第59話 おすすめの本を選んでいるだけなのに、どうして俺の周りで恋愛談義が始まるんだ?
火曜日の朝、俺は机の上に並べた二枚の紙を見比べながら、昨日から続いている小さな悩みに頭を抱えていた。
片方には、読書週間に向けて考えた恋愛小説の紹介文。もう片方には、それを昨夜になって書き直した文章が記されている。
『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』
最初に考えた文章は、これだった。
短くて印象に残るし、恋愛小説の魅力である感情のすれ違いも表現できていると思う。ただ、白石先輩や九条さんからは、本の紹介というより恋愛相談の始まりみたいだと言われてしまった。
そこで昨夜、新しく考えたのが次の文章だ。
『ずっと隣にいた幼馴染が、ある日少しだけ違って見えた。何気ない日常の中で変わっていく二人の気持ちを描いた、優しい恋愛小説。』
「……こっちの方が内容は伝わるんだけどな」
俺は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。
本の紹介というのは、想像していた以上に難しい。
好きな作品について語るだけなら、いくらでも言葉が出てくる。登場人物の魅力、会話の面白さ、何気ない描写に隠された意味、物語の構成。そうしたものを順番に話していけば、たぶん一時間くらいは平気で過ぎてしまう。
しかし、紹介カードに書ける文章は限られている。
しかも、相手はその本をまだ読んでいない人たちだ。
どれほど素晴らしい場面でも、結末を明かしてしまえば楽しみを奪うことになる。逆に、何も説明しなければ興味を持ってもらえない。
(……紹介文を書く人って、普段こんなことを考えてるのか。書店の棚にある短い文章も、改めて見るとすごい仕事なんだな)
土曜日、白石先輩と一緒に訪れた書店のことを思い出す。
あの日、先輩と見て回った棚には、思わず手を伸ばしたくなる紹介文がいくつもあった。今度行くときは、本そのものだけではなく、紹介カードにももっと注目してみよう。
そんなことを考えながら、俺は二枚の紙をノートへ挟んだ。
机の端には、土曜日に購入した恋愛小説が置かれている。
幼い頃に親しかった男女が、大学で再会する物語だ。
主人公の青年は昔の約束を思い出せず、相手の女性はそれを覚えている。二人の会話は穏やかなのに、時折、同じ言葉に込められた意味が食い違っているのが面白い。
昨日も続きを読んでいたのだが、途中で日曜日の出来事を思い出してしまった。
雫と一緒に訪れた展望広場。
昔、お菓子を分け合ったベンチ。
小さかった頃は怖く感じた木の橋。
そして、雫が覚えているという大切な話。
(……あれ、結局何だったんだろうな)
気にならないと言えば嘘になる。
ただ、雫が自分から話そうと思うまでは、無理に聞き出す必要もない気がした。
俺は文庫本を開き、日曜日に買った木の葉の栞が挟まっていることを確かめる。
淡い緑色の栞を見ると、あの展望広場の景色が自然と思い浮かんだ。
「……よし。今日も頑張るか」
本を閉じ、鞄へしまう。
読書週間の準備もあるし、今日は図書室へ行く予定だ。
もちろん、授業もちゃんと受ける。
好きな本のことばかり考えていると九条さんに注意されそうなので、その辺りは気をつけなければならない。
俺は時計を確認し、慌てて部屋を出た。
◇◇◇
通学路の角を曲がると、少し先に雫の姿が見えた。
彼女は歩道の端に立ち、鞄の中を確認している。何かを探しているのかと思って近づくと、俺に気づいた雫が顔を上げた。
「おはよう、春樹。今日はちゃんと時間に余裕があるんだね」
「おはよう。……その言い方だと、普段は余裕がないみたいじゃないか」
「実際、本を読んでいて家を出るのが遅くなること、あるでしょ?」
「……まあ、たまには」
「先週も似たようなこと言ってたよね?」
雫は呆れたように眉を上げた。
俺が反論できずにいると、彼女は楽しそうに笑って歩き出した。
こういう遠慮のないやり取りができるのは、幼馴染ならではなのかもしれない。
「ところで、何か探してたのか?」
「ああ、これ」
雫が鞄から取り出したのは、日曜日に一緒に購入した木の葉の栞だった。
正確には、それが挟まれた文庫本である。
「ちゃんと入ってるか確認してたの。昨日、寝る前にも見たんだけど」
「そんなに気に入ってくれたんだ?」
