第46話 読書時間を確保したいだけなのに、どうして友達の恋愛相談まで予約制なんだ?
木曜日の朝、七瀬春樹は自分の机に向かいながら、少しばかり深刻な問題について考えていた。
窓の外には薄い雲が広がっていたが、雨が降る気配はない。秋らしい涼しさを含んだ風が開け放たれた窓から入り込み、教室の後ろでは早く登校した男子生徒たちが、昨日のテレビ番組について楽しそうに話している。
そんな穏やかな朝に、春樹が頭を悩ませている理由は一つだった。
(……俺の読書時間、どこに消えてるんだ?)
机の上には、昨夜から読み始めたばかりの文庫本が置かれている。昨日は夕食後に一時間ほど読めると思っていたのに、桐谷美月へ薦める本を選び直したり、土曜日に西条雫へ渡す候補を確認したりしているうちに、予定していた時間があっという間に過ぎてしまった。
もちろん、誰かに本を選ぶことが嫌なわけではない。むしろ相手の好みを考えながら本棚を眺めるのは楽しいし、読み終えたあとに感想を聞けることも楽しみになっている。
しかし、それとこれとは別問題だった。
(本を薦めるために本を読む時間がなくなるって、何かおかしくないか?)
春樹は文庫本を開きながら、自分の生活を振り返った。
以前は朝の教室、昼休みの図書室、放課後の帰宅時間、そして自宅での夜の時間を使い、かなり自由に読書を楽しんでいた。ところが最近は、朝から本の感想を聞かれたり、昼休みに推薦を頼まれたり、放課後に誰かと話す約束が入ったりしている。
しかも不思議なことに、その大半は自分から楽しんで引き受けているのだ。
「……これは対策が必要だな」
思わず呟いたところで、背後から声が聞こえた。
「何の対策?」
振り返ると、登校してきたばかりの雫が立っていた。肩に掛けた鞄を下ろしながら、春樹の机に広げられた本と、その横に置かれた小さなメモ帳を交互に見ている。
「おはよう、雫。読書時間の確保について考えてた」
「おはよう。朝から随分真剣だね」
「結構重要な問題だからな」
「春樹にとってはそうだろうね。それで、何かいい方法は思いついた?」
雫は笑いながら自分の席へ鞄を置き、春樹の机へ少し身を寄せた。
メモ帳には、曜日ごとに小さな予定が書き込まれている。
金曜日の欄には「桐谷先生・放課後・図書室」、土曜日の欄には「雫・十時・駅前書店」とあった。その下には「白石先輩・日程未定」「小日向・次の推薦」「一ノ瀬先輩・候補選定」という文字まで並んでいる。
「……春樹、これ全部本の予定?」
「そうだけど」
「本当に予定表作ってるんだ」
「忘れたら困るだろ。特に約束したやつは」
雫は土曜日の欄をもう一度見た。
そこには自分の名前が、ほかの予定より少しだけ大きな文字で書かれている。
(……ちゃんと覚えてくれてるんだ)
当たり前のことかもしれない。
それでも、春樹がこうして予定を整理するほど真剣に本を選んでいると分かると、胸の奥が温かくなる。
「ちなみに、私の本は決まった?」
「かなり絞った。でも、まだ最終決定じゃない」
「そっか。私も昨日、候補を二冊まで減らしたよ」
「お、進んでるじゃん」
「春樹に負けたくないからね」
「だから何の勝負なんだよ」
春樹が笑うと、雫も楽しそうに肩を揺らした。
「でも、予定表作るのはいいと思うよ。春樹、頼まれると結構引き受けちゃうし」
「本のことならな」
「そこが問題なんじゃない?」
「……確かに」
春樹は少し考え込んだ。
自分が本を好きなのは今さら説明するまでもないが、最近は誰かに本を薦めることも同じくらい面白くなっている。そのせいで、頼まれるとつい候補を考え始めてしまう。
しかし、時間は増えない。
「よし。今週はこれ以上予定を増やさない」
春樹が決意を口にすると、雫は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……本当に?」
「本当」
「春樹が?」
「俺が」
「本の相談をされても?」
「緊急じゃなければ来週に回す」
