第55話 金曜日くらい読書に集中したいのに、どうして週末の約束ばかり気になるんだ?
金曜日の朝、七瀬春樹は通学鞄のファスナーを閉めようとして、机の上に残された一冊の文庫本に気づいた。
昨夜、寝る前に読んでいた日常小説だった。地方都市の小さな書店を舞台に、店を訪れる人々の人生が少しずつ交差していく物語で、まだ半分ほどしか読み進められていない。昨日の夜は、来週の校内読書週間について考えているうちに時間が過ぎてしまい、結局、思っていたほどページをめくれなかった。
春樹は文庫本を手に取り、途中に挟んでいた紺色の栞を確かめた。
薄い三日月が描かれたその栞は、先週の土曜日に西条雫と出かけた際、駅前の文具店で購入したものだ。雫は淡い青色に花模様の入った栞を選んでおり、色合いが少し似ていることを二人で笑ったのを覚えている。
(……そういえば、明日も本屋に行くんだったな)
明日の土曜日は、白石栞と駅前の書店へ行く約束がある。午後一時に店の入口で待ち合わせ、そのあと時間があれば、栞が見つけた古書店にも立ち寄る予定だった。
さらに翌日の日曜日には、雫と出かけることになっている。
こちらは朝九時半に駅の改札前で待ち合わせると決まっているものの、行き先はまだ教えてもらっていない。雫が久しぶりに訪れたい場所らしく、歩きやすい靴で来てほしいと言われている。
春樹は鞄の中身を見下ろした。
土曜日は書店と古書店、日曜日は雫との外出。二日とも楽しみな予定だが、その分、自宅でまとまった読書時間を取るのは難しいかもしれない。
(……今日のうちに少し読んでおくか。でも、来週の読書週間のことも考えないといけないんだよな)
昨日、九条凛から頼まれたおすすめ本の紹介については、まだ正式な返事をしていなかった。
凛の説明では、図書委員会と風紀委員会が協力して読書週間を実施するらしい。春樹には、普段あまり本を読まない生徒でも興味を持てそうな作品を選んでほしいという話だった。
昨日の夜、候補をいくつかノートに書き出してみたが、選び始めると予想以上に難しい。
自分が好きな本を紹介するだけなら、いくらでも候補は浮かぶ。しかし、普段読書をしない人にとって読みやすいかどうかまで考えると、話は別だった。
春樹は机の端に置かれたノートへ視線を向けた。
昨夜書き出した項目の最後には、「誰かと感想を話したくなるか」と記してある。
その言葉を見た瞬間、春樹は少しだけ笑った。
(……最近、本を読むだけじゃなくて、誰かと話すことまで考えるようになったな)
以前なら、休日に予定が入ると読書時間が減ることを真っ先に気にしていた。
今でもその気持ちは変わらない。
それなのに、明日も明後日も楽しみにしている自分がいる。
春樹は文庫本を鞄へ入れ、玄関へ向かった。
今日は金曜日だ。
週末のことは楽しみだが、まずは学校で一日を過ごさなければならない。
できれば、昼休みには静かに本を読みたい。
そんな願いを胸に家を出た春樹だったが、その日の学校生活も、どうやら読書だけでは終わりそうになかった。
◇◇◇
朝の通学路には、週末を前にした生徒たちの明るい声が響いていた。
住宅街を抜ける道では、同じ制服を着た生徒たちが数人ずつ集まって歩いている。部活動の予定を話している者もいれば、明日の買い物について相談している者もいた。
春樹が交差点へ差しかかったところで、少し前を歩いていた雫が振り返った。
「あ、春樹。おはよう」
「おはよう、雫。今日は早いな」
「うん。ちょっと早く準備できたから」
雫は笑いながら歩幅を緩め、春樹の隣へ並んだ。
朝の風は少し冷たく、街路樹の葉が小さく揺れている。雫は鞄の持ち手を握り直し、春樹の横顔をちらりと見た。
「春樹、明日は白石先輩と本屋さんだよね?」
「うん。午後一時に駅前の書店で待ち合わせ」
「そっか。古書店にも行くんだっけ?」
「そう。白石先輩が見つけたお店らしくて、昔の雑誌とか装丁の綺麗な本も置いてあるみたいなんだ」
春樹は嬉しそうに答えた。
「普通の書店だと見かけない本もありそうだし、結構楽しみなんだよな」
雫はその表情を見て、小さく微笑んだ。
春樹が本の話をするとき、自然に楽しそうになることは昔から知っている。
だから、彼が明日の外出を楽しみにしていることも、素直に嬉しいと思いたかった。
けれど、胸の奥には少しだけ複雑な気持ちも残っていた。
(……白石先輩と、二人で行くんだよね)
栞が春樹に好意を抱いているかどうか、雫には分からない。
ただ、二人が本の話をしているときの穏やかな雰囲気を見たことはある。
