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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第58話 読書週間の準備をするだけなのに、どうして俺のおすすめが恋愛相談みたいになるんだ?


 月曜日の朝、七瀬春樹は通学路を歩きながら、昨日購入した栞のことを考えていた。


 正確には、栞そのものではなく、それを買ったときの西条雫の表情が頭に残っていた。


 淡い緑色に木の葉が描かれた栞を二枚選び、一枚を雫へ渡したとき、彼女は少し驚いたあと、随分と嬉しそうに笑ってくれた。先週の書店巡りで買った三日月の栞も気に入っているが、昨日の栞にはまた別の思い出がある。


(……同じ栞を使ってるって、何か面白いな。今度、雫がどの本に挟んだのか聞いてみよう)


 春樹は鞄の肩紐を直し、横断歩道の信号が青に変わるのを待った。


 昨日は雫と、幼い頃に訪れた展望広場へ出かけた。木製のベンチで焼き菓子を分け合い、小さな橋を渡り、昔のことを話した。最後には、また二人で出かけようと約束している。


 ただ、一つだけ気になっていることがあった。


 雫が展望広場で口にした、昔の大切な話についてだ。


 春樹はその内容を思い出せなかったし、雫も結局、詳しくは教えてくれなかった。聞き直すこともできたのだが、彼女があのとき浮かべた表情を見ると、急いで答えを求めるのは違う気がした。


(……いつか思い出せるかな。無理に聞くより、何かの拍子に思い出す方がいいのかもしれない)


 信号が青になり、春樹は歩き出した。


 朝の空気には少し冷たさが混じっていたが、日差しは穏やかだった。制服姿の生徒たちが同じ方向へ歩き、学校へ近づくにつれて、通学路は少しずつ賑やかになっていく。


 校門をくぐったところで、春樹は見覚えのある後ろ姿を見つけた。


「雫、おはよう」


 声をかけると、雫が振り返った。


 彼女は春樹を見つけた途端、ぱっと表情を明るくした。


「春樹、おはよう! 今日は少し早いんだね」


「昨日、早めに寝たからかな。雫も早いな」


「うん。今日は朝からちょっと楽しみなことがあったから」


 雫はそう言って、少しだけ照れたように笑った。


 春樹は首を傾げた。


「楽しみなこと?」


「……春樹に会って、昨日の話をすること」


 雫は一瞬迷ったあと、そう答えた。


 春樹は目を瞬かせ、それから嬉しそうに笑った。


「それなら俺も同じだ。昨日、帰ってからも結構いろいろ思い出してたんだよ」


「本当?」


「うん。小さい頃の雫、橋を渡るときすごく慎重だったなって」


 雫は途端に頬を膨らませた。


「もう、春樹。せっかくいい話をしてたのに、どうしてそこを思い出すの?」


「いや、あの橋、昔は本当に大きく見えたんだなって思ってさ。昨日渡ったら、意外と短かったから」


 春樹が笑うと、雫も結局つられて笑ってしまった。


 二人は昇降口へ向かいながら、昨日の景色について話した。展望広場から見えた町並みや、帰りに寄った洋食屋、商店街の小さな文具店。どの話題も昨日一度話しているはずなのに、学校へ向かう朝の道で振り返ると、また違った楽しさがあった。


