第47話 先生に本を薦めるだけなのに、どうして放課後の図書室が面談会場になるんですか?
金曜日の朝、七瀬春樹は自分の机に置いた二冊の文庫本を交互に眺めながら、珍しく決断を先延ばしにしていた。
一冊は、地方都市の古い書店を舞台にしたミステリー小説。もう一冊は、ある家族の三世代にわたる関係を描いた現代文学だった。
どちらも好きな作品であり、誰かに薦めたいと思えるだけの魅力がある。ただし、今日の放課後に本を渡す相手が国語教師の桐谷美月となれば、単純に自分の好みだけで決めるわけにはいかなかった。
(……先生なら、どっちも楽しめると思うんだけどな)
春樹はミステリー小説の表紙へ指を添えた。
この作品は、事件の謎を解くこと自体よりも、登場人物たちが過去に抱えた後悔や、長い年月を経ても変わらない思いを丁寧に描いている。最後に明らかになる真実も、誰かを一方的に悪者にするものではなく、それぞれの立場によって見え方が変わる構成になっていた。
一方、もう一冊の現代文学は、人間関係の複雑さを描く点では似ているものの、物語全体が静かで、読者によって受け取り方が大きく変わる作品だった。
どちらを選んでも、桐谷なら面白い感想を返してくれそうだ。
しかし、今日の約束は「春樹が一番薦めたい一冊」を持ってくることだった。
(だったら、やっぱりこっちか)
春樹は古い書店を舞台にしたミステリーを手に取った。
その瞬間、隣から声がした。
「おはよう、春樹。今日はまた難しい顔してるね」
顔を上げると、雫が鞄を肩から下ろしながらこちらを見ていた。
「おはよう。先生に薦める本を決めてた」
「ああ、今日の放課後だっけ?」
「うん。図書室で話すことになってる」
雫は春樹の机に並んだ二冊を覗き込んだ。
「どっちにしたの?」
「こっち」
春樹がミステリー小説を持ち上げると、雫は表紙を眺めながら首を傾げた。
「古本屋さんの話?」
「そう。小さな書店を舞台にしたミステリー」
「桐谷先生、そういうの好きそうだね」
「だろ? でも、単純な謎解きだけじゃないんだよ」
春樹は少し楽しそうに続ける。
「事件の答えが分かったあとに、登場人物の気持ちをもう一回考えたくなるタイプの話でさ。先生なら、その辺りの感想が面白そうだと思って」
雫は春樹の顔を見る。
本の内容を説明しているときの春樹は、いつもより少しだけ表情が明るい。自分が面白いと思ったものを誰かへ伝えることが、本当に好きなのだろう。
「……春樹って、最近そういう選び方するよね」
「そういう?」
「本そのものが面白いかだけじゃなくて、相手がどこを好きになりそうか考えてる」
春樹は少し考えた。
「前から多少は考えてたけど、最近は増えたかもな」
「どうして?」
「感想聞くのが面白いって分かったから」
雫は小さく笑った。
「そっか」
「雫もそうだろ?」
「私?」
「土曜に選んでくれた本、俺がどう読むか考えてたんじゃないの?」
突然尋ねられ、雫は少しだけ目を瞬かせた。
土曜日に春樹へ選んだ『君がいない街で、君のことを考えた』。
あの一冊を選んだ理由は、半分くらいが春樹の好みに合いそうだったからだ。
残りの半分は、まだ本人に話していない。
「……まあ、そうだね」
雫は少しだけ視線を逸らした。
「春樹なら、あの終わり方好きそうだと思ったし」
「そこは本当に当たりだった」
「でしょ?」
「うん。かなり好き」
春樹が迷いなく答える。
雫はその言葉に、少しだけ頬を緩めた。
「……よかった」
自分が選んだ本を、春樹が本当に気に入ってくれた。
その事実は、何度聞いても嬉しかった。
「そういえば、雫は読み始めた?」
「うん。昨日の夜、半分くらいまで読んだよ」
「どう?」
「面白い」
雫は少し考えてから続けた。
「でも、主人公の女の子、ちょっと意地っ張りだよね」
