第68話 読書週間の展示を考えたいだけなのに、どうして俺の好きな本が恋の話につながるんだ?
木曜日の朝、俺は机の上に置いた文庫本へ栞を挟み、昨夜読んだところを思い返していた。
白石先輩に薦めてもらった、駅を舞台にした連作短編集。昨夜は予定より少し長く読み進めてしまったが、そのおかげで、登場人物たちの何気ない会話が少しずつつながっていく面白さを改めて感じることができた。
それぞれの物語は独立しているようで、同じ駅を利用する人々の生活が、ほんの少しずつ重なっている。ある人物にとっては何でもない一言が、別の人物にとっては長く心に残る言葉になっていることもあって、読み返すと最初とは違う印象を受けそうだった。
(……こういう連作短編集も、読書週間で紹介できたら面白そうだよな)
俺はそんなことを考えながら、机の端に置いたノートを開いた。
昨日までに考えた紹介カードの候補は、少しずつ形になってきている。
大学で再会した幼馴染の恋愛小説には、相手の気持ちをどれくらい知っているかという問いかけを使う案がある。日常ものの短編集には、何でもない一日が少しだけ好きになるという文章を考えた。
どちらも白石先輩や雫たちから意見をもらい、最初に書いたときより読みやすくなっていると思う。
ただ、読書週間の展示そのものは、まだ決まっていない。
紹介する本の数も、カードの大きさも、実際に使える場所も、これから図書委員会や関係する先生方と確認する必要がある。俺が考えている文章も、今はあくまで候補だ。
それでも、昨日までの相談を通じて、少しずつ準備が進んでいることは実感できていた。
(今日は、展示する本の組み合わせについても考えてみようかな)
恋愛小説ばかり並べるのも面白いが、それではほかのジャンルを読みたい人が興味を持ちにくいかもしれない。
反対に、いろいろなジャンルを無計画に並べても、展示全体のまとまりがなくなってしまう。
雫が以前提案してくれた、気分に合わせて本を選べるようにするという考え方は、そうした問題を考えるうえでも参考になりそうだった。
俺はノートの余白へ、思いついた言葉を書き加えた。
『落ち着きたいとき』
『少し元気が欲しいとき』
『誰かと話したくなる本』
もちろん、これもまだ候補だ。
実際に展示するなら、図書委員会で相談して、無理のない数へ絞る必要があるだろう。
そんなことを考えていると、スマートフォンが短く震えた。
『春樹、おはよう。今日は昨日より少し暖かいみたいだね』
雫からのメッセージだった。
俺は窓の外へ目を向けた。
確かに、昨日より日差しが明るく、庭先の木々も穏やかな風に揺れている。
『おはよう。そうみたいだね。今日は上着いらないかな』
そう返信すると、すぐに返事が届いた。
『朝はまだ少し冷えるから、持っていった方がいいと思うよ』
俺は思わず笑った。
『分かった。ちゃんと持っていくよ』
『うん。じゃあ、いつものところでね』
短いやり取りを終え、俺はスマートフォンを鞄へしまった。
雫は昔から、こういう小さなことをよく気にしてくれる。
俺が本を読んでいるうちに時間を忘れることも、朝の準備で何かを後回しにしてしまうことも、彼女にはすっかり知られているらしい。
(……幼馴染って、こういうところは便利だよな)
もっとも、昨日の帰り道には、昔から一緒にいる相手でも知らないことはあるという話をしたばかりだ。
雫が最近好きになったものについても、俺はまだ全部を聞いていない。
そう考えると、長く一緒にいることと、相手のすべてを理解していることは、やはり別なのだろう。
俺はノートを閉じ、鞄の中身を確認してから部屋を出た。
今日も学校が始まる。
読書週間の準備を少し進めて、授業を受けて、時間があれば図書室で本を読む。
そんな一日になればいいと思っていた。
◇◇◇
いつもの待ち合わせ場所へ着くと、雫は道の向こうから歩いてきていた。
俺に気づいた彼女は、少し歩幅を速めて近づいてくる。
