小説が並んでいた。


 青春もの、ミステリー、家族を題材にした作品、日常を描いた短編集。


 表紙の雰囲気もさまざまで、明るい色使いのものもあれば、落ち着いた装丁のものもある。


 俺は気になった一冊を手に取り、裏表紙のあらすじを読んだ。


 主人公は、家族の事情で祖父母の暮らす町へ引っ越した高校生らしい。


 新しい学校に馴染めずにいた彼が、町の小さな商店街で出会った人々との交流を通じて、少しずつ居場所を見つけていく話だ。


(……こういうのも面白そうだな)


 派手な事件はなさそうだが、人物同士の関係が丁寧に描かれているなら、かなり好みかもしれない。


 俺は数ページだけ試し読みをし、文章の雰囲気を確かめた。


 落ち着いた語り口で、商店街の風景が細かく描かれている。


 夕方になると店先に椅子を出す老人や、毎朝同じ時間にパンを買いに来る人。


 そうした何気ない暮らしの描写が、主人公の孤独を静かに浮かび上がらせていた。


 俺は続きを読みたくなったが、そこで本を閉じた。


 今日は一冊だけでなく、いろいろな棚を見て回るつもりだ。


 ここで読み始めたら、気づいたときには一時間ほど経っている可能性がある。


(……危ない危ない)


 俺は本を元の位置へ戻し、タイトルをメモした。


 そのまま店内を進むと、次に目に入ったのは、料理を題材にした小説の棚だった。


 普段はあまり手に取らないジャンルだが、表紙に描かれた温かな食卓の絵が気になった。


 あらすじによると、小さな食堂を営む家族と、そこを訪れる客たちの物語らしい。


 料理そのものだけでなく、食事を通じて人と人との距離が変わっていくところが見どころのようだ。


(……雫、こういう話も好きそうだな)


 そう思ったところで、俺は少し驚いた。


 以前なら、本を見つけたときにまず考えるのは、自分が読みたいかどうかだった。


 もちろん、今でもそれは変わらない。


 けれど、最近は誰かの顔が自然に浮かぶことがある。


 雫ならどう感じるだろう。


 白石先輩なら、どんなところに注目するだろう。


 小日向さんなら、明るい登場人物を気に入るかもしれない。


 新海さんなら、言葉にできない感情を描いた場面を丁寧に読んでくれそうだ。


 俺は本を棚へ戻し、小さく笑った。


(……何だか、読書の楽しみ方が増えた気がする)


 一人で読む時間が好きなのは変わらない。


 けれど、誰かと感想を話す楽しさを知ってしまうと、本を選ぶときの視点まで変わってくるらしい。


 それは、少し不思議で、かなり面白い変化だった。


 俺はさらに店内を歩き、今度はミステリーの棚へ向かった。


 白石先輩に貸している古書店を舞台にしたミステリーも、そろそろ読み終わるころだろうか。


 以前、先輩はもう少し借りていたいと話していたので、返却を急いでもらうつもりはない。


 それでも、読み終えたときにどんな感想を聞けるのかは楽しみだった。


 棚に並ぶ作品を眺めながら、俺は一冊の短編集を手に取った。


 日常の小さな謎を扱う作品らしい。


 失くした手紙の行方や、毎週同じ時間に現れる客の理由など、身近な出来事を題材にしている。


 あらすじを読む限り、派手な事件よりも人間関係を重視した作品のようだった。


(……これは、白石先輩が好きそうだな)


