第61話 おすすめの本を並べたいだけなのに、どうして俺の好みまで展示されそうなんだ?
木曜日の朝、目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました俺は、枕元に置いていた文庫本へ手を伸ばしかけて、そのまま動きを止めた。
昨夜は読書週間の準備を終えてから、大学で再会した幼馴染の男女を描いた恋愛小説を読んでいた。物語はいよいよ主人公が昔の記憶と向き合うところまで進み、あと数ページだけと思って読み続けていたら、いつの間にか普段より遅い時間になっていたのである。
もっとも、今日は昨日までと違う。朝から本を開いてしまえば、時間を忘れてしまう可能性があることくらい、自分でも理解していた。
(……ここで続きを読んだら、雫にまた注意されそうだな。昨日もちゃんと時間を見なさいって言われたばかりだし)
俺は名残惜しさを感じながら文庫本を机へ戻し、代わりに昨夜整理したノートを開いた。そこには、読書週間の展示に向けて考えた紹介文や、白石先輩たちと相談した内容が書き込まれている。
最初は、好きな本を何冊か紹介するだけのつもりだった。
それが今では、読む人の気分に合わせた展示、紹介カードの文章、安全に読書を楽しむための掲示など、考えることが随分増えている。もちろん、すべてを俺が担当するわけではないし、どの案も正式に決まったわけではない。
それでも、ノートを開くだけで少し楽しくなってしまうのだから、自分でも単純だと思う。
昨日、雫が提案してくれた気分別の展示方法については、図書委員会で検討してもらえることになった。
『元気になりたいとき』
『落ち着きたいとき』
『誰かと話したくなる本』
こうした言葉を並べてみると、普段は手に取らないジャンルの本にも興味を持ってもらえる気がする。ただし、実際に展示するとなれば、図書室に所蔵されている本の中から候補を選び、紹介カードの数や棚の広さも考えなければならない。
(……自分の本棚から好きな作品を選ぶのとは、ちょっと違うんだよな)
俺はノートの余白に「図書室にある本を確認」と書き加えた。
自分が読んだことのある本ばかり紹介するのも悪くないが、それだけでは選択肢が狭くなってしまう。白石先輩やほかの図書委員が薦めたい本にも、きっと面白いものがあるはずだ。
そんなことを考えているうちに、階下から朝食を知らせる声が聞こえてきた。
俺はノートを閉じ、鞄へしまう。
今日は本の続きを読むより先に、やるべきことを片づけよう。
そう決めて部屋を出たのだが、階段を下りながら、結局は読書のことばかり考えている自分に気づいて苦笑した。
◇◇◇
通学路の角を曲がると、雫が街路樹のそばに立っていた。
昨日までより少し厚い上着を羽織っており、足元には風で運ばれてきた落ち葉が数枚集まっている。雫は俺に気づくと、片手を軽く上げた。
「おはよう、春樹。今日は本を読みながら歩いてないみたいだね」
「おはよう。そもそも、最近は歩きながら読んでないだろ?」
「うん、そこはちゃんと分かってるよ。でも、春樹の場合は油断できないから」
雫は悪びれる様子もなく答え、俺の隣へ並んだ。昔から俺が何かに夢中になると周囲が見えなくなることを知っているだけに、その指摘には妙な説得力がある。
「それより、昨日はちゃんと寝た? 読書週間の準備、楽しそうだったけど」
「少しだけ夜更かししたかな。でも、紹介文を書いてたわけじゃないよ。普通に小説を読んでた」
「……結局、本なんだね」
雫は呆れたように言ったあと、俺の顔を横から覗き込んだ。
「何を読んでたの? この前、白石先輩と買いに行った本?」
「うん。大学で幼馴染が再会する恋愛小説。昔の約束が物語の鍵になってるんだけど、その見せ方がすごく上手くてさ」
話し始めると、つい熱が入ってしまった。
主人公が覚えていない出来事を相手だけが覚えていることや、何気ない会話に昔の記憶が重なっていく構成について、結末に触れない範囲で説明する。
雫は最初こそ普通に相槌を打っていたが、途中から少し不思議そうな表情になった。
「……春樹、その本、そんなに気に入ってるんだ」
「うん。まだ読み終わってないけど、かなり好きだと思う。幼馴染だからこその距離感が丁寧なんだよ」
「へえ。幼馴染だからこそ、ね」
雫はその言葉をゆっくり繰り返した。
俺は頷き、物語の魅力をもう少し説明しようとしたが、彼女が小さく笑ったので言葉を止めた。
「どうした?」
「ううん。春樹がそういう話を楽しそうにするの、何だか面白いなって」
「恋愛小説が好きなのは前から知ってるだろ?」
「それは知ってるけど。……ねえ、その本の女の子って、昔の約束を忘れられて怒ってるの?」
質問の内容が意外で、俺は少し考え込んだ。
確かに、相手だけが大切な約束を覚えているという設定なら、忘れられたことに腹を立てていても不思議ではない。しかし、俺が読んだ範囲では、彼女の感情はもう少し複雑に描かれていた。
「怒ってるというより、寂しいんじゃないかな。忘れられたことそのものより、自分にとって大切だった思い出が、相手にとってはそうじゃなかったのかもしれないって不安になる感じ」
雫は歩く速度を緩めた。
