第43話 本の感想を話したいだけなのに、どうして幼なじみの答えが気になるんだ?
月曜日の一時間目が始まる少し前、七瀬春樹は机の上へ開いた本を眺めながら、同じ段落を二度読んでいた。
内容が難しいわけではない。昨日から読み始めた図書館を舞台にした青春小説はむしろ読みやすく、登場人物もすでに頭へ入っている。それなのに先ほどから、隣の席で教科書やノートを準備している雫の気配が妙に意識へ入ってきた。
(……やっぱりあの本のせいだな)
土曜日に雫から選んでもらった『君がいない街で、君のことを考えた』。
長く一緒にいた男女が、離れて暮らすようになったことで互いの存在を改めて意識していく青春恋愛小説だ。読了したばかりだから、幼い頃から知っている雫へ物語の関係性を重ねてしまっているのだろう。
春樹はそう判断すると、三度目でようやく段落の内容を頭へ入れた。
「春樹」
隣から名前を呼ばれ、顔を上げる。
「何?」
「今、同じところ何回読んだ?」
「……見てたの?」
「ページ全然進んでなかったから」
「三回」
「珍しいね」
雫は少し面白そうに笑う。
「眠い?」
「いや、昨日読んだ本のこと考えてた」
雫の表情がわずかに止まった。
「……私が選んだやつ?」
「うん」
「どこのこと?」
「それは昼に話す」
「今教えてよ」
「もうすぐ授業だろ」
「春樹がそれ言う?」
「俺だって授業は受ける」
「本読みながら?」
「先生による」
「駄目じゃん」
雫が呆れたところで、教室の前扉が開いた。
一時間目の担当教師が入ってくる。
春樹は素直に本を閉じた。
「閉じるんだ」
「この先生、普通に取り上げるから」
「判断基準そこなんだ……」
「没収されたら昼休みに読めない」
「本が絡むと判断力三割落ちるって、永山先生の評価かなり正しいよね」
「俺は認めてない」
小声で言い返したところで教師が教卓へ立ち、教室が静かになる。
春樹は前を向いた。
隣では雫もノートを開いている。
いつもの月曜日。
いつもの教室。
いつもの隣の席。
何も変わっていない。
それなのに春樹は、授業が始まる直前、もう一度だけ雫を横目で見てしまった。
(昼に聞いてみるか)
あの本を、雫がどう読んだのか。
それだけが少し気になっていた。
◇◇◇
午前中の授業が進むにつれて、交流会の名残は少しずつ薄れていった。
休み時間になるたびに競技の話は出るものの、教師たちは当然のように通常授業へ戻っている。筋肉痛を訴える男子が体育の話題で盛り上がっていても、チャイムが鳴れば教科書を開かなければならない。
二時間目が終わった休み時間、春樹の席へ悠斗がやってきた。
「七瀬、昼どうすんの?」
「図書室」
「やっぱり」
「何だよ、その反応」
「交流会終わった瞬間、完全に通常運転へ戻ったなと思って」
「交流会中も図書室行ってただろ」
「そうだったわ」
悠斗は笑いながら、前の席の椅子を借りて逆向きに座った。
「で、今日は白石先輩?」
「雫」
「は?」
「何で驚くんだよ」
「いや、お前の口から『今日は雫』って言葉が出ると妙な感じするなって」
「本の感想話すだけだぞ」
「ああ、土曜の本屋で買ったやつ?」
春樹の眉が動く。
「何で知ってんの?」
「雫から聞いた」
「いつ?」
「朝。紗弥と話してるとき」
「そうなんだ」
春樹は特に気にせず頷く。
悠斗はそんな友人をじっと見る。
「お前、土曜楽しかった?」
「楽しかったよ」
「即答だな」
「本屋だぞ?」
「そこだけじゃなくて」
「雫に本選んでもらうのも面白かった」
「なるほどねえ」
「何だよ」
「別に」
「最近みんなそれ言うな」
春樹は不満そうに眉を寄せる。
悠斗は笑いを堪えながら肩をすくめた。
中学時代から春樹を知っているが、こいつは昔から他人のことになると妙に勘がいい。自分が紗弥を気にしていることにもすぐ気づいたし、相談すればかなりまともな答えが返ってくる。
そのくせ、自分に向けられているものには驚くほど鈍い。
(雫も大変だな)
もっとも、雫自身もまだ自分の気持ちを完全には理解していないようなので、外から勝手に決めつけるつもりはない。
「そういう悠斗は?」
春樹の声で、悠斗は思考を戻す。
「何が?」
「赤木」
「声でかい!」
「普通だろ」
「俺にはでかく聞こえるんだよ!」
悠斗は慌てて周囲を見る。