「うん。だって、春樹が選んでくれたんだもん」
雫はさらりと言ったあと、俺の顔を見た。
「……何?」
「いや、嬉しいなと思って」
素直に答えると、雫は少しだけ視線を逸らした。
「そういうところ、昔から変わらないよね」
「どこが?」
「自分が嬉しいと思ったら、すぐ顔に出るところ」
雫はそう言って笑った。
俺としては、そこまで分かりやすい表情をしているつもりはないのだが。
「雫だって、嬉しいときは分かりやすいぞ」
「えっ、そう?」
「うん。今もそうだし」
雫は一瞬黙り、それから俺の腕を軽く小突いた。
「……そういうの、わざわざ言わなくていいから」
「何で?」
「何でも!」
彼女は少しだけ歩く速度を上げた。
俺は慌てて隣へ並ぶ。
怒っているわけではなさそうだが、何か気に障ることを言ったのだろうか。
そう考えていると、雫の方から話題を変えてきた。
「それより、昨日の紹介文はどうなったの?」
「ああ、少し書き直したよ。今日、白石先輩たちに見てもらおうと思ってる」
「ちゃんと内容が分かるようにした?」
「うん。最初の文章は少し抽象的だったから」
俺が説明すると、雫は満足そうに頷いた。
「それならいいと思う。春樹って、好きな本のことになると、つい相手も全部分かってる前提で話しちゃうことあるから」
「……そんなに?」
「あるよ。前に私がまだ読んでない小説の登場人物について、いきなり『あの場面の判断がすごくいい』って話し始めたこと、覚えてる?」
俺は少し考えた。
そして、思い当たる出来事に苦笑する。
「……あったな」
「私、その登場人物が誰なのかも知らなかったんだから」
「ごめん」
「別に怒ってないよ。楽しそうだったし」
雫は笑いながら続けた。
「でも、紹介カードを見る人も同じだと思う。まだその本のことを何も知らないんだから、最初の一歩を分かりやすくしてあげた方がいいんじゃないかな」
俺は感心した。
「……なるほど。そう考えると、雫の言う通りだな」
「でしょ?」
雫は少し得意そうに笑った。
その表情が何となく懐かしい。
小さい頃から、雫は俺が何かに夢中になりすぎると、こうして現実的な意見をくれることがあった。
俺が本の面白さを話すのを嫌がるわけではない。
ただ、相手に伝わるように話すことの大切さを教えてくれる。
「ありがとう、雫。参考になった」
「どういたしまして。……でも、今度おすすめしてくれるときは、ちゃんと私が読んでないところまで考えてね?」
「善処します」
「そこは約束してよ」
二人で笑いながら歩いていると、学校の校門が見えてきた。
雫はふと思い出したように鞄を軽く叩いた。
「そういえば、春樹に選んでもらった恋愛小説、昨日も少し読んだよ」
「おっ、どうだった?」
「……まだ途中だから、詳しい感想は秘密」
「ええ?」
「春樹だって、私に行き先を秘密にされたとき、ずっと気になってたでしょ?」
「それはそうだけど」
「じゃあ、今度は私の番」
雫はいたずらっぽく笑った。
どうやら、日曜日の仕返しらしい。
俺は苦笑しながら頷いた。
「分かった。読み終わるまで待つよ」
「うん。楽しみにしてて」
そう言って笑う雫は、昨日までより少しだけ機嫌がよさそうだった。
◇◇◇
教室へ入ると、悠斗が紗弥さんと一緒にスマートフォンを眺めていた。
二人の間には週末の展示会の案内画面が表示されており、何やら楽しそうに話している。
「おはよう、悠斗。紗弥さんも」
「おう、おはよう!」
「おはよう、七瀬君」
紗弥さんは柔らかく笑った。
悠斗は俺を手招きすると、画面を見せてきた。
「土曜日の展示会、午後から行くことになったんだ」
「そうなんだ。よかったな」
「うん。午前中は私に用事があるから、午後にしてもらったの」
紗弥さんが説明する。
悠斗は少し照れたように笑った。
「展示を見たあと、近くの喫茶店にも寄ろうかなって話してる」
「いいじゃん。感想もゆっくり話せそうだし」
俺が答えると、紗弥さんは嬉しそうに頷いた。
「そうなの。高坂君、展示の内容もいろいろ調べてくれてて」
「いや、そんな大したことじゃないって」
悠斗は慌てて手を振った。
その様子を見て、俺は少し感心した。
悠斗は普段から気配りができる友人だが、紗弥さんと出かけることになると、いつも以上に丁寧に予定を考えているようだ。
「楽しんできてくれよ。俺も展示の話、聞きたいし」
「任せとけ!」
悠斗は胸を張った。