俺も自然に足を合わせると、彼女は前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。通学中の生徒が二人の横を通り過ぎ、少し離れた交差点から自転車のベルが聞こえてくる。
「……でもさ、春樹。忘れてる方だって、大切じゃなかったから忘れたとは限らないよね」
「もちろん。人の記憶って、そう単純じゃないと思う。きっかけがあれば思い出すこともあるだろうし、忘れていても、そのときの気持ちまで嘘だったとは限らないし」
雫は俺の方へ顔を向けた。
いつものようにすぐからかってくるかと思ったが、彼女は真剣な表情で俺の答えを聞いていた。
「……そっか。春樹はそう考えるんだね」
「うん。まあ、小説の話だけどな」
「そうだね。小説の話だもんね」
雫はそう言ってから、急にいつもの調子へ戻った。
「でも、春樹がもし何か大事な約束を忘れてたら、私はちゃんと怒るからね?」
「えっ、何で俺の話になるんだよ」
「今のうちに言っておこうと思って。春樹、昔から本の発売日は覚えてるのに、ほかのことは忘れるときあるし」
俺は反論しようとして、幼い頃に雫との遊ぶ約束を一度だけ忘れ、本屋へ寄り道してしまったことを思い出した。
あのときは、確かかなり怒られた。
「……昔の話だろ、それ」
「昔のことだからって、なかったことにはならないんだよ?」
雫は得意そうに笑った。
俺は苦笑しながら謝ったが、彼女は「今は怒ってないから」と言って歩き出した。
その横顔は普段と変わらず明るい。ただ、先ほどの真剣な表情が少し気になって、俺は鞄の中の文庫本を思い浮かべた。
(……雫も、昔の約束のことを思い出してたのかな)
日曜日、展望広場で彼女が話しかけようとしていたこと。
あれと関係があるのかもしれないが、まだ確かめるには早い気がした。
俺はそれ以上聞かず、雫と一緒に校門へ向かった。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗が机に肘をつき、スマートフォンの画面を見ながら考え込んでいた。
普段なら俺を見つけるとすぐに声をかけてくるのに、今日は少し様子が違う。隣の席の生徒が話しかけても曖昧に返事をしているので、何か気になることでもあるのだろう。
「悠斗、おはよう。どうしたんだ?」
「おう、春樹。……いや、土曜日のことなんだけどさ」
悠斗は画面をこちらへ向けた。
表示されていたのは、紗弥さんと行く予定の文学イラストと映画に関する展示会の案内だった。土曜日の午後に一緒に行くことは決まっているが、集合する時刻や、そのあと立ち寄る喫茶店についてはまだ細かく決めていないらしい。
「昨日、お前に言われたこと考えてたんだ。展示の感想は、まず紗弥の話を聞こうって。でもさ、それを意識しすぎて質問ばっかりになったら、今度は面接みたいにならないか?」
俺は思わず笑いそうになったが、悠斗の表情が真剣だったので、きちんと考えることにした。
確かに、相手の話を聞くことばかり意識すると、不自然になる可能性はある。かといって、好きな作品について一方的に語ってしまうのも避けたいのだろう。
「だったら、聞くことを決めすぎなくてもいいんじゃないか? 紗弥さんが面白そうに見てた展示について話しかけてみるとか、自分が気になったところを先に話してみるとか」
「……なるほど。普通に一緒に楽しめばいいってことか」
「そうそう。展示会なんだから、二人とも楽しむのが一番だろ」
悠斗はしばらく考え、それから肩の力を抜いた。
「お前に相談すると、難しく考えすぎてたことに気づくんだよな。ありがとな、春樹」
「どういたしまして。まあ、俺も展示会には興味あるから、あとで感想を聞かせてくれよ」
そう答えたところで、教室の入口から紗弥さんが顔を出した。
彼女は悠斗を見つけると、手に持っていた小さな冊子を軽く掲げた。
「高坂君、ちょっといい? 昨日話してた展示会の案内、紙の方も見つけたから持ってきたんだけど」
「あ、ありがとう!」
悠斗は椅子から立ち上がり、少し慌てながら入口へ向かった。
紗弥さんは俺にも挨拶したあと、冊子を開いて展示の見どころを説明し始めた。悠斗は最初こそ緊張していたようだが、彼女が好きな映画の場面について話し始めると、自然に自分の感想を返している。
(……何だ、普通に話せてるじゃないか)
俺は少し安心し、机へ戻った。
しばらくすると、悠斗が嬉しそうな顔で戻ってくる。
「春樹、土曜日の集合時間も決まった!」
「おっ、よかったな」
「午後一時に駅の改札前。展示を見終わって時間があれば、近くの喫茶店にも寄ることになった」
俺は頷いた。
予定が具体的になったことで、悠斗も随分落ち着いたようだ。
彼は案内冊子を丁寧に鞄へしまいながら、ふと思い出したようにこちらを見た。
「そういや、お前は読書週間の準備どうなってるんだ?」
「まだいろいろ検討中。今日は図書室の本を確認する予定なんだ」
「へえ。お前が本を選ぶなら、恋愛小説ばっかりになりそうだな」
「そんなことないって。短編集とか青春小説とか、ほかにもいろいろ考えてるし」
俺が答えると、悠斗は妙に納得したように頷いた。
「……でも、結局その中にも恋愛要素があるんだろ?」
