第65話 読書週間の準備を進めたいだけなのに、どうして俺の推薦文が恋愛相談みたいになるんだ?
月曜日の朝、俺は机の上に広げたノートを見ながら、昨日までに考えた紹介文をもう一度確認していた。
窓の外はよく晴れていて、住宅街には通学する生徒たちの声が聞こえ始めている。そろそろ家を出る時間なのだが、昨日の夜に書き加えた文章が少し気になり、鞄へしまう前に読み返しておきたくなったのだ。
ノートには、読書週間の展示で使えそうな紹介文がいくつか並んでいる。
大学で再会した幼馴染の男女を描いた恋愛小説。街の小さな店や何気ない日常を題材にした短編集。それから、図書室で以前読んだ、手紙を通じて人と人とのつながりを描いた物語。
どれも好きな作品だが、紹介文を考えるとなると話は別だった。
内容を詳しく説明すれば、読む前の楽しみを奪ってしまう。反対に、曖昧な言葉ばかり並べても、どんな本なのか伝わらない。
昨日はその加減を考えているうちに、予定より長くノートへ向かっていた。
(……白石先輩、これで大丈夫かな)
もちろん、今日持っていくのは完成品ではない。
図書委員会で使う紹介カードの候補として、意見をもらうための下書きだ。正式な展示内容も配置も決まっていない以上、今の段階で一人だけ先走って完成させるわけにはいかない。
俺はノートの最後のページを確認し、鞄へしまった。
そのとき、スマートフォンが短く震えた。
『春樹、おはよう。今日はいつもの時間で大丈夫?』
雫からだった。
昨日は近所の公園で待ち合わせをして、午後の時間を一緒に過ごしたばかりだ。
春樹と呼ぶ彼女の声や、別れ際に見せた笑顔を思い出すと、何となく気分が明るくなる。
『おはよう。大丈夫だよ。いつものところで待ってるね』
そう返信すると、すぐに返事が届いた。
『了解。今日はちゃんと朝ご飯食べた?』
俺は思わず笑った。
『食べたよ。雫は?』
『私も食べたよ。じゃあ、あとでね』
短いやり取りを終え、俺はスマートフォンをポケットへ入れた。
雫は昔から、こういうところをよく気にしてくれる。
朝食を抜いていないか、夜遅くまで本を読んでいないか、学校の準備を忘れていないか。
ありがたいと思う一方で、少し心配されすぎている気もする。
(……まあ、俺が本を読んでて時間を忘れることがあるからなんだろうけど)
それについては否定できない。
俺は苦笑しながら鞄を肩へ掛け、玄関へ向かった。
今日からまた学校だ。
読書週間の準備も進めたいし、悠斗から土曜日の展示会の話を聞くのも楽しみだった。
何より、放課後には図書室へ寄る予定がある。
月曜日の始まりとしては、悪くない。
◇◇◇
いつもの待ち合わせ場所へ着くと、雫はすでに道の向こうから歩いてきていた。
昨日と違って制服姿だが、こちらに気づいて表情を明るくするところは同じだった。
「おはよう、春樹」
「おはよう、雫。昨日はありがとう」
「ふふ。朝から改まってどうしたの?」
「いや、昨日は楽しかったからさ。ちゃんとお礼言っておこうと思って」
そう答えると、雫は少しだけ驚いた顔をした。
それから、柔らかく笑う。
「……そっか。私も楽しかったよ」
彼女は隣へ並び、俺たちは学校へ向かって歩き始めた。
朝の風はまだ少し涼しく、歩道沿いの木々からは小鳥の声が聞こえてくる。昨日の公園とは違う景色だが、隣に雫がいると、何となく休日の会話が続いているような気分になった。
「そういえば、借りた短編集なんだけどね」
雫が鞄へ軽く手を添えた。
「昨日、最初の話を最後まで読んだよ」
「本当? どうだった?」
「うん。春樹が好きだって言ってた理由、分かった気がする」
雫は少し考えながら続けた。
「主人公が最初から何か大きな目標を持ってるわけじゃないでしょ。でも、お店へ来る人たちと話してるうちに、自分が毎日やってることにも意味があるんだって気づいていくの」
「そうそう。そこがいいんだよね」
俺は思わず頷いた。
「何かすごいことをしなくても、誰かの日常を少しだけよくすることってあると思うんだ。あの話、そういうところを押しつけがましく描いてないのが好きで」
「うん。あと、主人公が最後にお店の窓を拭くところもよかったな」
雫は嬉しそうに笑った。
「あれって、最初の方にも出てきた何気ない作業なのに、最後に読むと少し違って感じるんだよね」
俺は感心した。
あの場面は俺も好きだったが、雫がそこを挙げるとは思っていなかった。
「よく見てるね。俺もあの終わり方好きなんだ」
「春樹が薦めてくれた本だから、ちゃんと読みたいなって思って」
雫は何気ない調子で言った。
けれど、その言葉が少し嬉しかった。
「ありがとう。無理して急いで読まなくていいからね」
「分かってるよ。せっかく借りたんだし、ゆっくり楽しむつもり」
彼女はそう答え、少しだけ俺の顔を覗き込んだ。
「それより春樹、昨日も夜遅くまで読書してなかった?」
「……そんなに遅くはないよ」
「その言い方、ちょっと怪しいなあ」
「ちゃんと寝たって」
雫は笑ったが、それ以上追及してこなかった。
代わりに、昨日の公園で話したことを思い出したように口を開く。
「ねえ、春樹。昨日の約束、覚えてる?」
俺は少し考えた。
「また都合が合うときに、公園とかでゆっくり話そうってこと?」
「……うん。それ」
雫は嬉しそうに頷いた。
「ちゃんと覚えてたんだ」
「昨日のことだからね」
「ふふ。そうだよね」
彼女は少し笑ってから、前方へ目を向けた。
その横顔には、どこか安心したような表情が浮かんでいる。
俺はそれを見ながら、先週の展望広場で話題になった昔の約束を思い出した。
雫が覚えていて、俺が忘れているもの。
昨日も、彼女は昔の出来事をいくつか話してくれた。
転んだ俺を見て、雫の方が泣きそうになったこと。
俺が大丈夫だと笑ったこと。
そうした小さな記憶を、彼女は今でも大切にしているらしい。
(……俺も、もう少し昔のことを思い出せたらいいんだけどな)
ただ、今すぐ答えを出す必要はない。
雫と話しているうちに、いつか思い出すこともあるだろう。