 靴を履き替えたところで、雫がふと思い出したように言った。


「そうだ、春樹。昨日の栞、どの本に使った?」


「幼馴染が再会する恋愛小説。土曜日に買ったやつだよ」


 雫の手が、上履きを入れた靴箱の前で止まった。


「……幼馴染の恋愛小説?」


「うん。大学で再会した二人が、昔の約束を少しずつ思い出していく話なんだ。まだ途中だけど、会話の間に昔の記憶が挟まる構成が上手くてさ」


 春樹は本の内容を説明しながら、自然に顔をほころばせた。


 雫はその横顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……そっか。春樹らしい選び方だね」


「雫は?」


「私は、春樹に選んでもらった恋愛小説に挟んだよ。まだ読み終わってないけど、昨日少し進めたんだ」


「本当? 感想、楽しみにしてる」


 春樹がそう言うと、雫は柔らかく微笑んだ。


「うん。読み終わったら、ちゃんと話すね」


 二人が教室へ入ると、窓際の席では高坂悠斗がスマートフォンを眺めながら、何やら難しい顔をしていた。


 春樹が鞄を置くと、悠斗はすぐに顔を上げた。


「春樹、ちょうどよかった。ちょっと相談がある」


「おはよう、悠斗。相談って、また本のこと?」


「いや、本も関係あるけど……それより先に、お前、昨日どうだった?」


 春樹は少し考えた。


「昨日? 雫と出かけてきたよ。昔行った展望広場に連れていってもらった」


 悠斗は春樹と、その隣に立っている雫を交互に見た。


「……なるほど。二人で思い出の場所へ、ね」


「うん。景色がよかったし、昔のことも結構思い出せた」


 春樹が素直に答えると、悠斗は口元を押さえた。


「……お前、そういうところだぞ」


「何が?」


「いや、いい。もう慣れた」


 悠斗は深く追及せず、代わりにスマートフォンを机へ伏せた。


 雫は少し赤くなった頬を隠すように、自分の席へ向かった。


 春樹はその様子を見送りながら、不思議そうに首を傾げた。


(……何か変なこと言ったかな)


 しかし、悠斗はすでに別の話題へ移っていた。


「で、相談なんだけどさ。今週末の展示会、紗弥と行くことになりそうなんだ」


 春樹は顔を上げた。


「前に話してた、昔の小説の挿絵とか映画の資料が見られるやつ?」


「そう、それ。まだ細かい時間は決めてないけど、土曜日なら二人とも空いてそうでさ」


 悠斗は少し照れたように笑った。


「ただ、展示を見たあと、何話せばいいかなって考えてたら、昨日の夜からずっと気になって」


 春樹は真面目に考えた。


「普通に感想を話せばいいんじゃないか? 紗弥さんも原作と映画の違いに興味あるんだろ?」


「それはそうなんだけど、俺、好きな作品の話になると結構しゃべっちゃうからさ。相手が退屈しないか心配で」


 春樹は少し驚いた。


 悠斗は普段、明るくて話し上手な友人だ。けれど、紗弥のことになると、いつもより慎重になるらしい。


「だったら、自分の感想を言う前に、紗弥さんがどこを面白いと思ったか聞いてみたら? それなら同じ作品でも違う見方ができるし」


 悠斗は目を丸くした。


「……お前、そういう助言は本当に上手いよな」


「そうか? 本の感想を話すとき、普通にやってることだけど」


「それができるからすごいんだよ。俺なんて、好きな場面が出てくるとつい説明したくなるし」


 悠斗は少し考え、スマートフォンへ目を向けた。


「よし。まずは展示会の時間をちゃんと決めてからだな。紗弥にも聞いてみる」


「うん。楽しめるといいな」


 春樹が笑うと、悠斗も少し安心したように笑った。


 その直後、予鈴が鳴った。


 教室のあちこちで椅子を引く音が響き、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。


 春樹も教科書を取り出したが、鞄の中にある一冊のノートを思い出した。


 読書週間のおすすめ本について、考えをまとめたノートだった。


(……そういえば、今日から読書週間の準備が本格的に始まるんだったな)


 春樹は少しだけ笑った。


 本を紹介するのは嫌いではない。


 むしろ、誰かが新しい本と出会うきっかけになるなら、嬉しいと思っている。


 ただし、以前から少しだけ気になっていることもあった。


 自分が本の話をすると、なぜか周囲が妙な方向へ盛り上がることがあるのだ。


(……今回は普通に本を紹介するだけだし、大丈夫だろ)