「……まあ、多少は」
悠斗は笑いを堪えきれなかったらしく、机へ突っ伏した。
俺としては、別におかしなことを言ったつもりはない。
恋愛は人間関係を描く物語の大切な要素なのだから、青春小説や日常ものに登場しても何ら不思議ではないはずだ。
◇◇◇
三時間目の授業が終わったあと、俺は次の授業の準備をしながら、机の中にしまっていた読書週間のノートを取り出した。
今日の昼休みは、白石先輩たちと図書室の所蔵本を確認する予定になっている。
昨日までは紹介文を考えることが中心だったが、実際に展示する本を選ぶとなれば、もう少し具体的な作業が必要になるだろう。
俺は候補の分類を見直していたが、そこで少し迷った。
『誰かと話したくなる本』
この分類は、雫が考えてくれた案の中でも特に気に入っている。
ただ、どんな本を選べばいいのだろう。
読み終わったあとに感想を話したくなる作品なら、俺にとってはほとんどすべての本が当てはまってしまう。
(……それじゃ分類にならないよな。読む人によって感じ方も違うし、もう少し考えないと)
俺はペンを止め、窓の外へ目を向けた。
グラウンドでは体育の授業が行われており、生徒たちの掛け声がかすかに聞こえてくる。教室の中では友人同士が次の授業について話していて、廊下からは移動教室へ向かう足音が響いていた。
同じ学校にいても、みんなが同じものに興味を持っているわけではない。
普段から本を読む人もいれば、漫画や映画の方が好きな人もいる。文字の多い本は苦手でも、短い物語なら読めるという人だっているだろう。
そう考えると、紹介する側の好みだけで本を選ぶのは、少し違う気がした。
俺はノートへ「自分が好きな本だけにしない」と書き加えた。
そのとき、隣から悠斗が覗き込んできた。
「何だよ、その真面目なメモ」
「読書週間のこと。俺が好きな本だけ並べても、みんなが読みたいとは限らないだろ?」
「まあ、そりゃそうだな。でも、お前が好きな理由もちゃんと書いてあった方が面白いんじゃないか?」
思いがけない意見に、俺は顔を上げた。
「……どういうこと?」
「だって、お前が本の話してるときって、何か読んでみたくなるんだよ。別に全部が俺の好みってわけじゃないけど、そんなに面白いならちょっと見てみるか、って思うことあるし」
悠斗は何でもないことのように言った。
俺はしばらく返事ができなかった。
自分の好きな作品を紹介するとき、相手がどう感じるかはいつも気にしている。しかし、楽しそうに話すこと自体が誰かの興味につながっているとは、あまり考えたことがなかった。
「……そっか。ありがとう、悠斗」
「何だよ、急に改まって。俺は普通に思ったこと言っただけだぞ」
悠斗は少し照れくさそうに笑い、次の授業の教科書を取り出した。
俺はノートの余白に、もう一つ言葉を書き加えた。
『選んだ理由も伝える』
自分の好みだけに偏らず、それでも好きだと思った気持ちは隠さない。
その両方ができたら、きっと面白い展示になるだろう。
◇◇◇
昼休みの図書室は、いつもより少し賑やかだった。
窓際の閲覧席では数人の生徒が本を読んでおり、貸出カウンターの近くでは図書委員が返却された本を整理している。窓から差し込む柔らかな光が棚の背表紙を照らし、紙の匂いと静かな話し声が混ざり合っていた。
俺が入口から中へ入ると、白石先輩がカウンターの向こうで作業していた。
「こんにちは、白石先輩」
「七瀬君、こんにちは。今日は少し本を確認してから相談しましょうか」
先輩は手元の用紙を整え、カウンターから出てきた。
近くの机には、昨日までに考えた紹介カードの見本と、図書室の蔵書を確認するための一覧が置かれている。まだ展示用の棚は作られておらず、具体的な配置も仮案の段階だ。
「昨日の気分別の展示案、ほかの図書委員にも話してみたんです」
「どうでした?」
「面白いという意見が多かったですよ。ただ、分類を増やしすぎると準備が大変なので、まずは少ない数で試す方がいいんじゃないか、という話になりました」
俺は頷いた。
雫も、最初から全部やろうとしない方がいいと言っていた。
「やっぱりそうですよね。俺も、二つか三つくらいから考えるのがいいと思います」
「ええ。それと、紹介する本が図書室にあるかどうかも確認しないといけません。七瀬君が昨日持ってきてくれた短編集についても、所蔵を調べているところです」
先輩は一覧へ視線を落とした。
俺は机の横に立ち、そこに並んでいる書名を眺めた。普段から図書室を利用しているつもりだったが、知らない作品もかなりある。
「……こうして見ると、まだ読んだことのない本がいっぱいありますね」
「ふふ。七瀬君でも、そうなんですね」
「もちろんですよ。読みたい本は増える一方ですし、一日がもう少し長ければいいのにって思うこともあります」
俺が答えると、白石先輩は声を立てずに笑った。
「それは、私も同じです。でも、一日が長くなったら、その分だけ読みたい本が増えてしまいそうですね」
「……確かに。結局、足りなくなりそうです」
二人で笑っていると、カウンターの方から別の図書委員が声をかけてきた。
「白石先輩、昨日の紹介文、確認しました。あの短編集の文章、結構好きです」
