第57話 幼馴染と昔の思い出を探しに行くだけなのに、どうして今日の雫はいつもと違うんだ?
日曜日の朝、七瀬春樹は目覚まし時計が鳴るよりも少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む日差しが部屋の床を照らしており、窓の外からは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。昨日は白石栞と書店巡りを楽しみ、帰宅してから購入した恋愛小説を少しだけ読み進めたのだが、珍しく途中で本を閉じて早めに眠っていた。
理由は単純である。
今日は幼馴染の西条雫と出かける約束があるからだ。
待ち合わせは午前九時半、駅の改札前。行き先は雫が決めており、春樹には歩きやすい靴で来ること以外、詳しいことを教えてくれていない。
(……結局、昨日も行き先を教えてくれなかったな。あそこまで秘密にされると、さすがに気になるんだけど)
春樹はベッドから起き上がり、机の上に置かれたスマートフォンを確認した。
昨夜の最後のメッセージは、雫からの『明日、楽しみにしてるね』という言葉だった。春樹も楽しみにしていると返しており、それ以降は互いに連絡をしていない。
画面に表示された時刻は午前七時過ぎだった。
まだ十分に余裕がある。
春樹は顔を洗い、朝食を済ませてから、クローゼットの前で今日の服装を考え始めた。
普段なら、休日の服装にそれほど時間をかけない。清潔で動きやすければ問題ないと思っているし、何より服を選ぶ時間があるなら本を読みたいというのが正直なところだった。
しかし、今日は雫から歩きやすい靴を指定されている。
つまり、ある程度歩くことを想定した服装にした方がいいのだろう。
春樹は黒いパンツと白いシャツを選び、その上から薄手の紺色のパーカーを羽織った。靴は普段から履き慣れているスニーカーにすることにして、鞄には財布とスマートフォン、ハンカチ、それから小さな水筒を入れた。
最後に、机の上に置かれた文庫本へ手を伸ばしかける。
昨日、栞と一緒に選んだ恋愛小説だった。
幼馴染だった男女が大学で再会し、昔の約束と現在の気持ちの間で揺れる物語である。まだ序盤しか読んでいないものの、主人公たちの微妙な距離感が丁寧に描かれており、続きが気になっていた。
(……待ち合わせまで少し時間あるし、持っていこうかな)
春樹は文庫本を手に取り、数秒ほど考えた。
しかし、すぐに机へ戻した。
今日は雫と出かける日だ。
もちろん移動中に読むことはできるかもしれないが、雫がわざわざ行き先を考えてくれているのだから、できるだけ一緒に過ごす時間を楽しみたい。
それに、以前は歩きながら本を読んで九条凛に注意されたこともある。
今では気をつけているとはいえ、夢中になりすぎる可能性がないとは言い切れない。
(……今日は本を置いていくか。帰ってから読めばいいし)
春樹はそう決めると、鞄のファスナーを閉めた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
『春樹、おはよう。今日はよろしくね』
送り主は雫だった。
春樹は自然に笑みを浮かべた。
『おはよう。こっちこそよろしく。もう準備してるよ』
少しして返信が届いた。
『私も。今日はいっぱい歩くかもしれないから、疲れたらちゃんと言ってね』
『分かった。でも、そんなに歩くのか?』
『ふふ。それも着いてからのお楽しみ』
春樹は画面を見つめ、思わず苦笑した。
(……本当に教えてくれないな)
しかし、そのやり取りもどこか楽しかった。
春樹はスマートフォンをしまい、玄関へ向かった。
今日はどんな一日になるのだろう。
そんな期待を胸に、春樹は家を出た。
◇◇◇
午前九時十五分。
春樹が駅へ到着すると、改札前には休日らしい人の流れができていた。
電車を待つ人や待ち合わせをしている人、旅行用の鞄を持った家族連れなどが行き交っている。構内の案内放送が響くたびに人の流れが少しずつ変わり、改札を抜けていく人々の足音が重なっていた。
春樹は柱の近くに移動し、雫の姿を探した。
待ち合わせまでは十五分ほどある。
少し早く着きすぎたかもしれないと思ったが、遅れるよりはいいだろう。
そう考えていると、改札の向こうではなく、駅前広場へ続く通路の方から見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。
淡い水色のブラウスに白いカーディガンを合わせ、膝下まである柔らかな色合いのスカートを穿いている。足元は歩きやすそうな白いスニーカーで、小さな肩掛け鞄には花の形をした飾りが揺れていた。
春樹は一瞬、目を瞬かせた。
いつもの制服姿とは違う雫だった。
先週も私服で一緒に出かけているのだから、見慣れていないわけではない。それでも、今日はどこか雰囲気が違うように感じられた。
雫は春樹の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「春樹、おはよう! もう来てたんだね」
