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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第67話 読書週間の準備を進めたいだけなのに、どうして俺のおすすめが誰かの特別になるんだ?


 水曜日の朝、俺は机の上に広げたノートを眺めながら、昨日の放課後に作った紹介カードの試作について考えていた。窓の外では薄い雲の間から朝日が差し込み、カーテンの端を柔らかく照らしている。昨日より少し冷たい空気が部屋へ入り込んできたので、俺は窓を閉めてから椅子へ座り直した。


 ノートには、白石先輩と相談した二種類の紹介文が書かれている。一つは大学で再会した幼馴染たちの恋愛小説で、もう一つは小さな店とそこへ集まる人々の日常を描いた短編集だ。どちらも好きな作品だからこそ、読んだことのない人へ何を伝えれば興味を持ってもらえるのか、考え始めると簡単には答えが出ない。


(本の面白さを全部伝えようとすると長くなるし、短くしすぎると何の話か分からなくなる。紹介文って、思っていた以上に難しいんだよな)


 昨日、白石先輩は実際のカードに文章を配置してみることを提案してくれた。九条さんからは、展示する場所と読む人の距離によって文字の大きさを考える必要があると教えてもらった。文章を考えるだけで十分だと思っていた俺にとって、二人の意見は新鮮だった。


 俺は試作用紙を一枚取り出し、恋愛小説の紹介文へ目を落とした。


『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』


 改めて読むと、なかなかいい問いかけだと思う。幼馴染という関係は、昔から一緒にいるからこそ相手を理解しているつもりになりやすいし、時間が経つにつれて変わっていく気持ちに気づかないこともある。物語の主人公がそのことに気づいていく過程は、この作品の大きな魅力だった。


 ただ、最近はこの文章を見せるたび、なぜか俺自身の人間関係について質問されることが増えている。昨日も九条さんから、誰かの気持ちを知りたいと思ったときはどうするのかと聞かれたし、帰り道では雫から、現実の人の言葉の意味について考えたことがあるかと尋ねられた。


(……みんな、そんなにこの紹介文が気になるのかな。だったら、読書週間で使えたら嬉しいけど)


 俺は少し考えてから、試作用紙をノートへ挟んだ。今日も放課後に図書室へ寄るつもりだが、昨日と同じことを繰り返しても仕方がない。まずは試作したカードをほかの人に見てもらい、実際に読みやすいかどうか意見を聞いてみようと思う。


 机の端に置いていたスマートフォンが震えたのは、そのときだった。


『春樹、おはよう。今日は昨日より寒いみたいだから、上着忘れないでね』


 雫からのメッセージだった。俺は思わず笑い、椅子の背もたれに掛けていた上着へ目を向けた。


『おはよう。今日はちゃんと準備してるよ。雫も風邪ひかないようにね』


 返信すると、すぐに返事が届いた。


『ありがとう。じゃあ、いつものところで待ってるね。今日はちょっと話したいこともあるんだ』


 俺は画面を見つめた。昨日の帰り道でも、雫はいつか話したいことがあると言っていた。もしかすると、その続きを聞けるのかもしれない。


『分かった。楽しみにしてる』


 そう送ってからスマートフォンをしまい、俺は鞄の中身を確認した。今日は読みかけの駅を舞台にした連作短編集と、紹介カードの試作用紙、それから授業で使う教科書が入っている。


 本を入れる位置を整え、鞄の口を閉じたところで、俺はふと思った。


(……雫が話したいことって、何だろう。最近読んでる短編集の感想かな)


 先日貸した日常ものの短編集は、まだ読み終わっていないはずだ。雫は本を読みながら気になったことを話してくれることがあるので、今日もその話かもしれない。


 俺はそんなことを考えながら、家を出た。


     ◇◇◇


 待ち合わせ場所へ着くと、雫は植え込みの近くで立っていた。薄い色の上着を羽織り、風で揺れる髪を片手で押さえている。俺に気づくと、いつものように明るい笑顔を向けてくれた。