幸い紗弥は教室の反対側で女子数人と話している。
「土曜、一緒に帰ったんだろ」
「途中までな」
「本の話できたって言ってたじゃん」
「できたよ」
悠斗は少しだけ声を落とす。
「俺が薦めたやつ、昨日も読んでくれたらしい」
「感想来た?」
「少し。まだ途中だから、読み終わったらちゃんと話すって」
「よかったじゃん」
「まあな」
悠斗の顔が自然に緩む。
春樹はそれを見て笑った。
「分かりやす」
「うるせえ」
「でも、自分で選んでよかっただろ?」
「……それは本当にそう」
悠斗は素直に頷いた。
「お前に全部聞かなくてよかったわ。自分で選んだやつを読んでもらう方が、たぶん嬉しい」
「だろ?」
「その顔腹立つな」
「何でだよ」
「自分だけ最初から分かってましたみたいな顔すんな」
「分かってたから」
「恋愛経験ないくせに」
「それとこれとは別だろ」
春樹が平然と返す。
悠斗は少し考え、にやりと笑った。
「じゃあ聞くけどさ」
「何?」
「誰かがお前のために一時間近く本選んでくれたら、どう思う?」
「嬉しい」
「即答かよ」
「そりゃ嬉しいだろ」
「その相手が、お前が気に入りそうな内容を考えて、自分が気になった本の中から選んでくれたら?」
「かなり嬉しい」
「じゃあ、その相手が感想を文字じゃなく直接聞きたいって言ったら?」
春樹が少しだけ考える。
「本当に気に入ったか確認したいんじゃない?」
悠斗は無言で春樹を見る。
「何?」
「いや。お前はそれでいいよ」
「意味分かんないんだけど」
「俺も今、永山先生の気持ちちょっと分かった」
「何で先生出てくるんだよ」
悠斗は答えず立ち上がった。
「じゃ、昼は雫と仲良く感想会してこい」
「お前は?」
「紗弥たちと飯」
「お」
「その顔やめろ」
「頑張れよ」
「本当に他人のことになると楽しそうだなお前!」
悠斗が肩を軽く叩いて去っていく。
春樹は笑いながら見送った。
(高坂も順調そうだな)
自分で選んだ本が、紗弥との会話を増やしている。
それは普通にいいことだと思う。
春樹は机の上の本を開き直した。
やはり他人の恋愛は、見ている側の方が分かりやすい。
◇◇◇
昼休み。
春樹と雫は弁当を持って図書室へ向かった。
廊下には昼食を買いに購買へ急ぐ生徒や、友人同士で教室を移動する生徒が行き交っている。交流会が終わったことで特別な誘導や放送もなく、校内はすっかり普段の昼休みへ戻っていた。
「そういえば脚どう?」
隣を歩く雫が尋ねる。
「ほぼ治った」
「筋肉痛は?」
「少しある」
「やっぱりあるんじゃん」
「痛くて動けないとかじゃないよ」
「昨日ちゃんと休んだ?」
「ずっと本読んでた」
「それは休んだって言うのかな……」
「身体は休んでる」
「頭は?」
「むしろ元気」
「春樹だね」
雫は笑う。
階段を上がり、図書室へ着く。
扉を開けると、いつもの静かな空気が広がっていた。昼休みなので利用者は何人かいるが、教室ほど騒がしくはない。
カウンターの向こうには栞がいた。
春樹に気づくと、小さく表情を緩める。
「七瀬君、西条さん。こんにちは」
「こんにちは」
「こんにちは、白石先輩」
栞の手元には一冊の本が置かれていた。
春樹が貸した写真部の青春小説だ。
「持ってきてくれたんですね」
「はい。昨日メッセージした通り、読み終わったので」
「あとで感想聞かせてください」
「もちろんです」
栞は嬉しそうに頷いた。
雫は二人のやり取りを横で見ている。
昨日までなら胸の奥に小さく生まれたざわつきを、すぐ「気のせい」と片づけていたかもしれない。
今は違う。
(やっぱり、ちょっと気になる)
栞と春樹には、自分とは違う本の関係がある。
栞が選んだ本を春樹が読む。
春樹が選んだ本を栞が読む。
互いに感想を話す。
自分も今、同じようなことを始めている。
だからこそ、少し気になるのかもしれない。
けれど、嫌ではない。
「白石先輩」
「はい?」
「その本、春樹が選んだやつですよね?」
「はい」
「どうでした?」
雫から聞かれるとは思っていなかったのか、栞は少し驚いたあと柔らかく笑った。
「好きでした。自分では選ばなかったと思うので、読めてよかったです」
「へえ」
「西条さんも、七瀬君に本を選んだんですよね?」
今度は雫が驚く。
「知ってるんですか?」