栞は落ち着いた先輩で、春樹の話を丁寧に聞いてくれる。春樹もまた、栞と話す時間を楽しんでいるようだった。
それを嫌だと思うのは、少し違う気がする。
けれど、何も気にならないと言えば嘘になる。
「……雫?」
春樹の声に、雫は顔を上げた。
「えっ、何?」
「いや、何か考えてるみたいだったから」
春樹は少し心配そうに見つめていた。
雫は慌てて笑った。
「ううん。ちょっと、日曜日のこと考えてただけ」
「ああ、そっか。準備とか大丈夫?」
「うん。ほとんど決まったよ」
雫は頷いた。
日曜日に行こうとしている場所については、昨日の夜にも確認してある。
幼い頃、春樹と一緒に訪れたことのある場所。
今の二人でそこへ行けば、きっと昔とは違う景色が見えるだろう。
そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
「……春樹、日曜日は本当に楽しみにしててね」
雫が言うと、春樹は笑った。
「もちろん。雫がそこまで言うなら、期待してる」
「……期待しすぎないでよ?」
「どっちなんだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
雫は少しだけ肩の力を抜いた。
春樹は、明日の栞との外出を楽しみにしている。
けれど、日曜日に自分と出かけることも楽しみにしてくれている。
そのことを、素直に受け止めたいと思った。
「そういえば春樹、読書週間のことはどうするの?」
雫が話題を変えると、春樹は少し考えた。
「まだ正式には返事してないけど、前向きに考えてる」
「本当に?」
「うん。昨日ノートに候補書き出してみたら、結構面白くなってきた」
春樹は少し照れたように笑った。
「ただ、何冊くらい紹介するのかとか、どんな形でやるのかは九条に確認しないとな」
「そうだね。図書委員の人たちとも相談できるかもしれないし」
「うん。全部一人で考えるより、その方がよさそうだ」
春樹は頷いた。
雫は嬉しそうに微笑んだ。
「春樹が本を紹介するところ、私も見てみたいな」
「そんな大したことしないと思うけど」
「でも、春樹が楽しそうに話してたら、聞いてる人も読みたくなると思うよ」
その言葉を聞いて、春樹は少しだけ考えた。
自分が好きな本を誰かに薦めることは、特別なことではないと思っていた。
しかし、雫がそう言ってくれるなら、少しは役に立てるのかもしれない。
「……ありがとう。そう言ってもらえると嬉しい」
春樹は穏やかに笑った。
雫も笑い返した。
学校へ続く道を歩きながら、二人は読書週間の話を続けた。
春樹がどんな本を紹介するのか、雫がどんな手伝いをできるのか。
まだ何も正式に決まっていない。
それでも、二人で一緒に考える時間は、思っていた以上に楽しかった。
◇◇◇
二年三組の教室へ入ると、高坂悠斗が春樹の姿を見つけて手を振った。
「七瀬、おはよう!」
「おはよう。今日は朝から元気だな」
「そりゃ、金曜日だからな」
悠斗は笑いながら答えた。
その表情は、昨日よりさらに明るい。
春樹は少しだけ首を傾げた。
「……何かあった?」
悠斗は周囲を確認し、少し声を落とした。
「昨日、赤木と展示の話したんだけどさ」
「ああ。来週の土曜日のやつ?」
「そう。日程とか確認して、行けそうって話になった」
春樹は嬉しそうに頷いた。
「おお、よかったじゃん」
「まだ細かい時間は決めてないけどな。でも、紗弥も楽しみにしてるって言ってくれて」
悠斗は少し照れたように笑った。
春樹はその表情を見て、素直に嬉しくなった。
「いい感じじゃないか」
「……そう思う?」
「うん。少なくとも、赤木も一緒に行きたいと思ってるんだろ?」
悠斗は頷いた。
「そうなんだよな。だから、俺も変に考えすぎないようにしようと思って」
春樹は小さく笑った。
「それがいいと思う」
悠斗は少しだけ真剣な顔になった。
「……七瀬、ありがとな」
「何が?」
「いろいろ相談乗ってくれて」
春樹は少し驚いた。
悠斗が真面目に礼を言うことは珍しくないが、今朝はいつもより少しだけ照れくさそうだった。
「別に大したことしてないだろ」
「いや、俺にとっては助かったんだよ」
悠斗は穏やかに笑った。
「お前ってさ、変に煽ったりしないで、普通に話聞いてくれるじゃん」
春樹は少し考えた。
「……まあ、友達だからな」
悠斗は一瞬だけ黙った。
そのあと、少しだけ笑った。
「……そういうところだよな」
春樹は眉を寄せた。
「何が?」
「いや、何でもない」
悠斗は笑いながら席へ戻った。
春樹はその背中を見送り、少しだけ首を傾げた。
(……最近、みんな説明を途中でやめること多くないか?)