俺はそんなことを考えながら、彼女と並んで校門へ向かった。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗が自分の席でスマートフォンを眺めていた。
普段なら俺の姿を見つけるとすぐに声をかけてくるのだが、今日は画面を見ながら妙に真剣な顔をしている。
「おはよう、悠斗」
「……おっ、春樹。おはよう」
俺が声をかけると、悠斗は慌てたようにスマートフォンを伏せた。
その様子が少し気になった。
「どうしたの? 何かあった?」
「いや、別に悪いことじゃないんだけどさ」
悠斗は周囲を軽く見回してから、俺へ少し身を寄せた。
「土曜日のこと、もうちょっと話してもいいか?」
俺は笑った。
「もちろん。展示会、楽しかったんでしょ?」
「めちゃくちゃ楽しかった」
悠斗は即答した。
それから、少し照れくさそうに頬を掻く。
「……展示もよかったんだけど、赤木さんと喫茶店で話した時間が、特によかったんだよな」
俺は自分の席へ鞄を置き、悠斗の話を聞くことにした。
土曜日の夜にも電話で感想を聞いたが、直接会うとまた違うらしい。
悠斗は展示会で見た映画のポスターや、制作途中のイラストについて話し始めた。
紗弥さんは作品の色使いや人物の表情に注目していて、悠斗は構図や場面の迫力が印象に残ったという。
同じ展示を見ても、気になるところが違う。
それが面白かったらしい。
「俺さ、今まで映画とか見ても、すごかったとか面白かったとか、それくらいで終わることが多かったんだよ」
悠斗は少し考えながら続けた。
「でも赤木さんは、どうしてその場面が好きなのか、ちゃんと話してくれるんだよな。それ聞いてると、俺ももう一回見たくなるっていうか」
「いいね。自分とは違う見方を知ると、作品の楽しみ方が増えるもんね」
「そうなんだよ。……でさ」
悠斗はそこで少し声を落とした。
「また一緒に出かけたいって言ったら、赤木さんも行きたいって言ってくれたんだけど」
「うん。土曜日の電話でも言ってたね」
「……あれって、結構いい感じだと思っていいのかな」
俺は少し考えた。
悠斗と紗弥さんは、以前にも二人で映画を見に行っている。
今回の展示会も一緒に楽しみ、帰りには喫茶店へ寄った。
しかも、また出かけたいという話までしている。
少なくとも、紗弥さんが悠斗と過ごす時間を楽しんでいることは確かだろう。
「いい感じなんじゃないかな。赤木さんもまた行きたいって言ってくれたんでしょ?」
「……うん」
「なら、次もお互い楽しめる場所を探してみたら?」
俺がそう答えると、悠斗は少し安心したように息を吐いた。
「そうだよな。いきなり何か決めなきゃいけないわけじゃないし」
「うん。急がなくてもいいと思うよ」
悠斗は頷いた。
それから、ふと何かを思いついたように俺を見た。
「……ところで春樹、お前は昨日どうしてた?」
「昨日?」
「日曜日。ずっと家で本読んでたのか?」
「午後は雫と公園で話してたよ」
俺が答えた瞬間、悠斗の表情が変わった。
「……は?」
「だから、雫と公園で」
「いや、聞こえた。聞こえたけど、ちょっと待て」
悠斗は額へ手を当てた。
何だか、ずいぶん大げさな反応だ。
「何?」
「……お前、先週の日曜日も西条さんと出かけてなかったか?」
「うん。展望広場へ行ったね」
「で、昨日も二人で公園?」
「そうだよ。本を貸す約束してたから」
悠斗はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり椅子へ座り直した。
「……春樹」
「うん?」
「お前、俺の恋愛相談には普通に答えられるのに、自分のことになると本当に分かんないんだな」
俺は首を傾げた。
「何の話?」
「……いや、今はいい」
悠斗は苦笑した。
その表情が少し気になったものの、ちょうど始業前の予鈴が鳴ったため、話はそこで終わった。
俺は自分の席へ座り、授業の準備を始めた。
(……悠斗、何が言いたかったんだろう)
少し考えてみたが、よく分からなかった。
ただ、土曜日の展示会が楽しかったことは間違いなさそうだ。
それなら何よりだと思い、俺は教科書を開いた。
◇◇◇
午前中の授業が終わる頃には、俺の頭の中はすっかり読書週間の準備へ切り替わっていた。
昼休みに図書室へ寄れば、白石先輩へ紹介カードの案を見せられる。
昨日までに考えた文章について、どんな意見がもらえるのか楽しみだった。
昼食を済ませ、ノートを持って教室を出ようとしたところで、雫が声をかけてきた。
「春樹、今日も図書室?」
「うん。白石先輩と紹介カードの相談をする予定なんだ」
「そっか。昨日考えてたやつだよね」
「そうそう。まだ下書きだけど、見てもらおうと思って」
雫は頷いた。
「頑張ってね。でも、お昼休み全部使わないようにね」
「分かってるよ」
「本当かなあ」
彼女は少し笑った。
俺も苦笑しながら答える。
「今日はちゃんと時間見て戻るから」
「うん。じゃあ、またあとで」
雫は軽く手を振った。
俺も応えてから、廊下へ出た。
図書室へ向かう途中、階段の踊り場で九条さんと顔を合わせた。
彼女は数枚の書類を持ち、廊下の掲示板を確認していた。
「あ、七瀬君」
「こんにちは、九条さん」
「こんにちは。図書室へ行くところ?」
「うん。紹介カードの案を持ってきたんだ」
俺がノートを軽く持ち上げると、九条さんは少し目を細めた。
「……昨日も作業してたの?」
「少しだけね。家で考えられるところを整理しておこうと思って」
「少しだけ、という言葉は人によって意味が違うから」
九条さんは落ち着いた声で言った。
俺は思わず笑った。
「雫にも似たようなこと言われたよ」
「西条さんが?」
「うん。無理しすぎないようにって」
九条さんは少しだけ考えるような顔をした。
「……それなら、ちゃんと聞いておいた方がいいと思う」
「分かってるよ。今日は相談するだけだから」
そう答えると、彼女は小さく頷いた。
「それならいいけど」
九条さんは持っていた書類へ目を落とした。
「そういえば、読書週間の注意表示についても、少し意見が集まってきたの」
