第52話 生徒会長に本を薦めたいだけなのに、どうして俺の読書時間まで管理されるんだ?
火曜日の朝、七瀬春樹は自室の机に向かいながら、一冊の文庫本を通学鞄へ入れるべきかどうか迷っていた。
昨夜、寝る前に読み返した現代小説である。大きな事件が起こるわけでも、派手などんでん返しが待っているわけでもない。ただ、同じ出来事を経験した人々が、それぞれ違う事情や後悔を抱えており、誰の言い分にも簡単には頷けないところが、この作品の面白さだった。
昨日、一ノ瀬怜華から聞いた希望には、かなり合っていると思う。
問題は、春樹自身がもう一度読みたくなってしまったことだった。
(……これ、やっぱり面白いんだよな。最初に読んだときは主人公の方に共感してたけど、読み返すと友達の言い分も分かるし)
春樹は表紙を撫で、少しだけ考えた。
怜華に薦めるなら、実物を見せた方が説明しやすい。自分の本を貸すこともできるが、彼女がすでに持っている可能性もあるため、まずは作品を知っているか確認した方がいいだろう。
そこまで考えてから、春樹は文庫本を鞄へ入れた。
代わりに、今日読むつもりだった短編集を取り出しかけて、手を止める。
(……いや、何でどっちか一冊にしようとしてるんだ。二冊持っていけばいいだろ)
当然の結論に辿り着いた春樹は、短編集も鞄へ収めた。
少し重くなったが、通学に支障が出るほどではない。むしろ、読書用の本を持たずに登校する方が落ち着かない。
準備を終えたところでスマートフォンが震えた。
画面には、西条雫の名前が表示されていた。
『おはよう、春樹。今日、帰りに少し時間ある?』
春樹は時計を確認した。
今日は特別な用事もなく、放課後に図書室へ寄るつもりではあったものの、急いで帰らなければならない理由はない。
『おはよう。大丈夫だよ。どうした?』
少しして返信が届いた。
『日曜日のことで相談したいことがあるの。帰りに話してもいい?』
春樹はすぐに納得した。
雫とは、次の日曜日に一緒に出かける約束をしている。行き先は彼女が決めることになっていたが、昨日の時点ではまだ秘密だった。
『もちろん。帰りに聞くよ』
『ありがとう。じゃあ、また学校でね』
春樹は返信を終え、スマートフォンをしまった。
日曜日の行き先が、いよいよ決まったのかもしれない。
雫は歩きやすい靴で来てほしいと言っていた。そこから考えられる場所はいくつかあるが、本人に推理しないでほしいと頼まれている以上、あれこれ予想するのはやめておこう。
(……まあ、どこでも楽しそうだけどな。雫が行きたいところなら、何か理由があるんだろうし)
春樹は鞄を肩に掛け、部屋を出た。
今日は怜華へ本を薦める約束もある。
雫とは帰りに話す予定ができた。
それでも、昼休みには短編集を読み進めたい。
春樹はそんな一日の予定を頭の中で組み立てながら、玄関へ向かった。
◇◇◇
二年三組の教室は、朝から少し騒がしかった。
窓際では男子たちが週末の試合について話し、教室の後方では女子生徒たちが新しく公開された映画の話題で盛り上がっている。黒板には今日の提出物が書かれており、慌てて鞄を探っている生徒の姿もあった。
春樹が席へ着くと、隣から高坂悠斗が声をかけてきた。
「おはよう、七瀬。今日は何か機嫌よさそうだな」
「おはよう。別にいつもどおりだけど」
「いや、何か楽しそうな顔してたぞ。新しい本でも買った?」
春樹は鞄から教科書を取り出しながら答えた。
「新しい本じゃないけど、昨日読み返したやつが面白くてさ。今日はそれを一ノ瀬先輩に薦めるつもり」
「……なるほど。お前の場合、そういう理由か」
悠斗は妙に納得した様子で頷いた。
春樹は少し眉を寄せる。
「何だよ、その言い方」
「いや、普通に感心してるんだって。俺なんか昨日、紗弥と何話そうか考えてたら、結局寝るの遅くなったし」
悠斗は苦笑しながら、自分の席へ鞄を置いた。
