第53話 俺は静かに本を読みたいだけなのに、どうして昼休みの予定まで予約制なんだ?
水曜日の朝、七瀬春樹は自室の机に置いた二冊の文庫本を見比べながら、今日の読書計画を考えていた。
一冊は、昨夜ようやく読み終えた連作短編集。もう一冊は、以前購入したものの、なかなか読む機会を作れずにいた日常系の青春小説である。どちらも好きな作品だったが、読み終えたばかりの短編集には、もう一度確かめたい場面がいくつか残っていた。
特に気になっているのは、最後の一編に登場した喫茶店の店主の言葉だった。
それまでの物語では、店主は登場人物たちの話を聞く側に回ることが多く、自分の事情についてはほとんど語らなかった。ところが最後の一編では、彼が何気なく口にしていた言葉の意味が少しずつ明らかになり、読み終えたあとで最初の物語を振り返りたくなる構成になっていた。
(あの場面、最初に読んだときは普通の会話だと思ったんだけどな。最後まで読むと、店主の返事が全然違って聞こえるんだよな)
春樹は短編集を手に取り、最初の一編を開いた。
まだ家を出るまでには時間がある。朝食も済ませており、制服に着替える必要もないため、十分ほどなら読書に使えるはずだった。
ところが、ちょうど気になっていた場面へ辿り着いたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは、高坂悠斗からのメッセージだった。
『おはよう。今日の昼休み、ちょっと相談してもいいか?』
春樹は本に栞を挟み、返信を打った。
『おはよう。いいけど、何の相談?』
『赤木のこと』
『昨日も普通に話してただろ』
『普通に話せたからこそ、次をどうするか悩んでるんだよ!』
春樹は画面を見つめたまま、少し考え込んだ。
悠斗は先日、赤木紗弥と二人で映画を観に行った。外出は楽しかったらしく、その後も二人は本の感想を話し合ったり、メッセージを送り合ったりしている。
春樹から見れば、順調に仲良くなっているようにしか思えない。
(……それなのに、何で毎回そんなに悩むんだろうな)
もっとも、好きな相手がいる人間の気持ちは、春樹が読んできた恋愛小説にも数え切れないほど描かれている。順調だからこそ不安になったり、相手の何気ない言葉を何度も思い返したりする主人公も珍しくない。
物語として読む分には、その気持ちを理解できるつもりだった。
しかし、実際に目の前で友人が同じような悩み方をしていると、どう助言すればいいのか分からなくなる。
『分かった。昼休みに聞くよ』
『助かる! ありがとう!』
春樹はスマートフォンを置き、時計を確認した。
出発まで、残り七分。
もう一度本を開こうとしたところで、今度は別の通知が届いた。
送り主は小日向ひよりだった。
『春樹先輩、おはようございます! 今日のお昼、図書室にいますか?』
春樹は思わず天井を見上げた。
(……何で今日は朝から昼休みの予定が埋まっていくんだ?)
ひよりには次の推薦本を考えている最中だった。昨日も図書室で顔を合わせたばかりだが、何か話したいことがあるのかもしれない。
『いると思うけど、高坂と少し話す予定がある』
『じゃあ、そのあとで大丈夫です! 真実ちゃんも一緒です!』
『分かった。図書室でな』
『ありがとうございます! 予約一件入りました!』
最後の一文を見た春樹は、しばらく動きを止めた。
(……予約?)
