第44話 本を選んでいるだけなのに、どうして本人より周りの方が楽しそうなんだ?
火曜日の朝、七瀬春樹はいつもより十分ほど早く教室へ着いていた。
早起きをしたわけでも、何か特別な用事があったわけでもない。家を出る時間を少し調整して学校へ早く来れば、その分だけ始業前に本を読めるという、春樹にとってはごく合理的な時間の使い方である。
交流会が終わって通常授業へ戻ったことで、朝の校舎にもいつもの空気が戻っていた。部活動の朝練を終えた生徒たちが昇降口から上がってくる足音や、廊下の向こうから聞こえる笑い声を遠くに感じながら、春樹は自分の席で昨日から読んでいる図書館を舞台にした青春小説を開いている。
もっとも、今日は読書だけに集中できているわけではなかった。
(雫に選ぶ本、どうするかな)
ページをめくりながらも、頭の片隅には土曜日の約束が残っている。
今度は互いに一冊ずつ選ぶ。
雫が自分に何を選ぶのかは楽しみだが、それと同じくらい、自分が雫へ何を渡すかも重要だった。
これまで春樹が雫へ薦めた三冊は、結果としてすべて気に入ってもらえた。最初から勝負として始めたわけではないものの、三冊とも当てたという実績がある以上、四冊目で露骨に外すのは少し悔しい。
(でも、同じ方向ばっかり選んでもつまらないんだよな)
最近の雫が、人間関係の変化にきちんと理由がある恋愛小説を好んでいることは分かっている。昨日の昼休みにも、突然恋へ落ちる話より、少しずつ関係が変わっていく作品の方が好きだと改めて感じた。
ならば、その好みに合わせながら、今までとは違う一冊を選びたい。
そこまで考えたところで、教室の前扉が開いた。
「おはよ、春樹」
入ってきた雫がこちらへ手を上げる。
「おはよう」
「今日も早いね」
「読めるから」
「知ってた」
雫は自分の席へ鞄を置くと、椅子を引きながら春樹の手元を覗き込んだ。
「昨日の続き?」
「うん。あと百ページくらい」
「今日中に読み終わりそう?」
「昼休みに邪魔されなければ」
「昨日は自分からずっと喋ってたじゃん」
「本の感想だったから、あれは読書の延長」
「便利だね、その分類」
呆れながら笑った雫は、教科書を机へ移してから、ふと思い出したように春樹を見る。
「そういえば、土曜の本もう決めた?」
「まだ」
「えっ」
「何で驚くんだよ」
「春樹なら昨日のうちに三冊くらい候補作ってると思った」
「候補ならある」
「あるんじゃん」
「決めてないだけ」
雫がじっとこちらを見る。
「何冊?」
「今のところ五冊」
「多くない?」
「最初は十冊くらい浮かんだ」
「私、一冊選んでもらうだけだよね?」
「だから絞ってるんだろ」
「そういう問題なのかな……」
雫は少し困ったように笑う。
それでも、自分のために春樹がそこまで考えていると分かれば、悪い気はしない。むしろ胸の奥がじんわりと温かくなってしまう。
(私が春樹に選んだときも、こんな感じだったのかな)
土曜日の書店で、一冊を決めるまでかなり悩んだ。
自分が読みたい本を選ぶだけなら、もっと早かったと思う。
春樹が好きそうか。
すでに読んでいないか。
読み終わったあと、どんな感想を言うだろうか。
そんなことを考え始めたせいで、棚の前を何度も往復した。
今度は春樹が同じように自分のことを考えている。
もちろん春樹の場合、それは恋愛的な意味ではないのだろう。
それでも嬉しいものは嬉しかった。
「楽しみにしてるからね」
「昨日も言ってたな」
「プレッシャー?」
「むしろ燃える」
「本当に本のことになると性格変わるよね」
「何で?」
「普通、もう少し困るところじゃない?」
「雫に合う本探すだけだろ」