昨日、紗弥との次の外出について相談されたことを思い出し、春樹は少し声を落とした。
「そういえば、昨日言ってた展示の話はどうなった?」
「まだ誘ってない。昨日は映画の原作の話をして、それで結構盛り上がったからさ」
「じゃあ、無理に急がなくてもいいんじゃないか」
「分かってる。分かってるんだけど、つい考えちゃうんだよな」
悠斗は机に肘をつき、少し遠い目をした。
春樹はその横顔を眺めながら、恋愛というものの難しさについて改めて考えた。
好きな相手と話せたら嬉しい。
次も一緒に出かけたい。
その気持ちは理解できるが、だからといって何を話すかまで毎晩考え続けるのは、なかなか大変そうだった。
「……お前、そんなに考えて疲れないのか?」
春樹が尋ねると、悠斗は顔を上げた。
「疲れるときもあるけど、楽しい方が大きいかな。次に何話そうか考えるのも、別に嫌じゃないし」
「そういうものか」
「そういうものなんだよ」
悠斗は少し笑い、春樹の顔を覗き込んだ。
「お前だって、雫と次にどこ行こうか考えたりしないの?」
「日曜日に出かける約束してるから、楽しみにはしてるけど」
春樹が自然に答えると、悠斗の動きが止まった。
「……日曜日?」
「うん。雫が行き先を考えてくれてるんだ」
「ちょっと待て。先週の土曜日も二人で出かけたよな?」
「本屋に行ったな」
「で、今度の日曜日も?」
「そうだけど」
悠斗はしばらく春樹を見つめていた。
その表情は、何か重要な事実を確認しようとしているようにも見える。
「……七瀬、お前さ」
「何だよ」
「いや、やっぱりいい。朝から俺の精神力が削られそうだ」
春樹はますます分からなくなった。
昨日も似たような反応をされた気がする。
「お前、最近説明を途中でやめすぎじゃないか?」
「説明して分かるなら、俺も苦労してないんだよ」
「何の話だよ、それ」
春樹が聞き返すと、悠斗は天井を見上げた。
ちょうどそのとき、教室の入口から雫と紗弥が入ってきた。
雫は春樹に気づくと、小さく手を振る。
「おはよう、春樹。高坂君も、おはよう」
「おはよう、雫」
「お、おはよう、西条」
悠斗の返事は、少しだけ不自然だった。
紗弥がその隣から顔を覗かせる。
「高坂君、おはよう。昨日話してた本、ちょっと続きを読んでみたんだけど」
悠斗はすぐに姿勢を正した。
「おはよう、赤木。あの場面の続き?」
「うん。高坂君が言ってたところ、確かに読み返すと印象違うね」
紗弥は楽しそうに笑った。
悠斗も嬉しそうに頷き、二人はそのまま本の話を始めた。
春樹はその様子を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
(……昨日あんなに悩んでたのに、普通に話せてるじゃないか)
悠斗は、好きな相手を前にすると緊張するらしい。
けれど、共通の話題があると自然に会話できる。
その姿を見ていると、昨日の相談に対する答えは、案外単純だったのではないかと思えてきた。
無理に新しい話題を探さなくても、二人が楽しめるものを大切にすればいい。
春樹はそう考えながら、教科書を机へ並べた。
すると、雫が隣へやってきた。
「春樹、朝のメッセージ見てくれた?」
「うん。帰りで大丈夫だよ」
「ありがとう。そんなに時間はかからないと思うけど、ちょっと相談したくて」
雫は少し照れたように笑った。
春樹は頷き、彼女の顔を見た。
「楽しみにしてる。行き先、決まりそう?」
「……うん。だいぶ決まってきたよ」
雫の声には、期待と少しの緊張が混ざっていた。
春樹はそれに気づいたものの、無理に聞こうとはしなかった。
「そっか。じゃあ、帰りにゆっくり話そう」
「うん」
雫は嬉しそうに頷き、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、春樹はふと思った。
(……雫、何か楽しそうだな)
自分との外出を楽しみにしてくれているのだろう。
