第45話 本を選ぶだけのはずなのに、どうして先生まで俺の予定を増やすんですか?
水曜日の朝、七瀬春樹は自分の机に広げた文庫本を眺めながら、珍しく読書以外のことを考えていた。
もっとも、その原因も結局は本なので、本人としては普段と大して変わらないつもりである。
教室の窓から差し込む朝日が机の端を明るく照らし、廊下では登校してきた生徒たちの挨拶が行き交っている。まだ始業まで二十分ほどあり、春樹にとっては一日の中でも貴重な読書時間だった。
しかし、今日は鞄の中に入れてきた一冊が、どうにも気になっていた。
(昨日の夜に読み返してみたけど、やっぱりこれが一番かな)
鞄の中には、西条雫へ薦める候補として選んだ恋愛小説が入っている。
第一印象が最悪だった男女が、共通の趣味を通じて少しずつ互いを理解していく物語だ。主人公たちは最初から相手を特別視しているわけではなく、会話を重ねるうちに、嫌いだと思っていた部分の裏側へ気づいていく。
春樹自身も好きな作品だが、今回これを選んだ理由は単に面白いからではなかった。
雫はこれまで読んだ本の感想で、登場人物の気持ちが変わる過程に説得力がある作品を好むと話していた。突然恋愛関係になるより、何気ない会話や積み重ねによって関係が変化する方が好きらしい。
その条件に、この作品はかなり合っている。
(ただ、雫が主人公の女の子を好きになるかは少し微妙なんだよな。序盤は結構意地っ張りだし)
春樹は頭の中で物語を振り返りながら、候補を変更するべきか考えた。
そこで、隣から聞き慣れた声がした。
「おはよう、春樹。今日は本を開いてるのに全然ページ進んでないね」
顔を上げると、雫が鞄を肩から下ろしながらこちらを見ていた。
「おはよう。よく分かったな」
「だって、私が教室に入ってきたときから同じページだもん。春樹が朝から五分以上同じページを見てるなんて、珍しいでしょ」
「確かに」
春樹は文庫本へ視線を落とした。
読んでいたつもりだったが、実際にはほとんど頭へ入っていない。
「何か考え事?」
「土曜日の本」
そう答えた途端、雫の表情が少し変わった。
「……まだ悩んでるの?」
「ほぼ決めた。ただ、最後の確認中」
「そこまで真剣に選んでくれるんだ」
「三冊連続で当てたからな。四冊目も外したくない」
「勝負になってるんだ?」
「自分との勝負だな」
春樹が真面目な顔で答えると、雫は思わず笑った。
「春樹らしいね。でも、別に私が気に入らなかったとしても怒らないよ?」
「それは分かってる」
「だったら、そんなに悩まなくてもいいんじゃない?」
「雫が何を好きだと思うか考えるのが面白いんだよ」
春樹にとっては、ごく普通の説明だった。
しかし雫は、椅子へ座りかけた姿勢のまま動きを止めた。
「……そっか」
「何?」
「ううん。何でもない」
雫は少しだけ頬を緩めながら、自分の席へ腰を下ろした。
春樹が本を選ぶとき、相手のことを考えているのは知っている。真実にも、ひよりにも、栞にも、それぞれの好みに合わせた作品を選んでいるのだから、自分だけが特別というわけではない。
それでも、春樹が自分の好みを思い出しながら一冊を選んでいると知ると、嬉しくなってしまう。
(……やっぱり、私って分かりやすいのかな)
雫は机の中へ教科書を入れながら、横目で春樹を見た。
当の本人は、もう文庫本へ視線を戻している。
ただし、先ほどとは違い、今度はきちんとページをめくっていた。
「春樹」
「ん?」
「土曜日、私も楽しみにしてるからね」
「うん。俺も」
何の迷いもない返事だった。
雫は小さく笑ってから、窓の外へ視線を向けた。
朝の校庭では、運動部の生徒たちが片づけを始めている。
交流会が終わってから数日しか経っていないのに、学校はすっかり普段の生活へ戻っていた。
けれど、自分と春樹の間では、以前にはなかった約束が増えている。