春樹は不思議そうに言った。
「今までの感想も聞いてるし、選ぶ材料は結構あるから」
「……そっか」
「ただ、今までと同じようなのにするか、少し変えるかで迷ってる」
そこまで具体的に考えていたことが分かり、雫は少しだけ視線を逸らした。
「春樹が選んだなら、どっちでも読むよ」
「それ一番困るやつ」
「なんで?」
「選択肢広がるから」
「じゃあ忘れて」
「もう聞いたから無理」
春樹は真面目な顔で本へ視線を戻した。
雫はそんな横顔を眺め、思わず笑ってしまう。
「何?」
「別に」
「最近の雫、その『別に』多くない?」
「春樹が変なことばっかり言うからでしょ」
「普通のことしか言ってないけど」
「それが問題なんだよねえ……」
春樹には意味が分からなかったらしい。
首を傾げたあと、再び小説へ戻っていった。
雫はその横顔をもう少しだけ眺めてから、自分も朝の準備を始める。
以前なら、こうして春樹が本を読んでいれば「また読んでる」と思うだけだった。
今は、その本の向こう側で春樹が何を考えているのか、少し気になる。
その変化を、雫はもう「幼馴染だから」の一言だけで片づけようとは思わなくなっていた。
◇◇◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。
春樹が次の授業の教科書を出していると、前の席へ高坂悠斗がやってきた。
「七瀬」
「何?」
「ちょっと相談」
「赤木?」
「まだ何も言ってねえだろ!」
「お前が相談って言ったら最近ほぼそれじゃん」
「否定できないのが悔しい」
悠斗は周囲を確認してから、椅子を逆向きにして座った。
「紗弥から昨日、本の感想来た」
「読み終わったの?」
「いや、まだ半分くらい。でも、今のところかなり好きだって」
「よかったじゃん」
「それはいいんだけどさ」
悠斗はスマートフォンを取り出しかけ、すぐにしまう。
「メッセージそのまま見せるのは違うよな」
「うん。赤木がお前に送ったやつだし」
「だよな」
「内容だけなら聞くけど」
「なんかさ、主人公と友達の距離感が好きらしくて。全部分かり合ってるわけじゃないけど、一緒にいるのが自然なのがいいって」
「へえ」
春樹は少し考える。
「それで?」
「どう返したらいい?」
「自分の感想言えば?」
「それだけ?」
「それ以外何するんだよ」
「もうちょっとこう、会話が続く感じにしたい」
「じゃあ自分が好きだった場面言って、赤木がそこどう思ったか聞けばいいじゃん」
「なるほど」
「でも質問攻めにするなよ」
「分かってる」
「あと、まだ途中なら先の内容言うなよ」
「それも分かってる」
悠斗は頷きながら、少しだけ考える。
「お前、本の話になると本当に使えるな」
「普段も使えるだろ」
「自分で言うな」
「相談しに来たのお前じゃん」
「まあそうだけど」
悠斗は笑ったあと、机の上にある春樹の小説を見る。
「で、お前は?」
「何が?」
「昨日、雫と感想会だったんだろ?」
「白石先輩も一緒だったけどな」
「何だその状況」
「普通に本の話しただけ」
「お前にとっては全部それで終わるんだよな……」
悠斗が遠い目をする。
「あと土曜、また雫と本屋行く」
春樹が何気なく付け加えると、悠斗の顔が止まった。
「……また?」
「本交換するから」
「二週続けて?」
「そうなるな」
「二人で?」
「本選ぶんだから二人だろ」
「そうか」
「何だよ」
悠斗は数秒ほど春樹を見たあと、深く息を吐いた。
「七瀬」
「うん」
「仮にさ」
「何?」
「俺が紗弥と二週続けて休日に二人で本屋へ行くって言ったら、お前どう思う?」
「めちゃくちゃ順調じゃん」
「だよな?」