 そう考えた直後、俺は手元の本を見つめた。


 自分がまだ読んでいない作品を、誰かへ薦めることはできるだろうか。


 もちろん、面白そうだから一緒に読んでみませんか、と誘うことならできる。


 けれど、自分が読んでいないのに、きっと面白いですよと言い切るのは少し違う気がする。


 俺は本を開き、冒頭を数ページ読んでみた。


 文章は読みやすく、登場人物同士の会話にも自然な温かさがある。


 ただ、物語全体がどんな方向へ進むのかは、まだ分からない。


 俺は少し考えた末、その本を購入候補へ加えた。


 まず自分で読んでみて、本当に気に入ったら誰かへ紹介すればいい。


 そう考えると、何だか少し楽しくなってきた。


     ◇◇◇


 そのころ、九条凛は自宅の机で読書週間の注意表示に関する資料を確認していた。


 机の上には、学校で作成した掲示案の控えと、小さなメモ帳が置かれている。


 風紀委員会として確認する必要があるのは、主に通行の妨げにならない掲示方法や、廊下での歩き読みを防ぐための注意表示についてだ。


 読書週間そのものは図書委員会が中心となって進めている。


 そのため、凛が勝手に掲示場所や文言を決めるわけにはいかない。


 教師による確認もまだ終わっていないし、実際の掲示方法については、関係する委員会との調整が必要だった。


 凛は資料を一枚めくり、候補の文章を見比べた。


『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』


『本の続きは、安全な場所で』


 どちらにも利点がある。


 前者は、なぜ注意が必要なのか伝わりやすい。


 後者は短く、通りがかりでも目に入りやすい。


 ただ、実際にどこへ掲示するかによって、適した文章は変わってくるだろう。


(……七瀬君なら、どちらの方が気に入るかしら)


 そう考えたところで、凛は小さく息を吐いた。


 彼が気に入るかどうかだけで決める問題ではない。


 風紀委員として、学校全体の安全を考える必要がある。


 それは分かっている。


 けれど、読書週間の準備を通じて、七瀬春樹がどれだけ本を大切にしているのかを改めて知った。


 だからこそ、ただ禁止するだけの注意表示にはしたくなかった。


 本を読むことそのものは、素晴らしい趣味だと思う。


 問題なのは、周囲を確認せずに歩きながら読んでしまうことだ。


 七瀬君にも、安心して読書を楽しんでほしい。


 凛はメモ帳へ視線を落とした。


(……本当に、あの人は本のことになると夢中になるんだから)


 昨日の放課後も、彼は紹介カードの準備をしていた。


 好きなことへ一生懸命になる姿は、見ていて悪い気がしない。


 けれど、休むことまで忘れてしまいそうなところは心配だった。


 自分が注意すると、彼は素直に頷く。


 そして、ありがとうと笑う。


 その何気ない笑顔を思い出すと、凛は少し落ち着かなくなった。


「……まったく」


 小さく呟き、資料へ目を戻す。


 今は委員会の仕事を進める時間だ。


 余計なことを考えていては、いつまで経っても終わらない。


 凛は姿勢を正し、二つの候補について、それぞれの利点と注意点を書き出し始めた。


 週明けに相談するとき、きちんと説明できるようにしておきたかった。


     ◇◇◇


 本屋を出たころには、午後の日差しが少し傾き始めていた。


 結局、俺が購入したのは二冊だった。


 一冊は、商店街を舞台にした日常小説。


 もう一冊は、身近な謎を扱うミステリー短編集だ。


 どちらも普段の俺が好んで読む作品に近い部分はあるが、いつもより少し違う棚から選んだ本でもある。


 買い物袋を手に歩きながら、俺は今日の収穫に満足していた。


 新しい本を見つけられたことも嬉しい。


 それ以上に、誰かへ薦めることを考えながら本を探すのが、思っていた以上に面白かった。


 帰宅したら、まずは商店街の小説を読み始めよう。


 そう決めたところで、スマートフォンが震えた。


 画面には、白石先輩からのメッセージが表示されていた。


『七瀬君、こんにちは。休日にごめんなさい。昨日相談していた展示候補の件で、少しだけ確認したいことがあるの』


 俺は歩道の端にある、人の通行を妨げない場所で足を止めた。


 周囲を確認してから、メッセージを開く。


『こんにちは。大丈夫ですよ。どうしましたか?』


 ほどなくして返事が届いた。


『昨日話していた、いろいろな人からおすすめの本を聞くという案なんだけど、図書委員の間でも候補として話せそうだと思って。週明けに相談するとき、どんな聞き方を想定しているのか教えてもらえる?』


