第51話 月曜日くらい静かに読書したいのに、どうして俺の周りだけ週末の報告会が始まるんだ?
月曜日の朝、七瀬春樹は通学鞄の中身を確認しながら、机の上に置かれた二冊の文庫本を見比べていた。
一冊は、昨日読み終えた青春小説。土曜日に西条雫が選んでくれたもので、古い資料室に残された本と、かつての卒業生たちが交わした約束を巡る物語だった。もう一冊は、昨夜から読み始めた新しい短編集である。
普段なら迷うことなく読みかけの方を持っていくところだが、今日は少し事情が違った。
(雫に感想を話すなら、こっちも持っていった方がいいかな。昨日メッセージでは結構話したけど、直接だとまた違う感想が出るかもしれないし)
春樹は青春小説の表紙を眺め、最後の資料室の場面を思い出した。
物語の冒頭と結末で、主人公が立つ場所はほとんど変わっていない。それなのに、一緒にそこへ立つ人がいるだけで景色の意味が変わってしまうという描写が、読み終えたあとも心に残っていた。
雫がその作品を選んでくれなければ、自分から手に取るのはもう少し先になっていたかもしれない。
そう考えると、改めて感謝したくなる。
「……両方持っていくか」
春樹は結局、二冊とも鞄へ入れた。
少し重くなった鞄を肩に掛け、部屋を出ようとしたところで、スマートフォンの画面が光った。
送り主は高坂悠斗だった。
『七瀬、今日ちょっと話せるか?』
春樹は時計を確認した。まだ家を出るまで少し余裕があり、返信する時間は十分にある。
『学校でなら』
すぐに既読がついた。
『助かる! 昨日の続きなんだけどさ』
春樹は眉を上げた。
昨日の午後、悠斗から電話がかかってきたことを思い出す。赤木紗弥と映画を観に行き、そのあとカフェで原作との違いについて話し、さらに紗弥の方から次も一緒に映画を観ようと言ってもらえたらしい。
電話の向こうで悠斗がどれほど喜んでいたかは、今でもはっきり覚えている。
『また何かあったのか?』
『いや、何かあったっていうか、今後について相談したい』
春樹は画面を見つめた。
(今後って、映画の次の予定のことか? 昨日帰ってきたばかりなのに、もうそこまで考えてるのか)
恋愛に関する行動力というものは、時々よく分からない。
春樹自身は、気に入った小説を読み終えたら次に読む本を探すが、それと似たような感覚なのだろうか。
いや、さすがに違う気がする。
『分かった。朝の休み時間なら』
『ありがとう! 頼りにしてる!』
春樹は最後の文章を読んでから、少しだけ不安になった。
悠斗が自分を頼りにしてくれるのは嬉しい。しかし、恋愛相談の相手として自分が適任なのかどうかについては、いまだに疑問が残っている。
何しろ、本人に恋愛経験があるわけではない。
参考資料なら本棚に山ほどあるが、どれもフィクションである。
(……まあ、友達の話を聞くくらいならできるか)
春樹はスマートフォンをしまい、玄関へ向かった。
今日こそは昼休みに少し長めの読書時間を確保したい。そう考えながら家を出た春樹だったが、その願いがどこまで叶うかは、まだ分からなかった。
◇◇◇
通学路には、週明け特有の少し眠たげな空気が漂っていた。
交差点で信号を待つ生徒たちの中には、友人と週末の出来事を話している者もいれば、欠伸を噛み殺しながら歩いている者もいる。空はよく晴れていたが、朝の風には秋らしい冷たさが混ざり始めていた。
春樹が住宅街を抜けたところで、前方に見慣れた後ろ姿を見つけた。
西条雫だった。
制服姿の雫は、片手で鞄の持ち手を押さえながら歩いている。春樹が少し歩幅を速めて声をかけると、彼女は振り返り、ぱっと表情を明るくした。
「おはよう、春樹。今日はちょっと遅いね」
「おはよう。鞄に入れる本を迷ってたら時間かかった」
春樹が答えると、雫は納得したように笑った。
「朝から春樹らしい理由だね。今日は何冊持ってきたの?」
「二冊。昨日読み終えたやつと、今読んでる短編集」
「私が選んだ本も?」
「うん。学校で感想話すかもしれないだろ」
その返事を聞いた雫は、少し驚いたように目を瞬かせた。
昨日のメッセージでは、春樹が本を読み終えたことを教えてくれた。最後の資料室の場面が好きだったことも、同じ場所でも一緒にいる人によって意味が変わるという話もした。
それでも、わざわざ本を学校へ持ってきてくれたことが嬉しかった。
「……そっか。私も、春樹に選んでもらった本を持ってきたよ」
「お、読んだ?」
「まだ途中。昨日の夜、結構進んだんだけどね」
雫は鞄へ視線を落とし、少し考えてから続けた。
「最初は女の子の方に共感してたんだけど、途中から男の子の気持ちも分かるようになってきたの。春樹が言ってた、印象が変わっていく感じって、こういうことなんだね」
春樹は嬉しそうに頷いた。
「ああ、そこが面白いんだよ。最初は二人とも相手の嫌なところばっかり見てるんだけど、共通の趣味があるって分かってから、少しずつ違う面が見えてくるだろ」
「うん。でも、あの男の子も結構意地っ張りだよね。優しいところがあるのに、言い方で損してる気がする」
「それは分かる。あいつ、もうちょっと素直に話せばいいのにな」
雫は春樹の横顔を見た。
恋愛小説の登場人物についてなら、春樹は驚くほど鋭いことを言う。
言葉にしない気持ちや、相手を意識し始める小さな変化にも気づくのに、それが現実の自分へ向けられると途端に鈍くなる。
(……春樹も、もうちょっと素直に考えてくれたらいいのにな)