「七瀬君から聞きました」
「いつ?」
「土曜日に少しメッセージしたときです」
雫の視線が春樹へ向く。
「言ったっけ?」
「直接は言ってないです」
春樹が首を傾げる。
「白石先輩から感想来たとき、俺も本読んでたから……あれ? 雫の本って言ったっけ?」
「言ってません」
栞が小さく笑う。
「西条さんと本屋へ行く話は、前に聞いていたので。七瀬君が誰かに選んでもらった本を読むと言っていたから、そうかなと思っただけです」
「なるほど」
春樹は納得する。
雫は栞を見る。
栞も、自分が思っていた以上に春樹の話を覚えている。
(白石先輩も、春樹のことよく見てるんだ)
その事実が少しだけ胸へ残る。
しかし、そこで張り合うような言葉を出したいとは思わなかった。
「私、春樹に選んでもらってばっかりだったから、逆に選ぶの結構難しかったです」
「分かります」
栞がすぐ頷く。
「七瀬君、本をたくさん読むから、何を選べばいいのか迷いそうです」
「そうなんです。読んだことあるかもしれないし」
「そこ気にしてたの?」
春樹が口を挟む。
「気にするよ」
「読んだことあっても、雫が選んだなら読み直すけど」
春樹は当たり前のように言った。
雫の言葉が止まる。
栞もわずかに目を瞬かせた。
「……春樹」
「何?」
「そういうの、普通に言うのやめた方がいいよ」
「何で?」
「何でもない」
「またそれ?」
春樹が不満そうな顔をする。
栞は口元へ手を添え、小さく笑った。
「白石先輩まで笑わないでくださいよ」
「すみません。でも、少しだけ西条さんの気持ちが分かったので」
「え?」
雫が栞を見る。
栞は少し恥ずかしそうに視線を下げる。
「七瀬君は、本のことになると本当に素直ですよね」
「ああ……」
雫は納得した。
「分かります」
「二人で何の話してるんですか?」
「春樹には分からなくていい話」
「何で俺だけ外されるんだよ」
春樹の抗議に、二人が同時に笑った。
その瞬間、雫の胸にあった小さなざわつきが少しだけ薄くなる。
栞と自分は同じではない。
だからといって、どちらかが相手を押しのけなければならないわけでもない。
今はまだ、それでよかった。
◇◇◇
三人は窓際の席へ移動した。
昼食を取りながら話すため、普段より少し端の席を選ぶ。周囲にも昼食を持ち込んでいる生徒が数人おり、会話は自然と小声になった。
春樹の正面に雫、斜め向かいに栞が座る。
「先にどっちの感想話す?」
春樹が二冊の本を机へ置く。
一冊は栞へ貸していた写真部の青春小説。
もう一冊は雫が選んだ『君がいない街で、君のことを考えた』。
「何で同時に持ってきてるの?」
雫が聞く。
「話すと思ったから」
「準備いいね」
「本のことだから」
「出た」
雫が笑う。
栞も楽しそうに本を見る。
「私はあとでも大丈夫です。今日は西条さんと約束していたんですよね?」
「でも白石先輩も返却あるし」
雫が少し考える。
「一緒に話しません?」
「いいんですか?」
「はい。私も白石先輩がどこ好きだったか聞いてみたいです」
栞は少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、お願いします」
春樹は二人を見る。
「読書会みたいになってきたな」
「前にも似たことやったでしょ」
「そうだけど」
「嫌?」
「全然」
春樹はむしろ楽しそうだった。
まず栞が写真部の小説について話し始める。
昨日メッセージでも触れた、最後に主人公が写真を撮らなかった場面。
栞はそこへ至るまでの積み重ねがよかったと言う。
「最初の頃の主人公は、何でも写真に残そうとしていましたよね」
「そうですね」
「忘れるのが怖いから。でも最後は、残さなくても大丈夫だと思えるようになったんだと思います」
春樹は頷く。
「俺もそう読んだ。写真に残さないのが成長なんじゃなくて、残さない選択もできるようになったのが成長なんですよね」
「はい」
栞の目が少し輝く。
「そこが好きでした」
雫は二人の会話を聞いている。
専門的な話をしているわけではない。
けれど、同じ本を読んだからこそ通じる会話がある。
(こういう感じなんだ)
春樹と栞が図書室でどんなふうに本の話をしているのか、少し分かった気がした。
羨ましい。
その感情を、雫は以前より素直に認める。