「うん」
「じゃあお前と雫は?」
「本の交換」
「どうしてそこだけ判定基準変わるんだよ!」
思わず悠斗の声が大きくなり、近くにいた生徒がこちらを見る。
悠斗は慌てて声を落とした。
「悪い」
「急に叫ぶなよ」
「誰のせいだと思ってんだ」
「お前だろ」
「くそ……」
悠斗は額を押さえる。
春樹は本気で意味が分からないらしい。
「俺と雫は昔から普通に二人で出かけることあるぞ」
「そこは知ってるよ」
「なら何が違うんだ?」
「……お前が前より楽しみにしてるところ?」
その言葉に、春樹が少し止まる。
「それは本交換するからだろ」
「昨日もそれ言ってたな」
「事実だし」
「雫じゃなくても同じ?」
春樹はすぐには答えなかった。
悠斗が眉を上げる。
「ほら」
「いや、考えてるだけ」
「何を?」
「相手によって選ぶ本違うんだから、同じにはならないだろ」
「そういう答えが返ってくると思ったよ」
「じゃあ聞くなよ」
春樹は呆れながら教科書を開く。
だが、悠斗の問いは少しだけ頭に残った。
(雫じゃなくても同じ、か)
栞に本を選ぶのも楽しい。
真実やひよりに選ぶのも、それぞれ違う面白さがある。
怜華や桐谷へ何を選ぶか考えるのも楽しみだ。
ただ、雫の場合は長く知っている分だけ、少し事情が違う。
昔から知っている。
それなのに最近、自分の知らなかった好みが増えている。
その変化を本選びに使うのは、確かに面白かった。
(まあ、幼馴染だから情報量多いしな)
春樹の中では、そこで綺麗に答えが出た。
悠斗はその顔を見ていたが、何も言わなかった。
(絶対違うところに着地したな、こいつ)
中学時代から付き合いがあるだけに、分かってしまう。
しかし、他人から答えを押しつけても意味はない。
悠斗自身、紗弥との関係について春樹から「こうすれば付き合える」と言われたいわけではないのだから、そこは同じだと思うことにした。
◇◇◇
昼休み。
今日は雫が紗弥たちと食べるというので、春樹は一人で図書室へ向かった。
昼食を早めに済ませ、本を読む。
それだけの予定だった。
「春樹先輩!」
図書室へ向かう階段の途中で、明るい声が上から降ってきた。
顔を上げると、小日向ひよりが階段を下りてくるところだった。手には見覚えのある一冊を抱えている。
「小日向」
「ちょうどよかったです!」
「どうした?」
「これ、読み終わりました!」
ひよりが胸の前へ掲げたのは、商店街のカフェを舞台にした青春群像小説だった。
「早かったな」
「昨日の夜、最後まで読んじゃいました」
「寝不足じゃない?」
「ちょっとだけです」
「駄目じゃん」
「でも面白かったんですよ!」
ひよりは言い訳するように笑う。
「最初、三百ページくらいあるから大丈夫かなって思ったんですけど、会話多いし、一章がそんなに長くなかったから読めました」
「それならよかった」
「あと、店長さん好きです」
「やっぱり?」
「何で分かったんですか?」
「途中でも言ってたじゃん」
「あ、そうでした」
ひよりは笑いながら本を差し出す。
春樹は受け取ったが、そのまますぐ鞄へ入れずに尋ねた。
「最後まで読んで一番好きだったの誰?」
「うーん……」
ひよりは真剣に考える。
「やっぱり店長さんですけど、最後はお姉さんも好きになりました」
「カフェの先輩?」
「そうです! 最初ちょっと怖そうだった人」
「ああ」
「途中で、主人公のことちゃんと見てたって分かるじゃないですか。あそこ好きでした」
春樹は頷く。
「小日向、最初の印象と後から変わるキャラ好きだよな」
「そうですか?」
「前の短編集でも似たこと言ってた」
「春樹先輩、よく覚えてますね」
「感想聞いたから」