そんなことを思いながら、雫は小さく笑った。
「どうした?」
「ううん。ちょっと、あの二人がこれからどうなるか楽しみだなって」
「最後まで読むと、また印象変わると思うぞ。ただ、ネタバレになるから言わないけど」
「そこはちゃんと我慢してね。自分で読みたいから」
「了解。俺も感想聞くの楽しみにしてる」
春樹は素直に頷いた。
雫は少し歩幅を緩め、彼と並んで歩きながら、昨日の朝に交わした約束を思い出した。
次の日曜日に、二人で出かけることになっている。
行き先はまだ春樹に教えていない。
昨夜も少し考えていたが、幼い頃に二人で訪れた場所へ行く案が、今のところ一番気に入っていた。
ただ、そこへ行くなら事前に確認しておきたいこともある。
「そういえば春樹、来週の日曜日のことなんだけど」
春樹が顔を向けた。
「行き先、決まった?」
「まだ内緒。でも、そろそろ決めようと思ってる」
「楽しみにしてるよ。何か準備いるなら教えてな」
雫は少しだけ考えた。
「うん。歩きやすい靴で来てくれると嬉しいかな」
「歩くところなんだ?」
春樹が興味を示すと、雫は慌てて首を振った。
「そこから先は秘密。あんまり推理しないでよ?」
「俺、ミステリー読むの好きなんだけど」
「知ってる。だから言ってるの」
雫が真面目な顔で答えたので、春樹は思わず笑った。
「分かった。じゃあ、当日まで楽しみにしてる」
「うん。ちゃんと決めたら連絡するね」
雫は笑い返した。
いつもの通学路を二人で歩く時間は、特別な出来事がなくても心地よい。
けれど今朝は、次の休日を楽しみにする気持ちが加わって、普段より少しだけ足取りが軽かった。
◇◇◇
二年三組の教室へ入ると、春樹は自分の席へ鞄を置いた。
窓際では数人の男子が週末の試合について話し、教室の後方では女子たちが新しく公開された映画の感想で盛り上がっている。黒板には今日の提出物が書かれており、週明けらしく、慌てて鞄を探る生徒の姿もあった。
春樹が一時間目の教科書を取り出していると、背後から声がした。
「七瀬、おはよう!」
振り返るまでもなく、高坂悠斗だった。
その声がいつもより弾んでいることに、春樹はすぐ気づいた。
「おはよう。昨日はよく眠れたか?」
「何で最初にそれ聞くんだよ」
「電話のとき、ずっと興奮してたから。寝る前まで映画のこと考えてそうだったし」
悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
その反応だけで、春樹には答えが分かった。
「……図星か」
「いや、まあ、ちょっとだけな。帰ってから原作読み返したり、紗弥と話したところ思い出したりしてたら、いつもより遅くなった」
悠斗は苦笑しながら、春樹の前の席へ腰を下ろした。
いつものように冗談を言っているが、どこか落ち着かない様子だった。指先で机の端を軽く叩き、教室の入口を気にしている。
春樹はその視線を追いかけかけて、途中でやめた。
悠斗が誰を気にしているのか、わざわざ確認する必要はない。
「で、相談って何?」
声を少し落として尋ねると、悠斗も自然に身を寄せた。
「昨日さ、帰ったあとにもメッセージしたんだよ。映画楽しかったって送ったら、紗弥も楽しかったって返してくれて」
「うん。それはよかったな」
「それで、次も映画に行こうって話になっただろ? でも、毎回映画ばっかりだと、さすがに変かなって思ってさ」
春樹は少し考えた。
映画を一緒に観たいと提案したのは紗弥の方だったはずだ。
ならば、少なくとも次も映画へ行くこと自体を気にする必要はなさそうだった。
「別に変じゃないだろ。二人とも映画好きなんだし」
「いや、そうなんだけどさ。せっかくなら別のことも一緒にできたらいいなって思うじゃん」
悠斗は照れくさそうに笑った。
その表情を見て、春樹はようやく相談の本当の意味を理解した。
悠斗は映画の予定だけを増やしたいわけではない。
紗弥と一緒に過ごす機会を、もう少し広げたいのだ。
「……だったら、紗弥が行きたいところ聞いてみたら?」
春樹が提案すると、悠斗は目を瞬かせた。
「そんな直接聞いていいのか?」
「何が悪いんだよ。昨日、二人で映画のあとにカフェ行ったんだろ? そこで他に好きなものとか話さなかったのか?」
「話した。結構いろいろ」
「じゃあ、その中で一緒に行けそうなところがあれば誘えばいいんじゃないか」
悠斗は腕を組んで考え始めた。
しばらくして、何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば、紗弥が気になってる展示があるって言ってたな」
「それならいいじゃん。興味あるなら、一緒に行ってみたいって言えばいいだろ」
「……なるほど」
悠斗は真剣に頷いた。
春樹はその様子を見ながら、少しだけ不思議に思った。
自分が言っているのは、ごく普通のことのはずだった。
相手の好きなものを知り、その人が楽しめそうな場所を考える。普段、誰かへ本を薦めるときと大きく変わらない。
しかし悠斗にとっては、それが簡単ではないらしい。
「七瀬、お前ってこういう相談になると意外と頼りになるよな」
「意外とって何だよ。しかも、俺は本選びの延長で考えてるだけだぞ」
「そこがすごいんだって。俺なんか、紗弥に変に思われないかばっかり気にしちゃうし」
悠斗はそう言ってから、少し表情を落ち着かせた。