その変化を、雫は悪くないと思っていた。
◇◇◇
三時間目の国語が終わったところで、春樹は教科書を閉じながら小さく息を吐いた。
授業そのものは面白かった。
ただし、最後に教師から呼び止められたことだけは、少し予想外だった。
「七瀬君、ちょっといい?」
教卓でプリントをまとめていた桐谷美月が、こちらへ手招きしている。
春樹は教科書を鞄へ入れかけたまま顔を上げた。
「何ですか、先生。提出物なら出しましたよ」
「分かってるわよ。私を何だと思ってるの?」
「たまに課題を増やす人」
「国語教師として当然の仕事でしょう?」
「読書感想文が増えるのは当然じゃないと思います」
「あなたの場合、喜んで書きそうだけど」
「好きな本を読むのと、指定された文字数で感想を書くのは別です」
春樹が真顔で返すと、桐谷は楽しそうに笑った。
「相変わらずね。それで、前にお願いした本のことなんだけど」
「ああ」
春樹はすぐに思い出した。
「先生に選ぶ一冊ですよね」
「覚えてた?」
「もちろんです」
「てっきり忘れられてるかと思ったわ」
「先生の本の好みまで聞いて忘れるほど、俺は適当に選んでませんよ」
桐谷の表情が少し柔らかくなる。
「それは嬉しいわね」
「ただ、候補が多くて」
「何冊?」
「六冊です」
「結構あるわね」
「先生、守備範囲広いですから」
桐谷はミステリーも恋愛も歴史ものも読む。重い話にも抵抗がなく、登場人物の心理が丁寧に描かれている作品を好むため、春樹としては薦めたい本がいくつも浮かんでしまう。
「じゃあ、今週の金曜日の放課後はどう?」
「金曜日ですか?」
「ええ。職員室へ来てもらってもいいけど、図書室の方が話しやすいかしら」
春樹は少し考えた。
「図書室の方がいいですね。候補の話もしやすいですし」
「決まりね。放課後、少し時間をもらえる?」
「いいですよ。ただ、長くなりすぎると読書時間が減るので」
「あなた、本の話を始めたら自分から長くするでしょう?」
「……否定できません」
桐谷は満足そうに頷いた。
「それなら金曜日。私も楽しみにしてるわ」
「分かりました」
春樹は自分の席へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
「先生」
「何?」
「候補、全部持ってきた方がいいですか?」
「一冊に決めてくれるんじゃないの?」
「そうですけど、先生の場合は候補を見せて選んでもらうのも面白いかなって」
桐谷は少し驚いたあと、口元へ笑みを浮かべた。
「へえ。七瀬君がそこまで考えてくれてるの?」
「先生の好み、かなり広いので」
「じゃあ、あなたが一番薦めたい一冊を持ってきて。その理由を聞いてから、ほかの候補についても話しましょう」
「了解です」
春樹が頷くと、桐谷はさらに楽しそうな顔になった。
「ところで、七瀬君」
「はい?」
「最近、誰かに本を選ぶ機会が増えてない?」
「……増えてますね」
「自覚はあるのね」
「結構あります」
春樹が真剣な顔で答えると、桐谷は声を立てて笑った。
「いいことじゃない。あなたの読書の世界が広がってるってことでしょう?」
「読書時間そのものは減ってるんですけどね」
「でも、嫌じゃないんでしょう?」
春樹は少し考えてから頷いた。
「そうですね。選ぶのは楽しいです」
「なら、きっといい変化よ」
桐谷はそう言って、教科書を抱え直した。
「ただし、自分の読む時間まで全部なくさないようにね」
「それは絶対に守ります」
「そこだけは本当に頼もしいわね」
教師が笑いながら教室を出ていく。
春樹はその背中を見送ってから、自分の席へ戻った。
すると、すぐに悠斗が顔を寄せてきた。
「お前、今度は桐谷先生と何の約束したんだ?」
「本の話」
「知ってた」
「なら聞くなよ」
