第49話 幼馴染と本屋へ行っただけなのに、どうして帰り道まで物語の続きみたいになるんだ?
土曜日の午後一時を少し過ぎた頃、七瀬春樹は駅前のカフェで、雫から贈られたばかりの文庫本に栞を挟んだ。
窓の外では休日の買い物客が行き交い、向かいの雑貨店では親子連れが店先の商品を楽しそうに眺めている。店内には食器の触れ合う小さな音と穏やかな音楽が流れ、昼食を終えた客たちが、それぞれの時間を過ごしていた。
春樹と西条雫が座っているのは、通りを見渡せる二人掛けの席だった。
テーブルには飲み物のカップが二つと、今日の書店で互いに選んだ文庫本が置かれている。先ほどまで二人は軽い昼食を取りながら本の感想を話していたのだが、春樹が新しい一冊を開いたことで、いつの間にか会話が途切れていた。
「……春樹、もう結構読んだ?」
向かいから聞こえた声に、春樹は顔を上げた。
「いや、まだ序盤。資料室で最初の記録を見つけたところまで」
「そっか。どう?」
「かなり面白そう。主人公が思ってたより周りを見てるんだよな」
春樹は表紙を指先でなぞりながら、少し楽しそうに続けた。
「人付き合いが得意じゃないって紹介されてたから、もっと周囲に無関心なタイプかと思ってた。でも、実際は相手の表情とか言葉の選び方を結構気にしてる。気づいてることを口に出さないだけなんだな」
雫はその説明を聞き、嬉しそうに目を細めた。
「そこまで読んだだけで、もうそんなに分かるんだ」
「まだ予想だけどな。読み進めたら印象変わるかもしれないし」
「うん。春樹なら、そういうところも楽しんでくれそうだと思った」
雫が選んだのは、学校の古い資料室で発見された一冊の本をきっかけに、過去の卒業生たちが残した約束を辿っていく青春小説だった。
謎を追う面白さだけでなく、本を通じて人と人との距離が変わっていくところにも惹かれて選んだ作品である。春樹がどう読むのか知りたかったし、何より、彼に読んでほしいと思った。
その本人が、まだ序盤だというのに楽しそうに話している。
(……選んでよかった)
雫はカップへ視線を落とし、口元に浮かんだ笑みを隠すように飲み物を一口飲んだ。
春樹はそんな雫の様子に気づかず、もう一度本を開こうとした。
「春樹」
「ん?」
「その本、続きが気になる?」
「かなり」
「じゃあ、帰ってからのお楽しみにしない?」
雫は責めるような口調ではなく、少しだけいたずらっぽく笑いながら言った。
「せっかく一緒に来たんだし、もう少しお話したいなって」
春樹は手元の本と雫の顔を交互に見た。
そして、ようやく自分が何をしていたのか気づいたらしい。
「ああ……ごめん。つい読み始めちゃった」
「怒ってないよ。春樹がそうなるのは分かってるし」
「いや、でも確かにそうだな。雫が選んでくれた本だし、感想はちゃんと読んでから話したい」
春樹は本を閉じ、丁寧に鞄へしまった。
「今日は雫と来てるんだから、帰ってから読めばいいか」
雫は思わず彼の顔を見つめた。
昔から春樹は、面白い本を見つけると周囲の音が聞こえなくなるほど集中する。もちろん今でもそういうところはあるのだが、最近は誰かと過ごす時間を自分から選ぶことが増えていた。
(……本当に、少しずつ変わってるんだ)
雫は嬉しさを感じる一方で、その変化が自分だけに向けられたものではないことも知っていた。
白石栞とも本について話しているし、新海真実や小日向ひよりにも作品を薦めている。桐谷美月にまで一冊選んでいたのだから、春樹の世界が以前より広がっているのは確かだった。
それでも、今この時間に本を閉じて、自分と話そうとしてくれた。
そのことは、素直に嬉しかった。
「……ありがとう」
「何が?」
「今、ちゃんと話してくれるから」
春樹は少し不思議そうにしたあと、笑った。
「そんなことで礼を言われてもな。俺も雫と話すの楽しいし」
雫は返事をするまでに、ほんの少し時間がかかった。