「おはよう、雫。俺も今来たところだよ」
春樹が答えると、雫は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た春樹は、改めて彼女の服装へ視線を向けた。
「……今日、いつもとちょっと雰囲気違うな」
雫は一瞬だけ動きを止めた。
「えっ……そ、そうかな?」
「うん。何か、すごく似合ってる」
春樹は自然に答えた。
雫の頬が、みるみる赤くなった。
「……あ、ありがとう」
彼女は少し俯きながら、肩掛け鞄の紐を握り直した。
昨日の夜、雫は今日の服装を決めるのに随分と時間をかけていた。
歩きやすいことを優先しながらも、春樹と一緒に出かけるのだから、少しは可愛く見られたいと思っていたのだ。
鏡の前で何度も服を合わせ、最後には自分でも少し呆れてしまったほどだった。
(……よかった。春樹、ちゃんと見てくれたんだ)
雫は胸の奥が温かくなるのを感じた。
春樹は人の服装に無関心というわけではないが、普段は本の話に夢中になっていることが多い。だからこそ、今日の服装に気づいて褒めてくれたことが、思っていた以上に嬉しかった。
「……春樹も、今日の服、似合ってるよ」
雫が少し勇気を出して言うと、春樹は自分の服装を見下ろした。
「そうか? ありがとう。歩くって聞いてたから、動きやすいのにしたんだけど」
「うん。春樹らしくていいと思う」
雫は柔らかく微笑んだ。
春樹も笑い返した。
「じゃあ、そろそろ行く?」
「うん。切符は私が案内するね」
雫はそう言いながら、改札の方へ歩き始めた。
春樹はその隣へ並び、少しだけ首を傾げた。
「……そういえば、電車に乗るんだな」
「うん。ここから少しだけ」
「少しだけって、どれくらい?」
雫は楽しそうに笑った。
「それも秘密」
「徹底してるなあ」
春樹が苦笑すると、雫は肩を揺らして笑った。
その様子があまりにも楽しそうだったので、春樹もそれ以上は聞かないことにした。
改札を抜け、二人はホームへ向かった。
休日の午前中ということもあり、ホームには家族連れや買い物へ向かう人々が並んでいた。電車が到着するまで少し時間があったため、二人はベンチの近くで待つことにした。
雫は線路の向こうを眺めながら、少しだけ緊張した様子で鞄の紐を握っていた。
春樹はその横顔を見つめ、声をかけた。
「雫、何か緊張してる?」
雫は驚いたように振り返った。
「えっ、分かる?」
「何となく。さっきからちょっと落ち着かない感じだから」
雫は少し困ったように笑った。
「……うん。ちょっとだけ」
「行き先のこと?」
春樹が尋ねると、雫は小さく頷いた。
「……春樹が楽しんでくれるかなって、少し心配で」
その言葉を聞いて、春樹は少し驚いた。
雫は今日の予定をずっと楽しみにしていた。
だから、緊張しているとしても、早く目的地へ行きたいからだと思っていた。
「……そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
春樹は穏やかに言った。
「雫が行きたいと思ってる場所なんだろ? だったら、俺も行ってみたい」
雫は顔を上げた。
春樹は少しだけ笑った。
「それに、今日は雫と出かけるのが楽しみで来たんだからさ」
雫は一瞬、言葉を失った。
そのあと、ゆっくりと頬を赤くした。
「……春樹って、そういうこと普通に言うよね」
「えっ、何が?」
春樹が不思議そうに首を傾げると、雫は小さく笑った。
「……ううん。何でもない」
彼女は視線を線路の方へ戻した。
しかし、先ほどまでの緊張は少し和らいでいた。
春樹が自分と出かけることを楽しみにしてくれている。
その言葉だけで、今日を計画してよかったと思えた。
やがて電車がホームへ入ってきた。
二人は並んで乗り込み、空いていた座席へ腰を下ろした。
窓の外では、駅の建物がゆっくりと後ろへ流れていく。
雫は膝の上に鞄を置き、少しだけ春樹の方へ顔を向けた。
「……春樹、昔のことってどれくらい覚えてる?」
突然の質問に、春樹は少し考えた。
「昔って、小さい頃?」
「うん。小学校に入る前とか、低学年の頃とか」
春樹は窓の外へ視線を向けた。
幼い頃の記憶は、ところどころ曖昧になっている。
雫と一緒に公園で遊んだことや、互いの家を行き来したこと、雨の日に室内で本を読んだことなどは覚えているが、細かい出来事までは思い出せないものも多い。
「……全部は覚えてないかな。でも、雫と遊んだことは結構覚えてるよ」
春樹が答えると、雫は少しだけ嬉しそうに笑った。
「例えば?」
「そうだな……雫が公園で転んで、俺が慌てて家まで走ったこととか」
雫は目を丸くした。
「えっ、それ覚えてるの?」
「覚えてるよ。雫、すごい泣いてたから」
春樹は笑った。
雫は恥ずかしそうに頬を膨らませた。
「……そんな昔のこと、忘れてくれてもいいのに」
「いや、あれは結構印象に残ってるんだって」
春樹は少し懐かしそうに続けた。
「雫が泣いてるの見て、俺までどうしたらいいか分からなくなったんだよな。結局、大人を呼びに行っただけだったけど」