自分は図書室の司書でもなければ、相談窓口を開いているわけでもない。
ただ、本を読みたいだけの高校二年生である。
しかし、画面には確かに「予約一件入りました!」と書かれていた。
春樹は小さく息を吐き、スマートフォンを鞄へしまった。
今日は昼休みに短編集を読み返すつもりだったが、どうやら予定を変更する必要がありそうだ。
それでも、授業が始まる前なら少しは読めるだろう。
そう考えて本を閉じ、玄関へ向かった。
◇◇◇
学校へ到着した春樹は、教室の後方で悠斗が紗弥と話している姿を見つけた。
二人は机の上に一冊の文庫本を広げ、何やら楽しそうに意見を交わしている。紗弥がページの一部分を指差すと、悠斗は少し驚いた顔をしてから笑い、今度は自分の考えを説明し始めた。
春樹はその様子を見て、ますます疑問を深めた。
(……あれだけ普通に話せてるなら、相談することなんてなさそうだけど)
自分の席へ鞄を置き、教科書を取り出していると、隣から声がした。
「おはよう、春樹」
振り向くと、西条雫が立っていた。
彼女はいつものように穏やかな笑みを浮かべていたが、今日はどこか楽しそうにも見える。
「おはよう、雫。昨日は帰り、ありがとうな」
「ううん。こっちこそ、日曜日のこと相談できてよかった」
雫はそう答え、春樹の机に置かれた文庫本へ目を向けた。
「それ、昨日読んでた短編集?」
「うん。昨日の夜に読み終わったんだけど、最初の方をもう一回読みたくなってさ」
「春樹が読み返したくなるくらいなら、かなり面白かったんだね」
「面白かった。最後まで読むと、それまでの話の見え方が変わるんだよ」
春樹は表紙を見せながら、簡単に作品の構成を説明した。
雫は頷きながら聞いていたが、途中で少しだけ首を傾げた。
「それって、最後に全部の謎が解ける感じ?」
「謎解きってほどじゃないかな。最初から答えは出てたんだけど、読者がその意味に気づいてなかったって感じ」
「……なるほど。そういうの、春樹好きだよね」
「好きだな。読み返す楽しみがあるし」
春樹が頷くと、雫は小さく笑った。
「じゃあ、今度私にも貸してくれる?」
「もちろん。今読み返してるところが終わったら持ってくるよ」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
雫は嬉しそうに答えた。
春樹はその表情を見て、自分も少し嬉しくなった。
最近は、雫と本の感想を話す機会が増えている。以前から読書の話をすることはあったが、互いに本を選んだり、読み終えたあとで感想を伝え合ったりするようになってから、会話の内容も少し変わってきた気がした。
雫は春樹が気づかなかった登場人物の感情に目を向けることがあり、同じ物語でも違うところを面白いと感じる。
それが、春樹には新鮮だった。
「そういえば、雫。土曜日にもらった本、もう少しで読み終わりそうなんだ」
春樹がそう言うと、雫の表情が明るくなった。
「本当? どうだった?」
「まだ最後まで読んでないから詳しくは言えないけど、資料室に残された約束を辿っていくところが面白い。最初は主人公が一人で調べてたのに、途中から一緒に考えてくれる相手ができるだろ?」
「うん」
「そこから、謎の見え方まで変わってくるんだよな。一人じゃ気づかなかったことに、二人だから気づけるっていうか」
雫は静かに頷いた。
春樹が自分の選んだ本を楽しんでくれていることが、素直に嬉しかった。
「……よかった。春樹に合うかなって、ちょっと心配だったから」
「かなり好きだよ。選んでくれてありがとう」
春樹は自然に笑った。
雫はその言葉を聞き、一瞬だけ視線を落とした。
頬が少し熱くなる。
(……本のことだって分かってるのに、春樹がそういう言い方するから)
彼に悪気はない。
むしろ、素直に感想を伝えてくれているだけだ。
それでも、雫にとっては嬉しい言葉だった。
「……うん。私も、春樹が選んでくれた本、続きが楽しみ」
雫は小さく笑った。
春樹は頷き、文庫本を鞄へしまった。
そのとき、教室の後方から悠斗の声が聞こえた。
「七瀬! 昼休み、頼むな!」
春樹は振り返った。
「分かってるって!」
悠斗は安心したように頷き、再び紗弥との会話へ戻っていった。
雫はその様子を見て、少し不思議そうに首を傾げた。
