第66話 おすすめの本を届けたいだけなのに、どうしてみんな俺の気持ちを聞きたがるんだ?
火曜日の朝、俺は机の上に置いていた一冊の文庫本を手に取り、表紙とページの状態をもう一度確認していた。
放送部を舞台にした青春小説。人前で話すことが苦手な主人公が、仲間たちと一緒に校内放送へ取り組むうちに、自分の声で誰かへ思いを届ける楽しさを知っていく物語だ。
昨日の夜、小日向さんと交わしたメッセージでは、今日学校で渡すことになっている。
もっとも、この本については、以前にも貸す話をしていた。自分の記憶とメッセージを見比べながら、俺は少しだけ眉を寄せた。
(……最近、読書週間の準備もあって、本の約束が増えてるな)
本を薦めること自体は楽しいし、誰かが興味を持ってくれるのも嬉しい。けれど、いつ誰に何を渡したのかが曖昧になるのはよくない。
俺は机の引き出しから小さなメモ帳を取り出し、貸し借りについて確認できる範囲を書き留めた。
白石先輩には、以前古書店で見つけたミステリー小説を貸している。一ノ瀬先輩には『雨上がりの交差点で』を貸していて、昨日の話では、もう少しで読み終わりそうだという。
新海さんには文化祭を題材にした青春小説を貸しているし、雫も今、俺から借りた短編集を読み進めている。
そして、小日向さんの放送部の小説。
(……こうして並べると、結構あるな)
俺はメモ帳を閉じ、文庫本を鞄の取り出しやすい場所へ入れた。
本を貸すというのは、単に一冊を相手へ渡すことではない。読みたいと思ってくれた気持ちに応えることでもあるし、読み終わったあとに感想を聞ける楽しみもある。
だからこそ、約束はきちんと守りたい。
そう考えて鞄の口を閉じたところで、スマートフォンが震えた。
画面には雫からのメッセージが表示されている。
『春樹、おはよう。今日は少し涼しいから、上着忘れないでね』
俺は窓の外へ目を向けた。
空は明るいが、庭の木の葉が風に揺れている。昨日の夕方も少し涼しかったし、確かに上着があった方がよさそうだ。
『おはよう。ありがとう。ちゃんと持ったよ』
返信を送ると、間を置かずに返事が届いた。
『よかった。じゃあ、いつものところで待ってるね』
俺は笑いながらスマートフォンをしまった。
雫は昔から、俺が何かに夢中になると周りのことを忘れがちなのをよく知っている。朝の服装まで気にしてくれるのはありがたいが、最近は少し心配をかけすぎている気もした。
(……今日こそ、ちゃんと時間を見ながら行動しよう)
そう決めて、俺は家を出た。
◇◇◇
待ち合わせ場所へ着くと、雫は道路沿いの植え込みの近くに立っていた。
風に揺れる髪を片手で押さえながら、通学する生徒たちの流れを眺めている。俺に気づくと、すぐに表情を明るくして手を振った。
「おはよう、春樹。今日はいつもより少し早いね」
「おはよう。鞄の中身を確認してたら、逆に早く準備が終わったんだ」
「ふふ。それって珍しいね。本を選んでるうちに遅くなることの方が多いのに」
雫は楽しそうに笑い、俺の隣へ並んだ。
俺たちは歩道を進みながら、今日の授業や放課後の予定について話し始めた。朝の住宅街には自転車のベルや遠くの車の音が混じっていて、いつもと変わらない通学路にも、季節が少し進んだような空気が漂っている。
「そういえば、昨日の紹介カードのことなんだけど」
雫が話題を変えた。
「帰ってからも、あの文章のことを考えてたんだ」
「幼馴染の恋愛小説のやつ?」
「うん。『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』っていう文章」
俺は頷いた。
昨日はいろいろな人に読んでもらったが、雫の反応は特に印象に残っている。胸に刺さると言っていたし、帰り道でも現実の人の気持ちについて話した。
「何か気になるところがあった?」
「気になるっていうか……あの文章を読んで、ちょっと思ったことがあるの」
雫は言葉を探すように少し間を置いた。
「ずっと一緒にいる人って、昔のことをたくさん知ってるでしょ。でも、今考えてることまで全部知ってるわけじゃないんだよね」
「そうだね。昔から知ってるからって、今も同じとは限らないし」
俺が答えると、雫はゆっくり頷いた。
「……うん。そうなんだよね」
彼女の声は穏やかだったが、いつもの冗談を交えた調子とは少し違っていた。
俺は横顔を見ながら、昨日の帰り道で交わした会話を思い出す。雫は、いつか自分の話もちゃんと聞いてほしいと言っていた。
何か話したいことがあるのだろう。
ただ、今の雫は急いで言葉にしようとしているわけではなさそうだった。
「雫が何か話したくなったら、ちゃんと聞くよ。昨日も言ったけどさ」
俺がそう伝えると、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
それから、目元を柔らかく緩めた。
「……ありがとう。春樹って、そういうところは本当に優しいよね」
「そうかな。友達の話を聞くのは普通じゃない?」
「普通だと思ってるところが、春樹らしいんだよ」
雫は笑ったが、その頬がわずかに赤くなっているように見えた。
朝の風が冷たいからだろうか。
俺がそう考えていると、彼女は少し歩く速度を落とし、こちらへ顔を向けた。
「ねえ、春樹。もし私が今までと違うことを言ったら、びっくりする?」
「違うこと?」
「例えば、昔は好きじゃなかったものを好きになったとか。今まで言わなかったことを話したくなったとか」
俺は少し考えた。