声をかけてきたのは、図書委員の女子生徒だった。
先輩が礼を言うと、彼女は俺の方へ視線を向けた。
「七瀬君が考えたんだよね? 『何でもない一日が、少しだけ好きになる』ってやつ」
「はい。まだ仮の文章ですけど」
「短くて読みやすいと思う。ただ、どんな話が入ってるのかも少し分かると、もっと選びやすいかもしれないね」
俺はなるほどと思った。
昨日の紹介文は作品の雰囲気を伝えることを重視していたが、初めて見る人にとっては内容が分かりにくい可能性もある。
「ありがとうございます。花屋の話とか、雨の日の忘れ物の話とか、そういう内容を少し足してみます」
「うん。その方がよさそう」
彼女は頷き、カウンターの作業へ戻っていった。
白石先輩はその様子を見ながら、紹介カードの見本を一枚手に取った。
「今の意見、参考になりますね。七瀬君の文章は雰囲気が伝わるので、説明を少し加えると、もっとよくなると思います」
「はい。やっぱり、実際に見てもらうと違いますね」
俺はノートを開き、今の意見を書き留めた。
そのとき、白石先輩が少し考えるように首を傾げた。
「……七瀬君、今日は何か気になることがありますか?」
「えっ?」
「さっきから、紹介する本の一覧を随分真剣に見ていたので」
俺は少し驚いた。
確かに、知らない作品の題名が気になって、つい一覧へ目を向けていた。
「……実は、読んだことのない本が結構あって。展示のためにも、少し読んでみたいなと思ってました」
そう答えると、先輩は嬉しそうに目を細めた。
「それなら、私からも何冊かおすすめしていいですか?」
「もちろんです!」
思わず勢いよく返事をすると、先輩は楽しそうに笑った。
「ふふ。そう言うと思いました」
先輩は一覧の中から一冊を指さした。
「これは、地方の小さな駅を舞台にした連作短編集です。登場人物が少しずつつながっていく構成で、読後感も穏やかなんですよ」
「へえ……面白そうですね」
「ただ、最初の一話だけだと全体の魅力が伝わりにくいかもしれません。七瀬君なら、どんな紹介文を書くのかなって、少し興味があります」
俺はその言葉に、思わず笑ってしまった。
「……白石先輩、俺に新しい課題を増やそうとしてません?」
「そんなつもりはありませんよ。……少しだけ、期待しているだけです」
先輩は穏やかな表情のまま答えた。
その言い方が妙に楽しそうで、俺は苦笑するしかなかった。
ただ、紹介された本そのものには強く興味を引かれている。
図書室にあるのなら、あとで借りて読んでみよう。
◇◇◇
少しして、九条さんが資料を持ってやってきた。
「白石先輩、七瀬君。こんにちは」
「こんにちは、九条さん」
俺が挨拶すると、彼女は机の上を確認し、すぐに話を始めた。
「昨日の読書マナーの掲示案について、風紀委員会で改めて確認してきたわ。今のところ、短い注意書きと、読書を楽しむための標語を組み合わせる方向がよさそうなの」
九条さんは用紙を広げ、候補となっている文章を示した。
『本の続きは、安全な場所で』
『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』
どちらも、以前俺たちが考えた言葉だ。
「ただ、まだ掲示場所と大きさを決めていないから、正式な採用はその確認が終わってからになるわ」
「分かった。俺にできることがあれば言ってね」
俺が答えると、九条さんは一度頷いた。
「ありがとう。では、入口付近で実際に掲示した場合の見え方を確認してもらえる?」
俺たちは机から離れ、図書室の入口へ移動した。
九条さんは仮の紙を壁の近くへ当て、白石先輩は少し離れた位置から見え方を確認する。俺も廊下側から図書室へ入る動きを試してみたが、入口のすぐ横に掲示すると、立ち止まって読む人が通行の邪魔になる可能性があった。
「……ここだと、ちょっと狭いかもしれないね」
「そうね。私も同じことを考えていたわ」
九条さんは紙を少し移動させた。
その位置なら、図書室へ入る前に文章を確認でき、通路を塞ぐことも少なそうだ。
「この辺りならどうでしょう?」
白石先輩が尋ねると、九条さんはしばらく考えた。
「悪くないと思います。ただ、最終的には担当の先生にも確認してもらいましょう」
俺は頷いた。
こうして実際に動いてみると、机の上で考えていたときには分からなかったことが見えてくる。
紹介カードの文章だけでなく、それをどこに置くかまで考える必要があるのだ。
「……九条さん、こういうの得意だよね」
俺が言うと、彼女は少しだけ眉を上げた。
「何が?」
「実際に使う人のことを考えるの。俺だったら、文章ができた時点で満足しちゃいそうだから」
九条さんはすぐには答えなかった。
手に持っていた紙の端を揃え、それから落ち着いた声で言う。
「……別に、特別なことではないわ。掲示する以上、見やすさや安全を考えるのは当然でしょう」
「それでも、ちゃんと考えてくれる人がいると助かるよ。ありがとう」
九条さんは俺から視線を外し、入口の方へ顔を向けた。
「……お礼を言われるほどのことじゃないわ。それより、七瀬君も歩きながら本を読まないこと。自分で考えた標語なんだから、ちゃんと守ってもらわないと困るもの」
「はい。気をつけます」