「高坂君と何か約束してるの?」
「うん。ちょっと相談があるらしい」
「そうなんだ。最近、高坂君も楽しそうだよね」
雫は紗弥の方へ視線を向けた。
春樹は悠斗の秘密を知っているため、余計なことを言わないように気をつけた。
「まあ、そうだな。映画も楽しかったみたいだし」
「うん。紗弥も楽しそうだったよ」
雫は微笑んだ。
春樹はその言葉に頷きながら、悠斗が聞いたら喜びそうだと思った。
ただし、それをそのまま伝えていいものかは分からない。
紗弥が雫へ話した内容まで、勝手に悠斗へ伝えるのは違う気がした。
(……こういうの、結構難しいな)
春樹は少しだけ考え、今は余計なことを言わないでおくことにした。
◇◇◇
昼休みになると、春樹は悠斗と一緒に校舎の端にある空き教室へ向かった。
普段は補習や委員会の打ち合わせに使われる教室で、昼休みにはほとんど人が来ない。窓からはグラウンドが見え、遠くで運動部の生徒たちがボールを蹴っている姿が見えた。
悠斗は椅子を引いて座ると、少し真剣な表情になった。
「……七瀬、まず最初に聞きたいんだけど」
「うん」
「女の子を二回目の外出に誘うときって、どのくらい間を空けた方がいいと思う?」
春樹は一瞬だけ考えた。
そして、正直に答えた。
「……相手の予定が合えば、いつでもいいんじゃないか?」
悠斗は机に額をつけた。
「お前ならそう言うと思った……」
「いや、だってそうだろ。お互いに行きたいなら、無理に間を空ける必要ないと思うけど」
「そうなんだけどさ。映画に行ったばっかりなのに、また誘ったらしつこいって思われないかなって」
悠斗は顔を上げ、少し困ったように笑った。
春樹はその様子を見ながら、しばらく考えた。
確かに、相手の都合を考えずに何度も誘うのはよくない。
しかし、悠斗は紗弥の返事を無視するような人間ではないし、相手が嫌がっているのに強引に誘うとも思えなかった。
「……高坂さ、赤木と映画行ったとき、楽しかったんだろ?」
「そりゃ、めちゃくちゃ楽しかったよ」
「赤木も楽しそうだったんだろ?」
「うん。映画のあとも結構話したし、帰ってからもメッセージくれた」
「だったら、普通に誘ってみればいいと思うけどな」
春樹は穏やかに続けた。
「無理に今すぐ決めなくてもいいし、興味ありそうな場所があったら話してみればいいんじゃないか?」
悠斗は少し黙った。
春樹の言葉は、いつも驚くほど単純だった。
しかし、その単純さが、時々自分の考えすぎている部分を整理してくれる。
「……そうだよな。変に駆け引きみたいなこと考えなくてもいいよな」
「駆け引き?」
「いや、何でもない」
悠斗は苦笑した。
春樹は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、少し気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、昨日言ってた展示って何だったんだ?」
「ああ。駅の向こうにある文化センターで、映画の原作になった小説の挿絵とか、昔の装丁を紹介する展示をやってるらしいんだ」
春樹は目を輝かせた。
「えっ、それ面白そうじゃないか」
「だろ? 赤木も本の表紙とか好きって言ってたから、誘ってみようかなって」
「それなら、普通に話題にしてみればいいと思う。展示の内容だけでも盛り上がりそうだし」
悠斗は頷いた。
「……うん。今日の放課後、ちょっと話してみる」
「頑張れよ」
春樹が笑うと、悠斗も少しだけ笑った。
しかし、すぐに何かを思い出したように春樹を見つめた。
「……ところで七瀬」
「何?」
「お前、今週末も予定あるんだよな?」
「うん。土曜日は白石先輩と本屋に行くし、日曜日は雫と出かける」
悠斗はしばらく黙った。
その沈黙があまりにも長かったため、春樹は少し不安になった。
「……どうした?」
「いや、何でもない。お前の予定の方が、俺よりよっぽど恋愛小説みたいだなって思っただけ」
春樹は眉を寄せた。
「何でだよ。どっちも普通の外出だろ」
「……そういうところだよ」
悠斗は小さく息を吐いた。
春樹は納得できないまま時計を確認した。
昼休みは、まだ少し残っている。
「じゃあ、俺そろそろ図書室行くわ」
「また本か?」