 春樹はそう考え、ノートを机の奥へしまった。


 その予想が甘かったと気づくのは、もう少しあとのことだった。


     ◇◇◇


 二時間目が終わった休み時間、春樹の席へ九条凛がやってきた。


 いつも通り背筋を伸ばし、手には薄い資料の束を持っている。


「七瀬君、少し時間をもらってもいいかしら」


「九条さん。うん、大丈夫だよ」


 春樹が答えると、凛は資料を一枚差し出した。


「読書週間の件で、図書委員会と風紀委員会の間で確認した内容をまとめたの。昼休みに短い打ち合わせをする予定だから、可能なら参加してほしいのだけれど」


 春樹は資料を受け取った。


 そこには、図書室のおすすめ本展示、昼休みの紹介企画、校内での安全な読書マナーについての案内などが記されていた。


「……思ってたより、いろいろあるんだな」


「そうね。ただ、全部を一人で担当するわけではないわ。展示は図書委員会が中心で進めるし、安全面の案内は私たちが受け持つ予定よ」


 凛は少しだけ表情を和らげた。


「七瀬君には、読書が好きな生徒の立場から意見を聞きたいの。無理に大きな役割をお願いするつもりはないわ」


 春樹は資料へ視線を落とした。


 以前、凛から協力を頼まれたときは、読書時間が減ることを少し心配していた。


 しかし、今は少し考えが変わっている。


 雫が手伝うと言ってくれたこともあるし、何より、自分が好きな本を誰かに知ってもらえるのは楽しそうだった。


「分かった。昼休み、行くよ」


 春樹が答えると、凛は少し驚いたように目を瞬かせた。


「……いいの?」


「うん。できる範囲でなら協力したい。おすすめ本を考えるのも好きだし」


 凛は小さく息を吐き、柔らかく微笑んだ。


「ありがとう。助かるわ」


 その表情は、普段のきりっとした雰囲気とは少し違っていた。


 春樹は何となく嬉しくなり、笑い返した。


「こちらこそ。よろしく」


 凛は頷いたあと、ふと思い出したように続けた。


「それから、もう一つ確認しておきたいことがあるの」


「何?」


「読書週間だからといって、廊下を歩きながら本を読む生徒が増えては困るわ。おすすめの紹介でも、そこは意識してもらえると助かる」


 春樹は思わず苦笑した。


「……それ、俺への注意も入ってる?」


「もちろんよ」


 凛は即答した。


 しかし、その口元にはわずかな笑みがあった。


「七瀬君が以前より気をつけていることは知っているわ。でも、本が面白くなると周りが見えなくなるのも事実でしょう?」


「……否定できない」


 春樹が素直に認めると、凛は小さく笑った。


「だったら、今度はその経験を役立てて。読書を楽しむことと、安全に過ごすことは両立できるはずだから」


 春樹は頷いた。


「うん。ちゃんと考えてみるよ」


 凛は満足そうに頷き、資料を抱え直した。


「それじゃあ、昼休みに図書室で」


 彼女が去ったあと、春樹は改めて資料を眺めた。


 読書週間。


 図書室の展示。


 おすすめ本の紹介。


 そして、安全な読書マナー。


 それぞれ別のことのようで、実は全部繋がっているのかもしれない。


(……せっかくなら、読書に興味がない人でも立ち寄りたくなる展示にしたいな)


 春樹はノートを開き、思いついたことを書き始めた。


 しかし、その様子を少し離れた席から見ていた雫は、別のことを考えていた。


 昨日は二人だけで過ごした一日だった。


 今日はまた、学校でいつもの日常が始まっている。


 それでも、春樹が楽しそうに本のことを考えている姿を見ると、雫は自然に嬉しくなった。


(……春樹、やっぱり本の話になると楽しそう)


 その表情を、できればもっと多くの人にも知ってほしい。


 そう思う一方で、自分だけが知っている春樹の表情も、少しだけ大切にしていたかった。


 雫はそんな自分の気持ちに小さく苦笑し、机の上の教科書へ視線を戻した。


     ◇◇◇


 昼休みの図書室には、いつもより少し多くの生徒が集まっていた。


 入口近くの掲示板には、読書週間を知らせる仮の案内が貼られている。まだ正式な展示は始まっていないものの、図書委員たちが机を移動させたり、紹介カードの用紙を確認したりしていた。