そんなことを考えながら教科書を取り出していると、教室の入口から赤木紗弥が入ってきた。
紗弥は悠斗の姿を見つけると、自然に笑顔を向けた。
「高坂君、おはよう。昨日の展示のことなんだけど」
悠斗はすぐに顔を上げた。
「おはよう。うん、何?」
「あとで一緒に時間確認してもいい? 私、午前と午後でどっちがいいか迷ってて」
「もちろん!」
悠斗は嬉しそうに答えた。
春樹はその様子を見ながら、少しだけ笑った。
悠斗はまだ正式に紗弥と付き合っているわけではない。
けれど、二人の距離は少しずつ縮まっているように見える。
その変化を、友人として応援したいと思った。
◇◇◇
昼休み、春樹は図書室へ向かう前に、九条凛を探していた。
読書週間のことについて、今日中に返事をしておきたかったからだ。
廊下を歩いていると、ちょうど階段の近くで凛の姿を見つけた。
彼女は風紀委員の腕章をつけ、手元の書類を確認していた。
「九条、ちょっといい?」
春樹が声をかけると、凛は顔を上げた。
「七瀬君。こんにちは」
「こんにちは。昨日の読書週間の話なんだけど」
凛は少しだけ表情を明るくした。
「はい。考えていただけましたか?」
「うん。できれば協力したいと思ってる」
春樹が答えると、凛は小さく頷いた。
「ありがとうございます。助かります」
「ただ、いくつか確認したいことがあって」
「もちろんです。何でしょう?」
春樹は昨日の夜に考えていたことを伝えた。
紹介する本の数。
準備の分担。
昼休みにどれくらい時間を使うのか。
それから、普段あまり本を読まない生徒でも興味を持てるようにしたいという考えも話した。
凛は真剣に聞いていた。
「……なるほど。七瀬君が気にしていることは、もっともだと思います」
凛は書類を見ながら続けた。
「まだ正式な担当分担は決まっていませんが、図書委員会とも相談して、無理のない形にしたいと思っています」
「それならよかった」
春樹は少し安心した。
凛は小さく微笑んだ。
「七瀬君が本の紹介を担当してくださるなら、私たちもできる限り準備を手伝います」
「ありがとう。俺もちゃんと考えてみる」
春樹は頷いた。
凛は少しだけ視線を落とし、書類の一部分を指差した。
「それと、読書週間では安全な読書マナーについても紹介する予定です」
「……ああ、歩き読みのこと?」
春樹が苦笑すると、凛は真面目に頷いた。
「はい。七瀬君も以前は注意の対象でしたが、最近はきちんと守っているようですから」
「そこはもう大丈夫だって」
「ええ。だからこそ、読書の楽しさと安全の両方を伝えられると思っています」
春樹は少し考えた。
確かに、歩きながら本を読むことは危険だ。
以前は夢中になりすぎて周囲への注意が疎かになっていたが、凛に注意されてからは気をつけるようになった。
「……分かった。そこも考えてみる」
春樹が答えると、凛は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございます」
彼女は小さく会釈した。
「正式な予定が決まったら、またお伝えしますね」
「うん。よろしく」
春樹は笑い、図書室へ向かった。
歩きながら、少しだけ考える。
読書週間の準備は、思っていたよりも大きな仕事になりそうだった。
けれど、誰かに本の楽しさを伝えられるなら、それは悪くない。
(……問題は、俺の読書時間をどう確保するかだな)
春樹は真剣に考えた。
その悩みは、まだ解決していなかった。
◇◇◇
図書室へ入ると、白石栞がカウンターで本を整理していた。
春樹に気づくと、彼女は穏やかに微笑んだ。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは、白石先輩」
春樹は軽く会釈した。
栞は机の上の本を整えながら、少しだけ首を傾げた。
「今日は少し遅かったですね」
「九条と読書週間の話してたんです」
「ああ、来週の取り組みですね」
栞は頷いた。
「図書委員会でも準備を進めていますよ」
春樹は少し驚いた。
「そうなんですか?」
「はい。おすすめ本の紹介や、図書室の利用案内をどうするか相談しているところです」
栞は穏やかに続けた。
「七瀬君にも協力をお願いするかもしれないって、話は聞いていました」
春樹は苦笑した。
「今日、九条に協力するって返事してきました」
「……そうなんですね」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