 俺は少し考えた。


 昨日の段階では、誰かに好きな本を聞いてみたら面白そうだという程度の考えだった。


 けれど、実際に意見を集めるなら、質問の仕方も重要になる。


 単に好きな本を尋ねるだけでは、展示の分類へ結びつけるのが難しいかもしれない。


『好きな本の名前だけじゃなくて、どんな気分のときに読みたくなるかも聞けたらいいと思います』


 送信したあと、もう少し考えて文章を続けた。


『例えば、元気が欲しいときに読む本とか、落ち着きたいときに読む本とか。理由も一言添えてもらえたら、紹介カードを考える参考になる気がします』


 先輩からの返事は、少し間を置いて届いた。


『なるほど。作品名だけでなく、読むときの気持ちも聞くのね。それなら展示の方向性とも合いそうだわ』


『はい。ただ、正式に募集するかどうかは委員会で決めてもらう形で大丈夫です』


『もちろん。七瀬君の考えを、そのまま決定事項にするつもりはないから安心してね』


 俺は小さく笑った。


 白石先輩は、いつもそういうところを丁寧に考えてくれる。


 俺が思いつきで話したことも、すぐに決定したようには扱わない。


 必要な確認を重ねながら、少しずつ形にしてくれる。


『ありがとうございます。週明け、また相談させてください』


『ええ。楽しみにしているわ。それと、今日はちゃんと休んでね』


 その文章を読んだ瞬間、俺は思わず苦笑した。


 昨日の九条さんに続いて、白石先輩からも休むように言われてしまった。


『大丈夫です。今日は本屋へ行って、今から帰るところです』


『ふふ。それなら安心……と言いたいところだけど、七瀬君の場合は帰ってからも読書でしょう?』


『はい。新しい本を二冊買ったので』


 返事を送ると、少しして笑顔のスタンプが届いた。


『やっぱり。無理のない範囲で楽しんでね』


『ありがとうございます。先輩もよい休日を』


 やり取りを終え、俺はスマートフォンを鞄へしまった。


 それから、再び歩き始める。


(……みんな、そんなに俺が無理してるように見えるのかな)


 少し不思議だった。


 確かに最近は、読書週間の準備で考えることが増えている。


 けれど、嫌なことを無理に続けているわけではない。


 好きな本について考えたり、誰かと感想を話したりする時間は、むしろ楽しい。


 それでも、周囲が心配してくれるのなら、少しは自分の過ごし方を見直した方がいいのかもしれない。


 俺は買い物袋を持ち直した。


 今日はこれ以上、読書週間の準備を進めるのはやめておこう。


 帰宅したら、新しい本を楽しむ。


 それだけで十分だ。


     ◇◇◇


 夕方、西条雫は机の上に並べた二冊の本を見比べていた。


 幼馴染同士の恋愛小説。


 季節ごとの日常を描いた短編集。


 どちらも好きな作品で、春樹に薦めたい理由がある。


 けれど、まだ決められなかった。


 雫は椅子へ座り直し、幼馴染の恋愛小説を開いた。


 以前読んだときに気に入った場面を探していると、主人公の女の子が、昔から一緒にいる男の子の何気ない言葉に救われる場面が目に入った。


 男の子は、自分が何をしたのか分かっていない。


 ただ、いつもどおりに声をかけただけだと思っている。


 けれど、女の子にとっては、その一言が長く心に残っている。


 雫はページをめくる手を止めた。


(……こういうところ、春樹に似てる)