「おはよう、春樹。今日は早いね」
「おはよう。今朝は準備が順調だったから」
「ふふ。本を読み始めて時間を忘れたりしなかったんだ?」
「今日はちゃんと我慢したよ。続きは帰ってから読むつもり」
俺が答えると、雫は楽しそうに笑った。
彼女は俺の隣へ並び、俺たちは学校へ向かって歩き始めた。
住宅街の通学路には、朝の穏やかな光が差し込んでいる。歩道沿いの花壇では小さな花が咲き始めていて、近くの家からは洗濯物を干す音が聞こえてきた。
しばらく歩いたところで、雫が口を開いた。
「そういえば、昨日の夜も借りた短編集を読んでたんだけどね」
「うん。どうだった?」
「また好きな場面が増えちゃった」
雫は嬉しそうに笑った。
「今度のお話は、同じ場所へ通ってる人たちが、少しずつ顔見知りになっていくところがよかったな。最初は挨拶するだけだったのに、相手の様子がいつもと違うことに気づくようになるんだよね」
「ああ、分かる。あの話、何気ない変化の描き方がいいんだよ」
俺は思わず頷いた。
「相手が何かを説明しなくても、いつもと違う表情とか、普段ならしない行動から気づくことがある。そういう細かい描写が丁寧なんだよね」
「うん。私もそこが好き」
雫はそう答えてから、少しだけ俺の顔を見た。
「……春樹も、最近は私の様子が違うと気づいてくれることあるよね」
俺は少し考えた。
確かに、以前より雫の表情や声の調子を気にすることが増えた気がする。
昨日も帰り道で、彼女が何か考えているように見えたので声をかけた。
「そうかな。まあ、雫がいつもより静かだったりすると、何かあったのかなって思うよ」
「……そっか」
雫は小さく笑った。
その表情には、どこか嬉しそうな色が浮かんでいる。
「じゃあ、春樹も少しずつ変わってるのかもしれないね」
「俺が?」
「うん。前だったら、本のことを考えてて気づかなかったかもしれないし」
俺は思わず苦笑した。
「それは否定できないな」
「ふふ。別に悪い意味じゃないよ」
雫は笑いながら続けた。
「春樹が本を好きなのは昔から知ってるし、そこは変わらなくていいと思う。でも、最近は本以外のことも、前よりちゃんと見てくれてる気がするから」
俺は少し驚いた。
自分では、そこまで大きく変わったつもりはない。
ただ、読書週間の準備を通じて、いろいろな人と話す機会が増えたことは確かだった。
「……そう言われると、最近は人と話す時間が増えたかもしれないね」
「うん。私もそう思う」
雫は頷いた。
それから、少しだけ声を和らげる。
「でも、春樹が本を楽しそうに読んでるところは、これからも見ていたいな」
俺は自然に笑った。
「それなら心配いらないよ。本を読むのをやめるつもりはないから」
「……うん。知ってる」
雫は少しだけ困ったように笑った。
その表情が気になったものの、彼女はすぐに前を向き直した。
俺たちは並んで歩き続けた。
朝の風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗が自分の席でノートを広げていた。
珍しく勉強でもしているのかと思ったが、近づいてみると、そこには映画の題名らしい言葉がいくつか書かれている。
「おはよう、悠斗。何してるの?」
「おっ、春樹。おはよう」
悠斗は顔を上げ、少し照れくさそうに笑った。
「いや、赤木さんと話してた映画のこと、ちょっと調べててさ」
「へえ。昨日も話してたもんね」
「そうなんだよ。あの監督の別の作品も面白そうでさ。今度、赤木さんに話してみようかなって」
俺は頷いた。
悠斗は以前、赤木さんをまたどこかへ誘いたいと話していた。
今は共通の話題を増やしながら、自然に次の機会を探しているらしい。
「いいと思うよ。赤木さんも映画の話、楽しそうにしてたし」
「だよな。……たださ」
悠斗は少しだけ声を落とした。
「俺、最近ちょっと考えることがあって」
「何?」
「好きな人と話すときって、何を話すかも大事だけど、相手がどう感じてるかも気になるんだよな」