「驚くかもしれないけど、それだけで嫌になったりはしないと思うよ。人の好きなものって変わることもあるし、前から好きだったのに言ってなかっただけってこともあるでしょ?」
雫は足元へ視線を落とし、小さく頷いた。
「……そっか。そうだよね」
彼女はそれ以上続けなかった。
けれど、しばらくしてから顔を上げると、いつもの明るい表情で俺に笑いかけた。
「じゃあ、今は一つだけ言っておこうかな。私、春樹と本の感想を話す時間、前よりもっと好きになったよ」
「本当? それは嬉しいな」
俺は素直に笑った。
自分の好きなことを誰かと共有できるのは楽しいし、雫が本を読む時間を楽しんでくれているなら、これ以上嬉しいことはない。
「俺も雫と話すの、好きだよ。同じ本でも気づくところが違うから、面白いんだよね」
そう答えると、雫は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
それから、小さく息を吐いて笑った。
「……うん。春樹はそうだよね」
「え、何か変なこと言った?」
「ううん。何でもないよ」
雫は首を振り、少しだけ先へ進んだ。
俺はその隣へ追いつきながら、今の会話を頭の中で振り返った。
(……本の話を好きになってくれたなら、また別の作品も薦められそうだな)
そんなことを考えているうちに、校門が見えてきた。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗が窓際で赤木さんと話していた。
二人の間には一冊の薄い冊子が広げられている。土曜日に見に行った展示会のパンフレットらしく、悠斗がページの一部を指さすと、赤木さんが楽しそうに頷いていた。
俺が鞄を机へ置いたところで、悠斗がこちらに気づいた。
「おっ、春樹。おはよう」
「おはよう。展示会の話?」
「そうそう。赤木さんが、あのとき見たイラストの元になった作品を調べてくれたんだ」
悠斗が嬉しそうに言うと、赤木さんは少し照れたように笑った。
「調べたっていうほどじゃないよ。気になったから、帰ってから作品名を確認しただけ」
「でも、俺が見落としてたところまで覚えてたじゃん。あの場面の構図が好きだって話も、聞いてからもう一回パンフレット見たら分かった気がしたし」
「高坂君も、映画の場面と比べて話してくれたでしょ。あれ、私にはない見方だったから面白かったよ」
二人は自然に顔を見合わせて笑った。
俺はその様子を見て、何となく嬉しくなった。
土曜日の外出が楽しかっただけでなく、そのあとも話が続いているらしい。悠斗が以前より赤木さんの前で落ち着いて話せるようになっているのも、いい変化だと思う。
「二人とも、かなり楽しんでるね」
俺がそう言うと、悠斗は一瞬だけ口を閉じた。
赤木さんも少し頬を赤くしたが、すぐに笑顔を戻した。
「うん。展示会、行ってよかったなって思ってる」
「俺も。また何か面白そうなのがあったら、調べてみようと思ってるんだ」
悠斗はそう答えながら、少しだけ赤木さんの方を見た。
彼女はその視線に気づいたようで、穏やかに頷いた。
「見つかったら、教えてね」
「……うん。もちろん」
悠斗の返事が少しだけ弾んだ。
そのとき、近くの席にいた男子生徒が、からかうような顔でこちらを見た。
「高坂、最近やけに展示とか映画に詳しくなってないか?」
悠斗は肩を揺らしたが、赤木さんは落ち着いた様子で答えた。
「私がいろいろ話しすぎちゃったからかも。高坂君、ちゃんと聞いてくれるんだよ」
その言葉を聞いて、悠斗の表情が少し変わった。
驚いたような、嬉しそうな、何とも言えない顔だった。
俺はその様子を見ながら、昨日悠斗が言っていたことを思い出した。
赤木さんとまた一緒に出かけたい。
今の二人なら、きっと次の予定も自然に決められるだろう。
男子生徒が別の話題へ移ったあと、赤木さんは自分の席へ戻っていった。
悠斗は彼女の背中を見送り、ようやく息を吐いた。
「……春樹」
「どうした?」
「今の、聞いた?」
「赤木さんが、悠斗はちゃんと話を聞いてくれるって言ってたこと?」
「そう、それ」
悠斗は椅子へ座り直し、嬉しさを隠しきれないような顔で笑った。
「俺、ああいうこと言ってもらえると思ってなかったんだよな」
「よかったじゃん。悠斗が赤木さんの話を大事に聞いてたの、ちゃんと伝わってたんだね」
俺がそう答えると、悠斗は少し照れくさそうに頬を掻いた。
「……そうだといいんだけどな」
「本人が言ってくれたんだから、そうなんじゃない?」
「まあ、そうなんだけどさ」
悠斗はそこで、ふと俺を見た。
何かを思いついたような表情だった。
「なあ、春樹。お前さ、西条さんに同じようなこと言われたらどう思う?」
「雫に?」
「そう。春樹がちゃんと話を聞いてくれるから嬉しい、とかさ」
俺は少し考えた。
「普通に嬉しいと思うよ。雫とは昔からいろいろ話してるし、そう思ってもらえてたらありがたいね」
悠斗は俺の顔をじっと見つめた。
それから、何とも言えない笑みを浮かべた。
「……お前、本当にそういうところ変わんねえな」
「何が?」
「いや、いい。朝から俺が疲れるだけだ」
悠斗は苦笑しながら教科書を取り出した。
俺は首を傾げたものの、ちょうど教室の前方で朝の準備を促す声が聞こえたため、自分の席へ戻ることにした。
(……悠斗、最近こういう反応が増えた気がするな)
恋愛の話をしているときに限って、俺の方を妙な顔で見てくる。
何か言いたいことがあるのだろうか。
ただ、本人が話を切り上げた以上、今は追いかけるほどのことでもないだろう。
俺はそう考え、授業の準備を始めた。
◇◇◇
昼休みになると、俺は鞄の中身を確認してから教室を出た。