そう考えると、春樹も少し嬉しくなった。
◇◇◇
昼休み、春樹は弁当を食べ終えると、短編集を片手に図書室へ向かった。
今日は怜華へ本を薦める約束があるが、彼女と何時に会うかまでは決めていない。昨日は放課後に教室まで来てくれたため、今日もその時間になるかもしれなかった。
それなら、昼休みくらいは読書に集中したい。
そう考えて廊下を歩いていると、階段の踊り場で聞き覚えのある声がした。
「あっ、春樹先輩!」
顔を向けると、小日向ひよりがこちらへ駆け寄ってきた。
その少し後ろには、新海真実もいる。
二人とも一年生の制服を着ており、ひよりはいつものように明るい笑顔を浮かべていた。一方、真実は春樹と目が合うと、少し緊張したように背筋を伸ばした。
「こんにちは、七瀬先輩」
「こんにちは。二人とも、今から図書室?」
春樹が尋ねると、ひよりは大きく頷いた。
「そうです! 真実ちゃんが本を返す前に、ちょっと感想を整理したいって言ってたので」
真実は慌てて首を振った。
「ひよりちゃん、そんな大げさなことじゃないよ。まだ読み終わってないし、今日は図書室で続きを読もうと思ってただけだから」
「あれ、そうだったっけ?」
「そうだよ……」
二人のやり取りを見て、春樹は小さく笑った。
真実には、文化祭を舞台にした青春小説を貸している。
先週、読んでいる途中の感想をメッセージで送ってくれたこともあった。
「新海、あの本どう? 無理に急いで読まなくていいからな」
春樹が声をかけると、真実は嬉しそうに顔を上げた。
「はい。すごく面白いです。最初は文化祭の準備の話だと思ってたんですけど、途中から登場人物の気持ちが少しずつ変わっていくところが好きで……」
真実はそこで一度言葉を切り、少し考えてから続けた。
「特に、主人公が自分では何もできてないって思ってるのに、周りの人はちゃんと助けられてるところが、いいなって思いました」
春樹は頷いた。
「ああ、そこいいよな。本人が気づいてないところで、誰かの支えになってるっていうのがさ」
「はい。だから、最後まで読むのが楽しみです」
真実は少し照れたように笑った。
ひよりはそんな二人を交互に見つめ、口元を緩める。
「……春樹先輩って、やっぱり本の話してるときが一番楽しそうですね」
「そりゃ本が好きだからな」
「知ってます。でも、相手が楽しそうに話してるのを見るのも好きですよね?」
春樹は少し考えた。
確かに、誰かが自分の薦めた本を楽しんでくれるのは嬉しい。
感想を聞くと、自分が気づかなかった読み方を知ることもある。
「……まあ、そうだな。自分だけで読むのとは違う面白さがあるし」
春樹が答えると、ひよりは満足そうに頷いた。
「やっぱり! じゃあ、私の次の本も楽しみにしてますね」
「ああ。まだ候補を絞ってるところだけど」
「大丈夫です。春樹先輩が選んでくれるなら、ちゃんと待ちます!」
ひよりは明るく笑った。
その隣で、真実が小さく微笑んでいる。
春樹は二人と一緒に図書室へ向かった。
廊下の窓からは柔らかな日差しが差し込み、床に長い光の帯を作っている。昼休みの校舎は賑やかだったが、図書室へ近づくにつれて、少しずつ声が遠くなっていった。
扉を開けると、室内には紙と木の棚が混ざった落ち着いた匂いが漂っていた。
春樹はいつもの窓際の席へ向かい、ひよりと真実は少し離れた書架へ歩いていく。
そのとき、カウンターにいた白石栞が顔を上げた。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは、白石先輩」
春樹は軽く会釈した。
栞は机の上の返却本を整えながら、穏やかに微笑んだ。
「今日も読書ですか?」
「はい。今日は短編集の続きを読みたくて」
「昨日も読んでいた本ですね」
「覚えてたんですか?」
「ええ。少しだけ表紙が見えましたから」
栞はそう答えてから、少し迷うように視線を動かした。
「……それと、土曜日のことなんですが」