 春樹が図書室へ入ると、貸出カウンターの近くにいた白石栞が顔を上げた。


「七瀬君、こんにちは。来てくれたんですね」


「こんにちは、白石先輩。九条さんに声をかけてもらって」


 春樹が答えると、栞は嬉しそうに微笑んだ。


「助かります。今日は展示の方向性を少し決めたいと思っていたんです」


 栞の手元には、数枚の紙が広げられていた。


 春樹はそのうちの一枚を見て、思わず目を輝かせた。


「……これ、紹介カードの案?」


「はい。表紙の絵をそのまま貼る方法もありますけど、今回は本の魅力を短い言葉で伝える形にしたいんです」


 栞は一枚の用紙を手に取った。


 そこには『最初の一ページから、知らない世界へ』という見出しが書かれている。


「図書室にあまり来ない人でも、少し興味を持ってくれたら嬉しいなと思って」


「いいですね。題名だけじゃ分からない本もありますし」


 春樹が頷くと、栞は安心したように笑った。


 そのとき、凛が資料を持ってやってきた。


「白石先輩、遅くなりました。風紀委員会側の確認事項を持ってきました」


「ありがとう、九条さん。ちょうど七瀬君も来てくれたところです」


 栞が答えると、凛は春樹へ軽く頷いた。


「七瀬君、改めてよろしくね」


「うん。よろしく」


 三人はカウンター横の作業机へ移動した。


 周囲では図書委員たちが本の整理を進めており、紙をめくる音や小さな相談の声が聞こえてくる。窓から差し込む昼の日差しが机の上を照らし、並べられた色紙の端に柔らかな影を作っていた。


 栞は資料を広げ、説明を始めた。


「今回の展示は、難しい本を無理に薦めるのではなく、普段あまり読まない人でも手に取りやすい作品を中心にしたいと思っています」


 春樹は頷いた。


「それなら、短編集とかもいいかもしれません。一話ごとに区切りがあると、読みやすいですし」


「そうですね。長編が好きな人もいるでしょうけど、最初の一冊としては短い話の方が気軽かもしれません」


 栞はメモを取った。


 凛も資料へ目を落としながら、静かに頷いている。


「安全面の案内は、入口付近に掲示する予定よ。読書に夢中になること自体を否定するのではなく、立ち止まって読むことや、周囲への配慮を呼びかけたいと思っているわ」


 春樹は少し考えた。


「だったら、『続きが気になる本ほど、座ってじっくり読もう』みたいな言い方はどうかな」


 凛は顔を上げた。


「……なるほど」


 栞も興味深そうに春樹を見た。


「注意だけじゃなくて、読書を楽しむための言葉にするんですね」


「うん。読むなって言われるより、落ち着いて読んだ方が面白いって伝わる方がいいかなって」


 春樹は少し照れたように笑った。


 凛は資料へその言葉を書き込みながら、小さく頷いた。


「いいと思うわ。風紀委員会でも相談してみる」


 話し合いは順調に進んでいた。


 しかし、次の話題に入ったところで、春樹は思わぬ問題に直面することになった。


 栞が一枚の用紙を差し出したのだ。


「それで、七瀬君。おすすめ本の紹介文を一つ、試しに考えてもらえますか?」


 春樹は用紙を受け取った。


「もちろん。どんなジャンルがいいですか?」


「七瀬君が得意なもので構いませんよ」


 栞はにこやかに答えた。


 春樹は少し考えた。


 短編集、青春小説、ミステリー、日常もの。


 いろいろ候補はあったが、やはり自分が一番好きなジャンルは恋愛小説だった。


「……じゃあ、恋愛小説で考えてみます」


 その瞬間、凛のペンがわずかに止まった。


 栞も一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに笑みを浮かべた。


「ええ。七瀬君らしいですね」


 春樹は気づかず、ノートを開いた。


「例えば、幼馴染の二人が、お互いの気持ちをうまく言葉にできない話とか。ずっと一緒にいるからこそ、変化に気づきにくいっていうのが面白いんです」


 栞は静かに頷いた。


 凛は何も言わず、春樹の言葉を聞いていた。


 春樹はさらに続けた。


「好きな人が近くにいるのに、その気持ちを伝えられない。相手は何も知らずに普段通り接してくる。でも、何気ない言葉がすごく嬉しかったり、逆に少し寂しかったりする。そういう感情の変化が丁寧に描かれている作品って、読んでいて引き込まれるんですよ」