今日の目的は、図書室で小日向さんと会うことだ。
昨夜のメッセージでは、昼休みに図書室へ来ると返事をもらっている。俺も昼食を済ませてから向かうつもりだったので、時間はちょうどよかった。
廊下を歩いていると、窓の向こうから運動部の練習する声が聞こえてきた。校庭では昼休みを利用して体を動かしている生徒もいて、校舎の中とは違う賑やかさが広がっている。
図書室へ近づくにつれ、その音は少しずつ遠くなった。
扉を開けると、紙と木の棚が混じった落ち着いた匂いがした。
カウンターでは図書委員の生徒が返却本を確認していて、奥の席では数人が静かに本を読んでいる。
俺は室内を見回し、小日向さんの姿を探した。
すると、児童文学の棚の近くから明るい声が聞こえた。
「あっ、七瀬先輩!」
小日向さんがこちらへ歩いてくる。
その隣には新海さんもいて、二人とも手には図書室の本を一冊ずつ持っていた。
「こんにちは、小日向さん。新海さんも」
「こんにちは、先輩!」
「……こんにちは」
新海さんは静かに頭を下げ、小日向さんは期待に満ちた表情で俺の鞄へ視線を向けた。
俺はその様子に笑いながら、文庫本を取り出した。
「放送部の小説、持ってきたよ」
小日向さんの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! すっごく楽しみにしてました!」
俺は本を渡す前に、念のため確認したかったことを口にした。
「前にもこの本の話をしてたから、約束が少しややこしくなっちゃったよね。ごめん。今、手元にある本はこれで大丈夫?」
小日向さんは一瞬だけ目を瞬かせ、それから大きく頷いた。
「はい! この本です。先輩が前に話してくれた、声を出すのが苦手な主人公のお話ですよね」
「そうそう。放送部に入ってから、少しずつ変わっていく話なんだ」
俺は表紙を彼女の方へ向けた。
「読み始めは少し静かな雰囲気だけど、部員たちが揃ってから面白くなると思う。特に、主人公が初めて校内放送を任されるところが好きなんだ」
「へえ……!」
小日向さんは表紙を見つめ、嬉しそうに笑った。
「先輩がそんなに好きな場面なら、読むの楽しみです!」
「でも、俺の感想に引っ張られなくていいからね。小日向さんが面白いと思ったところを、あとで教えてくれたら嬉しいな」
そう伝えると、彼女は少しだけ表情を変えた。
「……私が面白いと思ったところ、ですか?」
「うん。同じ本を読んでも、好きな場面って人によって違うでしょ。小日向さんがどう感じるのか、聞いてみたいんだ」
彼女は本を両手で受け取り、しばらく表紙を眺めていた。
それから、少し照れたように顔を上げる。
「……分かりました。ちゃんと自分の感想、考えてみます」
「無理にまとめなくても大丈夫だよ。読んでて楽しかったところを話してくれるだけでも十分だから」
「はい!」
小日向さんは元気よく頷いた。
その隣で、新海さんが小さく微笑んでいる。
「……ひより、嬉しそう」
「だって、ずっと読みたかった本だもん!」
小日向さんはそう答え、すぐに少しだけ声を落とした。
周囲に読書中の生徒がいることに気づいたらしい。
「……あ、ごめん。図書室だった」
俺は思わず笑った。
「大丈夫。今くらいなら、そんなに大きな声じゃなかったよ」
「でも、気をつけます」
彼女は本を胸の前に抱え、真面目な顔で頷いた。
その仕草が何だか微笑ましかった。
俺はそこで、新海さんが持っている本へ目を向けた。
「新海さんは、今日は何か探してたの?」
「……はい。短いお話が入っている本を見ていました」
新海さんは手元の本を少し持ち上げた。
表紙には、柔らかい色合いで街並みが描かれている。
「文化祭の小説を読んでいて、登場人物の気持ちを考えるのが楽しかったので……別のお話も読んでみたくなって」
「いいね。短編集なら、いろんな人物の考え方に触れられるし」
俺が答えると、新海さんは静かに頷いた。
「……七瀬先輩は、短いお話と長いお話、どちらが好きですか?」
俺は少し考えた。
どちらにも違う魅力がある。
長編なら、人物と長い時間を過ごすように読めるし、短編なら限られた文章の中に込められた工夫を楽しめる。
「どっちも好きかな。長編は登場人物の変化をじっくり追えるし、短編は少ない場面だけで気持ちが伝わってくるのが面白いんだ」
俺は少し言葉を選びながら続けた。
「特に、最後まで読んでから最初の場面を思い出すと、同じ言葉が違って見えるような短編が好きだね」
新海さんは目を細め、嬉しそうに頷いた。
「……分かる気がします。最初は何でもないと思った言葉が、あとから大切だったって気づくこと、ありますよね」
「そうそう。そこがいいんだよね」
俺が笑うと、新海さんも少しだけ笑った。
そのとき、小日向さんが俺たちを交互に見た。
「……先輩って、やっぱりすごいですね」
「え、何が?」
「どんな本の話でも、ちゃんと面白いところを説明してくれるからです」
彼女は少し考えてから続けた。
「私、好きなものの話をするとき、楽しいって気持ちばっかり先に出ちゃうんです。でも先輩は、どうして好きなのかまで話してくれるじゃないですか」
俺は少し照れくさくなった。
「いや、単に本を読むのが好きなだけだよ。俺だって、面白かったって感想しか出てこないときもあるし」
「でも、先輩の話を聞くと読みたくなるんです」
小日向さんはそう言って、抱えている文庫本へ視線を落とした。
「……だから、私も誰かにそう思ってもらえるように話せたらいいなって」
俺はその言葉を聞いて、少し嬉しくなった。
