↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
63/130

第63話 親友の恋を応援しているだけなのに、どうして幼馴染まで俺の予定を気にするんだ?



 土曜日の朝、俺は目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、窓の向こうには薄い雲が広がっている。平日ならそろそろ制服へ着替える時間だが、今日は学校へ行く必要がない。布団の中でもう少し過ごしてもよかったものの、昨夜読みかけのまま閉じた本のことを思い出すと、自然に身体が起き上がっていた。


 机の上には、大学で再会した幼馴染の男女を描いた恋愛小説と、白石先輩から借りている駅を舞台にした連作短編集が並んでいる。どちらも続きを読みたいのだが、昨夜は短編集を優先したため、恋愛小説の方はしばらく同じページに栞を挟んだままだった。


 俺は顔を洗ってから部屋へ戻り、恋愛小説を手に取った。


 挟まっているのは、先週の日曜日に雫と一緒に買った淡い緑色の木の葉の栞だ。文房具店で同じものを二つ選び、一つを雫へ渡したときのことを思い出すと、自然に口元が緩んだ。


(……そういえば、雫の方もそろそろ読み終わるって言ってたな)


 以前俺が選んだ、共通の趣味をきっかけに男女の距離が近づいていく恋愛小説。雫はその本を少しずつ読み進めていて、最後まで読んだら感想を話してくれると言っていた。


 俺としても、彼女がどんな場面を気に入ったのか楽しみだった。


 ページを開くと、物語の主人公は久しぶりに再会した幼馴染と、学生時代によく通っていた喫茶店を訪れていた。二人は昔と変わらない調子で話しているのだが、何気ない言葉の端々に、以前とは違う距離感が表れている。


 主人公は相手の小さな変化に気づきながらも、それを恋愛感情とは結びつけていない。


(……いや、そこは気づいてもいいんじゃないか?)


 思わず心の中で突っ込んでしまった。


 相手が昔の約束を覚えていることも、二人で出かける時間を大切にしていることも、読者には十分伝わっている。それなのに主人公だけが、相手の気持ちを単なる懐かしさだと考えているのだ。


 もちろん、こういうすれ違いが恋愛小説の面白さでもある。


 すぐに気持ちが通じ合ってしまったら、それはそれで物足りないかもしれない。


 俺は続きを読みながら、ふと先週の日曜日を思い出した。


 雫と訪れた、子どもの頃によく遊んでいた丘の上の展望広場。あの日、彼女は俺が忘れている何かの約束について話していた。


 結局、詳しい内容は教えてもらえなかった。


(……俺、何を約束したんだろうな)


 子どもの頃のことだから、今となっては大した内容ではないのかもしれない。けれど、雫が覚えているのに自分だけ忘れているというのは、少し申し訳ない気もする。


 俺は本を閉じ、机の上へ置いた。


 思い出そうとしても、無理に記憶を探したところで答えが出るわけではない。


 それに、雫はいつか話すようなことを言っていた。


 ならば、今はそのときを待つのがいいのだろう。


 そう考えたところで、机の上のスマートフォンが震えた。


 画面には悠斗の名前が表示されている。


『春樹、おはよう。今日の展示会、予定どおり行ってくる』


 俺は時計を確認した。


 まだ午前九時を少し過ぎたところだ。


 悠斗と紗弥さんが待ち合わせるのは午後一時。出かけるにはかなり早い時間だが、昨日の様子を思い出すと、朝から落ち着かないのだろうと想像できた。


『おはよう。楽しんできてね。展示の感想もあとで聞かせて』


 返信を送ると、すぐに既読がついた。


『おう。あと、昨日言ってたこと、ちゃんと覚えとく』


 俺は少し首を傾げた。


 昨日、何か特別なことを言っただろうか。


 しばらく考えてから、紗弥さんの話をきちんと聞いてみたらどうかと伝えたことを思い出した。


(……そんなに難しいことじゃないと思うんだけどな)