雫は少しだけ目を細めた。
「……でも、春樹、ずっとそばにいてくれたよ」
春樹は顔を向けた。
雫は窓の外を眺めながら、穏やかに微笑んでいた。
「私が泣きやむまで、一緒にいてくれたの。ちゃんと覚えてる」
春樹は少しだけ照れたように笑った。
「……そうだったっけ」
「うん。春樹は覚えてないかもしれないけど、私は嬉しかったんだよ」
雫はそう言って、小さく笑った。
春樹はその言葉を聞き、胸の奥に不思議な温かさを感じた。
自分にとっては、幼い頃の何気ない出来事だった。
しかし、雫にとっては今でも覚えている大切な思い出なのかもしれない。
電車は住宅街を抜け、少しずつ緑の多い景色へと変わっていった。
春樹は窓の外を眺めながら、雫が今日連れていこうとしている場所について考え始めた。
◇◇◇
電車を降りたのは、春樹たちが普段利用する駅から数駅離れた、小さな駅だった。
改札を出ると、駅前には低い建物が並び、少し離れたところに緑の多い丘が見えた。大きな商業施設はなく、静かな住宅街と昔ながらの商店が続いている。
春樹は周囲を見渡した。
「……ここ、来たことある気がする」
雫は少しだけ嬉しそうに笑った。
「うん。あるよ」
「やっぱり?」
「でも、覚えてるかどうかは分からないかな」
雫はそう言いながら、駅前の道を指差した。
「あっちに行くの。少し歩くけど、大丈夫?」
「もちろん」
春樹は頷いた。
二人は並んで歩き始めた。
駅前の通りを抜けると、道は緩やかな坂になっていた。古い住宅の塀からは季節の花が顔を覗かせ、庭木の間から鳥の声が聞こえてくる。
雫はときどき周囲を確認しながら、迷うことなく歩いていた。
春樹はその様子を見て、少しだけ驚いた。
「……雫、道覚えてるんだな」
「うん。昨日も地図で確認したけど、何となく覚えてた」
雫は少し懐かしそうに笑った。
「小さい頃、何回か来たことあるから」
春樹は周囲を見渡した。
確かに、どこか見覚えのある景色だった。
しかし、まだはっきりとは思い出せない。
しばらく歩くと、道の先に小さな公園が見えてきた。
木製のベンチと古い滑り台があり、その奥には緩やかな階段が続いている。階段の上には、木々に囲まれた小さな広場があるようだった。
春樹は足を止めた。
「……あれ?」
雫も立ち止まり、春樹の顔を見つめた。
「思い出した?」
春樹は公園を眺めた。
古い滑り台。
木製のベンチ。
そして、奥へ続く階段。
記憶の中に、似たような景色があった。
「……ここ、昔来たことあるよな?」
春樹が尋ねると、雫は嬉しそうに頷いた。
「うん。春樹と一緒に来たことあるよ」
春樹は少しずつ記憶を辿った。
小学校に入る前だっただろうか。
家族同士で出かけたことがあり、雫と一緒に公園の奥まで歩いた記憶がある。
確か、階段を上った先に何かがあった。
春樹は顔を上げた。
「……もしかして、上にあるのって」
雫は小さく笑った。
「うん。行ってみよう?」
二人は階段へ向かった。
木々の間から差し込む日差しが石段を照らし、足元には小さな木の葉が落ちている。階段はそれほど急ではなかったが、長く続いているため、二人はゆっくりと上っていった。
途中で春樹が振り返ると、先ほど歩いてきた住宅街が木々の間から見えた。
「……結構高いところまで来たな」
雫は少し息を整えながら頷いた。
「うん。でも、もう少しだよ」
春樹は雫の様子を見て、歩く速度を緩めた。
「疲れてない?」
「大丈夫。春樹こそ平気?」
「うん。まだ余裕ある」
春樹が笑うと、雫も笑い返した。
二人は並んで階段を上り続けた。
そして、最後の段を上りきったところで、視界が大きく開けた。
そこには、小さな展望広場があった。
木製の柵に囲まれた広場の向こうには、町並みと遠くの山々が広がっている。青空の下、建物の屋根が陽光を受けて輝き、風が木々の葉を揺らしていた。
春樹は思わず足を止めた。
「……ああ、ここか」
記憶が、ゆっくりと繋がっていく。
幼い頃、雫と一緒に訪れた場所。
広場の端にあるベンチ。
遠くまで見渡せる景色。
そして、二人で何かを話した記憶。
春樹はゆっくりと周囲を見渡した。
「……懐かしいな」
雫は隣で微笑んでいた。
「覚えてた?」
「うん。全部じゃないけど、ここに来たことは思い出した」
春樹は少しだけ笑った。
「雫、よく覚えてたな」
雫は視線を景色へ向けた。
「……私にとって、大切な場所だから」
その声は、少しだけ柔らかかった。
春樹は彼女の横顔を見つめた。
雫は遠くの町並みを眺めながら、懐かしそうに目を細めていた。
春樹はその表情を見て、何となく声をかけるのをためらった。
彼女が何を思い出しているのか、まだ分からない。
けれど、今は少しだけ静かにしていた方がいい気がした。
二人は並んで景色を眺めた。
風が吹くたびに木々の葉が揺れ、遠くから子供たちの声が聞こえてくる。
しばらくして、雫がゆっくりと口を開いた。
「……春樹、昔ここで何を話したか覚えてる?」
春樹は少し考えた。
広場へ来た記憶はある。
しかし、何を話したのかまでは思い出せない。