「分かる」
「男の子の方も、もう少し素直に言えばいいのにって思う」
「そこがいいんだよ」
「春樹はそう言うと思った」
二人は笑い合った。
雫はふと、昨日読んだ場面を思い出す。
離れて暮らすようになった幼馴染の男女が、互いの生活を気にしながらも、それを口に出せない場面だった。
読んでいるとき、なぜか春樹の顔が浮かんだ。
(……あの二人、私たちとは違うはずなんだけどな)
春樹とは今も同じ学校に通っているし、離れて暮らしているわけでもない。
それでも、長く一緒にいた相手のことを改めて考えるという部分には、少しだけ重なるものがあった。
雫はその気持ちをまだ言葉にしないまま、教科書を机へ並べた。
◇◇◇
二時間目が終わった休み時間、春樹の席へ悠斗がやってきた。
普段なら何かしら冗談を言いながら近づいてくる友人だが、今日は少しだけ落ち着かない様子だった。
「七瀬、ちょっといいか?」
「また相談?」
「……そう」
春樹は時計を見た。
次の授業まで十分ほどある。
「予約は?」
「は?」
「相談予約制にするって言っただろ」
悠斗は数秒ほど春樹を見つめた。
そして、呆れたように笑った。
「お前、まだそれ言ってんの?」
「読書時間確保のためには必要なんだよ」
「じゃあ予約したいんだけど」
「内容は?」
「映画」
「赤木か」
「だから声でかいって!」
悠斗は慌てて周囲を見る。
紗弥は教室の反対側で女子数人と話しており、こちらには気づいていない。
春樹は少し声を落とした。
「で、どうした?」
「日程決まった」
「おお」
春樹は素直に笑った。
「よかったじゃん」
「日曜日の午後。映画館で待ち合わせ」
「順調だな」
「……それがさ」
悠斗は少しだけ顔を赤くした。
「何着ていけばいいと思う?」
春樹は一瞬だけ言葉を失った。
「……服?」
「そう」
「普通のでいいだろ」
「その普通が分かんねえんだよ!」
悠斗は机へ身を乗り出した。
「学校なら制服だから考えなくていいけど、休日に二人で会うんだぞ?」
「そりゃそうだけど」
「変な格好して行きたくないだろ」
春樹は少し考えた。
確かに、好きな相手と休日に出かけるとなれば、服装を気にするのは自然なことかもしれない。
ただし、自分にファッションの相談をされても、そこまで詳しいわけではない。
「……俺に聞くより、服詳しいやつに聞いた方がよくない?」
「お前、普通にちゃんとした格好してるじゃん」
「それは母さんが買ってきたやつも多いし」
「参考にならねえ!」
「だから言っただろ」
春樹は笑いながら肩をすくめた。
「でも、清潔感あって動きやすい服ならいいんじゃないか? 映画観に行くんだし」
「……なるほど」
「あと、無理して普段と違う格好するより、普通に自分が着慣れてるやつの方が落ち着くと思う」
悠斗は少し考えてから頷いた。
「それは確かに」
「紗弥も、お前が普段と全然違う格好してたら驚くかもしれないし」
「……そうだな」
悠斗はようやく少し落ち着いた表情になった。
「ありがとな」
「おう」
「……で、もう一個」
春樹は時計を見た。
次の授業まで、あと五分。
「予約時間超過です」
「まだ予約成立してねえだろ!」
「じゃあ次の休み時間」
「本当に予約制にする気かよ!」
悠斗の抗議に、近くの席にいた雫が思わず笑った。
「春樹、悠斗の相談くらい聞いてあげなよ」
「聞いてるだろ。今も」
「でも予約制って」
「時間管理は大事だからな」
春樹が真面目な顔で答えると、雫は肩を揺らして笑った。
「……もう、本当に春樹らしい」
悠斗は深くため息を吐いた。
「お前ら、仲いいよな……」
「何で急に?」
春樹が首を傾げる。
雫は少しだけ視線を逸らした。
悠斗はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