ただし、同じものが欲しいわけではない。
自分には自分の春樹との時間がある。
「西条さんは、写真って撮る方ですか?」
栞に尋ねられ、雫は思考から戻る。
「スマホでは普通に。でも、そんなにたくさんは撮らないです」
「春樹は全然撮らないですよ」
「知ってる」
「何で雫が答えるんだよ」
「昔からそうじゃん」
雫は笑う。
「遠足とか行っても、自分から写真撮ろうって言わなかったし」
「撮るより見てる方がいいんだよ」
「白石先輩の言った通りだね」
雫が栞を見る。
「昨日も同じような話になりました」
「やっぱり」
栞が嬉しそうに微笑む。
春樹は二人の間で視線を往復させる。
「俺のことなのに二人の方が納得してるの何?」
「春樹より見てるからじゃない?」
「自分のことを?」
「そう」
「自分で自分を見る必要ある?」
「そういうところだよ」
雫と栞がまた笑う。
春樹は釈然としない顔で弁当の卵焼きを口へ運んだ。
◇◇◇
写真部の本について一通り話したあと、今度は雫が選んだ本へ話題が移った。
春樹が表紙を上にして机へ置く。
「俺はかなり好きだった」
「メッセージでも言ってたね」
「特に最後。付き合うところまで書かないのがいい」
雫は頷く。
「私もそこ好き」
「やっぱり?」
「うん。あそこで告白して付き合って終わりでもいいんだろうけど、私はあのままの方が好きかな」
「分かる」
春樹は少し身を乗り出す。
「読者にはもう分かるんですよ。二人とも前と同じ関係には戻らない。でも、本人たちはまだちゃんと言葉にしてない。だから次に会ったときどうなるか考えられる」
「そうそう。全部書かれないから、続き考えられるんだよね」
「それ」
二人の言葉が自然に重なる。
栞はその様子を静かに見ていた。
春樹が本の話をしているときに楽しそうなのは知っている。
けれど、雫と話す春樹には、自分と話しているときとは少し違う気安さがある。
説明の途中でも遠慮なく言葉を挟む。
雫もそれを気にしない。
意見が違えばすぐに言う。
相手が何を言っても関係が崩れないという安心が、会話の端々にある。
(長いんですね)
二人が積み重ねてきた時間。
以前なら、その長さに少し寂しさを感じるだけだった。
今は、それも二人の関係の一部なのだと思える。
自分にはないもの。
でも、自分にしかないものもきっとある。
「白石先輩なら、この終わり方好きそうじゃないですか?」
春樹から突然振られ、栞は目を瞬かせる。
「私ですか?」
「はい。言わない部分残ってるから」
「……そうですね。たぶん好きです」
「やっぱり」
春樹は嬉しそうに笑う。
栞の胸が少し温かくなる。
(ちゃんと私の好みも覚えてくれている)
雫と話している最中でも、自分がどう読むか考えてくれた。
そのことが嬉しかった。
「今度貸しましょうか?」
雫が言う。
「いいんですか?」
「はい。私もまだ読んでないんですけど」
「え?」
栞が驚く。
春樹が笑う。
「雫、自分で読まずに俺に選んだんですよ」
「ちゃんとあらすじは読んだから!」
「すごいですね」
「白石先輩まで驚かないでください」
「いえ、悪い意味ではなくて」
栞は本を見る。
「自分がまだ読んでいない本を誰かに選ぶのって、少し勇気がいると思ったので」
「それは……ありました」
雫は正直に頷く。
「春樹、いっぱい読むから。つまらなかったって言われたらどうしようとは思いました」
「俺、そんな言い方しないだろ」
「知ってるけど、気に入ってほしかったの」
雫が答えたあと、ほんの一瞬だけ空気が止まった。
自分でも、少し素直に言いすぎたと思ったらしい。
視線が春樹から外れる。
栞は何も言わず、雫の表情を見た。
春樹だけが別のところへ反応した。
「だから一時間くらい悩んでたのか」
「……そこ?」
「え?」
「何でもない」
「また?」
雫は小さく息を吐いた。
栞が口元を隠して笑っている。
「白石先輩、今絶対笑いましたよね?」
「少しだけ」
「何で?」
「秘密です」
「白石先輩まで秘密使うようになってる!」
春樹が抗議する。
雫はとうとう堪えきれず笑った。
静かな図書室なので声は抑えているが、肩が小さく揺れている。
「何なんだよ二人とも」
「春樹はそのままでいいよ」
「それ、褒めてないだろ」
「どうかな」
雫の表情は柔らかかった。
◇◇◇