「……でもさ、昨日は本当に楽しかったんだよ。映画の内容で意見が違うところもあったけど、それで話が広がったし、紗弥が笑ってくれたのも嬉しかった」
春樹は黙って聞いていた。
普段の悠斗は、誰かを笑わせることが得意だ。
しかし今の彼は、紗弥に笑ってもらえたことを、いつもの冗談とは違う大切な出来事として受け止めている。
「……だったら、焦らなくていいんじゃないか」
春樹は穏やかに言った。
「昨日楽しかったなら、まずはそれで十分だろ。次も一緒に行こうって言ってもらえたんだし、少しずつ話せること増やしていけばいいと思う」
悠斗は春樹を見た。
それから、肩の力を抜くように笑った。
「そうだな。ありがと、七瀬」
「どういたしまして。あと、そろそろ一時間目の準備しろよ」
「分かってるって。……あ、そうだ。お前の方はどうだったんだ?」
春樹は首を傾げた。
「何が?」
「土曜日。雫と本屋行ったんだろ?」
悠斗の口元が、急にいつものいたずらっぽい形へ戻った。
春樹は嫌な予感を覚えた。
「楽しかったよ。お互いに本選んだし」
「それだけ?」
「カフェにも行ったし、商店街も歩いた。何か問題あるか?」
悠斗はしばらく春樹の顔を見つめた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……お前、俺に恋愛相談のアドバイスしてるときと、自分の話してるときで、何か違わない?」
「何が?」
「いや、もういい。お前はそのままでいてくれ」
春樹は眉を寄せた。
最近、周囲の人間が会話の途中で勝手に納得することが多い。
しかも、理由を聞いても教えてくれない。
「説明を途中でやめるなよ。気になるだろ」
「お前が本を途中で閉じられたときの気持ち、ちょっと分かったか?」
「全然違うと思うんだけど」
悠斗が笑ったところで、教室の入口から赤木紗弥が入ってきた。
彼女は友人と話しながら歩いていたが、悠斗の姿を見つけると、自然に笑顔を向けた。
「高坂君、おはよう。昨日はありがとう」
悠斗は一瞬だけ姿勢を正した。
「お、おはよう。こっちこそ、楽しかった」
「私も。昨日話してた原作の場面、帰ってから読み返しちゃった」
紗弥は楽しそうに言いながら、自分の席へ向かう途中で足を止めた。
「あとで、ちょっと感想聞いてもいい?」
「もちろん!」
悠斗の返事は、少し大きすぎた。
近くの男子が顔を上げ、紗弥が驚いたように目を瞬かせる。
悠斗は慌てて声を落とした。
「……あ、いや、もちろん大丈夫。休み時間とかで」
紗弥はくすっと笑った。
「うん。じゃあ、あとでね」
彼女が離れていくと、悠斗は机へ両手をついた。
春樹はその横顔を眺めながら、何とも言えない気持ちになった。
「……よかったな」
「七瀬、頼むから今は何も言うな」
「まだ何も言ってないだろ」
「その顔がもう言ってる!」
春樹は思わず笑ってしまった。
恋愛小説では、こういう場面で主人公が自分の気持ちを自覚したり、何か重要な決意をしたりすることが多い。
しかし現実の悠斗は、好きな相手から普通に話しかけられただけで、朝から相当な精神力を使っているようだった。
(……恋愛って大変なんだな)
春樹は友人の肩を軽く叩き、教科書を取り出した。
◇◇◇
午前の授業が終わり、昼休みになると、春樹はいつものように図書室へ向かった。
今日は昼食を早めに済ませてある。
悠斗の相談も一段落したし、午後の授業までにはまだ時間がある。少なくとも二十分程度は、静かに本を読めるはずだった。
廊下を歩く間、春樹は鞄の中の短編集へ思いを巡らせていた。
今読んでいる作品は、一つの町を舞台にした連作短編だった。各話の主人公は違うものの、前の話に登場した人物が次の話でさりげなく顔を見せる構成になっている。
登場人物同士が知らないところで、同じ出来事を別々の角度から見ているのが面白い。
(次の話、確か商店街の喫茶店が舞台だったよな。前に出てきた店主がどう関わるのか気になるんだよな)
そんなことを考えながら図書室の扉を開けると、室内には落ち着いた静けさが広がっていた。
窓際の席には数人の生徒が座り、奥の書架では一年生らしい女子生徒が本を探している。カウンター付近では、図書委員が返却された本を整理していた。
その中に、白石栞の姿があった。
栞は春樹に気づくと、手元の作業を区切って小さく会釈した。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは、白石先輩。今日も委員の仕事ですか?」
「はい。返却本が少し多くて、整理しているところです」
栞は机の上に積まれた本へ目を向けた。
週明けということもあり、返却された本の種類はさまざまだった。小説だけでなく、進路関係の資料や調べ学習に使ったらしい本も混ざっている。
春樹はその様子を見て、少し考えた。
「何か手伝えることあります?」
「ありがとうございます。でも、もう少しで終わりますから大丈夫ですよ」
栞は穏やかに微笑んだ。
「七瀬君は、今日は読書に来たんですよね?」
「はい。今日はちゃんと読むつもりで」
「……今日は?」
栞が少し不思議そうに聞き返した。
春樹は苦笑する。
「最近、図書室に来ても本の話をしてるうちに休み時間が終わることが多いので」
栞は口元へ手を添え、小さく笑った。
「それは、私も少し心当たりがありますね」
「先輩はいいんですよ。俺も話すの楽しいですし」
春樹が自然に答えると、栞は一瞬だけ目を瞬かせた。
その後、静かに表情を和らげる。
