第69話 読書週間の本を選びたいだけなのに、どうしてみんな俺に読んでほしい本があるんだ?
金曜日の朝、俺は本棚の前で少しばかり悩んでいた。
悩みの原因は、今日学校へ持っていく本だ。いつもなら読みかけの文庫本を鞄へ入れるだけなのだが、今日は読書週間の準備に使う資料も持っていきたいので、普段より荷物が多くなってしまう。
机の上には、白石先輩に薦めてもらった駅を舞台にした連作短編集と、大学で再会した幼馴染を描く恋愛小説が並んでいる。どちらもまだ読み終えていないし、どちらにも続きを読みたい理由がある。
連作短編集は、登場人物同士の思いがけないつながりが見えてきたところだった。一方、恋愛小説では、幼いころの約束を忘れている主人公が、ヒロインの何気ない言葉に少しずつ違和感を覚え始めている。
(……どっちも気になるんだよな)
俺は二冊を見比べ、しばらく考えてから連作短編集を手に取った。
こちらは学校の図書室で借りている本だし、読み終わったら白石先輩へ感想を伝えたい。大学で再会する幼馴染の恋愛小説は、家に帰ってから落ち着いて読むことにしよう。
そう決めると、ようやく鞄の中身がまとまった。
もっとも、問題がすべて解決したわけではない。
机の端には、読書週間の紹介カードについて考えたノートが開いたままになっている。昨日、白石先輩と相談した分類案を見直しているうちに、紹介する本そのものをどう選ぶべきかという疑問が浮かんできたのだ。
今の候補は、気分に合わせて本を選べる展示。
『落ち着きたいとき』
『少し元気が欲しいとき』
『誰かと話したくなる本』
この三つなら、初めて展示を見る人にも分かりやすそうだ。
ただし、どの分類にどんな本を置くかは、まだ決まっていない。俺が好きな本ばかり選んでも、読む人にとって魅力的な展示になるとは限らないだろう。
(……そういえば、みんなはどんな本を薦めたいんだろう)
白石先輩は、読む人の気分を考えることが大切だと言っていた。
雫は昨日、今度は自分から俺に本を薦めてみたいと話していた。
そう考えると、俺一人が本を選ぶより、いろいろな人の意見を聞いてみた方が面白そうだった。
もちろん、勝手に展示の内容を決めるわけにはいかない。図書委員会で検討するための候補として、どんな本を紹介したい人がいるのか考えてみる程度なら、今からでもできるだろう。
俺はノートの新しいページへ、小さく見出しを書いた。
『人に薦めたい本について』
その下へ何か書こうとしたところで、スマートフォンが震えた。
『春樹、おはよう。今日は金曜日だね』
雫からのメッセージだった。
『おはよう。そうだね。今週もあっという間だった気がする』
返信すると、ほどなくして返事が届く。
『読書週間の準備、頑張ってたもんね。でも今日は帰ったらゆっくりしてね』
俺は思わず笑った。
最近、雫からも九条さんからも、休むように言われることが増えている。自分ではそこまで無理をしているつもりはないのだが、周囲から見ると少し違うのかもしれない。
『ありがとう。今日はちゃんと本を読んでのんびりするよ』
『それ、春樹にとってはいつもどおりじゃない?』
その返事には、俺も反論できなかった。
『確かに。でも、俺にとっては一番落ち着く時間だから』
『うん。知ってるよ。じゃあ、いつものところでね』
俺はスマートフォンをしまい、ノートを鞄へ入れた。
金曜日。
今週最後の授業が終われば、明日は休日だ。
できれば今日は、読書週間の準備を少しだけ前へ進めて、帰宅後は好きな本をゆっくり読みたい。
そんな、いつもどおりの一日を期待していた。
◇◇◇
待ち合わせ場所に着くと、雫は道沿いの花壇を眺めていた。
俺に気づいた彼女は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「おはよう、春樹。今日はちゃんと上着を持ってきたんだね」
「おはよう。昨日、雫に言われたからね」
「ふふ。素直でよろしい」
雫は少し得意そうに笑い、俺の隣へ並んだ。
朝の空気は昨日より少し冷たかったが、日差しは明るい。通学路を歩く生徒たちの声が住宅街に響き、道の向こうでは自転車に乗った学生が友人へ挨拶していた。
「そういえば、春樹。昨日の話なんだけど」
