↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/125

第56話 先輩と本屋に行きたいだけなのに、どうして待ち合わせから恋愛小説みたいになるんだ?


 土曜日の午前十一時を少し過ぎた頃、七瀬春樹は自室の机に向かいながら、開いたままの文庫本と壁の時計を交互に見つめていた。


 読みかけの物語は、地方都市の小さな書店を舞台にした日常小説である。主人公が長い間売れ残っていた一冊の本を手がかりに、町の人々の思い出を知っていく話で、昨夜は気になる場面の途中で眠くなってしまった。今朝はその続きを読もうと決めていたのだが、どうにも時計が気になって集中できない。


 午後一時には、駅前の書店で白石栞と待ち合わせをしている。


 普段から図書室で顔を合わせている先輩と、休日に二人で本屋へ行く。そう考えると特別なことのようにも聞こえるが、春樹にとっては以前から楽しみにしていた書店巡りだった。


(白石先輩が見つけた古書店、どんなところなんだろうな。昔の装丁の本があるって言ってたし、絶版になった短編集とか見つかったら嬉しいんだけど)


 春樹は文庫本へ視線を戻したものの、数行読んだところで再び時計を見てしまった。


 まだ出発まで余裕はある。それなのに落ち着かないのは、書店へ行くことを楽しみにしているからだろう。


 そう結論づけた春樹は、ようやく本を閉じて机の上へ置いた。


 今日の服装は、紺色のシャツに薄い灰色の上着、黒いパンツという普段着である。休日に書店へ行くのだから、動きやすければそれでいいと思っていたが、鏡の前に立ったところで少しだけ気になることがあった。


 先週、雫と出かけたときも似たような服装だった気がする。


(……まあ、別にいいか。本屋に行くんだし)


 春樹はそう考えたものの、結局、上着だけは別のものに替えた。


 理由を尋ねられれば、気分転換と答えただろう。


 鞄には財布とスマートフォン、折り畳んだ買い物袋、それから薄い文庫本を一冊入れる。今日の目的は本を買うことなので、持参する本は一冊で十分だった。


 最後にスマートフォンを確認すると、栞からメッセージが届いていた。


『七瀬君、おはようございます。今日はよろしくお願いします。予定どおり午後一時に書店の入口で待っていますね』


 丁寧な文章の最後には、小さな本の絵文字が添えられている。


 春樹は自然に笑みを浮かべた。


『おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。古書店も楽しみにしてます』


 送信すると、ほどなく返信が届いた。


『私もです。気をつけて来てくださいね』


 春樹は画面を閉じ、鞄を肩に掛けた。


 まだ待ち合わせまで時間はあるが、少し早めに出て駅前を歩くのも悪くない。


 そう考えたところで、もう一件メッセージが届いた。


 送り主は西条雫だった。


『春樹、おはよう。今日は白石先輩と本屋さんだよね。楽しんできてね』


 春樹は足を止めた。


 雫は昨日も同じように声をかけてくれていた。自分の予定を覚えていてくれるのは嬉しいが、二日続けて気にかけてくれることに少し驚いた。


『ありがとう。雫は今日は何してるんだ?』


 少し待つと、返信が届いた。


『午前中は家のことを手伝って、午後は明日の準備かな』


『そんなに準備いる場所なのか?』


『そんなに大変じゃないよ。でも、春樹にはまだ秘密』


 春樹は思わず笑った。


『分かった。明日楽しみにしてる』


『うん。私も。今日は気をつけてね』


 画面をしまいながら、春樹は明日のことを考えた。


 雫がそこまで楽しみにしている場所なら、自分もきっと楽しめるだろう。


 ただ、今は今日の書店巡りに集中したい。


 春樹は玄関へ向かい、家を出た。


     ◇◇◇


 駅前の通りは、土曜日らしい賑わいに包まれていた。


 平日の朝とは違い、制服姿の学生は少ない。買い物袋を持った家族連れや、友人同士で歩く若者、駅へ向かう旅行客らしい人々が行き交い、通り沿いの飲食店からは昼食の支度をする匂いが漂っていた。


 春樹が駅前の書店へ到着したのは、待ち合わせの十五分ほど前だった。


 店の入口には新刊の案内が並び、ガラス越しに文庫本の特設棚が見える。今月発売された作品の中には、春樹が気になっていた恋愛小説もあり、思わず足を止めそうになった。


(……いや、先に入ったら待ち合わせにならないか)


