第60話 読書週間の展示を考えているだけなのに、どうして俺の好きな本まで見抜かれるんだ?
水曜日の朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。
理由は単純だ。昨夜読んでいた恋愛小説の続きが、どうしても気になっていたのである。
大学で再会した幼馴染の男女が、少しずつ昔の記憶を辿っていく物語。最初は穏やかな日常を描いているだけに見えたが、読み進めるうちに、何気ない会話や仕草の意味が変わってきた。
特に気になっているのは、主人公の青年が忘れている約束のことだ。
相手の女性はその約束を覚えている。
しかし、彼女は答えを教えようとしない。
それが単なる意地悪ではないことは、文章から伝わってくる。彼女にとって、その約束を思い出してもらうことには、きっと特別な意味があるのだろう。
(……こういう構成、本当に上手いよな)
俺は机の上に置いた文庫本を手に取り、昨日の続きから数ページ読んだ。
木の葉の栞を外すと、淡い緑色の模様が朝の日差しを受けて少し明るく見える。
日曜日、雫と一緒に訪れた文具店で買った栞だ。
同じものを二枚買い、一枚は雫へ渡した。
それ以来、この栞を見るたびに、あの日の景色を思い出すようになった。
展望広場のベンチ。
木々の間を抜ける風。
小さな橋を渡ったときの雫の表情。
そして、彼女が覚えているという昔の大切な話。
(……そういえば、あのとき雫、何か言いかけてたんだよな)
俺は本から目を離し、少し考えた。
幼い頃の記憶というのは、不思議なものだ。
昨日食べた夕飯は思い出せなくても、十年以上前に遊んだ公園の景色は妙にはっきり覚えていることがある。
逆に、当時は大切だったはずの会話を、すっかり忘れてしまっていることもある。
雫が覚えているという約束も、そうしたものの一つなのだろうか。
ただ、今のところ、思い出せる気配はない。
(……まあ、無理に思い出そうとしても仕方ないか)
俺は小さく息を吐き、再び本へ視線を落とした。
物語の中の主人公も、似たようなことを考えている。
ただし、彼の場合は相手の女性を恋愛対象として意識し始めているらしい。
その変化が丁寧に描かれていて、読んでいるこちらまで落ち着かなくなる。
「……やっぱり、恋愛小説って面白いな」
思わず呟いたところで、時計が目に入った。
危ない。
このまま読んでいたら、朝食の時間がなくなるところだった。
俺は慌てて本を閉じ、栞を挟み直した。
今日も読書週間の準備がある。
昨日、雫が提案してくれた気分別の展示方法について、白石先輩や九条さんへ相談する予定だ。
それに、九条さんからは安全な読書マナーの掲示についても話があると言われている。
(……今日はちゃんと、時間を見ながら動かないとな)
俺は鞄を持ち、部屋を出た。
◇◇◇
通学路へ出ると、朝の空気は少しひんやりとしていた。
空には薄い雲が広がっているが、雨が降りそうな様子はない。街路樹の葉は少しずつ色づき始め、歩道の端には落ち葉がいくつか集まっていた。
いつもの角を曲がると、雫が歩いているのが見えた。
「雫、おはよう」
声をかけると、彼女は振り返った。
「おはよう、春樹。今日は早いね」
「うん。朝から本を読んでたんだけど、ちゃんと時間を見て切り上げた」
俺が少し得意げに答えると、雫は一瞬黙った。
そして、何とも言えない表情でこちらを見た。
「……春樹」
「何?」
「それ、普通のことだからね?」
「……分かってるよ」
「本当に?」
「本当だって」
雫は呆れたように笑った。
「もう。そんなことで得意げにならないの」
そう言いながらも、彼女は俺の隣へ自然に並んだ。
昔から、雫はこういうところで遠慮がない。
俺が本に夢中になりすぎると、すぐに現実へ引き戻してくれる。
そのおかげで助かっていることも多いので、あまり強く反論できない。
「そういえば、昨日の気分別の展示案、今日相談してみるよ」
俺が話題を変えると、雫は興味深そうに顔を向けた。
「本当? 採用されるといいね」
「うん。でも、展示スペースにも限りがあるだろうし、全部できるかは分からないけど」
「それでいいと思うよ。最初から全部やろうとしたら大変だし」
雫は頷いた。
「……それに、春樹が一人で頑張りすぎるのも心配だから」
「大丈夫だよ。白石先輩も九条さんも、無理しなくていいって言ってくれてるし」