すると、紗弥さんが笑いながら口を挟んだ。
「高坂君、そんなに気合い入れなくても大丈夫だよ。私も楽しみにしてるんだから」
「……お、おう」
悠斗は少しだけ耳を赤くした。
俺はそのやり取りを見ながら、二人とも展示会が楽しみなのだろうと思った。
そのあと、悠斗が俺のノートへ目を向けた。
「そういや春樹、昨日の紹介文どうなった?」
「ああ、書き直したよ」
「見せて」
俺がノートを開くと、悠斗は二つの文章を読み比べた。
そして、妙に納得したように頷いた。
「……ああ、こっちの方が普通に紹介文だな」
「やっぱり?」
「最初のやつは、ちょっと恋愛相談っぽかったし」
悠斗がそう言うと、紗弥さんも興味深そうに覗き込んできた。
「どれ?」
彼女は最初の文章を読んだあと、少し考えるように目を細めた。
「……私は、こっちも好きだけどな」
「本当ですか?」
「うん。誰かの気持ちって、近くにいても分からないことがあるでしょう? そういう話なのかなって思うと、気になる」
紗弥さんはそう言いながら、ちらりと悠斗へ視線を向けた。
悠斗は何かに気づいたように口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
俺はそのやり取りを見て、なるほどと頷いた。
「だったら、最初の問いかけを見出しにして、下に説明を入れるのもよさそうですね」
「うん。それなら分かりやすいと思う」
紗弥さんは笑った。
悠斗は俺の肩を軽く叩いた。
「……春樹、お前はそのままでいてくれ」
「何だよ、急に」
「いや。何でもない」
悠斗は苦笑しながら席へ戻っていった。
俺は首を傾げたが、予鈴が鳴ったため、それ以上考えるのをやめた。
◇◇◇
昼休み、俺は二冊の本とノートを持って図書室へ向かった。
昨日に引き続き、読書週間の紹介カードについて相談する予定になっている。
図書室へ入ると、白石先輩が入口近くの机で作業していた。
机の上には色紙や紹介カードの見本が並び、先輩はそれぞれの大きさを確認しているようだった。
「こんにちは、白石先輩」
声をかけると、先輩は顔を上げた。
「あら、七瀬君。こんにちは」
先輩は俺の鞄へ視線を向け、少し楽しそうに笑った。
「今日は本が多そうですね」
「分かります?」
「鞄の形が、いつもより少し四角くなっていますから」
俺は思わず鞄を見下ろした。
確かに、二冊の文庫本とノートを入れているせいか、少し膨らんでいる。
「……よく見てますね」
「図書委員ですから」
先輩は冗談めかして答えた。
そして、俺の手元のノートへ視線を移す。
「紹介文、考えてきてくれたんですか?」
「はい。昨日の文章を少し直してみました」
「それは楽しみです。見せてもらってもいいですか?」
俺はノートを開き、二つの文章を見せた。
先輩はすぐに感想を言わず、しばらく真剣に読み比べていた。
そのあと、最初の文章を指さす。
「こちらは、やっぱり印象に残りますね」
「そうなんですよ。俺も捨てがたくて」
「でも、書き直した方は内容が分かりやすいです。……七瀬君、二つを組み合わせてみませんか?」
俺は顔を上げた。
「組み合わせる?」
「はい。最初の文章を大きく見せて、その下に作品の説明を置くんです。そうすれば、興味を引きながら内容も伝えられます」
先輩は紹介カードの見本を一枚取り、実際に配置を考え始めた。
俺も隣から覗き込む。
「……ああ、なるほど。これなら両方使えますね」
「ええ。せっかく考えてくれた文章ですから」
先輩は微笑んだ。
その言葉が嬉しくて、俺も自然に笑ってしまった。
「ありがとうございます。白石先輩に相談してよかったです」
すると、先輩は少しだけ目を細めた。
「……そう言ってもらえると、私も嬉しいです」
穏やかな返事だった。
ただ、そのあと先輩は俺のノートを指で軽く叩いた。
「でも、七瀬君」
「はい?」
「この文章、書いているときに誰かの顔を思い浮かべたりしました?」
俺は少し考えた。
「……登場人物のことは考えてましたけど」
「ふふ。そうですよね」
先輩はなぜか納得したように笑った。
「何か変でした?」
「いいえ。七瀬君らしいなと思っただけです」
その言い方が少し気になったが、先輩はすぐに紹介カードの配置へ話を戻した。
俺も作業に集中する。
しばらくして、九条さんが資料を持ってやってきた。
「白石先輩、七瀬君。こんにちは」