春樹は何気なく言ったのだろう。
けれど、雫にとっては簡単に聞き流せる言葉ではなかった。
「……そっか。じゃあ、いっぱい話そうね」
「おう。せっかくだし、昨日まで読んでた方の感想も聞きたい」
「『君がいない街で、君のことを考えた』?」
「そう。昨日は最後の印象だけだったし、雫がどの場面を好きだったのか、まだちゃんと聞いてないだろ」
春樹が身を乗り出すと、雫は少しだけ考えた。
あの作品を読んでいる間、自分が何度も立ち止まった場面がある。
離れて暮らすようになった幼馴染の二人が、久しぶりに電話で話す場面だった。
「……私はね、女の子が昔の話をしようとして、結局やめちゃうところが好きだった」
「ああ、あそこか」
「うん。話したいことはあるのに、今の関係が変わるのが怖くて、何でもない話に変えちゃうでしょ?」
春樹は頷いた。
「確かに、あの場面はよかったな。男の方も何か言いたそうなのに、無理に聞かないんだよな」
「そう。それが優しいんだけど、ちょっともどかしくもあって」
「分かる。でも、俺はあそこで聞かなかったからこそ、最後の会話が効いてくると思う」
雫は彼の言葉を聞き、少しだけ顔を上げた。
「……春樹は、あの男の子のこと、どう思った?」
「いいやつだと思ったよ。ただ、相手のことを考えすぎて、自分の気持ちを言うのが後回しになってるところはあるな」
「……そうだね」
「でも、無理に答えを出させようとしないのは好きだった。相手が話せるようになるまで待つのも、一つの選択だと思うし」
春樹はそう言ってから、少しだけ笑った。
「まあ、読んでる側としては『そこはもう少し話せよ』って思う場面もあったけど」
雫も笑った。
しかし、その胸の奥には、言葉にしにくい感情が残っていた。
(……待ってくれる人、なんだよね。春樹も)
今日の待ち合わせ前、春樹は以前から気にしていた秘密について尋ねてくれた。
雫がまだ話せないと答えると、彼はそれ以上追及しなかった。
あの小説の登場人物と、まったく同じではない。
けれど、似ているところはある。
「……春樹ってさ」
「ん?」
「誰かが話したそうにしてたら、気になる?」
「そりゃ気になるよ。何か困ってるのかもしれないし」
「でも、言いたくないって言われたら?」
「内容によるけど、無理に聞く必要がないなら待つかな。俺に話したいって思ったときに話してくれればいいし」
雫はカップの縁へ指を添えた。
「……そっか」
春樹は少しだけ首を傾げた。
「雫、何か話したいことある?」
まっすぐな問いだった。
雫は一瞬だけ息を止めたが、春樹の表情には、答えを急かすような様子はなかった。
「……あるけど、まだ上手く言えない」
今度は、何でもないと誤魔化さなかった。
春樹は少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに頷いた。
「分かった。じゃあ、まとまってからでいいよ」
「……うん」
雫は小さく笑った。
まだ秘密は話せない。
それでも、今までより少しだけ正直になれた気がした。
◇◇◇
カフェを出る頃には、午後の日差しが少し柔らかくなっていた。
駅前の通りには買い物客が増え、店先には秋物の衣服や季節限定のお菓子が並んでいる。二人はすぐに帰るつもりだったが、雫が文房具店の前で足を止めたため、少しだけ商店街を歩くことになった。
「春樹、ちょっと見ていってもいい?」
「いいよ。何か買うの?」
「栞が欲しくて。今使ってるの、端が折れちゃってるんだ」
「栞なら、さっきの書店にも結構あったぞ」
「うん。でも、ここのも可愛いんだよ」
雫はそう言いながら、店先の小さな回転式の棚へ近づいた。
透明な袋に入った栞が何種類も並んでいる。
花の絵柄が入ったもの、夜空を描いたもの、動物の小さなイラストが添えられたもの。紙製だけでなく、薄い金属で作られたものもあった。