「いや、先生まで巻き込んでるのがすげえなと思って」
「先生の方から頼まれたんだけど」
「そういうところだよ」
悠斗は呆れたように笑った。
「お前さ、最近ずっと誰かに本選んでない?」
「うん」
「何人分?」
「今のところ五人くらい」
「……本屋の店員になれば?」
「仕事になると自分の好きな本を読む時間減るだろ」
「そこなんだな」
悠斗は肩を揺らして笑う。
春樹は何がおかしいのか分からないまま、次の授業の準備を始めた。
◇◇◇
昼休み、春樹は購買で買ったパンを食べ終えると、図書室へ向かった。
廊下には弁当を食べ終えた生徒たちの姿があり、窓際では数人の女子が週末の予定について話している。教室から離れるにつれて賑やかな声は少しずつ遠ざかり、図書室の前まで来ると、ようやく落ち着いた空気になった。
(今日はちゃんと読めそうだな)
そう考えながら扉を開ける。
カウンターには白石栞が座っており、返却された本の状態を確認していた。
「こんにちは、白石先輩」
「あ、七瀬君。こんにちは」
栞は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「今日は少し早いですね」
「パンだったので、すぐ食べ終わりました」
「そうなんですね」
「先輩はもう食べました?」
「はい。今日は図書委員の仕事が少なかったので」
春樹は頷き、いつもの席へ向かおうとした。
しかし、その前に栞が少し迷うような表情を見せる。
「七瀬君」
「はい?」
「昨日の本の感想、ありがとうございました」
「ああ。あれ、面白かったです」
「気に入ってもらえてよかったです」
「最後のところ、白石先輩に言われて読み返したら印象変わりました」
栞の目が少し大きくなる。
「読み返したんですか?」
「はい。主人公が相手の好きな本を聞くところです」
春樹はカウンターの近くへ戻りながら続けた。
「最初は単純に、二人の距離が縮まった場面として読んでたんです。でも先輩の感想を聞いてから読み返すと、主人公が相手を知ろうとする側へ変わったのが分かって、もっと好きになりました」
栞は静かに耳を傾けていた。
春樹は、好きな場面について話すときだけ少し早口になる。普段も十分に会話のできる人だが、本の話になると視線が明るくなり、相手の反応を確かめながら言葉を選ぶところがある。
栞は、その時間が好きだった。
「私も、あの場面が好きなんです」
「ですよね」
「それまでの主人公は、自分が何を読みたいかばかり考えていたのに、最後は相手の好きなものを知りたくなるでしょう?」
「そうなんです。しかも、それを大げさな変化として描いてないのがいい」
春樹が頷く。
「自然にそうなった感じがするんですよね」
「はい」
二人はしばらく、物語の終盤について話した。
大きな事件が起きる作品ではない。
けれど、登場人物の何気ない言葉や行動を丁寧に追っていくと、最初と最後で関係が確かに変化している。
栞が好きなのは、そういう作品だった。
「七瀬君」
話が一段落したところで、栞が少し声を落とす。
「昨日の本屋さんの話なんですけど」
「はい」
「本当に、私と行ってもらって大丈夫ですか?」
春樹は不思議そうに首を傾げた。
「もちろんですよ。昨日も言いましたけど」
「……ありがとうございます」
「そんなに気にしなくていいですって」
栞は少しだけ頬を赤くした。
「私、誰かと本屋さんへ行くことがあまりなくて」
「俺も前まではほとんど一人でしたよ」
「そうなんですね」
「でも、誰かと行くと自分じゃ見ない棚を見るから面白いです」
春樹はそう言って笑った。
「白石先輩と行くなら、ミステリーの棚をじっくり見たいですね」
「私も、七瀬君が普段どんな本を選ぶのか見てみたいです」
「それなら結構時間かかりますよ?」
「大丈夫です」