「ならいいけど」
雫は少しだけ目を細めた。
そして、俺の鞄へ視線を向ける。
「……今日は何冊持ってきたの?」
「二冊」
「昨日と同じ?」
「うん。恋愛小説と短編集」
雫は納得したように頷いた。
「じゃあ、今日も紹介文を考えるんだね」
「そういうこと」
俺は笑った。
すると、雫がふと思い出したように口を開いた。
「……そうだ。昨日の恋愛小説の話なんだけど」
「ん?」
「春樹って、登場人物の気持ちを考えるのは得意なのに、自分のことになると結構鈍いよね」
俺は思わず顔を向けた。
「……またその話?」
「だって、昨日の返事が面白かったんだもん」
雫は楽しそうに笑った。
昨日、恋愛小説の主人公がどうして自分の気持ちに気づくのが遅いのかという話をした。
俺は、ずっと一緒にいる相手だからこそ、気持ちの変化に気づきにくいのではないかと答えた。
すると雫は、俺自身もそういう主人公になりそうだと言い出したのだ。
「……俺だって、さすがに自分の気持ちくらい分かると思うけど」
「本当に?」
「うん」
雫はしばらく俺を見つめた。
そして、何かを諦めたように息を吐いた。
「……まあ、今はそういうことにしておく」
「何だよ、それ」
「秘密」
雫はいたずらっぽく笑った。
俺は首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
こういうやり取りも、最近は少し増えた気がする。
昔から雫とはよく話していたが、最近は本の話だけでなく、恋愛小説の登場人物について意見を交わすことも多くなった。
それが、何となく楽しい。
俺はそう思いながら、雫と並んで校門をくぐった。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗が窓際の席で何やら真剣な顔をしていた。
机の上にはスマートフォンが置かれ、画面には週末の展示会の案内が表示されている。
「悠斗、おはよう」
「おう、春樹。おはよう」
悠斗は顔を上げた。
「……なあ、ちょっと聞いてくれ」
「どうした?」
「土曜日の展示会、紗弥と行くことになったのはいいんだけどさ」
悠斗は少しだけ声を落とした。
「……展示のあと、どんな話をしたらいいか、まだちょっと不安なんだよ」
俺は少し考えた。
「普通に感想を話せばいいんじゃないか?」
「それは分かってるんだけど、俺、好きな作品の話になると結構しゃべっちゃうからさ」
悠斗は苦笑した。
「相手が退屈してないか、気になって」
俺は頷いた。
好きな作品について話し始めると、つい熱が入ってしまう気持ちはよく分かる。
ただ、相手が同じくらい興味を持っているとは限らない。
「だったら、最初に紗弥さんの感想を聞いてみたら?」
「……感想?」
「うん。どの展示が面白かったかとか、原作と映画で印象が違ったところとか。相手の話を聞いてから、自分の感想を話せばいいと思う」
悠斗は少し考えた。
「……なるほどな」
そして、俺の肩を軽く叩いた。
「お前、こういう助言は本当に上手いよな」
「そうか?」
「うん。……自分のことになると、全然分かってなさそうだけど」
俺は眉をひそめた。
「……何でみんな、同じこと言うんだ?」
悠斗は一瞬黙った。
そして、とうとう吹き出した。
「……いや、何でもない!」
「絶対何かあるだろ」
「気にすんなって!」
悠斗は笑いながら手を振った。
俺は納得できなかったが、予鈴が鳴ったため、それ以上聞くことはできなかった。
◇◇◇
二時間目が終わった休み時間、俺は鞄からノートを取り出していた。
昨日の紹介文を見直し、今日の打ち合わせで相談したいことを整理しておこうと思ったのだ。
すると、教室の入口から声が聞こえた。
「七瀬君、少しいいかしら」
顔を上げると、九条さんが立っていた。
いつも通り背筋を伸ばし、手には薄い資料の束を持っている。
「九条さん。うん、大丈夫だよ」
俺が答えると、彼女は机の横へやってきた。
「昨日話していた、安全な読書マナーの掲示について、風紀委員会で少し意見が出たの」
「どんな?」
「注意書きだけだと、どうしても堅い印象になるでしょう? だから、読書を楽しむための言葉として伝えられないか、という話になったのよ」
俺は頷いた。