◇◇◇
昼休み、春樹はいつものように図書室へ向かった。
ただし今日は、放課後の約束があるため、桐谷へ薦める本をもう一度確認しておきたいという目的もあった。
図書室へ入ると、カウンターには栞が座っていた。
「こんにちは、白石先輩」
「あ、七瀬君。こんにちは」
栞は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「今日は少し早いですね」
「昼飯、すぐ食べ終わったので」
「そうなんですね」
春樹はいつもの席へ向かおうとして、ふと思い出したように振り返った。
「そういえば、今日の放課後、桐谷先生とここで本の話するんですけど」
「桐谷先生と?」
「はい。先生に薦める本を選んだので」
栞は少し驚いたように目を瞬かせた。
「先生にも本を選んでいるんですね」
「前から頼まれてたんです」
「……七瀬君、本当にいろいろな人に本を薦めていますね」
「最近、自分でもそう思います」
春樹が苦笑すると、栞も小さく笑った。
「でも、楽しそうです」
「まあ、楽しいですね」
春樹は鞄から一冊の文庫本を取り出した。
「これ、先生に薦めようと思って」
栞は表紙を見る。
「……古い書店が舞台のミステリーですか?」
「はい」
「面白そうですね」
「白石先輩も好きそうですけど、先生なら特に最後のところで面白い感想くれそうだなって」
栞は少しだけ首を傾げた。
「最後のところ?」
「ネタバレになるから詳しくは言えませんけど」
春樹は楽しそうに笑う。
「事件の答えが分かったあと、登場人物たちの関係をどう受け取るかで印象が変わるんですよ」
「……なるほど」
栞は表紙を見つめながら、小さく頷いた。
「七瀬君がそう言うなら、私も気になります」
「じゃあ、先生に貸したあとで先輩にも貸しましょうか?」
栞は少し驚いた。
「いいんですか?」
「もちろん」
「……ありがとうございます」
栞は嬉しそうに微笑んだ。
ただ、その表情には少しだけ別の感情も混ざっていた。
(……七瀬君、本当に誰にでも自然に優しいんですね)
自分に本を薦めてくれる。
自分の感想を覚えてくれる。
そして、一緒に本屋へ行く約束までしてくれた。
その一つひとつが嬉しい。
けれど、春樹にとっては特別なことではなく、本を好きな相手へ自然にしていることなのだろう。
栞はそのことを理解しながらも、少しだけ胸が締まるのを感じた。
「……七瀬君」
「はい?」
「この前の本屋さんの約束なんですけど」
「ああ」
「来週の土曜日は、どうでしょうか?」
春樹は少し考えた。
明日の土曜日は雫と約束している。
しかし来週なら、今のところ特に予定はなかった。
「大丈夫だと思います」
「……本当ですか?」
「はい。家帰って予定確認しますけど、たぶん空いてます」
栞の表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
「時間はどうします?」
「七瀬君の都合に合わせます」
「じゃあ、昼過ぎくらいにします?」
「はい」
栞は小さく頷いた。
まだ正式に確定したわけではない。
けれど、具体的な日にちと時間帯が決まったことで、約束が少しだけ現実味を帯びてきた。
(……来週の土曜日)
栞は心の中で繰り返す。
学校の外で春樹と会う。
二人で本屋へ行く。
それだけのことなのに、胸の奥が少し落ち着かない。
春樹はそんな栞の様子に気づかないまま、いつもの席へ向かっていった。
◇◇◇
放課後の図書室は、昼休みとは違う静けさに包まれていた。
窓から差し込む夕方の光が長い影を作り、本棚の間には落ち着いた空気が流れている。部活動へ向かう生徒たちの声が遠くから聞こえるものの、図書室の中には数人の利用者しかいなかった。
春樹は窓際の席へ座り、鞄から文庫本を取り出した。