 好きな作品について相手の感想を聞くのは、俺にとって自然なことだ。


 もっとも、悠斗にとっては相手が紗弥さんだから、少し事情が違うのかもしれない。


 俺は応援の言葉をもう一度送り、スマートフォンを机へ戻した。


 親友が楽しみにしている一日だ。


 できれば、二人にとっていい時間になってほしいと思う。


     ◇◇◇


 午前十時を過ぎた頃、俺は読書週間の準備に使っているノートを開いていた。


 昨日、白石先輩と話した紹介カードの形式について、家でも少し考えてみようと思ったのだ。


 机の上には、候補として挙がっている本の題名と、それぞれに考えた紹介文が書かれたメモが並んでいる。まだ正式な展示内容は決まっていないため、今の段階で作れるのはあくまで案だけだ。


 それでも、実際に文章を並べてみると、気になるところが見えてくる。


 例えば、恋愛小説の紹介文。


『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』


 この一文は自分でも気に入っている。


 ただ、昨日九条さんに言われたように、内容を説明しすぎれば読む前の楽しみが減ってしまう。逆に、問いかけだけではどんな作品なのか分からない人もいるだろう。


 俺は鉛筆を持ち、紹介文の下に短い説明を書き足した。


『幼馴染だった二人が、大学で再会する。変わらないはずの日常の中で、少しずつ見えてくる新しい気持ちを描いた恋愛小説。』


 書き終えてから、もう一度読み返す。


(……これなら、結末には触れてないし、雰囲気も伝わるかな)


 もっとも、実際にカードへ書くかどうかは、ほかの図書委員の意見も聞いてから決めることになる。


 俺は文章の横に小さく丸をつけ、次の候補へ移った。


 今度は、先週の土曜日に買った日常ものの短編集だ。


『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』


 こちらは短い一文だけでも、作品の雰囲気がある程度伝わる気がする。


 ただ、恋愛小説と同じように説明を付けるなら、どんな言葉が合うだろう。


 俺はしばらく考えたあと、街の小さな店や日々の出来事を通じて、人と人とのつながりを描いた短編集であることを書き添えた。


 文章を見比べていると、白石先輩が昨日言っていたことを思い出す。


 すべての本を同じ形式にする必要はない。


 作品に合った紹介の仕方を考える。


 それは、確かに大切なことだと思う。


 俺はノートへ目を落としたまま、少し笑った。


(……本を紹介するのって、思ってたより奥が深いな)


 好きな本について話すだけなら、いくらでも言葉が出てくる。


 けれど、まだ読んだことのない人へ魅力を伝えようとすると、何を残して何を省くべきか考えなければならない。


 その難しさが、今は少し楽しかった。


 ちょうど一段落したところで、スマートフォンが震えた。


 今度は雫からだった。


『春樹、今日って家で本読んでる?』


 俺は思わず笑った。


 土曜日に特別な予定がなければ、俺が家で本を読んでいる可能性はかなり高い。


『読んでるよ。今は読書週間の紹介文も考えてた』


 返信すると、すぐに次のメッセージが届いた。


『やっぱり。ちょっと聞きたいことあるんだけど、電話してもいい?』


 俺は少し意外に思った。


 雫とは普段からメッセージのやり取りをしているが、わざわざ電話したいというのは珍しい。


『いいよ』


 そう送ると、間もなく着信音が鳴った。


「もしもし、雫?」


『もしもし、春樹。急にごめんね』


「全然いいよ。どうした?」


 電話の向こうから、雫の少し弾んだ声が聞こえてきた。


『あのね、昨日話してた恋愛小説、さっき読み終わったんだ』


「本当? どうだった?」


『うん。面白かったよ。……それで、感想を話したくなっちゃって』


 俺は思わず背筋を伸ばした。


 以前自分が選んだ本を、雫が最後まで読んでくれた。


 それだけでも嬉しいのに、読み終わってすぐ感想を話したいと思ってくれたのだ。


「もちろん聞きたい。どの辺が好きだった?」


『えっとね……まず、主人公の女の子が、自分の趣味を最後まで大事にしてるところかな』


 雫は少し考えながら話し始めた。


『最初は、好きなものが同じっていうだけで仲良くなってたでしょ。でも、途中から相手の好きなものを知ろうとしたり、自分が知らないことにも興味を持ったりするようになって……そういう変化がよかったなって』