「……そう言ってもらえると、嬉しいです」
栞は返却本を一冊手に取りながら、少しだけ声を落とした。
「それと、七瀬君。先週お話しした土曜日のことなんですが……」
春樹はすぐに思い出した。
栞とは、次の土曜日の昼過ぎに書店へ行こうという話になっていた。ただし、そのときは自分の家の予定を確認してから返事をすることになっていた。
昨日、家で予定を確かめたところ、特に外せない用事はなかった。
そのことを伝えようと思っていたのに、今朝は悠斗の相談で頭がいっぱいになっていた。
「あ、すみません。連絡するつもりだったんですけど、まだ伝えてませんでした」
「いえ、急いでいませんでしたから」
栞は首を横に振った。
春樹は笑って続けた。
「家の予定、確認できました。土曜日は大丈夫です」
栞の指先が、返却本の背表紙の上でわずかに止まった。
「……本当ですか?」
「はい。昼過ぎでよかったですよね」
「はい。午後の早い時間なら、私も都合がいいです」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
ただ、その表情はいつもより少しだけ柔らかく、春樹には彼女が本当に楽しみにしてくれていたことが伝わってきた。
「じゃあ、土曜日に行きましょう。時間と待ち合わせ場所は、また相談して決めませんか?」
「そうですね。ありがとうございます、七瀬君」
「いえ。俺も楽しみです」
春樹が答えると、栞は小さく頷いた。
それから少し迷うように視線を動かし、控えめに尋ねる。
「……そういえば、先週の土曜日は、西条さんと書店へ行かれたんですよね?」
「はい。お互いに一冊ずつ選びました」
春樹は嬉しそうに答えた。
「雫が選んでくれた本、昨日読み終えたんですけど、かなり面白かったです」
栞は春樹の表情を見つめた。
好きな本について話しているとき、彼はいつも楽しそうだ。
しかし今は、作品そのものへの満足だけでなく、それを選んでくれた相手への感謝も自然に言葉へ混ざっているように感じられた。
(……西条さんと、楽しい時間を過ごされたんですね)
栞は胸の奥に生まれた小さな感情を、すぐに言葉へはしなかった。
春樹と雫が幼馴染であることは知っている。
二人が親しいことも、今さら驚くような話ではない。
それでも、春樹が嬉しそうに語る週末の出来事を聞くと、自分も彼と一緒に本を選ぶ時間を過ごしてみたいという気持ちが、以前よりはっきりしてくる。
「……素敵ですね。自分では選ばない本と出会えるのは、誰かと書店へ行く楽しみの一つですから」
「そうなんですよ。雫、俺の好み結構分かってるんだなって思いました」
春樹は頷き、少し考えてから続けた。
「でも、白石先輩と行ったら、また違う本に出会えそうですよね。先輩は俺が普段あんまり見ない棚も詳しそうですし」
栞はその言葉に、静かに目を細めた。
「……そうですね。私も、七瀬君がどんな本を手に取るのか楽しみです」
春樹は笑った。
栞は少しだけ勇気を出して続ける。
「それに、七瀬君と一緒なら、普段は通り過ぎてしまう棚でも立ち止まってみたくなる気がします」
春樹は一瞬だけ考え、それから大きく頷いた。
「分かります。俺も人と行くと、そういうことあります」
栞は微笑んだ。
自分が言いたかったことの全部が伝わったわけではない。
けれど、少なくとも春樹も一緒に本を探す時間を楽しみにしてくれている。
それだけで、今は十分だった。
そのとき、図書室の奥から別の図書委員が声をかけてきた。
「白石先輩、この本って文学の棚で合ってますか?」
栞は振り返り、すぐに返事をした。
「はい、そちらで大丈夫です。著者名の順に並べてください」
そして春樹へ向き直る。
「すみません、七瀬君。もう少しだけ作業をしてきますね」
「はい。俺はあっちで読んでます」
春樹は窓際の席を指さした。
栞は小さく頷き、返却本の整理へ戻っていった。
春樹は鞄から短編集を取り出し、ようやく読書を始めた。
ページを開くと、商店街の小さな喫茶店を舞台にした物語が始まっている。
店主の何気ない一言が、前の作品に登場した人物の行動と繋がっていることに気づき、春樹は思わず口元を緩めた。
(……やっぱり、こういう繋がり方はいいな)
静かな図書室で本を読む時間は、何にも代えがたい。
少なくとも、そのときの春樹はそう思っていた。
◇◇◇
午後の授業が始まる少し前、栞は図書室の窓際に座る春樹を見つめていた。
返却本の整理はすでに終わっている。
春樹は約束どおり本を読み、時折ページをめくる以外にはほとんど動かなかった。周囲で小さな物音がしても顔を上げず、物語の世界へ集中している。
栞はその姿を眺めながら、先ほどの会話を思い出した。
土曜日の約束が、正式に決まった。
待ち合わせの細かな時間や場所はこれから相談するが、二人で書店へ行くこと自体はもう決まっている。
(……楽しみですね)
栞は胸元でそっと手を重ねた。
以前の自分なら、誰かと休日に出かける予定が決まっても、ここまで落ち着かない気持ちにはならなかっただろう。
けれど春樹と一緒に本を選ぶことを想像すると、どんな棚を見ようか、どんな作品を薦めようかと、次々に考えが浮かんでくる。
彼が好きな本を楽しそうに語る姿は、図書室でも何度も見てきた。
今度は、もっと広い書店の中で、その表情を見られるのかもしれない。
栞は小さく微笑んだ。
ただ、ひとつ気になっていることもあった。