本の感想を上手に話すことよりも、誰かへ楽しさを伝えたいと思う気持ちの方が大切なのかもしれない。
「小日向さんなら、できると思うよ。好きなものを話すとき、すごく楽しそうだし」
そう伝えると、彼女は目を見開いた。
「……本当ですか?」
「うん。聞いてる方も楽しくなるよ」
小日向さんはしばらく俺を見つめ、それから慌てたように視線を落とした。
「……ありがとうございます」
その声は、さっきまでより少し小さかった。
隣の新海さんが、何かに気づいたように微笑んでいる。
俺は二人の反応を不思議に思ったが、ちょうどカウンターの方から声がかかったため、そちらへ目を向けた。
「七瀬君、少しいいかしら?」
白石先輩だった。
◇◇◇
白石先輩はカウンターの奥で、数枚の用紙を揃えていた。
俺が近づくと、先輩は柔らかく微笑み、机の上へ用紙を並べてくれた。
「こんにちは、七瀬君。昨日の紹介カードのことなんだけれど、少し相談してもいい?」
「もちろんです。何か決まりましたか?」
「まだ決定ではないの。ただ、図書委員の中で、候補を比較しやすい形にしてみようという話になったのよ」
先輩が示した用紙には、同じ大きさの四角い枠がいくつか印刷されていた。
その中には、紹介文を書くためのスペースがある。
「文章の長さや見やすさを比べるために、試しに同じ用紙へ書いてみようと思っているの」
「なるほど。実際に並べてみるんですね」
「ええ。文章だけで考えるより、展示したときの印象が分かりやすいでしょう?」
俺は頷いた。
昨日はノートに書いた文章を見てもらったが、実際のカードの大きさへ当てはめると、また違う問題が見つかるかもしれない。
「それなら、昨日の文章を少し短くした案も使えそうですね」
「そうね。ただ、あくまで試作だから、全部を完成させる必要はないわ」
白石先輩はそう前置きしてから、用紙の一枚を俺へ渡した。
「七瀬君がよければ、放課後に少しだけ試してみない?」
俺は用紙を受け取り、考えた。
今日は特別な予定があるわけではない。
雫には、放課後に図書室へ寄る可能性があると伝えておけばいいだろう。
「はい。少しなら大丈夫です」
「ありがとう。でも、無理はしないでね。昨日も家で考えてくれたんでしょう?」
「はい。でも、今日は新しく文章を増やすより、今あるものを整理するつもりです」
そう答えると、白石先輩は安心したように笑った。
「それならよかったわ」
彼女は用紙をまとめながら、少しだけ声を落とした。
「……七瀬君、昨日のこと、もう一つお礼を言ってもいいかしら」
「昨日のこと?」
「紹介文を持ってきてくれたことよ。あれを見て、私も展示のことを考えるのが少し楽しみになったの」
俺は驚いた。
白石先輩は図書委員として、普段から本の展示や紹介に関わっている。そんな先輩にそう言ってもらえるとは思っていなかった。
「俺の方こそ、先輩に相談できて助かってます。自分一人だと、どうしても好きなところを全部書きたくなっちゃうので」
俺が苦笑すると、先輩も小さく笑った。
「ふふ。七瀬君らしいわね。でも、そういう気持ちは大切にしてほしいと思うの」
「そうですか?」
「ええ。短くすることだけを考えて、本を好きだと思った理由まで消してしまったら、少し寂しいでしょう?」
その言葉に、俺は深く頷いた。
確かに、紹介文を整えることばかり意識して、肝心の魅力が伝わらなくなっては意味がない。
「……そうですね。ありがとうございます。何を残すか、ちゃんと考えてみます」
白石先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「一緒に考えましょう」
その言葉が、何となく心に残った。
読書週間の準備は、まだ分からないことも多い。
けれど、一人で全部を決める必要はない。
白石先輩と話していると、そんな当たり前のことを自然に思い出せる。
俺は用紙を鞄へしまい、放課後にもう一度来ることを約束した。
◇◇◇
午後の授業が終わる頃、空には薄い雲が広がっていた。
教室の窓から差し込む光は朝より柔らかくなり、廊下では部活動へ向かう生徒たちが賑やかに話している。
俺は教科書を片づけながら、スマートフォンで雫へ短いメッセージを送った。
『今日、放課後に少し図書室へ寄ることになったよ。先に帰ってても大丈夫だからね』
送信して間もなく、返事が届いた。
『了解。私も少し用事があるから、終わる時間が近かったら一緒に帰ろう』
俺は『分かった』と返し、鞄を持って教室を出た。
廊下の途中で九条さんとすれ違った。
彼女は風紀委員の腕章をつけ、掲示板の前に立っている。
「あ、七瀬君」
「こんにちは、九条さん。今日も掲示の確認?」
「ええ。読書週間のこととは別に、通常の掲示物の確認もあるから」
九条さんは手元の書類を揃え、俺の鞄へ目を向けた。
「これから図書室?」
「うん。白石先輩と紹介カードの試作をするんだ」
「……試作?」
「実際の大きさに文章を書いて、見やすさを比べてみようって話になって」
そう説明すると、九条さんは興味を持ったように頷いた。
「なるほど。それなら、掲示したときの距離も考えた方がよさそうね」
「距離?」
「ええ。手に取って読むカードなのか、少し離れたところから見るものなのかで、文字の大きさが変わるでしょう?」
俺は思わず感心した。
「確かに。そこまでは考えてなかったな」
「展示の方法がまだ決まっていないなら、両方の可能性を残しておくといいと思う」
九条さんは落ち着いた声で続けた。
「ただ、入口付近に置くものは、人が立ち止まる位置も確認したいわね。通行の邪魔にならないように」