昼食を食べ終えたあとも、三人の会話は少し続いた。
雫は自分がまだ『君がいない街で、君のことを考えた』を読んでいないため、春樹から重大な展開を聞きすぎないよう途中から制止し始めた。
「待って、それ以上は駄目」
「何で? 選んだ本人じゃん」
「読んでないって言ったでしょ」
「でもあらすじで――」
「春樹」
「はい」
真顔で止められ、春樹は素直に口を閉じる。
栞が笑う。
「七瀬君、感想を話すと止まらなくなるんですね」
「気をつけてるんですけど」
「全然気をつけてないよ」
「ネタバレになるところは言ってない」
「今、なりそうだったから止めたの!」
「じゃあ止めてもらえてよかった」
「反省してる?」
「してる」
「本当かな……」
雫は疑わしそうに見ながらも、本を手元へ引き寄せた。
「これ、今日から読む」
「じゃあ読み終わったらまた話そう」
「うん」
春樹は自然に答える。
その瞬間、雫は少しだけ笑った。
一冊を選んで終わりではない。
春樹が読む。
自分も読む。
そのあと、また話す。
同じ本が、次の時間へつながっている。
(こういうの、いいな)
春樹が本を通して人と関わることを楽しいと言った理由が、少しずつ分かってきた。
栞は時計を見る。
「そろそろ戻った方がいいですね」
昼休みの残り時間は十分ほど。
三人は弁当箱を片づけ、本をまとめる。
春樹が写真部の青春小説を受け取った。
「ありがとうございました」
栞が言う。
「こちらこそ。読んでもらえてよかったです」
「また、七瀬君に選んでもらってもいいですか?」
春樹はすぐに頷いた。
「もちろん」
栞の表情が明るくなる。
「じゃあ、今度お願いします」
「次はちょっと違うのにします?」
「はい。七瀬君が私に読ませたいと思ったものなら」
春樹は少し考える顔になる。
「それ一番難しいやつですね」
「そうなんですか?」
「白石先輩の好みだけじゃなくて、俺が読ませたい理由も必要になるから」
「じゃあ、ゆっくりで大丈夫です」
「考えときます」
新しい約束が一つ増えた。
春樹は普通に受け止めている。
雫はそれを横で見ていた。
胸の奥に小さな感情が動く。
羨ましさ。
少しの焦り。
でも、それだけではなかった。
「じゃあ私も」
気づけば口が動いていた。
春樹と栞がこちらを見る。
「何?」
「今度やる交換。私が春樹に一冊選んで、春樹も私に一冊選ぶやつ」
「ああ」
「忘れないでよ」
「覚えてるよ」
「いつやる?」
聞いてから、雫は自分でも少し積極的すぎたかと思った。
けれど言葉を引っ込める気にはならない。
春樹は少し考える。
「来週は?」
「土曜?」
「雫が空いてれば」
「空いてる」
即答だった。
春樹が目を瞬かせる。
「確認しなくていいの?」
「たぶん大丈夫」
「じゃあ一応家帰ってから確認して。俺も予定見とく」
「分かった」
雫は頷く。
まだ確定ではない。
それでも次の土曜日にも、春樹と出かける可能性ができた。
栞はそのやり取りを静かに見ている。
胸の奥がほんの少しだけ締まる。
(私も、七瀬君と学校の外で本を見てみたい)
そんな考えが浮かんだ。
今まで、図書室で一緒に読めるだけで十分だと思っていた。
それは今も大切だ。
でも春樹と雫が本屋へ行き、一緒に本を選んだ話を聞いたことで、自分も少しだけ別の時間を知りたいと思った。
すぐに口へ出す勇気はない。
だから栞は、その気持ちを心の中へ置いておく。
「白石先輩?」
春樹に呼ばれ、顔を上げる。
「どうしました?」
「いや、ちょっと黙ったから」
「大丈夫です」
栞は微笑む。
「本のことを考えていただけです」
「分かります」
春樹が深く頷いた。
雫が隣で半眼になる。
「春樹、その言葉だけで全部納得するのやめた方がいいよ」
「何で?」
「もういい」
「今日の雫、諦めるの早くない?」
「誰のせいだと思ってるの」
三人は小声で笑いながら、図書室を出た。
◇◇◇
午後の授業が始まる前。
春樹が席へ戻ると、机の横に新海真実が立っていた。
「七瀬先輩」
「新海?」
一年生が二年生の教室へ来たため、周囲から少しだけ視線が集まる。
真実もそれに気づいているらしく、少し居心地悪そうにしながらも春樹を見る。
「すみません。少しだけいいですか?」
「いいよ」
春樹は鞄から、朝持ってきた二冊を取り出した。