「こんにちは、九条さん」
俺が挨拶すると、彼女は机の上を見た。
「……もう始めていたのね」
「うん。紹介文の配置を相談してたところ」
「そう。では、私も確認させてもらうわ」
九条さんは資料を置き、ノートを手に取った。
最初の文章を読んだあと、書き直した文章へ視線を移す。
そして、少しだけ頷いた。
「……昨日より分かりやすくなっているわね」
「本当?」
「ええ。ただ、見出しだけだと内容が分からないから、説明文と組み合わせる方がいいと思う」
俺は嬉しくなった。
「白石先輩とも、ちょうどそう話してたんだ」
「それならよかったわ」
九条さんはそう答え、すぐに資料を広げた。
「それと、展示の配置について確認したいことがあるの。入口近くに置く予定の棚だけれど、通路の幅は十分に確保できそう?」
白石先輩が頷いた。
「はい。図書委員会でも確認しました。少し奥へ寄せれば問題なさそうです」
「ありがとう。あとは、紹介カードが棚からはみ出さないようにしたいわね」
九条さんは具体的な確認事項を一つずつ挙げていく。
彼女は本の内容についても意見をくれるが、それ以上に、実際に展示したときの安全性や使いやすさを気にしているようだった。
俺はその様子を見ながら、少し感心した。
(……九条さんって、こういうところ本当にしっかりしてるよな)
俺が思いつきで話したことも、彼女は実際にできるかどうかまで考えてくれる。
それは、自分には少し足りない視点だった。
「九条さん、ありがとう。俺、紹介文のことばっかり考えてたから助かるよ」
そう言うと、九条さんは一瞬だけ動きを止めた。
しかし、すぐに資料へ視線を戻した。
「……当然の確認をしているだけよ。七瀬君は、文章の方をしっかり考えてくれればいいわ」
「うん。頑張る」
「それと、頑張りすぎて授業中に寝ないこと」
「……そこまで心配されてる?」
「あなたの場合、十分あり得るでしょう」
九条さんは真顔で答えた。
白石先輩が小さく笑う。
俺は反論しようとして、昨日少し夜更かししたことを思い出した。
「……気をつけます」
「それでよろしい」
九条さんは満足そうに頷いた。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
◇◇◇
紹介カードの配置について一通り確認したあと、俺は持参した短編集を机の上へ置いた。
「それと、もう一冊候補を持ってきたんです」
白石先輩が表紙へ目を向ける。
「日常ものの短編集ですね」
「はい。一話ごとに区切りがあるので、普段あまり本を読まない人にも入りやすいかなって」
俺は目次を開き、収録されている話を簡単に説明した。
駅前の花屋で働く青年の話。
雨の日に忘れ物を届ける少女の話。
古い喫茶店を訪れる人々の話。
どれも大きな事件は起きないが、読み終えたあとに少しだけ気持ちが温かくなる。
「……なるほど。短い時間でも読みやすそうですね」
白石先輩は興味深そうに本を眺めた。
九条さんも頷く。
「読書に慣れていない生徒には、こういう本の方が手に取りやすいかもしれないわね」
「そう思って持ってきたんだ」
俺は嬉しくなり、ノートを開いた。
「紹介文も考えてみたんだけど」
『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』
白石先輩はその一文を読み、ゆっくり頷いた。
「……いいですね。作品の雰囲気が伝わります」
「本当ですか?」
「はい。恋愛小説の紹介文とは違って、静かな印象があります」
九条さんも文章を確認した。
「こちらは短くて分かりやすいわね。……ただ、展示する本の最終決定は、ほかの候補と合わせて確認してからになるけれど」
「うん。それで大丈夫」
俺が頷くと、九条さんは資料へ候補として書き込んだ。
白石先輩は本を手に取り、少しだけページをめくった。
「七瀬君、この本は自分で持っているものですか?」
「はい。以前買ったものです」
「そうなんですね。図書室にも所蔵があるか、あとで確認してみます」
「あっ、そうか。展示するなら図書室にあるかも大事ですよね」
俺は思わず頷いた。
自分の好きな本を薦めることばかり考えていたが、実際に借りてもらうなら所蔵状況も確認しなければならない。
白石先輩はそんな俺を見て、少し楽しそうに笑った。
「七瀬君は、本を選ぶところを担当してください。図書室のことは、私たちも一緒に考えますから」