歩き始めて少ししたところで、雫が口を開いた。
「私が本を薦めるって言ったこと、覚えてる?」
「もちろん。楽しみにしてるよ」
「……そっか。よかった」
雫は嬉しそうに笑ったものの、すぐに少し考え込むような表情になった。
「でもね、いざ探そうと思うと、なかなか決められなくて」
「そうなの?」
「うん。春樹は本当にいろいろな作品を読んでるでしょう? だから、私が薦めるなら、まだ春樹が読んだことのない本がいいのかなって」
俺は首を傾げた。
確かに、知らない作品を教えてもらえるのは嬉しい。
けれど、すでに読んだ本を薦めてもらうことにも、別の楽しさがあると思う。
「そこは気にしなくていいよ。読んだことがある本でも、雫がどこを好きなのか聞けたら面白いから」
「……そういうもの?」
「うん。同じ作品を読んでても、好きな場面が違うことってあるだろう? 俺が気づかなかったところを雫が好きだったら、もう一度読みたくなると思う」
俺が答えると、雫は少しだけ目を見開いた。
それから、口元を緩める。
「……そっか。そう考えればいいんだね」
「無理に俺の好みに合わせなくてもいいと思うよ。雫が本当に好きだと思った作品を教えてくれる方が、俺は嬉しいかな」
雫は返事をする前に、少しだけ歩く速度を緩めた。
俺も自然に歩幅を合わせる。
「……春樹って、そういうことを普通に言うよね」
「え?」
「ううん。何でもない」
雫は首を振り、前を向いた。
ただ、その頬が少し赤く見えたので、俺は不思議に思った。
「寒い?」
「……違うよ。今日はそんなに寒くないでしょ」
「それならよかった」
「もう、春樹ったら……」
雫は困ったように笑った。
どうやら、俺は何か勘違いしたらしい。
しかし、何を間違えたのかまでは分からなかった。
しばらく歩いたところで、雫が再び口を開く。
「そういえば、借りてる短編集ね。昨日も少し読んだよ」
「どうだった?」
「うん。登場人物が、相手のために何か特別なことをするわけじゃないのに、ちゃんと気持ちが伝わってくるところが好き」
雫は少し言葉を探してから続けた。
「例えば、いつもと同じ場所に座れるようにしてあげたり、好きな飲み物を覚えていたり。そういう小さなことって、言葉にしなくても嬉しいんだろうなって思ったの」
「分かる。あの作品、そういう描写が丁寧なんだよね」
俺は頷いた。
「大きな事件が起きなくても、日常の中で関係が変わっていく。だからこそ、何でもない場面が印象に残るんだと思う」
「……うん。私もそう思う」
雫は静かに微笑んだ。
それから、俺の方を見た。
「春樹も、私が好きなものを覚えてくれてるよね」
「そうかな。全部覚えてるわけじゃないと思うけど」
「全部じゃなくていいんだよ」
彼女は柔らかい声で言った。
「私が話したことを、ちゃんと聞いてくれてるのが嬉しいの」
俺は少し照れくさくなった。
「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
雫は何かを言いかけ、結局そのまま笑った。
学校の正門が見えてくるころには、周囲の生徒も増えていた。
俺たちは人の流れに合わせて歩きながら、今度読んでみたい本や、最近気になっている作品について話した。
その時間は、いつもどおり穏やかだった。
ただ、雫がときどき俺を見つめてから、何かを飲み込むように視線を戻していた理由だけは、最後まで分からなかった。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗が窓際で赤木さんと話していた。
二人の間には、映画に関する雑誌が一冊置かれている。
俺が近づくと、悠斗がこちらに気づいた。
「おっ、春樹。おはよう」
「おはよう。何の話してたの?」
「この前の展示で見た作品のこと。赤木さんが関連する映画を見つけてくれたんだよ」
悠斗は嬉しそうに雑誌を指さした。
赤木さんも笑顔で頷く。
「高坂君が好きそうな作品だったから、ちょっと紹介してたの」
「へえ。面白そうだね」
俺が雑誌へ目を向けると、そこには古い映画の紹介記事が載っていた。
映像表現について詳しく書かれているらしく、悠斗は興味深そうに記事の一部を説明してくれた。
赤木さんもそれに頷きながら、気になった場面について話している。