俺が素直に答えると、九条さんはようやく少しだけ表情を和らげた。
白石先輩は二人のやり取りを見ながら、楽しそうに微笑んでいる。
何となく気になって先輩を見ると、彼女は何でもないように首を振った。
「いえ。お二人とも、いい協力関係だなと思って」
「そうですね。九条さんがいると、俺が見落としてることにも気づけますし」
俺が答えると、九条さんは再び資料へ視線を落とした。
「……それなら、もう少しだけ周囲を見て行動してくれると助かるわね」
その言葉に、俺は思わず苦笑した。
どうやら、まだ完全には信用されていないらしい。
◇◇◇
展示する本の候補を確認するため、俺たちは図書室の棚を見て回ることになった。
白石先輩が所蔵一覧を持ち、九条さんは展示スペースの広さを確認する。俺は候補となる本の背表紙を眺めながら、紹介カードにどんな言葉を書けば興味を持ってもらえるか考えていた。
最初に見たのは、短編集や日常小説が並ぶ棚だった。
そこには、以前俺が読んだことのある作品もあれば、初めて見る題名もある。白石先輩が紹介してくれた駅を舞台にした連作短編集も見つかり、俺は思わず手に取った。
「……これですね」
「はい。私は、最後の話が特に好きなんです」
先輩は表紙へ目を向け、懐かしむように笑った。
「最初は何の関係もなさそうだった人たちが、少しずつつながっていくんです。大きな事件が起きるわけではないんですけど、読み終わったあとに、誰かと話したくなるような作品で」
俺は興味を引かれた。
「……それ、まさに今回の展示案に合いそうですね」
「そうですね。ただ、七瀬君にも読んでもらってから考えたいです」
先輩はそう言って、本を俺へ差し出した。
俺は受け取り、裏表紙のあらすじを読んだ。
短い文章の中に、駅を利用する人々の何気ない日常が描かれている。
(……これは、かなり好みかもしれないな)
俺が夢中になっていると、九条さんが横から声をかけてきた。
「七瀬君。読むのはあとにして、今は候補を確認する時間よ」
「あっ、ごめん」
俺は慌てて本を閉じた。
九条さんは呆れたように息を吐いたが、怒っている様子ではなかった。
「……本当に、好きな本を見つけるとすぐ集中するのね」
「面白そうだったから、つい」
「分かっているわ。でも、今は作業中でしょう?」
俺は素直に頷いた。
白石先輩は小さく笑いながら、本を元の棚へ戻す。
「ふふ。続きは、あとでゆっくり読んでくださいね」
「はい。そうします」
俺は少し名残惜しさを感じながら、次の棚へ向かった。
その途中、恋愛小説の棚が目に入った。
普段からよく利用している場所なので、背表紙を見るだけで知っている作品がいくつも見つかる。
俺は自然に足を止めた。
「……あっ、これもあるんだ」
思わず手を伸ばしたのは、以前読んで気に入った恋愛小説だった。
高校生の男女が、図書室で偶然同じ本を手に取るところから始まる物語だ。
最初は本の貸し借りをするだけの関係だった二人が、少しずつ相手の考え方や好みを知っていく。
派手な事件は起きないが、会話の積み重ねが丁寧で、俺はかなり好きな作品だった。
「……七瀬君、その本も読んだことがあるんですか?」
白石先輩が尋ねた。
「はい。結構好きなんです。最初は本の話しかしてなかった二人が、だんだん相手のことを知りたくなっていくところがよくて」
俺は表紙を眺めながら続けた。
「特に、主人公が相手の好きな本を覚えていて、何でもない日にそれを薦める場面があるんですけど、あそこがすごく好きなんですよね」
話しているうちに、少し熱が入ってしまった。
白石先輩は黙って聞いていたが、やがて小さく笑った。
「……七瀬君」
「はい?」
「やっぱり、そういうお話が好きなんですね」
俺は首を傾げた。
「そういう話?」
「本を通じて、少しずつ相手との距離が近づいていくお話です」
先輩は穏やかな声で答えた。
「土曜日に書店でお話ししたときも、似たような作品を気にしていましたよね」
俺は少し驚いた。
確かに、あの日も本の貸し借りや、書店での出会いを描いた作品について話した覚えがある。
「……よく覚えてますね」
「七瀬君が楽しそうに話していたので」
先輩は自然に答えた。
そして、俺の持っている本へもう一度視線を向ける。
「私も、そういう物語は好きですよ。相手のことを知っていく過程が丁寧だと、読んでいて嬉しくなりますから」
俺は頷いた。
「分かります。恋愛小説って、告白する場面だけが大事なわけじゃないんですよね。そこまでに何を話して、どうやって相手を大切に思うようになったのかが、ちゃんと描かれてると面白いんです」
白石先輩は少しだけ目を細めた。
「……そうですね。七瀬君がどんなところを大切にして読んでいるのか、少し分かった気がします」
俺は何となく照れくさくなった。
好きな作品について語ることは慣れているが、自分の好みをこうして言葉にされると、少し不思議な気分になる。
「……そんなに分かりやすいですか?」
「ええ。とても」
先輩は楽しそうに笑った。
その隣で、九条さんが小さく咳払いをした。
「……二人とも、そろそろ候補の確認へ戻りましょう」
「あっ、すみません」
俺は慌てて本を棚へ戻した。
九条さんは資料へ視線を落としながら、少しだけ言葉を続けた。