 春樹は入口から少し離れた場所へ移動し、通行の邪魔にならないところで栞を待つことにした。


 しばらくして、駅の方から歩いてくる女性の姿が目に入った。


 白いブラウスに淡い青色のカーディガンを合わせ、膝下まである紺色のスカートを穿いている。肩に掛けた小さな鞄と、風に揺れる髪が、学校で見る制服姿とは違った印象を与えていた。


 春樹は一瞬、誰なのか分からなかった。


 しかし、相手がこちらに気づいて微笑んだ瞬間、ようやく見覚えのある顔だと分かった。


「七瀬君。こんにちは」


「……あ、白石先輩。こんにちは」


 春樹は少し驚きながら会釈した。


 栞は彼の反応を見て、不思議そうに首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「いえ、その……学校で会うときと雰囲気が違ったので、ちょっとびっくりしました」


 春樹が正直に答えると、栞は目を瞬かせた。


 それから、自分の服装へ視線を落とす。


「……変でしょうか?」


「えっ、いや、全然。似合ってると思います」


 春樹は慌てて首を振った。


「制服のときは落ち着いた感じですけど、今日は何というか……柔らかい雰囲気で」


 そこまで言って、春樹は言葉を探した。


 服装の感想を伝えることに慣れていないため、どう表現すればいいのか分からなかった。


 栞はそんな彼を見つめながら、少しずつ頬を赤くしていた。


「……ありがとうございます。今日は少しだけ、服を選ぶのに迷ってしまって」


 栞は小さく笑った。


「書店へ行くだけなのに、何だか楽しみで」


 春樹は嬉しそうに頷いた。


「分かります。俺も朝から楽しみで、読書が全然進まなかったんです」


 その返事を聞いた栞は、一瞬だけきょとんとした。


 そして、口元を押さえて笑った。


「……ふふ。七瀬君らしいですね」


「いや、本当に。何回も時計見ちゃって」


 春樹は苦笑した。


 栞はその様子を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 彼が楽しみにしていたのは、きっと書店巡りそのものだろう。


 それでも、自分との約束を楽しみにしてくれていたことが嬉しかった。


「……では、そろそろ入りましょうか」


「はい。よろしくお願いします」


 二人は並んで書店の入口へ向かった。


 自動扉が開くと、紙とインクの混ざったような、春樹にとって馴染み深い匂いが漂ってきた。


 店内には穏やかな音楽が流れ、入口付近の新刊棚には色鮮やかな表紙が並んでいる。


 春樹は思わず笑みを浮かべた。


(……やっぱり本屋っていいな)


 その横顔を見た栞も、嬉しそうに微笑んだ。


     ◇◇◇


 最初に二人が向かったのは、文庫本の新刊棚だった。


 春樹は気になっていた作品を手に取り、裏表紙の紹介文を読み始めた。栞は隣で別の作品を眺めながら、ときどき春樹の手元へ視線を向けている。


「七瀬君、それは恋愛小説ですか?」


「はい。前から気になってた作品なんです。幼馴染だった二人が、大学で再会する話らしくて」


 春樹は表紙を見せた。


 淡い夕焼けの中、駅のホームに立つ男女が描かれている。二人の間には少し距離があり、互いに別の方向を向いていた。


「再会ものなんですね」


「そうです。紹介文を見る限り、昔の約束が関係してるみたいで」


 春樹は楽しそうに続けた。


「こういう話って、再会した時点ではお互いに昔と同じつもりでも、実際には変わってるところがあるじゃないですか。その違いをどう受け入れていくのかが面白いんですよね」


 栞は静かに頷いた。


「……分かる気がします。昔から知っている相手だからこそ、今の相手をちゃんと見られなくなることもありますものね」


 春樹は少し驚いた。


「そうなんです。そこが難しいところなんですよ」


 栞は表紙を眺めながら、穏やかに微笑んだ。


「でも、昔を知っていることが悪いわけではないでしょう?」


「もちろんです。昔の思い出があるからこそ、今の関係が特別になることもありますし」


 春樹はそう答え、少しだけ考えた。


 幼馴染。


 昔の約束。


 その言葉を聞くと、なぜか雫の顔が浮かんだ。


 明日は、彼女が昔訪れたことのある場所へ連れていってくれるらしい。


(……そういえば、雫とも小さい頃からいろんなところ行ったな)