春樹も隣から覗き込む。
「へえ。結構種類あるな」
「でしょ?」
「この月のやつ、いいな」
春樹が指さしたのは、紺色の背景に細い三日月が描かれた栞だった。
雫はそれを手に取り、少し考えた。
「……春樹、こういうの好きなんだ」
「うん。派手すぎないし、読みかけのページに挟んでも邪魔にならなそう」
「実用性で選ぶんだね」
「栞だからな」
春樹が当然のように答えると、雫は笑った。
「私はこっちが好きかな」
雫が選んだのは、淡い青色の花が描かれた栞だった。
春樹は少し身を寄せて眺める。
「ああ、雫っぽいな」
「……私っぽい?」
「うん。落ち着いた色だし、雫こういうの好きだろ」
雫は栞を見つめた。
確かに、自分が普段選ぶ色に近い。
けれど、それを春樹が覚えていたことが、少し意外だった。
「……よく見てるね」
「昔から一緒にいるからな」
春樹はあっさり答えた。
雫は小さく笑いながら、青い花の栞を買うことにした。
会計を済ませて店を出ると、春樹も小さな袋を持っていた。
「春樹も買ったの?」
「うん。ちょうど新しいの欲しかったし」
「どれにしたの?」
「さっきの月のやつ」
春樹は袋から栞を取り出して見せた。
雫は自分の栞と並べて眺める。
青い花と、紺色の夜空。
まったく同じものではないけれど、どちらも落ち着いた色合いだった。
「……何か、ちょっと似てるね」
「そうか?」
「うん。色の雰囲気とか」
春樹は二枚を見比べた。
「確かに。並べると合うな」
雫はその言葉に、少しだけ頬を緩めた。
「……そうだね」
何でもない買い物だった。
けれど、今日という日の思い出が、また一つ形になったような気がした。
◇◇◇
商店街を抜けようとしたところで、聞き慣れた明るい声が飛んできた。
「あれっ、春樹先輩!」
振り返ると、小日向ひよりが買い物袋を提げて立っていた。
今日は私服姿で、髪には小さな飾りをつけている。学校で見るときより少し大人びた雰囲気だったが、春樹を見つけた瞬間の笑顔はいつも通りだった。
「小日向。こんにちは」
「こんにちは! あっ、西条先輩も!」
「こんにちは、小日向さん」
雫が挨拶すると、ひよりは二人を交互に見た。
そして、何かを思い出したように笑みを深くする。
「そういえば、今日でしたね。お二人の本屋さん!」
「そうだよ。さっきまで行ってた」
「へえー。どうでした?」
「面白い本が買えた」
春樹が答えると、ひよりは少しだけ首を傾げた。
「……先輩、それ以外の感想は?」
「それ以外?」
「例えば、一緒に選んで楽しかったとか、そういうのです」
「もちろん楽しかったぞ」
春樹はあっさり頷いた。
「雫が俺に選んでくれた本、かなり好みに合ってそうだったし。俺が選んだ方も喜んでくれたからな」
ひよりは一瞬だけ目を丸くした。
その後、雫へ視線を移す。
雫は少し照れたように笑っていた。
「……なるほど。今日は先輩、結構いい感じですね」
「何が?」
「いえ、こっちの話です」
ひよりは楽しそうに笑った。
春樹は不思議そうに首を傾げたが、雫はその意味を何となく察したらしい。
「小日向さんは買い物?」
「はい! 友達と来てるんですけど、今ちょっと別行動中で」
ひよりは手元の袋を持ち上げた。
「文房具とか見てたんです。あっ、そうだ。春樹先輩、この前お願いした本のことなんですけど」
「ああ、次の推薦?」
「はい。でも、今日はお休みの日ですし、急がなくて大丈夫です」
春樹は少し驚いた。
「珍しいな。いつもなら早く教えてって言いそうなのに」
「私だって空気くらい読みますよ!」
ひよりは頬を膨らませた。
「それに、先輩がちゃんと選んでくれるのは知ってますから。楽しみに待ってます」
その言葉に、春樹は少しだけ笑った。
「分かった。もう少し待っててな」
「はい!」
ひよりは元気よく頷き、それから雫へ顔を向けた。
「西条先輩、今日の本、どんなの選んでもらったんですか?」