「ありがとうございます」
俺は素直に頭を下げた。
すると、先輩は少しだけ声を落とした。
「……でも、無理はしないでくださいね」
「はい?」
「七瀬君が自分の読書時間を楽しめなくなったら、本末転倒ですから」
俺は少し驚いた。
土曜日の書店巡りでも、先輩は似たようなことを言ってくれた。
自分が本を読む時間も大切にしてほしい、と。
「……大丈夫です。今のところ、すごく楽しいので」
そう答えると、先輩は安心したように微笑んだ。
「それならよかったです」
そのあと、先輩はふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、七瀬君から借りている古書店のミステリー、もう少しで読み終わりそうです」
「本当ですか?」
「はい。最後の方で、最初に出てきた何気ない会話の意味が変わってくるのが面白くて」
俺は思わず身を乗り出した。
「分かります! あの作品、序盤の会話がすごく上手いんですよね」
「ふふ。詳しい感想は、読み終わってからにしましょう」
先輩は少し意地悪そうに笑った。
「今ここで話し始めたら、読書週間の準備が止まってしまいそうですから」
「……確かに」
俺は苦笑した。
白石先輩は穏やかな人だが、こうして時々、こちらの反応を楽しむような言い方をする。
その自然な距離感が、最近は少し心地よく感じられるようになっていた。
◇◇◇
昼休みの終わりが近づいた頃、図書室の入口から聞き慣れた声がした。
「……あら、七瀬君。今日も熱心ね」
振り返ると、一ノ瀬怜華先輩が立っていた。
手には一冊の文庫本がある。
以前、俺が貸した『雨上がりの交差点で』だった。
「一ノ瀬先輩、こんにちは」
「こんにちは。読書週間の準備かしら?」
「はい。紹介カードの文章を考えてました」
怜華先輩は机の上へ視線を向けた。
そして、恋愛小説の紹介文を見つけると、少しだけ目を細めた。
「……ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?」
先輩はその一文を静かに読み上げた。
俺は頷いた。
「恋愛小説の紹介文です。ちょっと意味深かなと思ったんですけど」
「ふふ。なかなか大胆な問いかけね」
怜華先輩は楽しそうに笑った。
「七瀬君らしいと言えば、七瀬君らしいけれど」
「そうですか?」
「ええ。……ところで、七瀬君自身はどうなの?」
俺は首を傾げた。
「何がですか?」
「ずっと隣にいる人の気持ちを、どれくらい分かっていると思う?」
先輩は穏やかな笑みを浮かべていた。
けれど、その目は少しだけ楽しそうだった。
何となく、試されているような気がする。
俺は真面目に考えた。
雫とは幼い頃から一緒にいる。
好きな食べ物も、苦手なことも、機嫌がいいときの表情も、それなりに分かるつもりだ。
ただ、日曜日に彼女が話しかけようとしていた内容は、まだ分からない。
そう考えると、長く一緒にいるからといって、何でも知っているわけではないのだろう。
「……全部は分からないと思います」
俺は正直に答えた。
「仲がよくても、相手が何を考えてるかは聞かないと分からないこともありますし。だから、ちゃんと話すことが大事なんじゃないかなって」
怜華先輩は少しだけ目を見開いた。
そして、口元へ指を添えた。
「……なるほど。思っていたより、ずっと真面目な答えが返ってきたわね」
「えっ、変でした?」
「いいえ。むしろ、少し感心したところよ」
先輩は楽しそうに笑った。
「七瀬君は、恋愛小説の主人公よりも難しいことを言うのね」
「……そうですか?」
「ええ。少なくとも、自分が何も分かっていない可能性を認められるのは、大切なことだと思うわ」
俺は少し照れくさくなった。
何となく褒められたような気がする。
すると、怜華先輩は少しだけ身を乗り出した。
「……でも、七瀬君」
「はい?」
「誰かがあなたに何かを伝えようとしていたら、ちゃんと聞いてあげてね」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
日曜日の雫のことが頭に浮かぶ。
「……はい。そうしたいと思ってます」
怜華先輩は俺の顔を見つめ、それから柔らかく笑った。
「それなら安心ね」
彼女はそれ以上追及せず、手に持っていた文庫本へ視線を落とした。