「おはよう、春樹。今日はちゃんと上着を持ってきたんだね」


「おはよう。昨日も言われたし、今日は忘れないようにしたよ」


「ふふ。春樹って、本のことなら絶対に忘れないのに、そういうところはたまに抜けてるよね」


 雫は楽しそうに笑いながら俺の隣へ並んだ。朝の通学路には同じ学校の生徒たちがちらほら歩いていて、遠くから自転車のベルが聞こえてくる。住宅街の角を曲がると、街路樹の葉が風に揺れ、歩道へ細かな影を落としていた。


「そういえば、今朝のメッセージで話したいことがあるって言ってたよね」


 俺が尋ねると、雫は少しだけ目を瞬かせた。それから、頬を緩めて頷いた。


「うん。昨日の夜、春樹から借りた短編集を読んでたんだけど、ちょっと気になった場面があったの」


「やっぱり本の話だったんだ」


「……やっぱり?」


 雫は不思議そうに俺を見た。


「いや、最近本の感想をよく話してくれるから、そうかなって思ってたんだ」


「そっか。春樹はそう思ったんだね」


 彼女は小さく笑ったものの、その声には少しだけ別の響きが混じっていた。俺が首を傾げると、雫は前を向き直し、歩きながら続きを話し始めた。


「昨日読んだお話にね、毎日同じ店で顔を合わせる二人が出てくるの。最初はただの知り合いだったんだけど、少しずつ相手の好きなものを覚えるようになるんだ」


「うん。あの話、いいよね。店の人が二人の変化に気づいてるところも好きだな」


「そうそう。本人たちは普通に話してるつもりなのに、周りから見ると少しずつ距離が近くなってるんだよね」


 雫はそこで俺の顔を見た。何かを確かめるような視線だったが、俺が頷くと、彼女は少し安心したように笑った。


「それでね、私が気になったのは、女の子が男の子の好きな飲み物を覚えてた場面なの」


「ああ。いつも注文するものを覚えてて、何も聞かずに薦めるところ?」


「うん。あれって、ただ記憶力がいいからじゃないと思うんだ」


 俺は少し考えた。確かに、あの場面は単に注文を覚えていることを描いたものではない。相手を普段から見ていることや、何気ない会話を大切にしていることが、自然な行動として表れている。


「そうだね。相手に興味があるから、何を好きなのか覚えてるんだと思う」


「……うん。私もそう思った」


 雫は柔らかく頷いた。それから、少しだけ声を落として続けた。


「春樹って、私の好きなもの、結構覚えてくれてるよね」


「そりゃ、雫とは昔から一緒にいるし。全部じゃないけど、好きなものはそれなりに知ってるつもりだよ」


「じゃあ、私が最近好きになったものは?」


 突然の質問に、俺は少し考え込んだ。雫が最近興味を持っているものなら、本の話が真っ先に浮かぶ。


「読書かな。前よりいろんなジャンルを読むようになったし、感想を話すのも楽しそうだよね」


 そう答えると、雫は一瞬だけ目を丸くした。それから、少し困ったように笑った。


「……うん。それも正解かな」


「それも?」


「ふふ。ほかにもあるけど、今は秘密」


 雫はそう言って、少しだけ歩く速度を上げた。俺は慌てるほどではない距離を保ちながら隣へ追いつき、彼女の横顔を見た。


「秘密って言われると気になるな」


「じゃあ、いつか教えてあげる。そのときは、ちゃんと聞いてね」


「もちろん」


 俺が頷くと、雫は嬉しそうに笑った。けれど、その表情にはどこか照れくさそうな色も浮かんでいて、俺はまた少し不思議に思った。


 最近の雫は、以前よりも自分の気持ちについて話すことが増えている気がする。昔から何でも話せる幼馴染だと思っていたが、こうして考えてみると、まだ知らないこともたくさんあるのかもしれない。


(……まあ、雫だってずっと同じままじゃないもんな。俺も昔と比べたら、好きな本のジャンルが増えたし)