「うん。白石先輩にも伝えてみるよ」
俺が答えると、九条さんは小さく頷いた。
それから、少しだけ表情を和らげた。
「……七瀬君、最近ちゃんと立ち止まって本を見るようになったわね」
俺は少し驚いた。
「そうかな?」
「ええ。昨日も西条さんと帰るとき、歩きながらノートを開かなかったんでしょう?」
「……あれ、どうして知ってるの?」
九条さんは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、少しだけ視線を逸らした。
「西条さんから聞いたの。今日、廊下で少し話したときに」
「そっか。ちゃんと気をつけてるよ」
俺が笑うと、九条さんは安心したように息を吐いた。
「それならいいわ。読書週間の準備をしている人が、歩きながら読んで転んだら困るもの」
「……それは本当にそうだね」
俺は苦笑した。
九条さんに注意されるたび、歩きながら読むことの危なさを改めて考えるようになった。
好きな本を楽しむためにも、安全に読むことは大切だ。
「じゃあ、またあとで。九条さんもお疲れさま」
「ええ。七瀬君も、無理しすぎないでね」
彼女はそう言って、書類へ視線を戻した。
俺は軽く手を振り、図書室へ向かった。
◇◇◇
放課後の図書室では、昼休みよりもゆったりとした時間が流れていた。
窓際の席には読書をしている生徒が数人いて、奥の書架では図書委員が返却本を戻している。窓から入る風がカーテンをわずかに揺らし、紙をめくる音が静かに響いていた。
白石先輩は、カウンターの近くにある作業机へ用紙を並べていた。
「七瀬君、来てくれたのね」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ。今日は試してみるだけだから、気楽に考えましょう」
俺は先輩の向かいへ座り、ノートを開いた。
机の上には、紹介カードの試作用紙が数枚、鉛筆、消しゴム、定規が置かれている。
白石先輩はまず、大学で再会した幼馴染の恋愛小説の紹介文を使ってみようと提案した。
俺は頷き、昨日考えた文章を見返した。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
その下に、作品の内容を短く説明する文章を添える。
昨日、白石先輩が提案してくれた案を使えば、かなりすっきりした形になるはずだ。
俺は鉛筆を持ち、用紙の枠へ文章を書き込んでいった。
文字の大きさを揃えることを意識していたが、最初の一枚は少し窮屈になってしまった。
「……あれ。思ったより余裕がないですね」
俺が呟くと、白石先輩は隣から用紙を覗き込んだ。
「そうね。文章の長さだけなら収まるけれど、余白が少ないかもしれないわ」
「もう少し文字を小さくすれば……」
俺がそう言いかけると、先輩は穏やかに首を振った。
「小さくする前に、読む人のことを考えてみましょうか」
「読む人、ですか?」
「ええ。図書室に来た人が、棚の前でこのカードを見つけたとき、どこから目を向けると思う?」
俺は用紙を少し離して眺めた。
最初に目へ入るのは、やはり大きく書いた問いかけの部分だろう。
その下の説明文は、興味を持った人が続けて読むことになる。
「……最初の一文ですね」
「私もそう思うわ。なら、その部分を少し目立たせて、説明はもう少し読みやすい大きさにしたいわね」
先輩は別の用紙を取り、簡単な配置を描いてくれた。
上に短い問いかけを置き、少し余白を空けて説明文を書く。
それだけで、見た目の印象がかなり変わった。
「……なるほど。こっちの方が読みやすいですね」
「ふふ。まだ試作だけれどね」
白石先輩は笑った。
俺も頷き、今度は自分で別の案を書いてみることにした。
二枚を並べて比較すると、文章自体は同じでも、配置によって受ける印象が違う。
これは本の装丁にも似ているかもしれない。
同じ物語でも、表紙や文字の配置によって、手に取る前の印象は変わる。
俺がそのことを話すと、白石先輩は嬉しそうに頷いた。
「そうね。七瀬君と前に書店へ行ったときも、装丁の違いについて話したでしょう?」
「覚えてます。古書店で見つけた本のことですよね」
「ええ。同じ作品でも、版によって印象が違うという話が面白かったわ」
先輩は少し懐かしそうに微笑んだ。
俺もあの日のことを思い出した。
本棚の間を歩きながら、気になる本を手に取り、喫茶店で感想を話した。
とても楽しい時間だった。
「またああいうふうに本を見て回りたいですね」
俺が何気なく言うと、白石先輩の手が一瞬だけ止まった。
彼女は俺へ顔を向け、少し驚いたように目を瞬かせた。
「……七瀬君も、そう思ってくれているの?」
「もちろんです。先輩と本を探すの、楽しかったですから」
そう答えると、白石先輩は静かに微笑んだ。
「……ありがとう。私も、とても楽しかったわ」
その声は、いつもより少し柔らかく聞こえた。
けれど、すぐに先輩は机の上へ視線を戻した。
「次は、日常ものの短編集の紹介文も試してみましょうか」
「はい」
俺たちは再び作業を始めた。
◇◇◇
日常ものの短編集の紹介文は、恋愛小説のものとは少し違う難しさがあった。
『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』
この一文は短く、余白を取って配置しても見栄えがいい。
ただ、これだけではどんな作品なのか分かりにくいという意見もありそうだった。
俺はノートを見ながら、説明文をいくつか考えてみた。
街の小さな店で働く人々の話。