「それなら、前に考えた『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』みたいな方向かな」
「ええ。あの案、委員会でも評判がよかったわ」
九条さんは少しだけ表情を和らげた。
「ただ、掲示する場所によっては、もっと短い言葉の方がいいかもしれないの」
「なるほど」
俺はノートを開いた。
「例えば、『本の続きは、安全な場所で』とか?」
九条さんは少し考えた。
「……分かりやすいわね」
「でも、ちょっと普通すぎるかな」
「普通でいいのよ。安全に関する案内は、誰が見ても意味が伝わることが大切だから」
九条さんは真面目に答えた。
俺はその言葉に納得した。
「確かに。紹介文みたいに、興味を引くことばかり考えなくてもいいんだな」
「そういうこと」
九条さんは頷いた。
そして、少しだけ俺のノートへ視線を向けた。
「……それにしても、七瀬君」
「ん?」
「昨日から随分たくさん書いているのね」
「ああ、いろいろ思いついてさ」
俺は少し照れたように笑った。
すると、九条さんは眉を寄せた。
「……まさか、夜遅くまで考えていたわけではないでしょうね?」
「いや、そこまでは……」
「本当?」
「……ちょっとだけ」
九条さんは深く息を吐いた。
「七瀬君。協力してくれるのは嬉しいけれど、無理をしてまでやることではないのよ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……はい」
俺が素直に答えると、九条さんは少しだけ笑った。
「ならいいわ。昼休み、また図書室で」
「うん。よろしく」
彼女が去ったあと、俺はノートを眺めた。
安全な読書マナーの掲示。
おすすめ本の紹介。
気分別の展示。
考えることはまだいろいろある。
けれど、不思議と面倒だとは思わなかった。
(……好きなことに関わる作業って、やっぱり楽しいんだよな)
俺は小さく笑い、ノートを閉じた。
◇◇◇
昼休み、俺は図書室へ向かった。
入口近くの机では、白石先輩が紹介カードの見本を並べていた。
「こんにちは、白石先輩」
声をかけると、先輩は顔を上げた。
「七瀬君、こんにちは。今日も来てくれたんですね」
「はい。昨日の続きと、ちょっと相談したいことがあって」
俺が答えると、先輩は興味深そうに微笑んだ。
「相談ですか?」
「雫が、気分別に本を紹介するのも面白いんじゃないかって言ってくれたんです」
俺はノートを開き、昨日書いた案を見せた。
元気になりたいとき。
落ち着きたいとき。
誰かと話したくなる本。
少しだけ勇気が欲しいとき。
先輩はしばらく内容を眺めたあと、ゆっくり頷いた。
「……素敵な案ですね」
「本当ですか?」
「はい。ジャンルだけで分けるより、今の気分に合う本を探しやすくなると思います」
先輩は少し考えた。
「ただ、展示スペースに限りがあるので、全部を一度に実施するのは難しいかもしれませんね」
「そうですよね。雫にも、まずは候補として相談した方がいいって言われました」
俺が答えると、先輩は小さく笑った。
「西条さん、しっかりしていますね」
「そうなんですよ。俺が思いついたことを全部やろうとすると、よく止められます」
「ふふ。七瀬君には、そういう人が必要なのかもしれませんね」
俺は少し考えた。
「……確かに」
先輩は何か言いかけたが、結局、柔らかく微笑むだけだった。
そのとき、九条さんが資料を持ってやってきた。
「白石先輩、七瀬君。お待たせしました」
「こんにちは、九条さん」
俺が挨拶すると、彼女は軽く頷いた。
「こんにちは。今日は展示の配置と、安全な読書マナーの掲示について確認したいわ」
「うん。ちょうど気分別の展示案も相談してたところ」
九条さんはノートへ視線を向けた。
「……なるほど。読む人の気分に合わせて本を選べるようにするのね」
「そう。雫が考えてくれたんだ」
九条さんは少し考えた。
「いい案だと思うわ。ただ、分類を増やしすぎると、かえって分かりにくくなるかもしれないわね」
俺は頷いた。
「うん。だから、最初は二つか三つくらいに絞るのがいいかなって」
白石先輩も頷いた。
「そうですね。例えば、『元気になりたいとき』と『落ち着きたいとき』なら、違いも分かりやすそうです」
「あと、『誰かと話したくなる本』も面白いと思います」
俺が言うと、先輩は少しだけ目を細めた。
「……七瀬君らしいですね」