「いや、小日向たちと話す約束してる」
悠斗は椅子から立ち上がりかけた姿勢のまま止まった。
「……小日向たち?」
「うん。朝、メッセージ来てさ」
「……お前、本当にすごいな」
「何が?」
「もういい。俺は赤木を誘うことだけ考える」
悠斗は苦笑しながら鞄を持ち上げた。
春樹は最後まで意味が分からなかったが、とりあえず友人が少し元気になったようなので、それでよしとした。
◇◇◇
図書室へ入ると、ひよりと真実はすでに窓際の席に座っていた。
ひよりは春樹を見つけるなり、嬉しそうに手を振った。
「春樹先輩! 予約のお時間です!」
春樹は思わず足を止めた。
「……本当に予約制みたいに言うなよ」
「えー、でも今日はちゃんと予約しましたよ?」
「俺、相談窓口じゃないんだけど」
ひよりは楽しそうに笑った。
その隣で、真実が少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、七瀬先輩。ひよりちゃんが朝からずっと楽しそうで……」
「新海が謝ることじゃないよ」
春樹は苦笑しながら、二人の向かいに座った。
机の上には、真実が借りている文化祭の青春小説が置かれている。ページの間には栞が挟まれており、まだ読み終えていないことが分かった。
「それで、今日は何の話?」
春樹が尋ねると、ひよりは少しだけ姿勢を正した。
「実はですね、真実ちゃんと話してたんですけど、春樹先輩に本を薦めてもらうときって、どういうふうに選んでるのかなって気になったんです」
春樹は少し考えた。
「どういうふうにって言われてもな……。相手が好きそうな話を考えてるだけだけど」
「でも、それだけじゃないですよね?」
ひよりは興味深そうに身を乗り出した。
「真実ちゃんには文化祭の話で、私にはカフェの話だったじゃないですか。白石先輩にも違う本を薦めてたし」
春樹は頷いた。
「まあ、同じ本を全員に薦めるわけじゃないからな」
「じゃあ、私の次の本も、ちゃんと私に合わせて考えてくれてるんですか?」
ひよりは少し期待するような目で春樹を見た。
春樹は当然のように頷いた。
「そりゃそうだろ。小日向が楽しめそうな本を探してるんだから」
ひよりは一瞬だけ黙った。
そのあと、少しだけ頬を赤くして笑った。
「……春樹先輩って、そういうこと普通に言いますよね」
「何が?」
「何でもないです!」
ひよりは慌てて首を振った。
真実はその様子を見て、小さく微笑んだ。
春樹は首を傾げたものの、話を続けた。
「小日向には、前に読んでもらったカフェの話みたいに、登場人物同士の会話が楽しい作品が合うと思ってるんだ。でも、同じような話ばっかりだと飽きるかもしれないから、少し違う雰囲気のものも考えてる」
ひよりは真剣な顔で頷いた。
「……なるほど。じゃあ、次はどんな感じになりそうですか?」
「まだ決めてないけど、旅行先で出会った人たちが少しずつ仲良くなる話とか、学校の放送部を舞台にした話とか、候補はいくつかある」
「放送部!」
ひよりの目が輝いた。
「それ、面白そうです!」
春樹は少し笑った。
「じゃあ、そっちも候補に残しておくか」
「お願いします!」
ひよりは嬉しそうに頷いた。
その隣で、真実が少しだけ遠慮がちに口を開いた。
「……七瀬先輩、私も一つ聞いていいですか?」
「もちろん」
真実は机の上の本へ視線を落とした。
「この本、主人公が自分の気持ちをうまく言えなくて、周りの人に誤解されるところがあるじゃないですか」
「ああ、あるな」
「……私、あの場面を読んで、ちょっとだけ分かる気がしたんです」
真実は言葉を選びながら続けた。
「自分ではちゃんと伝えたいと思ってるのに、いざ相手を前にすると、何を言えばいいのか分からなくなることってあるなって」
春樹は静かに頷いた。
真実は普段から丁寧に話すが、少し緊張しやすいところがある。
そのため、主人公の不器用さに共感したのかもしれない。
「……そういうところがあるから、あの主人公は応援したくなるんだよな」
春樹は穏やかに言った。
「うまく言えないからって、何も考えてないわけじゃないし。むしろ、相手のことを考えすぎて言葉が出なくなることもあるだろうし」
真実は顔を上げた。
「……はい」
その返事は小さかったが、表情は少し明るくなっていた。
