第50話 日曜日くらい本を読ませてほしいのに、どうして幼馴染からのお誘いが気になるんだ?
日曜日の午前八時二十分、七瀬春樹は自室の机に向かいながら、目の前に置かれた二冊の文庫本を眺めていた。
一冊は、昨日、西条雫から選んでもらった青春小説。もう一冊は、読みかけになっている短編集だった。
窓の外には薄い雲が広がり、時折差し込む朝日が机の上を柔らかく照らしている。住宅街はまだ静かで、遠くから聞こえる車の音と、庭先で鳴いている鳥の声が、休日らしい穏やかな空気を作っていた。
春樹は昨日の夜を思い出しながら、小さく息を吐いた。
(……結局、昨日はかなり読んじゃったな)
帰宅してから雫に選んでもらった本を開き、気づけば夕食の時間まで読み続けていた。
夕食後も続きを読み、寝る前には物語の中盤まで進んでいた。
普段なら一気に最後まで読みたくなるところだったが、昨日は途中で本を閉じた。
理由は単純で、少し考えたいことがあったからだ。
物語の主人公は、古い資料室で見つけた一冊の本をきっかけに、過去の卒業生たちが残した約束を辿っている。
最初は単なる謎解きのように見えた出来事が、少しずつ人間関係の話へ変わっていく。
誰かが残した言葉。
誰かが守り続けた約束。
そして、当時は伝えられなかった気持ち。
春樹はその構成が気に入っていた。
(……雫、よくこれ選んだな)
自分が好きそうな要素が、かなり自然に詰め込まれている。
しかも、ただ好みに合うだけではない。
読んでいると、雫と昨日話したことまで思い出すのだ。
公園のベンチで交わした会話。
互いにまだ知らないことがあるという話。
そして、雫が「また一緒に出かけよう」と言ってくれたこと。
春樹は少しだけ笑った。
(……本って、読むタイミングでも印象変わるんだな)
同じ作品でも、いつ読むか、誰に薦められるかによって、受け取り方が変わる。
そんなことを改めて感じながら、春樹は文庫本を開いた。
今日は日曜日。
学校もない。
部活動にも所属していない。
特別な予定も入っていない。
つまり、思う存分本が読める日だった。
「……よし」
春樹は小さく呟いた。
「今日は絶対、読書時間を確保する」
誰に聞かせるわけでもない宣言だった。
しかし、その決意は数分後、早速試されることになった。
◇◇◇
午前八時四十五分。
スマートフォンが震えた。
春樹は一度だけ画面を見て、少し考えた。
送り主は雫だった。
『おはよう、春樹』
春樹は本へ栞を挟み、返信する。
『おはよう』
すぐに既読がついた。
『昨日はありがとう。すごく楽しかった』
春樹は小さく笑った。
『俺も楽しかった。また行こうな』
少し間が空く。
『うん。そういえば、昨日話してたことなんだけど』
春樹は首を傾げた。
(昨日話してたこと?)
いろいろ話したので、どれのことかすぐには分からない。
『何のこと?』
返信すると、すぐに新しいメッセージが届いた。
『次は本屋さん以外のところに行こうって話』
春樹は思い出した。
昨日の帰り道、雫が「また一緒に出かけよう」と言い、自分は本屋以外でもいいと答えたのだった。
『ああ、覚えてる』
『本当に?』
『もちろん』
少しして、雫から次のメッセージが届いた。
『じゃあ、今度の日曜日、空いてる?』
春樹は少し考えた。
来週の土曜日は、白石栞と本屋へ行く予定がある。
しかし、日曜日には今のところ特別な予定がなかった。
『今のところ空いてる』
『よかった!』
春樹は少しだけ笑った。
『どこ行くの?』
返信すると、今度は少し間が空いた。
やがて届いたのは、短い文章だった。
『まだ秘密』
春樹は思わず声を出して笑った。
「……また秘密かよ」
雫は最近、何かと秘密を増やしている。
先週選んでくれた恋愛小説の理由も、半分はまだ秘密のままだ。
昨日の公園でも、何か話したいことがあると言っていた。
そして今度は、行き先まで秘密らしい。
(……まあ、雫が決めたいなら任せるか)
春樹は返信した。
『了解。楽しみにしてる』
少しして、雫から返事が届いた。
『うん。私も』
春樹はスマートフォンを置き、再び本を開いた。
しかし、数ページ進んだところで、ふと考えた。
(……何で行き先秘密なんだろうな)
雫が行きたい場所。