「ちょうどよかった。候補持ってきた」
「え?」
「次の本」
真実の目が大きくなる。
「もう考えてくれたんですか?」
「昨日暇だったから」
「休んでくださいって言ったのに」
「本選ぶのは休みみたいなもんだから」
「七瀬先輩だけだと思います、それ」
真実は呆れながらも嬉しそうだった。
春樹は二冊を机へ置く。
「今回は俺が完全に決めるより、どっちがいいか聞こうと思って」
「二冊あるんですね」
「一冊は青春群像。兄妹とその友達の話。恋愛は薄め。もう一冊は文化祭準備が中心で、人間関係を描くやつ」
「恋愛小説じゃないんですか?」
「どっちも恋愛は少しある。でも中心ではない」
真実は二冊を見比べる。
「どうしてこの二冊なんですか?」
「新海、前に人の印象が途中で変わる話、結構好きそうだったから」
「私、そんなこと言いました?」
「直接は言ってない」
「じゃあ、どうして?」
「感想聞いててそう思った」
真実は春樹を見る。
春樹は本の表紙を見ながら説明を続ける。
「最初に見えてた部分と、後から分かった部分が違う登場人物に結構反応してたから。だから今回は、そういう話が中心のやつにしようかなって」
真実はしばらく何も言わなかった。
自分でも意識していなかった好みだった。
けれど言われてみれば、確かにそうかもしれない。
そして、春樹はそれを覚えていた。
(私より私の読書の好み分かってませんか……?)
少しおかしくなって、真実は笑った。
「何?」
「いえ」
真実は二冊をもう一度見る。
「こっちにします」
選んだのは、文化祭準備を中心にした青春小説だった。
「理由は?」
「人の印象が変わる話って聞いて、気になったので」
「了解」
春樹はもう一冊を鞄へ戻す。
「じゃあ貸す」
「ありがとうございます」
真実は本を両手で受け取った。
「大事に読みます」
「普通に読めばいいよ」
「七瀬先輩の本ですよね?」
「そうだけど」
「なら大事にします」
「白石先輩にも似たこと言われたな」
何気ない一言だった。
真実の指が、本の表紙で少し止まる。
「白石先輩にも?」
「この前貸した本返してもらった」
「そうなんですね」
胸の奥に、小さな感情が生まれる。
嫌ではない。
ただ、自分だけではないのだと改めて分かる。
春樹は色々な人へ本を選んでいる。
知っていたはずなのに、実際に名前を聞くと少しだけ気になる。
(これって何なんだろう)
まだ分からない。
真実はその感情を無理に決めず、本を抱え直した。
「読んだら、また感想言いに来てもいいですか?」
「もちろん」
「じゃあ、読み終わったら来ます」
「急がなくていいからな」
「それ、私が昨日言ったやつです」
「そうだっけ?」
「そうです」
真実は笑う。
そこへ予鈴が鳴った。
「あ、戻らないと」
「急いだ方がいいな」
「はい。ありがとうございました、七瀬先輩」
「またな」
真実は教室を出ていく。
その背中を見送った春樹へ、横から声が飛んできた。
「また一人増えてるじゃん」
悠斗だった。
「何が?」
「お前の貸出先」
「新海は前からだろ」
「そういう意味じゃねえよ」
「じゃあ何だよ」
「もういい」
「お前までそれ言うの?」
春樹が眉を寄せると、悠斗は笑いながら自分の席へ戻った。
◇◇◇
放課後。
終礼が終わると、春樹はすぐに帰る準備を始めた。
今日は図書室へ寄るつもりだったが、昼にかなり話したため、放課後は自宅で読書するのも悪くない。
「七瀬君」
聞き覚えのある声に振り返る。
教室の後ろ扉に、一ノ瀬怜華が立っていた。
クラス内の視線が一斉に向く。
「……何で生徒会長が直接来るんですか」
「失礼ね。来ちゃいけない?」
「そういう意味じゃなくて」
春樹は鞄を持って近づく。
「何かありました?」
「本」
「早いですよ」
「催促しに来たわけじゃないわ」
「昨日メッセージで候補聞いてきた人が言っても説得力ないですよ」
怜華は楽しそうに笑う。
「今日は別件。桐谷先生があなたを探してたわよ」
「先生が?」
「廊下で会ったとき、『七瀬見なかった?』って聞かれたの」
春樹の顔が少し引きつる。
「……まさか」
「本じゃない?」
「ですよね」
交流会が終わったら選ぶ。
そう約束していた。
忘れてはいない。
ただ、雫、栞、真実、怜華と続いていたため、順番が後ろになっていただけだ。