春樹はすぐに頷いた。
「あ、待ち合わせですよね」
「はい。もし七瀬君がよければ、駅前の書店の入口で待ち合わせにしませんか?」
春樹は少し考えた。
駅前の書店なら場所も分かりやすく、待ち合わせに困ることはない。
「いいですね。時間は一時くらいでどうですか?」
栞は嬉しそうに頷いた。
「はい。私もそのくらいがちょうどいいです」
「じゃあ、土曜日の午後一時、駅前の書店の入口で」
「はい。よろしくお願いします」
栞は微笑んだ。
春樹も笑い返し、窓際の席へ向かった。
その後ろ姿を見送りながら、栞は胸の奥に生まれた小さな期待を感じていた。
土曜日の約束が、少しずつ具体的になっていく。
時間と場所が決まっただけなのに、それだけで当日が近づいてきたように思えた。
(……どんな本を一緒に見られるでしょうか)
栞は机の上の返却本へ視線を戻した。
まだ仕事は残っている。
けれど、手元の作業を進めながらも、心のどこかで土曜日のことを考えていた。
◇◇◇
春樹が短編集を読み始めてから、十分ほどが経った頃だった。
物語の中では、商店街の小さな喫茶店を舞台に、以前登場した人物の別の一面が描かれている。春樹はその繋がり方に感心し、思わず口元を緩めた。
ちょうど次のページへ進もうとしたところで、机の横に人影が落ちた。
「……あら、ずいぶん楽しそうね」
聞き覚えのある声に顔を上げると、一ノ瀬怜華が立っていた。
彼女は春樹の手元の本を見て、少しだけ眉を上げる。
「今日は何を読んでいるの?」
「短編集です。同じ町を舞台にした連作で、登場人物同士の繋がり方が面白くて」
「なるほど。七瀬君らしい選び方ね」
怜華は穏やかに微笑んだ。
春樹は本を閉じ、栞を挟んだ。
「一ノ瀬先輩、ちょうどよかったです。昨日話してた本、持ってきました」
「あら、本当?」
「はい。少し説明したいんですけど、今時間あります?」
「もちろん。そのために来たんだもの」
怜華は春樹の向かいの席へ腰を下ろした。
図書室の窓から入る光が、彼女の髪を柔らかく照らしている。周囲では数人の生徒が静かに本を読んでおり、二人も自然に声を落とした。
春樹は鞄から一冊の文庫本を取り出した。
「これです。『雨上がりの交差点で』っていう作品なんですけど」
怜華は表紙を見つめた。
淡い灰色の空の下、濡れた交差点を歩く人々が描かれている。中央には傘を持った女性が立っており、その少し離れたところに、背を向けた男性の姿があった。
「……綺麗な表紙ね」
「ですよね。でも、中身は結構考えさせられる話なんです」
春樹は少し身を乗り出した。
「主人公は、ある出来事をきっかけに昔の友達と疎遠になってるんです。でも、その出来事について、主人公と友達で受け取り方が全然違ってて」
怜華は興味深そうに頷いた。
「同じ出来事なのに?」
「はい。しかも、どっちかが完全に悪いって話じゃないんですよ。読んでると最初は主人公の方に共感するんですけど、途中から相手の事情も分かってきて」
春樹は少し考え、言葉を選んだ。
「……読者としては、どちらかに正しいって言いたくなるんです。でも、最後まで読むと、そう簡単に決められないんですよね」
怜華は表紙へ視線を落とした。
昨日、自分が求めていたのは、まさにそういう作品だった。
誰かの行動を簡単に善悪で判断するのではなく、その人がなぜそうしたのかを考えられる物語。
「……面白そうね」
怜華は静かに言った。
「それで、七瀬君はどちらの人物に共感したの?」
春樹は少し笑った。
「最初は主人公です。でも、読み返したら友達の方も分かるようになりました」
「それは、どうして?」
「主人公が知らなかったことを、読者は後から知るからです。そうすると、前半の何気ない台詞の意味まで変わって見えてくるんですよ」
怜華は目を細めた。
「……なるほど。読み返す楽しみもあるのね」
「はい。俺、昨日また読み返したんですけど、最初に読んだときと結構印象変わりました」