 春樹は本の表紙を見つめた。


 昔の思い出が、今になって違う意味を持つこともある。


 恋愛小説ではよくある展開だが、現実でも似たようなことがあるのだろうか。


 そこまで考えたところで、栞が声をかけた。


「……七瀬君?」


「あ、すみません。ちょっと考え事してました」


 春樹は苦笑した。


 栞は気にした様子もなく微笑んだ。


「その本、購入するんですか?」


「迷ってます。面白そうなんですけど、今日は他にも見たい本があるので」


 春樹は棚へ戻そうとして、もう一度表紙を眺めた。


 栞はその様子を見て、小さく笑った。


「……七瀬君、本当に本を選ぶとき楽しそうですね」


「そうですか?」


「はい。読んでいるときも楽しそうですけど、選んでいるときはまた違う表情をしています」


 春樹は少し照れたように笑った。


「……自分じゃ分からないですね」


 栞は穏やかに頷いた。


「でも、見ている方は楽しいですよ」


 その言葉に、春樹は少しだけ首を傾げた。


 栞はすぐに別の棚へ視線を向けた。


「……あちらに短編集の特集がありますね。行ってみませんか?」


「ぜひ」


 春樹は嬉しそうに頷いた。


 二人は新刊棚を離れ、店の奥へ進んだ。


 短編集の特設棚には、さまざまなジャンルの作品が並んでいた。


 恋愛、ミステリー、日常、少し不思議な物語。


 どれも一冊で完結する作品が多く、普段あまり本を読まない人にも手に取りやすそうだった。


 春樹は棚を眺めながら、昨日考えていた読書週間のことを思い出した。


「……白石先輩、ちょっと相談してもいいですか?」


 栞は顔を向けた。


「もちろんです。どうしましたか?」


「来週の読書週間で紹介する本なんですけど、短編集を一冊入れようと思ってて」


 春樹は棚の一角を指差した。


「でも、普段本を読まない人に薦めるなら、どんな作品がいいのかなって」


 栞は少し考えた。


 そして、棚に並んだ本をゆっくり眺めた。


「……そうですね。最初から難しい設定が多いものより、身近な出来事から始まる作品の方が入りやすいかもしれません」


「やっぱりそうですよね」


「それに、一編ずつ区切りがあるなら、少しずつ読めますし」


 栞は一冊の文庫本を手に取った。


 表紙には、小さな喫茶店の窓辺に置かれたカップが描かれている。


「例えば、こういう作品はどうでしょう。短い話がいくつか入っていて、どれも日常の小さな出来事が中心になっているみたいです」


 春樹は紹介文を読んだ。


 喫茶店を訪れる人々の何気ない会話から、それぞれの悩みや思い出が少しずつ見えてくる物語らしい。


「……面白そうですね」


 春樹は頷いた。


「こういうのなら、途中で区切りやすいし、気に入った話から読めるかもしれない」


 栞は嬉しそうに微笑んだ。


「はい。それに、七瀬君ならきっと、それぞれの話の魅力を上手に伝えられると思います」


 春樹は少しだけ照れた。


「……ありがとうございます。でも、まだ自信ないです」


「大丈夫ですよ。私も手伝いますから」


 栞は穏やかに答えた。


 春樹はその言葉を聞き、少し安心した。


 読書週間の準備は、思っていたよりも大きな仕事になりそうだった。


 しかし、栞や凛、雫も協力してくれるなら、無理なく進められるかもしれない。


「……じゃあ、この本も候補に入れてみます」


 春樹は笑った。


 栞も嬉しそうに頷いた。


 二人はその後も棚を巡りながら、気になる作品について感想を交わした。


 春樹が恋愛小説を手に取れば、栞は登場人物の心理について尋ねる。栞が静かな文学作品を選べば、春樹はその構成や語り口に興味を示した。


 同じ本を見ていても、注目するところが少しずつ違う。


 その違いが、二人にとって心地よい時間になっていた。