 俺は頷いた。


「分かる。あの作品、趣味そのものを恋愛のために変えたりしないところがいいんだよね」


『そうそう。好きなことは好きなままで、それでも相手と一緒にいる時間が増えていくの』


 雫の声には、作品を楽しんだことがはっきり表れていた。


 俺は嬉しくなり、つい話に熱が入った。


「俺、途中で二人が同じイベントへ行く場面が好きだったんだ。最初は別々の目的で参加してたのに、気づいたら一緒に回っててさ」


『ああ、あそこね。私も好き。でも、春樹が好きそうだなって思ったのは、そのあとの場面だったよ』


「そのあと?」


『帰り道で、女の子が自分の好きなものについて話してるところ。男の子がすごく楽しそうに聞いてるでしょ?』


 俺は記憶を辿った。


 確かに、そんな場面があった。


 主人公の女の子が、普段はあまり人に話さない趣味の細かい部分まで説明し、相手の男の子が興味深そうに聞いている。


「ああ、あそこもよかったね。好きなものについて楽しそうに話してる人を見ると、こっちまで楽しくなるんだよ」


『……うん。春樹、そういうところ好きだもんね』


 雫は少し嬉しそうに言った。


 俺は何となく照れくさくなった。


「そんなに分かりやすい?」


『分かりやすいよ。少なくとも、私にはね』


 昨日の帰り道にも、似たようなことを言われた気がする。


 俺が苦笑していると、雫は少し声を落とした。


『……それでね、もう一つ好きだったところがあるんだけど』


「うん」


『最後の方で、男の子が女の子に言うでしょ。好きなことを楽しそうに話してる君を見るのが好きだって』


 俺は頷いた。


 その場面は覚えている。


 物語の終盤、男の子がようやく自分の気持ちを言葉にする場面だった。


「ああ。あそこ、すごくよかったよね」


『……春樹は、あの言葉どう思った?』


 雫の声が少しだけ慎重になった。


 俺は少し考えてから答えた。


「いい言葉だと思ったよ。相手の好きなものを理解しようとしてる感じがするし、その人が楽しそうにしてる姿を大切に思ってるのが伝わってくるから」


 電話の向こうで、雫が小さく息を吸う音がした。


『……そっか』


「雫は?」


『……私も、好きだよ。ああいう言葉』


 彼女は少し間を置いてから続けた。


『自分が好きなことを、相手にも大事にしてもらえたら嬉しいなって思うから』


「うん。それは分かる」


 俺は素直に頷いた。


「俺も、本の話を楽しそうに聞いてもらえると嬉しいし」


『……そうだね』


 雫は小さく笑った。


 しばらくして、彼女は少し明るい声へ戻った。


『あ、そうだ。今度、春樹が買った短編集も読ませてもらっていい?』


「もちろん。先週買った日常ものの短編集だよね?」


『うん。前に話してくれたやつ』


「いいよ。学校で渡そうか?」


『……そうだなあ。月曜日でもいいけど、もし春樹がよかったら、明日ちょっと会わない?』


 俺は少し驚いた。


「明日?」


『うん。別に遠くへ出かけるとかじゃなくて、近くで少し話すくらいでもいいんだけど』


 雫は少し早口になった。


『ほら、感想もまだ全部話せてないし。本も借りたいし……』


 俺は予定を思い返した。


 明日は特に外出の約束はない。


 読書週間の準備もあるが、家で少し考える程度なら時間は作れるだろう。


「いいよ。俺も感想をもっと聞きたいし」


 そう答えると、電話の向こうが一瞬静かになった。


『……本当?』


「うん。どこかで会おうか」


『……じゃあ、近くの公園とかどう? 天気がよかったら、ベンチで少し話せるし』


「いいね。何時くらいがいい?」


『午後二時くらいは?』


「大丈夫だよ」


 俺が答えると、雫は明らかに嬉しそうな声になった。


『じゃあ、明日の午後二時ね。公園の入口で待ち合わせしよう』


「分かった。短編集、忘れずに持っていくよ」


『うん。ありがとう、春樹』


 電話を切る直前、雫は少しだけ声を柔らかくした。


『……明日、楽しみにしてるね』


「俺も。じゃあ、また明日」


『うん。また明日』


 通話が終わると、部屋の中へ静けさが戻った。


 俺はスマートフォンを机へ置き、少し笑った。


 雫が本を読み終わったばかりなのに、すぐ感想を話したいと思ってくれたのが嬉しかった。


 それに、彼女がどんな場面を気に入ったのか、まだまだ聞いてみたい。


(……明日は短編集を持っていって、ゆっくり話そう)