春樹は楽しそうに続けた。
「特に、主人公が昔の友達と話す場面があるんですけど、そこがいいんですよ。お互いに全部分かり合えるわけじゃないのに、それでも話そうとするところが」
怜華は春樹の表情を見つめた。
彼は本当に楽しそうだった。
作品の内容を説明しているだけではなく、読んだときに自分が何を感じたのかまで、丁寧に伝えようとしている。
その姿を見ていると、春樹がなぜ多くの人から本の推薦を頼まれるのか、少し分かる気がした。
「……七瀬君」
「はい?」
「あなた、本を薦めるとき、本当に相手のことをよく考えているのね」
春樹は少し照れたように笑った。
「いや、せっかく読むなら楽しんでもらいたいので」
「それが簡単にできることじゃないのよ」
怜華は穏やかに言った。
「自分が好きなものを薦めるのと、相手が楽しめるものを選ぶのは、少し違うでしょう?」
春樹はその言葉を聞き、少し考えた。
確かに、自分が好きな本をそのまま薦めればいいわけではない。
相手が何を面白いと感じるのか、どんな話を求めているのかを考える必要がある。
「……そうですね。だから、結構悩みます」
春樹は正直に答えた。
「でも、その分、楽しんでもらえたら嬉しいです」
怜華は微笑んだ。
「それなら、私もちゃんと感想を伝えないといけないわね」
「ぜひお願いします。先輩がどう読むのか、気になります」
春樹は文庫本を差し出した。
「よかったら、これ貸しますよ」
怜華は少し驚いたように目を瞬かせた。
「いいの?」
「はい。読み返し終わったところですし」
怜華は一瞬だけ迷い、それから両手で本を受け取った。
「……ありがとう。大切に読むわ」
その声は、いつもの軽やかな調子より少し柔らかかった。
春樹は嬉しそうに頷いた。
「急がなくていいですから。感想、楽しみにしてます」
怜華は表紙を眺めながら、小さく笑った。
「……本当に、あなたはそういうところがあるのね」
「そういうところ?」
「ええ。自分では普通だと思っているところよ」
春樹は首を傾げた。
怜華はその反応を見て、楽しそうに笑った。
「まあ、今はそのままでいてちょうだい。私も、あなたのそういうところが嫌いじゃないから」
春樹は少し考えたが、結局よく分からなかった。
「……ありがとうございます?」
「ふふ。どういたしまして」
怜華は本を鞄へしまい、席を立った。
「じゃあ、私はそろそろ戻るわね。生徒会の仕事もあるし」
「お疲れさまです」
「ありがとう。七瀬君も、読書の邪魔をしてしまってごめんなさいね」
春樹は首を横に振った。
「いえ。本の話するのも楽しいので」
怜華は少しだけ目を細めた。
「……そう。なら、よかったわ」
彼女は小さく手を振り、図書室を出ていった。
春樹はその背中を見送り、ようやく短編集へ視線を戻した。
(……よし。今度こそ読めるな)
そう思ってページを開いたところで、隣から小さな声がした。
「七瀬先輩、今のって一ノ瀬会長ですよね?」
顔を上げると、ひよりが立っていた。
その隣には真実もいる。
春樹は頷いた。
「うん。本を薦めてた」
ひよりは少しだけ口元を緩めた。
「……春樹先輩って、本当に人気者ですね」
「本の相談が多いだけだろ」
「そういうことにしておきます」
ひよりは楽しそうに笑った。
春樹は眉を寄せた。
「何だよ、その言い方」
「いえいえ。春樹先輩は、そのままでいてください」
その言葉を聞いた瞬間、春樹は朝の悠斗を思い出した。
「……お前まで同じこと言うのか」
ひよりはきょとんとした顔をしたあと、さらに楽しそうに笑った。
「えっ、他にも言われたんですか?」
「言われた」
「じゃあ、やっぱりそういうことなんですね!」
「何がだよ!」
春樹の声が少し大きくなり、近くの席の生徒が顔を上げた。
春樹は慌てて声を落とした。
ひよりは肩を震わせながら笑い、真実は申し訳なさそうに小さく頭を下げている。