 春樹は楽しそうに話した。


 しかし、栞と凛の表情は少しずつ変わっていた。


 栞は柔らかな笑みを浮かべたまま、ほんの少しだけ視線を落とした。


 凛は資料を見つめ、何かを考えるように唇を結んでいる。


 春樹は気づかず、紹介文の案を書き始めた。


『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』


 書き終えた春樹は、満足そうに顔を上げた。


「……どうですか?」


 栞は少しだけ間を置いてから答えた。


「……とても、興味を引く言葉だと思います」


 凛も頷いた。


「そうね。ただ……」


「ただ?」


 春樹が首を傾げると、凛は少し困ったように視線を逸らした。


「……本の紹介というより、誰かに向けた質問みたいにも聞こえるわね」


 春樹は目を瞬かせた。


「えっ、そうかな?」


 栞は小さく笑った。


「ふふ。確かに、少しだけ恋愛相談の始まりみたいですね」


 春樹は紹介文を見直した。


 自分としては、物語の魅力を短く伝えたつもりだった。


 しかし、改めて読むと、確かに誰かへ問いかけているようにも見える。


「……なるほど。じゃあ、もう少し本の内容が伝わるようにした方がいいですね」


 春樹は真剣に考え始めた。


 その様子を見て、栞は思わず笑みを深めた。


 凛も小さく息を吐いた。


 二人とも、春樹が本当に本の紹介しか考えていないことは分かっていた。


 それでも、彼の言葉は妙に胸へ残っていた。


     ◇◇◇


 話し合いが一段落した頃、図書室の入口から小さな声が聞こえた。


「あっ、七瀬先輩!」


 春樹が振り返ると、小日向ひよりが新海真実と一緒に立っていた。


 ひよりは春樹を見つけるなり嬉しそうに手を振り、真実はその隣で少し控えめに会釈した。


「小日向さん、新海さん。こんにちは」


「こんにちは! 今日は読書週間の準備ですか?」


 ひよりが興味深そうに机の上を覗き込む。


 春樹が頷くと、彼女は紹介カードの用紙を見つけた。


「わあ、これ可愛いですね。何の本を紹介するんですか?」


「今、いろいろ考えてるところ。まだ正式には決まってないけどね」


 春樹はそう答え、ひよりへ顔を向けた。


「そういえば、前に話してた次のおすすめ本なんだけど、放送部が舞台の青春小説が合いそうかなって思ってるんだ」


 ひよりの目が輝いた。


「本当ですか! あの、学校の放送部の話ですよね?」


「うん。普段は目立たない生徒たちが、校内放送を通じて少しずつ自分の言葉を見つけていく話。派手な事件は少ないけど、登場人物の変化が丁寧なんだ」


 ひよりは嬉しそうに頷いた。


「それ、すごく気になります! 私、そういう話好きかもしれません」


 春樹は笑った。


「じゃあ、今度持ってくるよ。まだ家にあるか確認してからになるけど」


「はい! 楽しみにしてます!」


 ひよりは満面の笑みを浮かべた。


 その隣で、真実が少しだけ遠慮がちに口を開いた。


「あの……七瀬先輩。私が借りている文化祭の小説、まだ読み終わっていなくて」


「大丈夫だよ。急がなくていいから」


 春樹が答えると、真実は安心したように微笑んだ。


「ありがとうございます。主人公がなかなか本音を言えないところ、読んでいて少し苦しくなるんですけど……でも、続きが気になって」


「分かる。言いたいことがあるのに言えない場面って、読んでる方ももどかしいよね」


 春樹は真剣に頷いた。


 ひよりはその会話を聞きながら、ふと机の上の紹介文へ目を向けた。


『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』


 ひよりは数秒ほど黙った。


 そして、春樹へ顔を向けた。


「……七瀬先輩、これって恋愛小説の紹介ですか?」


「うん。まだ仮の文章だけど」


 春樹が答えると、ひよりは少しだけ頬を赤くした。


「……すごいですね。何か、読んだだけでドキドキしちゃいます」


 真実も紹介文を見つめ、静かに頷いた。


「……私も、ちょっと気になります」


 春樹は嬉しそうに笑った。


「本当? だったら、方向性は悪くないのかな」


 その様子を見ていた凛は、小さく咳払いをした。


「七瀬君。興味を引くのはいいことだけれど、紹介する本の内容が誤解なく伝わることも大切よ」


「あっ、そうだった。ちゃんと作品の特徴も入れないとな」


 春樹は慌ててノートへ書き足した。


 栞はそのやり取りを見ながら、柔らかく笑っていた。


 ひよりと真実も、春樹が真剣に考える姿を興味深そうに眺めている。