約束の時間まで、あと十分ほど。
(……少し読めるな)
春樹は別の本を開いた。
しかし、数ページ進んだところで声がした。
「七瀬君、お待たせ」
顔を上げると、桐谷美月が立っていた。
片手には資料の入ったファイル、もう片方には小さな紙袋を持っている。
「先生、早いですね」
「授業が予定より早く終わったからね」
「まだ十分くらいありますよ」
「あなたなら本読んで待ってると思って」
「……正解です」
春樹が苦笑すると、桐谷は楽しそうに笑った。
「じゃあ、始めましょうか」
「はい」
桐谷は向かいの席へ座り、ファイルを横へ置いた。
春樹は鞄から推薦用の文庫本を取り出す。
「これです」
桐谷は表紙を見た。
「へえ。古書店が舞台のミステリー?」
「はい」
「面白そうね」
「先生、読んだことあります?」
桐谷は少し考えてから首を横へ振った。
「たぶんないわ」
「よかった」
春樹は少し嬉しそうに笑った。
「先生なら知ってるかと思ってました」
「私だって全部読んでるわけじゃないわよ」
「でも、かなり読んでるじゃないですか」
「それはあなたも同じでしょう?」
「俺はまだまだです」
春樹が真面目な顔で答えると、桐谷は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……七瀬君がそう言うの、珍しいわね」
「何でですか?」
「本に関しては、もっと自信満々なのかと思ってた」
「自分が読んだ本についてなら話せますけど、世の中にはまだ読んでない本が山ほどありますから」
春樹は表紙へ視線を落とした。
「全部読めるとは思ってないですけど、できるだけ多く読みたいんです」
桐谷はその言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
「……いいわね」
「何がですか?」
「そういうところ」
桐谷は微笑んだ。
「本をたくさん読んでる人ほど、自分の知識だけで満足しちゃうこともあるけど、あなたはまだ知らないものを楽しみにしてるのね」
「そりゃそうですよ。知らない面白い本があるなら読みたいですし」
春樹は当然のように答えた。
桐谷は少しだけ笑う。
「じゃあ、どうしてこの本を選んだの?」
春樹は姿勢を少し正した。
「先生、前に言ってましたよね。登場人物の気持ちが一つの答えに綺麗にまとまらない話が好きだって」
「ええ」
「この本、まさにそうなんです」
春樹はネタバレにならない範囲で、物語の構造を説明し始めた。
地方都市の古い書店。
そこで起きる小さな事件。
事件に関わる人々が抱える過去。
そして、謎が解けても簡単には整理できない感情。
春樹は一つひとつの要素を丁寧に説明した。
「単純に犯人を当てる話じゃないんですよ。誰が何を隠してたかより、どうして隠したのかが重要で」
桐谷は頷きながら聞いている。
「なるほどね」
「しかも、最後に全部が綺麗に解決するわけじゃないんです」
「それは好きかもしれない」
「ですよね」
春樹は嬉しそうに笑った。
「先生なら、たぶん最後の会話でかなり考えると思います」
桐谷は文庫本を手に取った。
「……七瀬君」
「はい?」
「私の好み、よく覚えてたわね」
「本の話したので」
「それだけ?」
春樹は少し考えた。
「先生がどんな本を面白いって言うのか、気になったからですかね」
桐谷はその答えに、少しだけ目を細めた。
「……そっか」
教師として生徒の読書を支えることはある。
しかし、生徒から自分の好みに合わせて本を選んでもらう機会は、そう多くない。
しかも春樹は、単に有名な作品を薦めているわけではなかった。
以前の会話を覚え、自分がどう読むかを想像しながら一冊を選んでいる。
そのことが、桐谷には素直に嬉しかった。
「ありがとう、七瀬君」
