第62話 後輩に本を貸したいだけなのに、どうして俺のおすすめが恋愛相談みたいになるんだ?
金曜日の朝、俺は机の上に並べた三冊の本を前にして、少しだけ悩んでいた。
一冊目は、大学で再会した幼馴染の男女を描いた恋愛小説。二冊目は、昨日白石先輩に薦めてもらい、図書室から借りてきた駅を舞台にした連作短編集。そして三冊目が、小日向さんへ貸す約束をしていた、放送部の高校生たちを描いた青春小説だった。
当然ながら、今日必ず持っていかなければならないのは三冊目だけである。ほかの二冊は家で読めばいいのだが、昼休みや放課後に少し時間ができたとき、続きを読みたくなる可能性を考えると、どうしても鞄へ入れておきたくなってしまう。
(……全部持っていってもいいけど、教科書もあるしな。昨日も雫に無理するなって言われたばかりだし)
俺は三冊の厚さを見比べたあと、大学で再会する幼馴染の恋愛小説を机へ残すことにした。
ちょうど物語が面白いところへ差しかかっているので、本当なら真っ先に持っていきたい。しかし、昨日の夜は続きが気になって、結局予定していたより少し長く読んでしまった。学校へ持っていけば、休み時間のたびに開いてしまいそうな気がする。
白石先輩から借りた短編集については、読書週間の展示候補としても考えているため、感想を整理しておきたい。まだ最初の物語を読み進めている段階だが、駅を行き交う人々の何気ない会話が丁寧に描かれていて、今のところかなり好みだった。
俺はその短編集と小日向さんへ貸す青春小説を鞄へ入れ、最後に読書週間のノートを確認した。
昨日の昼休み、図書室では展示する本の候補や掲示場所を確認した。雫が考えてくれた気分別の展示案も引き続き検討されているが、どの分類を採用するか、何冊並べるかといった細かい部分はまだ決まっていない。
それでも、少しずつ具体的になっていくのが楽しかった。
(……今日は、昨日みたいに本を見つけて作業を忘れないようにしないとな)
九条さんに注意されたことを思い出し、俺は苦笑した。
別に仕事を放り出したつもりはなかったのだが、面白そうな本を見つけると、どうしても中身が気になってしまう。読書週間の準備をしているのだから、ある程度は仕方ないと思うものの、協力している以上、やるべきことを忘れてはいけない。
鞄のファスナーを閉めたところで、スマートフォンが短く震えた。
画面には、小日向さんからのメッセージが表示されていた。
『七瀬先輩、おはようございます! 昨日のお話の本、今日よろしくお願いします!』
朝から元気な文章だった。
俺は思わず笑いながら、忘れずに持っていくことを伝えた。
『おはよう。ちゃんと鞄に入れたよ。昼休みに図書室で会えるかな?』
少しして返信が届いた。
『はい! お昼休みに行きます! ありがとうございます!』
俺はスマートフォンをしまい、部屋を出た。
楽しみにしてくれている相手へ本を貸すのは、何度経験しても嬉しいものだ。
ただ、小日向さんがあの作品のどこを気に入るのかは、まだ分からない。
俺が好きなのは、人前で話すことが苦手だった主人公が、仲間たちと関わる中で少しずつ自分の声に自信を持っていくところだ。けれど、読む人によっては部活動の楽しさや、仲間同士の関係の変化に惹かれるかもしれない。
そうした感想の違いを聞けることも、本を貸す楽しみの一つだった。
◇◇◇
家を出ると、空気は昨日より少し冷たかった。
雲の隙間から朝日が差し込み、住宅街の屋根を淡く照らしている。通学路の脇にある街路樹からは、風が吹くたびに葉が落ち、歩道の端を転がっていった。
いつもの角を曲がると、雫が立っていた。
彼女は俺の姿を見つけると、軽く手を上げた。
「おはよう、春樹。今日はちょっと寒いね」
「おはよう。確かに。朝はもう少し暖かいかと思ってた」
「春樹、天気予報見てないでしょ?」
「……昨日は本を読んでたから」
「やっぱり」
雫は呆れたように笑い、俺の隣へ並んだ。
いつものように学校へ向かって歩き始めると、彼女は俺の鞄へ視線を向けた。
「今日は何冊持ってきたの?」
「二冊。昨日借りた短編集と、小日向さんに貸す約束をしてた青春小説」
「へえ。放送部の話だっけ?」