「……すみません、七瀬先輩」
「いや、新海は悪くないから」
春樹は小さく息を吐いた。
そして、短編集を見つめた。
(……俺、今日こそ静かに本を読みたいんだけどな)
その願いは、どうやら今日も簡単には叶わないらしい。
◇◇◇
午後の授業が終わると、春樹は教室で帰り支度を始めた。
窓の外では、運動部の生徒たちがグラウンドへ向かっている。廊下からは部活動の勧誘や友人同士の会話が聞こえ、放課後らしい賑やかな空気が広がっていた。
春樹が鞄へ教科書をしまっていると、雫が近づいてきた。
「春樹、帰れる?」
「うん。ちょうど準備終わったところ」
春樹は鞄を肩に掛けた。
「日曜日の話だよな」
「そう。ちょっと相談したくて」
雫は小さく頷いた。
二人は教室を出て、昇降口へ向かった。
途中、廊下の向こうから九条凛が歩いてきた。
風紀委員の腕章をつけた彼女は、手元の書類を確認しながら歩いていたが、春樹に気づくと顔を上げた。
「七瀬君、西条さん。こんにちは」
「こんにちは、九条さん」
「こんにちは、九条」
春樹が挨拶すると、凛は彼の手元をちらりと見た。
「……今日は歩きながら本を読んでいないようですね」
「もうやってないって。ちゃんと守ってるよ」
春樹が苦笑すると、凛は少しだけ表情を和らげた。
「それなら結構です。以前注意したことを覚えていてくれるのは、風紀委員としても嬉しいですから」
「さすがに何回も注意されたくないしな」
「その考え方は少し気になりますが、結果として守れているなら問題ありません」
凛は真面目に答えた。
雫はそのやり取りを見ながら、小さく笑った。
「春樹、最近ちゃんと歩くときは本しまってるもんね」
「当たり前だろ。九条にまた怒られるし」
「怒っているわけではありません。危険な行動を注意しているだけです」
凛は少しだけ眉を寄せた。
春樹は慌てて頷いた。
「分かってる。ちゃんと気をつけてるよ」
その返事を聞き、凛は小さく息を吐いた。
「……なら、いいです」
彼女は二人へ軽く会釈し、廊下の先へ歩いていった。
春樹はその背中を見送りながら、雫へ顔を向けた。
「九条って、やっぱり真面目だよな」
「うん。でも、春樹のことちゃんと気にかけてくれてるんだと思うよ」
「そうなのか?」
「そうだと思う」
雫は穏やかに笑った。
春樹は少し考えたが、深く追及することはしなかった。
昇降口で靴を履き替え、二人は校門へ向かった。
外へ出ると、午後の風が少し冷たく感じられた。
雫は鞄の持ち手を握り直し、春樹の横を歩きながら口を開いた。
「……春樹、日曜日のことなんだけど」
「うん」
「行き先、ほぼ決めたよ」
春樹は嬉しそうに顔を上げた。
「本当? どこ?」
雫は少しだけ笑った。
「……まだ全部は秘密にしたいんだけど、ちょっとだけ相談してもいい?」
「もちろん」
雫は一度だけ深呼吸した。
「日曜日、朝から出かけても大丈夫?」
春樹は少し考えた。
日曜日の午前中に特別な予定はない。
家の用事も今のところ入っていないはずだ。
「大丈夫だと思う。何時くらい?」
「九時半くらいに待ち合わせできたら嬉しいな」
「了解。駅でいい?」
雫は少し迷ってから頷いた。
「うん。駅の改札前でお願いしてもいい?」
「いいよ。九時半、駅の改札前な」
春樹は頷いた。
雫はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。あと、歩きやすい靴で来てほしいって言ったけど、そんなに大変なところじゃないから安心してね」
「分かった。普通のスニーカーで行くよ」
「うん。それで大丈夫」
雫は少しだけ視線を落とした。
春樹はその様子を見て、首を傾げた。
「……雫、何か緊張してる?」
雫は驚いたように顔を上げた。
「えっ?」
「いや、さっきからちょっと落ち着かない感じするから」
雫は一瞬だけ言葉に詰まった。
春樹は、こういうところで時々鋭い。