春樹は続けた。
「だから、あの主人公が少しずつ自分の言葉で話せるようになるところが、俺は好きなんだ」
真実は本の表紙を見つめ、ゆっくり頷いた。
「……私も、最後まで読んでみます」
「うん。読み終わったら、また感想聞かせて」
「はい。ありがとうございます」
真実は嬉しそうに微笑んだ。
ひよりは二人のやり取りを見つめながら、少しだけ目を細めた。
春樹は、相手が何を言おうとしているのかを、急かさずに聞いてくれる。
そのことが、真実にとってどれほど嬉しいか、ひよりには何となく分かる気がした。
(……春樹先輩、やっぱり優しいんですよね。しかも、自分では普通だと思ってるんだから)
ひよりは小さく笑った。
そして、わざと明るい声で言った。
「じゃあ春樹先輩、次の予約も入れておきますね!」
春樹は顔を上げた。
「……まだ予約制続けるのか?」
「もちろんです! 人気の相談員さんですから!」
「だから相談員じゃないって!」
ひよりは楽しそうに笑い、真実もつられて笑った。
春樹は苦笑しながら時計を確認した。
昼休みは、あと十分ほど。
短編集を読むには少し短いが、それでも数ページくらいなら進められる。
そう考えたところで、図書室の入口から声がした。
「……あら、七瀬君。今日も賑やかね」
顔を向けると、一ノ瀬怜華が立っていた。
彼女は昨日借りた文庫本を手に持ち、楽しそうに微笑んでいる。
「一ノ瀬先輩。こんにちは」
「こんにちは。昨日の本、まだ途中なんだけど、少しだけ話したくなって」
春樹は目を輝かせた。
「もう読んでくれたんですか?」
「ええ。昨日の夜に少しね。最初の印象と違うところがあって、続きが気になっているの」
怜華はそう答え、春樹の向かいに座った。
ひよりはその様子を見て、少しだけ肩を震わせた。
「……春樹先輩」
「何?」
「予約、もう一件入りましたね」
春樹は思わず額に手を当てた。
「……だから、予約制じゃないんだって」
怜華は不思議そうに首を傾げた。
「予約?」
ひよりは楽しそうに説明した。
「春樹先輩の本の相談窓口です! 今日は私たちが先に予約してたんです!」
怜華は一瞬だけ目を瞬かせ、それから声を抑えて笑った。
「……なるほど。七瀬君、ずいぶん忙しいのね」
「先輩まで乗らないでください……」
春樹は苦笑した。
しかし、怜華が本の感想を話し始めると、すぐに表情を明るくした。
昨日薦めた『雨上がりの交差点で』について、彼女は主人公の言動に少し違和感を覚えたらしい。
「最初は、主人公が一方的に傷つけられたように見えるでしょう? でも、途中まで読んだところで、少しだけ引っかかるのよね」
怜華は文庫本の表紙を指でなぞりながら続けた。
「本人が語っていないことが、まだあるんじゃないかって」
春樹は嬉しそうに頷いた。
「そうなんです。そこが面白いところなんですよ」
「……ふふ。七瀬君、今すごく楽しそうな顔をしているわ」
「そりゃ、感想聞けるの嬉しいですから」
春樹は素直に答えた。
怜華はその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
「……そう。なら、続きを読んだらまた話しましょう」
「ぜひお願いします」
春樹は頷いた。
その様子を見ていたひよりが、小さく真実へ囁いた。
「……ねえ、真実ちゃん」
「うん?」
「春樹先輩、ほんとに予約制にした方がいいかも」
真実は困ったように笑った。
「……でも、先輩は本を読みたいんじゃないかな」
「そうなんだけどね。でも、みんな春樹先輩と話したいんだもん」
ひよりは少しだけ肩をすくめた。
その言葉は、春樹には聞こえていなかった。
◇◇◇
放課後、春樹は図書室の窓際に座り、ようやく短編集を開いていた。
昼休みは結局、本を読む時間をほとんど確保できなかった。
悠斗の相談に乗り、ひよりと真実の話を聞き、怜華から感想を聞いた。
どれも嫌な時間ではなかったが、読書の予定が少しずつ後ろへ押し出されていることは確かだった。
(……今日は放課後くらい、ちゃんと読もう)
春樹はそう考え、最初の一編を読み返し始めた。
図書室には数人の生徒が残っている。
窓の外では運動部の掛け声が聞こえ、夕方の光が書架の間に長い影を落としていた。
ページをめくる音が、静かな室内に小さく響く。