 俺はノートの端に、明日の予定を書き加えた。


 日曜日、午後二時。


 近くの公園で雫と待ち合わせ。


 忘れ物は、日常ものの短編集。


 そこまで書いてから、俺はふと気づいた。


 先週の日曜日も、雫と二人で出かけたばかりだった。


 あの日は懐かしい展望広場へ行き、昔の話をした。


 明日はもっと近い場所だが、また一緒に過ごすことになる。


(……最近、雫と出かけることが増えたな)


 幼馴染なのだから、特別おかしいことではない。


 けれど、以前は学校の行き帰りに話すことが中心だったので、少し新鮮な気もした。


 俺はそんなことを考えながら、再び紹介カードの文章へ目を戻した。


     ◇◇◇


 同じ頃、西条雫は自分の部屋でスマートフォンを握りしめていた。


 通話が終わってからもしばらく画面を見つめていたが、やがてベッドへ腰を下ろし、ゆっくり息を吐いた。


(……明日、会えるんだ)


 たったそれだけのことなのに、胸の奥が少し落ち着かない。


 春樹とは毎日のように学校で会っている。


 朝も一緒に登校することが多いし、帰り道で話すことも珍しくない。


 それなのに、休日に二人で会う約束をすると、普段とは違う気持ちになる。


 雫は机の上に置かれた恋愛小説へ目を向けた。


 春樹が選んでくれた本。


 今日、ようやく最後まで読み終わった。


 物語の中では、共通の趣味を通じて知り合った男女が、少しずつ相手を特別な存在として意識していく。


 最初はただ一緒に好きなことを楽しんでいただけだった。


 けれど、いつの間にか相手がいない時間を寂しく感じるようになり、何でもない会話の一つ一つを大切に思うようになる。


 雫はその変化を読みながら、何度も春樹のことを考えてしまった。


(……春樹は、あの場面を読んでも、自分のこととは思わないんだろうな)


 電話で感想を聞いたときも、春樹は純粋に物語の魅力を語っていた。


 相手が好きなものを大切にすること。


 楽しそうに話している姿を見るのが好きだということ。


 それがどれほど特別な言葉なのか、春樹自身はまだ分かっていないのかもしれない。


 雫は少し笑った。


 春樹のそういうところに、もどかしさを感じることはある。


 けれど、同時に好きでもあった。


 誰かの好きなものを馬鹿にしない。


 相手の話を楽しそうに聞く。


 自分が知らないことでも、興味を持とうとする。


 そうした姿勢は、昔からあまり変わっていない。


 雫は本を手に取り、表紙を指先でなぞった。


(……明日は、もう少しだけ私の話も聞いてもらおうかな)


 ただし、何をどこまで話すかはまだ決めていない。


 幼い頃の約束についても、今すぐすべてを伝えるつもりはなかった。


 春樹が忘れていることを責めたいわけではない。


 できることなら、いつか自然に思い出してくれたら嬉しい。


 けれど、もし思い出せなかったとしても、それだけで今の関係が変わるわけではない。


 雫はそう考えながら、窓の外へ目を向けた。


 薄い雲の向こうから、午後の日差しが差し込んでいる。


 明日も晴れるといい。


 そう思いながら、彼女は机の上に置いた淡い緑色の木の葉の栞を見つめた。


     ◇◇◇


 午後一時少し前。


 高坂悠斗は駅の改札前に立ち、スマートフォンの時計を確認していた。


 約束の時間までは、まだ十分余裕がある。


 それでも、彼は落ち着かなかった。


 駅構内には休日らしく多くの人が行き交い、改札を抜けてくる人々の姿が絶えない。近くの案内表示には周辺施設の情報が並び、駅前の広場からは車の走る音が聞こえてきた。


 悠斗は一度深呼吸し、鞄の持ち手を握り直した。


(……大丈夫。今日は展示会を楽しめばいいんだ)