自分の気持ちの核心には気づかないのに、表情や声の変化には気づいてしまうことがある。
「……ちょっとだけね」
雫は正直に答えた。
「久しぶりに行くところだから、ちゃんと楽しめるかなって思って」
春樹は少し考えた。
久しぶりに行く場所。
その言葉から、雫にとって思い出のある場所なのかもしれないと感じた。
「……そっか。でも、雫が行きたいところなら、俺も楽しみだよ」
春樹は穏やかに笑った。
「無理に全部予定決めなくてもいいし、当日一緒に考えてもいいんじゃないか?」
雫はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
自分は、春樹に楽しんでもらいたいと思うあまり、少し考えすぎていたのかもしれない。
けれど春樹は、行き先そのものよりも、一緒に過ごす時間を楽しみにしてくれている。
「……うん。そうだね」
雫は小さく笑った。
「ありがとう、春樹」
「どういたしまして。じゃあ、日曜日は九時半な」
「うん。楽しみにしてる」
二人は並んで歩き始めた。
住宅街へ続く道には、夕方の柔らかな光が差し込んでいる。遠くでは自転車のベルが鳴り、商店街の方からは買い物帰りの人々の声が聞こえてきた。
春樹は少しだけ考え、雫へ尋ねた。
「そういえば、日曜日って本屋にも寄る?」
雫は思わず笑った。
「春樹、やっぱり本屋さん行きたいんだ?」
「いや、別に行かなくてもいいけど。もし近くにあったら寄れたら嬉しいなって」
雫は楽しそうに笑った。
「……今回は、本屋さん以外のところをメインにしたいな」
「了解。じゃあ、本は一冊だけ持っていく」
春樹が真面目な顔で答えると、雫は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……一冊は持っていくんだ?」
「電車で読むかもしれないだろ」
「もう、春樹ったら」
雫は笑った。
春樹もつられて笑い、二人はゆっくりと歩いていった。
◇◇◇
その日の夜、雫は自室の机に向かいながら、スマートフォンの画面を見つめていた。
日曜日の待ち合わせは、朝九時半に駅の改札前。
春樹は歩きやすい靴で来てくれることになっている。
行き先については、まだ全部を伝えていない。
けれど、少しずつ予定が具体的になってきた。
雫は机の上に置かれた恋愛小説へ視線を向けた。
春樹が土曜日に選んでくれた本である。
最初は反発し合っていた男女が、共通の趣味を通じて少しずつ互いを理解していく物語。
昨日の夜に読んだところでは、二人の距離が少しずつ縮まり始めていた。
しかし、まだどちらも自分の気持ちをはっきりと言葉にできていない。
(……何だか、少しだけ分かる気がするな)
雫は小さく息を吐いた。
自分と春樹は、物語の二人とは違う。
幼い頃から一緒にいて、相手の好きなものも、苦手なことも、ある程度は知っている。
それでも、今の春樹が何を考えているのか、全部分かるわけではない。
最近は特に、彼が自分以外の人とも本を通じて親しくなっていく姿を見ることが増えた。
そのたびに、嬉しい気持ちと、少しだけ落ち着かない気持ちが混ざる。
雫は本の表紙を撫でた。
(……でも、私だって春樹のこと、まだ知らないところがあるんだよね)
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
春樹が新しい人間関係を築いていくことを、止めたいわけではない。
むしろ、彼が楽しそうにしているなら嬉しい。
ただ、自分もその中で、もっと彼のことを知っていきたい。
そして、自分のことも知ってほしい。
雫はスマートフォンを手に取り、日曜日に行こうと考えている場所について、もう一度確認した。
幼い頃、春樹と一緒に訪れたことのある場所。
当時の自分たちは、ただ楽しく遊んでいただけだった。
けれど、今の二人で同じ場所へ行ったら、きっと違う景色が見える。
そう思うと、胸の奥が少しだけ高鳴った。