「そうですか?」
「はい。七瀬君は、本を読んだあとに誰かと感想を話すのが好きでしょう?」
俺は少し驚いた。
「……分かります?」
「もちろん。土曜日も、たくさんお話ししましたから」
先輩は楽しそうに笑った。
俺は何となく照れくさくなった。
「……確かに、そうですね」
九条さんはそのやり取りを見ながら、資料を整理した。
「では、気分別の展示は候補として図書委員会で検討してもらう形でいいかしら」
「はい。お願いします」
白石先輩が答えた。
俺も頷いた。
まだ正式に決まったわけではない。
けれど、雫の案が検討してもらえることになっただけでも嬉しかった。
◇◇◇
そのあと、俺たちは安全な読書マナーの掲示について話し合った。
九条さんが用意した資料には、いくつかの候補が書かれている。
『歩きながらの読書は危険です』
『本を読むときは、周囲の安全を確認しましょう』
『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』
俺は三つ目の文章を見て、少し嬉しくなった。
「あっ、これ、前に考えたやつだ」
「ええ。委員会でも評判がよかったから、候補に入れてあるわ」
九条さんはそう答えた。
白石先輩も文章を眺め、頷いた。
「注意だけでなく、読書を楽しむための言葉になっているのがいいですね」
「そうですね。読むなって言われるより、落ち着いて読んだ方が面白いって伝わる方がいいかなって」
俺が答えると、九条さんは少しだけ目を細めた。
「……七瀬君自身が、そう思ってくれると助かるのだけれど」
「……はい」
俺は素直に頷いた。
白石先輩が小さく笑った。
「ふふ。九条さん、七瀬君のことをよく見ていますね」
九条さんは一瞬だけ動きを止めた。
「……風紀委員として、当然のことです」
「そうですね」
先輩は穏やかに頷いた。
ただ、その口元には少し楽しそうな笑みが浮かんでいた。
俺は二人のやり取りを見ながら、何となく首を傾げた。
何か、俺の知らない話をしているような気がする。
しかし、九条さんはすぐに資料へ視線を戻した。
「……それより、掲示する場所を確認しましょう」
俺たちは図書室の入口へ移動した。
掲示板の位置。
棚との距離。
通路の幅。
実際に歩いてみると、机の上で考えていたときには気づかなかったことがいくつもあった。
例えば、入口のすぐ横に大きな掲示物を置くと、立ち止まって読む生徒が通路を塞いでしまう。
また、棚の上に紹介カードを置きすぎると、本の表紙が見えにくくなる。
九条さんはそうした点を一つずつ確認し、白石先輩は図書委員会側の作業と照らし合わせながら考えていた。
俺は二人の話を聞きながら、改めて感心した。
(……本を並べるだけでも、こんなに考えることがあるんだな)
普段、何気なく利用している図書室。
その使いやすさは、こうした細かな工夫によって支えられているのかもしれない。
俺は少しだけ背筋を伸ばした。
せっかく協力するのだから、自分にできることはちゃんとやりたい。
◇◇◇
作業が一段落した頃、図書室の入口から声が聞こえた。
「あっ、七瀬先輩!」
振り返ると、小日向ひよりが立っていた。
その隣には、新海真実の姿もある。
「小日向さん、新海さん。こんにちは」
「こんにちは!」
ひよりは元気よく挨拶した。
真実は少し控えめに会釈する。
「……こんにちは、七瀬先輩」
二人は図書室の入口近くに並べられた紹介カードの見本を見つけ、興味深そうに近づいてきた。
「わあ、これ、読書週間の準備ですか?」
「うん。まだ仮のものだけどね」
俺が答えると、ひよりは目を輝かせた。
「すごい! 何か、本屋さんみたいですね!」
彼女は机の上のカードを一枚ずつ眺めた。
その反応があまりにも素直で、俺まで嬉しくなる。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
「だって、見てるだけで本を読みたくなりますもん!」
ひよりは笑った。
そして、ふと恋愛小説の紹介文へ目を向けた。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
ひよりは数秒ほど黙った。
そのあと、俺へ顔を向けた。
「……七瀬先輩、これって恋愛小説ですよね?」
「うん。まだ仮の文章だけど」