 そう考えると、少し納得できた。俺は彼女が話したくなるまで待とうと決め、話題を今日の授業へ移した。


     ◇◇◇


 教室へ入ると、悠斗が自分の席でスマートフォンを眺めていた。俺に気づくと画面を伏せ、何とも言えない表情で手を上げる。


「おはよう、春樹」


「おはよう。どうしたの、朝から難しい顔して」


「いや、難しいっていうか……ちょっと考え事」


 悠斗はそう答えたものの、すぐに俺の方へ身を寄せてきた。周囲の生徒たちがそれぞれ朝の準備をしているのを確認すると、少し声を落とす。


「なあ、春樹。ちょっと聞いていいか?」


「うん。何?」


「赤木さんにさ、今度またどこか一緒に行かないかって誘おうと思ってるんだけど、どう思う?」


 俺は思わず笑顔になった。土曜日の展示会が楽しかったことは、悠斗本人から聞いている。そのあとも赤木さんと展示会の話を続けているようだったし、次の約束を考えるのは自然な流れだろう。


「いいと思うよ。赤木さんもまた何かあったら教えてって言ってたし」


「そうなんだけどさ。あれって、ただ展示会の話をしたかっただけかもしれないだろ?」


「それはそうかもしれないけど、誘ってみないと分からないんじゃない?」


 俺が答えると、悠斗は少しだけ眉を寄せた。それから、椅子の背もたれへ体を預けて息を吐く。


「……お前、こういうとき妙に落ち着いてるよな」


「だって、悠斗と赤木さんは本当に楽しそうだったし。無理に急がなくても、また一緒に行ける機会はあると思うよ」


「まあ、それは分かってるんだけどさ」


 悠斗は机の上のスマートフォンへ目を落とした。画面には何か文章を打ちかけていたらしく、指先が少し迷うように動いている。


「俺、赤木さんに変に意識されるのも怖いんだよな。今まで普通に話せてたのに、誘ったことで気まずくなったら嫌だし」


 その言葉を聞いて、俺は少し考えた。好きな相手と今の関係を大切にしたいからこそ、何かを変えるのが怖い。恋愛小説でもよく描かれる感情だが、目の前の悠斗が本気で悩んでいるのを見ると、簡単な言葉で片づけるわけにはいかないと思った。


「……悠斗は、赤木さんと一緒にいる時間が好きなんだよね」


「うん。それは間違いない」


「だったら、まずはその気持ちを大事にしていいと思う。誘うときも、特別な意味を全部伝えようとしなくていいんじゃないかな。また一緒に見たいものがあるから、よかったらどうって聞くだけでも十分だと思うよ」


 悠斗はしばらく黙っていた。それから、少しずつ表情を和らげた。


「……そうだな。俺、いろいろ考えすぎてたかもしれない」


「考えるのは悪いことじゃないよ。それだけ赤木さんとの時間を大切にしてるってことだし」


「お前、そういうことを普通に言うよな」


 悠斗は苦笑しながら俺を見た。その表情には、さっきまでの緊張が少し薄れている。


「ありがとな、春樹。とりあえず、次に面白そうな展示が見つかったら話してみる」


「うん。それがいいと思う」


 俺が頷くと、悠斗はスマートフォンを鞄へしまった。ちょうどそのとき、教室の入口から赤木さんが入ってきた。


「おはよう、高坂君。七瀬君も」


「お、おはよう、赤木さん」


「おはよう」


 赤木さんは俺たちの近くで足を止め、悠斗へ笑いかけた。


「昨日話してた映画のことなんだけど、あの監督の別の作品も気になって調べてみたんだ」


 その言葉を聞いた悠斗の表情が、目に見えて明るくなった。


「本当? 俺も昨日ちょっと見てたんだよ。あとで話してもいい?」


「うん。私も聞きたい」


 二人は自然に笑い合った。俺はその様子を見て、さっき悠斗が心配していたことを思い出した。


 今の二人は、少なくとも一緒に話す時間を楽しんでいる。それだけは、俺にもはっきり分かる。


(……やっぱり、いい感じだよな。悠斗、頑張ってほしいな)


