第56話 先輩と本屋に行きたいだけなのに、どうして待ち合わせから恋愛小説みたいになるんだ?
土曜日の午前十一時を少し過ぎた頃、七瀬春樹は自室の机に向かいながら、開いたままの文庫本と壁の時計を交互に見つめていた。
読みかけの物語は、地方都市の小さな書店を舞台にした日常小説である。主人公が長い間売れ残っていた一冊の本を手がかりに、町の人々の思い出を知っていく話で、昨夜は気になる場面の途中で眠くなってしまった。今朝はその続きを読もうと決めていたのだが、どうにも時計が気になって集中できない。
午後一時には、駅前の書店で白石栞と待ち合わせをしている。
普段から図書室で顔を合わせている先輩と、休日に二人で本屋へ行く。そう考えると特別なことのようにも聞こえるが、春樹にとっては以前から楽しみにしていた書店巡りだった。
(白石先輩が見つけた古書店、どんなところなんだろうな。昔の装丁の本があるって言ってたし、絶版になった短編集とか見つかったら嬉しいんだけど)
春樹は文庫本へ視線を戻したものの、数行読んだところで再び時計を見てしまった。
まだ出発まで余裕はある。それなのに落ち着かないのは、書店へ行くことを楽しみにしているからだろう。
そう結論づけた春樹は、ようやく本を閉じて机の上へ置いた。
今日の服装は、紺色のシャツに薄い灰色の上着、黒いパンツという普段着である。休日に書店へ行くのだから、動きやすければそれでいいと思っていたが、鏡の前に立ったところで少しだけ気になることがあった。
先週、雫と出かけたときも似たような服装だった気がする。
(……まあ、別にいいか。本屋に行くんだし)
春樹はそう考えたものの、結局、上着だけは別のものに替えた。
理由を尋ねられれば、気分転換と答えただろう。
鞄には財布とスマートフォン、折り畳んだ買い物袋、それから薄い文庫本を一冊入れる。今日の目的は本を買うことなので、持参する本は一冊で十分だった。
最後にスマートフォンを確認すると、栞からメッセージが届いていた。
『七瀬君、おはようございます。今日はよろしくお願いします。予定どおり午後一時に書店の入口で待っていますね』
丁寧な文章の最後には、小さな本の絵文字が添えられている。
春樹は自然に笑みを浮かべた。
『おはようございます。こちらこそよろしくお願いします。古書店も楽しみにしてます』
送信すると、ほどなく返信が届いた。
『私もです。気をつけて来てくださいね』
春樹は画面を閉じ、鞄を肩に掛けた。
まだ待ち合わせまで時間はあるが、少し早めに出て駅前を歩くのも悪くない。
そう考えたところで、もう一件メッセージが届いた。
送り主は西条雫だった。
『春樹、おはよう。今日は白石先輩と本屋さんだよね。楽しんできてね』
春樹は足を止めた。
雫は昨日も同じように声をかけてくれていた。自分の予定を覚えていてくれるのは嬉しいが、二日続けて気にかけてくれることに少し驚いた。
『ありがとう。雫は今日は何してるんだ?』
少し待つと、返信が届いた。
『午前中は家のことを手伝って、午後は明日の準備かな』
『そんなに準備いる場所なのか?』
『そんなに大変じゃないよ。でも、春樹にはまだ秘密』
春樹は思わず笑った。
『分かった。明日楽しみにしてる』
『うん。私も。今日は気をつけてね』
画面をしまいながら、春樹は明日のことを考えた。
雫がそこまで楽しみにしている場所なら、自分もきっと楽しめるだろう。
ただ、今は今日の書店巡りに集中したい。
春樹は玄関へ向かい、家を出た。
◇◇◇
駅前の通りは、土曜日らしい賑わいに包まれていた。
平日の朝とは違い、制服姿の学生は少ない。買い物袋を持った家族連れや、友人同士で歩く若者、駅へ向かう旅行客らしい人々が行き交い、通り沿いの飲食店からは昼食の支度をする匂いが漂っていた。
春樹が駅前の書店へ到着したのは、待ち合わせの十五分ほど前だった。
店の入口には新刊の案内が並び、ガラス越しに文庫本の特設棚が見える。今月発売された作品の中には、春樹が気になっていた恋愛小説もあり、思わず足を止めそうになった。
(……いや、先に入ったら待ち合わせにならないか)