俺は少し考えた。
確かに、相手が楽しんでいるかどうかは大切だ。
自分だけが一方的に話していても、会話としてはうまくいかないことがある。
「そうだね。相手の反応を見ながら話すのは大事だと思う」
「……お前、普通にそういうこと言えるんだな」
悠斗は何とも言えない表情をした。
「何か変?」
「いや、変じゃない。むしろ正しいと思うんだけどさ」
悠斗は少しだけ笑った。
「春樹って、恋愛小説を読むの好きだろ?」
「うん。好きだよ」
「だったら、登場人物が相手の気持ちに気づかない展開とか、読んでてどう思う?」
俺は少し考え込んだ。
恋愛小説では、相手の好意に気づかない主人公が登場することも多い。
ただ、それが必ずしも悪いとは思わない。
「作品によるかな。気づかない理由がちゃんと描かれてれば、自然だと思うよ」
「例えば?」
「相手のことを大切に思ってるからこそ、恋愛感情だとは考えられない場合もあるだろうし。昔からの関係が当たり前になってると、変化に気づきにくいこともあるんじゃないかな」
俺が答えると、悠斗はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり額へ手を当てた。
「……お前、本当に分かってないんだな」
「何が?」
「いや、もういい。今の話、忘れてくれ」
悠斗は苦笑した。
俺は少し不思議に思ったが、彼がそれ以上話そうとしなかったので、無理に聞くことはしなかった。
ちょうどそのとき、赤木さんが教室へ入ってきた。
「おはよう、高坂君。七瀬君も」
「おはよう、赤木さん」
「お、おはよう」
悠斗は少しだけ姿勢を正した。
赤木さんはそんな彼の様子に気づいたのか、柔らかく笑った。
「昨日話してた映画、少し調べてみたんだけど、ほかにも気になる作品があったんだ」
「本当? 俺もいくつか調べてたんだよ」
「じゃあ、あとで教えてくれる?」
「もちろん!」
二人は楽しそうに話し始めた。
俺はその様子を見ながら、悠斗の心配は少しずつ減っているのかもしれないと思った。
少なくとも、赤木さんも彼との会話を楽しんでいるように見える。
(……やっぱり、いい感じだと思うんだけどな)
俺はそんなことを考えながら、自分の席へ戻った。
◇◇◇
午前中の授業が終わると、俺は昼食を済ませてから図書室へ向かった。
今日は、昨日までに考えた紹介カードの候補を白石先輩へ見せるだけでなく、展示する本の組み合わせについても相談したいと思っていた。
図書室へ入ると、カウンターの近くで白石先輩が資料を整理していた。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは、白石先輩。少し相談してもいいですか?」
「もちろん。今日は何か新しい案があるの?」
先輩は柔らかく微笑み、俺を作業机へ案内してくれた。
俺はノートを開き、今朝考えた分類案を見せた。
「以前、西条さんが提案してくれた、気分に合わせて本を選べる展示なんですけど……」
「ああ、あの案ね。覚えているわ」
白石先輩は頷いた。
「図書委員会でも、分かりやすいという意見があったの。ただ、展示スペースのことを考えると、あまり分類を増やしすぎない方がよさそうなのよね」
「そうですよね」
俺は頷いた。
図書室の入口付近には、もともと新着本の案内や貸出に関する掲示がある。
読書週間の展示を増やすなら、通行の邪魔にならないようにする必要があるし、普段の利用者が困らない配置も考えなければならない。
「だから、まずは二つか三つくらいの分類で考えてみようかと思って」
俺がそう言うと、白石先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「いいと思うわ。最初から全部を決めるのではなく、候補を絞って考える方が進めやすいもの」
先輩はノートへ目を落とした。
『落ち着きたいとき』
『少し元気が欲しいとき』