 俺はそう思いながら、自分の席へ戻った。


     ◇◇◇


 昼休み、俺は図書室へ向かう前に購買へ寄った。朝から読書週間の紹介カードについて考えていたせいか、昼食を食べ終えたあとも何となく甘いものが欲しくなったからだ。


 購買の前には数人の生徒が並んでいて、俺はその最後尾へついた。棚に並ぶ菓子パンを眺めながら順番を待っていると、後ろから聞き覚えのある声がした。


「あっ、七瀬先輩!」


 振り返ると、小日向さんが笑顔で立っていた。その隣には新海さんもいて、二人とも昼食を終えたところらしい。


「こんにちは、小日向さん。新海さんも」


「こんにちは! 先輩、今日は何買うんですか?」


「ちょっと甘いものが欲しくなって。まだ決めてないけどね」


「だったら、ここのクリームパンおすすめですよ。私、たまに買うんですけど、すごくおいしいんです!」


 小日向さんは嬉しそうに棚の一角を指さした。俺がそちらへ目を向けると、個包装された小さめのクリームパンが並んでいる。


「へえ。じゃあ、今日はそれにしようかな」


「本当ですか?」


「うん。小日向さんがそんなに薦めてくれるなら、食べてみたいし」


 俺がそう答えると、小日向さんは一瞬だけ言葉を止めた。それから、少し頬を赤くして笑った。


「……ありがとうございます。気に入ってもらえたら嬉しいです」


 その隣で、新海さんが静かに微笑んでいた。


「……ひより、よかったね」


「う、うん!」


 小日向さんは少し慌てたように頷いた。俺は二人のやり取りを微笑ましく眺めながら、順番が来たのでクリームパンを購入した。


 購買を離れたあと、俺たちは廊下の端にある窓際で少し話すことになった。図書室へ向かう途中だったが、まだ昼休みには余裕がある。


「そういえば、小日向さん。放送部の小説、読み始めた?」


 俺が尋ねると、彼女は嬉しそうに頷いた。


「はい! 昨日の夜、最初のところだけ読みました!」


「どうだった?」


「主人公が最初に放送室へ入るところ、すごく緊張してて……私までドキドキしちゃいました」


 小日向さんは本の場面を思い出すように、両手を胸の前で軽く握った。


「でも、先輩が言ってたみたいに、部員の人たちが優しくて。まだ少ししか読んでないのに、続きが気になってます」


「それはよかった。あの部員たち、最初はそれぞれ考えてることが違うけど、少しずついい関係になっていくんだ」


「そうなんですね。早く続き読みたいです!」


 彼女は目を輝かせた。それから、少しだけ声を落として続ける。


「……それと、昨日先輩に言われたこと、ちょっと考えてみたんです」


「昨日?」


「私が好きなものを話してるとき、聞いてる人も楽しくなるって言ってくれたことです」


 俺は思い出して頷いた。確かに、昨日の図書室でそんな話をした。


「うん。そう思ったから言ったんだよ」


「……ありがとうございます」


 小日向さんは少し照れたように笑った。


「私、誰かに自分の好きなものを話すのは好きなんですけど、ちゃんと伝わってるのかなって不安になることもあって。でも、先輩がそう言ってくれたから、もう少し自信を持ってみようかなって思いました」