春樹は入口から少し離れた場所へ移動し、通行の邪魔にならないところで栞を待つことにした。
しばらくして、駅の方から歩いてくる女性の姿が目に入った。
白いブラウスに淡い青色のカーディガンを合わせ、膝下まである紺色のスカートを穿いている。肩に掛けた小さな鞄と、風に揺れる髪が、学校で見る制服姿とは違った印象を与えていた。
春樹は一瞬、誰なのか分からなかった。
しかし、相手がこちらに気づいて微笑んだ瞬間、ようやく見覚えのある顔だと分かった。
「七瀬君。こんにちは」
「……あ、白石先輩。こんにちは」
春樹は少し驚きながら会釈した。
栞は彼の反応を見て、不思議そうに首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いえ、その……学校で会うときと雰囲気が違ったので、ちょっとびっくりしました」
春樹が正直に答えると、栞は目を瞬かせた。
それから、自分の服装へ視線を落とす。
「……変でしょうか?」
「えっ、いや、全然。似合ってると思います」
春樹は慌てて首を振った。
「制服のときは落ち着いた感じですけど、今日は何というか……柔らかい雰囲気で」
そこまで言って、春樹は言葉を探した。
服装の感想を伝えることに慣れていないため、どう表現すればいいのか分からなかった。
栞はそんな彼を見つめながら、少しずつ頬を赤くしていた。
「……ありがとうございます。今日は少しだけ、服を選ぶのに迷ってしまって」
栞は小さく笑った。
「書店へ行くだけなのに、何だか楽しみで」
春樹は嬉しそうに頷いた。
「分かります。俺も朝から楽しみで、読書が全然進まなかったんです」
その返事を聞いた栞は、一瞬だけきょとんとした。
そして、口元を押さえて笑った。
「……ふふ。七瀬君らしいですね」
「いや、本当に。何回も時計見ちゃって」
春樹は苦笑した。
栞はその様子を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
彼が楽しみにしていたのは、きっと書店巡りそのものだろう。
それでも、自分との約束を楽しみにしてくれていたことが嬉しかった。
「……では、そろそろ入りましょうか」
「はい。よろしくお願いします」
二人は並んで書店の入口へ向かった。
自動扉が開くと、紙とインクの混ざったような、春樹にとって馴染み深い匂いが漂ってきた。
店内には穏やかな音楽が流れ、入口付近の新刊棚には色鮮やかな表紙が並んでいる。
春樹は思わず笑みを浮かべた。
(……やっぱり本屋っていいな)
その横顔を見た栞も、嬉しそうに微笑んだ。
◇◇◇
最初に二人が向かったのは、文庫本の新刊棚だった。
春樹は気になっていた作品を手に取り、裏表紙の紹介文を読み始めた。栞は隣で別の作品を眺めながら、ときどき春樹の手元へ視線を向けている。
「七瀬君、それは恋愛小説ですか?」
「はい。前から気になってた作品なんです。幼馴染だった二人が、大学で再会する話らしくて」
春樹は表紙を見せた。
淡い夕焼けの中、駅のホームに立つ男女が描かれている。二人の間には少し距離があり、互いに別の方向を向いていた。
「再会ものなんですね」
「そうです。紹介文を見る限り、昔の約束が関係してるみたいで」
春樹は楽しそうに続けた。
「こういう話って、再会した時点ではお互いに昔と同じつもりでも、実際には変わってるところがあるじゃないですか。その違いをどう受け入れていくのかが面白いんですよね」
栞は静かに頷いた。
「……分かる気がします。昔から知っている相手だからこそ、今の相手をちゃんと見られなくなることもありますものね」
春樹は少し驚いた。
「そうなんです。そこが難しいところなんですよ」
栞は表紙を眺めながら、穏やかに微笑んだ。
「でも、昔を知っていることが悪いわけではないでしょう?」
「もちろんです。昔の思い出があるからこそ、今の関係が特別になることもありますし」
春樹はそう答え、少しだけ考えた。
幼馴染。
昔の約束。
その言葉を聞くと、なぜか雫の顔が浮かんだ。
明日は、彼女が昔訪れたことのある場所へ連れていってくれるらしい。