本屋以外。
日曜日。
春樹は少し考えてみたが、思い当たる場所は多すぎた。
映画館。
水族館。
雑貨店。
カフェ。
公園。
あるいは、昔よく遊びに行った場所かもしれない。
(……まあ、当日分かるか)
春樹はそう結論づけた。
そして、今度こそ本へ集中することにした。
◇◇◇
午前十時を過ぎた頃、春樹はようやく雫からもらった青春小説を読み終えた。
最後のページを閉じたあと、しばらく本を机へ置いたまま動かなかった。
物語の結末は、派手なものではなかった。
過去の卒業生たちが残した約束の意味が明らかになり、主人公はそれを知ったうえで、自分がこれからどう生きるかを考える。
誰かの気持ちを完全に理解することはできない。
けれど、理解しようとすることはできる。
そんな余韻を残す終わり方だった。
(……いいな、これ)
春樹は小さく息を吐いた。
読み終えた満足感と、もう少しこの物語の中にいたかったという気持ちが混ざっている。
特に印象に残ったのは、主人公が最後に古い資料室へ戻る場面だった。
最初は一人で訪れた場所。
けれど最後には、そこで知り合った相手と並んで立っている。
場所そのものは変わっていない。
しかし、主人公にとっての意味は大きく変わっている。
(……こういう終わり方、好きなんだよな)
春樹は表紙を眺めながら、雫の顔を思い浮かべた。
彼女は、どうしてこの作品を選んだのだろう。
自分が本好きだから。
人間関係の変化を描いた作品が好きだから。
それだけではないような気もする。
しかし、雫が何を考えて選んだのかは、本人に聞かなければ分からない。
春樹はスマートフォンを手に取った。
『雫、昨日の本読み終わった』
送信すると、数分後に返信が届いた。
『もう!?』
『面白くて止まらなかった』
『そんなに?』
『かなり。特に最後の資料室の場面が好き』
少し間が空く。
『そこ、私も好き』
春樹は笑った。
『最初と最後で同じ場所なのに、全然意味が違うんだよな』
『うん。誰と一緒にいるかで、同じ場所でも違って見えるんだなって思った』
春樹はその文章を読み、少しだけ考えた。
(……確かに)
昨日の書店も、そうだった。
いつも一人で行く場所。
けれど雫と一緒に行くと、自分では選ばない本に出会える。
同じ棚を見ていても、楽しみ方が変わる。
『分かる。昨日の本屋もそうだったかも』
返信すると、雫からすぐに返事が来た。
『……そう思ってくれたんだ』
春樹は少し不思議に思いながら答えた。
『うん。雫と行くと、自分じゃ選ばない本見つかるし』
しばらくして、雫から短いメッセージが届いた。
『嬉しい』
春樹は小さく笑った。
その言葉が、何となく心に残った。
◇◇◇
一方、雫は自室のベッドへ腰を下ろしながら、スマートフォンの画面を見つめていた。
春樹から届いたメッセージ。
『昨日の本屋もそうだったかも』
その言葉を、もう一度読み返す。
(……春樹も、そう思ってくれたんだ)
雫は少しだけ頬を赤くした。
自分にとって、昨日の書店は特別だった。
本を選ぶ時間も、カフェで話したことも、公園で並んで座ったことも。
どれも、いつもの春樹との時間とは少し違って感じられた。
けれど、それが自分だけの感覚だったら、少し寂しいと思っていた。
春樹も同じ場所を、少し違って感じてくれていた。
そのことが、嬉しかった。
「……よかった」
雫は小さく呟いた。
机の上には、昨日春樹から選んでもらった恋愛小説が置かれている。
第一印象が最悪だった男女が、共通の趣味を通じて少しずつ互いを理解していく物語。
まだ読み始めたばかりだが、すでに少し面白くなってきている。
主人公の女の子は、相手の男の子を最初から嫌っている。
しかし、ある出来事をきっかけに、少しずつ相手の意外な一面を知っていく。
雫はその描写を読みながら、何となく春樹のことを考えていた。
(……私たちは、最初から仲よかったけど)
幼馴染。
その関係は、ずっと変わらないと思っていた。
けれど最近は、少しずつ違う感情が混ざり始めている。
春樹が誰かと楽しそうに話していると、少し気になる。
春樹が自分のために本を選んでくれると、嬉しい。
春樹が自分と過ごす時間を楽しんでくれると、胸が温かくなる。