『誰かと話したくなる本』
その三つを読み、少し考えるように首を傾げる。
「……この分類、面白いわね」
「本当ですか?」
「ええ。ジャンルで分けるより、読む人が今どんな気分なのかを考えて選べるところがいいと思うの」
白石先輩はそう言って、机の上の資料へ目を向けた。
「ただ、同じ本が複数の分類に当てはまることもありそうね」
「確かに……」
俺は頷いた。
例えば、日常ものの短編集は落ち着きたいときにも合うし、誰かと話したくなる本としても紹介できそうだ。
恋愛小説だって、元気が欲しいときに読みたい人もいれば、静かに気持ちを整理したいときに読む人もいるだろう。
「そう考えると、分類を決めるのも簡単じゃないですね」
「そうね。でも、だからこそ面白いのかもしれないわ」
白石先輩は微笑んだ。
「本をどう紹介するかによって、読む人の受け取り方も変わるでしょう?」
「はい。昨日も、同じ紹介文なのに人によって感じ方が違うって話になりました」
「ふふ。七瀬君は、そういう違いを楽しめるところが素敵ね」
俺は少し照れくさくなった。
「ありがとうございます。でも、俺もまだ分からないことばかりです」
「それでいいと思うわ。分からないことがあるから、誰かと相談する意味があるんだもの」
先輩は穏やかに答えた。
俺はその言葉に頷いた。
確かに、読書週間の準備を一人で全部進める必要はない。
白石先輩や図書委員の人たち、九条さんや生徒会の人たち、それぞれが違う視点から考えてくれている。
俺は本の魅力を伝える部分で、できることをすればいいのだろう。
そんなことを考えていると、図書室の入口から声が聞こえた。
「七瀬君、白石先輩。少しいいかしら?」
振り返ると、九条さんが数枚の書類を持って立っていた。
「こんにちは、九条さん」
「こんにちは。ちょうど読書週間の話をしていたところよ」
白石先輩が答えると、九条さんは小さく頷いた。
「それならよかったわ。注意表示の案について、少し確認したいことがあるの」
彼女は作業机へ近づき、書類を広げた。
そこには、以前から相談していた二つの注意文が書かれている。
『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』
『本の続きは、安全な場所で』
どちらも、歩きながら本を読まないように呼びかけるための案だ。
九条さんは書類を指さしながら説明した。
「風紀委員の中では、短い方が目に入りやすいという意見が多かったの。ただ、図書室の入口に置くなら、もう少し柔らかい表現でもいいんじゃないかという話も出ているわ」
「なるほど」
俺は頷いた。
「場所によって使い分けることもできそうだね」
「ええ。ただ、まだ掲示場所の許可が出ていないから、今は案として残してあるだけよ」
九条さんは落ち着いた声で続けた。
「それと、展示の配置によっては注意表示が見えにくくなるかもしれないから、図書委員会とも相談しておきたいの」
白石先輩は頷いた。
「分かったわ。こちらもまだ配置は決まっていないから、候補がまとまったら一緒に確認しましょう」
「ありがとうございます」
九条さんは小さく頭を下げた。
それから、俺へ目を向ける。
「七瀬君も、紹介カードの文章を考えているんでしょう?」
「うん。今朝も少し案を増やしてみたんだ」
「……また朝から作業してたの?」
九条さんは少しだけ眉を寄せた。
俺は苦笑した。
「そんなに長くはやってないよ。ちゃんと朝ご飯も食べたし」
「そういう問題だけじゃないんだけど……」
彼女は小さく息を吐いた。
「まあ、無理をしていないならいいわ。でも、休む時間もちゃんと取ってね」
「ありがとう。気をつけるよ」
俺が答えると、九条さんは少しだけ表情を和らげた。
白石先輩も微笑んでいる。
何だか最近、いろいろな人から同じようなことを言われる気がする。
(……そんなに心配されるほど、俺って本に夢中になってるのかな)
自覚がないわけではない。