「うん。昨日、家の本棚を確認したらちゃんとあったから、今日渡すことにしたんだ」
雫は頷いた。
「小日向さん、喜びそうだね」
「昨日メッセージ送ったら、すごく楽しみにしてくれてたよ」
「そっか。春樹が薦めた本だもんね」
彼女はそう言ったあと、少しだけ考えるように前を向いた。
俺は特に気にせず、放送部の青春小説について話を続けた。
「主人公が最初は人前で話すのが苦手なんだけど、放送部に入ってから少しずつ変わっていくんだ。小日向さんは明るいから主人公とは性格が違うかもしれないけど、部活動の話としても面白いと思う」
「……春樹って、相手に合いそうな本を考えるの好きだよね」
「そうかな?」
「うん。私に本を選んでくれたときも、どういう話が好きか聞いてくれたし」
雫は鞄の持ち手を握り直しながら、穏やかな声で続けた。
「でも、相手がその本を好きになるかどうかまでは、春樹にも分からないんだよね」
「もちろん。俺が好きでも、相手には合わないこともあると思う」
「それでも、薦めたいんだ?」
「うん。面白いと思ったものを知ってもらいたいし、感想を聞くのも楽しいから」
俺が答えると、雫は小さく頷いた。
「……そっか。それなら、いいと思う」
何となく含みのある言い方だったので、俺は横顔を見た。
「雫、どうかした?」
「別に。春樹が楽しそうだから、ちょっと聞いてみただけ」
雫はいつもの調子で笑った。
それから、思い出したように話題を変える。
「そういえば、私が読んでる恋愛小説、もう少しで読み終わりそうなんだ」
「本当? どうだった?」
「まだ最後まで読んでないから、全部は言えないけど……主人公が自分の趣味を大事にしてるところ、結構好きだな」
その本は、以前俺が雫に選んだ、共通の趣味をきっかけに男女の距離が近づいていく恋愛小説だった。
雫が気に入ってくれたなら嬉しい。
「よかった。最初の方は、趣味の話が中心だっただろ?」
「うん。でも、そこがいいんだと思う。好きなことを話してるうちに、相手のことも少しずつ分かっていく感じがするから」
雫はそう言いながら、俺をちらりと見た。
「……春樹も、そういうの好きでしょ?」
「うん。かなり好き」
「知ってる」
彼女は当然のように答えた。
俺は少し笑ってしまった。
「最近、みんなに好みが分かりやすいって言われるんだけど」
「だって、本当に分かりやすいもん」
「そんなに?」
「うん。少なくとも、私は結構分かるよ」
雫は得意そうに笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「……でも、分からないこともあるけどね」
俺はその言葉に首を傾げた。
「例えば?」
「……それは、自分で考えてみて」
「えっ、急に難しいこと言うなよ」
雫は答えず、楽しそうに歩き続けた。
俺も隣を歩きながら、彼女の言葉について考えた。
長い付き合いだからといって、相手のことを全部知っているわけではない。
昨日も同じようなことを考えたばかりだ。
雫にも、俺が知らない好きなものや考え方があるのだろう。
(……今度、雫が自分で選んだ本も薦めてもらおうかな)
そうすれば、彼女の好きなものをもう少し知ることができるかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、雫と一緒に校門をくぐった。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗がいつもより落ち着かない様子で机に向かっていた。
昨日、紗弥さんと土曜日の展示会へ行く集合時刻が決まったばかりだ。
午後一時に駅の改札前で待ち合わせ、文学イラストと映画に関する展示を見る。そのあと、時間があれば近くの喫茶店へ寄る予定になっている。
それだけ決まっていれば、あとは楽しみに待てばいいような気がするのだが、悠斗は何やら真剣にスマートフォンを見つめていた。
「おはよう、悠斗。何見てるんだ?」
「おう、春樹。展示会の会場までの道、確認してた」
「昨日も見てなかった?」
「見たけどさ。駅から歩いて何分くらいか、ちゃんと覚えとこうと思って」
俺は少し感心した。
「準備いいな」