 その言葉を聞いて、俺は嬉しくなった。俺自身、本の面白さを誰かへ伝えるのが好きだから、同じように好きなものを話す楽しさを感じてくれる人が増えるのはありがたい。


「いいと思うよ。小日向さんの話し方って、楽しそうな気持ちが伝わってくるから」


 俺がそう答えると、彼女は少し驚いたように目を見開いた。それから、視線を落として小さく笑った。


「……先輩、そういうこと、さらっと言いますよね」


「え、何か変だった?」


「変じゃないです。ただ……ちょっと、びっくりするだけです」


 小日向さんはそう言いながら、手元の鞄の持ち手を握り直した。隣の新海さんは何かを察したように微笑んでいる。


 俺は二人の反応を不思議に思ったが、ちょうど昼休みの終わりが近づいていたため、話を切り上げることにした。


「じゃあ、俺は図書室へ寄ってくるね。本は急がなくていいから、ゆっくり楽しんで」


「はい! 読み終わったら、また感想聞いてください!」


「もちろん」


 小日向さんは元気よく手を振り、新海さんも静かに頭を下げた。俺は二人と別れ、図書室へ向かった。


     ◇◇◇


 図書室へ入ると、白石先輩はカウンターの近くで返却本を整理していた。俺に気づくと、柔らかく微笑んでくれる。


「こんにちは、七瀬君。今日は少し早いのね」


「こんにちは。昼休みのうちに、昨日の試作カードをもう一度見ておこうと思って」


「ふふ。熱心ね。でも、休む時間も大切にしてね」


 先輩はそう言いながら、カウンターの端に置いていた用紙を取り出した。昨日作った紹介カードの試作品だ。


「ちょうどよかったわ。昨日のあと、図書委員の何人かに見てもらったの」


「本当ですか? どうでした?」


「どちらも読みやすいという意見が多かったわ。ただ、恋愛小説の方は問いかけが印象的だから、説明文をもう少し短くしてもいいんじゃないかという話が出たの」


 俺は頷いた。昨日も、文章の長さについては少し迷っていたところだ。


「なるほど。最初の一文を目立たせるなら、下の説明は簡潔な方がよさそうですね」


「ええ。ただ、作品の雰囲気が分からなくならないようにしたいわね」


 白石先輩は用紙を机へ広げ、俺の隣へ立った。窓から差し込む昼の光が紙の上を明るく照らし、鉛筆で書いた文字の影を薄く落としている。


「七瀬君、この作品の一番好きなところって、どこだったかしら?」


 俺は少し考えた。大学で再会した幼馴染たちが、昔の関係をそのまま続けるのではなく、今の相手を知ろうとするところ。忘れていた約束をきっかけに、自分が見落としていたものへ気づいていく過程も好きだ。


「……昔から知ってる相手でも、今の気持ちをちゃんと見ようとするところですね」


「そうね。以前も、そう話してくれたわ」


 先輩は穏やかに頷いた。


「だったら、説明文もその部分を中心にしてみるといいかもしれないわね。約束の内容や結末には触れずに、二人が変わっていく過程を伝えるの」


「なるほど……」


 俺はノートを開き、短い文章を考えてみた。


『大学で再会した幼馴染の二人。懐かしい思い出の先で、今の相手を知っていく恋の物語。』


 書き終えてから読み返すと、昨日の案より少しすっきりした気がする。


「……どうでしょう?」


 白石先輩は文章をゆっくり読み、少し考えてから微笑んだ。


「いいと思うわ。作品の内容も分かるし、最初の問いかけともつながっているわね」


「よかったです」


「ただ、これもまだ候補として残しておきましょう。ほかのカードと並べたときに、また印象が変わるかもしれないから」


 俺は頷いた。紹介カードは一枚だけで完成するものではない。読書週間の展示全体の中で、どう見えるかも大切なのだろう。


「そういえば、七瀬君」


 白石先輩が少し声を和らげた。


「昨日話していた、日常ものの短編集の方も、図書委員から評判がよかったのよ」


「本当ですか?」


「ええ。『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』という文章が、優しい雰囲気でいいって」


 俺は思わず笑顔になった。


「それは嬉しいです。あの本、読んだあとに普段の景色が少し違って見えるところが好きなので」


「ふふ。七瀬君が楽しそうに話してくれるから、私も読み返したくなったわ」


 先輩はそう言って、少しだけ目を細めた。


「……それに、誰かが好きだと言っている本を読むと、その人がどんなところを大切にしているのか分かる気がするの」


 俺はその言葉に頷いた。確かに、本の感想には、その人の考え方や感じ方が自然に表れることがある。


「そうですね。同じ作品でも、好きな場面が違うと面白いですし」


「ええ。だから、七瀬君が薦めてくれる本を読むのは、私にとっても楽しい時間なの」


 白石先輩は穏やかに微笑んだ。


 その表情を見て、俺は少し照れくさくなった。自分が薦めた本を楽しんでもらえるのは嬉しいが、こうして直接言葉にしてもらうと、改めてありがたく感じる。


「……ありがとうございます。俺も、先輩に薦めてもらった本を読むの、すごく楽しいです」


 そう答えると、先輩は一瞬だけ目を見開いた。それから、少し頬を赤くして微笑んだ。


「……そう言ってもらえると、嬉しいわ」


 俺たちはしばらく、机の上に並んだ紹介カードを眺めていた。図書室の奥からはページをめくる音が聞こえ、窓の外では風が木の葉を揺らしている。


 特別な出来事が起きたわけではない。


 それでも、こうして本について話している時間は、俺にとってとても心地よかった。


     ◇◇◇


 午後の授業が終わると、俺は鞄をまとめながら今日の予定を確認した。放課後は図書室へ寄るつもりだが、昨日ほど長く作業する必要はない。昼休みに白石先輩と相談できたので、今日は候補の文章を整理しておけば十分だろう。