以前の悠斗なら、好きな人の前で緊張して、ここまで自然に話せなかったかもしれない。
今はまだ少し照れているものの、二人の会話はずいぶん楽しそうだった。
「じゃあ、高坂君。またあとでね」
「うん。ありがとう、赤木さん」
赤木さんが自分の席へ戻ると、悠斗は小さく息を吐いた。
その表情には、安心と嬉しさが入り混じっている。
「……いやあ、朝からいいことあったわ」
「楽しそうだったね」
「だろ? 赤木さんの方から話しかけてくれたんだぜ」
悠斗は少し声を落とした。
「しかも、俺が好きそうだからって調べてくれたらしくてさ」
「それは嬉しいね」
「そうなんだよ。俺のこと考えてくれたのかなって思うと、もう……」
そこで悠斗は言葉を止め、照れくさそうに笑った。
俺は頷いた。
「相手が自分の好きなものを覚えてくれてると嬉しいよね」
「……お前、そういうの分かるんだな」
「分かるよ。俺だって、好きな本を覚えててもらえたら嬉しいし」
悠斗はしばらく俺を見つめた。
それから、何かを諦めたように肩を落とす。
「……そうだよな。お前の場合、まず本になるよな」
「何か問題ある?」
「いや、問題はないんだけどさ」
悠斗は苦笑した。
「お前って、女の子に本を薦めてもらったらどう思う?」
「嬉しいと思うよ。自分じゃ選ばない本を知れるかもしれないし」
「じゃあ、その子がお前のことを考えて、一生懸命選んでくれた本だったら?」
俺は少し考えた。
それは、さらに嬉しいことだろう。
「大事に読みたいと思うかな。感想もちゃんと伝えたいし」
そう答えると、悠斗はゆっくり天井を仰いだ。
「……そこまで分かってるのに、何でなんだろうな」
「何が?」
「いや、何でもない。今のは俺の独り言」
悠斗は苦笑しながら、雑誌を鞄へしまった。
俺には、彼が何を言いたかったのかよく分からなかった。
ただ、赤木さんとの関係について悩んでいることは確かなのだろう。
「悠斗も、赤木さんに何か薦めてみたら?」
俺がそう言うと、悠斗は顔を上げた。
「え?」
「映画でも本でもいいけど、赤木さんが好きそうなものを考えてみるのも楽しいと思うよ」
悠斗は少し考え、それから嬉しそうに笑った。
「……それ、いいな。ありがとう、春樹」
「どういたしまして」
俺が答えると、悠斗は満足そうに頷いた。
どうやら、少しは役に立てたらしい。
◇◇◇
昼休み。
俺は弁当を食べ終えると、ノートを持って図書室へ向かった。
今日相談したいのは、紹介する本の候補を集める方法についてだ。
図書室へ入ると、白石先輩は返却された本を整理していた。
カウンターの向こうでは、別の図書委員が貸出記録を確認している。窓際の席には数人の生徒が座っていて、静かな室内には紙をめくる音がときどき響いていた。
「こんにちは、白石先輩」
「あら、七瀬君。こんにちは」
先輩は顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「今日は何か相談?」
「はい。昨日の展示分類について、少し考えてきたことがあるんです」
俺がノートを開くと、白石先輩は手元の本を片づけ、作業机の方へ案内してくれた。
「どんなことを考えたの?」
「展示する本の候補を、俺たちだけで考えるんじゃなくて、ほかの人にも聞いてみたらどうかなって」
先輩は少しだけ目を見開いた。
「ほかの人にも?」
「はい。例えば、図書委員の人たちが薦めたい本とか、普段図書室を利用している人が好きな本とか。そういう意見があると、選び方が広がると思うんです」
俺はノートへ書いた見出しを見せた。
『人に薦めたい本について』
白石先輩はその文字を見つめ、ゆっくり頷いた。
「……いい考えね」
「本当ですか?」
「ええ。展示のために本を選ぶとき、どうしても自分たちの好みが中心になりやすいもの。いろいろな人の意見を聞けたら、普段は目を向けない作品も見つかりそうだわ」
俺は嬉しくなった。
「そうですよね。俺も、恋愛小説や日常ものばかり考えちゃいそうなので」
「ふふ。七瀬君らしいわね」
先輩は楽しそうに笑った。
それから、少し考えるように視線を落とした。
「ただ、実際に意見を募集するなら、図書委員会で相談する必要があるわね。募集方法も決めないといけないし、集まった意見を全部展示に反映できるとは限らないから」