当然のように返され、ひよりが一瞬黙る。
すぐに頬を緩めた。
「なんか嬉しいです」
「何が?」
「ちゃんと覚えてくれてるのが」
「次選ぶときに使うから」
「もう次選んでくれるんですか?」
「読みたいなら」
「読みたいです!」
ひよりの返事は速かった。
「じゃあ今度考えとく」
「やった!」
階段の踊り場で両手を小さく上げるひよりを見て、春樹も笑う。
「今度はもう少し厚くても大丈夫?」
「どのくらいですか?」
「四百ページ」
「ちょっと怖いです」
「じゃあ三百五十」
「五十ページしか減ってません!」
「結構違うぞ?」
「春樹先輩基準ですよね、それ!」
ひよりの抗議が階段へ響く。
近くを通った生徒が少し笑いながら二人を見ていった。
「じゃあ厚さだけじゃなくて、読みやすさ優先で探すよ」
「お願いします」
ひよりは満足そうに頷いたあと、ふと春樹を見る。
「そういえば春樹先輩、交流会終わったのに忙しそうですね」
「何で?」
「本、いっぱい選んでるって聞きました」
「誰から?」
「真実ちゃんです」
「新海か」
「昨日、本借りたって嬉しそうでしたよ」
春樹は少し笑う。
「ちゃんと好みに合えばいいけどな」
「私のも毎回合ってますよ」
「小日向は分かりやすいから」
「褒めてます?」
「褒めてる」
「じゃあいいです」
ひよりはあっさり納得する。
「あと、西条先輩ともまた本屋行くんですよね?」
「……何で知ってるの?」
「真実ちゃんからは聞いてないですよ」
「じゃあ誰だよ」
「さっき西条先輩が友達と話してました」
「教室違うだろ」
「廊下ですれ違ったんです」
「なるほど」
春樹は納得した。
ひよりはそんな先輩を見上げる。
「いいですね、本屋」
「小日向も行けばいいじゃん」
「そういう意味じゃないです」
「じゃあ何?」
「春樹先輩って、本当にそういうところですよね」
「どういうところ?」
「秘密です」
「最近それ流行ってんの?」
栞にも雫にも似たような返しをされた覚えがある。
ひよりは楽しそうに笑った。
「じゃあ私、友達待たせてるので行きます。次の本、楽しみにしてますね!」
「急がなくていいなら」
「大丈夫です!」
「了解」
ひよりが階段を下りていく。
春樹はその姿を見送ってから、図書室へ向かって再び階段を上った。
(小日向の次も増えたな)
自分で引き受けたので嫌ではない。
ただ、候補を考える人数が確実に増えている。
その事実だけは認めざるを得なかった。
◇◇◇
図書室へ入ると、栞はカウンターではなく奥の返却棚を整理していた。
春樹に気づくと、一度手を止める。
「七瀬君、こんにちは」
「こんにちは。今日は一人です」
「西条さんは?」
「友達と食べてます」
「そうなんですね」
栞は棚へ最後の一冊を戻し、カウンターへ戻ってきた。
「昨日返した本、持って帰りましたか?」
「はい。家の本棚に戻しました」
「よかったです」
「白石先輩、そんなに心配してたんですか?」
「借りていた間、少しだけ緊張していたので」
「普通に扱ってくれれば大丈夫ですよ」
「七瀬君が好きな本だと聞いていたので」
「好きですけど、読まれるための本ですから」
春樹は少し笑う。
「貸した相手がずっと緊張してたら、その方が嫌ですよ」
「……次から気をつけます」
「次も借りる気なんですね」
「駄目ですか?」
「全然」
即答され、栞の表情が柔らかくなる。
「昨日言ってた次の本、まだ考えてませんけど」
「急がなくて大丈夫です」
「候補はいくつかあります」
「もう?」
「先生の分とか雫の分とか考えてたら、ついでに」
栞は一瞬だけ目を瞬かせる。
「西条さんの分?」
「土曜にまた交換するので」