     ◇◇◇


 書店を一通り見て回った頃には、時計の針は午後二時を少し過ぎていた。


 春樹は文庫本を二冊購入し、栞も気になっていた作品を一冊選んでいた。


 会計を済ませた二人は、店の外へ出た。


 駅前の通りには、昼食を終えた人々が行き交っている。空はよく晴れており、建物の間から差し込む日差しが歩道を明るく照らしていた。


「……思ったより時間が経ってましたね」


 春樹が時計を確認すると、栞は小さく笑った。


「本を見ていると、あっという間ですね」


「本当に。まだ見たい棚あったんですけど」


「ふふ。七瀬君なら、一日いても飽きなさそうです」


 春樹は真面目に頷いた。


「たぶん飽きないです」


 栞は思わず笑ってしまった。


 春樹もつられて笑った。


 そのあと、栞は少しだけ首を傾げた。


「……古書店、まだ時間は大丈夫ですか?」


「もちろんです。俺は大丈夫ですよ」


 春樹は即答した。


 栞は嬉しそうに微笑んだ。


「では、行きましょうか。ここから少し歩いたところにあるんです」


 二人は駅前の大通りを離れ、少し静かな通りへ入った。


 歩道沿いには小さな雑貨店や喫茶店が並び、古い建物と新しい店舗が混ざっている。大通りほど人通りは多くなく、店先に置かれた鉢植えや看板が、落ち着いた雰囲気を作っていた。


 栞は道を確認しながら、春樹の少し前を歩いていた。


 春樹はその後ろ姿を見つめ、ふと声をかけた。


「白石先輩って、こういう道もよく歩くんですか?」


 栞は振り返った。


「たまにですね。休日に本屋さんを探して歩くことがあるので」


「へえ。いいですね、それ」


 春樹は少し目を輝かせた。


「俺も知らない本屋見つけるの好きなんですけど、最近は同じところばっかり行ってたので」


 栞は嬉しそうに微笑んだ。


「……じゃあ、今日は少し新鮮かもしれませんね」


「かなり楽しみです」


 春樹は笑った。


 その返事を聞いた栞は、少しだけ胸の奥が温かくなった。


 自分が見つけた場所を、彼が楽しみにしてくれている。


 それだけで、今日誘ってよかったと思えた。


 しばらく歩くと、通りの角に小さな看板が見えてきた。


 木製の看板には、落ち着いた字体で店名が書かれている。


 《古書店・月影堂》。


 ガラス扉の向こうには、背の高い本棚が並んでいた。


 春樹は思わず足を止めた。


「……ここですか?」


「はい。少し前に見つけたんです」


 栞は嬉しそうに頷いた。


「外から見ただけでも、面白そうでしょう?」


 春樹は店内を覗き込んだ。


 入口近くには古い文庫本が並び、奥には大判の画集や雑誌らしいものも見える。棚の上には昔の広告ポスターが飾られており、店全体に落ち着いた雰囲気が漂っていた。


「……すごいですね」


 春樹は素直に感心した。


「こういうお店、好きです」


 栞はその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。


「……よかった」


 二人は扉を開け、店内へ入った。


 小さな鈴の音が響く。


 中には紙の古い匂いと、木製の棚の香りが混ざっていた。


 店の奥では年配の男性が本を整理しており、二人に気づくと穏やかに会釈した。


「いらっしゃい。ゆっくり見ていってください」


「こんにちは。お邪魔します」


 栞が丁寧に頭を下げると、春樹も続いて会釈した。


 店主は小さく頷き、再び作業へ戻った。


 春樹は店内を見渡した。


 棚には古い文庫本がぎっしりと並び、ところどころに手書きの紹介札が置かれている。年代ごとに整理された雑誌や、装丁の美しい単行本もあり、普通の書店とは違った楽しさがあった。


(……これは、思った以上にすごいな)