「はい。そこは分かってます」
俺は頷いた。
「今は、そういう方法もあるかなって思っただけなので」
「それなら、次の相談のときに候補として出してみましょうか」
「ありがとうございます」
白石先輩は微笑んだ。
「それにしても、七瀬君は本当に楽しそうね」
「え?」
「読書週間の準備をしているとき、いつも嬉しそうな顔をしているから」
俺は少し照れくさくなった。
「……まあ、好きな本のことを考えられるので」
「そうね。でも、それだけじゃない気がするわ」
先輩は穏やかに続けた。
「最近の七瀬君は、誰かが本を楽しんでくれることも、とても嬉しそうにしているでしょう?」
俺は少し考えた。
確かに、そうかもしれない。
雫が借りた短編集を楽しんでくれていることも、小日向さんや新海さんが貸した本について話してくれることも、俺にとっては嬉しい出来事だ。
「……そうですね。自分が好きな本を誰かが楽しんでくれると、やっぱり嬉しいです」
「ふふ。素敵なことだと思うわ」
白石先輩はそう言って、少しだけ視線を和らげた。
「私も、七瀬君に本を薦めるのが楽しいもの」
俺は顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。七瀬君は、薦めた本をちゃんと読んで、どこが面白かったのか話してくれるでしょう? だから、次はどんな本を紹介しようか考えるのも楽しいの」
俺は思わず笑った。
「それなら、俺も嬉しいです。先輩が薦めてくれる本、いつも面白いですから」
白石先輩は一瞬だけ言葉を止めた。
それから、少し頬を染めて微笑んだ。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
窓から差し込む昼の光が、先輩の髪を柔らかく照らしていた。
俺はその表情を見ながら、次にどんな本を薦めてもらえるのか楽しみになった。
ちょうどそのとき、図書室の入口から明るい声が聞こえてきた。
「七瀬先輩!」
振り返ると、小日向さんが新海さんと一緒に立っていた。
「こんにちは、小日向さん。新海さんも」
「こんにちは、先輩!」
「……こんにちは」
二人は近づいてくると、俺の開いていたノートへ興味深そうに目を向けた。
「また読書週間の準備ですか?」
「うん。今日は紹介する本の候補について相談してたんだ」
「本の候補?」
小日向さんの目が輝いた。
「それ、私たちも考えていいんですか?」
俺は少し考えてから頷いた。
「まだ正式に募集するって決まったわけじゃないけど、意見を聞くのは参考になると思うよ」
「やった!」
小日向さんは嬉しそうに笑った。
隣の新海さんも、少しだけ表情を明るくしている。
「……どんな本でも、いいんでしょうか」
「もちろん。今は候補を考えている段階だからね」
俺が答えると、新海さんは静かに頷いた。
それから、少し考え込むように視線を落とす。
「……私、今借りている本も、誰かに薦めたいと思っています」
「文化祭の話だよね」
「はい」
新海さんは小さく微笑んだ。
「まだ全部読み終わってはいないんですけど、登場人物が自分の気持ちをどう伝えるか悩むところが、すごく印象に残っていて……」
彼女は言葉を選ぶように続けた。
「自分では当たり前だと思っていたことが、相手にはちゃんと伝わっていなかったりするんです。だから、言葉にすることって大切なんだなって思いました」
俺は頷いた。
「そうだね。あの作品、気持ちのすれ違いが丁寧に描かれてるから」
「……はい」
新海さんは嬉しそうに微笑んだ。
「それに、読んでいると、誰かと話したくなるんです」
俺はノートへ目を落とした。
『誰かと話したくなる本』
まさに、その分類に合いそうな感想だった。
「それ、すごく参考になるよ」
「……本当ですか?」
「うん。俺は作品の内容から考えてたけど、新海さんみたいに実際に読んでどう感じたかを聞くと、紹介の仕方も変わりそうだから」
新海さんは少し頬を赤くした。
「……ありがとうございます」
すると、小日向さんが勢いよく手を挙げた。
「はい! 私もあります!」
「うん。小日向さんは?」
「私、今借りてる放送部のお話がいいです!」