桐谷美月に貸したという古書店ミステリーである。
先週、春樹からその話を聞いたとき、栞は先生が読み終えたあとで自分にも貸してほしいと頼んでいた。
春樹は快く了承してくれたが、先生がいつ読み終えるかはまだ分からない。
(……急がず、楽しみに待ちましょう)
栞はそう考えた。
自分が読みたい本は、図書室にも家にもある。
それでも、春樹が誰かのために選んだ一冊を、自分も読んでみたいと思う。
同じ本を読んだあとで、彼がどんな感想を話してくれるのか知りたいからだ。
やがて予鈴が鳴り、春樹が顔を上げた。
彼は栞に気づくと、少し離れた席から小さく会釈する。
栞も笑顔で返した。
その何気ないやり取りだけで、午後の時間を穏やかな気持ちで迎えられそうだった。
◇◇◇
放課後、春樹は教室で帰り支度をしながら、今日の読書時間について考えていた。
昼休みは思ったより集中できた。
悠斗の相談も朝のうちに終わったし、栞との土曜日の予定も正式に決まった。
あとは帰宅して続きを読めば、悪くない一日になる。
そう考えていたところへ、教室の入口から声がした。
「七瀬君、少しいいかしら?」
顔を上げると、一ノ瀬怜華が立っていた。
三年生の生徒会長である彼女は、いつものように余裕のある笑みを浮かべている。廊下を通りかかった生徒たちが軽く会釈すると、怜華も自然に応じていた。
春樹は鞄の持ち手から手を離した。
「一ノ瀬先輩。どうしたんですか?」
「そんなに警戒しなくてもいいでしょう? 今日は生徒会の仕事を押しつけに来たわけじゃないわよ」
「……俺、まだ何も言ってませんけど」
「顔に書いてあったわ」
怜華が楽しそうに笑う。
春樹は思わず自分の頬へ触れた。
「書いてないと思います」
「そういう返しをするところが、七瀬君らしいわね」
怜華は教室の中を軽く見渡した。
すでに帰宅した生徒も多く、残っているのは数人だけだった。雫は紗弥と何かを話しており、悠斗は別の男子に声をかけられている。
「少しだけ、本の相談をしてもいいかしら?」
「もちろんです。二冊目の推薦ですよね」
春樹がすぐに答えると、怜華は少し驚いたように眉を上げた。
「覚えていてくれたのね」
「そりゃ覚えてますよ。先週も話しましたし」
「ふふ。頼もしいわ」
怜華は春樹の机の横へ立ち、声を少し落とした。
「前に薦めてもらった連作ミステリーも面白かったけれど、最近は少し違う作品が読みたい気分なの。事件の謎そのものより、登場人物がどうしてその選択をしたのか、後から考えたくなるような話がいいわね」
春樹は頷いた。
先週、図書室で怜華が読んでいた静かな現代小説の話を思い出す。
登場人物の心の動きや、小さな選択の積み重ねを楽しんだと言っていた。
その感想を聞いて、春樹は当初考えていた二冊目の候補を見直すことにしていたのだ。
「実は、ちょうど候補を変えようと思ってたんです」
「あら。私のために?」
「はい。先輩、前に読んだ作品の感想で、派手な事件がなくても人の気持ちが変わる話が好きって言ってましたよね」
怜華は少しだけ目を細めた。
「……よく覚えているわね」
「本の好みは大事ですから」
春樹は当然のように答えた。
怜華はその返事を聞き、くすっと笑った。
「七瀬君にとっては、そういうものなのね」
「そういうものです」
「じゃあ、少し難しい注文をしてもいいかしら」
怜華は机の端へ軽く指を添えた。
「読み終わったあと、最初に抱いていた人物への印象が変わる作品がいいわ。悪い人だと思っていた人にも事情があったり、正しいと思っていた選択が別の誰かを傷つけていたり。そういう、簡単には答えを出せない話」
春樹はしばらく考えた。
思い浮かぶ作品はいくつかある。
ただし、怜華が求めているのは単純な善悪の逆転ではない。
読者が登場人物を理解しようとする過程そのものを楽しめる作品だ。
「……あります。たぶん、かなり合うと思うやつ」
春樹が答えると、怜華は嬉しそうに微笑んだ。
「本当?」
「はい。ただ、ちょっと確認したいことがあるので、明日まで待ってもらってもいいですか?」
「もちろん。急いでいないわ」
怜華は頷き、少しだけ身を乗り出した。
「それにしても、七瀬君は本当に相手の好みを考えてくれるのね。誰に対しても、そんなふうに一冊を選んでいるの?」
「そうですね。せっかく薦めるなら、楽しんでもらいたいので」
春樹は自然に答えた。
怜華はその表情を見ながら、少しだけ考えた。
春樹は本を薦めるとき、相手の話をよく聞いている。
好きな作品だけでなく、何に惹かれたのか、どんな場面が印象に残ったのかまで覚えている。
その丁寧さは、本人にとっては読書の延長なのだろう。
けれど、薦められる側にとっては、自分の言葉を大切に扱ってもらえたように感じられる。
「……それは、なかなか罪作りね」
怜華が小さく呟いた。
春樹は首を傾げる。
「何か言いました?」
「いいえ。七瀬君の推薦を楽しみにしている、という話よ」
怜華はいつもの笑みを浮かべた。
「明日、また声をかけてもいいかしら?」
「はい。候補をちゃんと確認しておきます」
「ありがとう。期待しているわ」
怜華は軽く手を振り、教室を出ていった。
春樹はその背中を見送りながら、少し考えた。
(……一ノ瀬先輩、やっぱり読み方が面白いんだよな。単に犯人が誰かじゃなくて、何でその人がそうしたのかを気にするし)
今回の推薦は、前より少し難しい。
けれど、その分だけ選びがいがあった。