「いえ。まだ読んでもらってないですし」
「選んでくれたことへのお礼よ」
春樹は少し照れたように笑った。
「……じゃあ、どういたしまして」
桐谷は文庫本を紙袋へ入れた。
「読んだら感想、ちゃんと伝えるわ」
「楽しみにしてます」
「ただし、遠慮なく言うからね」
「それがいいです」
春樹は迷わず答えた。
桐谷はその表情を見ながら、少しだけ笑う。
「本当に、あなたは本が好きなのね」
「はい」
春樹は即答した。
「俺、本が読みたいだけなので」
その言葉に、桐谷は思わず吹き出した。
「……七瀬君、それ、今のあなたが言うとちょっと面白いわね」
「何でですか?」
「だって最近、読書以外の予定も随分増えてるでしょう?」
春樹は一瞬だけ言葉を止めた。
確かに、否定できない。
「……増えてますね」
「それでも本が読みたいだけ?」
「本を読む時間は絶対に確保したいです」
「でも、誰かと本の話をするのも楽しい?」
春樹は少し考えた。
「……楽しいですね」
桐谷は満足そうに頷いた。
「なら、少しずつ変わってるのかもしれないわね」
「何がですか?」
「あなたの読書の楽しみ方」
春樹はその言葉を聞き、少しだけ考え込んだ。
以前なら、本は一人で読むものだった。
もちろん感想を話すこともあったが、今ほど誰かの好みに合わせて本を選ぶことはなかった。
最近は違う。
雫。
栞。
真実。
ひより。
怜華。
そして桐谷。
それぞれに薦めたい本があり、読み終えたあとの感想を聞くのが楽しみになっている。
(……確かに、変わったのかもな)
春樹は小さく頷いた。
「……そうかもしれません」
桐谷はその答えに、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「いい変化だと思うわ」
「読書時間は減ってますけど」
「そこは自分で調整しなさい」
「先生、簡単に言いますね」
「時間管理も勉強のうちよ」
春樹は苦笑した。
「……分かりました」
◇◇◇
桐谷との話が一段落した頃、図書室の扉が開いた。
入ってきたのは、一ノ瀬怜華だった。
「あら、七瀬君」
怜華は春樹を見つけると、少し楽しそうに笑った。
「桐谷先生と何してるの?」
「本の話です」
「でしょうね」
即答され、春樹は少し眉を寄せた。
「何でみんな、俺が何してるか分かるんですか」
「あなたが図書室にいて、本以外の話をしてる方が珍しいからよ」
怜華はそう言いながら近づいてくる。
桐谷も笑った。
「一ノ瀬さん、ちょうどいいところに来たわね」
「何がですか?」
「七瀬君が私に本を選んでくれたの」
「へえ」
怜華は春樹を見る。
「私の分は?」
「まだです」
「残念」
「先輩、昨日も催促してませんでした?」
「してないわよ。確認しただけ」
「同じじゃないですか」
春樹が呆れると、怜華は楽しそうに笑った。
桐谷は二人のやり取りを見ながら、少しだけ目を細める。
「七瀬君、本当に人気者ね」
「本の相談が多いだけです」
「それが人気者ってことじゃない?」
「違うと思います」
春樹は真面目に否定した。
怜華はその反応を見て、口元へ手を添えた。
「……桐谷先生」
「何?」
「七瀬君って、本当に自分のことになると鈍いですよね」
「そうねえ」
「二人で何の話してるんですか?」
春樹が不満そうに尋ねる。
桐谷と怜華は顔を見合わせ、同時に笑った。
「秘密よ」
「またそれ!」
春樹の抗議が、静かな図書室に少しだけ響いた。
近くの席にいた生徒が顔を上げ、春樹は慌てて声を落とす。
「……すみません」
桐谷は笑いを堪えながら頷いた。
「図書室では静かにね」
「先生が笑わせたんでしょう!」
「私は何もしてないわよ」
怜華も楽しそうに肩を揺らしている。
春樹は深く息を吐いた。
(……何で本を薦めるだけで、こうなるんだ?)