小日向さんは嬉しそうに答えた。
先週貸した、放送部を舞台にした青春小説だ。
「おっ、読み進めてくれてるんだね」
「はい! まだ途中なんですけど、すごく面白いです!」
小日向さんは身を乗り出しかけ、すぐに図書室だと思い出したのか声を少し落とした。
「最初は、放送ってもっと特別な人がやるものだと思ってたんです。でも、登場人物たちが失敗しながら頑張ってるのを読むと、自分も何かやってみたくなるんですよね」
「なるほど。元気が欲しいときに合いそうだね」
「そうです! それです!」
小日向さんは大きく頷いた。
「あと、先輩に薦めてもらったっていうのも嬉しくて……」
そこまで言うと、彼女は急に言葉を止めた。
俺が首を傾げると、小日向さんは慌てたように笑った。
「い、いえ! 本が面白いって話です!」
「うん。楽しんでもらえてよかったよ」
俺が答えると、小日向さんは少しだけ頬を膨らませた。
その様子を見て、新海さんが小さく笑っている。
白石先輩も穏やかな表情で二人を見守っていた。
「……ふふ。二人とも、いい感想をありがとう」
先輩がそう言うと、小日向さんは嬉しそうに頷いた。
「こちらこそです! 読書週間、楽しみになってきました!」
「……私もです」
新海さんも静かに答えた。
俺はノートへ二人の意見を書き留めた。
放送部の青春小説は、少し元気が欲しいとき。
文化祭の青春小説は、誰かと話したくなる本。
どちらも正式な展示候補として決まったわけではないが、読んだ人の感想を聞くことで、新しい見方が増えた気がする。
(……やっぱり、いろんな人に聞いてみるのは面白いな)
俺はそんなことを考えながら、ノートを閉じた。
◇◇◇
そのころ、図書室の入口近くでは、小日向ひよりが新海真実と並んで歩いていた。
カウンターから少し離れたところまで来ると、ひよりは小さく息を吐いた。
「……ああ、もう。先輩って本当にそういうところあるよね」
真実は隣の友人を見た。
「……そういうところ?」
「だって、私が先輩に薦めてもらったのが嬉しいって言ったのに、普通に本の話だと思ってるんだもん」
ひよりは少し頬を膨らませた。
けれど、その表情には怒りよりも、どこか楽しそうな色が浮かんでいる。
「……七瀬先輩らしいと思う」
真実が静かに答えると、ひよりは苦笑した。
「うん。分かってるんだけどね」
ひよりは振り返り、図書室の奥へ目を向けた。
七瀬春樹は、白石栞と一緒にノートを確認している。
彼は誰かの感想を聞くと、本当に嬉しそうな顔をする。
その表情を見るたびに、ひよりは自分の好きなものをもっと知ってほしくなるし、彼が好きなものも知りたくなる。
(……私も、先輩に何か薦めてみたいな)
そう思ったところで、ひよりは隣の真実へ目を向けた。
「ねえ、真実」
「……何?」
「今度さ、私たちからも七瀬先輩に本を薦めてみない?」
真実は少し驚いたように目を見開いた。
「……私たちから?」
「うん。いつも先輩に教えてもらってばっかりだし」
ひよりは笑った。
「たまには、先輩が知らない本を紹介できたら面白そうじゃない?」
真実は少し考え込んだ。
彼女も、七瀬先輩に本を薦めてもらう時間が好きだった。
自分が読んだ本の感想を聞いてもらえることも嬉しい。
だからこそ、今度は自分から何かを伝えてみたいという気持ちもあった。
「……うん。いいと思う」
真実は小さく微笑んだ。
「でも、先輩がまだ読んでいない本を探すのは、難しそう」
「そこなんだよねえ……」
ひよりは少し考え、それから笑った。
「まあ、まずは私たちが本当に好きな本を探そうよ」
「……そうだね」
二人は頷き合った。
まだ何を薦めるかは決まっていない。
けれど、七瀬春樹に読んでほしい本を探すという小さな目標が、二人の間に生まれていた。
◇◇◇
午後の授業が終わると、俺は教室でノートを整理していた。
昼休みに聞いた小日向さんと新海さんの感想は、思っていた以上に参考になった。
俺は作品の内容や構成から紹介文を考えることが多い。
けれど、実際に読んだ人が何を感じたかという視点を加えると、同じ本でも違う魅力が見えてくる。
(……これなら、紹介カードの文章ももう少し考えられそうだな)
そんなことを思っていると、悠斗が隣へやってきた。