日常の中で交わされる何気ない言葉。
誰かと関わることで、少しだけ変わっていく毎日。
どれも作品の魅力だと思うが、全部を書けば長くなってしまう。
「……先輩、こういうときって、何を残すのがいいんでしょう」
俺が尋ねると、白石先輩は少し考えた。
「七瀬君が、この本を誰かに薦めるとしたら、最初に何を伝えたい?」
「最初に、ですか」
俺は目を閉じ、作品を読み終えたときの気持ちを思い出した。
大きな事件が起きるわけではない。
けれど、登場人物たちの何気ないやり取りを読んでいるうちに、自分の毎日も少し違って見えてくる。
特別な出来事がなくても、誰かと話した時間や、いつも通る道の景色には意味がある。
「……読んだあと、普段の生活を少し好きになれるところですかね」
俺がそう答えると、白石先輩はゆっくり頷いた。
「それなら、今の一文はとても合っていると思うわ」
「でも、内容が伝わりにくいですよね」
「そうね。だから、下の説明で舞台や雰囲気を少し補うといいかもしれないわ」
先輩は鉛筆を取り、用紙の余白へ短い文章を書いた。
『小さな店と、そこへ集まる人たち。何気ない会話の中に見つかる、ささやかな変化を描いた短編集。』
俺はその文章を読み、思わず笑顔になった。
「……いいですね。すごく作品の雰囲気に合ってます」
「ありがとう。でも、七瀬君が最初に伝えたいことを話してくれたからよ」
白石先輩は控えめに笑った。
俺はもう一度文章を読み返し、少し考えた。
紹介文は、作品の内容を全部説明するものではない。
読んでみたいと思うきっかけを作るものだ。
そのためには、何を伝えないかも大切なのだろう。
「……やっぱり、難しいけど面白いですね」
俺がそう呟くと、白石先輩は嬉しそうに頷いた。
「ええ。私もそう思うわ」
彼女は机の上に並んだ二枚の試作カードを見つめた。
「こうして比べてみると、作品によって合う紹介の仕方が違うことも分かるわね」
「そうですね。恋愛小説は問いかけが合うけど、日常ものは雰囲気を伝える方がよさそうです」
「ええ。ただ、展示全体の統一感も必要だから、そのあたりは委員会で相談しましょう」
俺は頷いた。
まだ何も正式に決まったわけではない。
けれど、少しずつ形が見えてきた気がした。
◇◇◇
作業を終えて用紙をまとめていると、図書室の入口から九条さんが入ってきた。
彼女は室内を見回し、俺たちのいる作業机へ近づいてくる。
「白石先輩、七瀬君。お疲れさまです」
「九条さん、こんにちは」
「こんにちは、凛さん」
白石先輩が微笑むと、九条さんは軽く頭を下げた。
「読書週間の掲示について、少し確認したいことがあって来ました」
「ええ。ちょうど試作をしていたところなの。よかったら見ていって」
白石先輩は机の上の用紙を示した。
九条さんはそれを見て、少し興味深そうに目を細めた。
「……なるほど。実際の大きさにしてみたんですね」
「まだ仮の大きさだけれどね」
「でも、参考になります」
九条さんは用紙を一枚ずつ確認し、少し考えてから口を開いた。
「このカード、棚に置くなら読みやすそうです。ただ、入口付近に置く場合は、もう少し文字を大きくした方がいいかもしれません」
俺は頷いた。
「さっきも、見る距離によって変わるって話をしてたところなんだ」
「そうなのね」
九条さんは少し安心したように笑った。
それから、机の端に置かれた恋愛小説の紹介カードへ目を向けた。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
彼女はその文章を静かに読んだ。
しばらくしてから、ゆっくり顔を上げる。
「……七瀬君」
「うん?」
「この文章、前にも見せてもらったけど……改めて読むと、少し考えさせられるわね」
「そう?」
「ええ。近くにいる人ほど、ちゃんと見ているつもりになってしまうこともあるから」
九条さんはそう言って、少しだけ視線を落とした。
俺はその言葉に頷いた。
「分かる気がする。長く一緒にいると、相手のことを知ってるつもりになるもんね」
「……そうね」
彼女は短く答えた。
それから、少し考えるように俺を見た。
「七瀬君は、誰かの気持ちを知りたいと思ったとき、どうする?」
俺は少し驚いた。
昨日から、似たようなことを何度も聞かれている気がする。
一ノ瀬先輩にも、雫にも、現実の人の気持ちについて話した。
九条さんまで同じような質問をするとは思わなかった。
「……まずは、話を聞くかな」
俺は考えながら答えた。
「もちろん、相手が話したくないことまで無理に聞くつもりはないけど。何を考えてるのか分からないなら、勝手に決めつけない方がいいと思うし」
九条さんは静かに頷いた。
「……そうね。七瀬君らしい答えだと思う」
「そうかな?」
「ええ」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「でも、相手が話す勇気を出すまで待つのも、大切なことかもしれないわね」
俺はその言葉を聞いて、雫のことを思い出した。
いつか話を聞いてほしいと言っていた幼馴染。
彼女が何を話そうとしているのか、まだ分からない。
けれど、急かさずに待つことも必要なのだろう。
「……うん。そうだね」
俺が頷くと、九条さんは少し安心したように表情を和らげた。
白石先輩はそんな俺たちの会話を静かに聞いていた。
それから、柔らかく微笑む。
「七瀬君の紹介文、いろいろな人に考えるきっかけを作っているみたいね」
俺は少し照れくさくなった。
「いや、そこまで大げさなものじゃないですよ」
「ふふ。でも、少なくとも私はそう感じたわ」