 そのとき、ひよりがふと口を開いた。


「……でも、七瀬先輩って、恋愛小説の気持ちを説明するの上手ですよね」


 春樹は顔を上げた。


「そうかな?」


「はい。登場人物がどうしてそう思ったのか、ちゃんと考えてくれるから」


 ひよりは少しだけ照れたように笑った。


「……だから、先輩におすすめしてもらう本って、読んでみたくなるんです」


 春樹は少し驚いた。


 そして、嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。そう言ってもらえると、すごく嬉しいよ」


 ひよりの頬が、さらに赤くなった。


 真実はその様子を見て、小さく微笑んだ。


 栞も優しい表情で二人を見守っていたが、凛だけは少し複雑そうに資料へ視線を落としていた。


 春樹はもちろん、その違いに気づいていなかった。


 彼の頭の中では、読書週間の紹介文をどう改善するかという問題が、何よりも大きな関心事になっていた。


     ◇◇◇


 昼休みが終わる少し前、春樹は栞と凛へ挨拶をして図書室を出た。


 ひよりと真実も教室へ戻るところだったため、廊下の途中まで一緒に歩くことになった。


 春樹は歩きながら、先ほどの紹介文について考えていた。


 もちろん、本を開いているわけではない。


 以前、凛から注意されて以来、廊下で読書をすることは控えている。


 ただ、頭の中で文章を考えることまでは止められない。


(……恋愛小説の紹介って、どうしても感情の話になるんだよな。でも、そこが魅力なんだし)


 春樹は少しだけ悩んだ。


 ひよりが隣から顔を覗き込む。


「七瀬先輩、まだ紹介文のこと考えてます?」


「うん。ちょっとだけ。短い言葉で本の魅力を伝えるのって、意外と難しいなって」


 ひよりは楽しそうに笑った。


「でも、先輩が楽しそうだから、きっといいものになりますよ」


 春樹は少し驚いた。


「……俺、そんなに楽しそうだった?」


「はい。すごく」


 ひよりは迷わず答えた。


 真実も静かに頷いた。


「……私もそう思います」


 春樹は少し照れたように笑った。


「そっか。ありがとう」


 その返事を聞いて、ひよりは嬉しそうに微笑んだ。


 やがて一年生の教室へ続く階段の前で、二人と別れた。


 春樹は自分の教室へ戻りながら、改めて考えた。


 誰かに本を薦めるのは楽しい。


 相手が興味を持ってくれると、もっと嬉しい。


 それは、読書そのものとは少し違う楽しさだった。


(……読書週間、思ってたより面白くなりそうだな)


 春樹は自然に笑みを浮かべた。


     ◇◇◇


 放課後、教室にはまだ何人かの生徒が残っていた。


 窓から差し込む夕方の光が机を照らし、廊下からは部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえてくる。


 春樹は鞄へ教科書をしまいながら、今日のノートを見直していた。


 おすすめ本の候補。


 紹介文の案。


 展示の工夫。


 そして、凛から頼まれた安全な読書マナーの言葉。


 思っていた以上に、書き込んだ内容が増えていた。


 そのとき、雫が隣へやってきた。


「春樹、今日の打ち合わせどうだった?」


 春樹は顔を上げた。


「結構面白かったよ。白石先輩と九条さんと話して、紹介カードの案を考えたんだ」


「へえ。どんな感じ?」


 雫は興味深そうにノートを覗き込んだ。


 春樹は少しだけ嬉しくなり、今日書いた紹介文を見せた。


『ずっと隣にいた人の気持ちを、あなたはどれくらい知っていますか?』


 雫の動きが止まった。


 春樹は気づかずに説明を始めた。


「幼馴染の恋愛小説を紹介しようと思ってさ。ずっと近くにいる相手だからこそ、気持ちの変化に気づけないっていう話なんだけど」


 雫はゆっくりと春樹へ顔を向けた。


「……春樹」


「ん?」


「……それ、本当に本の紹介?」


 春樹は目を瞬かせた。


「えっ、もちろんだけど」


 雫は少しだけ頬を赤くした。


 そして、ノートへ視線を戻した。


「……そっか」


 春樹は不思議そうに首を傾げた。


「何か変かな?」


 雫は少し考えた。


 その文章は、確かに恋愛小説の紹介として成立している。


 けれど、春樹が書いたと思うと、どうしても自分たちのことを重ねてしまう。


 ずっと隣にいた人。


 気づかれない気持ち。


 言葉にできない想い。


 どれも、今の自分に重なるものだった。


(……春樹、これを何も考えずに書いたんだよね)