「……でも、その本の紹介文なら、七瀬君はすぐに書けそうね」
「うん。たぶん、結構いろいろ書けると思う」
「そうでしょうね。今の説明だけでも、随分詳しかったもの」
九条さんはそう言って、次の棚へ歩き出した。
俺は白石先輩と顔を見合わせ、少し笑った。
どうやら、また話しすぎてしまったらしい。
◇◇◇
昼休みの終わりが近づき、俺たちは机へ戻った。
今日確認できたのは、展示候補となる本の一部だけだった。
すべての本を読み直したわけでもなく、紹介カードの文章もまだ仮の段階だ。正式な展示内容については、図書委員会や風紀委員会での確認を重ねながら決めていくことになる。
それでも、昨日より少し具体的になったことは確かだった。
「今日はありがとうございました。候補の本も、少しずつ整理できましたね」
白石先輩がそう言うと、九条さんも頷いた。
「ええ。あとは、展示場所と掲示物の大きさを確認してから、実際に使える案を絞りましょう」
俺はノートを閉じた。
「分かりました。俺も、今日見た本を少し読んでみます」
すると、九条さんがすぐにこちらを見た。
「……七瀬君」
「はい?」
「無理に全部読もうとしなくていいのよ」
俺は思わず苦笑した。
「分かってるって。気になった本を一冊か二冊くらいにするよ」
「それならいいけれど」
九条さんはまだ少し疑わしそうだった。
白石先輩はその様子を見て、穏やかに口を開いた。
「七瀬君、もしよかったら、今日お話しした駅の短編集を先に読んでみませんか? 感想を聞けたら嬉しいです」
「はい。ぜひ」
俺が答えると、先輩は嬉しそうに頷いた。
「では、貸出手続きをしておきましょう。急がなくて大丈夫ですから、楽しんで読んでくださいね」
俺は礼を言い、先輩と一緒にカウンターへ向かった。
新しく借りた本を鞄へしまうと、何だか少し得をした気分になった。
読書週間の準備をしているはずなのに、読みたい本が増えていく。
これは、果たして順調と言っていいのだろうか。
(……まあ、面白い本に出会えたんだから、いいか)
俺は小さく笑い、図書室をあとにした。
◇◇◇
放課後、教室へ戻ると、雫が自分の席で鞄を整理していた。
窓の外では部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえ、教室にはまだ何人かのクラスメイトが残っている。
俺が近づくと、雫は顔を上げた。
「春樹、お疲れさま。今日も図書室?」
「うん。展示候補の本を見てきた」
「どうだった?」
「面白そうな本がいろいろあったよ。白石先輩にも一冊おすすめしてもらった」
俺は鞄から借りた短編集を取り出した。
雫は表紙を眺め、興味深そうに首を傾げた。
「へえ。駅が舞台の話なんだ」
「うん。いろんな人の物語が少しずつつながっていくんだって。まだ読んでないけど、かなり面白そう」
雫は裏表紙のあらすじを確認し、ゆっくり頷いた。
「確かに、春樹が好きそうな話だね」
俺は少し驚いた。
「……雫までそう言うの?」
「えっ、何が?」
「今日、白石先輩にも俺の好きな本の傾向が分かるって言われたんだ」
雫は一瞬黙った。
そして、何とも言えない表情で俺を見た。
「……春樹」
「何?」
「それ、別に不思議なことじゃないと思うよ」
「そうかな?」
「だって、春樹って好きな本の話になると、すぐ顔に出るし。昔から、どういう話が好きなのか結構分かりやすいもん」
雫はそう言いながら、少し得意そうに笑った。
「特に、人と人が少しずつ仲良くなる話、好きでしょ?」
俺は思わず頷いた。
「……うん。そういうの、かなり好き」
「ほらね」
雫は満足そうだった。
俺は少し考えた。
確かに、最近読んでいる恋愛小説も、登場人物同士の距離が少しずつ近づいていくところが面白いと思っている。
白石先輩と話した本も、似たような要素がある作品だった。
「……でも、雫もよく覚えてるな」
「そりゃ、長い付き合いだからね」
雫はさらりと答えた。
そして、少しだけ声を落とす。
「……春樹が好きなものくらい、ちゃんと知っておきたいし」
俺はその言葉を聞き、何となく嬉しくなった。
「ありがとう。俺も雫の好きなもの、もっと知りたいな」
雫は鞄の持ち手を握ったまま、動きを止めた。
俺が不思議に思って顔を覗き込むと、彼女は少しだけ視線を逸らした。
「……そういうこと、普通に言うんだね」
「えっ、変だった?」
「変じゃないけど……」
雫は言葉を途中で止め、軽く息を吐いた。
そして、いつもの調子で笑った。
「じゃあ、今度私の好きな本もちゃんと覚えてね?」
「もちろん。今読んでる恋愛小説の感想も、楽しみにしてるし」
「うん。読み終わったら話すよ」
雫は頷いた。
そのあと、俺の鞄へ視線を向ける。
「……ところで、今日また本が増えたってことは、読む時間も増えるんじゃない?」
「まあ、そうなるかな」
「春樹。ちゃんと寝る時間も確保してよ?」
俺は苦笑した。
「分かってるって」
「本当に?」
「……本当です」
雫はようやく納得したように頷いた。
「よろしい」
俺はその言い方に笑ってしまった。
すると、雫もつられるように笑った。
教室の窓から差し込む夕方の光が、机の上に長い影を落としている。