先輩は穏やかに答えた。
九条さんも小さく頷いている。
俺は二人の反応を見ながら、少し不思議な気分になった。
ただ好きな本を紹介したいだけなのに、どうしてこんなに人の気持ちの話になるのだろう。
(……まあ、恋愛小説の紹介文だから、そういう話になるのも当然か)
俺はそう考え、納得することにした。
◇◇◇
その頃、図書室の窓際では、白石栞が試作カードを整理しながら、七瀬春樹と九条凛の会話を思い返していた。
春樹が考えた紹介文は、確かに恋愛小説らしいものだった。
けれど、彼自身はその文章が周囲へ与えている影響に、あまり気づいていないように見える。
(……七瀬君は、本当に本のことになると一生懸命なのね)
栞は小さく微笑んだ。
春樹が作品について語るとき、その声には自然な熱がこもる。
誰かに興味を持ってもらえたら嬉しそうに笑い、違う感想を聞けば素直に耳を傾ける。
そんな姿を見ていると、栞自身も本についてもっと話したくなる。
そして、ときどき、その時間が終わってほしくないと思ってしまう。
(……私も、もう少しだけ一緒にいたいと思っているのかしら)
栞は自分の気持ちを静かに確かめるように、机の上の用紙へ目を落とした。
以前、春樹と二人で書店を巡った日。
喫茶店で本の話をした時間。
今日、紹介カードを一緒に考えた放課後。
どれも特別に大きな出来事ではない。
けれど、思い返すたびに胸の奥が温かくなる。
栞はその感覚を大切にしたいと思った。
急いで何かを変える必要はない。
今は、こうして同じ本を好きだと言える時間を、少しずつ重ねていけたらいい。
彼女はそう考えながら、試作カードを丁寧に重ねた。
◇◇◇
図書室を出る頃には、廊下の窓から見える空が少しずつ夕方の色へ変わっていた。
俺は鞄を肩へ掛け、スマートフォンを確認した。
雫からメッセージが届いている。
『春樹、そろそろ終わりそう? 私の用事は終わったよ』
俺はすぐに返信した。
『今終わったところ。昇降口で待ち合わせしようか』
『うん。待ってるね』
俺は歩きながらスマートフォンをしまい、階段へ向かった。
もちろん、画面を見ながら歩き続けたりはしない。
九条さんに何度も注意されていることだし、今日も安全について話したばかりだ。
昇降口へ着くと、雫が靴を履き替えながらこちらを見つけた。
「春樹、お疲れさま」
「雫もお疲れ。待たせちゃった?」
「ううん。私も今来たところだよ」
彼女は笑い、俺が靴を履き替えるのを待ってくれた。
校門を出ると、夕方の風が頬に触れた。
朝より少し暖かくなっていたが、日が傾くにつれて空気は再び涼しくなり始めている。
俺たちは並んで歩きながら、今日の出来事について話し始めた。
「紹介カード、どうだった?」
雫が尋ねた。
「実際の大きさで試してみたよ。文章を短くするだけじゃなくて、配置も考えないといけないって分かった」
「へえ。何だか本格的になってきたね」
「まだ試作だけどね。白石先輩と九条さんにも意見をもらったんだ」
俺がそう言うと、雫は少しだけ目を瞬かせた。
「九条さんも?」
「うん。掲示する場所によって、文字の大きさを変えた方がいいって」
「なるほど。九条さんらしいね」
雫は小さく笑った。
それから、少し考えるように前を向いた。
「……みんな、春樹の紹介文を見てるんだね」
「そうだね。昨日から結構いろんな人に感想を聞いてるよ」
俺は頷いた。
白石先輩、九条さん、一ノ瀬先輩、小日向さん、新海さん、そして雫。
それぞれ違う意見があって、面白かった。
「でも、不思議なんだよね」
俺がそう呟くと、雫は顔を向けた。
「何が?」
「恋愛小説の紹介文を見せると、みんな俺自身のことを聞いてくるんだよ」
雫は一瞬だけ足を止めかけた。
「……春樹自身のこと?」
「うん。近くにいる人の気持ちをどれくらい分かってるかとか、誰かの気持ちを知りたいときどうするかとか」
俺は少し笑った。
「紹介文の感想を聞いてるつもりだったんだけど、いつの間にか恋愛相談みたいになってるんだよね」
雫はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……そっか」
彼女は少しだけ笑った。
「春樹らしいね」
「またそれ?」
「ふふ。だって、本当にそうなんだもん」
雫は楽しそうに笑ったが、その目には少し複雑な色が浮かんでいるようにも見えた。
俺は首を傾げた。
「そんなに変かな?」
「変じゃないよ。ただ……」
雫はそこで言葉を止めた。
少し考えてから、ゆっくり続ける。
「春樹って、本の中の人の気持ちはすごくよく考えるでしょ。でも、現実の人が春樹に何か伝えようとしてるとき、それがどういう意味なのかまでは、あんまり考えないことがあるよね」
俺は少し考え込んだ。
「……そうかな」
「うん。例えば、誰かが春樹ともっと話したいって言ったら、どう思う?」
「嬉しいと思うよ。俺も話すの好きだし」
「じゃあ、その人が春樹と二人で出かけたいって言ったら?」
「行きたい場所が合えば、楽しそうだなって思うかな」
雫は小さく笑った。
けれど、その笑い方は少しだけ困っているようにも見えた。
「……うん。そうだよね」
俺は彼女の反応を見ながら、何か答えを間違えたのだろうかと考えた。
ただ、雫は怒っているわけではなさそうだった。
むしろ、少し楽しそうでもある。
「雫、何か言いたいことある?」
俺が尋ねると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。
それから、しばらく俺を見つめていた。
「……あるよ」