 春樹は自然に笑みを浮かべた。


 栞はその表情を見て、少しだけ嬉しそうに目を細めた。


     ◇◇◇


 月影堂の店内は、外の賑わいが嘘のように静かだった。


 棚の間には人が一人通れるほどの幅しかなく、二人で並ぶと少し窮屈に感じる。春樹は栞の邪魔にならないように一歩後ろへ下がりながら、棚に並んだ本の背表紙を眺めた。


「……七瀬君、こちらに昔の恋愛小説がありますよ」


 栞が小さな声で呼びかけた。


 春樹はすぐに顔を向けた。


「本当ですか?」


 彼女の指差す棚には、少し色褪せた文庫本が並んでいた。


 今では見かけない装丁の作品も多く、春樹は思わず目を輝かせた。


「……これ、昔の版ですね」


 春樹は一冊を手に取り、表紙を眺めた。


 現在販売されているものとは違い、淡い水彩画で描かれた男女が並んでいる。紙は少し黄ばんでいたが、丁寧に扱われていたらしく、状態は悪くなかった。


「知っている作品なんですか?」


 栞が尋ねると、春樹は頷いた。


「はい。新しい版で読んだことあります。こっちの表紙は初めて見ましたけど」


 春樹は楽しそうに続けた。


「この作品、主人公がずっと相手のことを誤解してるんです。でも、読者には少しずつ本当の気持ちが見えてくるようになってて」


 栞は静かに耳を傾けた。


「……それは、もどかしそうですね」


「かなりもどかしいです。でも、そこが面白いんですよ」


 春樹は笑った。


「読者からすると、もう少しちゃんと話せばいいのにって思うんですけど、本人たちはそれができないんですよね」


 栞は少しだけ考えた。


 そして、穏やかに口を開いた。


「……現実でも、そういうことはあるのかもしれませんね」


 春樹は顔を上げた。


「そうですか?」


「はい。大切な相手ほど、言葉を選びすぎてしまうこともあるでしょうし」


 栞は本の表紙へ視線を落とした。


「伝えたいことがあるのに、伝えたことで今の関係が変わってしまうのが怖い……ということも、あるのではないでしょうか」


 春樹は少し考えた。


 恋愛小説ではよく描かれる感情だ。


 しかし、栞がそう話すと、どこか現実味があるように感じられた。


「……確かに、そうかもしれませんね」


 春樹は頷いた。


「俺だったら、ちゃんと話した方がいいって思っちゃいますけど」


 栞は小さく笑った。


「……七瀬君らしいですね」


「そうですか?」


「はい。でも、そうやって素直に話せるところは、素敵だと思います」


 春樹は少し驚いた。


 栞は穏やかに微笑んでいたが、その頬はわずかに赤くなっていた。


「……ありがとうございます」


 春樹は少し照れたように笑った。


 栞はその表情を見て、胸の奥が静かに高鳴るのを感じた。


 今の言葉は、本の感想として話したつもりだった。


 けれど、どこか自分自身の気持ちにも重なっていた。


(……私も、ちゃんと伝えられる日が来るのでしょうか)