 そんなことを考えていると、雫が俺の席へ近づいてきた。


「春樹、今日も図書室に行く?」


「うん。少しだけ寄るつもり。昨日の紹介カードのことで、また意見をもらえたから」


「そっか。じゃあ、私も少し付き合おうかな」


 雫はそう言って、楽しそうに笑った。


「いいの? 何か用事があるんじゃない?」


「今日は特にないよ。それに、私も読書週間の準備がどうなってるのか気になるし」


 俺は頷いた。雫は以前、気分に合わせた本の紹介という案を出してくれている。まだ正式に採用されたわけではないが、展示の方向性を考えるうえで参考になる意見だった。


「じゃあ、一緒に行こうか」


「うん!」


 雫は嬉しそうに頷いた。


 俺たちは教室を出て、並んで廊下を歩き始めた。放課後の校舎には部活動へ向かう生徒たちの声が響いていて、階段の近くでは運動部の生徒が大きな鞄を抱えて急いでいる。


 その流れを避けながら歩いていると、雫がふと俺へ顔を向けた。


「ねえ、春樹。最近、いろんな人に本を薦めてるよね」


「そうだね。読書週間の準備もあるし、感想を聞く機会が増えたかな」


「……楽しい?」


「もちろん。好きな本の話をできるのは嬉しいし、読んだ人がどんなところを好きになったのか聞くのも面白いよ」


 俺が答えると、雫は少しだけ目を細めた。


「そっか。春樹が楽しそうでよかった」


「雫も最近、いろんな本を読んでくれてるよね」


「うん。春樹と話せることが増えるの、嬉しいから」


 その言葉を聞いて、俺は自然に笑った。


「俺も嬉しいよ。雫が感想を話してくれると、自分では気づかなかったところを知れるし」


 雫は少しだけ頬を赤くした。


「……春樹って、本当にそういうところあるよね」


「またそれ?」


「ふふ。うん。でも、嫌いじゃないよ」


 彼女は笑いながら、少しだけ俺との距離を縮めた。廊下の窓から差し込む夕方の光が、雫の髪を柔らかく照らしている。


 俺はその様子を見ながら、何となく昨日の帰り道を思い出した。


 雫には、いつかちゃんと話したいことがある。


 それが何なのか、まだ分からない。


 けれど、こうして一緒に歩いている時間が楽しいことは、俺にもはっきり分かっていた。


     ◇◇◇


 図書室へ着くと、白石先輩はカウンターの奥で用紙を整理していた。俺たちに気づくと、柔らかく微笑んで迎えてくれる。


「こんにちは、七瀬君。西条さんも」


「こんにちは、白石先輩」


「こんにちは。今日は私も少し見せてもらっていいですか?」


 雫が尋ねると、白石先輩は嬉しそうに頷いた。


「もちろん。ちょうど紹介カードの候補を整理していたところなの」


 俺たちは作業机へ移動し、昼休みに考えた文章を広げた。雫は恋愛小説の紹介カードを手に取り、ゆっくりと読み始める。


『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』


 その下には、短くした説明文が書かれている。


『大学で再会した幼馴染の二人。懐かしい思い出の先で、今の相手を知っていく恋の物語。』


 雫はしばらく黙って文章を見つめていた。それから、ゆっくり顔を上げる。


「……前より、すっきりしたね」


「うん。白石先輩と相談して、説明を短くしてみたんだ」


「いいと思う。最初の一文が目に入るし、そのあとにどんなお話なのかも分かるから」


 雫はそう言って、もう一度カードへ目を落とした。


「……でも、この文章を読むと、やっぱりちょっと考えちゃうな」


「何を?」


「昔から一緒にいる人のこと、どれくらい分かってるのかなって」


 雫は静かに答えた。


 その言葉を聞いて、俺は朝の通学路で話したことを思い出した。雫は最近、自分の好きなものが変わってきたと話していたし、まだ俺に言っていないこともあるらしい。


「……そうだね。俺も、雫のことを全部知ってるわけじゃないんだろうな」


 俺がそう言うと、雫は少し驚いたように目を見開いた。


「……春樹?」


「昔から一緒にいるから、知ってるつもりになってたところもあると思う。でも、最近の雫がどんなことを考えてるのか、ちゃんと聞いてみたいなって」


 俺は少し照れくさくなりながら続けた。


「もちろん、話したくないことまで無理に聞くつもりはないけどね」


 雫はしばらく俺を見つめていた。それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……ありがとう、春樹」