(……そういえば、雫とも小さい頃からいろんなところ行ったな)
春樹は本の表紙を見つめた。
昔の思い出が、今になって違う意味を持つこともある。
恋愛小説ではよくある展開だが、現実でも似たようなことがあるのだろうか。
そこまで考えたところで、栞が声をかけた。
「……七瀬君?」
「あ、すみません。ちょっと考え事してました」
春樹は苦笑した。
栞は気にした様子もなく微笑んだ。
「その本、購入するんですか?」
「迷ってます。面白そうなんですけど、今日は他にも見たい本があるので」
春樹は棚へ戻そうとして、もう一度表紙を眺めた。
栞はその様子を見て、小さく笑った。
「……七瀬君、本当に本を選ぶとき楽しそうですね」
「そうですか?」
「はい。読んでいるときも楽しそうですけど、選んでいるときはまた違う表情をしています」
春樹は少し照れたように笑った。
「……自分じゃ分からないですね」
栞は穏やかに頷いた。
「でも、見ている方は楽しいですよ」
その言葉に、春樹は少しだけ首を傾げた。
栞はすぐに別の棚へ視線を向けた。
「……あちらに短編集の特集がありますね。行ってみませんか?」
「ぜひ」
春樹は嬉しそうに頷いた。
二人は新刊棚を離れ、店の奥へ進んだ。
短編集の特設棚には、さまざまなジャンルの作品が並んでいた。
恋愛、ミステリー、日常、少し不思議な物語。
どれも一冊で完結する作品が多く、普段あまり本を読まない人にも手に取りやすそうだった。
春樹は棚を眺めながら、昨日考えていた読書週間のことを思い出した。
「……白石先輩、ちょっと相談してもいいですか?」
栞は顔を向けた。
「もちろんです。どうしましたか?」
「来週の読書週間で紹介する本なんですけど、短編集を一冊入れようと思ってて」
春樹は棚の一角を指差した。
「でも、普段本を読まない人に薦めるなら、どんな作品がいいのかなって」
栞は少し考えた。
そして、棚に並んだ本をゆっくり眺めた。
「……そうですね。最初から難しい設定が多いものより、身近な出来事から始まる作品の方が入りやすいかもしれません」
「やっぱりそうですよね」
「それに、一編ずつ区切りがあるなら、少しずつ読めますし」
栞は一冊の文庫本を手に取った。
表紙には、小さな喫茶店の窓辺に置かれたカップが描かれている。
「例えば、こういう作品はどうでしょう。短い話がいくつか入っていて、どれも日常の小さな出来事が中心になっているみたいです」
春樹は紹介文を読んだ。
喫茶店を訪れる人々の何気ない会話から、それぞれの悩みや思い出が少しずつ見えてくる物語らしい。
「……面白そうですね」
春樹は頷いた。
「こういうのなら、途中で区切りやすいし、気に入った話から読めるかもしれない」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。それに、七瀬君ならきっと、それぞれの話の魅力を上手に伝えられると思います」
春樹は少しだけ照れた。
「……ありがとうございます。でも、まだ自信ないです」
「大丈夫ですよ。私も手伝いますから」
栞は穏やかに答えた。
春樹はその言葉を聞き、少し安心した。
読書週間の準備は、思っていたよりも大きな仕事になりそうだった。
しかし、栞や凛、雫も協力してくれるなら、無理なく進められるかもしれない。
「……じゃあ、この本も候補に入れてみます」
春樹は笑った。
栞も嬉しそうに頷いた。
二人はその後も棚を巡りながら、気になる作品について感想を交わした。
春樹が恋愛小説を手に取れば、栞は登場人物の心理について尋ねる。栞が静かな文学作品を選べば、春樹はその構成や語り口に興味を示した。
同じ本を見ていても、注目するところが少しずつ違う。
その違いが、二人にとって心地よい時間になっていた。
◇◇◇
書店を一通り見て回った頃には、時計の針は午後二時を少し過ぎていた。
春樹は文庫本を二冊購入し、栞も気になっていた作品を一冊選んでいた。
会計を済ませた二人は、店の外へ出た。
駅前の通りには、昼食を終えた人々が行き交っている。空はよく晴れており、建物の間から差し込む日差しが歩道を明るく照らしていた。