雫は数秒ほど春樹を見つめたあと、笑いを堪えきれなくなった。
「何で笑うんだよ」
「だって、春樹が本の相談を断るところ、想像できなくて」
「俺だって必要なら断るぞ」
「じゃあ、今日誰かに本を選んでって言われても?」
「来週にしてくださいって言う」
「本当に?」
「本当に」
春樹は真面目に頷いた。
雫はその表情を眺めながら、心の中で小さく笑う。
(……たぶん、無理だと思うけど)
もちろん、春樹が本気で読書時間を確保したいと思っていることは分かっている。
だからこそ、どこまでその決意が続くのか少しだけ気になった。
◇◇◇
一時間目が終わった休み時間、春樹は早速その決意を試されることになった。
「七瀬、ちょっといいか?」
前の席へやってきたのは、高坂悠斗だった。
春樹は教科書を閉じながら顔を上げる。
「何だよ。次の授業の準備ならもう終わったぞ」
「いや、そうじゃなくてさ。ちょっと相談があるんだけど」
悠斗は周囲を確認し、声を少し落とした。
その様子を見た春樹は、すぐに察した。
「赤木のこと?」
「……お前、本当に察しがいいよな」
「お前の相談内容、最近そればっかりだから」
「否定できない」
悠斗は苦笑しながら、春樹の前の椅子へ腰を下ろした。
「昨日、紗弥と結構メッセージ続いたんだよ」
「よかったじゃん」
「うん。それはいいんだけど、今度の週末に映画の話になってさ」
春樹は少し考えた。
「前に言ってた、原作小説がある映画?」
「そう。それ」
「赤木、観るかもって言ってたやつだろ」
「覚えてたのか」
「本の話だからな」
悠斗は呆れたように笑った。
「まあ、それでさ。紗弥が映画を観る前に、原作をもう一回読み返してみようかなって言ってて」
「へえ。気に入ってるんだな」
「そうなんだよ。だから俺も読み返そうと思ってるんだけど……」
悠斗はそこで言葉を止めた。
春樹は少し待ったが、続きが出てこない。
「何?」
「……その、今度一緒に映画観ないかって誘ってもいいと思う?」
春樹は一瞬だけ悠斗を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「いいんじゃない?」
「軽いな!」
「何でだよ。二人とも同じ作品好きなんだろ? だったら誘う理由としては自然じゃん」
「そうなんだけどさ……」
悠斗は机の上で指を組み、少しだけ俯いた。
「もし断られたら、今の感じまで変わっちゃうかなって」
その言葉に、春樹はすぐには答えなかった。
悠斗が紗弥を好きなことは知っている。
けれど、紗弥が悠斗をどう思っているかまでは分からない。
最近二人が本を通じてよく話すようになったことは確かだが、それだけで恋愛感情があると決めつけるのは違うだろう。
「……それは、誘い方によるんじゃないか?」
春樹は少し考えてから答えた。
「いきなり特別な意味を込めすぎると、相手も構えるかもしれない。でも、二人とも観たい映画なら、普通に誘ってもおかしくないと思う」
「普通に、か」
「うん。『原作の話もしたいし、一緒に観に行かない?』くらいでいいんじゃない?」
悠斗はその言葉を頭の中で繰り返すように、小さく頷いた。
「……それなら言えそう」
「ただ、断られても無理に理由を聞くなよ。予定が合わないだけかもしれないし」
「分かってる」
「あと、誘うなら自分が本当に一緒に観たいと思ってることは伝えた方がいい」
春樹がそう付け加えると、悠斗は少し驚いたように顔を上げた。
「お前、そういうことも分かるんだな」
「どういう意味だよ」
「いや、恋愛の相談になると急に的確になるからさ」
「恋愛小説なら山ほど読んでるからな」
「……現実の自分のことになると、全然分かってないくせに」
「何か言った?」
「何でもない」
悠斗は苦笑しながら立ち上がった。
「ありがとな、七瀬。ちょっと勇気出た」
「おう。頑張れ」
悠斗が自分の席へ戻っていく。
春樹はその背中を見送り、ふと机の上のメモ帳へ視線を落とした。
(……あれ?)