「最初は仲が悪かった二人が、共通の趣味を通じて少しずつ仲良くなる恋愛小説だよ」
「わあ、いいですね!」
ひよりは目を輝かせた。
「私、そういう最初は素直になれない二人の話、好きです!」
「分かる。少しずつ印象が変わっていくところがいいんだよね」
「そうなんです! 最初は喧嘩してるのに、いつの間にか相手のことを一番気にしてたり!」
二人は楽しそうに話し始めた。
春樹はその様子を眺めながら、小さく頷いた。
(……やっぱり雫には合ってそうだな)
ひよりまで興味を示したのだから、選んだ方向性は悪くなかったのだろう。
ただし、雫がどんな感想を持つかは、実際に読んでみなければ分からない。
春樹はその答えを楽しみに待つことにした。
「それじゃ、私は友達のところ戻りますね!」
ひよりは時計を確認し、二人へ手を振った。
「春樹先輩、西条先輩、また学校で!」
「おう。またな」
「またね、小日向さん」
ひよりは元気よく駆けていった。
その背中を見送りながら、雫が小さく笑う。
「小日向さん、明るいね」
「そうだな。話してるとこっちまで元気になる」
「うん。分かる」
雫は頷いた。
ひよりが春樹を慕っていることは、何となく感じている。
ただ、ひよりが自分の気持ちをどこまで自覚しているのかまでは分からない。
それを勝手に決めつけるつもりもなかった。
雫は春樹の横顔を見ながら、小さく息を吐いた。
(……春樹の周り、本当に賑やかになったな)
以前は本さえあれば満足していた幼馴染が、今ではいろいろな人と本を通じて関わっている。
嬉しい変化だと思う。
けれど、その輪の中で自分がどんな存在でいたいのかを考えると、少しだけ胸が落ち着かなくなった。
◇◇◇
駅前の賑わいから少し離れたところに、小さな公園があった。
木々の葉はまだ緑を残しているものの、ところどころに黄色が混ざり始めている。遊具の近くでは小さな子供たちが遊び、ベンチには散歩途中らしい年配の夫婦が腰を下ろしていた。
「春樹、ちょっと休んでいかない?」
雫が尋ねると、春樹は公園を見渡して頷いた。
「いいよ。結構歩いたしな」
二人は木陰のベンチへ腰を下ろした。
春樹は鞄を足元へ置き、雫は膝の上へ買い物袋を乗せる。風が吹くたびに葉が擦れる音が聞こえ、少し離れた遊具では子供たちの笑い声が響いていた。
「……今日、思ったより長く一緒にいるね」
雫が呟いた。
「そうだな。最初は本選んで帰るだけのつもりだったし」
「春樹、早く帰って読みたいんじゃない?」
「読みたいけど、別に急いでないよ」
春樹は笑った。
「今日選んでもらった本は逃げないし」
「……そういう言い方するんだ」
「本当のことだろ?」
雫は小さく笑った。
少し前までなら、春樹は本を買ったらすぐに帰って読み始めたがっただろう。
それなのに今は、隣でのんびりと座っている。
「春樹、最近ちょっと変わったよね」
「またそれ?」
「うん。でも、悪い意味じゃないよ」
雫は足元へ視線を落とし、言葉を選んだ。
「前より、人と話す時間を楽しんでる気がする」
春樹は少し考えた。
「……確かに、そうかもな」
「自覚あるんだ?」
「本の感想聞くの、面白いって分かったから」
春樹は笑った。
「同じ本でも、雫と白石先輩じゃ気にするところが違うし、小日向はまた別のところで盛り上がるだろ。そういうの聞いてると、自分が見落としてた部分にも気づけるんだよな」
雫は頷いた。
「……そっか」
「でも、一番意外だったのは雫かも」
「……私?」
雫は顔を上げた。
「うん。昔から知ってるのに、どんな話が好きなのか、ちゃんと知らなかったんだなって」
春樹は少しだけ照れたように笑った。
「最近、本の話してると新しい発見が多いし」
雫はその言葉を聞き、しばらく返事ができなかった。
春樹はただ、読書の好みについて話しているのだろう。
けれど雫にとっては、それだけではなかった。