「それと、借りている本だけれど、もう少しで読み終わりそうなの」
「『雨上がりの交差点で』ですか?」
「ええ。視点が変わるたびに、同じ出来事の意味が違って見えるところが面白いわ」
怜華先輩は表紙を軽く撫でた。
「読み終わったら、ぜひ感想を聞いてほしいのだけれど」
「もちろんです。楽しみにしてます」
俺が答えると、先輩は満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。それじゃあ、今日はこの辺りで。……あまり働きすぎないようにね」
そう言って軽く手を振り、図書室の奥へ向かった。
俺はその背中を見送りながら、少し感心していた。
(……一ノ瀬先輩って、やっぱり話し方が上手いな。何か聞かれてるうちに、自分でも考えてなかったことまで考えちゃう)
そのとき、九条さんが小さく咳払いをした。
「七瀬君。そろそろ昼休みが終わるわ」
「あっ、もうそんな時間?」
「ええ。紹介文の続きは、また明日にしましょう」
俺は時計を確認し、慌ててノートを閉じた。
白石先輩が笑いながら言う。
「ふふ。七瀬君、今日はちゃんと時間を見て戻ってくださいね」
「……はい。気をつけます」
俺は二人へ挨拶し、図書室を出た。
◇◇◇
午後の授業を終え、放課後になった。
俺は教室でノートを整理していた。
窓の外では運動部の生徒たちがグラウンドへ向かい、廊下には帰宅する生徒たちの声が響いている。
読書週間の準備は、まだ始まったばかりだ。
それでも、紹介カードの方向性が少しずつ見えてきた。
俺はノートを眺めながら、何となく満足していた。
そのとき、雫が隣へやってきた。
「春樹、今日の打ち合わせどうだった?」
「うん。紹介文の方向性が少し決まったよ」
「へえ。見せて」
俺がノートを開くと、雫は隣の椅子へ腰を下ろした。
恋愛小説の紹介文を読んだあと、短編集の文章へ視線を移す。
『何でもない一日が、少しだけ好きになる。』
雫はその一文を読み、少し考えた。
「……こっち、いいね」
「本当?」
「うん。読んだあとにどんな気持ちになる本なのか、想像しやすい」
俺は嬉しくなった。
「白石先輩たちにも、同じようなこと言ってもらえた」
「よかったじゃん」
雫は笑った。
そして、ノートをもう一度眺める。
「……ねえ、春樹」
「何?」
「紹介する本って、ジャンル別じゃなくて、読む人の気分に合わせて選べるようにしても面白いんじゃない?」
俺は顔を上げた。
「気分?」
「うん。例えば、元気になりたいときとか、少し泣きたいときとか、何も考えずに笑いたいときとか」
雫は指を折りながら続けた。
「そういう分け方なら、普段あまり本を読まない人でも、自分に合うものを探しやすいと思うんだ」
俺は思わず目を輝かせた。
「……それ、すごくいい!」
雫は少し驚いたように瞬きした。
「そんなに?」
「うん。ジャンルだけで分けると、興味のない棚は見てもらえないかもしれないけど、気分別なら普段読まないジャンルにも手を伸ばしてもらえそうだ」
俺は早速ノートへ書き込んだ。
元気になりたいとき。
落ち着きたいとき。
誰かと話したくなる本。
少しだけ勇気が欲しいとき。
思いつくままに書いていくと、雫が横から覗き込んだ。
「……春樹、ちょっと待って」
「ん?」
「そんなに一気に増やしたら、また全部やろうとするでしょ?」
俺はペンを止めた。
「……そうかな」
「そうだよ。まずは候補として出して、できるかどうか相談してからにしよう?」
雫は呆れたように笑った。
俺は少し考え、素直に頷いた。
「……確かに。展示スペースにも限りがあるしな」
「でしょ?」
雫は満足そうに頷いた。
こういうところが、本当に頼りになる。
「ありがとう、雫。明日、白石先輩たちに相談してみる」
「うん。役に立てたならよかった」
俺はノートを閉じかけて、ふと思い出した。
「そうだ。雫にも、候補の本を何冊か読んでもらえたら嬉しいんだけど」
「もちろん。どんな本?」
「今日持ってきた短編集とか、前に話した学校が舞台の青春小説とか」
雫は少し考えた。
「……じゃあ、まずは短編集がいいかな」
「分かった。今持ってるから貸せるよ」
俺は鞄から本を取り出した。
しかし、渡そうとして手を止める。
「……あ、でも今、俺が選んだ恋愛小説を読んでる途中だよな」
「うん」
「だったら、読み終わってからでもいいよ。無理に二冊並行して読まなくても」