「そうなんですね」
「昨日、図書室出る前に話してたやつです」
「あ……そうでしたね」
もちろん覚えている。
ただ、「土曜」という具体的な予定になったことは知らなかった。
胸の奥へ、昨日感じたものと似た小さな寂しさが生まれる。
栞はそれを否定せず、静かに受け止めた。
(私も行ってみたいと思ったんですよね)
春樹と学校の外で本を見る。
まだ誘う勇気はない。
けれど、そう思っている自分がいることには、もう気づいている。
「七瀬君」
「はい?」
「本屋さんって、一人で行くのと誰かと行くのでは違いますか?」
春樹は少し考える。
「違いますね」
「どういうところが?」
「一人なら完全に自分の棚だけ見ますけど、誰かと行くとその人が見る棚も見るから」
「なるほど」
「雫と行ったときも、俺なら普段そこまで長く見ない棚に結構いました」
「それは楽しかったですか?」
「楽しかったですよ」
また即答だった。
栞の指先が、カウンターの端に置かれた貸出記録の紙へそっと触れる。
「……そうなんですね」
「白石先輩も本屋よく行きますよね?」
「はい。でも、ほとんど一人です」
「俺も基本一人です」
「七瀬君は、一人の方が好きですか?」
問いかけられ、春樹は少し考えた。
「どっちもですね」
「どっちも?」
「一人なら好きなだけ棚見られるし、誰にも合わせなくていい。それは絶対必要です」
そこまでは、栞にも予想できる答えだった。
けれど春樹は続ける。
「でも誰かと行くと、自分じゃ選ばない本を見ることがあるんですよ。土曜も雫に選んでもらった本、自分で買ってたかは分からないし」
「それが面白かったんですね」
「はい」
春樹は少し笑う。
「だから最近は、どっちが上とかじゃない気がしてます」
栞はその言葉を静かに受け取った。
以前の春樹なら、一人で好きなだけ本を読めることを迷わず選んでいたのかもしれない。
今も一人の時間は大切にしている。
それでも、誰かと過ごす時間を別の楽しさとして認め始めている。
(だったら、いつか)
そこまで考え、栞は少しだけ勇気を出した。
「七瀬君」
「はい」
「もし……今度、機会があったら」
春樹が待つ。
栞は一度だけ息を整える。
「私とも、本屋さんへ行ってくれますか?」
言えた。
声は少し小さかったが、春樹には届いている。
「いいですよ」
返事は驚くほど早かった。
栞が目を瞬かせる。
「……いいんですか?」
「何で駄目なんです?」
「いえ、その……」
「白石先輩と本屋行ったら、俺が普段見ないミステリーの棚とか面白そうだし」
やはり春樹らしい理由だった。
それでも、栞は嬉しかった。
「ありがとうございます」
「でも、土曜は雫と約束あるから別の日で」
「もちろんです」
「日程はまた決めましょう」
「はい」
栞は小さく頷く。
まだ日にちは決まっていない。
ただ、「いつか」だったものが、少しだけ現実の予定へ近づいた。
春樹はその変化の大きさに気づかないまま、いつもの席へ向かっていった。
◇◇◇
午後の授業が終わり、放課後になる。
春樹は今日はまっすぐ帰るつもりだった。
図書室では昼休みに十分読めたし、家で続きを読めば今日中に一冊終わる。
そう考えながら鞄へ教科書をしまっていると、隣から雫が声をかけてきた。
「春樹」
「ん?」
「帰る?」
「帰る」
「じゃあ途中まで一緒に行こ」
「いいよ」
特に断る理由もない。
二人で教室を出る。
廊下は部活動へ向かう生徒や帰宅する生徒で混み合っていた。窓の外からは運動部の声が聞こえ、校庭にはすでに練習の準備を始めている生徒たちが見える。
「もう脚平気そうだね」
階段を下りながら雫が言う。