(……私もだよ、春樹)
昔から知っている。
小さい頃に何をして遊んでいたかも、どんなことで笑うかも、どんなときに意地を張るかも知っている。
けれど最近は、知らなかった春樹の表情を見つけることが増えた。
誰かのために真剣に本を選ぶ顔。
友達の相談を聞いて、相手が嬉しそうにしていると自分まで喜ぶところ。
そして、雫が言葉にできないことを、急かさず待ってくれるところ。
知っているつもりだった幼馴染の中に、まだ知らない部分がある。
そのことが、今は少し嬉しかった。
「……じゃあ、これからもっと知っていけばいいね」
雫は静かに言った。
春樹は迷わず頷いた。
「そうだな。雫の好きな本、まだまだ知りたいし」
その返事に、雫は小さく笑った。
「……本だけ?」
「ん?」
「ううん。例えば、ほかに好きなものとか」
春樹は少し考えた。
「それもそうだな。最近、雫が何に興味あるのか、ちゃんと聞いてなかったかも」
「……そう?」
「うん。小さい頃は一緒にいる時間長かったけど、今は学校でも別々に過ごすことあるし」
春樹は少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「俺、本のことばっかり話してるしな」
「それは昔からだよ」
雫が笑うと、春樹も笑った。
「否定できない」
雫はその横顔を見つめた。
春樹は、自分が思っている以上に人の変化を見ている。
ただ、それが恋愛感情と結びつくかどうかは、また別の話なのだろう。
「……春樹」
「何?」
「私が今、誰かのことを好きだったら、驚く?」
言ってから、雫は自分でも少し驚いた。
ここまで踏み込んで聞くつもりではなかった。
けれど、言葉はもう戻せない。
春樹は雫の顔を見た。
いつものようにすぐ答えるかと思ったが、少しだけ考えるように視線を動かした。
「……驚くかもしれないな」
雫の胸が小さく跳ねた。
「……どうして?」
「そういう話、今まであんまりしたことなかったから」
春樹は穏やかに続けた。
「でも、雫に好きな人ができても不思議じゃないだろ。誰かを好きになること自体は、普通のことだし」
「……そっか」
「ただ、相手が誰かによっては驚くかもな。全然知らない人だったら、いつ知り合ったんだって思うし」
雫は思わず笑った。
「春樹らしい答え」
「そうか?」
「うん」
雫は膝の上で指を組んだ。
春樹は、自分が誰かを好きになっても応援してくれるだろう。
それは昔から変わらない優しさだ。
けれど、もしその相手が春樹自身だったら。
彼はどんな顔をするのだろう。
(……まだ、聞けないな)
雫は小さく息を吐いた。
今ここで答えを求めるには、自分の気持ちもまだ整理しきれていない。
ただ、以前より少しだけ分かってきたことがある。
春樹と一緒にいる時間を、もっと増やしたい。
本の話だけでなく、何でもないことも話したい。
そして、春樹が自分をどんなふうに見ているのか、知りたい。
その気持ちは、もう簡単に誤魔化せるものではなかった。
「……春樹」
「ん?」
「今日、楽しかったよ」
雫は顔を上げて笑った。
「本を選んだのも、カフェで話したのも、こうして一緒に歩いたのも」
春樹は少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、自然に笑った。
「俺も楽しかった」
「……本当?」
「うん。雫といると、気を遣わなくていいし」
雫は少しだけ首を傾げた。
「気を遣わなくていい?」
「変に格好つけなくていいってこと。俺が本の話ばっかりしても、雫はちゃんと聞いてくれるし、読みすぎたら止めてくれるだろ」
春樹は少し照れたように笑った。
「そういうの、ありがたいなって思う」
雫は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
春樹が自分をどう見ているのか、そのすべてが分かったわけではない。