その一つひとつが、以前とは少し違う。
(……やっぱり、好きなんだろうな)
雫は静かに息を吐いた。
今さら認めるのも、少し恥ずかしい。
けれど、もう自分の気持ちを誤魔化すことはできなかった。
春樹が好きだ。
幼馴染としてだけではなく、一人の男の子として。
その気持ちは、少しずつ確かなものになっている。
ただ、だからといってすぐに告白するつもりはなかった。
今の関係を大切にしたい。
そして、春樹が自分をどう思っているのか、もう少し知りたい。
雫はスマートフォンを見つめながら、小さく笑った。
(……来週の日曜日、どこ行こうかな)
行き先はまだ決まっていない。
春樹には秘密だと言ったが、実際には候補をいくつか考えている段階だった。
映画館もいい。
水族館も楽しそうだ。
でも、せっかくなら春樹とゆっくり話せる場所がいい。
雫は少し考えた。
そして、ふと思いついた場所があった。
(……あそこ、久しぶりに行ってみようかな)
小さい頃、春樹と何度か行ったことのある場所。
今はもう、二人で訪れる機会がほとんどなくなっている。
雫はその場所を思い浮かべながら、少しだけ笑った。
「……よし」
まだ決定ではない。
けれど、少しだけ楽しみが増えた。
◇◇◇
午後一時を過ぎた頃、春樹は昼食を終え、自室へ戻っていた。
午前中に一冊読み終えたことで、読書欲はむしろ高まっている。
机の上には、次に読む予定の短編集が置かれていた。
(……よし。午後はこれだな)
春樹は本を開いた。
しかし、数ページ進んだところで、またスマートフォンが震えた。
今度の送り主は高坂悠斗だった。
『七瀬、今ちょっといい?』
春樹は時計を見た。
日曜日の午後。
特別な予定はない。
ただし、今日は読書時間を確保するつもりだった。
(……予約制にしたんだよな)
春樹は少し考えた。
しかし、悠斗がわざわざ連絡してくるということは、何かあったのかもしれない。
『どうした?』
返信すると、すぐに電話がかかってきた。
春樹は少し驚きながら通話を開始する。
「もしもし」
『七瀬!』
「声でかい」
『悪い! でも、ちょっと聞いてくれ!』
悠斗の声は、いつもより少しだけ興奮していた。
「……映画、どうだった?」
『終わった!』
「おお」
春樹は笑った。
「楽しかったか?」
『めちゃくちゃ楽しかった!』
悠斗は勢いよく答えた。
『映画もよかったし、紗弥ともいっぱい話せた!』
「よかったじゃん」
『しかもさ、映画終わったあとにカフェ行ったんだよ』
「へえ」
『原作と映画の違いとか、好きな場面とか、結構話せてさ』
春樹は頷きながら聞いていた。
悠斗がここまで嬉しそうに話すのは珍しい。
普段は冗談を言って誤魔化すことが多い友人だが、今日は素直に喜んでいる。
『それでさ……』
悠斗の声が少しだけ落ち着いた。
『紗弥が、また一緒に映画観に行こうって言ってくれた』
春樹は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……おお」
『おお、じゃねえよ! もっと驚け!』
「いや、すごいじゃん」
春樹は笑った。
「よかったな、悠斗」
『……うん』
電話の向こうで、悠斗が少し照れたように笑った気配がした。
『ありがとな、七瀬』
「俺、何もしてないぞ」
『相談乗ってくれただろ』
「それくらい友達なら普通だろ」
春樹は自然に答えた。
悠斗は少しだけ黙った。
そして、小さく笑った。
『……お前、そういうところだよな』
「何が?」
『いや、何でもない』
春樹は首を傾げた。
最近、周囲の人間がこういう言い方をすることが増えている気がする。
何か言いかけて、途中でやめる。
あるいは、笑って誤魔化す。
(……何なんだろうな)
春樹は少し不思議に思った。
しかし、今は悠斗の嬉しそうな声の方が気になった。
「で、次はいつ行くんだ?」
『まだ決めてない。でも、また誘っていいってことだよな?』
「そりゃそうだろ。向こうから言ってくれたんだし」
『……だよな』
悠斗は少しだけ笑った。
『よし。次も頑張る』
「おう。頑張れ」
電話を切ったあと、春樹はスマートフォンを机へ置いた。
そして、少しだけ笑った。
(……よかったな、悠斗)