「本当?」
「ええ。ただ、まだ正式に決まったわけじゃないから、今日の段階では案のままね」
彼女はそう前置きしてから、以前俺が考えた言葉について話し始めた。
『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』
その案について、風紀委員の中では比較的分かりやすいという意見が出ているらしい。
ただし、図書室だけでなく廊下などにも掲示するなら、もう少し短い言葉の方が目に入りやすいのではないかという声もあったという。
「なるほど。確かに、通りながら読むなら短い方がいいかもしれないね」
「そうなの。だから、前に話していた『本の続きは、安全な場所で』という案も残してあるわ」
九条さんは書類を揃えながら続けた。
「ただ、どちらにしても、掲示する場所と大きさを決めてから最終的に考えることになると思う」
「うん。その方がよさそう」
俺は頷いた。
読書週間の展示と同じで、言葉だけ先に決めても実際の場所に合わない可能性がある。
九条さんはそうした点をきちんと考えているのだろう。
「ありがとう、九条さん。俺も何か思いついたら伝えるね」
「ええ。でも、無理に増やさなくても大丈夫だから」
彼女はそこで少し表情を和らげた。
「……七瀬君は、もう十分いろいろ考えてくれてると思うし」
俺は少し驚いた。
「そうかな?」
「そうよ。だから、ほかの人にも任せて」
九条さんははっきりと言った。
その言葉に、俺は自然に頷いた。
「分かった。ありがとう」
彼女は小さく笑い、書類を抱え直した。
「じゃあ、また図書室で。私もあとで寄る予定だから」
「うん。またあとで」
俺たちはそこで別れた。
階段を上がりながら、俺は九条さんの言葉を思い返した。
ほかの人にも任せる。
それは確かに大切なことだ。
読書週間の準備は、俺一人の仕事ではない。
白石先輩や図書委員の人たち、九条さんや生徒会の人たちが、それぞれの立場から考えている。
俺は本を紹介する部分で、できることをすればいい。
(……よし。今日は意見を聞くことを大事にしよう)
そう考えながら、俺は図書室の扉を開けた。
◇◇◇
昼休みの図書室には、いつもより少し多くの生徒がいた。
窓際の席では参考書を広げている生徒がいて、書架の前では二人組が小さな声で本を探している。貸出カウンターの近くには返却された本が数冊置かれ、図書委員が順番に整理していた。
白石先輩は、そのカウンターの奥で資料を確認していた。
俺に気づくと、柔らかく微笑む。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは、白石先輩。昨日話していた紹介文、持ってきました」
「あら、ありがとう。早速見せてもらってもいいかしら?」
「もちろんです」
俺はノートを開き、先輩の前へ置いた。
白石先輩は椅子を少し寄せ、文章を一つずつ読み始めた。
俺は隣で待ちながら、先輩の表情をそっと確認した。
彼女は最初の恋愛小説の紹介文を読み、少しだけ口元を緩めた。
「……七瀬君らしい文章ね」
「そうですか?」
「ええ。物語の内容を説明するより、読んだ人が何を感じるかに目を向けているところが」
先輩は紹介文の一行を指さした。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
「この問いかけ、前にもいいと思ったけれど、改めて読むと面白いわ」
俺は嬉しくなった。
「ありがとうございます。幼馴染ものの魅力って、やっぱりそこかなと思って」
「相手のことを知っているつもりで、実は知らないことがある……ということかしら」
「はい。長く一緒にいるからこそ、変化に気づきにくいこともあると思うんです」
俺は少し考えながら続けた。
「でも、何かのきっかけで相手の新しい一面を知ると、それまで当たり前だった関係が違って見えてくる。そういうところが好きなんですよね」
白石先輩は静かに頷いた。
「……なるほど」
彼女は少しだけ目を細めた。
「七瀬君は、そういう変化を丁寧に描いた物語が好きなのね」
「はい。いきなり大きな出来事が起きるのも面白いですけど、日常の積み重ねで気持ちが変わっていく話も好きです」
「ふふ。よく分かるわ」
白石先輩は微笑んだ。
それから、紹介文の下に書いた説明へ目を移す。
「ただ、こちらの文章は少し長いかもしれないわね」
「やっぱりそうですか?」
「ええ。内容は伝わるけれど、展示カードに使うなら、もう少し短くしてもいいと思うの」
先輩は鉛筆を取り、ノートの余白に短い案を書き始めた。
『大学で再会した幼馴染。変わらないと思っていた関係に、少しずつ新しい気持ちが芽生えていく。』
俺はその文章を読んで、思わず頷いた。
「……あ、いいですね。すごく分かりやすいです」
「元の文章がよかったから、少し整えただけよ」
先輩は控えめに笑った。
「でも、最終的には展示する本の数やカードの大きさにも合わせたいわね」
「そうですね」
俺はその言葉をノートへ書き加えた。
まだ展示の形式は決まっていない。
だからこそ、今は使えそうな案を増やしておく段階なのだろう。
続いて、日常ものの短編集の紹介文を見てもらった。
『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』
白石先輩はその一文を読んだあと、しばらく考えていた。
「……こちらも素敵ね」
「ありがとうございます」
「恋愛小説の方とは違って、短い言葉だけで雰囲気を伝えているのがいいと思うわ」
先輩は少し首を傾げた。
「ただ、同じ展示の中に並べるなら、紹介文の長さに差がありすぎない方が見やすいかもしれないわね」
「なるほど……」
俺は頷いた。
作品ごとに紹介の仕方を変えるのは面白い。
けれど、展示全体としての見やすさも考える必要がある。
その二つをどう両立させるかが難しいところだった。
俺が考え込んでいると、白石先輩は柔らかく笑った。
「今すぐ答えを出さなくても大丈夫よ。こうして候補を並べてみるだけでも、考えやすくなるもの」