「……ごめん。そこまでは覚えてないかも」
春樹が正直に答えると、雫は少しだけ笑った。
「うん。そうだと思った」
「……何か大事なこと話した?」
春樹が尋ねると、雫は少しだけ頬を赤くした。
そして、遠くの景色へ視線を向けた。
「……うん。私にとっては、すごく大事なこと」
春樹は驚いた。
雫はすぐには続きを話さなかった。
風が二人の間を通り抜け、彼女の髪を揺らしていく。
春樹は急かさずに待った。
やがて雫は、ゆっくりと春樹の方へ顔を向けた。
「……春樹、少しだけ昔の話をしてもいい?」
春樹は穏やかに頷いた。
「もちろん」
雫は小さく息を吸った。
そして、懐かしそうに微笑んだ。
「……私ね、小さい頃、春樹とずっと一緒にいられると思ってたんだ」
春樹は静かに聞いていた。
「学校に行っても、大人になっても、ずっと近くにいるんだろうなって。何も考えずに、そう思ってた」
雫は少しだけ笑った。
「でも、大きくなると、そういうのって当たり前じゃないんだなって分かってきて」
春樹は彼女の言葉を受け止めた。
確かに、幼い頃は何も考えずに一緒に遊んでいた。
しかし、成長するにつれて、それぞれの予定や友人関係が増えていく。
昔と同じように過ごせる時間は、少しずつ減っていった。
「……そうだな」
春樹は静かに答えた。
「昔は、毎日のように一緒にいたもんな」
雫は頷いた。
「うん。だから、最近また春樹と一緒に出かけたり、本の話をしたりできるのが、すごく嬉しいんだ」
彼女は少しだけ照れたように笑った。
「……今日も、ここに一緒に来られてよかった」
春樹は胸の奥が温かくなるのを感じた。
雫がこの場所を大切に思っていることは、何となく伝わっていた。
しかし、そこに自分との思い出が深く関わっているとは、ここへ来るまで考えていなかった。
「……俺も、来られてよかったよ」
春樹は穏やかに言った。
「雫が誘ってくれなかったら、たぶんここに来たことも思い出さなかったと思うし」
雫は顔を上げた。
春樹は景色へ視線を向けながら続けた。
「でも、来てみたら懐かしいし、昔のことも少し思い出せた。何より、雫がここを覚えててくれたのが嬉しい」
雫は一瞬だけ言葉を失った。
そのあと、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
春樹はその変化に気づき、心配そうに顔を向けた。
「……雫、大丈夫?」
雫は慌てて首を振った。
「大丈夫。ちょっと、嬉しくなっちゃっただけ」
春樹は少し安心したように笑った。
「そっか」
雫も笑い返した。
二人はしばらく、広場の景色を眺めていた。
遠くの山々には薄い雲がかかり、町並みの向こうを電車がゆっくりと走っている。
春樹はその景色を見つめながら、幼い頃の記憶を少しずつ思い出していた。
◇◇◇
展望広場の端には、古い木製のベンチが置かれていた。
雫はそこへ視線を向け、少しだけ笑った。
「……春樹、あそこ覚えてる?」
春樹はベンチを見つめた。
「……何となく。昔もあったよな?」
「うん。あそこで一緒にお菓子食べたんだよ」
春樹は少し考えた。
確かに、そんな記憶がある。
家族と一緒に出かけた日、雫と二人でベンチに座り、小さな袋に入ったお菓子を分け合った。
「……ああ、そうだったかも」
春樹は笑った。
「雫が最後の一個を俺にくれたんだっけ?」
雫は驚いたように目を丸くした。
「……そこ覚えてるの?」
「何となく。俺が遠慮したら、雫が半分に割ってくれた気がする」
雫は少しだけ頬を赤くした。
「……うん。そうだよ」
彼女は懐かしそうに微笑んだ。
「春樹、あのときすごく嬉しそうだった」
春樹は苦笑した。
「……食べ物のことは覚えてるんだな、俺」
雫は思わず笑ってしまった。
「ふふ。春樹らしいね」
二人はベンチへ向かった。
木製の座面には少し色褪せた部分があったが、丁寧に手入れされているようで、座るのに問題はなかった。
春樹が端に座ると、雫も少し間を空けて隣へ腰を下ろした。
目の前には、先ほどより少し低い位置から見える町並みが広がっている。
雫は鞄から小さな袋を取り出した。
「……実はね、今日ちょっと持ってきたものがあるんだ」
春樹は顔を向けた。
「何?」
雫は少し照れたように笑いながら、袋の中から小さな包みを取り出した。
中には、個包装された焼き菓子がいくつか入っていた。
「……昔みたいに、ここで一緒に食べられたらいいなって」
春樹は少し驚いた。
そして、自然に笑みを浮かべた。
「……いいな、それ」
雫は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。飲み物も持ってきたんだけど、春樹は?」
「俺も水筒持ってきたよ」
春樹は鞄から水筒を取り出した。
雫は少しだけ安心したように笑った。
二人は焼き菓子を分け合いながら、ゆっくりと休憩することにした。
包みを開けると、甘い香りがふわりと広がった。
春樹は一口食べ、少しだけ目を細めた。
「……美味しいな」
雫は嬉しそうに笑った。