けれど、彼にとって自分が安心できる相手なのだと知れたことは、嬉しかった。
「……私も、春樹といると楽だよ」
「そうか?」
「うん。昔から知ってるから、変に頑張らなくていいし」
雫は小さく笑った。
「でも最近は、ちょっとだけ緊張することもあるけど」
「緊張?」
春樹が首を傾げる。
雫は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……本を選ぶときとか。春樹が気に入ってくれるかなって」
「ああ、そういうことか」
春樹は納得したように頷いた。
「俺も今日、雫に渡すまでちょっと緊張した」
「……春樹も?」
「そりゃそうだろ。三冊連続で当ててたし、今回は外したくなかったからな」
雫はその言葉に、思わず笑ってしまった。
「……そこなんだ」
「大事だぞ?」
「うん。春樹にとってはね」
二人は顔を見合わせて笑った。
その笑い声が落ち着いたあと、雫は少しだけ空を見上げた。
木々の間から見える空は、淡い青色をしている。
今日という日が、もう少しだけ続けばいいのに。
そんなことを思った。
◇◇◇
公園を出た頃には、夕方の気配が少しずつ近づいていた。
住宅街へ続く道には穏やかな風が吹き、庭先の花壇を手入れする人や犬の散歩をする人の姿が見える。二人はいつものように並んで歩きながら、今日買った本のことや学校での出来事を話していた。
「そういえば、春樹」
「何?」
「昨日、桐谷先生との本の話はどうだった?」
「ああ、結構盛り上がった」
春樹は少し楽しそうに笑った。
「先生に薦めたの、古い書店が舞台のミステリーなんだけど、かなり興味持ってくれた」
「よかったね」
「うん。読んだら感想聞かせてくれるって」
雫は頷いた。
「春樹、先生にまで本を選ぶようになったんだね」
「頼まれたからな」
「でも、ちゃんと好みに合わせて選んだんでしょ?」
「もちろん」
春樹は迷わず答えた。
「先生、登場人物の感情が簡単に整理できない話好きだからさ。そういうのを中心に考えた」
雫は少しだけ笑った。
「……本当に、相手のことよく考えてるね」
「本を薦めるなら当然だろ」
「うん。そうだね」
雫はその言葉を聞きながら、今日の書店で春樹から受け取った恋愛小説を思い出した。
自分の好みを考えて選んでくれた一冊。
まだ読んでいないけれど、すでに大切なものになっている。
「……私も、ちゃんと読んで感想伝えるね」
「楽しみにしてる」
春樹は笑った。
雫はその横顔を見ながら、小さく息を吐いた。
春樹にとって、本の感想を聞くことは大きな楽しみなのだろう。
だからこそ、自分もただ「面白かった」と言うだけではなく、どこが好きだったのか、何を感じたのかをちゃんと伝えたいと思った。
それは、春樹ともっと話したいという気持ちにも繋がっていた。
◇◇◇
やがて、二人はいつもの分かれ道へ差しかかった。
春樹の家と雫の家は同じ方向にあるものの、途中から道が分かれる。
小さい頃から何度も通ってきた場所だった。
「じゃあ、また月曜日」
春樹が言う。
雫は頷いた。
「うん。またね」
そこで別れるはずだった。
けれど、雫は一歩踏み出しかけて、足を止めた。
「……春樹」
「ん?」
春樹が振り返る。
雫は少しだけ迷ったあと、笑った。
「今日、ありがとう」
「こっちこそ。いい本選んでくれてありがとな」
「……うん」
雫は鞄の持ち手を握り直した。
「あとね、また一緒に出かけようね」
春樹は自然に頷いた。
「もちろん。本屋でもいいし、別のところでもいいよ」
雫は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……別のところでも?」
「うん。雫が行きたいところあるなら」
春樹は少し考えてから続けた。
「俺、最近本屋ばっかり付き合わせてるし」
雫はその言葉に、少しだけ笑った。