春樹は帰宅したら本棚を確認しようと決め、鞄を持ち上げた。
すると、隣から声がした。
「春樹、今の一ノ瀬先輩?」
雫だった。
紗弥との会話を終えたらしく、鞄を肩に掛けて立っている。
「うん。次の本の相談」
「そっか。前にも頼まれてたもんね」
雫は頷いた。
春樹が怜華へ本を薦めていることは知っている。
けれど、実際に二人が話している姿を見ると、少しだけ気になることもあった。
怜華は三年生で、生徒会長だ。
落ち着いた雰囲気があり、話し方にも余裕がある。
春樹が本の話をするときに楽しそうなのはいつものことだが、相手が怜華だと、どこか大人びた会話に見えてしまう。
(……私、何を気にしてるんだろう)
雫は胸の奥に生まれた小さな落ち着かなさを、そっと押し込めた。
春樹が誰かへ本を薦めることは、悪いことではない。
むしろ、彼が楽しそうにしているなら嬉しいと思う。
それでも、少しだけ複雑な気持ちになることがある。
「雫?」
春樹の声に、雫は顔を上げた。
「どうした? 何か考えてた?」
「……うん。ちょっとね」
雫は笑った。
「春樹、本当にいろんな人に本を薦めてるなって思って」
「ああ。最近、頼まれること増えたからな」
春樹は少し照れたように笑った。
「でも、全部ちゃんと選ぼうとすると、意外と時間かかるんだよ」
「そうだよね。相手によって好みも違うし」
「うん。だから、適当に決めたくないんだよな」
雫はその言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
春樹は誰に対しても丁寧だ。
それは、昔から変わらない彼の優しさでもある。
だからこそ、自分だけに向けられた特別なものを見つけたくなるのかもしれない。
「……春樹」
「ん?」
「私に選んでくれた本も、結構悩んだ?」
春樹はすぐに頷いた。
「悩んだよ。最後まで別の候補と迷ってたし」
「……そうなんだ」
「でも、雫が最近どんな話好きなのか考えたら、あれが一番合うと思った」
春樹は笑った。
「読んでみて違ったら、遠慮なく言ってな。次はもっと合うの探すから」
雫はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
春樹は、雫のために本を選ぶことを一度きりの出来事として考えていない。
今回の感想を聞いて、次に繋げようとしてくれている。
「……うん。ちゃんと感想伝えるね」
「楽しみにしてる」
春樹は頷いた。
雫は小さく笑い、彼と並んで教室を出た。
◇◇◇
帰り道、二人は住宅街へ続く歩道を歩いていた。
放課後の空はまだ明るく、通り沿いの街路樹が風に揺れている。少し離れた公園からは子供たちの声が聞こえ、道路の向こうでは自転車に乗った中学生が友人と笑いながら通り過ぎていった。
春樹は今日の出来事を思い返していた。
朝は悠斗の相談。
昼は栞との土曜日の予定。
放課後は怜華の推薦本。
振り返ってみると、今日もずいぶん本や人間関係の話をしている。
(……読書時間、思ったより減ってないんだけどな)
昼休みにはちゃんと本を読めたし、授業の合間にも少しページを進められた。
以前なら、誰かと話すことで読書時間が減るのを気にしていたはずだ。
けれど最近は、そういう時間も悪くないと思うようになっている。
春樹は隣を歩く雫へ目を向けた。
「そういえば、雫」
「何?」
「今日、赤木と何か話してた?」
雫は少し驚いたように顔を上げた。
「紗弥と? うん。普通に週末の話とか」
「そっか」
春樹は頷いた。
悠斗と紗弥が昨日映画へ行ったことは知っている。
しかし、悠斗が紗弥を好きだということは、本人から聞いた秘密だ。
雫がどこまで知っているのか分からない以上、余計なことを言うつもりはなかった。
雫は春樹の表情を見ながら、少しだけ首を傾げた。
「……どうして?」
「いや、朝から赤木と高坂が楽しそうだったから」
「ああ。紗弥、昨日映画観に行ったって話してたよ」
春樹は自然に頷いた。
「そうなんだ」
「うん。原作と映画で結構違うところがあったみたいで、そこが面白かったって」
雫は笑った。
「高坂君ともいろいろ話せたみたい。楽しそうだったよ」
春樹は少し安心した。
悠斗の話だけでなく、紗弥の方も楽しかったと感じているらしい。
それなら、友人として嬉しい。
「……よかったな」
春樹が呟くと、雫は少し不思議そうにした。
「春樹、高坂君と仲いいもんね」
「うん。あいつ、普段はふざけてるけど、結構真面目なところあるし」
「分かる。紗弥と話してるときも、ちゃんと相手の話聞いてるよね」
雫はそう言ってから、少し考えた。
「……春樹もそうだけど」
「俺?」
「うん。春樹も、本の話になると相手が何を好きなのか、ちゃんと聞くでしょ」
春樹は少し照れたように笑った。
「本を薦めるなら普通だと思うけど」
「……それ、本当に普通だと思ってる?」
「違うのか?」
雫は春樹の横顔を見つめた。
本人は当たり前だと思っている。
けれど、自分の言葉を覚えていてくれることが、どれほど嬉しいか。
その気持ちを、春樹はまだ十分に理解していないのかもしれない。
「……ううん。春樹らしいなって思っただけ」
雫は小さく笑った。
春樹は少しだけ眉を寄せた。
「最近、その言い方多くない?」
「そうかもね」
「何か隠してる?」
春樹が冗談めかして尋ねると、雫は少しだけ視線を逸らした。
以前なら、何でもないと笑って誤魔化していただろう。