「……思ったより時間が経ってましたね」
春樹が時計を確認すると、栞は小さく笑った。
「本を見ていると、あっという間ですね」
「本当に。まだ見たい棚あったんですけど」
「ふふ。七瀬君なら、一日いても飽きなさそうです」
春樹は真面目に頷いた。
「たぶん飽きないです」
栞は思わず笑ってしまった。
春樹もつられて笑った。
そのあと、栞は少しだけ首を傾げた。
「……古書店、まだ時間は大丈夫ですか?」
「もちろんです。俺は大丈夫ですよ」
春樹は即答した。
栞は嬉しそうに微笑んだ。
「では、行きましょうか。ここから少し歩いたところにあるんです」
二人は駅前の大通りを離れ、少し静かな通りへ入った。
歩道沿いには小さな雑貨店や喫茶店が並び、古い建物と新しい店舗が混ざっている。大通りほど人通りは多くなく、店先に置かれた鉢植えや看板が、落ち着いた雰囲気を作っていた。
栞は道を確認しながら、春樹の少し前を歩いていた。
春樹はその後ろ姿を見つめ、ふと声をかけた。
「白石先輩って、こういう道もよく歩くんですか?」
栞は振り返った。
「たまにですね。休日に本屋さんを探して歩くことがあるので」
「へえ。いいですね、それ」
春樹は少し目を輝かせた。
「俺も知らない本屋見つけるの好きなんですけど、最近は同じところばっかり行ってたので」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
「……じゃあ、今日は少し新鮮かもしれませんね」
「かなり楽しみです」
春樹は笑った。
その返事を聞いた栞は、少しだけ胸の奥が温かくなった。
自分が見つけた場所を、彼が楽しみにしてくれている。
それだけで、今日誘ってよかったと思えた。
しばらく歩くと、通りの角に小さな看板が見えてきた。
木製の看板には、落ち着いた字体で店名が書かれている。
《古書店・月影堂》。
ガラス扉の向こうには、背の高い本棚が並んでいた。
春樹は思わず足を止めた。
「……ここですか?」
「はい。少し前に見つけたんです」
栞は嬉しそうに頷いた。
「外から見ただけでも、面白そうでしょう?」
春樹は店内を覗き込んだ。
入口近くには古い文庫本が並び、奥には大判の画集や雑誌らしいものも見える。棚の上には昔の広告ポスターが飾られており、店全体に落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「……すごいですね」
春樹は素直に感心した。
「こういうお店、好きです」
栞はその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。
「……よかった」
二人は扉を開け、店内へ入った。
小さな鈴の音が響く。
中には紙の古い匂いと、木製の棚の香りが混ざっていた。
店の奥では年配の男性が本を整理しており、二人に気づくと穏やかに会釈した。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってください」
「こんにちは。お邪魔します」
栞が丁寧に頭を下げると、春樹も続いて会釈した。
店主は小さく頷き、再び作業へ戻った。
春樹は店内を見渡した。
棚には古い文庫本がぎっしりと並び、ところどころに手書きの紹介札が置かれている。年代ごとに整理された雑誌や、装丁の美しい単行本もあり、普通の書店とは違った楽しさがあった。
(……これは、思った以上にすごいな)
春樹は自然に笑みを浮かべた。
栞はその表情を見て、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
◇◇◇
月影堂の店内は、外の賑わいが嘘のように静かだった。
棚の間には人が一人通れるほどの幅しかなく、二人で並ぶと少し窮屈に感じる。春樹は栞の邪魔にならないように一歩後ろへ下がりながら、棚に並んだ本の背表紙を眺めた。
「……七瀬君、こちらに昔の恋愛小説がありますよ」
栞が小さな声で呼びかけた。
春樹はすぐに顔を向けた。