「いや、当日になって迷ったら格好悪いだろ?」
「別に、少しくらい迷ってもいいんじゃないか? 二人で地図見ながら歩くのも楽しそうだし」
悠斗は顔を上げ、何とも言えない表情になった。
「……お前、そういうこと普通に言うよな」
「何が?」
「いや、いい。たぶんお前に聞いても分かんねえ」
悠斗は苦笑し、スマートフォンを机へ置いた。
俺は少し納得できなかったが、彼が楽しそうなので、それ以上追及しないことにした。
「ところで、春樹。今日も図書室行くのか?」
「昼休みに行くよ。後輩に本を渡す約束があるし、読書週間の準備も少し進めたいから」
「小日向さん?」
「うん。前に話してた青春小説が家にあったから」
悠斗は頷き、少し考えたあとで言った。
「お前、本当にいろんな人に本薦めてるよな」
「好きな作品を紹介するのは楽しいからね」
「まあ、それは分かるけど。……相手によって薦める本を変えてるのか?」
「もちろん。好きなジャンルが分かれば、それに合わせて考えるよ」
俺が答えると、悠斗は少し感心したように目を細めた。
「へえ。じゃあ、紗弥に薦めるならどんな本がいいと思う?」
思いがけない質問だった。
俺は少し考えた。
紗弥さんは映画やイラストに興味があり、作品の雰囲気や登場人物の感情を丁寧に味わうタイプだと思う。ただ、俺が知っているのは、これまで悠斗から聞いた話や、実際に少し会話した範囲のことだけだ。
「……紗弥さん本人に、最近好きだった作品を聞いてみるのが一番じゃないかな」
「えっ、俺が?」
「うん。展示会のあとにでも。映画の話から本の話につながるかもしれないし」
悠斗はしばらく考えた。
そして、ゆっくり頷く。
「……なるほどな。確かに、俺が勝手に決めるよりいいか」
「そうそう。相手の好みを知るのも楽しいと思うよ」
俺が答えると、悠斗は何故か少し笑った。
「……お前、そういうことはちゃんと分かってるんだよな」
「だから、何が?」
「いや。今度こそ何でもない」
悠斗はそう言って、机の中から教科書を取り出した。
俺は首を傾げたが、ちょうど予鈴が鳴ったので、自分の席へ戻った。
◇◇◇
昼休みの図書室へ向かう途中、俺は鞄の中にある放送部の青春小説をもう一度確認した。
小日向さんとは、昼休みに図書室で会う約束をしている。
廊下には弁当を持って移動する生徒や、購買から戻ってくる生徒たちの姿があり、窓の外では薄い雲がゆっくり流れていた。
図書室の入口へ近づくと、中から小さな話し声が聞こえてきた。
俺が扉を開けると、貸出カウンターの近くに小日向さんが立っていた。
隣には新海さんもいる。
二人は俺に気づくと、それぞれ違う反応を見せた。
「七瀬先輩!」
小日向さんは嬉しそうに顔を上げ、こちらへ一歩近づいた。
一方、新海さんは手に持っていた文庫本を閉じ、静かに会釈する。
「こんにちは、七瀬先輩」
「こんにちは、二人とも。待たせちゃった?」
「いえ! 私たちも今来たところです!」
小日向さんは元気よく答えた。
俺は鞄から放送部の青春小説を取り出し、彼女へ差し出した。
「これが、前に話してた本。家にあったから持ってきたよ」
小日向さんは両手で本を受け取り、表紙をじっと見つめた。
そこには、放送室の窓から校庭を眺める高校生たちの姿が描かれている。
「……わあ。表紙からもう面白そうです!」
彼女は目を輝かせ、裏表紙のあらすじを確認した。
「主人公、人前で話すのが苦手なんですね。放送部なのに」
「そうなんだ。最初は自分の声に自信がないんだけど、仲間たちと関わるうちに少しずつ変わっていくんだよ」
「へえ……!」
小日向さんは何度も頷いた。
俺は続けて、結末に触れない範囲で作品の魅力を説明した。
「放送部って、校内放送だけじゃなくて、行事の準備とか、みんなで一つのものを作る場面もあるんだ。主人公が少しずつ自分の役割を見つけていくところが、俺は好きだった」
「……それ、すごくいいですね」
小日向さんは表紙を撫でるように指を動かした。
「私、みんなで何かを作る話、好きなんです。文化祭とか、部活とか、そういうの」