今朝、これ以上予定を増やさないと決めたばかりだった。
しかし、今の相談は本の推薦ではなく、友達の恋愛相談である。
ならば、読書時間の確保という決意には反していないはずだ。
(……いや、待てよ。今ので休み時間ほとんど終わってるじゃん)
春樹は時計を見た。
次の授業まで、あと二分。
結局、読もうと思っていたページは一枚も進んでいなかった。
「……予約制にするか」
思わず漏れた言葉を、隣で聞いていた雫が拾う。
「何を?」
「相談」
「……え?」
「読書時間確保するために、相談は予約制にしようかなって」
雫は数秒ほど春樹を見つめた。
そして、机に突っ伏して笑い始めた。
「ちょっと、雫。何でそんなに笑うんだよ」
「だって……春樹が……恋愛相談の予約って……!」
「笑うほど変か?」
「変っていうか、春樹らしすぎる……!」
雫は笑いながら顔を上げる。
「でも、悠斗の相談はちゃんと聞いてあげるんでしょ?」
「そりゃ友達だし」
「じゃあ予約制にしても、結局聞くんじゃない?」
「……そうなるな」
春樹は少し考えたあと、深く息を吐いた。
「駄目だ。制度設計が甘い」
その言葉に、雫はまた笑い出した。
◇◇◇
昼休み、春樹はいつもより早く昼食を済ませると、図書室へ向かった。
今日こそは、誰にも邪魔されずに本を読む。
朝からそう決めていた。
廊下には昼食を終えた生徒たちの声が響き、階段の踊り場では一年生が数人、文化祭の掲示物について話している。春樹はその横を通り過ぎ、図書室の扉を開けた。
中はいつも通り静かだった。
窓際の席には数人の生徒が座っており、カウンターでは図書委員が貸出作業をしている。
今日は栞の姿が見えなかった。
(よし。今日は読める)
春樹はいつもの席へ向かい、鞄から文庫本を取り出した。
ページを開くと、昨夜の続きがすぐに頭へ入ってくる。
物語の舞台は、地方都市にある小さな古書店。
主人公は店主の孫で、祖父が残した店を一時的に手伝うことになった青年だった。最初は古い本に興味がなかった彼が、店を訪れる客たちの事情を知るうちに、少しずつ本の価値を理解していく。
春樹はその描写が気に入っていた。
(こういう話、やっぱりいいな)
誰かにとっては何でもない一冊が、別の誰かにとっては忘れられない思い出になる。
その違いを丁寧に描く作品は、読んでいて心地よかった。
しばらくして、物語の中で一人の客が古い詩集を探す場面に差しかかる。
主人公は最初、その詩集がなぜ必要なのか理解できない。
しかし、客が語る過去を聞くうちに、単なる古本探しではないことが分かってくる。
春樹は自然とページをめくる速度を落とした。
こういう場面は急いで読みたくない。
登場人物の言葉を一つずつ受け取りながら、その背景を想像する時間が好きだった。
どれくらい読んだだろうか。
ふと顔を上げると、窓の外の光が少し傾いていた。
時計を見る。
昼休み終了まで、あと十分ほど。
(……久しぶりに、ちゃんと読めたな)
春樹は満足しながら本を閉じた。
そのとき、カウンターの方から小さな声が聞こえた。
「七瀬君」
振り返ると、栞が立っていた。
いつの間にか図書室へ来ていたらしい。
「白石先輩。こんにちは」
「こんにちは。今日は集中して読んでいましたね」
「はい。久しぶりに昼休みを全部読書に使えました」
春樹が嬉しそうに答えると、栞は穏やかに微笑んだ。
「それはよかったです」
「先輩、いつからいたんですか?」
「少し前です。今日は委員の仕事が途中からだったので」
「全然気づきませんでした」
「七瀬君、すごく楽しそうに読んでいたので、声をかけない方がいいかなと思って」
春樹は少し驚いた。
「……気を遣わせちゃいました?」
「いいえ。私も、誰かが本を楽しそうに読んでいるのを見るのは好きですから」
栞はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「それに、七瀬君が本を読んでいるところ、落ち着くんです」
「……そうなんですか?」
「はい」
栞は小さく頷いた。
春樹は少し考えたあと、笑った。
「じゃあ、俺も先輩が本読んでるところ見てみたいですね」
栞の指先が、抱えていた本の背表紙をそっと押さえる。
「……私ですか?」
「はい。白石先輩、いつも図書委員の仕事してる印象が強いので」
「そうですね。学校では、読むより整理している時間の方が長いかもしれません」
「じゃあ、今度本屋行ったときは、先輩が本選んでるところ見てみたいです」
栞は一瞬だけ言葉を失った。
昨日から続いている書店の約束。
春樹にとっては、本好き同士が一緒に棚を見るという自然な予定なのだろう。
けれど栞にとっては、学校の外で春樹と二人で過ごすという、まだ少し緊張する約束だった。
(……七瀬君は、本当に自然に言うんですね)