「……そうですね」
俺は少し肩の力を抜いた。
白石先輩と話していると、考えが整理されていく。
自分一人では気づかなかったところを指摘してもらえるし、逆に自分の好きな部分も大切にしてもらえる。
そういう時間が、俺は好きだった。
「先輩、ありがとうございます。持ってきてよかったです」
俺がそう言うと、白石先輩は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……こちらこそ。七瀬君と本の話をするのは、私も楽しいから」
その言葉に、俺は自然に笑った。
「俺もです」
白石先輩は一瞬だけ視線を落とした。
けれど、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻り、ノートの次のページを開いた。
「それじゃあ、もう一つの候補も見せてもらおうかしら」
「はい。これは少し迷ってるんですけど……」
俺は手紙を題材にした物語の紹介文について説明し始めた。
◇◇◇
白石栞は、七瀬春樹の話を聞きながら、机の上のノートへ視線を落としていた。
彼が考えてきた紹介文は、どれも作品の内容をよく理解したものだった。
ただ、単にあらすじをまとめているわけではない。
読んだ人がどんな気持ちになるのか。
どんな場面で心を動かされるのか。
そうした部分を、できるだけ短い言葉で伝えようとしている。
(……本当に、七瀬君らしいわ)
栞は小さく微笑んだ。
先週の土曜日、二人で書店を巡ったときのことを思い出す。
春樹は気になる本を見つけるたびに、嬉しそうに話していた。
古書店で装丁の違いについて語ったときも、喫茶店で読んだ本の感想を交わしたときも、その表情は自然で楽しそうだった。
栞は、そんな彼の姿を見るのが好きだった。
もちろん、今は図書委員としての仕事中だ。
個人的な気持ちを優先して、彼の案を無条件に褒めるわけにはいかない。
だからこそ、文章の長さや展示全体の見やすさについて、きちんと意見を伝えた。
春樹はそれを素直に受け止め、ノートへ書き加えている。
その姿にも、栞は好感を覚えていた。
「……先輩?」
春樹の声で、栞は顔を上げた。
「あら、ごめんなさい。少し考えていたわ」
「いえ。これ、やっぱり説明が難しいですよね」
春樹が示したのは、手紙を題材にした物語の紹介文だった。
栞は文章を読み直し、ゆっくり頷いた。
「難しいというより、伝えたいことが多いのかもしれないわね」
「……確かに」
「この作品の場合、手紙そのものより、手紙を受け取った人がどう変わるかが大切なのでしょう?」
「はい。そこが一番好きなところです」
春樹はすぐに答えた。
その声が少し弾んだのを聞き、栞は柔らかく微笑んだ。
「なら、そこを中心に考えてみましょうか」
「お願いします」
春樹は嬉しそうに頷いた。
栞はその表情を見ながら、胸の奥に小さな温かさを感じた。
(……こういう時間が、もう少し続いたらいいのに)
そう思ってしまう。
けれど、今は読書週間の準備を進めることが大切だ。
栞は気持ちを静かに整え、再びノートへ目を落とした。
◇◇◇
昼休みの終わりが近づいた頃、俺たちは紹介文の候補を一通り確認し終えた。
白石先輩はノートを閉じ、俺へ返してくれた。
「今日はありがとう、七瀬君。とても参考になったわ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
俺はノートを受け取り、鞄へしまった。
そのとき、図書室の入口から聞き慣れた声がした。
「あ、七瀬先輩!」
振り返ると、小日向ひよりさんがこちらへ歩いてきていた。
隣には新海真実さんもいる。
二人とも昼休みの残り時間を使って図書室へ来たらしい。
「こんにちは、小日向さん、新海さん」
「こんにちは!」
「……こんにちは、七瀬先輩」
ひよりさんは明るく挨拶し、真実さんは静かに頭を下げた。
白石先輩も二人へ微笑みかける。
「こんにちは。今日は何か探しもの?」
「はい! ちょっと本を見に来たんですけど……」
ひよりさんはそこで少しだけ言いよどんだ。
それから、俺の方を見た。
「……あの、七瀬先輩」
「うん?」
「前に話してた、放送部の小説なんですけど……」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思い出した。
以前、ひよりさんから放送部を題材にした青春小説について尋ねられたのだ。
家に持っているかもしれないので確認すると約束していた。
ところが、読書週間の準備や週末の予定が重なり、まだ本棚を調べられていなかった。
「……ごめん。まだ確認できてないんだ」
俺は正直に答えた。
ひよりさんは慌てて首を振った。
「いえいえ! 全然大丈夫です! 私も急いでるわけじゃないので!」
彼女はそう言って笑ったが、少しだけ申し訳なさそうな顔をしている。
俺は自分の方こそ申し訳なくなった。
「いや、俺が確認するって言ったんだから。今日帰ったら本棚を見てみるよ」
「……本当ですか?」
「うん。もし持ってたら、明日持ってこられると思う」
ただし、本当に家にあるかどうかは分からない。
俺はその点もきちんと伝えた。
「でも、持ってなかったらごめんね。そのときは別の本を探してみよう」
ひよりさんは嬉しそうに頷いた。
「はい! ありがとうございます!」
隣で真実さんが静かに微笑んだ。
「……ひより、よかったね」
「うん!」
ひよりさんは笑顔で答えた。
それから、ふと俺の持っているノートへ視線を向けた。
「先輩、それって読書週間の準備ですか?」
「そうだよ。紹介カードの文章を考えてたんだ」
「へえ! どんな本を紹介するんですか?」
俺は少し考えた。
まだ展示する本は決まっていない。
だから、具体的な作品名を確定したように話すのは避けた方がいいだろう。
「今は候補を考えてるところかな。恋愛小説とか、日常ものの短編集とか」
そう答えると、ひよりさんの目が輝いた。
「恋愛小説ですか!」
「うん。幼馴染が大学で再会する話なんだけど」
「……幼馴染」