「春樹、今日も読書週間の準備?」
「うん。ちょっとメモを整理してた」
「本当に楽しそうだな、お前」
悠斗は笑った。
「まあ、好きなことだからね」
「それは分かるけどさ。最近、お前の周りって本の話で盛り上がってること多いよな」
俺は頷いた。
「そうだね。みんな、意外といろいろな本を読んでるんだよ」
「……そういう意味だけじゃないんだけどな」
悠斗は苦笑した。
俺が首を傾げると、彼は何でもないように手を振った。
「いや、こっちの話。それより、俺もちょっと聞いていいか?」
「もちろん」
「赤木さんに映画を薦めるなら、どういうふうに話したらいいと思う?」
俺は少し考えた。
映画と本では違う部分もあるだろうが、相手に作品を薦めるという点では共通している。
「まず、赤木さんがどんな作品を好きなのか考えるのがいいんじゃないかな」
「うん。それはそうだよな」
「それから、どうして自分がその作品を好きなのか、ちゃんと伝えるといいと思う」
俺は続けた。
「ただ面白いって言うより、どんなところが好きなのか話した方が、相手も興味を持ちやすいと思うから」
悠斗は真剣な顔で頷いた。
「なるほどな……」
「でも、無理に相手の好みに合わせすぎなくてもいいと思うよ。悠斗が本当に好きな作品なら、その気持ちは伝わるんじゃないかな」
そう言うと、悠斗は少し驚いたような顔をした。
それから、ゆっくり笑った。
「……ありがとな、春樹」
「どういたしまして」
「やっぱり、お前に聞いてよかったわ」
悠斗は嬉しそうに笑った。
俺も少し安心した。
好きな人に何かを薦めるというのは、きっと緊張することなのだろう。
けれど、悠斗なら大丈夫だと思う。
赤木さんも、彼の話を楽しそうに聞いているのだから。
そんなことを考えていると、教室の入口から声がした。
「七瀬君、少しいいかしら?」
振り返ると、九条さんが立っていた。
「九条さん。どうしたの?」
「読書週間の注意表示について、確認したいことがあるの」
彼女は手に持っていた書類を見せた。
「昨日話した案なんだけど、掲示する場所によって文章の長さを変える方法も考えているの。ただ、実際の配置はまだ決まっていないから、図書委員会と相談する前に意見を聞いておきたくて」
俺は頷いた。
「なるほど。短い文章なら、通りがかりでも読みやすいかもしれないね」
「ええ。でも、短すぎると何を伝えたいのか分かりにくくなることもあるわ」
九条さんは少し考えるように続けた。
「だから、場所によって使い分けるなら、目的をはっきりさせておきたいの」
「うん。いいと思う」
俺が答えると、九条さんは少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう。七瀬君の意見も参考にするわ」
それから、彼女は俺の机へ目を向けた。
「……ところで、また紹介カードの作業をしていたの?」
「うん。昼休みに聞いた感想を整理してたんだ」
「そう」
九条さんは少しだけ眉を寄せた。
「七瀬君、最近ずっと準備のことを考えていない?」
「そんなことないよ。ちゃんと本も読んでるし」
「……それも読書でしょう」
彼女は小さく息を吐いた。
隣で悠斗が笑いをこらえている。
「いや、九条さん。春樹にとっては本を読むのが休憩なんだよ」
「それは分かっているわ。でも、好きなことでも疲れるときはあるでしょう?」
九条さんは真面目な表情で答えた。
俺は少し考え、頷いた。
「……確かに。気をつけるよ」
「ええ。そうして」
彼女は少し安心したように微笑んだ。
その表情を見て、俺も自然に笑った。
「心配してくれてありがとう」
九条さんは一瞬だけ言葉を止めた。
それから、少しだけ視線を逸らした。
「……別に、特別なことじゃないわ。風紀委員としても、無理をして体調を崩されるのは困るもの」
「うん。分かってる」
俺が頷くと、彼女は小さく息を吐いた。
どうやら、俺の返事に納得してくれたらしい。
九条さんは書類をまとめ、教室を出ていった。
その後ろ姿を見送っていると、悠斗が俺の肩を軽く叩いた。
「……春樹」
「何?」
「お前、本当にすごいな」
「何が?」
「いや、もういい。俺、最近このやり取りにも慣れてきたわ」
悠斗は苦笑した。