「本当ですか?」
彼女の指差す棚には、少し色褪せた文庫本が並んでいた。
今では見かけない装丁の作品も多く、春樹は思わず目を輝かせた。
「……これ、昔の版ですね」
春樹は一冊を手に取り、表紙を眺めた。
現在販売されているものとは違い、淡い水彩画で描かれた男女が並んでいる。紙は少し黄ばんでいたが、丁寧に扱われていたらしく、状態は悪くなかった。
「知っている作品なんですか?」
栞が尋ねると、春樹は頷いた。
「はい。新しい版で読んだことあります。こっちの表紙は初めて見ましたけど」
春樹は楽しそうに続けた。
「この作品、主人公がずっと相手のことを誤解してるんです。でも、読者には少しずつ本当の気持ちが見えてくるようになってて」
栞は静かに耳を傾けた。
「……それは、もどかしそうですね」
「かなりもどかしいです。でも、そこが面白いんですよ」
春樹は笑った。
「読者からすると、もう少しちゃんと話せばいいのにって思うんですけど、本人たちはそれができないんですよね」
栞は少しだけ考えた。
そして、穏やかに口を開いた。
「……現実でも、そういうことはあるのかもしれませんね」
春樹は顔を上げた。
「そうですか?」
「はい。大切な相手ほど、言葉を選びすぎてしまうこともあるでしょうし」
栞は本の表紙へ視線を落とした。
「伝えたいことがあるのに、伝えたことで今の関係が変わってしまうのが怖い……ということも、あるのではないでしょうか」
春樹は少し考えた。
恋愛小説ではよく描かれる感情だ。
しかし、栞がそう話すと、どこか現実味があるように感じられた。
「……確かに、そうかもしれませんね」
春樹は頷いた。
「俺だったら、ちゃんと話した方がいいって思っちゃいますけど」
栞は小さく笑った。
「……七瀬君らしいですね」
「そうですか?」
「はい。でも、そうやって素直に話せるところは、素敵だと思います」
春樹は少し驚いた。
栞は穏やかに微笑んでいたが、その頬はわずかに赤くなっていた。
「……ありがとうございます」
春樹は少し照れたように笑った。
栞はその表情を見て、胸の奥が静かに高鳴るのを感じた。
今の言葉は、本の感想として話したつもりだった。
けれど、どこか自分自身の気持ちにも重なっていた。
(……私も、ちゃんと伝えられる日が来るのでしょうか)
栞は心の中でそう考えた。
春樹と本の話をする時間は楽しい。
図書室で顔を合わせるだけでも嬉しいし、今日のように休日を一緒に過ごせることは、さらに特別だった。
しかし、その気持ちを言葉にすれば、今の関係が変わってしまうかもしれない。
栞はそのことを考え、少しだけ視線を落とした。
春樹は彼女の変化に気づかず、手元の文庫本を眺めていた。
「……この本、買おうかな」
春樹が呟くと、栞は顔を上げた。
「気に入ったんですか?」
「はい。内容は知ってるんですけど、この装丁がすごく好きで」
春樹は嬉しそうに笑った。
栞も微笑んだ。
「……いいと思います。好きな作品を、違う形で手元に置くのも素敵ですね」
春樹は頷き、文庫本を大切そうに持った。
二人はその後も棚を巡りながら、気になる作品を探した。
栞は古い随筆集を手に取り、春樹は短編集の棚を眺める。
ときどき互いに見つけた本を見せ合い、その内容について話す。
静かな店内で交わされる会話は、普段の図書室とは少し違っていた。
学校では周囲の生徒や委員会の仕事があり、長く話せないことも多い。
しかし今日は、時間を気にせず本の話ができる。
そのことが、二人には嬉しかった。
◇◇◇
古書店を出た頃には、午後三時を少し過ぎていた。
春樹の手には、書店で購入した二冊と、月影堂で見つけた古い文庫本が入った袋がある。栞も随筆集を一冊購入しており、二人とも満足そうな表情を浮かべていた。
「……思った以上に楽しかったですね」
春樹が言うと、栞は嬉しそうに頷いた。
「はい。七瀬君と一緒だと、普段なら見逃してしまう本にも気づけました」
「俺もです。白石先輩がいなかったら、あの随筆集の棚とか見なかったと思います」
春樹は笑った。
栞は少しだけ頬を緩めた。
「……そう言ってもらえると嬉しいです」