雫は少しだけ目を細めた。
そして、俺の手元の本を見ながら言った。
「……じゃあ、読み終わったら借りるね」
「うん。そうしよう」
俺は本を鞄へ戻した。
すると、雫が少しだけ笑った。
「春樹って、本を薦めるときはすごく積極的なのに、読むのを急かしたりはしないよね」
「そりゃ、読むのは自分のペースが一番だからな」
「……そういうところ、好きだよ」
俺は顔を上げた。
「ありがとう。俺も、雫がちゃんと自分のペースで読んでくれるの嬉しいよ」
雫は一瞬だけ黙った。
そして、軽く額を押さえた。
「……春樹」
「何?」
「……ううん。今のは私の負け」
「何の勝負?」
「春樹にはまだ早い話」
雫はそう言って立ち上がった。
俺はますます分からなくなった。
◇◇◇
帰り道、俺と雫は読書週間の展示について話しながら歩いていた。
雫の提案した気分別の紹介方法は、かなり面白いと思う。
元気になりたいときに読む本。
落ち着きたいときに読む本。
誰かと話したくなる本。
少しだけ勇気が欲しいときに読む本。
そんなふうに分ければ、普段あまり本を読まない人にも興味を持ってもらえるかもしれない。
「……でも、春樹」
雫が口を開いた。
「恋愛小説はどこに入れるの?」
俺は少し考えた。
「やっぱり、ドキドキしたいときとか?」
「分かりやすいね」
雫は笑った。
「でも、それだけじゃないんだよな。恋愛小説って、切ない話もあるし、読んだあとに温かい気持ちになる話もあるし」
俺は少しだけ真剣になった。
「誰かを好きになることで、自分の知らなかった気持ちに気づく話もあるだろ? そういうの、俺はすごく面白いと思う」
雫はしばらく黙っていた。
そして、何か思いついたように俺へ顔を向けた。
「……じゃあ、春樹に質問」
「何?」
「恋愛小説の主人公って、どうして自分の気持ちに気づくのが遅いんだと思う?」
俺は少し考えた。
「うーん。いろいろ理由はあると思うけど……今までの関係が当たり前になってるからじゃないかな」
「当たり前?」
「うん。ずっと友達だった相手を、急に恋愛対象として見るのって難しいこともあるだろうし。自分の気持ちが変わってても、それに名前をつけるのは簡単じゃないのかも」
雫は静かに頷いた。
「……なるほどね」
「でも、そういう変化が丁寧に描かれてると面白いんだよな。読者は先に気づいてるのに、本人だけ分かってないとか」
俺が笑うと、雫はじっとこちらを見た。
そして、深く息を吐いた。
「……春樹ってさ」
「ん?」
「自分がそういう主人公になったら、絶対最後まで気づかないタイプだよね」
俺は思わず笑った。
「いやいや、さすがにそれはないだろ」
「……本当に?」
「本当だって。俺、恋愛小説は結構読んでるし」
雫は数秒ほど黙った。
そして、とうとう吹き出した。
「……もう、春樹ってば!」
「何だよ?」
「何でもない! でも、今の発言は覚えておくからね」
雫は楽しそうに笑いながら歩き出した。
俺は首を傾げた。
恋愛小説をたくさん読んでいることと、現実の恋愛に気づけるかどうかは別なのだろうか。
……いや、考えてみれば別かもしれない。
小説なら登場人物の心情が文章で描かれているが、現実ではそうはいかない。
そう思い直したところで、雫が振り返った。
「春樹、置いていくよ?」
「あっ、待って」
俺は慌てて隣へ並んだ。
雫はまだ笑っていた。
何がそんなに面白かったのかは分からないが、楽しそうなのでまあいいかと思った。
やがて、いつもの分かれ道へ到着する。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日、春樹」
雫は手を振った。
俺も振り返し、帰り道を歩き始めた。
その背中を見送りながら、雫は小さく笑った。
(……本当に、春樹は春樹だなあ)
呆れることもある。
もどかしくなることもある。
けれど、そういうところも含めて好きなのだから、仕方がない。
雫は鞄の中にある文庫本へそっと手を添えた。
今夜も続きを読もう。
そして、いつか春樹と感想を話すときには、少しだけ自分の気持ちも伝えられたらいい。
そんなことを考えながら、彼女は家へ向かった。
◇◇◇
その日の夜、俺は自室で読書週間のノートを開いていた。
今日の話し合いで出た意見を整理し、紹介カードの文章を少しずつ書き直していく。
恋愛小説の紹介文。
短編集の紹介文。