嬉しい。
けれど、その嬉しさをそのまま言葉にするのは少し恥ずかしい。
「……私も、楽しみにしています」
栞は静かに答えた。
春樹は満足そうに頷き、文庫本を鞄へしまう。
「じゃあ、そろそろ教室戻りますね」
「はい。また」
「また来ます」
春樹が図書室を出ていく。
栞はその背中を見送ったあと、抱えていた本へ視線を落とした。
表紙には、まだ読み始めたばかりのミステリー小説の題名が書かれている。
(……本屋さん、いつにしようかな)
春樹と一緒に棚を見る時間を想像すると、自然と頬が緩む。
しかし同時に、彼が本当に楽しそうに読んでいた姿も思い出した。
自分が話しかけたいからといって、いつでもその時間を奪っていいわけではない。
そんなことを考えられるようになった自分を、栞は少しだけ不思議に思った。
◇◇◇
放課後、春樹は珍しく教室へ残っていた。
理由は単純で、悠斗に頼まれたからだった。
「……で、何で俺まで残ってるんだ?」
春樹が尋ねると、悠斗は少し困ったように笑った。
「いや、誘う前に一回確認したくて」
「何を?」
「文章」
悠斗はスマートフォンを取り出し、画面を春樹へ向けた。
そこには、紗弥へ送る予定のメッセージが入力されている。
『この前話してた映画、もし予定合うなら一緒に観に行かない? 原作の話もできたら嬉しい』
春樹は文章を読んでから頷いた。
「いいじゃん」
「本当に?」
「うん。変なところないし」
「重くない?」
「全然」
「軽すぎない?」
「……お前、どっちがいいんだよ」
春樹が呆れると、悠斗は頭を抱えた。
「分かんねえんだよ。こういうの初めてだから」
その言葉を聞き、春樹は少しだけ表情を和らげた。
普段の悠斗は明るく、誰とでも気軽に話せる。
けれど紗弥のことになると、いつもの調子が崩れるらしい。
「まあ、緊張するのは分かるけどさ」
「お前に分かるのか?」
「恋愛小説なら何百冊も読んでる」
「それ、現実経験じゃないだろ」
「参考資料としては十分だと思うけど」
「……そういうところだよな」
悠斗は苦笑した。
春樹は少し考えてから、机へ肘をつく。
「でも、文章そのものはいいと思うぞ。あとは送るかどうかだけだろ」
「……だよな」
「無理に今送らなくてもいいけど、ずっと悩んでても変わらないし」
悠斗は画面を見つめた。
しばらく沈黙が続く。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。
教室に残っている生徒は少なく、廊下を通る足音もまばらになっている。
「……よし」
悠斗が小さく呟いた。
そして、送信ボタンを押す。
「送った」
「おう」
「……送っちまった」
「送ったな」
「やばい。急に緊張してきた」
「今さら?」
「今さらだよ!」
悠斗は机に突っ伏した。
春樹はその様子を見ながら笑う。
「まあ、返事来るまで普通にしてろよ」
「無理だろ」
「じゃあ本でも読めば?」
「お前じゃねえんだから!」
思わず悠斗の声が大きくなる。
春樹は肩をすくめた。
「本読んでれば時間すぐ過ぎるぞ」
「それができたら苦労しねえよ」
悠斗は深く息を吐いた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
二人の視線が同時に画面へ向かう。
「……来た」
「早いな」
悠斗は恐る恐る画面を開いた。
数秒後、その表情が固まる。
「……七瀬」
「何?」
「……行けるって」
春樹は一瞬だけ目を瞬かせた。
「おお、よかったじゃん!」
「……本当に?」
「画面見せられても困るけど、そう書いてあるんだろ?」
「うん」
悠斗はもう一度画面を見た。
そこには紗弥からの返信が届いている。
『いいね! 私も観たかったから、予定合わせよう!』
悠斗はゆっくりと顔を上げた。
「……どうしよう」
「何が?」
「嬉しい」
その言葉に、春樹は思わず笑った。
「そりゃよかったな」
「いや、マジで嬉しい」
悠斗はスマートフォンを胸元へ引き寄せるように持ち、少しだけ俯いた。
普段なら冗談を言って誤魔化すところだろう。
けれど今は、素直に喜んでいる。
春樹はその姿を見て、少しだけ胸が温かくなった。
(……よかったな、悠斗)
自分の恋愛ではない。
けれど、友達が嬉しそうにしているのを見るのは悪くない。
春樹はそう思いながら、鞄を肩へ掛け直した。
「じゃあ、俺そろそろ帰るわ」
「えっ、もう?」
「もうって、結構待ったぞ」
「……そうだな。ありがとな」
「気にすんな。映画、楽しんでこいよ」
「まだ日程決まってないけどな」
「そこはこれからだろ」
春樹は笑って手を振り、教室を出た。
廊下を歩きながら、ふと考える。
(……恋愛相談って、結構時間かかるんだな)
今日の休み時間も、放課後も、悠斗の相談に使った。