「……すごいですね。何か、読んだだけでドキドキします」
ひよりはそう言いながら、少しだけ笑った。
しかし、すぐに別のカードへ視線を移した。
「でも、私だったら、こっちも気になります!」
彼女が指さしたのは、短編集の紹介文だった。
『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』
「……こういう本って、疲れたときに読むとよさそうですね」
俺は頷いた。
「そうなんだ。派手な話じゃないけど、読んだあとに少し気持ちが温かくなるんだよ」
「へえ。いいなあ」
ひよりは楽しそうに笑った。
その隣で、真実は恋愛小説の紹介文をじっと見つめていた。
しばらくして、小さく口を開く。
「……七瀬先輩」
「ん?」
「……この文章、少しだけ怖いですね」
俺は驚いた。
「怖い?」
真実は慌てて首を振った。
「あっ、悪い意味じゃなくて……」
彼女は少し考え、言葉を選ぶように続けた。
「……ずっと近くにいる人の気持ちって、分かっているつもりでも、実は全然分かっていないことがあるんだなって」
俺は少し考えた。
「……なるほど」
真実は静かに頷いた。
「だから、ちょっと怖いけど、読んでみたいです」
俺は思わず笑った。
「それ、すごくいい感想だと思う」
真実は目を瞬かせた。
「……そうですか?」
「うん。同じ文章でも、人によって受け取り方が違うんだなって分かったから」
俺が答えると、真実は少し安心したように微笑んだ。
ひよりはその様子を見て、楽しそうに口を開いた。
「じゃあ、私ももっと感想言います!」
「もちろん。聞かせて」
俺が笑うと、ひよりは嬉しそうに頷いた。
そして、少し考えてから言った。
「……私、こういう紹介カードがあると、普段読まないジャンルでも手に取ってみたくなります」
俺はその言葉に、少し驚いた。
「本当?」
「はい! だって、どんな気持ちになれる本なのか分かると、ちょっと安心するから」
俺は頷いた。
それは、雫が提案してくれた気分別の展示方法にも通じる考え方だった。
「……ありがとう。すごく参考になったよ」
ひよりは嬉しそうに笑った。
真実も小さく頷いた。
そのあと、俺はひよりへ以前話していた放送部の青春小説について、まだ貸す準備ができていないことを伝えた。
「ごめん。家にあるか確認してから持ってこようと思ってて」
「大丈夫です! 楽しみに待ってます!」
ひよりは元気よく答えた。
真実も、借りている文化祭の小説をまだ読んでいる途中だと教えてくれた。
「……主人公がなかなか本音を言えないところ、読んでいて少し苦しくなるんですけど」
「うん。あの話、そこが丁寧なんだよね」
「……はい。でも、だからこそ続きが気になります」
真実はそう言って、少しだけ目を伏せた。
俺はその反応を見ながら、彼女が物語の中の感情をじっくり考えるタイプなのだと改めて感じた。
ひよりは興味を持ったことを素直に口にする。
真実は一度自分の中で考えてから、少しずつ言葉にする。
二人とも本の楽しみ方が違っていて、話していると面白い。
(……こういう感想も、読書週間の参考になるな)
俺はノートへ二人の意見を書き留めた。
◇◇◇
昼休みが終わる少し前、俺は図書室を出た。
廊下を歩きながら、今日の話し合いを振り返る。
雫の提案した気分別の展示方法。
白石先輩が考えてくれた紹介カードの配置。
九条さんが確認してくれた安全面の工夫。
ひよりと真実が教えてくれた、読む人それぞれの感じ方。
どれも、自分一人では気づかなかったことばかりだった。
(……本の紹介って、こんなにいろんな人の考え方が関わるんだな)
俺は少しだけ笑った。
ただ、まだ一つ気になることがあった。
恋愛小説の紹介文についてだ。
最初に考えた問いかけは、思っていた以上に人によって受け取り方が違うらしい。
白石先輩は、印象に残ると言ってくれた。
九条さんは、内容が分かる説明を加えた方がいいと助言してくれた。
怜華先輩は、人の気持ちは近くにいても分からないものだと話していた。
ひよりはドキドキすると言い、真実は少し怖いと感じたらしい。
同じ文章なのに、こんなにも反応が違う。
(……面白いな。やっぱり、読書って一人で楽しむだけじゃないんだ)
俺はそう思いながら、午後の授業へ向かった。
◇◇◇
放課後、俺は教室でノートを整理していた。