「よかった。昨日、お店で見つけたんだ」
「雫が作ったのかと思った」
春樹が何気なく言うと、雫は少しだけ頬を赤くした。
「……今度は作ってこようかな」
「本当? 雫のお菓子、好きだから嬉しい」
春樹は自然に答えた。
雫は一瞬だけ動きを止めた。
そして、ゆっくりと視線を落とした。
「……そ、そう?」
「うん。前に作ってくれたクッキーも美味しかったし」
春樹は笑った。
雫は小さく頷いた。
「……じゃあ、今度作るね」
その声は、少しだけ弾んでいた。
春樹は嬉しそうに頷いた。
二人は焼き菓子を食べながら、昔の思い出を話し始めた。
小学校の頃、一緒に図書室へ行ったこと。
雨の日に雫の家で本を読んだこと。
夏休みに公園で遊んだこと。
思い出してみると、忘れていた出来事がいくつも浮かんできた。
「……そういえば春樹、昔から本ばっかり読んでたよね」
雫が笑うと、春樹は苦笑した。
「今もだけどな」
「うん。でも、昔は今よりもっと夢中になってた気がする」
雫は懐かしそうに続けた。
「私が遊ぼうって言っても、あと一ページって言いながら全然終わらなくて」
春樹は少しだけ目を逸らした。
「……それは、悪かった」
雫は笑った。
「怒ってないよ。だって、結局いつも一緒に遊んでくれたもん」
春樹は少し考えた。
確かに、雫が待っていると分かれば、最後には本を閉じていた気がする。
それは、今もあまり変わっていないのかもしれない。
「……雫が誘ってくれると、何だかんだで楽しかったからな」
春樹が答えると、雫は少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……今も?」
春樹は迷わず頷いた。
「もちろん。今日だって楽しいよ」
雫はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
春樹は昔から変わらない。
本が大好きで、夢中になると周囲が見えなくなることもある。
けれど、自分が大切にしていることを、ちゃんと受け止めてくれる。
その優しさに、何度も救われてきた。
(……やっぱり、春樹が好きだな)
雫は心の中でそう思った。
しかし、その気持ちを今すぐ言葉にする勇気は、まだなかった。
今日は、昔の思い出を一緒に辿る日だ。
それだけでも、十分に幸せだった。
◇◇◇
休憩を終えた二人は、展望広場の周囲をゆっくり歩くことにした。
広場の奥には小さな遊歩道があり、木々の間を抜けるように続いている。道の両側には季節の草花が咲き、ところどころに案内板が設置されていた。
春樹は周囲を見渡しながら、少しだけ笑った。
「……昔はもっと広い場所だと思ってたな」
雫は頷いた。
「分かる。階段も、もっと長かった気がする」
「小さかったからな、俺たち」
春樹は笑った。
雫も笑い返した。
同じ場所でも、成長してから訪れると違って見える。
それが、少し不思議だった。
遊歩道を歩いていると、道の先に小さな木製の橋が見えてきた。
下には浅い水路が流れており、木々の影が水面に揺れている。
雫は橋の手前で足を止めた。
「……ここも覚えてる?」
春樹は橋を眺めた。
少しだけ記憶が蘇る。
「……ああ。昔、ここで雫が怖がってたような」
雫は少しだけ頬を赤くした。
「……覚えてたんだ」
「うん。橋が揺れると思って、なかなか渡れなかったんだよな」
春樹は笑った。
雫は少し恥ずかしそうに頷いた。
「……うん。でも、春樹が手を引いてくれたから渡れたの」
春樹は少し考えた。
確かに、そんなことがあった気がする。
幼い頃の自分は、雫が怖がっている理由をよく理解していなかった。
ただ、一緒に渡れば大丈夫だと思っていたのだろう。
「……そうだったな」
春樹は穏やかに笑った。
雫は橋を見つめながら、少しだけ黙った。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……春樹」
「ん?」
「……今日も、一緒に渡ってくれる?」
春樹は少し驚いた。
橋は昔よりも小さく見えるし、今の雫が怖がっているようには見えなかった。
しかし、彼女の表情はどこか真剣だった。
春樹は少しだけ考え、笑った。
「もちろん」
そう答えると、雫は嬉しそうに微笑んだ。
二人は並んで橋へ足を踏み出した。
木製の橋はしっかりと固定されており、歩いてもほとんど揺れなかった。
それでも、雫は少しだけ春樹の方へ近づいた。
肩が触れそうな距離になり、春樹は彼女の様子を見た。
「……雫、怖い?」
雫は小さく首を振った。
「……ううん。怖くないよ」
そして、少しだけ笑った。
「春樹がいるから」
春樹はその言葉を聞き、少しだけ胸の奥が温かくなった。
昔と同じように、雫は自分を頼ってくれている。
それが嬉しかった。
二人はゆっくりと橋を渡りきった。
雫は振り返り、橋を眺めた。
「……昔より、ずっと短かったね」
春樹は笑った。
「そうだな。でも、景色はあんまり変わってない気がする」
雫は頷いた。
「……うん」
彼女は少しだけ春樹の横顔を見つめた。
昔は、手を繋いでも何も考えなかった。