 栞は心の中でそう考えた。


 春樹と本の話をする時間は楽しい。


 図書室で顔を合わせるだけでも嬉しいし、今日のように休日を一緒に過ごせることは、さらに特別だった。


 しかし、その気持ちを言葉にすれば、今の関係が変わってしまうかもしれない。


 栞はそのことを考え、少しだけ視線を落とした。


 春樹は彼女の変化に気づかず、手元の文庫本を眺めていた。


「……この本、買おうかな」


 春樹が呟くと、栞は顔を上げた。


「気に入ったんですか?」


「はい。内容は知ってるんですけど、この装丁がすごく好きで」


 春樹は嬉しそうに笑った。


 栞も微笑んだ。


「……いいと思います。好きな作品を、違う形で手元に置くのも素敵ですね」


 春樹は頷き、文庫本を大切そうに持った。


 二人はその後も棚を巡りながら、気になる作品を探した。


 栞は古い随筆集を手に取り、春樹は短編集の棚を眺める。


 ときどき互いに見つけた本を見せ合い、その内容について話す。


 静かな店内で交わされる会話は、普段の図書室とは少し違っていた。


 学校では周囲の生徒や委員会の仕事があり、長く話せないことも多い。


 しかし今日は、時間を気にせず本の話ができる。


 そのことが、二人には嬉しかった。


     ◇◇◇


 古書店を出た頃には、午後三時を少し過ぎていた。


 春樹の手には、書店で購入した二冊と、月影堂で見つけた古い文庫本が入った袋がある。栞も随筆集を一冊購入しており、二人とも満足そうな表情を浮かべていた。


「……思った以上に楽しかったですね」


 春樹が言うと、栞は嬉しそうに頷いた。


「はい。七瀬君と一緒だと、普段なら見逃してしまう本にも気づけました」


「俺もです。白石先輩がいなかったら、あの随筆集の棚とか見なかったと思います」


 春樹は笑った。


 栞は少しだけ頬を緩めた。


「……そう言ってもらえると嬉しいです」


 二人は駅前へ戻る道を歩き始めた。


 午後の日差しは少し傾き、建物の影が歩道へ伸びている。通り沿いの喫茶店からはコーヒーの香りが漂い、店先の黒板には季節限定の飲み物が紹介されていた。


 春樹はその看板へ目を向けた。


「……白石先輩、少し休んでいきませんか?」


 栞は驚いたように顔を上げた。


「えっ?」


「結構歩きましたし、喉も渇いたので。時間が大丈夫ならですけど」


 春樹は穏やかに続けた。


「せっかくですし、買った本の話もしたいなって」


 栞は一瞬だけ黙った。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「……はい。ぜひ」


 その返事は、いつもより少し柔らかかった。


 春樹は嬉しそうに頷いた。


 二人は通り沿いの喫茶店へ入った。


 店内には落ち着いた音楽が流れ、窓際の席には数組の客が座っていた。木製のテーブルには小さな花瓶が置かれ、午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。