「それなら、結構合うかもしれないね」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「はい! 大切に読みます!」
「急がなくていいからね。読み終わったら、感想を聞かせてもらえたら嬉しいな」
「もちろんです!」
小日向さんはそう言ったあと、少しだけ表情を変えた。
何かを考えるように本を見つめ、それから俺へ顔を向ける。
「……あの、七瀬先輩」
「ん?」
「先輩って、こういう本の主人公みたいに、誰かが頑張ってるのを見るのも好きなんですか?」
俺は少し考えた。
確かに、努力する登場人物を応援したくなることは多い。
ただ、それだけではない気がする。
「うん。頑張ってる人を見るのは好きだよ。でも、それ以上に、最初はできなかったことが少しずつできるようになったり、周りの人と協力できるようになったりする過程が好きなのかもしれない」
小日向さんは真剣な表情で聞いていた。
俺は少し笑いながら続けた。
「それに、誰かが一生懸命やってることって、見てる側も応援したくなるだろ?」
「……そうですね」
彼女は小さく頷いた。
いつものようにすぐ大きな声を出すのではなく、少し考え込んでいる様子だった。
俺が不思議に思っていると、小日向さんは急に顔を上げた。
「じゃあ、私も頑張ってるところ、先輩に見てもらいたいです!」
「えっ?」
「……あっ、違います! その、本を読むのもそうですし、学校のこととか、いろいろ!」
小日向さんは慌てて言葉を付け足した。
俺は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「うん。応援してるよ。小日向さんが頑張ってること、俺も知りたいし」
彼女は一瞬、言葉を失ったようだった。
そして、本を胸の前で抱え直す。
「……ありがとうございます。すごく嬉しいです」
先ほどまでの勢いとは違う、少し小さな声だった。
俺は何となく照れくさくなり、笑って頷いた。
「どういたしまして」
その隣で、新海さんが静かに口を開いた。
「……七瀬先輩って、そういうところがありますよね」
「そういうところ?」
俺が尋ねると、新海さんは少し考えてから答えた。
「相手が何を頑張っているのか、ちゃんと聞こうとするところです。……本の感想も、正解を決めつけないですし」
俺は少し驚いた。
「そんなに意識してるつもりはないんだけどな」
「だから、だと思います」
新海さんは穏やかに言った。
「……自然に聞いてくれるから、話しやすいんです」
その言葉に、俺は何となく嬉しくなった。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」
新海さんは小さく頷いた。
彼女の手には、以前から読んでいる文化祭の青春小説があった。
「そういえば、新海さんの方はどう? 文化祭の本、進んでる?」
「はい。少しずつ読んでいます。……昨日、主人公が友達に本当の気持ちを言えなくて、すれ違う場面まで進みました」
新海さんは文庫本の表紙へ目を落とした。
「読んでいて、少し苦しくなりました。でも、どちらの気持ちも分かる気がして……」
俺は頷いた。
「そういう場面、あるよね。どっちかが悪いわけじゃないのに、うまく伝わらないことって」
「……はい」
新海さんは少しだけ視線を上げた。
「先輩は、そういうとき、どうしたらいいと思いますか?」
俺はすぐには答えられなかった。
物語の登場人物なら、読者はそれぞれの心情を知っていることが多い。
しかし、現実では相手が何を考えているのか分からない。
だからこそ、言葉にすることが大切なのだろう。
「……難しいけど、少しずつでも話してみることかな。全部を一度に伝えようとしなくても、相手に知ってほしいことを少しずつ言葉にできたらいいと思う」
新海さんはその答えを聞き、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「……そうですね。私も、そう思います」
彼女は本を大切そうに持ち直した。
その表情には、少しだけ安心したようなものがあった。
俺はそれ以上踏み込まず、作品の続きについて話したくなったらいつでも聞くと伝えた。
新海さんは静かに礼を言った。
◇◇◇