けれど、今は違う。
隣にいるだけで、少し緊張してしまう。
それでも、一緒に歩けることが嬉しかった。
雫は小さく息を吐き、春樹の隣へ並んだ。
◇◇◇
遊歩道を一周して展望広場へ戻った頃には、正午を少し過ぎていた。
春樹は時計を確認し、雫へ顔を向けた。
「……そろそろ昼ご飯にする?」
雫は頷いた。
「うん。駅の方に戻れば、何軒かお店があると思う」
「じゃあ、戻ろうか」
二人は階段を下り始めた。
上りよりも足元に注意が必要だったため、春樹は少しだけ歩く速度を落とした。
雫はその様子を見て、小さく笑った。
「……春樹、歩くのゆっくりにしてくれてる?」
春樹は少し驚いた。
「えっ、ああ。階段だし、急がなくていいかなって」
雫は嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう」
春樹は少し照れたように笑った。
「別に大したことじゃないよ」
雫は首を振った。
「……ううん。嬉しいよ」
その返事を聞いて、春樹は少しだけ考えた。
雫は今日、何度もありがとうと言ってくれる。
自分としては特別なことをしているつもりはない。
ただ、一緒に歩いて、昔の話をしているだけだ。
それでも雫が喜んでくれるなら、今日来てよかったと思った。
階段を下りきると、二人は駅前の通りへ戻った。
昼時ということもあり、飲食店の前には何組かの客が並んでいる。
春樹は周囲を見渡し、少しだけ首を傾げた。
「……何食べたい?」
雫は少し考えた。
「春樹は?」
「俺は何でもいいけど、歩いたし、ちゃんと食べたいかな」
雫は笑った。
「じゃあ、あそこの洋食屋さんはどう?」
彼女が指差した先には、小さな洋食店があった。
木製の看板には手書きのメニューが並び、窓からは温かい照明が見える。
春樹は頷いた。
「いいね。行ってみよう」
二人は店へ入り、窓際の席へ案内された。
店内には食事の香りが漂い、家族連れや年配の夫婦がゆっくりと昼食を楽しんでいた。
春樹はメニューを開き、少し考えた。
「……ハンバーグ、美味しそうだな」
雫は笑った。
「春樹、昔からハンバーグ好きだよね」
「そうか?」
「うん。小さい頃、外食するとよく頼んでた」
春樹は少し考えた。
確かに、子供の頃はハンバーグを選ぶことが多かった気がする。
「……雫、よく覚えてるな」
春樹が笑うと、雫は少しだけ頬を赤くした。
「……春樹のことだから、覚えてるのかも」
春樹は不思議そうに首を傾げた。
雫は慌ててメニューへ視線を戻した。
「……私はオムライスにしようかな」
春樹はその反応を見て、少しだけ笑った。
雫は昔から、何かを言いかけて途中でやめることがあった。
最近は、その回数が少し増えているような気がする。
しかし、無理に聞き出すことでもないだろう。
二人は注文を済ませ、窓の外を眺めながら今日のことを話し始めた。
展望広場の景色。
昔のベンチ。
小さな橋。
どれも懐かしく、そして新鮮だった。
「……雫、今日は本当にありがとう」
春樹が言うと、雫は顔を上げた。
「えっ?」
「ここに連れてきてくれて。すごく楽しかった」
春樹は穏やかに笑った。
「昔のこと、いろいろ思い出せたし」
雫は少しだけ目を細めた。
「……うん。私も楽しかった」
その声は、少しだけ柔らかかった。
春樹は続けた。
「また、こういうところ行きたいな」
雫は一瞬だけ言葉を失った。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん。私も」
彼女は少しだけ勇気を出して続けた。
「……春樹となら、どこでも楽しいと思う」
春樹は少し驚いた。
その言葉は、何気ないもののようにも聞こえた。
しかし、雫の表情は真剣だった。
春樹は少しだけ考え、穏やかに笑った。
「……俺も、雫と出かけるの楽しいよ」
雫は頬を赤くした。
「……ありがとう」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
そのあと、料理が運ばれてきた。
春樹はハンバーグを一口食べ、嬉しそうに目を細めた。
「……美味しい」
雫はその様子を見て、思わず笑った。
「ふふ。春樹、幸せそう」
「だって美味しいんだもん」
春樹は真面目に答えた。
雫はさらに笑った。
その笑顔を見て、春樹も自然に笑みを浮かべた。
◇◇◇
昼食を終えた二人は、駅へ向かう前に少しだけ商店街を歩くことにした。
通りには昔ながらの店が並び、軒先には季節の飾りが置かれている。大きな商業施設とは違い、ゆっくりと歩きながら店を眺めるのが似合う場所だった。
春樹は通りの途中で、小さな文具店を見つけた。
店先にはノートや便箋、栞などが並んでいる。
「……雫、ちょっと見てもいい?」
春樹が尋ねると、雫は嬉しそうに頷いた。
「もちろん」
二人は店へ入った。
店内には色とりどりの文具が並び、奥の棚には手作りの栞や小さな雑貨が置かれていた。
春樹は栞の棚を眺め、少しだけ笑った。
「……また栞見つけちゃったな」
雫は隣で笑った。