 昨日、春樹に言われたことを思い出す。


 無理に格好つけなくてもいい。


 相手の話をちゃんと聞けばいい。


 言葉にしてしまえば簡単なことだが、実際に紗弥と二人で出かけるとなると、どうしても緊張してしまう。


 そんなことを考えていると、改札の向こうから見慣れた姿が現れた。


 赤木紗弥だった。


 今日は制服ではなく、淡い色の上着に落ち着いた色のスカートを合わせている。肩に掛けた小さな鞄を押さえながら、周囲を見回していた。


 悠斗は彼女に気づき、軽く手を上げた。


「赤木さん、こっち!」


 紗弥はすぐにこちらを見つけ、笑顔になった。


「高坂君、お待たせ。早かったんだね」


「いや、俺も今来たところ」


 そう答えてから、悠斗は少しだけ後悔した。


 実際には、十分以上前から待っていた。


 けれど、早く来すぎたことを知られるのも何となく恥ずかしい。


 紗弥はそんな彼の様子を見て、少し笑った。


「……もしかして、結構前から待ってた?」


「えっ? いや、まあ……少しだけ」


「ふふ。私も早めに来たつもりだったんだけどな」


 紗弥はそう言って、改札の方を振り返った。


「今日は楽しみだね。展示の内容、昨日もう一回見ちゃった」


「俺も。映画のポスターの展示があるらしいし、イラストの制作過程も見られるって書いてあったな」


「そうそう。完成した作品だけじゃなくて、途中のスケッチも見られるのが楽しみなんだ」


 紗弥の声が少し弾んだ。


 悠斗はその様子を見て、自然に笑った。


 昨日まであれほど緊張していたのに、彼女が楽しそうに話している姿を見ると、少しずつ気持ちが落ち着いていく。


「じゃあ、行こうか。会場まで歩いて十分くらいだと思う」


「うん。お願いね」


 二人は駅前の広場を抜け、展示会場へ向かって歩き始めた。


 道沿いには小さな店が並び、休日の午後らしい穏やかな空気が流れている。


 悠斗は昨日確認した道順を思い出しながら歩いていたが、隣で紗弥が楽しそうに話していることに気づくと、次第に地図のことを忘れていた。


 紗弥は最近見た映画の話をしていた。


 派手な場面よりも、登場人物が何気ない会話を交わす場面が印象に残ったという。


 悠斗はその話を聞きながら、ふと春樹の言葉を思い出した。


 相手が何を好きなのか、ちゃんと聞いてみる。


 それは、今まで自分が思っていたより大切なことなのかもしれない。


「……赤木さんって、映画を見るとき、そういう細かいところも気にしてるんだな」


 悠斗が言うと、紗弥は少し照れくさそうに笑った。


「うん。何か、そういう場面が好きなんだよね。大きな事件がなくても、その人の気持ちが分かる感じがして」


「なるほどな。俺、今まであんまり意識してなかったかも」


「高坂君は、どんな場面が好き?」


 紗弥は自然に尋ねた。


 悠斗は少し考えた。


「俺は……やっぱり、みんなで何かをやり遂げる場面かな。仲間が協力して、一つの目標に向かうところとか」


 紗弥は頷いた。


「高坂君らしいね」


「そうか?」


「うん。高坂君って、そういうの好きそうだなって思ってた」


 悠斗は少し驚いた。