その頃、貸出カウンターでは白石栞が返却本の整理を進めていた。
彼女は少し離れた場所から、春樹と二人の後輩が話している様子を見ていた。
小日向ひよりは借りた本を嬉しそうに抱え、新海真実は手元の文庫本を見つめながら、慎重に言葉を選んでいる。
春樹は二人の話を急かすことなく聞いていた。
相手が楽しそうに話せば一緒に笑い、考え込んでいるときには、答えを急がず待っている。
栞はその様子を見ながら、以前から感じていたことを改めて思い出した。
(……七瀬君は、本を薦めるのが上手なんですね。きっと、相手の感想を聞くことも好きだから)
ただ本を読んでほしいだけなら、面白い作品を紹介すればいい。
けれど、春樹はその先にある会話まで楽しみにしているようだった。
相手がどんな場面を好きになったのか。
どんな登場人物に共感したのか。
自分とは違う感想を持ったとしても、それを面白がれる。
栞はそうした姿勢を好ましく思っていた。
同時に、少しだけ困ってしまうこともある。
春樹は、誰に対しても自然にそう接するのだ。
だからこそ、相手が特別な意味を感じてしまうことがあっても、本人は気づかないのかもしれない。
(……でも、そこが七瀬君らしいところでもあるんですよね)
栞は小さく笑い、返却本を棚へ戻すために立ち上がった。
今日は読書週間の準備について、春樹へ少し相談したいことがある。
ただ、今は後輩たちとの会話を邪魔する必要はないだろう。
栞は本を抱え、静かに書架の方へ歩いていった。
◇◇◇
小日向さんたちと話したあと、俺は白石先輩のいるカウンターへ向かった。
先輩は返却本を整理していたが、俺に気づくと穏やかに微笑んだ。
「七瀬君、こんにちは。後輩さんたちとのお話は終わりましたか?」
「はい。小日向さんに本を渡せました。すごく喜んでくれて、よかったです」
「それはよかったですね」
先輩は頷き、手元の用紙を整えた。
「実は、読書週間の展示について、少し相談したいことがあるんです」
「何でしょう?」
俺が尋ねると、先輩は机の上に数枚の紹介カードを並べた。
そこには、これまで考えてきた文章が書かれている。
『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
どちらも、俺が考えた紹介文の一部だった。
先輩はそれらを見比べながら言った。
「昨日、ほかの図書委員とも話したんですが、紹介カードに書く文章の長さをある程度揃えた方が、展示として見やすいんじゃないかという意見が出たんです」
俺は頷いた。
確かに、一枚だけ長い文章が書かれていたり、逆に短すぎたりすると、並べたときに少し不揃いになるかもしれない。
「なるほど。じゃあ、最初に短い言葉を書いて、その下に二、三行くらい説明を入れる形ですか?」
「はい。今のところは、その方向で考えています。ただ、全部の本を同じ形式にする必要があるかどうかは、まだ相談中なんです」
先輩は一枚のカードを手に取った。
「七瀬君が考えた問いかけの文章は、とても印象に残ると思います。でも、すべての本を問いかけで紹介すると、少し単調になるかもしれません」
「……確かに」
俺は納得した。
恋愛小説なら、登場人物の気持ちを問いかける文章が合うこともある。
しかし、冒険小説やミステリー、日常ものまで同じ形式にする必要はないだろう。
「だったら、作品に合わせて変えるのがいいかもしれませんね。問いかけが合う本もあれば、短い一文で雰囲気を伝えた方がいい本もありますし」
「私も、そう思います」
先輩は嬉しそうに頷いた。
それから、少しだけ考えるように俺を見た。
「……七瀬君、昨日の駅の短編集はどうでしたか?」
「まだ最初の話を読んでる途中ですけど、すごく好きな雰囲気です」
俺が答えると、先輩の表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「はい。大きな事件が起きるわけじゃないのに、登場人物のちょっとした言葉が気になるんですよ。駅って、毎日いろんな人が通る場所だから、同じ景色を見てても、それぞれ違うことを考えてるんだろうなって」
俺は話しながら、昨夜読んだ場面を思い出した。