「春樹、本当に栞好きだね」
「本読むとき使うからな」
春樹は真面目に答えた。
雫は少しだけ首を傾げた。
「でも、先週買ったのもあるでしょ?」
「あるけど、何冊も同時に読むことあるし」
春樹は当然のように答えた。
雫は思わず笑ってしまった。
「……そうだったね」
二人は棚に並んだ栞を眺めた。
花の模様。
星空。
小さな動物。
季節の風景。
さまざまなデザインがあり、見ているだけでも楽しかった。
春樹は一枚の栞を手に取った。
淡い緑色の背景に、小さな木の葉が描かれている。
「……これ、今日の場所っぽいな」
雫は顔を向けた。
「本当だ。展望広場の木みたい」
春樹は笑った。
「記念に買おうかな」
雫は少しだけ目を細めた。
「……いいね」
春樹は栞を二枚手に取った。
雫は少し驚いた。
「……二枚?」
「うん。一枚は雫に」
春樹は自然に答えた。
雫は一瞬だけ動きを止めた。
「……えっ、私に?」
「今日連れてきてくれたお礼。大したものじゃないけど」
春樹は少し照れたように笑った。
「同じの持ってたら、今日のこと思い出せるかなって」
雫は言葉を失った。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
春樹にとっては、何気ない思いつきだったのかもしれない。
けれど、雫にとっては特別だった。
今日の思い出を、同じ形で残してくれる。
そのことが嬉しかった。
「……ありがとう、春樹」
雫は小さく微笑んだ。
春樹は頷いた。
「じゃあ、これにしよう」
二人は栞を購入し、店を出た。
雫は受け取った栞を大切そうに鞄へしまった。
その仕草を見て、春樹は少しだけ嬉しくなった。
今日の記念になるものを渡せてよかったと思った。
◇◇◇
帰りの電車では、行きと同じように二人並んで座ることができた。
窓の外には午後の景色が流れ、住宅街の屋根や遠くの木々がゆっくりと後ろへ過ぎていく。車内は行きよりも少し混んでいたが、二人の周囲は比較的静かだった。
雫は鞄の中から、先ほど購入した栞を取り出した。
淡い緑色の背景に描かれた小さな木の葉。
今日訪れた展望広場の景色を思い出させるデザインだった。
「……春樹、これ大切にするね」
雫が言うと、春樹は笑った。
「うん。俺も使うよ」
雫は嬉しそうに頷いた。
そして、少しだけ考えた。
「……ねえ、春樹」
「ん?」
「今日のこと、忘れないでね」
春樹は少し驚いた。
雫は栞を見つめながら、穏やかに続けた。
「昔のことは、少しずつ忘れちゃうかもしれないけど……今日のことは、覚えててほしいなって」
春樹は彼女の横顔を見つめた。
雫の声は静かだったが、その言葉には何か大切な気持ちが込められているように感じられた。
春樹は少しだけ考え、頷いた。
「……忘れないよ」
雫は顔を上げた。
春樹は穏やかに笑った。
「今日、すごく楽しかったし。雫が大切にしてる場所に連れてきてくれたんだから」
雫は少しだけ目を細めた。
「……うん」
その返事は、小さかったが嬉しそうだった。
春樹は続けた。
「それに、また行けばいいだろ?」
雫は驚いたように目を瞬かせた。
「……また?」
「うん。今日みたいに、昔行った場所とか、雫が行きたい場所とか」
春樹は少し照れたように笑った。
「俺も、また一緒に行きたいし」
雫は一瞬だけ言葉を失った。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん。絶対、また行こうね」
春樹は頷いた。
二人はそのまま、窓の外を眺めた。
電車の揺れが心地よく、午後の光が車内へ差し込んでいる。
雫は隣に座る春樹の横顔をちらりと見た。
今日一日、彼は何度も嬉しい言葉をくれた。
服装を褒めてくれたこと。
一緒に出かけるのが楽しみだと言ってくれたこと。
昔の思い出を大切にしてくれたこと。
そして、また一緒に行きたいと言ってくれたこと。
どれも、春樹にとっては自然な言葉だったのだろう。
けれど、雫にとっては大切な宝物のように感じられた。
(……今日、来てよかった)
雫は心の中でそう思った。
まだ、好きだとは言えていない。
けれど、少しずつ前に進めている気がする。
それだけで、今は十分だった。
◇◇◇
夕方、二人は最初に待ち合わせた駅へ戻ってきた。
駅前の広場には買い物帰りの人々が行き交い、昼間よりも少し柔らかくなった日差しが建物を照らしている。
春樹は時計を確認し、雫へ顔を向けた。
「……今日はありがとう。すごく楽しかった」
雫は嬉しそうに笑った。
「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
「いや、俺も行きたかったから」
春樹は穏やかに答えた。
雫は少しだけ頬を赤くした。
「……うん」
二人は駅前の通りを並んで歩き始めた。
帰り道は、行きよりも少し静かだった。
疲れているわけではない。
ただ、今日のことを思い返していると、自然に言葉が少なくなった。
春樹は鞄の中の栞を思い出し、少しだけ笑った。
「……今日買った栞、どの本に使おうかな」