けれど、土曜日に話したことを思い出し、雫は少し考えた。
「……隠してることは、あるよ」
春樹は目を瞬かせた。
雫は歩幅を緩め、彼の顔を見た。
「でも、まだ上手く話せないから、もう少し待っててほしい」
春樹はすぐには答えなかった。
雫の表情を見て、軽い冗談として聞き流すべき話ではないと感じたのだ。
彼女は笑っているが、その指先は鞄の持ち手を少し強く握っている。
春樹は穏やかに頷いた。
「分かった。待つよ」
雫は小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
「でも、困ってることなら遠慮なく言ってな。俺にできることなら手伝うし」
その言葉に、雫は胸の奥が温かくなるのを感じた。
春樹はまだ、自分が何を伝えようとしているのか知らない。
それでも、こうして気にかけてくれる。
「……うん。覚えておく」
雫は笑った。
春樹も笑い返し、二人は再び歩き始めた。
しばらくして、雫がふと思い出したように口を開く。
「そういえば春樹、土曜日も本屋さん行くんだよね?」
「うん。白石先輩と」
春樹は自然に答えた。
「今日、ちゃんと予定確認できたって伝えたから、行くことになった」
雫は少しだけ胸の奥が揺れるのを感じた。
栞が春樹を誘っていたことは知っている。
けれど、実際に約束が決まったと聞くと、思っていたより気になる。
「……そっか。楽しみだね」
「うん。白石先輩、俺が普段あんまり見ない棚も詳しそうだし」
春樹は嬉しそうに笑った。
雫はその表情を見ながら、小さく頷いた。
「……いい本、見つかるといいね」
「ありがとう。雫とのときみたいに、面白い本見つけられたらいいな」
春樹は何気なく言った。
雫は少しだけ目を瞬かせた。
春樹は、土曜日の自分との外出を、ちゃんと楽しい思い出として覚えている。
そのことが嬉しかった。
同時に、栞との時間も同じように楽しいものになるのだろうと考えると、少しだけ複雑だった。
(……私、欲張りになってるのかな)
雫は自分の気持ちを整理しようとした。
春樹が誰かと仲よくすることを嫌だと思いたいわけではない。
けれど、自分だけが知っている春樹の一面が、少しずつ他の人にも知られていくようで、落ち着かなくなることがある。
それは、春樹を大切に思っているからなのだろう。
雫は小さく息を吐いた。
そして、顔を上げた。
「……春樹」
「ん?」
「日曜日の予定、ちゃんと考えておくね」
春樹は笑った。
「うん。楽しみにしてる」
雫も笑い返した。
土曜日は栞と書店へ行く。
その翌日には、自分と出かける約束がある。
春樹がどんな気持ちでその予定を楽しみにしているのかは、まだ分からない。
けれど、自分が彼と一緒に過ごす時間を大切にしたいことだけは、はっきりしていた。
◇◇◇
夕方、帰宅した春樹は自室へ戻り、鞄から短編集を取り出した。
机の上には、昨日読み終えた雫からの青春小説が置かれている。その隣には、土曜日に購入した三日月の栞があり、柔らかな夕日を受けて紺色の表面が少しだけ明るく見えた。
春樹は栞を手に取り、今日読み進めた短編集へ挟んだ。
以前使っていたものでも困ってはいなかったが、新しい栞を使うと少し気分が変わる。
しかも、雫と一緒に選んだものだ。
(……雫の方も、ちゃんと使ってるかな)
青い花の栞を選んでいた雫の姿を思い出し、春樹は小さく笑った。
今日もいろいろなことがあった。
悠斗は紗弥との関係を少しずつ進めようとしている。
栞とは土曜日の書店訪問が正式に決まった。
怜華には明日、新しい推薦候補を伝えることになっている。
そして雫とは、次の日曜日に出かける約束がある。
春樹は机へ向かい、明日のために本棚を眺めた。
怜華へ薦める作品は、すでにいくつか思い浮かんでいる。
ただ、今日の彼女の希望を考えると、単に謎が面白いだけでは足りない。
登場人物の選択に複数の見方ができて、読み終えたあとにも考えが残る作品がいい。
春樹は棚から一冊を抜き取り、裏表紙を確認した。
(……これなら、先輩の好みに合うかもしれないな)
少しだけ読み返してから、最終的に決めよう。
そう考えて椅子へ座ったところで、スマートフォンが震えた。
雫からだった。
『春樹、今日はありがとう』
春樹は少し不思議に思った。
今日も一緒に帰ったが、特別なことをしたわけではない。
『どういたしまして。何かあった?』
しばらくして、返信が届いた。
『ううん。朝も帰りも一緒に話せて楽しかったから』
春樹はその文章を読み、少しだけ笑った。
『俺も楽しかったよ』
送信すると、すぐに既読がついた。
『あと、日曜日のことなんだけど、明日には行き先決められそう』
『了解。楽しみにしてる』
『うん。春樹が喜んでくれるところだといいな』
春樹は画面を見つめた。
雫が自分のために、どこへ行くかを考えてくれている。
それが何となく嬉しかった。
『雫が行きたいところなら、俺も楽しめると思うよ』
少し間が空いた。
やがて届いたのは、短い返信だった。
『……ありがとう。すごく嬉しい』
春樹はその言葉を読み、少しだけ首を傾げた。
自分は特別なことを言ったつもりではない。
雫が行きたい場所へ一緒に行くのだから、彼女が楽しめるところがいいと思っただけだ。
しかし、その何気ない言葉が雫にとって大切だったことまでは、まだ分からなかった。
◇◇◇
同じ頃、雫は自室の机に向かいながら、春樹から届いたメッセージを読み返していた。