何でもない放課後の会話だったが、こうして雫と本の話をする時間は、最近ますます楽しくなっている気がした。
◇◇◇
帰り道、俺たちは読書週間の展示について話しながら歩いた。
雫は、自分が考えた気分別の展示案が少しずつ検討されていることを喜んでくれた。
ただし、まだ正式に決まったわけではないと伝えると、彼女はすぐに頷いた。
「うん。それでいいと思うよ。実際に準備する人たちの都合もあるだろうし」
「そうなんだよな。今日も棚を見て回ったけど、置ける本の数には限りがあるし」
「だったら、最初は少ない本でもいいんじゃない? 紹介カードを見て、気になった人が別の棚も見てくれたら、それだけでも意味があると思う」
俺は感心した。
「……雫、やっぱり考え方が上手いな」
「何それ。褒めてる?」
「もちろん」
雫は少し得意そうに笑った。
「じゃあ、素直に受け取っておく」
そう言ってから、彼女は少し考えるように視線を落とした。
「……でも、春樹が本当に好きなものを紹介するのも、大事だと思うよ」
「うん。今日、悠斗にも似たようなこと言われた」
「へえ。高坂君が?」
「俺が楽しそうに話してると、読んでみたくなることがあるんだって」
雫はその言葉を聞き、納得したように頷いた。
「……分かる気がする」
「本当?」
「うん。春樹が楽しそうに話してると、こっちまで気になってくるもん。昔からそうだったよ」
俺は少し照れくさくなった。
自分では普通に好きな本の話をしているだけなのだが、そう言ってもらえると嬉しい。
「……ありがとう。じゃあ、俺の好きな本もちゃんと候補に入れてみようかな」
「うん。でも、恋愛小説ばっかりにしちゃだめだよ?」
「……そこは気をつけます」
雫は楽しそうに笑った。
俺も笑いながら頷いた。
しばらく歩くと、いつもの分かれ道が見えてきた。
雫は少しだけ歩く速度を緩めた。
「……春樹」
「ん?」
「今日話してた、幼馴染の恋愛小説なんだけど」
「ああ、大学で再会するやつ?」
「うん。……読み終わったら、感想聞かせてね」
俺は自然に頷いた。
「もちろん。かなり面白いから、話したいこといっぱいあると思う」
「そっか。楽しみにしてる」
雫はそう言って笑った。
ただ、その表情はいつものいたずらっぽい笑みとは少し違っていた。
何かを期待しているような、それでいて少し不安そうな。
俺は気になったが、彼女はすぐに手を振った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日、雫」
俺も手を振り返し、家へ向かった。
背後で雫が小さく息を吐いたことには、気づかなかった。
◇◇◇
春樹の背中が見えなくなるまで、雫はしばらく分かれ道に立っていた。
夕方の風が髪を揺らし、遠くから自転車の走る音が聞こえてくる。
彼女は鞄の持ち手を握り直し、ゆっくり歩き始めた。
(……春樹、本当にそういう話が好きなんだな)
幼馴染が再会する恋愛小説。
昔の約束を覚えている女の子と、忘れている男の子。
その設定を聞いたとき、雫は思わず自分たちのことを考えてしまった。
もちろん、小説と現実は違う。
春樹が忘れている昔の約束も、物語のように都合よく思い出してもらえるとは限らない。
それでも、今朝の春樹の言葉は、少しだけ胸に残っていた。
『忘れていても、そのときの気持ちまで嘘だったとは限らない』
雫は歩きながら、幼い頃の景色を思い出した。
あの日、春樹は何気ない顔で言葉を口にした。
本人にとっては、子どもらしい約束の一つだったのかもしれない。
けれど、雫にとっては違った。
長い時間が経った今でも、忘れられないほど大切な思い出になっている。
(……春樹が覚えてなくても、私はちゃんと覚えてる。それだけは変わらないんだよね)
雫は小さく息を吐いた。
いつか、自分から話す日が来るかもしれない。
そのとき春樹がどんな顔をするのか、今はまだ分からない。
ただ、今日の会話で少しだけ安心できたことも確かだった。
忘れているからといって、大切ではなかったとは限らない。
春樹自身が、そう言ってくれたのだから。
雫は鞄の中にある文庫本を思い浮かべ、家へ向かう足を少しだけ速めた。
◇◇◇
その日の夜、俺は自室で新しく借りた短編集を机の上へ置いていた。
白石先輩に薦めてもらった、地方の小さな駅を舞台にした連作短編集だ。
表紙には夕暮れのホームが描かれており、線路の向こうには小さな町並みが広がっている。
俺は裏表紙のあらすじをもう一度読み、最初のページを開いた。
物語は、毎朝同じ電車に乗る会社員の視点から始まっていた。
大きな事件が起きるわけではない。
けれど、何気ない日常の中に小さな変化があり、登場人物が少しずつ他人の存在を意識するようになっていく。
(……なるほど。白石先輩が好きだって言ってた理由、何となく分かるな)
俺はページをめくりながら、自然に笑みを浮かべた。
こういう作品は、読み終わったあとにじっくり感想を話したくなる。
どの場面が好きだったか。
登場人物の何気ない言葉に、どんな意味があったのか。
そんなことを誰かと話せたら、きっと楽しいだろう。
俺はしばらく読み進めたあと、時計を確認した。
まだ少し時間はある。