しかし、不思議と無駄だったとは思わない。
友達が一歩進んだ。
その瞬間に立ち会えたことは、少し嬉しかった。
(まあ、俺の読書時間は減ったけど)
春樹は苦笑しながら階段を下りる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、雫からのメッセージだった。
『春樹、まだ学校?』
『今帰るところ』
『私も今終わった。昇降口で待ってていい?』
春樹は少し考えてから返信した。
『いいよ。ゆっくり来て』
送信すると、すぐに既読がつく。
『ありがと!』
春樹はスマートフォンをしまい、昇降口へ向かった。
今日もまた、帰り道の読書時間が少し減ることになる。
ただし、歩きながら読むことはもうしていないので、正確には家へ帰るまでの時間が少し長くなるだけだった。
(……まあ、雫と話すのも楽しいしな)
春樹はそう考え、昇降口の近くで雫を待つことにした。
◇◇◇
十分ほどして、雫が階段を下りてきた。
「ごめん、待たせた?」
「全然。本読んでたし」
「やっぱり」
雫は笑いながら靴を履き替えた。
「今日、悠斗と何か話してた?」
「何で?」
「放課後、教室で二人で残ってたから」
「ああ。ちょっと相談」
「また紗弥のこと?」
春樹は一瞬だけ口を閉じた。
悠斗が紗弥を好きなことは、本人から聞いた秘密だ。
雫にはまだ話していない。
「……まあ、いろいろ」
曖昧に答えると、雫は少しだけ目を細めた。
「ふうん。秘密なんだ?」
「本人の話だからな」
「そっか」
雫はそれ以上追及しなかった。
春樹が誰かの相談を勝手に話すような人間ではないことは知っている。
それに、悠斗と紗弥の間で何かが少しずつ変わっていることは、雫自身も感じていた。
「でも、悠斗、最近楽しそうだよね」
「そうだな」
「何かいいことあったのかな」
「……あったんじゃない?」
春樹が少し笑うと、雫も笑った。
「春樹、今ちょっと嬉しそう」
「友達が嬉しそうなら、そりゃ嬉しいだろ」
「……うん。そうだね」
雫はその言葉を聞きながら、隣を歩く春樹の横顔を見た。
春樹は本のことになると周囲が見えなくなることもある。
けれど、誰かが本当に困っているときには、きちんと話を聞く。
それは昔から変わらない。
(……こういうところ、好きなんだよね)
そこまで考えて、雫は少しだけ足を緩めた。
好き。
その言葉が、思ったより自然に浮かんできた。
もちろん、幼馴染として好きだという意味なら、昔から何度も思っている。
けれど最近は、その言葉だけでは説明しきれない気持ちが混ざっているような気がする。
雫は小さく息を吐いた。
「どうした?」
春樹が振り返る。
「ううん。何でもない」
「またそれ?」
「……最近多い?」
「結構」
春樹が笑う。
雫もつられて笑った。
「じゃあ、今度から別の言い方考える」
「そこまでしなくていいだろ」
「春樹が気にするから」
「気にはなるだろ。急に黙るし」
その言葉に、雫は少し驚いた。
「……気にしてくれてるんだ?」
「そりゃそうだろ。隣歩いてるのに急に静かになったら」
春樹は当然のように答えた。
雫はその横顔を見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「……ありがと」
「何が?」
「別に」
「だからそれ!」
二人は笑いながら歩き続けた。
駅へ向かう道には、夕方の柔らかな光が差し込んでいる。
土曜日の約束まで、あと二日。
雫はまだ、春樹へ渡す一冊を決めきれていない。
けれど、今は少しだけ別のことを考えていた。
(……土曜日、楽しみだな)
本を選ぶ時間も。
春樹と並んで棚を見る時間も。
そして、選んだ本を渡したときの反応も。
全部、楽しみだった。
一方の春樹は、隣を歩く雫の様子を見ながら、別のことを考えていた。
(……今日、結局あんまり読めなかったな)
朝は雫と話し、休み時間は悠斗の相談を聞き、昼休みは何とか読書時間を確保したものの、放課後も悠斗の相談に付き合った。
そして今は雫と帰っている。
予定通りに読めた時間は、思ったより少ない。
それでも、不思議と嫌な一日ではなかった。
悠斗が嬉しそうにしていたこと。
栞が自分の読書時間を大切にしてくれたこと。
雫が土曜日を楽しみにしていること。
そうした出来事が、頭の中へ自然と残っている。
(……まあ、今日は帰ってから読めばいいか)
春樹はそう結論づけた。
読書時間は大切だ。
それは今も変わらない。
けれど最近は、その時間を少し削ってでも付き合いたい会話が増えている。
その変化を、春樹自身はまだ深く考えていなかった。
ただ、悪くないと思っている。
そしてそのことが、彼の周囲にいる人たちにとって、少しずつ意味を持ち始めているのだった。