栞は少しだけ勇気を出して続けた。
「……私も、本屋さんにいる時間は好きなので」
春樹は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、今度予定合わせましょう」
「はい」
栞は返事をしながら、カウンターの下でそっと指先を握った。
まだ日にちは決まっていない。
それでも、春樹が自分と出かけることを自然に楽しみにしてくれている。
その事実だけで、胸の奥が温かくなった。
春樹はそんな栞の気持ちに気づかないまま、今度こそ読書席へ向かっていった。
◇◇◇
同じ頃、二年三組の教室では、雫が紗弥と昼食を取りながら週末の予定について話していた。
「それで、土曜日また本屋行くんだ?」
紗弥が箸を置きながら尋ねる。
「うん。今度はお互いに本を選ぶことになって」
「へえ、いいじゃん」
「別に普通の本屋だけどね」
「普通の本屋に二人で行くんでしょ?」
「そうだけど」
雫は少しだけ視線を逸らした。
紗弥はそんな友人を見て、楽しそうに笑う。
「最近、七瀬君と出かけること増えたね」
「本の約束が続いてるだけだよ」
「うんうん」
「……その反応、何?」
「別に?」
紗弥はわざとらしく首を傾げた。
雫は小さくため息を吐く。
「紗弥までそういうこと言うんだから」
「私は何も言ってないよ?」
「顔が言ってる」
「じゃあ顔の責任だね」
「もう……」
二人は笑い合った。
紗弥は少し間を置いてから、声を落とす。
「でも、雫。楽しみなんでしょ?」
その問いに、雫はすぐには答えなかった。
窓の外では、校庭を横切る生徒たちが見える。昼休みの明るい声が遠くから聞こえ、教室の中にも穏やかな時間が流れていた。
「……楽しみだよ」
雫は素直に答えた。
「春樹が何を選ぶのかも気になるし、私が選んだ本を読んでどう思うのかも知りたい」
「そっか」
「それに、最近は本の話してるときの春樹、前より楽しそうなんだよね」
「前から本の話は好きだったんじゃない?」
「そうなんだけど、少し違うの」
雫は言葉を探した。
「前は、自分が読んだ本の話をしてる感じだった。でも今は、私がどう読んだかもちゃんと聞いてくれるし、そこからまた別の本を考えてくれるから」
紗弥は静かに頷く。
「それが嬉しいんだ?」
「……うん」
雫は少し照れたように笑った。
紗弥はその顔を見ながら、からかう言葉を飲み込んだ。
雫が何かを自覚し始めていることは、友人として何となく分かる。
けれど、今ここで無理に名前をつける必要はない。
「いい土曜日になるといいね」
「うん。ありがと」
雫は笑って頷いた。
そのあと、紗弥が自分のスマートフォンを見ながら小さく笑った。
「何?」
「高坂君からメッセージ来てた」
「悠斗から?」
「うん。本の話」
紗弥は画面を見ながら続ける。
「この前薦めてもらった本、今読んでるんだけど、結構面白いんだよね」
「へえ」
「高坂君、ちゃんと私が好きそうな話を選んでくれたみたいで」
雫は友人の表情を見る。
紗弥は特に意識していない様子で話しているが、声は楽しそうだった。
「それ、悠斗に言った?」
「うん。昨日送った」
「そっか」
雫は少し笑う。
春樹が悠斗の恋愛相談に乗っていることは知らない。
ただ、悠斗と紗弥が最近よく本の話をしていることは、何となく気づいていた。
(こっちも、少しずつ変わってるのかな)
そんなことを考えながら、雫は残っていた弁当を食べ始めた。
◇◇◇
放課後。
春樹は教室で帰り支度を済ませながら、今日の予定を頭の中で確認していた。
金曜日は桐谷と本の話。
土曜日は雫と書店。
栞との書店の約束は、まだ日程未定。
真実へ貸した本の感想も、そのうち届くだろう。
ひよりには次の一冊を考える必要があり、怜華への推薦も残っている。
(……俺、最近本屋の店員みたいなことしてないか?)