主人公がいつもと同じ電車に乗りながら、ある日だけ少し違う気持ちで窓の外を眺める場面。
ほんの小さな変化なのに、その人物の心情が自然に伝わってくる。
「……ああいうの、いいですよね。普段と同じ場所なのに、気持ちが変わると景色まで違って見える感じがして」
先輩は静かに頷いた。
「……私も、そこが好きなんです」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
俺が顔を上げると、先輩は窓の外へ一度視線を向けた。
「同じ場所でも、誰と一緒にいるかで印象が変わることって、ありますよね」
「ありますね。例えば、いつも一人で行く本屋でも、誰かと一緒だと普段見ない棚に気づいたりしますし」
俺が答えると、先輩は小さく笑った。
「……そうですね。私も、この前そう思いました」
土曜日に一緒に出かけた書店のことだろうか。
俺もあの日は、普段なら手に取らなかった本をいくつか見つけた。
「白石先輩と行ったときも、面白い本に出会えましたからね。また時間が合えば、一緒に本屋へ行きたいです」
先輩は一瞬、目を瞬かせた。
それから、ゆっくり頷く。
「……はい。私も、そう思っています」
穏やかな返事だったが、先輩はそのあと少しだけ視線を落とし、紹介カードの端を丁寧に揃えた。
俺はその様子を見ながら、ふと気になったことを尋ねた。
「そういえば、先輩に貸してるミステリー小説はどうですか? まだ読んでる途中でしたよね」
「はい。もう少し読みたいところがあるので、まだお借りしていても大丈夫ですか?」
「もちろんです。急がなくていいですよ」
「ありがとうございます。読み終わったら、感想もお話ししたいです」
俺は頷いた。
あの古書店で見つけたミステリー小説は、最初に桐谷先生へ貸し、そのあと白石先輩へ渡したものだ。
先輩がどんな感想を持つのか、今から楽しみだった。
そのとき、図書室の入口から九条さんが入ってきた。
手には薄いファイルを持っている。
「白石先輩、七瀬君。少し時間をもらってもいいかしら」
「こんにちは、九条さん。もちろん」
俺が答えると、彼女は机へ近づき、ファイルを開いた。
「読書マナーの掲示について、担当の先生に確認してもらうための案をまとめてきたの。昨日確認した場所を候補として書いてあるわ」
俺は用紙を覗き込んだ。
図書室の入口付近に掲示する場合の位置や、通路を塞がないための注意点が簡潔に整理されている。
「……すごい。もうここまでまとめたんだ」
「昨日のうちに確認できたことが多かったから。あとは先生の判断を待つだけよ」
九条さんは落ち着いた声で答えた。
白石先輩も資料を確認し、頷いた。
「ありがとうございます。こちらでも展示の配置を考えるときに参考にしますね」
「お願いします」
九条さんはそう言ってから、俺へ視線を向けた。
「七瀬君、紹介カードの方は進んでいる?」
「うん。今、白石先輩と文章の形式を相談してたところ」
「そう。……昨日みたいに、本を見つけて作業を忘れていないならいいけれど」
「まだ覚えてたの?」
「昨日のことなんだから、当然でしょう」
九条さんは少し呆れたように答えた。
俺は苦笑しながら頷いた。
「今日は大丈夫。ちゃんと相談してたよ」
「それならいいわ」
彼女はそう言って、紹介カードの見本へ目を向けた。
しばらく文章を読んだあと、少しだけ首を傾げる。
「……七瀬君。この恋愛小説の紹介文、昨日より少し変わった?」
「うん。問いかけのあとに、内容が分かる説明を足してみたんだ」
俺はカードを手に取り、九条さんへ見せた。
そこには、以前考えた文章をもとに、幼馴染の二人が少しずつ相手の気持ちに気づいていく物語であることが書かれている。
九条さんは静かに読み、やがて頷いた。
「……前より分かりやすいと思うわ。どんな本なのか想像しやすいもの」
「本当? ありがとう」
俺が答えると、九条さんは少しだけ視線を外した。
「……ただ、内容を説明しすぎると、読む前の楽しみが減ることもあるでしょう。そこは気をつけた方がいいと思う」
「うん。確かに。ネタバレにならないようにしないとね」
俺はノートへ書き加えた。