 店員に案内された二人は、窓際の二人掛けの席へ座った。


 春樹はメニューを開き、少し考えた。


「……何にしようかな」


 栞は向かい側でメニューを眺めていた。


「私は紅茶にしようと思います」


「じゃあ、俺はコーヒーにします」


 二人は注文を済ませ、買った本を机の端へ置いた。


 栞は自分の袋から随筆集を取り出し、表紙を眺めた。


「……今日は、いい本に出会えました」


 春樹は頷いた。


「俺もです。特に古書店の方、また行きたいですね」


「ふふ。私もそう思います」


 栞は穏やかに笑った。


 春樹は少しだけ考え、口を開いた。


「……白石先輩、今日は誘ってくれてありがとうございました」


 栞は顔を上げた。


「……こちらこそ。来てくれてありがとうございます」


「すごく楽しかったです。学校で話すのとは、また違う感じで」


 春樹は自然に笑った。


「普段は図書室で会うことが多いですけど、こうやって一緒に本屋を回るのもいいですね」


 栞はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。


 彼にとっては、きっと本好き同士の外出なのだろう。


 それでも、今日の時間を楽しかったと言ってくれることが嬉しかった。


「……私も、そう思います」


 栞は小さく微笑んだ。


 そして、少しだけ勇気を出して続けた。


「……七瀬君」


「はい?」


「また、こうして一緒に本屋さんへ行ってもらえますか?」


 春樹は少し驚いた。


 しかし、すぐに嬉しそうに笑った。


「もちろんです。ぜひ行きましょう」


 栞は一瞬だけ言葉を失った。


 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 その声には、隠しきれない喜びが混ざっていた。


 春樹は気づかなかったが、栞は机の下でそっと手を握っていた。


 自分から次の約束を持ちかけることには、少し勇気が必要だった。


 けれど、春樹は迷うことなく頷いてくれた。


 それだけで、今日の外出がさらに大切な思い出になった。


 やがて注文した飲み物が運ばれてきた。


 春樹はコーヒーを一口飲み、窓の外へ目を向けた。


 通りには買い物を終えた人々が行き交い、午後の穏やかな時間が流れている。


「……こういう時間、いいですね」


 春樹が呟くと、栞は少しだけ首を傾げた。


「こういう時間、ですか?」


「はい。本屋を回って、買った本の話して、ちょっと休憩して」


 春樹は笑った。


「本を読むのも好きですけど、こういうのも結構好きだなって」


 栞は静かに頷いた。


「……私もです」


 その返事は、小さかったがはっきりしていた。


 春樹は嬉しそうに笑った。


 二人はその後も、今日見つけた本の話を続けた。


 古い装丁の魅力や、短編集の面白さ、読書週間で紹介する作品の候補。


 話題は尽きることがなく、気づけばカップの中身も少なくなっていた。


     ◇◇◇


 午後四時を過ぎた頃、二人は喫茶店を出て駅前へ戻った。


 空はまだ明るかったが、日差しは少しずつ柔らかくなっている。駅へ向かう人々の流れに混ざりながら、春樹は今日購入した本の袋を持ち直した。


「……今日は本当にありがとうございました」


 栞が言うと、春樹は笑った。


「こちらこそ。すごく楽しかったです」


 栞は少しだけ微笑んだ。


「……また、学校でも本の話をしましょうね」


「はい。読書週間のこともありますし」


 春樹は頷いた。


 栞はその言葉を聞き、少しだけ嬉しそうに目を細めた。


 今日の外出は、これで終わる。


 けれど、学校へ戻ればまた顔を合わせられる。


 来週には読書週間の準備もある。


 それが、少し楽しみだった。


「……七瀬君」


「はい?」


「今日、一緒に過ごせて嬉しかったです」


 栞は少しだけ頬を赤くしながら言った。


 春樹は一瞬だけ驚いた。


 しかし、すぐに穏やかに笑った。


「俺もです。また行きましょう」


 栞は小さく頷いた。


「……はい」


 二人は駅前で別れ、それぞれ帰路についた。


 春樹は歩きながら、今日購入した本のことを考えていた。


 新刊の恋愛小説。


 短編集。


 そして、古書店で見つけた昔の版の文庫本。


 どれから読もうか迷う。


 しかし、それ以上に、今日栞と交わした会話が印象に残っていた。


(……白石先輩と本屋行くの、思った以上に楽しかったな)


 普段の図書室では、周囲の生徒や委員会の仕事がある。


 けれど今日は、時間を気にせず本の話ができた。


 それが嬉しかった。


 春樹は小さく笑い、歩き続けた。


 その頃、栞も帰り道を歩きながら、今日のことを思い返していた。


 春樹が自分の服装を褒めてくれたこと。


 本を選ぶときに楽しそうに笑っていたこと。


 喫茶店へ誘ってくれたこと。


 そして、また一緒に本屋へ行こうと言ってくれたこと。


 どれも小さな出来事だった。


 けれど、栞にとっては大切な思い出になっていた。


(……今日は、本当に楽しかったですね)


 栞は鞄の中の文庫本をそっと確かめた。


 今日購入した随筆集。


 それを読むたびに、きっと今日のことを思い出すだろう。


 彼女は少しだけ微笑み、帰り道を歩いていった。


     ◇◇◇


 その日の夜、春樹は自室の机に購入した本を並べていた。


 新しい恋愛小説。


 短編集。


 古い装丁の文庫本。


 どれも早く読みたい。


 しかし、明日は雫と出かける約束がある。


 朝九時半に駅の改札前で待ち合わせるため、いつもより少し早く準備する必要があった。


 春樹はスマートフォンを確認した。


 雫からメッセージが届いている。


『春樹、おかえり。今日は楽しかった?』


 春樹は少し笑い、返信を打った。


『うん。すごく楽しかった。古書店も面白かったよ』


 少しして、返信が届いた。


『よかったね。どんな本買ったの?』


 春樹は購入した本の写真を撮り、雫へ送った。


『恋愛小説と短編集と、昔の版の文庫本。古書店で珍しいの見つけた』


 雫から、すぐに返信が届いた。


『いいね。春樹が好きそうな本ばっかり』


 春樹は笑った。


『そうなんだよ。読むの楽しみ』


 少しして、雫から新しいメッセージが届いた。


『……明日も、楽しみにしててね』


 春樹は画面を見つめた。


 今日も楽しかった。


 そして、明日も楽しみな予定がある。


 春樹は少しだけ考え、返信した。


『もちろん。雫と出かけるの、楽しみにしてる』


 送信すると、少しだけ間が空いた。


 そして、雫から返信が届いた。


『……うん。私も、すごく楽しみ』


 春樹はその言葉を見つめ、自然に笑みを浮かべた。


(……明日、どこに行くんだろうな)


 行き先はまだ秘密だ。


 けれど、雫がそこまで楽しみにしているなら、きっと大切な場所なのだろう。


 春樹はスマートフォンを置き、机の上の文庫本を一冊手に取った。


 今夜は少しだけ読んで、早めに寝よう。


 そう考えながらページを開いた。


 物語の中では、幼馴染だった二人が久しぶりに再会する場面が始まっていた。


 春樹はその文章を読みながら、ふと雫のことを思い出した。


 明日は、幼い頃に一緒に訪れた場所へ行くのかもしれない。


 そんな予感が、少しだけ胸の奥に残った。


 けれど、春樹はまだ、その意味を深く考えていなかった。


 ただ、明日が楽しみだった。


 そして、今日の栞との時間も、忘れたくない一日になっていた。


 春樹は静かにページをめくった。


 土曜日の夜は、穏やかに更けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。