友達の恋愛が少しずつ進んでいる。
そのことが、素直に嬉しかった。
春樹は椅子へ座り直し、短編集を開いた。
しかし、今度は少しだけ考えた。
(……恋愛小説の中だけじゃなくて、現実でもこういうことあるんだな)
当然のことだ。
恋愛は小説の中だけにあるものではない。
それくらい、春樹も理解している。
けれど、身近な友人が誰かを好きになり、その相手と少しずつ距離を縮めていく姿を見るのは、今まであまり経験がなかった。
悠斗が紗弥を好きだと知ったときは、少し驚いた。
しかし今は、二人がどんなふうに関係を深めていくのか、少し楽しみに思っている。
(……まあ、俺には関係ないけど)
春樹はそう結論づけた。
そして、再び本へ視線を戻した。
◇◇◇
夕方になり、春樹はようやく短編集を読み終えた。
時計を見ると、午後五時を少し過ぎている。
今日は朝から本を読み、雫とメッセージを交わし、悠斗の電話を聞き、また本を読んだ。
予定していたほど読書だけに集中できたわけではない。
それでも、悪くない一日だった。
春樹は椅子の背もたれへ体を預け、天井を見上げた。
(……結構読めたな)
午前中に一冊。
午後に短編集を一冊。
読書時間としては十分だった。
しかし、今日一番印象に残っているのは、雫からもらった本の結末だった。
過去の約束。
伝えられなかった気持ち。
そして、同じ場所でも、誰と一緒にいるかで意味が変わるということ。
春樹は机の上の文庫本へ視線を向けた。
(……雫、何であの本選んだんだろうな)
自分の好みに合うから。
それは間違いない。
けれど、雫があの本を読んで何を感じたのかは、まだ十分に聞けていない。
春樹は少し考えた。
そして、ふと昨日の帰り道を思い出した。
『また一緒に出かけようね』
雫はそう言っていた。
今日も、来週の日曜日の予定を尋ねてきた。
しかも、行き先は秘密らしい。
(……雫、最近俺と出かけるの楽しみにしてくれてるんだな)
春樹は小さく笑った。
幼馴染として、昔から一緒に過ごすことは多かった。
けれど、高校生になってからは、それぞれの時間も増えている。
そんな中で、雫がまた一緒に出かけたいと思ってくれている。
それは、素直に嬉しかった。
春樹はスマートフォンを手に取った。
『雫、来週の日曜日、楽しみにしてる』
送信すると、少しして返信が届いた。
『うん。私もすごく楽しみ』
春樹は笑った。
『行き先、決まった?』
『だいたい決めたよ』
『教えてくれないの?』
『まだ秘密』
春樹は思わず笑った。
『秘密多いな』
『そうかもね』
少し間が空く。
『でも、春樹には楽しみにしててほしいから』
春樹はその文章を読み、少しだけ考えた。
雫が自分のために何かを考えてくれている。
それが、何となく嬉しかった。
『了解。じゃあ楽しみに待ってる』
返信すると、雫からすぐに返事が届いた。
『うん。ありがとう』
春樹はスマートフォンを置き、窓の外を見た。
夕方の空は少し赤く染まり始めている。
今日も、読書の時間は十分に確保できた。
けれど、それだけではなかった。
雫との約束。
悠斗の嬉しそうな報告。
そして、本を通じて少しずつ広がっていく人間関係。
春樹は小さく息を吐いた。
(……本が読みたいだけなんだけどな)
その気持ちは、今も変わらない。
けれど最近は、本を読むだけでは得られなかった楽しみが増えている。
そして、その楽しみを自分が嫌だと思っていないことにも、少しずつ気づき始めていた。
春樹は机の上の文庫本を手に取り、もう一度表紙を眺めた。
物語の中では、主人公が過去の約束を辿り、自分の気持ちと向き合っていた。
現実の春樹にも、まだ知らない気持ちがある。
雫が何を考えているのか。
自分が雫との時間をどう感じているのか。
その答えは、まだはっきりしていない。
けれど、急いで結論を出す必要はないのかもしれない。
春樹は小さく笑った。
(……来週の日曜日、どこ行くんだろうな)
少しだけ楽しみにしながら、彼は次に読む本を本棚から取り出した。
まだ読んでいない物語は、山ほどある。
そして、これから自分の周囲でどんな物語が始まるのかも、まだ分からない。
春樹は新しい一冊を開き、静かな日曜日の残り時間を読書へ使うことにした。