「七瀬君が選ぶ本なら、きっと興味を持ってくれる人が増えると思います」
「そうだといいんですけど」
春樹は少し照れたように笑った。
栞はその表情を見ながら、少しだけ考えた。
春樹は本の話をするとき、いつも楽しそうだ。
しかし最近は、いろいろな人から相談を受けることが増えているように見える。
それ自体は悪いことではないが、彼が自分の読書時間を大切にしていることも知っていた。
「……七瀬君」
「はい?」
「読書週間の準備、無理しないでくださいね」
春樹は少し驚いた。
栞は穏やかに続けた。
「本を紹介するのは楽しいことですけど、七瀬君自身が本を読む時間も大切だと思うので」
春樹は一瞬だけ黙った。
そのあと、小さく笑った。
「……ありがとうございます。実は、そこが一番心配だったんです」
栞は少しだけ目を細めた。
「ふふ。やっぱり」
「そんなに分かりやすいですか?」
「少しだけ」
栞は楽しそうに笑った。
春樹もつられて笑った。
「……でも、白石先輩がそう言ってくれるなら安心しました」
「私も図書委員として手伝いますから。全部一人で抱え込まないでくださいね」
「はい。よろしくお願いします」
春樹は頷いた。
栞は嬉しそうに微笑んだ。
そして、少しだけ声を落とした。
「……それと、明日のことなんですが」
春樹は顔を上げた。
「あ、土曜日の本屋ですよね」
「はい。午後一時に駅前の書店で待ち合わせる予定で、変更はありませんか?」
「大丈夫です。俺も楽しみにしてます」
春樹が答えると、栞は少しだけ頬を緩めた。
「……よかった」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
春樹は気づかなかったが、栞は胸の奥に生まれた小さな期待を感じていた。
明日は、春樹と二人で書店へ行く。
そのあと、古書店にも立ち寄る予定だ。
どんな本を一緒に見られるのか、どんな感想を聞けるのか。
考えるだけで、少し楽しみになってくる。
「じゃあ、明日よろしくお願いします」
春樹が笑うと、栞も微笑んだ。
「はい。こちらこそ」
春樹は窓際の席へ向かい、鞄から文庫本を取り出した。
栞はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
(……明日、楽しみですね)
彼女は胸の奥の期待をそっと抱えたまま、図書委員の仕事へ戻っていった。
◇◇◇
放課後、春樹は教室で帰り支度をしていた。
窓の外では、運動部の生徒たちがグラウンドへ向かっている。廊下には部活動へ向かう生徒たちの声が響き、教室の中も少しずつ静かになっていた。
春樹が鞄を肩に掛けると、雫が近づいてきた。
「春樹、今日はもう帰る?」
「うん。今日は家で本の続きを読もうかなって」
春樹はそう答え、少しだけ笑った。
「でも、その前にちょっと相談したいことがあるんだ」
雫は首を傾げた。
「相談?」
「うん。読書週間のことでさ。九条に協力するって返事してきた」
雫は嬉しそうに笑った。
「本当? よかったね」
「うん。ただ、どんな本を紹介するかはまだ決めてなくて」
春樹は少し考えた。
「雫だったら、普段あんまり本を読まない人に何を薦める?」
雫は少しだけ目を瞬かせた。
そして、ゆっくりと考え始めた。
「……そうだなあ。私だったら、最初から長い話より、短くてもちゃんと面白いと思える話がいいかな」
春樹は頷いた。
「短編集とか?」
「うん。あと、学校とか身近な場所が舞台の話なら、入りやすいかもしれないね」
春樹は少し考えた。
確かに、普段読書をしない生徒にとって、難しい設定が多い作品よりも、身近な題材の方が読みやすいかもしれない。
「……なるほど。参考になる」
春樹は笑った。
雫も嬉しそうに微笑んだ。
「でも、春樹が好きな本も入れてほしいな」
春樹は首を傾げた。
「俺が好きな本?」
「うん。春樹が楽しそうに紹介してたら、それだけで読んでみたくなる人もいると思うから」
春樹は少しだけ考えた。
自分が好きな本を紹介する。
それは簡単なようで、少し難しいことでもある。
好きな作品ほど、伝えたいことが多すぎて、うまくまとめられなくなることがあるからだ。
「……それ、結構難しいかもしれないな」
春樹が苦笑すると、雫は小さく笑った。
「春樹なら大丈夫だよ」
「そんな簡単に言うなよ」
「だって、いつも私に本の話してくれるとき、すごく楽しそうだもん」