ただし、仕事として頼まれているわけではない。
好きで引き受けている。
それが少しだけ複雑だった。
「七瀬」
背後から声をかけられ、春樹は振り返る。
そこには九条凛が立っていた。
「九条? どうした?」
「永山先生から、交流会の備品確認について連絡があった。最終的な確認表が職員室前に掲示されているそうだ」
「ああ、あれか」
「代表者は確認するようにと言われた」
「了解。帰る前に見てくる」
凛は頷いたあと、春樹の鞄から少しだけ覗いている文庫本へ視線を向けた。
「……今日も本を持ち歩いているのね」
「毎日持ってるよ」
「それは知っている」
「なら何で言ったんだ?」
「あなたが歩きながら読んでいないか、確認しただけよ」
春樹は少し笑った。
「もうしてないって」
「そうね。最近はきちんと守っているようだから」
「褒めてくれてる?」
「当然のことをしているだけでしょう」
「厳しいなあ」
凛は少しだけ口元を緩めた。
「でも、以前より安心して見ていられるわ」
春樹は一瞬、言葉を止めた。
「……そんなに見られてたの?」
「風紀委員としてよ」
「なるほど」
あっさり納得され、凛は少し複雑そうな顔をした。
「それより、脚の具合はどう?」
「もう平気。筋肉痛もほとんどなくなった」
「そう。ならよかったわ」
「心配してくれてありがとな」
春樹が自然に礼を言うと、凛は一瞬だけ視線を逸らした。
「……別に、怪我人が出なかったか気になっただけよ」
「交流会のときも何回か聞いてくれたじゃん」
「あなたが無理をしそうだったからでしょう」
「俺、そんなに無茶するように見える?」
「本のことになると、少し判断が甘くなるもの」
「永山先生と同じこと言うなよ」
春樹が苦笑すると、凛も小さく笑った。
以前なら、ここで注意だけをして立ち去っていたかもしれない。
しかし今は、少しだけ会話を続けてもいいと思っている自分がいた。
「七瀬」
「ん?」
「交流会のとき、あなたが後輩や経験の少ない人へ声をかけていたでしょう」
「ああ、サッカーの?」
「ええ」
凛は少し言葉を選んだ。
「ああいうところは、素直にすごいと思ったわ」
春樹は驚いたように目を瞬かせた。
「急にどうした?」
「別に急ではないわ。前から思っていたことを言っただけよ」
「そっか」
春樹は少し照れたように笑った。
「ありがと。まあ、みんなが動けた方が楽しいからな」
「……そういう考え方、嫌いじゃないわ」
凛はそう言ってから、少しだけ頬を赤くした。
「それじゃあ、私は部活があるから」
「おう。頑張って」
「あなたも、確認表を忘れないように」
「了解」
凛が廊下へ出ていく。
春樹はその背中を見送ってから、鞄を肩へ掛け直した。
(九条も結構、普通に話すようになったな)
最初に会った頃は、歩きながら本を読んでいたことを注意された。
それ以来、何かと厳しい印象があったが、今は少し違う。
真面目で、周囲をよく見ていて、必要なことをきちんと言う。
そういう相手なのだと分かってきた。
春樹は職員室前へ向かいながら、少し笑った。
(交流会、終わってからも結構いろいろ残ってるな)
サッカーの試合はもう終わった。
しかし、そこで増えた会話や関係まで終わったわけではない。
それは、最近の春樹にとって少し不思議で、悪くない変化だった。
◇◇◇
帰宅後、春樹は夕食までの時間を使い、桐谷へ薦める候補を机の上へ並べていた。
六冊の中から一冊を選ぶ。
条件は、先生がまだ読んでいない可能性があり、なおかつ好みに合いそうなこと。
問題は、桐谷がかなりの読書家であるという点だった。
「……これ、読んでそうなんだよな」