 雫は小さく息を吐いた。


 そして、少しだけ笑った。


「……ううん。すごくいいと思うよ」


 春樹は安心したように笑った。


「本当? よかった」


 雫は頷いた。


「でも、もう少しだけ、その本ならではの特徴を入れてもいいかもしれないね」


「なるほど。白石先輩たちにも似たようなこと言われた」


 春樹は真剣に頷いた。


 雫は少しだけ笑った。


「……春樹、恋愛小説の話になると、つい気持ちの部分を中心に話すもんね」


「だって、そこが一番面白いところだから」


 春樹は当然のように答えた。


 雫はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。


 春樹は本当に、恋愛小説が好きなのだ。


 登場人物の気持ちを考え、言葉にできない感情を読み取り、その変化を楽しんでいる。


 だからこそ、雫は少しだけ不思議に思ってしまう。


(……どうして、自分のことになると分からないんだろう)


 けれど、その鈍感さも春樹らしかった。


 雫は小さく笑い、ノートを返した。


「……私も、何か手伝えることがあったら言ってね」


 春樹は嬉しそうに頷いた。


「ありがとう。じゃあ、今度紹介カードの文章、一緒に考えてもらってもいい?」


「うん。もちろん」


 雫は柔らかく微笑んだ。


 そのとき、教室の後ろから悠斗の声が聞こえた。


「おーい、春樹。ちょっといいか?」


 春樹が振り返ると、悠斗がスマートフォンを持って近づいてきた。


「紗弥と展示会の時間、だいたい決まりそうなんだ。ちょっと相談したいんだけど」


「いいよ。どうした?」


 悠斗は少しだけ照れたように笑った。


「展示を見たあと、近くの喫茶店に寄ろうかなって思っててさ。前に行った店とは違うところなんだけど、どうかなって」


 春樹は少し考えた。


「いいんじゃないか? 展示の感想をゆっくり話せるし」


「だよな。じゃあ、そういう感じで聞いてみる」


 悠斗は嬉しそうに頷いた。


 そのあと、ふと春樹のノートへ目を向けた。


「……何それ?」


「読書週間の紹介文」


 春樹はノートを見せた。


 悠斗は文章を読んだ。


 そして、数秒ほど黙った。


「……春樹」


「何?」


「お前、これを雫の前で普通に見せたの?」


「うん。感想聞いてたところだけど」


 悠斗はゆっくりと雫を見た。


 雫は少しだけ頬を赤くしながら、視線を逸らした。


 悠斗は深く息を吐いた。


「……お前、ある意味すごいよな」


 春樹は首を傾げた。


「何が?」


「いや、何でもない」


 悠斗は苦笑した。


 雫も小さく笑った。


 春樹だけが、何が面白いのか分からないままだった。


     ◇◇◇


 帰り道、春樹と雫は並んで歩いていた。


 夕方の風が少し冷たくなり、通学路の木々が柔らかく揺れている。周囲には部活動帰りの生徒たちが歩いていたが、学校から離れるにつれて人通りは少なくなっていった。


 雫は少しだけ春樹へ顔を向けた。


「……春樹、今日も忙しかったね」


「そうだな。でも、楽しかったよ」


 春樹は笑った。


「本の紹介を考えるのって、思ってたより難しいけど面白い」


 雫は頷いた。


「春樹、好きなことを誰かに伝えるの上手だと思うよ」


「そうかな?」


「うん。だって、春樹が話してると、その本を読んでみたくなるもん」


 春樹は少し照れたように笑った。


「ありがとう。雫にそう言ってもらえると嬉しい」


 雫は少しだけ頬を赤くした。


 そして、ふと思い出したように口を開いた。


「……そういえば、昨日のことなんだけど」


「ん?」


「……また、あの展望広場に行きたいな」


 春樹は自然に笑った。


「うん。俺も」


 雫は嬉しそうに微笑んだ。


「……今度は、違う季節に行ってみたい」


「いいな。春とか、花が咲いてる頃も綺麗そうだし」


 春樹は少し考えた。


「秋もいいかも。木が多かったから、紅葉したら景色変わりそうだな」


 雫は楽しそうに頷いた。


「うん。そういうのも見てみたい」