ひよりさんはその言葉を小さく繰り返した。
隣の真実さんが、少しだけ彼女へ目を向ける。
「……ひより?」
「な、何でもない!」
ひよりさんは慌てて笑った。
俺は少し不思議に思ったが、続きを話すことにした。
「紹介文は、まだ先輩と相談してるところなんだ」
「どんな文章なんですか?」
ひよりさんが興味深そうに尋ねた。
俺は白石先輩へ目を向けた。
先輩は小さく頷いた。
「候補として考えている文章なら、聞いてもらってもいいと思うわ」
「じゃあ……」
俺はノートを開き、最初の紹介文を読み上げた。
「『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』」
ひよりさんは一瞬、黙った。
真実さんも少しだけ目を見開いている。
俺は二人の反応が気になった。
「……どうかな?」
ひよりさんは慌てて顔を上げた。
「い、いいと思います!」
「本当?」
「はい! 何か……すごく気になります!」
彼女は勢いよく頷いた。
それから、少しだけ声を落とした。
「……でも、ちょっとドキッとしますね」
「ドキッと?」
俺が聞き返すと、ひよりさんは少し困ったように笑った。
「だって、ずっと隣にいた人の気持ちって……何か、意味深じゃないですか」
俺は頷いた。
「そうなんだよね。そこがこの作品の面白いところなんだ」
そう答えると、ひよりさんは何とも言えない表情をした。
隣で真実さんが小さく笑った。
「……七瀬先輩らしいですね」
「そうかな?」
「はい。……本のことを話しているとき、本当に楽しそうです」
俺は少し照れくさくなった。
「ありがとう」
真実さんは静かに頷いた。
それから、ノートへ視線を落とした。
「……私は、その紹介文、好きです」
「本当?」
「はい。答えが書いていないから、続きを知りたくなります」
その言葉に、俺は感心した。
確かに、問いかけの形にした理由はそこにある。
読む人が自分で考えたくなるような文章にしたかったのだ。
「なるほど。ありがとう、参考になるよ」
俺が答えると、真実さんは少しだけ微笑んだ。
ひよりさんも頷いた。
「私も好きです! 展示されたら、見に来ますね!」
「うん。まだ決まってないけど、そう言ってもらえると嬉しいな」
俺たちはそんな話をしてから、昼休みの終わりが近いことに気づいた。
ひよりさんと真実さんは本棚を少し見てから教室へ戻るという。
俺も白石先輩へ挨拶し、図書室を出ることにした。
「先輩、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。また相談しましょうね」
「はい」
俺は軽く頭を下げ、廊下へ出た。
紹介文について、いろいろな意見を聞けた。
それだけでも、今日の昼休みは十分意味があったと思う。
◇◇◇
午後の授業が終わると、俺は放課後の予定を確認した。
今日は図書室へ長く残るつもりはない。
昼休みに紹介カードの相談はできたし、家に帰ってからはひよりさんとの約束を果たさなければならない。
放送部を題材にした青春小説。
持っているかどうか、本棚を確認する。
俺は忘れないよう、スマートフォンのメモへ書き込んだ。
そのとき、教室の入口から声がした。
「七瀬君、少しいいかしら?」
顔を上げると、一ノ瀬先輩が立っていた。
生徒会長らしい落ち着いた立ち姿で、手には薄い書類を持っている。
「一ノ瀬先輩。こんにちは」
「こんにちは。少しだけ時間をもらえる?」
「はい。大丈夫です」
俺が答えると、先輩は教室の外へ視線を向けた。
廊下の端にある窓際へ移動し、俺もその隣へ立つ。
放課後の廊下には部活動へ向かう生徒たちの姿があり、遠くから運動部の掛け声が聞こえていた。
一ノ瀬先輩は書類を開き、読書週間の準備について話し始めた。
「図書委員会から、展示の案について相談が来ているの」
「そうなんですね」
「ええ。まだ決定ではないけれど、入口付近のスペースをどう使うか、いくつか候補があるみたい」
俺は頷いた。
白石先輩とも話していたことだ。
ただ、図書室の入口付近は人の出入りが多い。
展示を増やしすぎれば通行の邪魔になる可能性もある。
一ノ瀬先輩はその点を説明した。
「生徒会としては、できるだけ多くの人に興味を持ってもらいたいけれど、安全面も大切だからね」
「九条さんも同じことを言ってました」
「あら、凛とも話したのね」
「はい。注意表示の案についても、少し進んでるみたいです」
一ノ瀬先輩は微笑んだ。
「そう。なら、うまく連携できそうね」
彼女は書類を閉じ、俺へ目を向けた。
「ところで、七瀬君」
「はい?」
「紹介カードの文章を考えているんでしょう?」
「はい。今日、白石先輩にも見てもらいました」
「ふふ。相変わらず熱心ね」
先輩は少し楽しそうに笑った。
「どんな文章になったのか、私も気になるわ」
俺は鞄からノートを取り出した。
「まだ候補ですけど、よかったら」
「ええ。見せてちょうだい」
俺がページを開くと、一ノ瀬先輩はゆっくり文章を読み始めた。
最初の恋愛小説の紹介文へ目を落としたところで、彼女の口元が少し緩む。
「……なるほど」
先輩は顔を上げた。
「七瀬君、これはなかなか面白いわね」
「ありがとうございます」
「『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』……ね」
彼女は文章をもう一度読み上げた。
それから、少しだけ俺へ近づく。
「ねえ、七瀬君」
「はい?」
「あなた自身は、どうなのかしら?」
俺は首を傾げた。
「……どう、とは?」
「ずっと近くにいる人の気持ちを、どれくらい分かっていると思う?」
俺は少し考えた。
家族や友人、幼馴染。
身近な人たちのことは、それなりに知っているつもりだ。
けれど、全部を理解しているかと聞かれれば、そんなことはない。
「……全部は分からないと思います」
俺は素直に答えた。
「長く一緒にいても、知らないことってありますし」
一ノ瀬先輩は少し意外そうな顔をした。
「……あら」
「だから、ちゃんと話を聞くことが大事なのかなって」