春樹は物語の世界へ意識を沈めていった。
しばらくして、机の向かいに誰かが座る気配がした。
春樹は顔を上げた。
そこには、白石栞がいた。
「……こんにちは、七瀬君」
「こんにちは、白石先輩」
春樹は本を閉じ、微笑んだ。
栞は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「読書の邪魔をしてしまいましたか?」
「いえ、大丈夫です。ちょうど区切りのいいところだったので」
栞はほっとしたように頷いた。
「よかった。少しだけ、土曜日のことを確認したくて」
「はい。何でしょう?」
栞は鞄から小さなメモ帳を取り出した。
「駅前の書店で待ち合わせることになっていますけど、そのあと、もし時間があれば近くの古書店にも行ってみませんか?」
春樹は目を輝かせた。
「古書店ですか?」
「はい。少し前に見つけたお店なんです。文庫本だけじゃなくて、昔の雑誌や装丁の綺麗な本も置いてあるみたいで」
春樹は少し身を乗り出した。
「それ、かなり面白そうですね」
栞は嬉しそうに笑った。
「七瀬君なら、興味を持ってくれると思いました」
「もちろんです。ぜひ行きたいです」
春樹は即答した。
栞はその反応を見て、胸の奥が少し温かくなった。
自分が見つけた場所を、彼が楽しみにしてくれる。
それだけで、土曜日がさらに待ち遠しくなった。
「……じゃあ、書店を見たあとで、時間があれば寄りましょう」
「はい。楽しみにしてます」
春樹は笑った。
栞も微笑み、メモ帳をしまった。
そのとき、図書室の入口から聞き覚えのある声がした。
「……あら、七瀬君。まだいたのね」
振り向くと、桐谷美月が立っていた。
彼女は数冊の本を抱えており、春樹の姿を見つけると少しだけ笑った。
「先生、こんにちは」
「こんにちは。ちょうどよかったわ。借りてた本、返そうと思って」
美月は鞄から一冊の文庫本を取り出した。
先週、春樹が貸した古書店を舞台にした地方都市のミステリーである。
春樹は嬉しそうに顔を上げた。
「もう読み終わったんですか?」
「ええ。昨日の夜にね。なかなか面白かったわ」
美月は本を差し出しながら、少し考えるように続けた。
「特に、登場人物が自分の都合のいいように過去を解釈しているところが印象的だったわね。最後まで読んでも、全部が綺麗に解決するわけじゃないところもよかった」
春樹は頷いた。
「そこ、俺も好きです。読者がどう受け取るかで、印象変わりますよね」
「そうね。だから、読み終えたあとで少し考えたくなる作品だったわ」
美月は穏やかに笑った。
「いい本を薦めてくれてありがとう」
「いえ。楽しんでもらえてよかったです」
春樹は本を受け取った。
その様子を見ていた栞が、少しだけ目を輝かせた。
「……七瀬君、その本」
春樹は顔を向けた。
「あ、白石先輩。前に読みたいって言ってましたよね」
「はい。もしよければ、次にお借りしてもいいですか?」
「もちろんです」
春樹は本を栞へ差し出した。
栞は嬉しそうに受け取った。
「ありがとうございます。大切に読みますね」
「はい。感想、楽しみにしてます」
春樹は笑った。
美月はそのやり取りを見ながら、少しだけ目を細めた。
「……七瀬君、本当に忙しそうね」
「え?」
「本を薦めたり、貸したり、感想を聞いたり。最近、ずいぶんいろんな人と話しているでしょう?」
春樹は少し考えた。
「……まあ、確かに増えましたね」
「でも、嫌そうには見えないわ」
「嫌じゃないです。本の話するの、楽しいので」
美月は穏やかに頷いた。
「それならいいけど、自分の読書時間もちゃんと確保しなさいね」
春樹は思わず苦笑した。
「……先生、それ今日一番言ってほしかった言葉です」
美月は声を抑えて笑った。
「ふふ。じゃあ、今日はそろそろ読書に戻してあげましょうか」
栞も小さく笑った。
「……すみません、七瀬君。私も長く話してしまいましたね」
「いえ、大丈夫です。土曜日の話もできましたし」
春樹は笑った。
美月は軽く手を振り、図書室を出ていった。
栞もカウンターへ戻り、借りた本を丁寧に鞄へしまった。
春樹はようやく短編集を開いた。
(……よし。今度こそ読める)
しかし、ページをめくったところで、スマートフォンが震えた。