けれど、読書週間の準備も楽しいのだから、つい考えてしまうのは仕方がないと思う。
俺はそんなことを考えながら、二人と一緒に展示の案を確認していった。
◇◇◇
放課後、俺は教室で鞄をまとめていた。
今日は昼休みにある程度相談できたので、図書室へ長く残る必要はない。
家に帰ってからは、白石先輩に薦めてもらった連作短編集の続きを読みたいと思っていた。
そんなことを考えていると、教室の入口から声がした。
「七瀬君、少しいいかしら?」
顔を上げると、一ノ瀬先輩が立っていた。
「一ノ瀬先輩。こんにちは」
「こんにちは。帰るところだった?」
「はい。でも、少しなら大丈夫です」
俺が答えると、先輩は穏やかに微笑んだ。
「ありがとう。読書週間のことで、少し確認したいことがあって」
俺たちは廊下の端にある窓際へ移動した。
放課後の校舎には部活動へ向かう生徒たちの声が響いていて、遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。
一ノ瀬先輩は手に持っていた資料を開き、展示スペースについて説明し始めた。
「図書委員会から、入口付近の展示について相談が来ているの。まだ正式な配置は決まっていないけれど、生徒会としても協力できることがあるか確認しているところよ」
「そうなんですね」
「ええ。凛からも、安全面について意見が出ているわ」
俺は頷いた。
「今日、九条さんとも話しました。注意表示の案も、少しずつ進んでるみたいです」
「そう。なら、うまく連携できそうね」
一ノ瀬先輩は微笑んだ。
それから、少しだけ俺の顔を見つめる。
「ところで、七瀬君」
「はい?」
「紹介カードの文章、また新しい案を考えているんでしょう?」
「はい。まだ候補ですけど、少しずつ整理してます」
「ふふ。相変わらず熱心ね」
先輩は楽しそうに笑った。
「前に見せてもらった恋愛小説の紹介文、覚えているわよ」
俺は少し驚いた。
「本当ですか?」
「もちろん。『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』……だったわね」
先輩はゆっくりと文章を読み上げた。
俺は頷いた。
「はい。今はその下の説明文を少し短くしてみたんです」
「そうなの? 見せてもらってもいいかしら」
「もちろんです」
俺は鞄からノートを取り出し、該当するページを開いた。
一ノ瀬先輩は文章を読み、少しだけ目を細めた。
「……なるほど。前よりすっきりしたわね」
「ありがとうございます」
「でも、やっぱり面白いわ。この問いかけ」
先輩はそう言って、俺へ視線を向けた。
「ねえ、七瀬君。あなたは、誰かに自分の気持ちを知ってほしいと思ったことはある?」
俺は少し考えた。
自分の気持ちを知ってほしいと思うこと。
それなら、ある。
「……ありますよ」
一ノ瀬先輩は少し意外そうな顔をした。
「あら。どんなとき?」
「好きな本の面白さを伝えたいときとか、感想を聞いてほしいときですね」
俺が答えると、先輩は一瞬だけ黙った。
それから、ゆっくりと笑った。
「……そういうところ、本当に七瀬君らしいわね」
「そうですか?」
「ええ。褒めているのよ」
先輩は楽しそうに微笑んだ。
「でも、今の答えも間違っていないと思うわ。自分が大切にしているものを誰かに知ってほしいという気持ちは、きっと誰にでもあるもの」
俺は頷いた。
確かに、本の話に限らず、自分が好きなものや大切にしていることを理解してもらえるのは嬉しい。
「そうですね。だから、相手の好きなものもちゃんと聞きたいなって思います」
俺がそう答えると、一ノ瀬先輩は少しだけ表情を和らげた。
「……七瀬君は、そういうところが優しいのね」
「ありがとうございます。でも、そんな大したことじゃないですよ」
「ふふ。自分では分からないものなのかもしれないわね」
先輩は小さく笑った。
それから、資料を閉じて鞄へしまう。