俺は続けた。
「本でもそうですけど、相手の気持ちって、勝手に決めつけても分からないじゃないですか」
先輩はしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくり笑った。
「……そうね。確かに、その通りだわ」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「でも、話を聞いてもらうには、話す側にも勇気が必要なことがあるのよ」
俺は頷いた。
「そうですね」
その言葉には納得できた。
自分の気持ちを誰かへ伝えるのは、簡単なことばかりではない。
特に、相手との関係が変わるかもしれない内容なら、なおさらだろう。
一ノ瀬先輩はそんな俺を見て、少しだけ笑みを深くした。
「……七瀬君は、本当に面白いわね」
「またそれですか?」
「ふふ。褒めているのよ」
先輩は楽しそうに笑った。
俺は少し困りながらも、笑い返した。
そのとき、一ノ瀬先輩がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、借りている本のことも伝えておこうかしら」
「『雨上がりの交差点で』ですか?」
「ええ。あと少しで読み終わりそうなの」
先輩は穏やかに頷いた。
「もう少しだけ借りていてもいい?」
「もちろんです。急がなくて大丈夫ですよ」
「ありがとう。読み終わったら、感想も聞いてくれる?」
「ぜひ聞きたいです」
俺が答えると、一ノ瀬先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「……約束ね」
「はい」
彼女は書類を抱え直した。
「それじゃあ、今日はこれくらいにしておくわ。引き止めてしまってごめんなさい」
「いえ。俺も話せてよかったです」
「ふふ。そう言ってもらえると嬉しいわ」
先輩は軽く手を振り、生徒会室の方へ歩いていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、ノートを鞄へしまった。
今日はいろいろな人に紹介文を見てもらった。
それぞれ違う反応があって、面白かった。
(……やっぱり、一人で考えるより参考になるな)
俺はそんなことを思いながら、昇降口へ向かった。
◇◇◇
校門を出たところで、雫が待っていた。
彼女は俺の姿を見つけると、軽く手を振った。
「春樹、お疲れさま」
「雫。待っててくれたの?」
「うん。今日は一緒に帰れるかなって思って」
俺は頷いた。
「もちろん。ちょうど帰るところだったよ」
「よかった」
雫は嬉しそうに笑い、俺の隣へ並んだ。
夕方の道には、部活動を終えた生徒たちの姿がちらほら見える。
俺たちは歩きながら、今日の出来事について話し始めた。
「紹介カード、どうだった?」
雫が尋ねた。
「結構いろいろ意見もらえたよ。白石先輩に文章を短くしてもらったり、小日向さんたちにも感想聞いたり」
「へえ。よかったね」
「うん。一ノ瀬先輩にも見てもらったんだ」
俺がそう言うと、雫は少しだけ目を瞬かせた。
「……一ノ瀬先輩にも?」
「そう。放課後に読書週間の話をしたから、そのときに」
雫は小さく頷いた。
「そっか。みんなで準備してるんだね」
「うん。まだ決まってないことも多いけどね」
俺は笑った。
雫も微笑んだが、少しだけ考えるような顔をしている。
俺はその様子に気づき、声をかけた。
「どうした?」
「……ううん。何でもない」
雫は首を振った。
それから、少しだけ俺の方へ顔を向けた。
「春樹、紹介文ってどんな感じになったの?」
「見る?」
「うん。ちょっと気になる」
俺は歩きながらノートを出そうとしたが、すぐに思い直した。
歩きながら読むのは危ない。
九条さんに何度も注意されていることだ。
「……あ、ちょっと待って。どこか止まってから見せるよ」
そう言うと、雫は少し驚いたように笑った。
「ふふ。ちゃんと気をつけてるんだね」
「九条さんに言われてるからね」
「うん。いいことだと思う」
俺たちは歩道の端にある小さな休憩スペースへ移動した。
人の通行を邪魔しない場所で足を止め、俺はノートを開いた。
「これが今の候補」
雫はページを覗き込んだ。
最初の恋愛小説の紹介文を読んだところで、彼女の表情が少し変わった。
「……これ」
「うん?」
「春樹が考えたの?」
「そうだよ。白石先輩にも見てもらって、少し直したけど」
雫はしばらく文章を見つめていた。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
その一文を、彼女は小さな声で読み上げた。
それから、ゆっくり俺へ目を向ける。
「……春樹、こういうこと考えるんだね」
俺は少し首を傾げた。
「こういうこと?」
「うん。ずっと隣にいる人の気持ちとか」
俺は頷いた。
「幼馴染ものの恋愛小説だからね。そこが一番面白いところかなって」
雫は少しだけ視線を落とした。
それから、静かに笑った。
「……そっか」
俺は彼女の反応が少し気になった。
「変だった?」
「ううん。全然」
雫は首を振った。
「むしろ、すごくいいと思う」
「本当?」
「うん。……ちょっと、胸に刺さる感じがするけど」
俺は少し驚いた。
「そんなに?」
雫は小さく笑った。
「だって、ずっと近くにいる人の気持ちって、分かってるつもりでも分からないことあるでしょ?」
俺は頷いた。
「そうだね。今日、一ノ瀬先輩にも同じようなこと聞かれたよ」
「……えっ?」
雫は顔を上げた。
「一ノ瀬先輩にも?」
「うん。俺自身は近くにいる人の気持ちをどれくらい分かってると思うかって」
雫はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ苦笑した。
「……先輩らしい質問だね」
「そうかな?」
「うん。何となく」
彼女はそう答え、再びノートへ目を落とした。
俺は雫の横顔を見ながら、少し考えた。
今日はいろいろな人から、紹介文について感想をもらった。
白石先輩は文章の構成を考えてくれた。