 自分が紗弥の好みを知りたいと思っていたのと同じように、彼女も自分のことを見てくれていたのだろうか。


 そんな考えが浮かび、胸の奥が少し温かくなった。


 悠斗は照れくささをごまかすように笑った。


「……じゃあ、今日の展示でも、お互い好きなもの見つけられるといいな」


「うん。楽しみ」


 紗弥は笑顔で答えた。


 二人の前方には、展示会場の建物が見え始めていた。


     ◇◇◇


 午後二時を過ぎた頃、俺は読書週間のノートを閉じ、椅子の背もたれへ身体を預けた。


 午前中に考えた紹介文を少し修整し、候補として使えそうな文章をいくつか整理できた。


 まだ決定したわけではないが、月曜日に白石先輩へ見せれば、次の相談がしやすくなるだろう。


 俺は机の上を片づけ、白石先輩から借りた短編集を手に取った。


 今日はもう少し読書の時間を取りたい。


 ページを開こうとしたところで、スマートフォンが震えた。


 画面には悠斗からの短いメッセージが表示されていた。


『展示会、めっちゃ面白い。赤木さんも楽しそう』


 俺は思わず笑った。


 どうやら、二人とも順調に楽しんでいるらしい。


『よかったね。ゆっくり楽しんで』


 そう返信してから、俺はスマートフォンを机へ戻した。


 悠斗が紗弥さんと楽しそうにしていると、こちらまで嬉しくなる。


 以前、二人で映画を見に行ったときも、悠斗はかなり嬉しそうだった。


 今回の展示会も、きっといい思い出になるだろう。


 俺はそんなことを考えながら、本の続きを読み始めた。


 物語の中では、駅のホームで偶然再会した二人が、昔のことを少しずつ話し始めていた。


 何年も会っていなかった相手なのに、話し始めると昔と変わらない空気が戻ってくる。


 それでも、時間が経った分だけ、お互いに知らないことが増えている。


 俺はその描写を読みながら、雫との関係を思い出した。


 幼馴染だからといって、全部を知っているわけではない。


 雫にも、俺が知らない好きなものや考え方がある。


 明日は、そんな彼女の話をもう少し聞けるかもしれない。


(……何か、楽しみだな)


 俺は小さく笑い、ページをめくった。


     ◇◇◇


 夕方になり、展示会を見終えた悠斗と紗弥は、会場から少し離れた喫茶店へ入っていた。


 窓際の二人掛けの席に座ると、紗弥は鞄から展示会のパンフレットを取り出した。


 店内には落ち着いた音楽が流れ、コーヒーの香りが漂っている。


 悠斗は注文した飲み物が届くまでの間、パンフレットを覗き込んだ。


「いやあ、思ってた以上に面白かったな」


「うん。特に、映画のポスターが完成するまでの展示、すごかったね」


 紗弥はページをめくりながら、楽しそうに話し始めた。


 最初のラフスケッチと完成版では、人物の配置や色の使い方がかなり変わっていた。


 その違いを見ることで、制作者が何を伝えようとしていたのか想像できたという。


 悠斗は頷きながら聞いていた。


 途中で分からない言葉が出てくると、素直に尋ねた。


 紗弥は少し考えながら説明し、そのたびに話が広がっていく。


 悠斗はその時間を楽しいと感じていた。


(……春樹の言ってたこと、分かる気がするな)