窓の外では運動部の生徒たちがグラウンドへ向かい、廊下には帰宅する生徒の声が響いている。
今日の話し合いで、読書週間の準備は少し前へ進んだ。
まだ正式に決まっていないことも多いが、展示の方向性は見えてきた気がする。
俺がノートを閉じようとしたところで、雫が隣へやってきた。
「春樹、今日の打ち合わせどうだった?」
「うん。雫の案、ちゃんと相談してきたよ」
俺が答えると、雫は少し身を乗り出した。
「本当? どうだった?」
「いい案だって言ってもらえた。まだ正式決定じゃないけど、候補として検討してもらえることになったよ」
雫は嬉しそうに笑った。
「よかった!」
その反応を見て、俺も嬉しくなった。
「ありがとう、雫。助かったよ」
「ううん。春樹がちゃんと説明してくれたからだよ」
雫はそう言って、俺のノートへ視線を向けた。
「……でも、またいろいろ増えてない?」
「えっ?」
「ほら、ここ。昨日より項目が多い」
雫はノートの端を指さした。
確かに、今日の話し合いで思いついたことをいくつも書き足している。
「……まあ、少しだけ」
「少しだけ?」
雫は眉を上げた。
俺は苦笑した。
「……結構増えたかも」
「もう。だから、全部一人でやろうとしちゃだめだって言ったでしょ」
「分かってるって」
「本当に?」
「……はい」
俺が素直に答えると、雫は満足そうに頷いた。
「よろしい」
その言い方が九条さんに少し似ていて、俺は思わず笑ってしまった。
「……何で笑うの?」
「いや、九条さんみたいだなって」
雫は一瞬黙った。
そして、少しだけ口を尖らせた。
「……春樹、そういうこと言うんだ」
「えっ、何か変だった?」
「別に。……でも、私は私だからね」
雫はそう言って、鞄を持ち直した。
俺は慌てて頷いた。
「うん。それはもちろん」
すると、雫は少しだけ笑った。
「……ならいいけど」
俺は何となく安心した。
最近、雫の反応が少しだけ変わった気がする。
昔よりも、遠慮なく自分の気持ちを言うようになったというか。
もちろん、昔から仲はよかった。
けれど、日曜日に二人で出かけてから、何となく会話の距離が近くなったように感じる。
(……やっぱり、昔の思い出を一緒に振り返ったからかな)
俺はそう考え、鞄を肩へ掛けた。
◇◇◇
帰り道、俺と雫は並んで歩いていた。
夕方の風は少し冷たく、通学路の木々が静かに揺れている。
雫はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……春樹」
「ん?」
「今日の紹介カードの話、聞いてて思ったんだけど」
「うん」
「春樹って、好きな本のことを話すとき、本当に楽しそうだよね」
俺は少し考えた。
「そうかな?」
「うん。目が違うもん」
雫は笑った。
「本の話をしてるときの春樹、昔から変わらないなって思う」
俺は少し照れくさくなった。
「……そんなに分かりやすい?」
「すごく」
雫は即答した。
俺は苦笑した。
「……そっか」
雫は少しだけ歩く速度を緩めた。
そして、静かに続けた。
「でも、そういう春樹、私は好きだよ」
俺は顔を向けた。
雫は前を見たまま、少しだけ笑っていた。
「……ありがとう」
俺が答えると、彼女は小さく頷いた。
それ以上は何も言わなかった。
俺も、無理に言葉を続けようとはしなかった。
ただ、並んで歩く時間が何となく心地よかった。
しばらくして、雫がふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、春樹」
「何?」
「日曜日の展望広場、また行こうね」
俺は自然に笑った。
「うん。もちろん」
雫は嬉しそうに頷いた。
「今度は、違う季節の景色も見てみたいな」
「いいな。秋なら紅葉も綺麗そうだし、春なら花が咲いてるかもしれない」
「うん。そういうのも見てみたい」
二人はしばらく、季節ごとの景色について話した。
その会話をしていると、日曜日の展望広場がまた少し特別な場所になった気がした。
やがて、いつもの分かれ道へ到着した。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日、春樹」
雫は手を振った。
俺も振り返し、帰り道を歩き始めた。
その背中を見送りながら、雫は小さく息を吐いた。
(……春樹、少しずつでいいから、私のことも見てくれるようになるといいな)