九条さんはその様子を確認し、ファイルを閉じた。
「では、私は委員会へ戻るわ。二人とも、準備を進めすぎて昼休みを全部使わないようにしてね」
「九条さんもね」
俺が返すと、彼女は一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、少しだけ口元を緩める。
「……私は大丈夫よ。七瀬君こそ、休む時間を忘れないこと」
そう言って、九条さんは図書室を出ていった。
俺はその背中を見送りながら、何となく感心していた。
九条さんは本当にしっかりしている。
俺が好きな本を紹介することばかり考えている間にも、掲示の安全性や委員会への確認を着実に進めてくれているのだ。
「……九条さん、頼りになりますね」
俺が言うと、白石先輩も頷いた。
「ええ。私も助けられています」
先輩は少し笑ってから、机の上の紹介カードをまとめた。
「でも、七瀬君にも助けられていますよ。好きな本について楽しそうに話してくれる人がいると、準備も明るくなりますから」
俺は少し照れくさくなった。
「……そう言ってもらえるなら、よかったです」
先輩は穏やかに微笑んだ。
その表情を見て、俺も自然に笑った。
◇◇◇
午後の授業が終わる頃には、窓の外の雲が少し厚くなっていた。
教室では週末の予定について話す声があちこちから聞こえている。
俺が帰り支度をしていると、悠斗が机の横へやってきた。
「春樹、ちょっといいか?」
「どうした?」
「明日のことなんだけどさ。……やっぱり、少し緊張してきた」
悠斗は苦笑した。
明日は紗弥さんと展示会へ行く日だ。
午後一時に駅の改札前で待ち合わせる予定になっている。
「楽しみにしてるんだろ?」
「もちろん。でも、楽しみだからこそ、変なこと言わないか心配になるんだよ」
俺は少し考えた。
悠斗は普段、誰とでも気軽に話せるタイプだ。
それでも、紗弥さんの前では少し慎重になるらしい。
「……だったら、無理に格好つけなくてもいいんじゃないか? 悠斗が楽しんでたら、紗弥さんも話しやすいと思うよ」
悠斗は俺を見た。
「……お前、ほんと簡単に言うよな」
「簡単じゃないの?」
「簡単じゃねえんだよ」
悠斗はそう言って笑った。
俺もつられて笑った。
しばらくして、悠斗は少し真面目な表情になった。
「でもさ、春樹。俺、明日はちゃんと紗弥の話を聞きたいんだよな。映画とかイラストのこと、あいつがどんなふうに感じてるのか知りたいし」
俺は頷いた。
「それなら、きっと大丈夫だと思う」
「……そうか?」
「うん。相手のことを知りたいって思ってるなら、自然に話もできるんじゃないかな」
悠斗は少し黙ったあと、ゆっくり息を吐いた。
「……ありがとな。何か、少し落ち着いた」
「どういたしまして。明日、楽しんできてね」
「おう。……あとで感想、聞いてくれよ」
「もちろん」
俺が答えると、悠斗は嬉しそうに笑った。
そのあと、彼はスマートフォンを取り出し、紗弥さんへ明日の集合について確認のメッセージを送っていた。
俺はその様子を見ながら、少しだけ羨ましくなった。
好きな作品について誰かと一緒に話せる時間は、きっと楽しい。
俺もまた、誰かと本屋へ行ったり、図書室で感想を話したりしたいと思う。
もっとも、今週は読書週間の準備もあるので、まずは目の前のことを進めるべきだろう。
◇◇◇
帰り道、雫は俺の話を聞きながら、時折楽しそうに笑っていた。
今日は小日向さんへ本を貸したことや、新海さんと文化祭の青春小説について話したことを伝えた。
雫は二人の反応を聞き、少し考えるように頷いた。
「……小日向さん、本当に嬉しかったんだね」
「うん。すごく楽しみにしてくれてたよ」
「新海さんの方は、ゆっくり読んでるんだ」
「そうみたい。登場人物の気持ちを丁寧に考えながら読んでる感じだった」
雫は小さく笑った。
「二人とも、全然違う読み方なんだね」
「そうなんだよ。だから感想を聞くのって面白いんだと思う」
俺が答えると、雫は少しだけ俺を見た。
「……春樹は、誰かが自分と違う感想を持ってても嬉しい?」
「もちろん。自分じゃ気づかなかったところを教えてもらえることもあるし」
「そっか」
雫は頷いた。