 春樹も、何気ない言葉で自分を嬉しくさせることがある。


 好きな本の感想を真剣に聞いてくれること。


 昔からの思い出を大切にしてくれること。


 何かを約束すると、当たり前のように守ろうとしてくれること。


 その一つひとつが、雫には特別だった。


 けれど、春樹はきっと、そこまで深く考えていない。


 それが少しもどかしくて、それでも彼らしいと思う。


 雫は本を閉じ、机の上へ置いた。


 そして、もう一冊の短編集を手に取った。


 こちらにも、春樹と一緒に読みたいと思う場面がある。


 冬の朝、主人公が誰かのために温かい飲み物を用意する話。


 春の夕方、何気ない帰り道が少しだけ特別になる話。


 誰かと一緒に過ごす時間の大切さが、押しつけがましくなく描かれている。


 雫はしばらくページをめくり、やがて小さく微笑んだ。


(……どっちを選んでも、きっと春樹は楽しんでくれるよね)


 その確信があるからこそ、簡単には決められない。


 春樹は、自分が薦めた本を丁寧に読んでくれるだろう。


 そして、読み終えたあとには、きっと感想を聞かせてくれる。


 その時間を想像すると、胸が温かくなった。


 雫はスマートフォンへ目を向けた。


 春樹に、まだ決められないことを伝えてみようか。


 けれど、急がなくていいと言ってくれたばかりだ。


 今はもう少し、自分で考えてみたい。


 雫はスマートフォンを手に取らず、再び本を開いた。


 春樹に読んでほしい理由を、ちゃんと自分の言葉で説明できるようになりたかった。


     ◇◇◇


 家へ帰った俺は、買ってきた本を机の上へ並べた。


 新しい本を購入した日の、この瞬間が好きだ。


 まだ読んでいない物語が、目の前に二つある。


 どんな登場人物が出てくるのか。


 どんな出来事が起こるのか。


 読み終えたあと、どんな気持ちになるのか。


 それらを想像するだけで、自然に期待が膨らんでくる。


 俺はまず、商店街を舞台にした日常小説を手に取った。


 最初のページを開くと、主人公が新しい町へ引っ越してきた日の情景が描かれていた。


 知らない通り。


 初めて見る店。


 慣れない学校生活への不安。


 その中で、主人公が小さな商店街のパン屋へ立ち寄る。


 店主との何気ない会話をきっかけに、少しだけ気持ちが軽くなる。


 俺は読み進めながら、登場人物の描写に引き込まれていった。


 主人公は、最初から明るく前向きな人物ではない。


 新しい環境に馴染めないことを気にしているし、周囲の親切を素直に受け取れないところもある。


 けれど、だからこそ、小さな変化が印象に残る。


 誰かに挨拶を返せるようになること。


 店の人に顔を覚えてもらうこと。


 帰り道に立ち寄りたい場所ができること。


 そうした出来事が少しずつ積み重なり、主人公の日常を変えていく。


(……うん。これは当たりかもしれない)


 俺は満足しながらページをめくった。


 しばらく読み進めたところで、ふと昨日の新海さんの言葉を思い出した。


 読んでいると、誰かと話したくなる。


 あの感想は、作品の内容だけではなく、読んだ人の気持ちを表していた。


 この小説も、読み終えたあとに誰かへ話したくなる作品かもしれない。


 そう考えると、自然に雫の顔が浮かんだ。


 雫なら、この主人公の変化をどう感じるだろう。


 白石先輩なら、商店街の人々との関係に注目するかもしれない。


 小日向さんは、主人公が少しずつ前向きになっていくところを気に入りそうだ。


 新海さんは、言葉にできない不安を抱えている場面に共感するかもしれない。


 俺は本を閉じずに、少しだけ笑った。


(……やっぱり、誰かと感想を話すことを考えると、読み方も変わるな)