雫は穏やかに答えた。
春樹は少しだけ照れたように笑った。
「……ありがとう」
雫は頷いた。
二人は並んで教室を出た。
廊下を歩きながら、春樹は読書週間の候補について考え始めた。
短編集。
学校を舞台にした青春小説。
読みやすいミステリー。
そして、自分が好きな恋愛小説。
いくつか候補を思い浮かべると、少しずつ楽しくなってきた。
「……雫」
「何?」
「もし俺が紹介する本、決まったら先に読んでみる?」
雫は少し驚いた。
「……いいの?」
「うん。雫の感想も聞いてみたいし」
春樹は自然に答えた。
雫は少しだけ頬を赤くした。
「……うん。読みたい」
その返事は、小さかったがはっきりしていた。
春樹は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、候補決まったら持ってくるよ」
「楽しみにしてるね」
雫は微笑んだ。
二人はそのまま昇降口へ向かった。
外へ出ると、夕方の風が少し冷たく感じられた。
春樹は鞄を肩に掛け直し、雫と並んで歩き始めた。
明日は栞と書店へ行く。
明後日は雫と出かける。
そして来週は読書週間の準備が始まる。
予定は少しずつ増えている。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
(……まあ、読書時間はちゃんと確保しないとな)
春樹はそう考えながら、雫と一緒に帰り道を歩いていった。
◇◇◇
その日の夜、春樹は自室の机に向かいながら、明日の予定を確認していた。
午後一時、駅前の書店。
白石栞と待ち合わせ。
そのあと、時間があれば古書店へ。
スマートフォンの予定表には、それだけが書かれている。
春樹は少しだけ笑った。
(……楽しみだな。白石先輩、どんな本を選ぶんだろう)
栞は図書室でよく本を読んでいるが、書店でどんな棚を見るのかまでは知らない。
普段読まないジャンルを一緒に見られるかもしれないし、古書店では思いがけない一冊に出会えるかもしれない。
春樹はそのことを楽しみにしていた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
送り主は栞だった。
『七瀬君、こんばんは。明日はよろしくお願いします』
春樹はすぐに返信した。
『こんばんは。こちらこそよろしくお願いします。古書店も楽しみにしてます』
少しして、返信が届いた。
『私も楽しみです。もし気になる本があったら、ぜひ教えてくださいね』
『もちろんです。白石先輩のおすすめも聞きたいです』
『はい。明日はたくさん本の話ができると嬉しいです』
春樹は画面を見つめ、少しだけ笑った。
栞も明日を楽しみにしてくれている。
それが、素直に嬉しかった。
返信を終えたところで、今度は雫からメッセージが届いた。
『春樹、明日は楽しんできてね』
春樹は少し驚いた。
雫は明日の予定を覚えてくれていたらしい。
『ありがとう。日曜日も楽しみにしてるよ』
少しして、返信が届いた。
『うん。私もすごく楽しみ』
春樹はその言葉を見つめた。
明日も明後日も、誰かと一緒に過ごす予定がある。
以前なら、休日に予定が入ると読書時間が減ることを気にしていた。
しかし今は、それ以上に楽しみな気持ちがある。
(……俺、最近ちょっと変わったのかな)
春樹は少しだけ考えた。
本が好きなことは変わらない。
静かな場所でページをめくる時間は、今でも何より大切だ。
けれど、誰かと一緒に本を選んだり、感想を話したりすることも、少しずつ好きになっている。
それは、悪い変化ではないと思った。
春樹はスマートフォンを置き、机の上の文庫本を開いた。
今夜は、明日のことを考えすぎず、目の前の物語を楽しもう。
そう決めてページをめくった。
しかし、数行読んだところで、ふと雫の言葉を思い出した。
『日曜日は、本当に楽しみにしててね』
春樹は少しだけ笑った。
(……雫、どこに連れていってくれるんだろうな)
その答えは、まだ分からない。
けれど、分からないからこそ楽しみでもある。
春樹は本へ視線を戻した。
静かな夜の部屋には、ページをめくる音だけが響いている。
明日は土曜日。
栞との書店巡りが待っている。
そして、その翌日には雫との約束がある。
春樹はまだ、自分の周囲で少しずつ変わり始めている気持ちに気づいていない。
ただ、週末が楽しみだった。
それだけは、確かなことだった。