ひよりさんは意味深だと言っていた。
真実さんは答えが書いていないところがいいと言ってくれた。
一ノ瀬先輩は、俺自身ならどう思うかと尋ねてきた。
そして雫は、胸に刺さると言った。
同じ一文なのに、受け取り方はそれぞれ違う。
それが、何だか面白かった。
「……やっぱり、紹介文って難しいね」
俺が呟くと、雫は顔を上げた。
「どうして?」
「同じ文章でも、読む人によって感じ方が違うからさ」
俺は少し考えながら続けた。
「でも、それが面白いところでもあるんだろうね」
雫はしばらく俺を見つめていた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……うん。そうだと思う」
彼女はノートを閉じるのを待ち、俺へ小さく頷いた。
「春樹らしい、いい紹介文だと思うよ」
「ありがとう」
俺は嬉しくなり、ノートを鞄へしまった。
それから、二人で再び歩き始めた。
◇◇◇
帰り道の途中、雫は少しだけ口数が減っていた。
俺は最初、疲れているのかと思った。
けれど、彼女の表情は暗いわけではない。
何かを考えているような、少し落ち着いた顔だった。
「雫、疲れた?」
俺が尋ねると、彼女はすぐに首を振った。
「ううん。大丈夫だよ」
「そっか」
俺は頷いた。
それから、少し考えて続けた。
「……何か考え事?」
雫は少し驚いたように俺を見た。
「……分かる?」
「いつもより静かだから」
そう答えると、雫は小さく笑った。
「……そっか」
彼女はしばらく前を向いて歩いていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「春樹ってさ」
「うん?」
「本の中の人の気持ち、すごくよく分かるよね」
俺は少し考えた。
「そうかな?」
「うん。登場人物がどうしてそうしたのかとか、何を考えてるのかとか、結構細かく話してくれるでしょ」
「まあ、本を読むの好きだからね」
俺は笑った。
雫も小さく笑ったが、すぐに少し真面目な表情へ戻った。
「……じゃあ、現実の人の気持ちは?」
俺は思わず彼女を見た。
「現実?」
「うん。例えば、友達とか……幼馴染とか」
雫は少しだけ視線を逸らした。
俺は考え込んだ。
現実の人の気持ち。
それは、本の登場人物よりずっと難しいかもしれない。
小説なら、地の文で心情が説明されることもある。
けれど、現実では相手が何を考えているのか、全部分かるわけではない。
「……正直、分からないことの方が多いと思う」
俺はゆっくり答えた。
「でも、だからこそ話を聞きたいなって思うよ」
雫は少しだけ目を見開いた。
「……話を?」
「うん。勝手に決めつけるより、ちゃんと聞いた方がいいでしょ?」
俺はそう言って笑った。
雫はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり微笑んだ。
「……そっか」
彼女は小さく頷いた。
「じゃあ、いつか私の話も、ちゃんと聞いてね」
俺は少し驚いた。
「もちろん。いつでも聞くよ」
そう答えると、雫は少しだけ困ったように笑った。
「……うん。ありがとう」
彼女は前を向いた。
その横顔には、どこか安心したような表情が浮かんでいる。
俺は少し不思議に思った。
雫の話なら、今までもたくさん聞いてきた。
本の感想も、学校のことも、昔の思い出も。
それなのに、改めてそう言われると、何か特別な話があるようにも感じる。
(……もしかして、昔の約束のことかな)
先週の展望広場で、雫はまだ詳しく話さなかった。
けれど、いつか教えてくれるつもりなのかもしれない。
俺は無理に尋ねず、彼女の隣を歩き続けた。
夕方の風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
◇◇◇
家へ帰ったあと、俺はまず鞄を机へ置いた。
今日のうちにやっておきたいことがある。
ひよりさんとの約束だ。
放送部を題材にした青春小説を持っているかどうか、本棚を確認しなければならない。
俺は部屋の壁際に並んだ本棚へ向かった。
ジャンルごとに大まかに整理しているものの、古い本や何度も読み返した作品は別の棚へ移動していることもある。
だから、題名だけで探そうとすると意外に時間がかかる。
(……確か、学園ものの棚にあったと思うんだけど)
俺は上から順番に背表紙を確認し始めた。
青春小説。
部活動もの。
文化祭を題材にした作品。
いくつか気になる本を取り出してみたが、探しているものは見つからない。
俺は少し考えた。
以前読んだ記憶はある。
放送部の生徒たちが、校内放送や大会へ向けて練習を重ねる物語だった。
ただ、自分で買ったのか、図書室で借りたのかが曖昧だった。
(……もしかして、借りて読んだだけだったかな)
そう思いながら、別の棚も確認する。
しばらく探したあと、俺は一冊の文庫本を見つけた。
背表紙には、探していた作品の題名が書かれている。
「……あった」
思わず声が出た。
俺は本を取り出し、表紙を確認した。
間違いない。
放送部を舞台にした青春小説だ。
少し前に読んだ作品だったが、内容はよく覚えている。
主人公は人前で話すのが苦手な生徒で、放送部へ入ったことをきっかけに、声で誰かへ思いを伝えることの難しさと面白さを知っていく。
仲間たちとの関係も丁寧に描かれていて、読み終わったあとに温かい気持ちになった作品だった。
ひよりさんが興味を持った理由も、何となく分かる。
俺は本の状態を確認した。
表紙やページに大きな傷みはない。
貸すには問題なさそうだ。
(……よかった。ちゃんと持ってたんだな)
俺は少し安心した。
約束してから時間が経ってしまったので、見つからなかったら申し訳ないと思っていたのだ。
俺はスマートフォンを取り出し、ひよりさんへメッセージを送った。
『小日向さん、こんばんは。話してた放送部の小説、家で見つかったよ。明日持っていけると思う』
少しして、返信が届いた。
『本当ですか!? ありがとうございます!!』
続けて、もう一通。