春樹は一冊を手に取って考える。
有名な作品ほど、すでに読んでいる可能性が高い。
かといって、知名度だけを理由に選択肢から外すのも違う。
しばらく考えた末、春樹は一冊の文庫本を選んだ。
地方都市の古い書店を舞台にした、少し変わったミステリー。
事件そのものは大きくないが、登場人物たちの過去や人間関係が丁寧に描かれている。謎が解けたあとにも、すべての気持ちが綺麗に整理されるわけではないところが特徴だった。
(先生なら、この最後の会話好きそうだな)
春樹は表紙を眺める。
候補としては悪くない。
むしろ、かなりいい。
そう思ったところで、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、真実からのメッセージだった。
『七瀬先輩、こんばんは。昨日お借りした本、少し読み進めました』
春樹はすぐに返信する。
『こんばんは。どう?』
『まだ最初の方ですけど、主人公が思っていたよりずっと優しい人で驚きました』
『最初の印象と違うだろ?』
『はい。最初は少し冷たい人なのかなと思っていました』
春樹は笑う。
その反応は、ある程度予想していた。
『その辺り、もう少し読むと印象変わると思う』
『楽しみです』
続いて、もう一通届く。
『先輩、私の好きそうな本をちゃんと選んでくださったんですね』
春樹は少し考えてから返した。
『新海が前に好きって言ってた話を参考にしたから』
『覚えていてくださったんですね』
『もちろん』
返信まで、少し時間が空いた。
『ありがとうございます。大切に読みます』
春樹はその文章を見て、穏やかに笑った。
『気楽に読んでいいよ。面白かったらそれで十分』
『はい。でも、先輩が選んでくださった本なので、ちゃんと最後まで読みたいです』
春樹は返事を送り、スマートフォンを置いた。
真実がどんな感想を持つのか、今から楽しみだった。
そして、その楽しみがまた一つ増えたことに気づき、少しだけ苦笑する。
「……やっぱり忙しいな」
机の上には、桐谷へ薦める一冊。
その横には、雫へ渡す候補。
本棚には、自分がまだ読んでいない小説が何冊も並んでいる。
読む時間を増やしたくて早く学校へ行き、昼休みも図書室へ通っているのに、気づけば誰かのために本を選ぶ時間まで増えていた。
けれど、それをやめようとは思わない。
春樹は桐谷への候補を鞄へ入れ、雫への本をもう一度手に取った。
土曜日まで、あと三日。
今度は自分が雫へ一冊を選ぶ。
それだけの約束なのに、どんな反応をするのか考えると、少し楽しみだった。
(……まあ、読書の楽しみ方が増えたってことか)
春樹はそう結論づけ、ようやく自分の読む本を開いた。
窓の外では夜の風が静かに木々を揺らし、部屋にはページをめくる音だけが響いている。
読書時間は、相変わらず何より大切だ。
ただ最近は、その時間の前後に誰かとの約束が入り込んでくる。
春樹はまだ、それを特別なことだとは思っていない。
自分が本を選ぶことで、誰かが少し嬉しくなったり、次に会う時間を楽しみにしたりしていることにも、十分には気づいていなかった。
それでも、以前とは少し違う日々を、本人なりに楽しみ始めている。
そして金曜日には桐谷との読書談義、土曜日には雫との本屋での約束が待っていた。
春樹は次のページへ指をかけながら、心の中で小さく呟いた。
(とりあえず、今日はこの本を読み終わらせよう。予定が増えても、読む時間だけは絶対に確保するんだからな)
そうして七瀬春樹は、今日も自分の読書時間を守るため、静かな夜の物語へ戻っていった。