「逃げる?」
怜華が面白そうに尋ねる。
「逃げませんよ」
「あら、偉い」
「本の話から逃げる理由ないです」
「そこなのね」
怜華は笑う。
「じゃあ職員室?」
「たぶん国語準備室じゃない? 放課後はあそこにいること多いし」
「分かりました」
春樹は歩き出しかけ、ふと止まる。
「一ノ瀬先輩」
「何?」
「先輩のもちゃんと考えてますから」
怜華が少し目を見開く。
「昨日、前と違う方向にするって言ったやつ。候補まだ絞れてないけど、忘れてないです」
「……そう」
怜華の笑みが、いつもの完璧な生徒会長のものからほんの少しだけ柔らかくなる。
「なら、待ってるわ」
「はい」
「適当なの選んだら許さないけど」
「そこは信用してくださいよ」
「本に関してだけは信用してる」
「だけって何ですか」
春樹が不満そうにすると、怜華は笑いながら去っていった。
◇◇◇
国語準備室の扉をノックすると、中からすぐ声が返ってきた。
「どうぞー」
春樹が入る。
壁際には教材や資料が並び、その一角には教師の私物らしい本が積まれている。
桐谷美月は机で何かを書いていたが、春樹を見ると顔を上げた。
「お、来た来た」
「一ノ瀬先輩から聞きました」
「便利だね、生徒会長」
「人を伝言係にしないでください」
「本人にはちゃんとお礼言っとく」
桐谷はペンを置く。
「で、七瀬君」
「はい」
「交流会終わったね?」
「終わりましたね」
「私との約束、覚えてる?」
「みんな同じこと聞くな……」
「みんな?」
「何でもないです」
春樹は小さく息を吐いた。
「覚えてます。先生に一冊選ぶ話ですよね」
「正解」
桐谷は嬉しそうに笑う。
「待ってたよ」
「先生の場合、何読んでるか多すぎて選びづらいんですよ」
「それは褒め言葉?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「面倒」
「教師に正直すぎない?」
桐谷は呆れながらも楽しそうだった。
「じゃあ条件絞ろうか」
「お願いします」
「七瀬君が私に読ませたい一冊」
春樹の眉が寄る。
「白石先輩と同じこと言ってる……」
「白石さん?」
「今日、次は俺が読ませたいと思った本をって言われました」
「へえ」
桐谷の目が面白そうに細くなる。
「人気者だねえ、七瀬君」
「本の話ですよ?」
「私は本の話しかしてないけど?」
「その顔絶対違うこと考えてるでしょ」
「教師を疑うものじゃありません」
「桐谷先生だから疑ってます」
「失礼だなあ」
二人はしばらく言い合う。
その空気は、生徒と教師でありながら、本の話になると少しだけ読書仲間に近い。
もちろん、越えてはいけない線を越えるようなものではない。
桐谷にとって春樹は、珍しく本の話をかなり深くできる生徒。
春樹にとって桐谷は、教師という立場を忘れはしないものの、大人の読書経験を持つ話し相手だった。
「でも本当に、私の好みに合わせなくていいよ」
桐谷が少し真面目な口調になる。
「七瀬君が読んで、私にも読ませたいと思ったもの。それがいい」
「難易度高いですよ」
「だから面白いんじゃない」
「先生、自分で探せるじゃないですか」
「自分で選ぶのと、人に選んでもらうのは違うでしょ?」
その言葉に、春樹は少し止まる。
土曜日の本屋を思い出した。
雫に本を選んでもらった。
自分なら選んだかどうか分からない一冊。
読んでみたら、かなり面白かった。
「……それは、分かります」
「お?」
「何ですか」
「いや。前より実感こもってるなと思って」
「最近選んでもらったので」
「誰に?」
「雫」
「へえ」
桐谷の口元が楽しそうに上がる。
「幼馴染の西条さんに?」
「そうですけど」
「どうだった?」
「面白かったですよ」
「本が?」
「本以外何があるんですか?」
「いやあ、青春だねえ」
「先生、俺の話聞いてます?」
「聞いてる聞いてる」
桐谷は笑いながら手を振った。
「じゃあ余計にお願いしたいな。人に選んでもらう面白さ、分かったんでしょ?」
「まあ」
「期限は急がない。今月中くらいでいいよ」
「そんなに待ってくれるんですか?」
「適当に選ばれるよりいいからね」
「一ノ瀬先輩と同じこと言ってる……」
「一ノ瀬さんも頼んでるの?」
「はい」
「七瀬君、本当に校内選書サービス始めたら?」