雫は顔を向けた。
「春樹、もう考えてるの?」
「うん。せっかくだし、今日の思い出に合う本がいいかなって」
春樹は少し考えた。
「……昔の約束とか、再会とか、そういう話かな」
雫は一瞬だけ目を見開いた。
そして、少しだけ頬を赤くした。
「……春樹、そういう話好きだよね」
「うん。登場人物の気持ちが変わっていくところが面白いんだよな」
春樹は楽しそうに答えた。
雫はその横顔を見つめながら、小さく笑った。
(……春樹、自分のことになると全然気づかないんだから)
恋愛小説の登場人物なら、春樹はきっとすぐに気持ちを読み取るだろう。
けれど、現実の自分の気持ちには、まだ気づいていない。
それが少しもどかしくもあり、どこか春樹らしくもあった。
雫は小さく息を吐いた。
そして、少しだけ勇気を出して口を開いた。
「……ねえ、春樹」
「何?」
「……今日みたいに、また二人で出かけようね」
春樹は自然に笑った。
「もちろん」
雫は嬉しそうに微笑んだ。
「……約束だよ」
「うん。約束」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのあと、いつもの分かれ道へ到着した。
春樹は足を止め、雫へ手を振った。
「じゃあ、また明日学校で」
「うん。また明日」
雫も手を振った。
春樹は帰り道を歩き始めた。
雫はその背中をしばらく見送っていた。
そして、鞄の中の栞をそっと確かめた。
今日の思い出が、そこに残っている。
彼女は小さく微笑み、家へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
その日の夜、春樹は自室の机に向かいながら、今日購入した栞を眺めていた。
淡い緑色の背景に描かれた小さな木の葉。
展望広場の景色を思い出させるデザインだった。
春樹はそれを、昨日購入した恋愛小説へ挟んだ。
幼馴染だった男女が、昔の約束をきっかけに再会する物語。
今日の雫との外出を思い出すと、何となくこの本に使いたくなった。
(……昔の思い出って、意外と覚えてるもんなんだな)
春樹は少しだけ笑った。
展望広場。
木製のベンチ。
小さな橋。
どれも懐かしかった。
しかし、それ以上に印象に残っているのは、今日の雫の表情だった。
昔の話をするときの、少し寂しそうな笑顔。
自分が覚えていることを伝えたときの、嬉しそうな顔。
そして、また一緒に行こうと約束したときの、安心したような表情。
春樹は本を開きながら、少しだけ考えた。
(……雫にとって、今日は本当に大事な日だったんだな)
そのことを、今になって改めて感じた。
春樹はスマートフォンを手に取った。
雫へ、もう一度だけメッセージを送ろうと思った。
『雫、今日はありがとう。昔のこといろいろ思い出せて楽しかった。また一緒に行こうな』
送信すると、少しして返信が届いた。
『うん。私もすごく楽しかった。春樹と一緒に行けてよかった』
春樹は笑った。
『また明日学校で』
『うん。おやすみ、春樹』
『おやすみ』
春樹はスマートフォンを置き、文庫本へ視線を戻した。
物語の中では、幼馴染だった二人が昔の約束について話していた。
春樹はその場面を読みながら、ふと今日の雫の言葉を思い出した。
『私にとっては、すごく大事なこと』
展望広場で、雫がそう言っていた。
結局、昔何を話したのか、詳しいことまでは聞けなかった。
春樹は少しだけ考えた。
(……そういえば、あのとき何を約束したんだろうな)
記憶を辿ってみても、はっきりとは思い出せない。
しかし、雫が大切にしているなら、いつか聞いてみたいと思った。
春樹は小さく笑い、ページをめくった。
今日の外出は、楽しい思い出になった。
そして、まだ思い出せていない何かが、そこに残っているような気がした。
一方、雫も自室で今日の栞を眺めていた。
春樹と同じ、淡い緑色の木の葉の栞。
彼が選んでくれたものだった。
雫はそれを、春樹から薦めてもらった恋愛小説へ挟んだ。
そして、そっと表紙を撫でた。
(……春樹、あの約束はまだ覚えてないんだね)
少しだけ寂しい気持ちはあった。
けれど、今日一緒にあの場所へ行けたことで、昔の思い出が新しい思い出に変わったような気がしていた。
いつか、あのときの約束をちゃんと話せる日が来るかもしれない。
そのとき、春樹はどんな顔をするのだろう。
雫は少しだけ頬を赤くした。
そして、静かに微笑んだ。
(……今は、まだ秘密にしておこう)
今日の春樹は、何度も嬉しい言葉をくれた。
それだけで、十分に幸せだった。
雫は栞を大切そうに本へ挟み、窓の外へ目を向けた。
夜の住宅街は静かで、遠くの街灯が淡く光っている。
明日から、また学校が始まる。
春樹と一緒に過ごす日常が戻ってくる。
けれど、今日の思い出があるから、明日は少しだけ違って見えるかもしれない。
雫は小さく息を吐き、恋愛小説の続きを読み始めた。
同じ夜、春樹もまた別の本を読んでいる。
二人はそれぞれの部屋で、同じ栞を使いながら、今日の思い出を胸に抱いていた。