ただ、今日はもう一つ確認しておきたいことがあった。
小日向さんに以前話していた、放送部を舞台にした青春小説だ。
確か自分の本棚にあったと思うのだが、最近は読み返していないので、どこへしまったかはっきり覚えていない。
俺は本を閉じ、栞を挟んでから立ち上がった。
本棚の前へ移動し、青春小説が並んでいる段を順番に確認していく。
学校が舞台の作品。
部活動を題材にした作品。
文化祭や体育祭を描いた作品。
いくつかの背表紙を眺めているうちに、ようやく目当ての本が見つかった。
「……あった」
俺は思わず声を漏らした。
少し奥へしまっていたため、すぐには見つからなかったらしい。
取り出して表紙を確認すると、間違いなく以前読んだ放送部の青春小説だった。
主人公は、人前で話すことが苦手な高校生。
ひょんなことから放送部へ入ることになり、仲間たちと一緒に校内放送や行事の準備を進めていく物語だ。
最初は自分の声に自信を持てなかった主人公が、少しずつ言葉を届けることの楽しさを知っていく。
俺はその展開が好きだった。
(……よかった。ちゃんと持ってたんだな)
俺は本の状態を確認した。
表紙に大きな傷はなく、ページも問題なく読めそうだ。
これなら、小日向さんへ貸しても大丈夫だろう。
俺は机へ戻り、スマートフォンを手に取った。
以前、小日向さんとは本を確認してから持ってくると話していた。
今日見つかったことを伝えておけば、きっと喜んでくれるだろう。
俺は短いメッセージを送った。
『前に話してた放送部の青春小説、家にあったよ。明日持っていけそう』
少しして、返信が届いた。
『本当ですか!? ありがとうございます! すごく楽しみです!』
画面いっぱいに並んだ元気な文章を見て、俺は思わず笑ってしまった。
小日向さんらしい反応だ。
『無理に急いで読まなくていいからね。明日、学校で渡すよ』
そう返すと、すぐにまた返信が届いた。
『はい! 大切に読みます!』
俺はスマートフォンを置き、本を鞄の横へ移動させた。
明日の朝、忘れずに持っていこう。
そのあと、もう一度机へ向かい、読書週間のノートを開いた。
今日、白石先輩たちと確認した内容を整理しておきたかったのだ。
展示候補の本。
紹介カードの文章。
気分別の分類。
安全な読書マナーの掲示。
まだ決まっていないことも多いが、少しずつ形になってきている。
俺はノートの余白に、今日悠斗から言われた言葉を思い出しながら、新しく一文を書き加えた。
『自分が好きな理由を、読む人に伝える』
その文章を眺めていると、昼休みに白石先輩から言われたことも思い出した。
俺は、本を通じて少しずつ人との距離が近づいていく物語が好きらしい。
自分ではあまり意識していなかったが、言われてみれば確かにそうだった。
恋愛小説だけではない。
友情を描いた青春小説も、何気ない日常を描いた短編集も、登場人物同士の関係が少しずつ変わっていくところに惹かれることが多い。
(……そう考えると、俺って結構分かりやすいのかもしれないな)
俺は小さく笑った。
今日、雫にも同じようなことを言われた。
長い付き合いだから、俺の好きなものは分かるのだと。
それが何となく嬉しかった。
俺も、雫の好きなものをもっと知りたいと思う。
今読んでいる恋愛小説の感想も聞きたいし、最近どんな本に興味を持っているのかも気になる。
日曜日に一緒に出かけたときも、昔の思い出だけでなく、今の雫について知らなかったことがいくつかあった。
幼馴染だからといって、何でも知っているわけではない。
それでも、これから少しずつ知っていけばいいのだろう。
俺はノートを閉じ、机の上に置いていた恋愛小説へ視線を向けた。
大学で再会した幼馴染の男女の物語。
主人公は、まだ昔の約束を完全には思い出していない。
けれど、相手の女性と過ごす時間を通じて、少しずつ自分の気持ちに向き合い始めている。
俺はその表紙を眺めながら、ふと雫の言葉を思い出した。
『春樹が好きなものくらい、ちゃんと知っておきたいし』
あのときは素直に嬉しかった。
今考えても、やっぱり嬉しい。
(……雫とは、これからもいろんな本の話をしていきたいな)
俺はそう思いながら、木の葉の栞を挟んだページを開いた。
今夜は少しだけ続きを読もう。
もちろん、時間を忘れないように気をつけながら。
そう決めて読み始めたはずなのに、数ページ進んだところで、主人公が幼馴染の女性へ思いがけない質問をする場面に出会ってしまった。
俺は思わずページをめくる手を止めた。
何気ない会話の中に、ずっと隠されていた感情が少しだけ見えた気がしたからだ。
(……ああ、こういうところが本当に上手いんだよな)
俺は小さく息を吐き、続きを読み始めた。
読書週間の準備も、誰かと本の話をする時間も、もちろん楽しい。
けれど、こうして一人で物語の世界へ入り込む時間も、やっぱり俺には欠かせないものだった。
ただ本を読みたいだけなのに、最近はその本を通じて、随分たくさんの人と話すようになった気がする。
それが悪いことだとは思わない。
むしろ、少しずつ楽しくなっている。
俺はそんなことを考えながら、ページの向こうでゆっくりと近づいていく二人の距離を見守っていた。