「絶対嫌です」
「何で? 楽しそうじゃん」
「自分で読む時間なくなるでしょ」
「そこは譲らないんだ」
「当然です」
桐谷は声を立てずに笑った。
「じゃあ、楽しみに待ってる」
「分かりました」
春樹は準備室を出ようとして、扉の前で一度振り返る。
「先生」
「ん?」
「ジャンル、本当に何でもいいんですよね?」
「うん」
「先生が普段あんまり読まなそうなのでも?」
「むしろ歓迎」
「分かりました」
春樹の目が少し楽しそうに変わる。
「それなら考えます」
「その顔になったら期待してよさそうだね」
「外しても文句言わないでくださいよ」
「感想は正直に言うよ」
「それでいいです」
春樹は今度こそ準備室を出た。
◇◇◇
校舎を出る頃には、夕方の光が長い影を作っていた。
春樹は一人で昇降口から校門へ向かう。
鞄の中には自分の本。
今日返ってきた写真部の青春小説。
机には真実へ貸した一冊がなくなり、代わりに自分が読む図書館の青春小説が残っている。
頭の中には、さらに選ばなければならない本がいくつもある。
怜華。
桐谷。
いずれは栞の次の一冊。
雫との交換用。
ひよりの読了後も、きっと次を頼まれるだろう。
(……俺、本当に読書時間増えてるのか減ってるのか分かんなくなってきたな)
以前なら、予定が増えることそのものを嫌がっていた。
本を読む時間が削られる。
それだけで十分に面倒だった。
今も無制限に予定を入れたいわけではない。
一人で読む時間がなくなれば本気で困る。
ただ、本を選ぶために相手のことを考える時間は、以前ほど「読書の邪魔」とは感じなくなっていた。
今日の昼休みもそうだ。
雫と栞と本の感想を話した。
自分一人で読んでいたら気づかなかった見方を聞けた。
真実へ本を選ぶときには、これまでの感想を思い出した。
桐谷には、自分が読ませたいものを選んでほしいと言われた。
(読むだけじゃなくなったんだな)
春樹は歩きながら考える。
もちろん、本そのものを読むのが一番好きだ。
そこは変わらない。
でも、本を読む自分の周囲に人が増えた。
そして、その人たちが本の中にまで少しずつ入ってくる。
正確には、登場人物になるわけではない。
誰かの台詞を読めば、似たことを言った相手を思い出す。
誰かへ本を選ぶとき、その人の顔が浮かぶ。
感想を聞けば、次に読む本の見え方まで少し変わる。
(悪くない)
むしろ楽しい。
春樹はそう思う。
校門を出たところで、スマートフォンが震えた。
雫からだった。
『土曜日、予定大丈夫だった』
春樹は立ち止まり、安全な場所へ寄ってから画面を見る。
午前中に話した、本の交換。
(そういえば確認するって言ってたな)
自分の予定を思い返す。
今のところ特にない。
『俺も大丈夫』
送る。
すぐに既読がつく。
『じゃあまた十時?』
『いいよ』
『駅前で』
『了解』
そこで終わるかと思ったが、もう一通届いた。
『今度は私にちゃんと合うの選んでね』
春樹は少し笑った。
『任せろ。三冊当てた実績あるから』
『それ言うと思った』
『じゃあ期待しとけ』
少し間が空く。
『期待してる』
春樹はその四文字を見る。
土曜日までに一冊選ぶ。
雫がまだ読んでいない可能性が高く、今の好みに合い、それでいて前の三冊とも違うもの。
(何にするかな)
すぐに候補を考え始める。
最近の雫は、関係が少しずつ変化していく話を好む。
急に恋へ落ちるものより、積み重ねに理由がある方がいい。
ただし、また幼馴染ものを選ぶのは少し安直だ。
(違う関係から始まるやつがいいか)
最初は互いに苦手。
あるいは、友達ですらない。
そこから時間をかけて相手を知る。
そんな一冊もいい。
春樹は歩き出しながら、頭の中の本棚を探る。
そして数歩進んだところで、ふと気づいた。
(俺、土曜楽しみにしてるな)
雫へ本を選ぶこと。
雫が自分へ何を選ぶのか。
そのあと感想を話すこと。
全部まとめて、少し楽しみだった。
春樹はその感情を不思議には思わない。
(本屋行くんだから当たり前か)
理由は簡単に見つかった。
だから、それ以上考える必要もない。
春樹は満足して帰路につく。
ただ、今度の土曜日を楽しみにしている理由が、本屋へ行けるからだけではない可能性については、やはりまだ考えていなかった。