 その声は、いつもより少し柔らかかった。


 白石先輩は俺たちの会話を静かに聞いていたが、やがて穏やかな表情で口を開いた。


「この紹介文、やっぱりいいわね。読む人によって、思い浮かべる相手が違うのかもしれないわ」


 俺は頷いた。


「そうですね。恋愛小説の紹介文だけど、友達や家族のことを考える人もいるかもしれません」


「ええ。だからこそ、いろいろな人に届く文章になっているのだと思うわ」


 先輩はそう言って、カードを机へ戻した。


 雫も小さく頷いている。


 俺は二人の反応を見ながら、少し嬉しくなった。自分が好きな本の魅力を伝えたいと思って考えた文章が、こうして誰かに何かを考えるきっかけを作っている。


 それは、想像していた以上に楽しいことだった。


     ◇◇◇


 作業を終えて図書室を出る頃には、窓の外が夕方の色へ変わっていた。俺と雫は昇降口へ向かいながら、今日の紹介カードについて話していた。


「白石先輩、すごく丁寧に考えてくれてるね」


 雫が言った。


「うん。俺一人だったら、文章の長さとか配置とか、そこまで気づかなかったと思う」


「九条さんも、安全のことを考えてくれてるんでしょ?」


「そうそう。展示する場所によっては、人が立ち止まる位置も確認しないといけないって」


 俺が答えると、雫は小さく笑った。


「みんな、それぞれ得意なことが違うんだね」


「本当だね。だから、一緒に考えると面白いんだと思う」


 俺たちは靴を履き替え、校門を出た。夕方の風は少し冷たかったが、上着を着ていたおかげで寒さはそれほど気にならない。


 しばらく歩いたところで、雫がふと足を緩めた。


「……ねえ、春樹」


「うん?」


「今日、朝に話したこと、覚えてる?」


「雫が最近好きになったものの話?」


「うん。それ」


 雫は少し照れたように笑った。


「春樹、読書って答えたでしょ」


「うん。違った?」


「違わないよ。確かに本を読むのは前より好きになったし、春樹と感想を話すのも楽しい」


 彼女はそこで少し間を置いた。


「でもね、私が最近好きになったのは、本そのものだけじゃないんだ」


 俺は雫の横顔を見た。


 彼女は前を向いたまま、少しだけ頬を赤くしている。


「……本を読んで、春樹と話す時間が好きなの」


 その言葉を聞いて、俺は自然に笑った。


「それなら、俺も同じだよ。雫と本の話をするの、楽しいし」


 雫は一瞬だけ足を止めかけた。


 それから、少し困ったように笑った。


「……うん。春樹はそうだよね」


「え、何か変だった?」


「ううん。変じゃないよ」


 雫は首を振った。


 けれど、その表情には少しだけ別の感情が混じっているように見えた。


 俺は何か言葉を探したが、すぐには思いつかなかった。


 すると、雫がゆっくり顔を上げた。


「でも、嬉しいよ。春樹もそう思ってくれてるなら」


「もちろん」


 俺が頷くと、雫は柔らかく微笑んだ。


 それから、少しだけ俺へ近づくように歩幅を合わせた。


「……じゃあ、これからもいっぱい本の話しようね」


「うん。もちろん」


 俺たちは並んで歩き続けた。


 夕方の住宅街には、家々から夕食の準備をする匂いが漂い始めている。遠くでは子どもたちの声が聞こえ、空には薄い雲がゆっくり流れていた。


 何でもない帰り道だった。


 けれど、雫と話していると、こういう時間も悪くないと思える。


(……本を読む時間も好きだけど、こうして感想を話す時間も、やっぱり楽しいな)