それから、少しだけいたずらっぽく笑う。
「じゃあ、私が今読んでる恋愛小説について、春樹と全然違う感想を言っても怒らない?」
「怒るわけないだろ。むしろ聞いてみたいよ」
「本当に?」
「本当だって」
俺が答えると、雫は満足そうに笑った。
「じゃあ、読み終わったらいっぱい話すね」
「うん。楽しみにしてる」
しばらく歩くと、雫はふと思い出したように言った。
「……そういえば、春樹。明日って高坂君、赤木さんと展示会に行くんだよね?」
「うん。午後一時に駅で待ち合わせるって言ってた」
「へえ。楽しそうだね」
「悠斗、かなり楽しみにしてるみたい。ちょっと緊張もしてるけど」
雫は小さく笑った。
「そりゃ、好きな人と二人で出かけるんだもん。緊張するよ」
俺は頷きかけて、少し考えた。
「……まあ、そういうものなのかな」
雫は足を止めかけた。
そして、何とも言えない表情で俺を見た。
「……春樹」
「ん?」
「本当に、そういうところだよ」
「えっ、何が?」
雫は答えず、少しだけ肩を落とした。
俺は首を傾げたが、彼女はすぐに笑い直した。
「……いいよ。春樹は春樹だもんね」
「何か納得されてる気がするんだけど」
「気のせい、気のせい」
雫はそう言って歩き出した。
俺も隣へ並んだが、結局何のことだったのか分からなかった。
ただ、雫が楽しそうにしているので、まあいいかと思うことにした。
◇◇◇
その日の夜、俺は机に向かい、白石先輩から借りた短編集の続きを読んでいた。
最初の物語は、駅を利用する会社員の日常を描いた話だった。
毎朝同じ電車に乗り、同じ景色を見ているはずなのに、ある日を境に少しだけ周囲の見え方が変わっていく。
その変化は決して大きなものではない。
けれど、登場人物が誰かの存在を意識し始めたことが、何気ない描写から自然に伝わってきた。
(……やっぱり、こういう話は好きだな)
俺はページをめくりながら、昼休みに白石先輩と話したことを思い出した。
同じ場所でも、誰と一緒にいるかで印象が変わることがある。
確かに、そうなのかもしれない。
以前、雫と一緒に訪れた展望広場も、子どもの頃とは少し違って見えた。
景色そのものは大きく変わっていないのに、昔のことを話しながら歩く時間は、何だか特別だった。
俺は本を閉じ、机の上に置いた。
そして、ふと考えた。
(……雫と一緒に行ったから、あの日は楽しかったのかな)
もちろん、久しぶりに訪れた場所だったこともある。
懐かしい景色を見られたことも嬉しかった。
けれど、それだけではない気がした。
雫が昔のことを覚えていてくれたこと。
一緒に歩きながら、何でもない話で笑えたこと。
同じ形の木の葉の栞を選んだこと。
そうした一つ一つが、あの日を楽しいものにしていたのだろう。
俺は少し笑い、机の上にある恋愛小説へ視線を向けた。
大学で再会した幼馴染の男女の物語。
まだ読み終わっていないが、主人公も少しずつ相手との関係を見つめ直し始めている。
俺はその展開が気になっていた。
ただ、今夜はもう少し短編集を読みたい気分だった。
俺は再びページを開き、物語の世界へ戻った。
窓の外では、風が静かに吹いている。
部屋の中には、時計の針が進む音と、ページをめくる小さな音だけが響いていた。
明日は土曜日。
悠斗は紗弥さんと展示会へ行く。
小日向さんは、今日貸した青春小説を読み始めるかもしれない。
新海さんも、文化祭の物語の続きを楽しんでいるだろう。
白石先輩や九条さんとは、また来週、読書週間の準備を進めることになる。
そして雫とは、今読んでいる恋愛小説の感想を話す約束がある。
そう考えると、最近は本を通じていろんな人とつながっている気がした。
(……やっぱり、本っていいな)
俺は小さく笑い、次のページをめくった。
ただ本を読みたいだけだったはずなのに、その本をきっかけに、誰かの好きなものや考え方を知る機会が増えている。
それは、俺が思っていた以上に楽しいことだった。
もちろん、一人で静かに読む時間も大切だ。
けれど、読み終わったあとに誰かと感想を話す時間も、同じくらい好きになりつつある。
俺はそんなことを考えながら、駅を舞台にした物語の続きを読み進めていった。