画面には、悠斗からのメッセージが表示されていた。
『七瀬! 赤木に展示の話した!』
春樹は少し笑い、返信を打った。
『どうだった?』
『興味あるって! 詳しい日程調べてから、また話すことになった!』
『よかったじゃん』
『ありがとう! お前に相談してよかった!』
春樹は画面を見つめ、少しだけ口元を緩めた。
悠斗が嬉しそうにしているのは、素直に嬉しい。
相談に乗った甲斐もあった。
『よかったな。楽しんでこいよ』
『まだ決まってないけどな!』
春樹は小さく笑った。
スマートフォンをしまい、再び本へ視線を戻す。
今度こそ、静かな時間が戻ってきた。
◇◇◇
夕方、春樹が図書室を出る頃には、校舎の中も少し静かになっていた。
廊下には部活動へ向かった生徒たちの足音が遠く響き、窓の外では夕日がグラウンドを赤く染めている。
春樹は鞄を肩に掛け、昇降口へ向かった。
途中、階段の踊り場で雫と出会った。
「あ、春樹」
「雫。まだ残ってたのか?」
「うん。紗弥と少し話してたの」
雫は穏やかに笑った。
「春樹は図書室?」
「うん。今日はちょっと読書時間が足りなくてさ」
春樹が苦笑すると、雫は少しだけ首を傾げた。
「何かあったの?」
「高坂の相談に乗って、小日向たちと話して、一ノ瀬先輩に本の感想聞いて、白石先輩と土曜日の話して、桐谷先生から本返してもらって……」
春樹は指を折りながら数えた。
雫は途中から小さく笑い始めた。
「……春樹、すごく忙しかったんだね」
「俺、普通に本読みたかっただけなんだけどな」
「でも、全部楽しそうに話してたんでしょ?」
春樹は少し考えた。
「……まあ、そうだな」
雫は嬉しそうに笑った。
「だったら、いい一日だったんじゃない?」
春樹はその言葉を聞き、少しだけ考えた。
確かに、読書時間は減った。
けれど、嫌なことがあったわけではない。
悠斗の相談に乗れたことも、ひよりや真実と話せたことも、怜華や栞、美月と本の感想を共有できたことも、全部楽しかった。
「……そうかもしれないな」
春樹は小さく笑った。
雫はその表情を見て、少しだけ安心したように頷いた。
「ねえ、春樹」
「ん?」
「日曜日は、読書時間が少なくなっても大丈夫?」
春樹は少し驚いた。
雫は冗談めかして笑っていたが、その目には少しだけ期待が混ざっていた。
春樹は考えた。
日曜日は雫と出かける約束をしている。
行き先はまだ秘密だが、久しぶりに行く場所だと言っていた。
それなら、当日はその時間を楽しみたい。
「……大丈夫だよ」
春樹は穏やかに答えた。
「日曜日は雫と出かける日だし。本は帰ってからでも読めるから」
雫は一瞬だけ動きを止めた。
そのあと、少しだけ頬を赤くして笑った。
「……そっか」
春樹は首を傾げた。
「どうした?」
「ううん。何でもない」
雫は小さく首を振った。
そして、少しだけ嬉しそうに続けた。
「……ありがとう、春樹。私も楽しみにしてる」
春樹は頷いた。
「うん。俺も」
二人は並んで昇降口へ向かった。
夕方の校舎には、柔らかな光が差し込んでいる。
春樹は今日一日を振り返りながら、少しだけ笑った。
結局、予定していたほど本は読めなかった。
けれど、誰かと話す時間も悪くない。
むしろ、最近はそういう時間が少しずつ増えている。
そのことを、春樹はまだ深く考えていなかった。
ただ、日曜日に雫と出かけるのが楽しみだった。
そして、土曜日に栞と古書店へ行くことも楽しみだった。
もちろん、今夜は短編集を読み返すつもりでいる。
(……やっぱり、読書時間の確保は大事だよな)
春樹はそう考えながら、雫と一緒に校門を出た。
隣を歩く雫は、そんな春樹の横顔を見つめ、少しだけ微笑んでいた。
彼が本を好きなことは、昔から変わらない。
けれど、最近の春樹は、本を読む時間だけでなく、誰かと過ごす時間も大切にするようになってきた。
その変化が、雫には嬉しかった。
そして、日曜日には、その時間を自分と一緒に過ごしてくれる。
そう思うだけで、胸の奥が少し温かくなった。
雫は夕暮れの道を見つめながら、そっと歩幅を合わせた。
春樹はそのことに気づかないまま、今日読んだ短編集の話を始めた。
雫は楽しそうに耳を傾ける。
二人の帰り道には、いつものように穏やかな会話が続いていた。