『雫が行きたいところなら、俺も楽しめると思うよ』
その一文を見つめていると、自然に口元が緩む。
春樹は昔から優しい。
けれど最近は、その優しさを以前より強く意識するようになっていた。
自分のために本を選んでくれること。
話したいことがあると伝えれば、急かさず待ってくれること。
そして、行き先を秘密にしていても、楽しみにしていると言ってくれること。
(……春樹と一緒なら、きっとどこでも楽しいんだろうな)
雫は小さく息を吐いた。
机の上には、春樹から選んでもらった恋愛小説が置かれている。
昨日の夜に読み進めたところでは、最初は反発し合っていた男女が、共通の趣味を通じて少しずつ互いを理解し始めていた。
相手の意外な一面を知るたびに、以前の印象が変わっていく。
その描写を読んでいると、春樹との最近の時間を思い出す。
自分たちは最初から仲がよかった。
だから、物語の二人とは少し違う。
それでも、長く一緒にいる相手の新しい一面を知るという点では、似ているのかもしれない。
雫は本を手に取り、表紙を眺めた。
(……春樹、私がこれを読んでどんなこと考えてるか、想像もしてないんだろうな)
少しだけ可笑しくなり、同時に胸の奥が温かくなった。
春樹は、自分のことを大切な幼馴染だと思ってくれている。
それは間違いない。
けれど、自分が望んでいるのは、もう少し違う関係なのかもしれない。
雫はその気持ちを、まだ言葉にできずにいる。
今すぐ告白する勇気はない。
しかし、何も変わらないままでいたいわけでもなかった。
「……よし」
雫は小さく呟き、スマートフォンを手に取った。
次の日曜日に行こうと考えている場所について、必要なことを確認するためだった。
幼い頃、春樹と一緒に訪れたことのある場所。
当時はただ楽しく遊んでいただけだったが、今の二人で行ったら、どんな景色に見えるのだろう。
その答えを知りたいと思った。
雫は画面を操作しながら、小さく微笑んだ。
(……今度は、私が春樹を楽しませたいな)
それは、本を選んでもらったお礼というだけではない。
春樹と一緒に過ごす時間を、もっと大切にしたい。
そんな気持ちから生まれた、小さな計画だった。
◇◇◇
夜、春樹は怜華へ薦める候補の本を読み返し終え、椅子の背もたれへ体を預けた。
登場人物の心情が丁寧に描かれ、同じ出来事でも立場によって受け取り方が変わる作品だった。
派手な事件は起こらない。
しかし、何気ない会話の中に、それぞれの人物が抱えている迷いや後悔が少しずつ見えてくる。
怜華が求めていたのは、こういう作品かもしれない。
(……よし。明日はこれを薦めてみよう)
春樹は本を机の端へ置いた。
そして、今度こそ自分が読みたい短編集を開いた。
今日は朝から人と話す機会が多かった。
けれど、不思議と疲れてはいない。
悠斗の嬉しそうな顔も、栞が土曜日の約束を喜んでくれたことも、怜華が新しい推薦を楽しみにしている様子も、どれも悪くない思い出として残っている。
そして、雫との帰り道。
彼女が何かを伝えようとして、まだ言葉にできないと言っていたことも、心に残っていた。
(……雫、何を話そうとしてるんだろうな)
気にならないわけではない。
けれど、今は無理に聞かなくてもいいと思っている。
雫が話せるようになるまで待つ。
それが自分にできることなら、そうしたい。
春樹は小さく息を吐き、短編集のページをめくった。
物語の中では、同じ町に暮らす人々が、それぞれの事情を抱えながら日々を過ごしている。
誰かの何気ない言葉が、別の誰かにとって大切な意味を持つこともある。
そのことを、春樹は最近少しずつ実感するようになっていた。
自分にとっては普通の一言でも、相手が嬉しそうに笑うことがある。
何でもないと思っていた約束を、相手が楽しみにしてくれることもある。
それがどうしてなのか、すべてを理解できているわけではない。
けれど、理解できないからといって、気にしなくていいわけでもない。
(……本の登場人物だったら、もう少し簡単に気持ちが分かるんだけどな)
春樹は少しだけ笑った。
物語なら、地の文が人物の心情を教えてくれることもある。
しかし現実では、相手が話してくれなければ分からないことがある。
だからこそ、言葉を聞くことが大切なのだろう。
春樹は栞を挟み直し、机の上の文庫本を眺めた。
まだ読みたい本は山ほどある。
けれど最近は、読み終えたあとに誰と感想を話そうかと考える時間も、少し楽しみになっていた。
その変化を、春樹自身はまだ大きな出来事だとは思っていない。
ただ、以前よりも少しだけ、人と過ごす時間を大切にするようになった。
それだけのことだった。
春樹は再び本を開いた。
静かな夜の部屋には、ページをめくる音だけが響いている。
明日は怜華へ本を薦めることになっているし、雫からは日曜日の行き先について連絡が来るかもしれない。
土曜日には栞との書店訪問も待っている。
予定は少しずつ増えているが、今のところ嫌ではなかった。
(……まあ、読書時間さえ確保できれば問題ないか)
春樹はそう考え、物語の続きへ意識を戻した。
けれど、彼が思っている以上に、周囲の人々は春樹と過ごす時間を大切にし始めている。
そのことに、本人がいつ気づくのかは、まだ分からない。
少なくとも今夜の春樹は、目の前の短編集を読み終えることの方が重要だった。
そして、そんな彼の何気ない日常は、明日もまた、少しずつ賑やかになっていくのだった。