俺には、やっぱり意味が分からなかった。
◇◇◇
その日の放課後、白石栞は図書室の作業机で紹介カードの候補を確認していた。
七瀬春樹が昼休みに話していた、いろいろな人の意見を聞いてみるという案。
まだ正式に決まったわけではないが、栞はその考え方が気に入っていた。
読書週間の展示は、本を紹介するためのものだ。
けれど、紹介する側が一方的に作品を選ぶだけではなく、読む人の気持ちや好みを考えることも大切なのだろう。
(……七瀬君は、そういうところを自然に考えられるのね)
栞は小さく微笑んだ。
最初に図書室で話したころの春樹は、ただ静かに本を読みたいという気持ちが強かった。
もちろん、今でも本を読むことが大好きなのは変わらない。
けれど、最近は誰かに本を薦めたり、感想を聞いたりすることにも、以前より積極的になっている。
その変化を近くで見られることが、栞には嬉しかった。
ただ、その気持ちを本人へどう伝えればいいのかは、まだ分からない。
(……本の話なら、いくらでもできるのに)
栞は少しだけ苦笑した。
春樹と話すとき、好きな作品についてなら自然に言葉が出てくる。
けれど、自分自身の気持ちについて話そうとすると、どうしても慎重になってしまう。
今の関係を大切にしたい。
その思いがあるからこそ、急いで何かを変えたいとは思わなかった。
栞は机の上の資料へ目を戻した。
春樹が考えた紹介カードには、まだ修正できそうな部分がある。
けれど、その文章には、彼が本を大切に思っていることがよく表れていた。
(……私も、七瀬君に読んでほしい本を、また探してみようかしら)
そんなことを考えながら、栞は静かにページをめくった。
◇◇◇
校門を出ると、雫が少し離れたところで待っていた。
俺に気づいた彼女は、嬉しそうに手を振ってくれる。
「春樹、お疲れさま」
「雫。待っててくれたんだね」
「うん。今日は一緒に帰れそうだったから」
俺は頷いた。
「もちろん。ちょうど帰るところだったよ」
雫は嬉しそうに笑い、俺の隣へ並んだ。
夕方の空は淡い橙色に染まり、校門の近くでは部活動へ向かう生徒たちが行き交っている。少し離れた運動場からは掛け声が聞こえ、通学路には帰宅する生徒たちの足音が重なっていた。
「今日の読書週間の準備、どうだった?」
雫が尋ねた。
「結構面白い話ができたよ」
「どんな?」
「展示する本の候補を、いろいろな人に聞いてみたらどうかなって考えたんだ」
俺が説明すると、雫は興味深そうに頷いた。
「へえ。いいね、それ」
「うん。まだ正式に決まったわけじゃないけど、今日も小日向さんと新海さんから感想を聞けて、すごく参考になったんだ」
「そっか」
雫は微笑んだ。
それから、少し考えるように首を傾げる。
「……じゃあ、私も何か考えてみようかな」
「もちろん。雫の意見も聞いてみたいよ」
俺が答えると、雫は少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとう」
俺たちは並んで歩き続けた。
しばらくすると、雫が口を開いた。
「ねえ、春樹」
「うん?」
「もし、私が春樹に本を薦めるなら……どんな本がいいと思う?」
俺は少し考えた。
雫が俺に薦める本。
それは、彼女自身が好きな作品なら何でも嬉しい。
「雫が本当に好きだと思った本がいいかな」
「……やっぱり、そう言うと思った」
雫は小さく笑った。
「でも、それだと余計に悩んじゃうんだよね」
「どうして?」
「だって……」
雫は少しだけ言葉を止めた。
それから、俺の方を見た。
「春樹に、ちゃんと好きになってほしいから」
俺は少し驚いた。
雫は真剣な表情をしていた。
俺に薦める本を、それだけ大切に考えてくれているらしい。
「……ありがとう」
俺は自然に笑った。
「でも、無理に俺が好きそうな本を探さなくてもいいよ。雫が好きな本なら、俺もその理由を知りたいから」
雫はしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「……うん。分かった」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「じゃあ、私が本当に好きな本を選ぶね」
「楽しみにしてる」