 相手の好きなものを知る。


 それは、ただ情報を増やすことではない。


 相手が何を見て、何を感じているのかを少しずつ知っていくことなのだろう。


 悠斗は飲み物を一口飲み、紗弥へ目を向けた。


「……赤木さん」


「ん?」


「今日、一緒に来られてよかった」


 紗弥は少し驚いたように目を瞬かせた。


 悠斗は照れくさくなりながらも、言葉を続けた。


「展示も面白かったけど、赤木さんがどんなところを好きなのか聞けたのが、俺は結構楽しかったんだ」


 紗弥はしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくり微笑んだ。


「……私もだよ」


 彼女はパンフレットへ目を落とし、少しだけ頬を緩めた。


「高坂君って、私が話してるとき、ちゃんと聞いてくれるから。今日も、すごく楽しかった」


 悠斗は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 何か特別な言葉を用意していたわけではない。


 けれど、今の気持ちは伝えてよかったと思う。


「……また、こういうの一緒に行けたらいいな」


 悠斗が言うと、紗弥は顔を上げた。


 少しだけ照れくさそうに笑いながら、頷く。


「うん。私も、また行きたい」


 その返事を聞いた悠斗は、思わず笑顔になった。


 窓の外では、夕方の光が街並みを柔らかく照らしている。


 二人はそのあとも、展示会の感想や最近見た映画の話を続けた。


 帰る時間が近づいても、会話が途切れることはなかった。


     ◇◇◇


 夜、俺のスマートフォンに悠斗からメッセージが届いた。


『春樹、今日めっちゃ楽しかった』


 俺は本を閉じ、画面を見た。


 続けて、もう一通届く。


『赤木さんともいろいろ話せたし、また一緒に出かけたいって言ってもらえた』


 俺は思わず笑った。


 それは本当によかった。


『よかったじゃん。悠斗が楽しめたなら何よりだよ』


 返信すると、少しして電話がかかってきた。


 俺は通話ボタンを押した。


「もしもし、悠斗?」


『おう。悪いな、急に』


「全然。どうだった?」


 悠斗は少し照れくさそうに笑った。


『いや、もう……何ていうか、すごくよかった』


 その声を聞くだけで、今日が楽しい一日だったことが伝わってくる。


 俺は椅子へ座り直し、悠斗の話を聞くことにした。


 展示会で見た作品のこと。


 紗弥さんが楽しそうに話していたこと。


 喫茶店でゆっくり感想を話せたこと。


 そして、また一緒に出かけたいと伝えたら、紗弥さんも同じように答えてくれたこと。


 悠斗は一つ一つを思い出すように話していた。


 俺は相槌を打ちながら聞いた。


「……よかったな、悠斗」


『うん。春樹にも相談してよかった』


「俺、そんなに大したこと言ってないけど」


『いや、結構助かったんだよ。無理に格好つけなくてもいいって言ってくれただろ?』


 俺は少し笑った。


「うん」


『あれ、意外と大事だったわ。最初は緊張してたけど、途中から普通に楽しめたし』


「それならよかった」


 悠斗は少し黙ったあと、落ち着いた声で続けた。


『……俺、やっぱり赤木さんのこと好きなんだと思う』


 その言葉に、俺は自然に頷いた。


 悠斗が紗弥さんを大切に思っていることは、以前から伝わっていた。


 今日一緒に過ごしたことで、その気持ちがさらに強くなったのだろう。


「うん。そうだと思ってた」


『……お前、そこは分かってたんだな』


「そりゃ、悠斗の話を聞いてれば分かるよ」


 俺が答えると、悠斗は電話の向こうで笑った。


『……ほんと、お前って不思議だよな』


「またそれ?」


『いや、悪い意味じゃないって』


 悠斗は笑いながら続けた。


『とにかく、今日はありがとな。今度また相談するかもしれないけど、そのときはよろしく』


「もちろん。いつでも聞くよ」


『おう。じゃあ、また月曜日な』


「また月曜日」


 通話が終わると、俺はスマートフォンを机へ置いた。


 悠斗が嬉しそうだったことが、何よりよかった。


 好きな人と一緒に出かけて、相手のことを少しずつ知っていく。


 恋愛小説ではよく描かれることだが、実際に親友がそうした時間を過ごしていると思うと、何だか不思議な気分になる。


(……悠斗、いい感じだな)


 俺は小さく笑い、机の上の恋愛小説へ目を向けた。


 物語の中の主人公も、そろそろ自分の気持ちに気づきそうなところまで来ている。


 現実でも物語でも、誰かが少しずつ相手を大切に思うようになる過程を見るのは楽しい。


 そんなことを考えていると、スマートフォンがもう一度震えた。


 今度は雫からだった。


『春樹、明日よろしくね。短編集、楽しみにしてる』


 俺はすぐに返信した。


『こちらこそ。午後二時に公園の入口だよね。忘れずに持っていくよ』


 少しして、雫から返事が届いた。


『うん。あと、明日は本の話だけじゃなくて、いろいろ話せたら嬉しいな』


 俺はその文章を見て、少し考えた。


 本の話以外にも、最近の学校のことや、昔の思い出など、話せることはいろいろある。


 先週の展望広場では、懐かしい話がたくさんできた。


 明日もきっと楽しいだろう。


『いいよ。俺も雫の話、いろいろ聞きたい』


 そう返信すると、すぐに短い返事が届いた。


『……うん。ありがとう』


 俺はスマートフォンを置き、少し笑った。


 明日は日曜日。


 午後二時に雫と公園で待ち合わせる。


 持っていくのは、先週買った日常ものの短編集。


 それから、雫が読み終えた恋愛小説の感想を聞くこと。


 予定としては、それだけだ。


 けれど、何となく楽しみだった。


 俺は机の上にある淡い緑色の木の葉の栞を見つめた。


 先週の日曜日に、雫と一緒に選んだもの。


 あの日のことを思い出すと、胸の奥が少し温かくなる。


(……明日も、いい一日になるといいな)


 俺はそう思いながら、読みかけの恋愛小説を手に取った。


 物語の中では、幼馴染の二人が、ようやくお互いの気持ちへ少しずつ近づこうとしていた。


 俺は続きを読み始めた。


 窓の外では、夜の風が静かに吹いている。


 明日のことを楽しみにしながら、俺はもう少しだけ、物語の世界へ浸ることにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。