 俺はそんなことを考えながら、雫の隣を歩いた。


     ◇◇◇


 その夜、俺は机の上へ今日の紹介カードを並べ、ノートへ簡単なメモを書き込んでいた。


 恋愛小説の紹介文は、短くした案が好評だった。


 日常ものの短編集も、柔らかい雰囲気が伝わるという意見が多い。


 ただ、どちらも正式な展示内容として決まったわけではない。今後、図書委員会でほかの候補と比較しながら、少しずつ形を整えていくことになる。


 俺は鉛筆を置き、椅子の背もたれへ体を預けた。


(……今日は、結構いろんな人と話したな)


 朝は雫と本の感想を話した。


 教室では悠斗の恋愛相談に乗った。


 昼休みには小日向さんと新海さんに会い、白石先輩と紹介文を考えた。


 放課後には雫も一緒に図書室へ来てくれた。


 振り返ってみると、どの時間も楽しかった。


 俺は本棚へ目を向け、読みかけの駅を舞台にした連作短編集を手に取った。


 白石先輩が薦めてくれた作品だ。


 物語の中では、同じ駅を利用する人々が、それぞれ違う思いを抱えながら毎日を過ごしている。何気ない会話や小さな親切が、本人たちの知らないところで誰かの心に残っていく。


 俺はページをめくりながら、今日の出来事を思い出した。


 小日向さんは、自分の好きなものを話すことに少し自信を持てたと言っていた。


 悠斗は、赤木さんをまた誘ってみようと考えている。


 白石先輩は、俺が薦める本を読むのが楽しいと言ってくれた。


 そして雫は、本を読んで俺と話す時間が好きだと話してくれた。


 同じ一日でも、人によって大切にしているものは違う。


 けれど、誰かの好きなものを知ることで、その人のことを少しだけ理解できるのかもしれない。


(……そう考えると、本を薦めるのって、思ってた以上に面白いことなのかもな)


 俺は小さく笑い、ページをめくった。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 画面には雫からのメッセージが表示されていた。


『春樹、今日はありがとう。紹介カード、完成するの楽しみにしてるね』


 俺はすぐに返信した。


『こちらこそありがとう。まだ決まってないことも多いけど、いいものにできたら嬉しいな』


 少し間を置いて、返事が届いた。


『うん。春樹が好きな本を、もっといろんな人に知ってもらえたらいいね』


 俺はその文章を読み、自然に笑顔になった。


『ありがとう。雫にもまたおすすめの本を紹介するよ』


 送信すると、雫から笑顔の絵文字が届いた。


 俺はスマートフォンを置き、再び本へ目を向けた。


 物語の中では、駅のホームで偶然出会った二人が、何気ない会話を交わしている。


 その会話が、あとからどんな意味を持つことになるのか。


 まだ読み進めている途中の俺には分からない。


 けれど、だからこそ続きが気になる。


 俺はそんなことを考えながら、静かにページをめくった。


 読書週間の準備は、少しずつ進んでいる。


 紹介カードも、展示の方法も、まだ決まっていないことが多い。


 それでも、いろいろな人と相談しながら形にしていく時間は、思っていた以上に楽しかった。


 そして、俺が薦めた本を誰かが楽しんでくれることも。


 その人が、自分の好きな場面を話してくれることも。


 どれも、俺にとっては嬉しい出来事だった。


 ただ一つ、まだよく分からないことがある。


 最近、俺が本の話をしていると、なぜかみんな俺自身の気持ちを聞きたがるのだ。


 恋愛小説の紹介文だから、そういう話題になりやすいのだろうか。


 俺は少し考えたものの、すぐに答えは出なかった。


(……まあ、今は読書週間の準備を頑張ろう。みんなに楽しんでもらえる展示にしたいし)


 そう結論づけて、俺は再び物語の世界へ意識を向けた。


 窓の外では、夜の風が静かに木の葉を揺らしている。


 部屋の中にはページをめくる音だけが響いていた。


 俺は今日も、ただ本を読みたいだけだった。


 けれど、俺の周りでは、誰かにとって特別な時間が少しずつ増えているらしい。


 そのことに気づくのは、まだもう少し先になりそうだった。


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