「普通に歩く分には昨日から平気」
「サッカー部には戻らないの?」
「戻らない」
「即答」
「何回聞かれても変わらないよ」
「神谷君、まだ諦めてなさそうだったけど」
「そのうち諦めるだろ」
「どうかなあ」
雫は笑う。
「でも、交流会の春樹、楽しそうだったよ」
「楽しかった」
「それでも部活より本?」
「うん」
「そっか」
雫はそれ以上言わなかった。
春樹がサッカーを嫌って辞めたわけではないことは、今ならよく分かる。
好きなものが一つしか持てないわけではない。
春樹はサッカーも楽しめる。
友達と過ごすことも楽しめる。
それでも一番に本を選ぶ。
それが春樹なのだろう。
「そういえば」
春樹が靴を履き替えながら言う。
「今日、小日向が本返してきた」
「読み終わったんだ?」
「うん。結構気に入ったって」
「よかったじゃん」
「次も頼まれた」
「また増えたね」
「そうなんだよ」
二人は昇降口を出る。
秋へ向かう夕方の空気は少しずつ涼しくなっており、日なたと日陰の温度差も大きくなっていた。
「今、何人分選ぶの?」
雫が聞く。
「雫、白石先輩、一ノ瀬先輩、桐谷先生、小日向」
「五人?」
「新海は昨日貸したから一旦終わり」
「それでも五人じゃん」
「白石先輩は急がなくていいって言ってるし、先生も今月中でいいって」
「私のは?」
「土曜」
「優先順位高い?」
「期限が一番近いから」
「……そういう答えだよね、春樹は」
「何?」
「何でもない」
雫は少しだけ口を尖らせたが、すぐに別のことへ気づいた。
「白石先輩のもまた選ぶんだ?」
「うん。あと今度、一緒に本屋行くことになった」
雫の足が、ほんの少しだけ遅くなる。
「……え?」
「今日、白石先輩から行ってみたいって言われた」
「二人で?」
「たぶん」
「いつ?」
「まだ決めてない」
春樹は何でもないことのように答える。
雫の胸の奥へ、はっきりとしたざわつきが広がった。
以前なら、すぐに「先輩後輩で本屋に行くだけ」と自分へ言い聞かせていたかもしれない。
今は違う。
(嫌だとは思わない。でも、気になる)
栞を嫌いではない。
むしろ一緒に本の話をできる相手として好感を持っている。
だからこそ、この感情を栞への敵意にはしたくなかった。
問題は自分の側にある。
春樹が他の女の子と二人で出かける。
その事実が気になる。
以前より、明確に。
「雫?」
「ん?」
「急に黙ったけど」
「ちょっと考えてた」
「何を?」
「春樹、最近女の子と本屋行く予定多いなって」
「多いって、雫と白石先輩だけだろ」
「二人でも多いの」
「そう?」
「春樹基準だと多いでしょ」
それは確かにそうだった。
「前まで一人でしか行ってなかったしな」
「でしょ?」
「でも誰かと行くのも面白いって最近分かった」
雫の胸がまた小さく動く。
「……私と行ったから?」
「それもある」
春樹は何の迷いもなく答えた。
雫は思わず春樹を見る。
「土曜、雫が本選んでる間に普段見ない棚見たし、選んでもらった本も面白かったから」
「ああ……そっち」
「他に何があるんだよ」
「別に」
「今日二回目」
「数えてるの?」
「最近多いから」
春樹が笑う。
雫も少し遅れて笑った。
胸のざわつきが消えたわけではない。
それでも、春樹が誰かと本屋へ行くことを楽しめるようになったきっかけの一つが、自分との時間だった。
そう思うと、少し嬉しい。
(本当に面倒だな、私)
他の女の子と行くと聞けば気になる。
自分との時間が理由の一つだと分かれば嬉しくなる。
こんなに分かりやすい反応をしているのに、まだそれを一つの言葉へ決める勇気はなかった。
「春樹」
「何?」