そして、雫が提案してくれた気分別の展示方法。
どれも、昨日までにはなかった新しい考え方だった。
(……やっぱり、一人で考えるより、誰かと話した方が面白いな)
俺はペンを置き、少しだけ笑った。
そのとき、スマートフォンが小さく震えた。
画面には、白石先輩からのメッセージが表示されていた。
『今日はありがとうございました。短編集の紹介文、とても素敵でした。明日、ほかの図書委員にも見てもらおうと思います』
俺は嬉しくなり、すぐに返信した。
『こちらこそありがとうございました。まだ仮の文章ですけど、役に立てたなら嬉しいです。明日もよろしくお願いします』
少しして、先輩から返事が届いた。
『はい。七瀬君と一緒に考えられるの、楽しみにしています』
俺はその文章を読み、自然に笑みを浮かべた。
(……白石先輩、本当に本が好きなんだな。土曜日も楽しかったし、また一緒に書店へ行けたらいいな)
そう考えていると、今度は別の通知が届いた。
九条さんからだった。
『今日の紹介文の案、ありがとう。安全な読書マナーの掲示についても、明日少し相談したいことがあります。時間があればお願いします』
俺は頷きながら返信した。
『もちろん。明日、時間を見て図書室に行くよ』
すぐに返事が届いた。
『ありがとう。無理のない範囲で大丈夫だから』
俺は少しだけ目を細めた。
九条さんは真面目で厳しいところもあるが、こういう気遣いも忘れない。
最初に歩き読書を注意されたときは、少し怖い人なのかと思っていた。
しかし、今ではその印象も変わっている。
(……九条さんも、ちゃんと周りのこと考えてるんだよな)
俺はスマートフォンを置き、ノートへ視線を戻した。
すると、また通知が届いた。
今度は雫からだった。
『春樹、今日はちゃんと本読む時間ある?』
俺は少し笑った。
『あるよ。読書週間のノートも、だいたい整理できた』
『よかった。あんまり頑張りすぎないでね』
『ありがとう。雫の案、明日相談してみるよ』
少しして、返信が届いた。
『うん。採用されたら教えてね。でも、全部一人でやろうとしちゃだめだよ?』
俺は思わず苦笑した。
『分かってるって』
『本当かなあ?』
『本当です』
『じゃあ信じてあげる。おやすみ、春樹』
『おやすみ』
俺はスマートフォンを机の端へ置いた。
今日一日で、随分たくさんの人と本の話をした気がする。
それぞれ違う考え方があり、違う感想がある。
その違いが、俺には面白かった。
俺はノートを閉じ、机の上に置いていた恋愛小説を手に取った。
ページを開くと、昨日から続いていた幼馴染の二人の物語が、少しずつ核心へ近づいていた。
主人公の青年は、昔の約束を思い出しかけている。
けれど、まだ完全には思い出せない。
相手の女性はそれを急かさず、いつも通り隣にいる。
俺はその場面を読みながら、日曜日の雫を思い出した。
展望広場で、彼女は何かを伝えようとしていた。
しかし、結局は言わなかった。
(……雫も、何か大切なことを覚えてるのかな)
俺はしばらく考えた。
けれど、無理に答えを出そうとはしなかった。
いつか、自然に思い出せるかもしれない。
そのときは、雫とちゃんと話してみよう。
俺はそう思いながら、ページをめくった。
物語の中では、主人公が幼馴染の女性へ問いかけていた。
昔の約束を覚えているか、と。
その場面を読み、俺は少しだけ笑った。
「……やっぱり、こういう話は面白いな」
俺は木の葉の栞を机の端へ置き、続きを読み始めた。
同じ頃、雫も自室で春樹から薦めてもらった恋愛小説を読んでいた。
物語の中では、主人公の少女が幼馴染の少年へ気持ちを伝えようとしていた。
けれど、あと一歩のところで言葉が出てこない。
雫はその場面を読みながら、静かに息を吐いた。
(……私も、いつかちゃんと言えるかな)
好きだと伝えたい。
けれど、今の関係が変わってしまうのは怖い。
それでも、少しずつ前へ進みたい。
雫は本を閉じ、木の葉の栞へそっと指を添えた。
昨日、春樹が同じ栞を大切に使っていると教えてくれた。
その小さな事実が、今も胸の奥を温かくしている。
雫は静かに微笑み、もう一度本を開いた。
春樹はまだ、自分の周りでいくつもの恋心が育っていることに気づいていない。
ただ、好きな本を誰かに紹介し、感想を分かち合えることを楽しんでいた。
そして、そんな彼の何気ない言葉が、今日もまた誰かの心へ静かに残っていた。