 二人はしばらく、季節ごとの景色について話した。


 春樹はその会話を楽しみながら、昨日の展望広場を思い出していた。


 雫が大切にしている場所。


 自分も懐かしいと思えた場所。


 そして、また一緒に行こうと約束した場所。


 その記憶が、少しずつ特別なものになっている気がした。


 やがて、いつもの分かれ道へ到着した。


 春樹は足を止め、雫へ顔を向けた。


「じゃあ、また明日」


「うん。また明日、春樹」


 雫は柔らかく微笑んだ。


 春樹も笑い返し、手を振った。


 雫はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


 昨日の思い出が、今日の会話へ繋がっている。


 そして、今日の会話が、また次の約束へ繋がっていく。


 そのことが、何よりも嬉しかった。


(……少しずつでいいから、春樹との時間を増やしていきたいな)


 雫はそう思いながら、家へ向かって歩き始めた。


     ◇◇◇


 その日の夜、春樹は机に向かい、読書週間の紹介文を見直していた。


 ノートには、今日の話し合いで出た意見がいくつも書き込まれている。


 短い言葉で興味を引くこと。


 本の内容が伝わること。


 普段読まない人でも手に取りやすいこと。


 そして、読み終えたあとに誰かと話したくなること。


 春樹はペンを持ち、恋愛小説の紹介文を書き直した。


『ずっと隣にいた幼馴染が、ある日少しだけ違って見えた。何気ない日常の中で変わっていく二人の気持ちを描いた、優しい恋愛小説。』


 春樹はしばらく眺めた。


「……うん。こっちの方が分かりやすいかな」


 自分でも少し納得できる文章になった気がした。


 ただ、最初に書いた問いかけの方が、印象には残るかもしれない。


 春樹は二つの案を並べ、少し考えた。


(……どっちも捨てがたいな。明日、白石先輩たちに見てもらおう)


 そう決めると、ノートを閉じた。


 机の上には、昨日購入した恋愛小説が置かれている。


 春樹は本を手に取り、栞が挟まれたページを開いた。


 物語の中では、幼馴染だった二人が昔の約束について話していた。


 春樹はその場面を読みながら、ふと昨日の雫を思い出した。


 展望広場で、彼女は昔の大切な話があると言っていた。


 しかし、その内容はまだ分からない。


(……何だったんだろうな、あの約束)


 春樹は少しだけ考えた。


 そして、ゆっくりとページをめくった。


 物語の中の主人公は、昔の約束を思い出せずにいる。


 相手はそれを覚えていて、けれど無理に思い出させようとはしない。


 その関係が、どこか昨日の自分たちに似ているような気がした。


 春樹は少しだけ笑った。


「……偶然ってあるもんだな」


 そう呟き、本の続きを読み始めた。


 同じ頃、雫も自室で春樹から薦めてもらった恋愛小説を読んでいた。


 ページの間には、昨日一緒に買った木の葉の栞が挟まれている。


 物語の中では、主人公の少女が幼馴染の少年へ気持ちを伝えようとしていた。


 しかし、あと一歩のところで言葉が出てこない。


 雫はその場面を読みながら、小さく息を吐いた。


(……分かるなあ、この気持ち)


 好きだと伝えたい。


 けれど、今の関係が変わってしまうのは怖い。


 それでも、少しずつ前に進みたい。


 雫は本を閉じ、栞へそっと指を添えた。


 昨日の展望広場で、春樹はまた一緒に行こうと言ってくれた。


 その約束があるだけで、明日も少し頑張れる気がした。


(……春樹、いつかちゃんと伝えるからね)


 雫は静かに微笑んだ。


 そして、もう一度本を開いた。


 翌日も、きっといつも通りの学校生活が待っている。


 けれど、その日常の中で、少しずつ何かが変わっていく。


 春樹はまだ、その変化の意味に気づいていない。


 ただ、自分の好きな本を誰かに紹介できることを楽しみにしていた。


 そして、そんな春樹の周りでは、今日もまた、彼の知らないところで小さな恋心が揺れていた。

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