その返事は、思っていたより静かだった。
俺は足を止めかけたが、雫が歩き続けているのを見て、隣へ並び直した。
「そっか。じゃあ、聞くよ」
そう言うと、雫は小さく首を振った。
「……今すぐじゃなくていいの」
「そう?」
「うん。ちゃんと話したいから、もう少しだけ待っててほしい」
俺は頷いた。
「分かった。雫が話したくなったときでいいよ」
彼女はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ俺へ近づくように歩幅を合わせた。
「……ありがとう、春樹」
その声は、風に紛れそうなくらい柔らかかった。
俺は何となく照れくさくなり、前を向いた。
雫が何を話そうとしているのか、まだ分からない。
けれど、彼女が大切にしていることなら、俺もちゃんと聞きたいと思う。
(……昔の約束のことかもしれないし、それ以外のことかもしれない)
どちらにしても、急いで答えを求める必要はない。
俺たちはそのまま、夕方の道を並んで歩き続けた。
◇◇◇
家へ帰ったあと、俺は机の上へ鞄を置き、今日使った紹介カードの試作用紙を取り出した。
白石先輩と一緒に考えた配置案。
九条さんからもらった、掲示する距離についての意見。
それから、雫との帰り道で話したこと。
一日を振り返ると、今日も本に関係する話ばかりしていた気がする。
俺は椅子へ座り、ノートを開いた。
紹介カードの候補は、少しずつ形になってきている。
ただ、正式な展示内容はまだ決まっていない。
だから、今は試した結果を整理しておく程度でいいだろう。
俺は用紙を並べ、気づいたことを書き加えていった。
問いかけの文章は目を引きやすい。
説明文は短くても、作品の舞台や雰囲気が分かる方がいい。
カードの大きさや文字の配置は、置く場所によって調整する必要がある。
書き終えたところで、俺は鉛筆を置いた。
(……今日はここまでにしておこう)
無理に進める必要はない。
明日以降、また白石先輩や図書委員の人たちと相談すればいい。
俺はノートを閉じ、本棚へ目を向けた。
そこには、読みかけの本が何冊か並んでいる。
大学で再会した幼馴染の恋愛小説。
駅を舞台にした連作短編集。
それから、以前買った日常ものの本。
どれも続きを読みたい。
俺は少し迷ったあと、駅を舞台にした連作短編集を手に取った。
白石先輩が薦めてくれた作品だ。
登場人物たちが同じ駅を利用しながら、それぞれ違う毎日を過ごしている。
最初は関係のないように見えた人たちの生活が、少しずつ重なっていく。
俺はページをめくりながら、今日の出来事を思い出した。
小日向さんは、自分の好きなものを誰かへ伝えたいと言っていた。
新海さんは、短い物語の中で気持ちが伝わる瞬間に興味を持っていた。
白石先輩は、本を好きだと思った理由を大切にしてほしいと言ってくれた。
九条さんは、相手が話す勇気を出すまで待つことも必要だと話していた。
そして雫は、いつかちゃんと話したいことがあると言った。
同じ一日を過ごしていても、それぞれ考えていることは違う。
それでも、言葉を交わすことで少しずつ相手のことを知っていける。
(……何だか、この本に似てるな)
俺は小さく笑った。
物語の中では、駅のホームで偶然隣り合った二人が、何気ない会話を交わしていた。
その会話は、本人たちにとっては特別なものではないのかもしれない。
けれど、読み手から見ると、そこには少しずつ変わっていく関係が描かれている。
俺はその場面を読みながら、ふと考えた。
現実でも、誰かとの何気ない会話が、あとから大切な思い出になることがあるのだろう。
雫と歩いた通学路。
白石先輩と話した図書室。
小日向さんへ本を渡した昼休み。
悠斗が赤木さんと楽しそうに話していた教室。
どれも、今は普通の日常だ。
けれど、いつか振り返ったときには、少し違う意味を持つのかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、ページをめくった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
雫からだった。
『春樹、今日はありがとう。帰り道で話したこと、ちゃんと覚えててね』
俺は画面を見つめた。
今日の帰り道。
雫は、いつかちゃんと話したいことがあると言っていた。
俺は少し考えてから、返信を打った。
『もちろん。雫が話したくなったら、いつでも聞くよ』
送信すると、少し間が空いた。
それから、返事が届いた。
『……うん。ありがとう』
続けて、もう一通。
『それと、今日も一緒に帰れて嬉しかったよ』
俺は自然に笑った。
『俺も楽しかった。また一緒に帰ろうね』
そう返信すると、雫から小さな笑顔の絵文字が送られてきた。
俺はスマートフォンを置き、再び本へ目を向けた。
物語の中では、駅を行き交う人たちが、それぞれの思いを抱えて歩いている。
誰かの気持ちは、全部分かるわけではない。
けれど、知ろうとすることはできる。
俺はそのことを考えながら、静かにページをめくった。
読書週間の準備は、まだ始まったばかりだ。
紹介カードも、展示の形も、これから少しずつ決まっていく。
雫が話したいことも、今はまだ分からない。
それでも、焦らずに待っていればいいと思う。
本だって、最後のページを急いで開くより、そこへ至るまでの物語を楽しむ方がずっと面白い。
俺はそう考え、読みかけの一文へ視線を戻した。
……もっとも、自分の周りで少しずつ始まっている物語については、まだ何も分かっていなかったのだけれど。