自分では、ただ好きな本について話しているだけのつもりだった。
しかし最近は、どういうわけか周囲の人間が妙に楽しそうにしている。
その理由は、まだよく分からなかった。
◇◇◇
桐谷が職員室へ戻ったあと、春樹と怜華は図書室の窓際で少しだけ話していた。
「それで、先輩は何しに来たんですか?」
「本を返しに来たの」
「珍しいですね」
「私だって図書室くらい利用するわよ」
怜華はそう言って、手に持っていた文庫本を見せた。
春樹は表紙を見る。
「……あ、それ」
「知ってる?」
「読みました」
「でしょうね」
怜華は少し笑った。
「この作者、好きなのよ」
「へえ。先輩、こういうのも読むんですね」
「どういう意味?」
「もっと頭使うミステリーとか好きなのかと思ってました」
「それも好きだけど、こういう静かな話も好きよ」
怜華は表紙へ視線を落とした。
「登場人物が何かを決断するとき、派手な事件が起きなくても、その人の中では大きな変化があるでしょう?」
「分かります」
春樹は頷いた。
「外から見たら何も変わってないのに、本人の中では全然違うってやつですよね」
「そう」
怜華は少し嬉しそうに笑った。
「あなたなら分かると思った」
春樹はその言葉に、少しだけ考え込んだ。
(……先輩の次の本、方向性見えてきたかも)
以前薦めたのは、町を舞台にした連作ミステリーだった。
今度は、もう少し人物の内面へ寄った作品でもいいかもしれない。
「先輩」
「何?」
「次の本、ちょっと候補変えます」
怜華が目を瞬かせる。
「今?」
「はい。今の話聞いて」
「……へえ」
怜華は面白そうに春樹を見る。
「私との会話で?」
「そうです」
「嬉しいこと言ってくれるわね」
「本選ぶなら当然でしょう」
春樹は不思議そうに答えた。
怜華はその顔を見ながら、小さく笑った。
「……本当に、あなたらしいわ」
春樹は首を傾げる。
怜華はそれ以上説明せず、返却カウンターへ向かった。
◇◇◇
その日の夜、春樹は自室の机に向かいながら、明日の予定を確認していた。
土曜日。
午前十時。
駅前の書店。
雫と互いに一冊ずつ本を選ぶ約束。
鞄の横には、候補として残していた恋愛小説が置かれている。
第一印象が最悪だった男女が、共通の趣味を通じて少しずつ互いを理解していく物語。
春樹は表紙を眺めながら、少しだけ考えた。
(……やっぱりこれだな)
雫は、関係が変わる過程を丁寧に描いた作品を好む。
この本なら、きっと楽しめる。
春樹はそう判断し、候補を一冊に絞った。
ただし、明日は書店で実物を見ながら最終確認するつもりだった。
そのとき、スマートフォンが震える。
雫からだった。
『春樹、明日十時で大丈夫だよね?』
『大丈夫』
『駅前で待ち合わせね』
『了解』
少し間が空く。
『私、本決めたよ』
春樹は思わず笑った。
『俺もほぼ決めた』
『ほぼ?』
『明日最終確認』
『慎重だね』
『三冊連続で当ててるからな』
『またそれ』
春樹は笑いながら返信する。
『雫は何選んだ?』
『秘密』
『だよな』
『明日のお楽しみ』
『了解。楽しみにしてる』
送信すると、すぐに既読がついた。
『私も』
春樹はスマートフォンを置き、机の上の本をもう一度手に取った。
明日は雫と本屋へ行く。
それだけの予定だ。
しかし、なぜか少し楽しみだった。
(……本交換って、結構いいな)
自分が選んだ本を相手がどう読むのか。
相手が自分へ何を選んでくるのか。
そして、そのあとどんな感想を話せるのか。
考えるだけで、少しわくわくする。
春樹は小さく笑い、文庫本を鞄の横へ置いた。
読書時間は相変わらず大切だ。
それでも最近は、本を読むだけでは得られなかった楽しみが増えている。
そして明日、その楽しみがまた一つ増えることを、春樹はまだ深く考えずに受け止めていた。