 ただし、今は自分自身が物語を楽しむ時間だ。


 誰かに薦めるかどうかは、最後まで読んでから考えればいい。


 俺はそう決め、再びページへ目を落とした。


 夕方の光が少しずつ薄くなり、部屋の中には穏やかな時間が流れていた。


     ◇◇◇


 夕食を終えたあと、俺は再び机へ向かった。


 商店街を舞台にした小説は、思っていた以上に読みやすく、気づけばかなり先まで進んでいた。


 けれど、今夜のうちに読み終えてしまうのは少し惜しい。


 物語の雰囲気を楽しみながら、ゆっくり読みたい作品だった。


 俺は栞を挟み、本を閉じた。


 その隣には、まだ読み終えていない大学で再会した幼馴染の恋愛小説が置かれている。


 こちらも気になっている。


 ただ、今夜はどちらか一冊へ集中した方がよさそうだ。


 俺は少し考え、恋愛小説を手に取った。


 幼いころの約束を忘れている主人公。


 その約束を覚えているヒロイン。


 二人の関係は、少しずつ変化し始めていた。


 大学で再会してから、主人公はヒロインの何気ない仕草や言葉に、以前とは違う意味を感じるようになっている。


 けれど、まだ自分の気持ちをはっきり理解しているわけではない。


 ヒロインの方も、昔の約束をすぐに持ち出すことはしなかった。


 今の主人公がどんな人間になったのかを知りたい。


 そして、昔の約束だけに頼らず、もう一度関係を築きたい。


 そんな思いが、彼女の行動から少しずつ伝わってくる。


(……なるほど。そういう考え方もあるのか)


 俺はページをめくった。


 昔の約束は大切だ。


 けれど、過去に交わした言葉だけで、今の関係が決まるわけではない。


 時間が経てば、人は少しずつ変わっていく。


 それでも変わらず大切にしたいものがあるなら、今の自分の言葉でもう一度伝える必要があるのかもしれない。


 物語の中で、ヒロインはそんなことを考えているようだった。


 俺はしばらく読み進め、主人公が昔の思い出を少しだけ語る場面で手を止めた。


 子どものころ、二人で高い場所から町を眺めたことがある。


 主人公は、その日の景色をぼんやり覚えていた。


 けれど、そこで何を話したのかまでは思い出せない。


 ヒロインは、そんな彼の言葉を聞いて微笑む。


 ただ、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。


(……こういう場面、いいな)


 俺は感心しながらページをめくった。


 相手を責めるわけではない。


 けれど、忘れられてしまったことを何とも思っていないわけでもない。


 その複雑な気持ちが、短い会話と表情の描写だけで伝わってくる。


 俺は読みながら、ふと雫のことを思い出した。


 この前、一緒に丘の上の見晴らしのいい場所へ行った。


 昔から知っている場所だったのに、久しぶりに訪れると、景色が少し違って見えた。


 雫は、あの場所で昔のことを思い出しているようだった。


 俺もいくつか懐かしい出来事を思い出したが、彼女ほど細かく覚えているわけではない。


(……雫って、昔のことをよく覚えてるよな)