「……じゃあ、今度は私が行きたいところ考えてもいい?」
「いいよ」
「本屋じゃなくても?」
「もちろん」
春樹は迷わず答えた。
雫はその表情を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
春樹は、ただ本のためだけに一緒に出かけてくれているわけではない。
少なくとも、そう思える言葉だった。
「……分かった。考えておくね」
「おう。決まったら教えて」
春樹は笑った。
雫も笑い返し、今度こそ手を振った。
「じゃあ、またね」
「また月曜日」
二人はそれぞれの道へ歩き始めた。
雫は少し進んだところで、鞄の中にある文庫本へそっと触れた。
今日、春樹が自分のために選んでくれた一冊。
そして、今日交わした新しい約束。
(……本屋じゃなくても、いいんだ)
雫は小さく笑った。
次はどこへ行こう。
何を話そう。
そんなことを考えるだけで、少し楽しみになる。
まだ春樹へ伝えていない気持ちはある。
けれど、急いで答えを出す必要はないのかもしれない。
今日のように、一緒に過ごす時間を少しずつ増やしていけばいい。
雫はそう思いながら、家へ向かって歩き出した。
◇◇◇
一方、帰宅した春樹は自室へ戻ると、鞄から雫に選んでもらった本を取り出した。
机の上には、昨日まで読んでいた短編集が置かれている。
その隣へ今日の一冊を並べると、春樹は少しだけ満足そうに笑った。
(……いい本選んでもらったな)
まだ最後まで読んだわけではない。
けれど、序盤だけでも十分に引き込まれている。
雫が自分の好みを考えながら選んでくれたことも、嬉しかった。
春樹は椅子へ腰を下ろし、本を開いた。
物語の主人公は、古い資料室で見つけた一冊の本をきっかけに、過去の卒業生たちが残した約束を辿り始めている。
誰かが残した言葉。
誰かが守り続けた約束。
そして、長い時間を経て初めて分かる気持ち。
春樹は静かにページをめくった。
しばらく読んだところで、ふと今日の雫の言葉を思い出す。
『また一緒に出かけようね』
そして、自分はこう答えた。
『本屋でもいいし、別のところでもいいよ』
春樹は少しだけ考えた。
(……雫、どこ行きたいんだろうな)
昔から一緒に出かけることはあった。
けれど最近は、本屋以外で二人きりになる機会が減っていたように思う。
雫が行きたい場所。
雫が見たいもの。
雫が楽しめること。
そういうことを、最近はあまり聞いていなかった。
(……今度は雫の行きたいところに付き合うのもいいか)
春樹はそう思いながら、再び本へ視線を戻した。
読書は相変わらず大切だ。
それはこれからも変わらない。
けれど最近は、本を読む時間と同じくらい、誰かと過ごした時間が心に残ることがある。
今日の雫との外出も、そうだった。
書店で本を選んだこと。
カフェで感想を話したこと。
文房具店で栞を選んだこと。
公園のベンチで、普段はあまり話さないことまで話したこと。
どれも、ただ本を買うだけなら起こらなかった出来事だ。
(……まあ、楽しかったしな)
春樹は小さく笑った。
そして、次のページへ指をかける。
物語の中では、主人公が過去の約束へ少しずつ近づいている。
その一方で、春樹自身のすぐ近くにも、まだ知らない気持ちがある。
雫が今日、何度か言葉を選んでいたこと。
自分へ何かを伝えようとして、まだ上手く言えないと言っていたこと。
それらが何を意味するのか、春樹にはまだ分からない。
けれど、以前のように何も気づかず通り過ぎるつもりはなかった。
(……雫が話したくなったら、ちゃんと聞こう)
春樹はそう考えた。
そして、目の前の物語へ意識を戻す。
まだ読んでいない本がある。
まだ知らない気持ちがある。
そして、次に会ったとき、どんな話ができるのか。
それを少しだけ楽しみにしながら、春樹は新しい一冊の世界へ静かに入り込んでいった。