「土曜日、私もちゃんと選ぶから」
「うん」
「今度は一時間もかけない」
「別に何時間でもいいけど」
「春樹待たせるじゃん」
「本屋なら待てる」
「それ、私を待ってるんじゃなくて本読んでるだけでしょ」
「ばれたか」
「分かるよ、それくらい」
二人は笑いながら駅へ向かう。
しばらく歩いたところで、春樹が突然「あ」と声を出した。
「何?」
「候補、一冊減った」
「私の?」
「うん」
「今?」
「今」
「何で?」
「雫と話してたら、ちょっと違うなって思った」
雫は驚く。
「私、何か言った?」
「いろいろ」
「雑すぎない?」
「説明すると候補ばれるだろ」
「あ、そっか」
「だから土曜まで秘密」
「春樹が秘密って言うの珍しいね」
「本選びだからな」
「またそれ」
雫は笑う。
それでも、自分との何気ない会話から春樹が本を選んでいるのだと思うと、やはり嬉しかった。
◇◇◇
その日の夜。
夕食と風呂を済ませた春樹は、自室のベッドへ腰掛けながら、昼休みに読み進めた図書館の青春小説を最後まで読み終えた。
閉じた本を膝の上へ置き、しばらく余韻を味わう。
図書委員の主人公と、図書室へ頻繁に通う同級生。
最初は単に本を借りる側と貸す側だった二人が、少しずつ相手の読む本を気にするようになり、最後には互いへ本を薦める関係になる。
恋愛として明確な結論は出ていない。
それでも、主人公が最後に「次は君が好きな本を読んでみたい」と言う場面で、二人の関係が最初とは変わったことは十分に伝わる。
(こういう終わり方、やっぱ好きだな)
春樹は本を横へ置いた。
そしてスマートフォンを手に取る。
栞へ感想を送ろうかと思ったが、時間を見るとまだ九時前だった。
送っても問題ないだろう。
『今日話してた本、読み終わりました』
数分後、返信が来る。
『どうでしたか?』
『かなり好きでした。最後に主人公が自分から相手の好きな本を聞くところが特に』
少し待つ。
『七瀬君、そこが好きそうだと思っていました』
春樹の指が止まる。
『分かってたんですか?』
『少しだけ』
『何で?』
今度は返信まで少し時間があった。
『七瀬君も、人に本を選ぶときはその人の好きなものを知ろうとするからです』
春樹は画面を見つめる。
(そういう見方か)
自分では主人公へ重ねて読んだつもりはなかった。
しかし言われてみれば、確かに似ている部分はある。
『なるほど。そこは気づかなかったです』
『私も七瀬君と話すようになってから、そういうところを見るようになりました』
その文章を読んで、春樹は少し笑った。
本を一人で読んだときには見えなかった部分を、誰かの感想によって知る。
最近、そういうことが増えた。
『今度会ったときもう少し話しましょう』
『はい。楽しみにしています』
やり取りを終えたあと、春樹はスマートフォンを置いた。
机へ向かい、今度は本棚を見る。
雫へ選ぶ一冊。
栞へ次に貸す一冊。
怜華。
桐谷。
ひより。
考えるものは多い。
「……読書時間減るな、これ」
思わず漏れた声に、自分で苦笑する。
それでも嫌ではなかった。
春樹は本棚の前へ移動すると、雫の候補として考えていた五冊を取り出した。
そのうち一冊は、帰り道ですでに候補から外している。
残る四冊。
一冊目は、同じ委員会になった男女が一年かけて親しくなる学園恋愛。
二冊目は、進路の違いから距離が生まれた友人同士の青春小説。
三冊目は、互いに第一印象が最悪だった男女が、共通の趣味を通して少しずつ理解し合う恋愛小説。
四冊目は、恋愛そのものよりも、家族や友人を含めた関係の変化を描いた群像劇。
春樹は一冊ずつ手に取る。
(雫が今読みたいのは……)