『すごく楽しみです! 大事に読みます!』
俺は思わず笑った。
『うん。明日、学校で渡そうね』
『はい! よろしくお願いします!』
やり取りを終え、俺は本を机の上へ置いた。
これで一つ、約束を果たせそうだ。
あとは明日、忘れずに持っていけばいい。
俺は鞄の横へ本を置き、スマートフォンのメモにも書き加えた。
◇◇◇
その頃、小日向ひよりは自分の部屋でスマートフォンを握りしめていた。
画面には、七瀬春樹から届いたメッセージが表示されている。
放送部を題材にした青春小説が見つかった。
明日、学校で貸してもらえる。
ただそれだけの連絡なのに、ひよりは思わず笑顔になっていた。
(……先輩、ちゃんと探してくれたんだ)
以前、図書室でその本について話したとき、春樹は家にあるか確認すると言っていた。
それから少し時間が経ったので、もしかしたら忘れてしまったのかもしれないと思っていた。
けれど、今日の昼休みに尋ねると、春樹はすぐに謝ってくれた。
そして、帰宅してから本当に探してくれたのだ。
ひよりはベッドへ腰を下ろし、スマートフォンを胸の前で持った。
(……嬉しいな)
もちろん、本を借りられること自体も楽しみだった。
放送部の活動を描いた物語には興味があるし、春樹が面白いと言っていた作品なら、きっと読んでみたい。
けれど、それ以上に嬉しかったのは、春樹が約束を覚えていてくれたことだった。
忙しそうに読書週間の準備をしているのに、自分との小さな約束も大切にしてくれた。
そう思うと、胸の奥が温かくなる。
ひよりはスマートフォンの画面をもう一度見た。
短い文章の中に、春樹らしい優しさがあるように感じた。
(……明日、ちゃんとお礼言わなきゃ)
そう考えたところで、今日の昼休みに聞いた紹介文を思い出した。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
幼馴染の恋愛小説。
春樹は楽しそうに説明していた。
そのとき、ひよりは何となく西条雫の顔を思い浮かべてしまった。
春樹と雫は幼馴染だ。
毎日のように一緒に登校しているし、学校でも自然に話している。
ひよりから見ると、二人の距離はとても近い。
(……やっぱり、西条先輩って特別なのかな)
そんな考えが浮かぶ。
けれど、ひよりはすぐに首を振った。
春樹が誰をどう思っているのか、自分には分からない。
勝手に決めつけても仕方がない。
それに、今は本を借りる約束ができたことを素直に喜びたかった。
ひよりは机の上の手帳を開き、明日の予定を書き加えた。
『七瀬先輩から本を借りる』
その文字を見つめて、彼女は小さく笑った。
明日が少し楽しみになった。
◇◇◇
夜、俺は読書週間のノートを開き、今日もらった意見を整理していた。
白石先輩からは、紹介文の長さと展示全体の見やすさについて。
九条さんからは、注意表示の言葉と掲示場所について。
一ノ瀬先輩からは、入口付近のスペースと安全面について。
ひよりさんと真実さんからは、紹介文を読んだときの率直な感想を聞けた。
雫からも、少し違う視点で感想をもらった。
俺はノートへ目を落としながら、今日の会話を思い返した。
同じ紹介文でも、読む人によって感じ方が違う。
それは当たり前のことなのかもしれない。
けれど、実際にいろいろな人の反応を聞いてみると、改めて面白いと思った。
(……やっぱり、本って一人で読むものだけど、感想を話すとまた違う楽しさがあるな)
俺は小さく笑った。
紹介文の候補は、まだ完成ではない。
展示する本の数も、カテゴリーも、配置も決まっていない。
だから、今は焦らずに考えを整理しておけばいい。
俺はノートを閉じ、机の上へ置いた。
その隣には、明日ひよりさんへ貸す予定の放送部の青春小説がある。
さらに、本棚には白石先輩から借りている駅を舞台にした連作短編集も並んでいた。
こちらも、そろそろ読み進めたいところだ。
俺はその本を手に取り、椅子へ座り直した。
ページを開くと、物語の中では、駅で働く人たちが何気ない一日を過ごしていた。
大きな事件が起きるわけではない。
けれど、それぞれの人物には、それぞれの生活がある。
同じ場所を通り過ぎても、見ている景色は少しずつ違う。
俺はその描写を読みながら、今日のことを思い出した。
白石先輩も、九条さんも、一ノ瀬先輩も、雫も。
同じ読書週間の準備について話していても、気にしていることは少しずつ違っていた。
それぞれの立場や考え方がある。
だからこそ、話し合う意味があるのだろう。
(……明日も、少しずつ進められたらいいな)
俺はそう思いながら、ページをめくった。
しばらくすると、スマートフォンが震えた。
雫からだった。
『春樹、今日はお疲れさま。紹介カード、いいものになるといいね』
俺はすぐに返信した。
『ありがとう。雫の意見も参考になったよ』
少しして、返事が届いた。
『そっか。嬉しいな』
続けて、もう一通。
『それと、昨日の約束、ちゃんと覚えててくれてありがとう』
俺は少し首を傾げた。
昨日の約束。
また公園で話そうと言ったことだろう。
『もちろん。俺もまたゆっくり話したいし』
そう返信すると、少し間が空いた。
それから、雫から短い返事が届いた。
『……うん。私も』
俺はその文章を見て、自然に笑った。
雫と過ごした昨日の午後は、確かに楽しかった。
また都合が合えば、一緒に本の話をしたいと思う。
それだけのことなのに、雫が嬉しそうにしてくれるのは、何だか少し不思議だった。
けれど、悪い気分ではない。
俺はスマートフォンを置き、再び本を開いた。
窓の外では、夜の風が静かに吹いている。
明日は火曜日。
読書週間の準備はまだ続く。
ひよりさんへ本を貸す約束もある。
悠斗と紗弥さんの関係も、少しずつ進んでいるらしい。
そして雫とは、また一緒に過ごす約束をした。
俺はそんな日常を思い返しながら、物語の世界へ意識を戻した。
何でもない毎日が、少しずつ賑やかになっている。
それでも、俺が一番楽しみにしているのは、やっぱり本を読む時間だ。
……少なくとも、今の俺はそう思っていた。