彼女は鞄の中にある木の葉の栞を思い出した。
日曜日に一緒に選んだ、小さな思い出。
それが、今も胸の奥を温かくしている。
雫は静かに微笑み、家へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
その日の夜、俺は自室で読書週間のノートを開いていた。
今日の話し合いで出た意見を整理し、紹介カードの文章を少しずつ書き直していく。
気分別の展示方法は、まだ正式決定ではない。
しかし、候補として検討してもらえることになった。
安全な読書マナーの掲示についても、方向性が少し見えてきた。
俺はノートを眺めながら、満足していた。
(……思ってたより、ちゃんと形になってきたな)
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、白石先輩からのメッセージが表示されていた。
『今日はありがとうございました。気分別の展示案、とても素敵でした。図書委員会でも検討してみますね』
俺は嬉しくなり、返信した。
『こちらこそありがとうございました。雫にも伝えておきます。明日もよろしくお願いします』
少しして、先輩から返事が届いた。
『はい。七瀬君と一緒に考えられるの、楽しみにしています』
俺はその文章を読み、自然に笑みを浮かべた。
(……白石先輩、本当に本が好きなんだな)
そう考えていると、今度は九条さんから通知が届いた。
『今日の掲示案、ありがとう。明日、風紀委員会でも確認してみます。無理のない範囲で協力してください』
俺は頷きながら返信した。
『了解。よろしくお願いします』
そのあと、雫からもメッセージが届いた。
『春樹、今日はちゃんと本読む時間ある?』
俺は少し笑った。
『あるよ。ノートもだいたい整理できた』
『よかった。あんまり頑張りすぎないでね』
『ありがとう。雫の案、ちゃんと検討してもらえることになったよ』
『うん。嬉しい! でも、全部一人でやろうとしちゃだめだからね?』
俺は思わず苦笑した。
『分かってるって』
『本当かなあ?』
『本当です』
『じゃあ信じてあげる。おやすみ、春樹』
『おやすみ』
俺はスマートフォンを机の端へ置いた。
今日一日で、随分たくさんの人と本の話をした気がする。
それぞれ違う考え方があり、違う感想がある。
その違いが、俺には面白かった。
俺はノートを閉じ、机の上に置いていた恋愛小説を手に取った。
ページを開くと、物語の中では幼馴染の二人が、昔の約束について話していた。
主人公の青年は、ようやくその約束を思い出しかけている。
けれど、まだ完全には思い出せない。
相手の女性はそれを急かさず、いつも通り隣にいる。
俺はその場面を読みながら、日曜日の雫を思い出した。
展望広場で、彼女は何かを伝えようとしていた。
しかし、結局は言わなかった。
(……雫も、何か大切なことを覚えてるのかな)
俺はしばらく考えた。
けれど、無理に答えを出そうとはしなかった。
いつか、自然に思い出せるかもしれない。
そのときは、雫とちゃんと話してみよう。
俺はそう思いながら、ページをめくった。
物語の中では、主人公が幼馴染の女性へ問いかけていた。
昔の約束を覚えているか、と。
その場面を読み、俺は少しだけ笑った。
「……やっぱり、こういう話は面白いな」
俺は木の葉の栞を机の端へ置き、続きを読み始めた。
同じ頃、雫も自室で春樹から薦めてもらった恋愛小説を読んでいた。
物語の中では、主人公の少女が幼馴染の少年へ気持ちを伝えようとしていた。
けれど、あと一歩のところで言葉が出てこない。
雫はその場面を読みながら、静かに息を吐いた。
(……私も、いつかちゃんと言えるかな)
好きだと伝えたい。
けれど、今の関係が変わってしまうのは怖い。
それでも、少しずつ前へ進みたい。
雫は本を閉じ、木の葉の栞へそっと指を添えた。
昨日、春樹が同じ栞を大切に使っていると教えてくれた。
その小さな事実が、今も胸の奥を温かくしている。
雫は静かに微笑み、もう一度本を開いた。
春樹はまだ、自分の周りでいくつもの恋心が育っていることに気づいていない。
ただ、好きな本を誰かに紹介し、感想を分かち合えることを楽しんでいた。
そして、そんな彼の何気ない言葉が、今日もまた誰かの心へ静かに残っていた。