以前なら「面白いからこれ」で選んでいたかもしれない。
今は違う。
雫がどんな場面を好きだったか。
どんな人物へ反応したか。
何を「自然」と言い、どんな関係の変化を「いい」と言ったか。
それらが頭へ浮かんでくる。
そして同時に、土曜日の書店で一冊を抱えて戻ってきた雫の顔も思い出した。
『春樹に合うと思ったから』
自分へ選ばれた本は、確かに面白かった。
ならば今度は、自分も雫が楽しめる一冊を選びたい。
(……これかな)
春樹の手が、三冊目で止まる。
第一印象が最悪の男女。
最初から互いを好きなわけではない。
共通の趣味を知り、話す時間が増え、相手の知らなかった面を少しずつ見つけていく。
雫が最近読んでいたものとは関係の始まり方が違う。
それでも、関係が変わる理由は丁寧に描かれている。
「これならたぶん好きだな」
春樹は表紙を見る。
ほぼ決まりだった。
だが、土曜日まではまだ数日ある。
もう少し考えてもいい。
春樹は候補の本を机の端へ置き、自分が次に読む本を本棚から探し始めた。
そのとき、スマートフォンが震える。
雫からだった。
『今、本読んでる?』
『一冊読み終わったところ』
『やっぱり』
『何?』
『土曜日に春樹へ選ぶ本、候補二冊まで絞った』
春樹は思わず笑う。
朝、自分が五冊で迷っていると言ったときには多いと笑っていた雫も、結局かなり真剣に選んでいるらしい。
『俺も四冊』
『朝より一冊しか減ってないじゃん』
『帰りに減った』
『じゃあ私の勝ち』
『何の勝負だよ』
『先に一冊に決めた方』
『そんな勝負聞いてない』
『今決めた』
『じゃあ俺が今決めたら勝ち?』
少し間が空く。
『それはずるい』
『何でだよ』
『ちゃんと悩んで』
『理不尽』
画面越しの会話なのに、雫がどんな顔で打っているのか何となく想像できる。
たぶん笑っている。
春樹はベッドへ戻りながら返信する。
『分かった。土曜までちゃんと考える』
『うん』
そのあと、もう一通届いた。
『私もちゃんと春樹に合うの選ぶから』
春樹はその文章を少し眺めた。
昨日なら単純に「楽しみ」とだけ思ったかもしれない。
今日は、雫も自分と同じように候補を考え、迷っていることを知っている。
だから少しだけ、楽しみ方が変わった。
(選ばれるのも、結構面白いんだな)
自分では手に取らない一冊を渡されるかもしれない。
なぜそれを選んだのか、聞けるかもしれない。
そして読み終われば、また感想を話せる。
春樹は返信欄へ指を置いた。
『楽しみにしてる』
送信する。
すぐに既読がついた。
『私も』
それだけの短いやり取りだった。
春樹はスマートフォンを伏せ、もう一度本棚を見る。
読む本はまだ山ほどある。
読みたい本も減るどころか増えている。
それなのに最近は、その本棚を見るとき、時々誰かの顔まで浮かぶようになった。
栞ならどれを選ぶか。
真実ならどこを好きになるか。
ひよりなら最後まで読みやすいか。
怜華なら何を見抜くか。
桐谷ならどんな感想を返してくるか。
そして雫なら、どの場面で笑って、どこで少し考え込むのか。
(……本を選んでるだけなのに、考えること増えたな)
面倒だとは思う。
だが、やめたいとは思わない。
春樹は机の端に置いた雫への候補本をもう一度手に取ると、確認するように最初の数ページを開いた。
自分が読みたい本を選ぶだけなら、こんなことはしない。
けれど、誰かへ渡す一冊なら話は別だった。
相手が読む時間まで想像して選ぶことが、いつの間にか春樹の新しい読書の楽しみ方になりつつある。
そして、その変化を一番面白がっているのが周囲の人間であることだけは、本人にはまだまったく分かっていなかった。