(……春樹、覚えてるかな)
雫は小さく笑った。
もし覚えていなくても、それはそれで構わない。
そのときは、自分が覚えていることを話せばいい。
春樹がどんな反応をするのか、少し楽しみだった。
雫はスマートフォンを置き、再び本を開いた。
物語の中では、主人公たちが互いの気持ちを少しずつ理解し始めている。
その姿を見ながら、雫は自分も少しずつ前へ進みたいと思った。
◇◇◇
一方、春樹は自室の机に向かい、短編集の続きを読んでいた。
今日は怜華へ本を薦めることができた。
栞との土曜日の待ち合わせも決まった。
雫とは日曜日の予定について話し、朝九時半に駅で会うことになった。
振り返ってみると、今日もずいぶん予定が増えた気がする。
春樹は本から顔を上げ、机の上のカレンダーを眺めた。
土曜日には栞と書店へ行く。
日曜日には雫と出かける。
その前には、怜華へ貸した本の感想を聞く機会もあるかもしれない。
真実が読んでいる文化祭の小説も、そろそろ続きを読み進めている頃だろう。
ひよりの次の推薦本も考えなければならない。
(……何だか、最近予定が多いな)
春樹は少しだけ笑った。
以前なら、休日の予定といえば読書か書店巡りくらいだった。
それが最近は、誰かと一緒に出かける約束が増えている。
不思議なことに、それを嫌だとは思わなかった。
もちろん、一人で本を読む時間は大切だ。
けれど、誰かと本の感想を話したり、一緒に新しい場所へ行ったりする時間も、少しずつ楽しみになっている。
春樹は机の端に置かれた三日月の栞へ目を向けた。
土曜日に雫と一緒に選んだものだ。
彼女が青い花の栞を選んでいたことも、よく覚えている。
(……日曜日、どこに行くんだろうな)
雫は久しぶりに行く場所だと言っていた。
その言葉が少し気になったが、本人に秘密にしておきたいと言われている以上、無理に聞くつもりはない。
ただ、楽しみに待っていればいい。
春樹は短編集へ視線を戻した。
物語の中では、同じ町に暮らす人々が、それぞれの事情を抱えながら日々を過ごしている。
誰かの何気ない言葉が、別の誰かにとって大切な意味を持つこともある。
そのことを、春樹は最近少しずつ実感するようになっていた。
自分にとっては普通の一言でも、相手が嬉しそうに笑うことがある。
何でもないと思っていた約束を、相手が楽しみにしてくれることもある。
それがどうしてなのか、すべてを理解できているわけではない。
けれど、理解できないからといって、気にしなくていいわけでもない。
(……本の登場人物だったら、もう少し簡単に気持ちが分かるんだけどな)
春樹は少しだけ笑った。
物語なら、地の文が人物の心情を教えてくれることもある。
しかし現実では、相手が話してくれなければ分からないことがある。
だからこそ、言葉を聞くことが大切なのだろう。
春樹は栞を挟み直し、机の上の文庫本を眺めた。
まだ読みたい本は山ほどある。
けれど最近は、読み終えたあとに誰と感想を話そうかと考える時間も、少し楽しみになっていた。
その変化を、春樹自身はまだ大きな出来事だとは思っていない。
ただ、以前よりも少しだけ、人と過ごす時間を大切にするようになった。
それだけのことだった。
春樹は再び本を開いた。
静かな夜の部屋には、ページをめくる音だけが響いている。
明日はまた、学校で誰かと本の話をすることになるかもしれない。
けれど、今は目の前の物語を楽しみたい。
(……まあ、読書時間さえ確保できれば問題ないか)
春樹はそう考え、物語の続きへ意識を戻した。
しかし、彼が思っている以上に、周囲の人々は春樹と過ごす時間を大切にし始めている。
そのことに、本人がいつ気づくのかは、まだ分からない。
少なくとも今夜の春樹は、短編集の最後の一編を読み終えることの方が重要だった。
そして、そんな彼の何気ない日常は、明日もまた、少しずつ賑やかになっていくのだった。