「今日はありがとう。展示のことは、また正式に決まったら連絡するわ」
「はい。よろしくお願いします」
「それと……」
先輩は少しだけ声を和らげた。
「借りている『雨上がりの交差点で』、もう少しだけ借りていてもいいかしら?」
「もちろんです。急がなくて大丈夫ですよ」
「ありがとう。読み終わったら、ちゃんと感想を伝えるわね」
「楽しみにしてます」
俺が笑うと、一ノ瀬先輩も嬉しそうに微笑んだ。
「……ええ。私も楽しみにしているわ」
そう言って、先輩は生徒会室の方へ歩いていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、ノートを鞄へしまった。
今日もいろいろな人と本の話をした。
それぞれ違う反応があって、面白かった。
(……やっぱり、読書週間の準備って楽しいな)
俺はそんなことを思いながら、昇降口へ向かった。
◇◇◇
校門を出ると、雫が少し離れたところで待っていた。
俺の姿を見つけると、軽く手を振ってくれる。
「春樹、お疲れさま」
「雫。待っててくれたの?」
「うん。今日は一緒に帰れるかなって思って」
俺は頷いた。
「もちろん。ちょうど帰るところだったよ」
「よかった」
雫は嬉しそうに笑い、俺の隣へ並んだ。
夕方の通学路には、部活動を終えた生徒たちの姿がちらほら見える。空は少しずつ橙色へ変わり始めていて、街路樹の影が歩道へ長く伸びていた。
「今日の読書週間の相談、どうだった?」
雫が尋ねた。
「結構進んだよ。白石先輩と分類の案を考えたり、九条さんと注意表示の話をしたり」
「そっか。よかったね」
「うん。雫が前に言ってた、気分に合わせて本を選べる展示も、候補として残ってるよ」
俺がそう言うと、雫は少し驚いたように目を見開いた。
「本当?」
「うん。まだ決定じゃないけど、白石先輩も面白いって言ってくれた」
雫は嬉しそうに笑った。
「……そっか。私の考えたことも、少し役に立ってるんだね」
「もちろん。あの案、すごくいいと思うよ」
俺が答えると、雫は少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとう」
彼女は小さく笑った。
それから、少しだけ考えるような顔をする。
「ねえ、春樹」
「うん?」
「本を薦めるときって、相手のことを考えるでしょ?」
「そうだね。どんな本が好きなのかとか、今どんな気分なのかとか」
「……じゃあ、春樹が私に本を薦めるときも、そういうこと考えてくれてるの?」
俺は少し考えた。
雫に本を薦めるとき。
確かに、彼女がどんな話を好きなのか、どんな場面に興味を持つのかを考えることはある。
「うん。雫が楽しめそうな本を選びたいからね」
俺が答えると、雫は少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「……そっか」
「何か変だった?」
「ううん。全然」
雫は首を振った。
「ただ、嬉しかっただけ」
その言葉に、俺は自然に笑った。
「それならよかった」
俺たちは並んで歩き続けた。
しばらくすると、雫が少しだけ声を落とした。
「……春樹って、誰かのことを考えて本を選ぶの、好きなんだね」
「うん。相手が楽しんでくれたら嬉しいし」
「……じゃあ、私が春樹に本を薦めたら、読んでくれる?」
俺は少し驚いた。
「もちろん。雫のおすすめなら、ぜひ読んでみたいよ」
雫は嬉しそうに笑った。
「……本当?」
「うん。雫がどんな本を選ぶのか、気になるし」
そう答えると、雫は少しだけ視線を落とした。
「……じゃあ、今度探してみようかな」
「楽しみにしてる」
俺が言うと、雫は小さく頷いた。
その横顔には、どこか安心したような表情が浮かんでいる。
俺はそんな彼女を見ながら、少し考えた。
今までは、俺が雫へ本を薦めることの方が多かった。
けれど、雫も最近はいろいろな本を読んでいる。
彼女が自分で選んだ本を薦めてくれるなら、それはきっと面白い経験になるだろう。