俺が答えると、雫は嬉しそうに頷いた。
その表情を見て、俺も何だか嬉しくなった。
今までは、俺が誰かへ本を薦めることの方が多かった。
けれど、最近は逆に、誰かから本を薦めてもらう機会も増えている。
白石先輩が薦めてくれた連作短編集。
雫がこれから選んでくれる本。
小日向さんや新海さんも、いつか自分の好きな本を教えてくれるかもしれない。
そう考えると、これから読む本がますます増えそうだった。
(……これは、しばらく退屈しそうにないな)
俺はそんなことを考えながら、雫と並んで歩いた。
◇◇◇
家へ帰ったあと、俺は机の上へ今日のノートを広げた。
昼休みに聞いた感想。
白石先輩と相談した展示の候補。
九条さんが考えている注意表示。
どれもまだ正式に決まったものではないが、少しずつ形になってきている。
俺はノートを見ながら、今日の出来事を思い返した。
小日向さんは、放送部の青春小説を読んで、自分も何かに挑戦したくなったと言っていた。
新海さんは、文化祭の青春小説を通じて、気持ちを言葉にすることの大切さを感じたらしい。
同じ青春小説でも、読む人によって心に残るものは違う。
それが、俺には面白かった。
(……本を薦めるって、思ってた以上に奥が深いな)
俺は小さく笑った。
自分が好きな作品を紹介するだけなら、そこまで難しくない。
けれど、相手がどんな本を求めているのか、どんな気持ちで読んでいるのかを考えると、選び方は変わってくる。
それは、読書週間の展示だけでなく、普段誰かへ本を薦めるときにも大切なことなのだろう。
俺はノートへ、今日の感想を短くまとめた。
『読む人の感想を聞くと、本の新しい魅力が見えてくる』
書き終えると、少しだけ満足した。
それから、机の端に置いていた連作短編集を手に取った。
白石先輩に薦めてもらった作品だ。
まだ読み終わっていないが、登場人物たちの関係が少しずつつながっていくところが面白い。
俺は栞を挟んだページを開き、続きを読み始めた。
物語の中では、駅のホームで偶然再会した二人が、昔の出来事について話していた。
片方にとっては何でもない思い出だったことが、もう片方にとっては長く心に残る大切な記憶になっている。
その違いが、静かな会話の中で少しずつ明らかになっていく。
(……こういう描写、やっぱり好きだな)
俺はページをめくった。
人は、同じ出来事を経験しても、同じように覚えているとは限らない。
誰かにとって大切な言葉が、別の誰かには何気ない一言だったりする。
そういうすれ違いが、物語の中では恋愛や友情のきっかけになることもある。
俺はそんなことを考えながら、読み進めていった。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
雫からだった。
『春樹、今日はありがとう。帰り道の話、嬉しかったよ』
俺はすぐに返信した。
『こちらこそありがとう。雫のおすすめの本、楽しみにしてるね』
少しして、返事が届いた。
『うん。ちゃんと選ぶから、もう少し待っててね』
『もちろん。急がなくていいよ』
『ありがとう。おやすみ、春樹』
『おやすみ、雫』
やり取りを終え、俺はスマートフォンを置いた。
窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。
部屋の中には、ページをめくる音だけが響いていた。
俺は今日も、ただ本を読みたいだけだった。
けれど、最近は本を通じて、いろいろな人の気持ちを知る機会が増えている。
それは、思っていた以上に楽しい。
ただ、どうしてみんなが俺に本を薦めたいと言ってくれるのか、その理由についてはまだよく分からなかった。
(……まあ、好きな本を教えてもらえるのは嬉しいし、深く考えなくてもいいかな)
俺は小さく笑い、再びページへ目を落とした。
物語の中では、昔の約束を覚えていた人物が、ようやく自分の気持ちを言葉にしようとしている。
その場面を読みながら、俺は静かに息を吐いた。
こういう、長い時間をかけて積み重なった気持ちが少しずつ明らかになる展開は、やっぱり面白い。
けれど、自分のすぐ隣にも、長い間大切にされてきた気持ちがあるかもしれないなんて。
今の俺は、まだ気づいていなかった。