二人は駅前へ戻る道を歩き始めた。
午後の日差しは少し傾き、建物の影が歩道へ伸びている。通り沿いの喫茶店からはコーヒーの香りが漂い、店先の黒板には季節限定の飲み物が紹介されていた。
春樹はその看板へ目を向けた。
「……白石先輩、少し休んでいきませんか?」
栞は驚いたように顔を上げた。
「えっ?」
「結構歩きましたし、喉も渇いたので。時間が大丈夫ならですけど」
春樹は穏やかに続けた。
「せっかくですし、買った本の話もしたいなって」
栞は一瞬だけ黙った。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい。ぜひ」
その返事は、いつもより少し柔らかかった。
春樹は嬉しそうに頷いた。
二人は通り沿いの喫茶店へ入った。
店内には落ち着いた音楽が流れ、窓際の席には数組の客が座っていた。木製のテーブルには小さな花瓶が置かれ、午後の日差しが柔らかく差し込んでいる。
店員に案内された二人は、窓際の二人掛けの席へ座った。
春樹はメニューを開き、少し考えた。
「……何にしようかな」
栞は向かい側でメニューを眺めていた。
「私は紅茶にしようと思います」
「じゃあ、俺はコーヒーにします」
二人は注文を済ませ、買った本を机の端へ置いた。
栞は自分の袋から随筆集を取り出し、表紙を眺めた。
「……今日は、いい本に出会えました」
春樹は頷いた。
「俺もです。特に古書店の方、また行きたいですね」
「ふふ。私もそう思います」
栞は穏やかに笑った。
春樹は少しだけ考え、口を開いた。
「……白石先輩、今日は誘ってくれてありがとうございました」
栞は顔を上げた。
「……こちらこそ。来てくれてありがとうございます」
「すごく楽しかったです。学校で話すのとは、また違う感じで」
春樹は自然に笑った。
「普段は図書室で会うことが多いですけど、こうやって一緒に本屋を回るのもいいですね」
栞はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
彼にとっては、きっと本好き同士の外出なのだろう。
それでも、今日の時間を楽しかったと言ってくれることが嬉しかった。
「……私も、そう思います」
栞は小さく微笑んだ。
そして、少しだけ勇気を出して続けた。
「……七瀬君」
「はい?」
「また、こうして一緒に本屋さんへ行ってもらえますか?」
春樹は少し驚いた。
しかし、すぐに嬉しそうに笑った。
「もちろんです。ぜひ行きましょう」
栞は一瞬だけ言葉を失った。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
その声には、隠しきれない喜びが混ざっていた。
春樹は気づかなかったが、栞は机の下でそっと手を握っていた。
自分から次の約束を持ちかけることには、少し勇気が必要だった。
けれど、春樹は迷うことなく頷いてくれた。
それだけで、今日の外出がさらに大切な思い出になった。
やがて注文した飲み物が運ばれてきた。
春樹はコーヒーを一口飲み、窓の外へ目を向けた。
通りには買い物を終えた人々が行き交い、午後の穏やかな時間が流れている。
「……こういう時間、いいですね」
春樹が呟くと、栞は少しだけ首を傾げた。
「こういう時間、ですか?」
「はい。本屋を回って、買った本の話して、ちょっと休憩して」
春樹は笑った。
「本を読むのも好きですけど、こういうのも結構好きだなって」
栞は静かに頷いた。
「……私もです」
その返事は、小さかったがはっきりしていた。
春樹は嬉しそうに笑った。
二人はその後も、今日見つけた本の話を続けた。
古い装丁の魅力や、短編集の面白さ、読書週間で紹介する作品の候補。
話題は尽きることがなく、気づけばカップの中身も少なくなっていた。
◇◇◇
午後四時を過ぎた頃、二人は喫茶店を出て駅前へ戻った。
空はまだ明るかったが、日差しは少しずつ柔らかくなっている。駅へ向かう人々の流れに混ざりながら、春樹は今日購入した本の袋を持ち直した。
「……今日は本当にありがとうございました」