(……雫がどんな本を選ぶのか、楽しみだな)
俺はそんなことを考えながら、彼女と並んで歩いた。
◇◇◇
家へ帰ったあと、俺は机の上へ今日のノートを広げた。
白石先輩と相談した分類案。
九条さんから聞いた注意表示の話。
一ノ瀬先輩が確認している展示スペースのこと。
それぞれ、まだ決まっていないことは多い。
けれど、少しずつ準備が進んでいるのは確かだった。
俺はノートへ目を落としながら、今日の会話を思い返した。
白石先輩は、読む人がどんな気分なのかを考えて本を紹介するのが面白いと言ってくれた。
九条さんは、展示の場所や安全面について丁寧に考えていた。
一ノ瀬先輩は、自分の大切にしているものを誰かに知ってほしいという気持ちについて話してくれた。
雫は、俺が相手のことを考えて本を選んでいると知って、嬉しそうにしていた。
同じ本の話でも、受け取り方はそれぞれ違う。
それが、今日も面白かった。
(……本を薦めるって、ただ面白い作品を紹介するだけじゃないんだな)
俺は小さく笑った。
誰かがどんな物語を好きなのか。
どんな場面で心を動かされるのか。
そうしたことを知ると、その人のことを少しだけ理解できる気がする。
俺はノートを閉じ、本棚から駅を舞台にした連作短編集を取り出した。
白石先輩に薦めてもらった作品だ。
まだ読み終わっていないが、少しずつ登場人物たちの関係がつながっていくところが面白い。
ページを開くと、物語の中では駅のホームで二人の人物が会話を交わしていた。
何気ない言葉のやり取り。
けれど、その中には相手を気にかける気持ちが静かに描かれている。
俺はその場面を読みながら、今日のことを思い出した。
雫は、俺が自分のことを考えて本を選んでいると知って、嬉しそうにしていた。
白石先輩も、俺が薦める本を読むのが楽しいと言ってくれた。
小日向さんや新海さんも、以前貸した本を大切に読んでくれている。
そうしたことを考えると、本を通じて人とつながる時間は、思っていた以上に大切なものなのかもしれない。
(……でも、やっぱり一人で本を読む時間も好きなんだよな)
俺は苦笑した。
誰かと感想を話すのも楽しい。
けれど、静かな部屋で物語の世界へ入り込む時間も、俺にとっては欠かせない。
その両方を大切にできたら、きっと毎日がもっと楽しくなるだろう。
俺はそんなことを考えながら、ページをめくった。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
雫からだった。
『春樹、今日はありがとう。帰り道の話、嬉しかったよ』
俺はすぐに返信した。
『こちらこそありがとう。雫のおすすめの本、楽しみにしてるね』
少しして、返事が届いた。
『うん。春樹が好きになってくれそうな本、探してみるね』
俺はその文章を読み、自然に笑顔になった。
『ありがとう。無理に急がなくていいからね』
『分かってるよ。おやすみ、春樹』
『おやすみ、雫』
やり取りを終え、俺はスマートフォンを置いた。
窓の外では、夜の風が静かに木の葉を揺らしている。
部屋の中には、ページをめくる音だけが響いていた。
俺は今日も、ただ本を読みたいだけだった。
けれど、最近は本を通じて誰かと話す時間も、少しずつ増えている。
それは決して悪いことではない。
むしろ、思っていた以上に楽しい。
ただ、どうして本の話をしているだけなのに、みんなが俺自身の気持ちを気にするのか。
その理由については、まだよく分からなかった。
(……まあ、今は読書週間の準備を頑張ろう。みんなに楽しんでもらえる展示にしたいし)
そう考えて、俺は再び物語の世界へ意識を向けた。
ページの向こうでは、登場人物たちが少しずつ互いの気持ちを知ろうとしている。
その姿を読みながら、俺は静かに笑った。
物語の中の恋愛は、やっぱり面白い。
けれど、自分の周りで似たようなことが起きているかもしれないなんて、今の俺はまだ考えてもいなかった。