 俺は少しだけ笑った。


 子どものころの遊びや、何気ない会話。


 雫は、俺が忘れてしまったようなことも覚えている。


 それだけ長い時間を一緒に過ごしてきたということなのだろう。


 俺は本へ目を戻した。


 物語の中の二人も、これから少しずつ昔の思い出を確かめていくのかもしれない。


 その先が楽しみだった。


     ◇◇◇


 夜も更けてきたころ、スマートフォンが静かに震えた。


 画面を見ると、雫からメッセージが届いている。


『春樹、今日は本屋さんに行ったの?』


 俺は少し驚いた。


 まだ雫には、今日の買い物について話していなかったはずだ。


『うん。午後に行ってきたよ。どうして分かったの?』


 返信すると、すぐに返事が届いた。


『何となく。休日だし、春樹なら行ってそうだなって思ったの』


 俺は思わず笑った。


『正解。二冊買ってきたよ』


『やっぱり! どんな本?』


『商店街を舞台にした日常小説と、日常の謎を扱うミステリー短編集』


『へえ、面白そう。もう読んだ?』


『商店街の方は読み始めたよ。結構気に入ってる』


 雫から少し間を置いて返事が届いた。


『そっか。春樹が気に入ったなら、私も読んでみたいな』


 俺はその文章を読み、自然に嬉しくなった。


『読み終わったら感想を話すよ。雫が興味ありそうなら、そのとき詳しく紹介するね』


『うん。楽しみにしてる』


 そこまでやり取りしたところで、雫からもう一通届いた。


『それとね、おすすめする本、まだ迷ってるんだ』


 俺は少し考えた。


 昨日からずっと悩んでくれているのだろう。


『急がなくていいよ。雫が好きな本なら、どんな作品でも楽しみだから』


 送信すると、しばらく返事がなかった。


 何か考えているのかもしれない。


 俺はスマートフォンを机へ置き、読みかけの本を閉じた。


 少しして、通知音が鳴った。


『春樹って、そういうことを自然に言うよね』


 俺は首を傾げた。


『そうかな?』


『うん。でも、嬉しいよ』


 そのあとに、もう一通メッセージが続いた。


『私ね、春樹に読んでほしい本が二冊あるの。どっちも好きだから、もう少し考えてから決めるね』


 俺は思わず笑った。


 二冊も候補があるのなら、どちらも薦めてもらっても構わない気がする。


 けれど、雫は自分で選びたいと言っていた。


 ならば、その気持ちを大切にしたい。


『分かった。楽しみに待ってるね』


『ありがとう。おやすみ、春樹』


『おやすみ、雫』


 やり取りを終え、俺はスマートフォンを伏せた。


 机の上には、今日買ってきた二冊の本が並んでいる。


 その隣には、読みかけの恋愛小説と、今朝読み終えた連作短編集。


 さらに本棚には、まだ読んでいない作品も何冊かある。


(……本当に、読む本が尽きないな)


 俺は満足しながら椅子へ深く座り直した。


 今朝は、休日だから静かに本を読もうと思っていた。


 実際、今日はたくさん本を読めた。


 新しい作品も見つけられたし、読み終えた本の余韻も楽しめた。


 その意味では、理想的な休日だったと言っていい。


 ただ、一つだけ予想していなかったことがある。


 誰かへ本を薦めることを考え始めると、自分が読む本を選ぶときまで、いろいろな人の顔が浮かぶようになるらしい。


 それは少し不思議だった。


 以前の俺なら、本を選ぶ理由は単純だった。


 面白そうだから。


 続きが気になるから。


 好きな作家の新刊だから。


 もちろん、今でもそれらは大切な理由だ。


 けれど、最近はそこへ新しい楽しみが加わっている。


 この本を読んだら、誰と感想を話そうか。


 あの人なら、どんな場面を好きになるだろうか。


 そんなことを考える時間まで、楽しくなってきた。


 俺は机の上のノートを開き、今日読み終えた連作短編集について書いた感想を見直した。


『何気ない出会いが、誰かの人生に残っている』


 その一文を眺めながら、少しだけ考える。


 物語の中では、何でもない会話が誰かにとって大切な思い出になる。


 それなら、現実でも同じようなことがあるのかもしれない。


 俺が何気なく話した本の感想も、誰かの心に残っていることがあるのだろうか。


(……まあ、そうだったら嬉しいな)


 俺は小さく笑った。


 そして、ノートを閉じた。


 明日は日曜日だ。


 特別な予定は入っていない。


 読みかけの恋愛小説を進めるのもいいし、今日買った商店街の小説を読み続けるのもいい。


 どちらを選んでも、きっと楽しい時間になるだろう。


 ただ、雫がどんな本を薦めてくれるのかは、少し気になっている。


 彼女が好きな作品。


 俺に読んでほしいと思ってくれた作品。


 その一冊を受け取ったとき、どんな気持ちになるのだろう。


 俺はそんなことを考えながら、部屋の明かりを少し落とした。


 窓の外には静かな夜が広がっている。


 机の上の本たちは、明日も変わらず俺を待っていてくれる。


 それだけで、十分幸せなことだと思う。


 もっとも、俺に本を薦めようとしている雫が、その一冊にどんな気持ちを込めようとしているのか。


 そして、白石先輩やほかのみんなも、それぞれの思いで俺と本を通じた時間を大切にしてくれていることを。


 今の俺は、まだ十分には分かっていなかった。


 ただ本を読みたいだけの俺の毎日は、知らないうちに、少しずつ誰かの大切な時間と重なり始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。