栞が言うと、春樹は笑った。
「こちらこそ。すごく楽しかったです」
栞は少しだけ微笑んだ。
「……また、学校でも本の話をしましょうね」
「はい。読書週間のこともありますし」
春樹は頷いた。
栞はその言葉を聞き、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
今日の外出は、これで終わる。
けれど、学校へ戻ればまた顔を合わせられる。
来週には読書週間の準備もある。
それが、少し楽しみだった。
「……七瀬君」
「はい?」
「今日、一緒に過ごせて嬉しかったです」
栞は少しだけ頬を赤くしながら言った。
春樹は一瞬だけ驚いた。
しかし、すぐに穏やかに笑った。
「俺もです。また行きましょう」
栞は小さく頷いた。
「……はい」
二人は駅前で別れ、それぞれ帰路についた。
春樹は歩きながら、今日購入した本のことを考えていた。
新刊の恋愛小説。
短編集。
そして、古書店で見つけた昔の版の文庫本。
どれから読もうか迷う。
しかし、それ以上に、今日栞と交わした会話が印象に残っていた。
(……白石先輩と本屋行くの、思った以上に楽しかったな)
普段の図書室では、周囲の生徒や委員会の仕事がある。
けれど今日は、時間を気にせず本の話ができた。
それが嬉しかった。
春樹は小さく笑い、歩き続けた。
その頃、栞も帰り道を歩きながら、今日のことを思い返していた。
春樹が自分の服装を褒めてくれたこと。
本を選ぶときに楽しそうに笑っていたこと。
喫茶店へ誘ってくれたこと。
そして、また一緒に本屋へ行こうと言ってくれたこと。
どれも小さな出来事だった。
けれど、栞にとっては大切な思い出になっていた。
(……今日は、本当に楽しかったですね)
栞は鞄の中の文庫本をそっと確かめた。
今日購入した随筆集。
それを読むたびに、きっと今日のことを思い出すだろう。
彼女は少しだけ微笑み、帰り道を歩いていった。
◇◇◇
その日の夜、春樹は自室の机に購入した本を並べていた。
新しい恋愛小説。
短編集。
古い装丁の文庫本。
どれも早く読みたい。
しかし、明日は雫と出かける約束がある。
朝九時半に駅の改札前で待ち合わせるため、いつもより少し早く準備する必要があった。
春樹はスマートフォンを確認した。
雫からメッセージが届いている。
『春樹、おかえり。今日は楽しかった?』
春樹は少し笑い、返信を打った。
『うん。すごく楽しかった。古書店も面白かったよ』
少しして、返信が届いた。
『よかったね。どんな本買ったの?』
春樹は購入した本の写真を撮り、雫へ送った。
『恋愛小説と短編集と、昔の版の文庫本。古書店で珍しいの見つけた』
雫から、すぐに返信が届いた。
『いいね。春樹が好きそうな本ばっかり』
春樹は笑った。
『そうなんだよ。読むの楽しみ』
少しして、雫から新しいメッセージが届いた。
『……明日も、楽しみにしててね』
春樹は画面を見つめた。
今日も楽しかった。
そして、明日も楽しみな予定がある。
春樹は少しだけ考え、返信した。
『もちろん。雫と出かけるの、楽しみにしてる』
送信すると、少しだけ間が空いた。
そして、雫から返信が届いた。
『……うん。私も、すごく楽しみ』
春樹はその言葉を見つめ、自然に笑みを浮かべた。
(……明日、どこに行くんだろうな)
行き先はまだ秘密だ。
けれど、雫がそこまで楽しみにしているなら、きっと大切な場所なのだろう。
春樹はスマートフォンを置き、机の上の文庫本を一冊手に取った。
今夜は少しだけ読んで、早めに寝よう。
そう考えながらページを開いた。
物語の中では、幼馴染だった二人が久しぶりに再会する場面が始まっていた。
春樹はその文章を読みながら、ふと雫のことを思い出した。
明日は、幼い頃に一緒に訪れた場所へ行くのかもしれない。
そんな予感が、少しだけ胸の奥に残った。
けれど、春樹はまだ、その意味を深く考えていなかった。
ただ、明日が楽しみだった。
そして、今日の栞との時間も、忘れたくない一日になっていた。
春樹は静かにページをめくった。
土曜日の夜は、穏やかに更けていった。




