第42話 幼なじみが選んだ本を読んでいるだけなのに、どうして本人の顔まで浮かぶんだ?
土曜日の午後、七瀬春樹は自室のベッドへ背中を預けながら、雫が選んだ『君がいない街で、君のことを考えた』を読み進めていた。
窓の外からは、ときおり住宅街を走る車の音や遠くで遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。それ以外は静かなもので、昨日まで校内を満たしていたスポーツ交流会の喧騒が嘘のようだった。
春樹にとっては、かなり理想的な休日である。
脚には昨日の疲労が残っているものの、朝より重さは減っていた。痛みもなく、家で本を読んでいるぶんには何の問題もない。
(やっぱ休日はこれだよな)
好きな場所で、好きなだけ本を読む。
誰かに呼び出されることもなければ、試合開始時刻を確認する必要もなく、交代順を考える必要もない。連絡係と呼び続けた代表の仕事も、もう終わっている。
それなのに、春樹はページをめくりながら昨日のことを何度か思い出していた。
高木が自分の判断で前へ進んだこと。
山岸が神谷のシュートを防いだこと。
杉浦たちだけで勝ち越し点を取ったこと。
神谷と最後まで競り合ったこと。
観戦場所から聞こえた声。
図書室へ戻ったあとの静かな時間。
(……結構楽しかったんだよな)
改めて考えても、その感想は変わらない。
読書時間が削られたのは事実だが、それを理由に「参加しなければよかった」とはまったく思わなかった。むしろ、最後の笛が鳴ったときに少し惜しいと思ったくらいだ。
春樹はそこで、自分が読んでいる物語へ意識を戻した。
主人公と幼い頃からの女友達は、高校卒業後に離れた土地で暮らし始めている。
二人とも新しい友人ができた。
新しい生活にも慣れてきた。
連絡も取っている。
それなのに、以前のように毎日顔を合わせることはできない。
主人公は大学近くの書店へ入ったとき、何気なく一冊の本を手に取る。自分が読みたいわけではなく、離れた土地にいる女友達が好きそうだと思ったからだ。
春樹の指が止まった。
(あ)
少し覚えがある。
最近、自分も本を見ると誰かの顔が浮かぶことが増えた。
これは栞が好きそうだ。
これは真実でも読みやすそうだ。
これはひよりには少し重い。
これは怜華なら面白がりそうだ。
そして、これは雫が好きそうだ。
以前なら自分が読みたいかどうかだけで棚を見ていたのに、今は別の基準がいくつも増えている。
(まあ、俺の場合は実際に本選んでるからな)
作中の主人公も似たようなものなのだろう。
長く一緒にいた相手だから、好みを知っている。
知っているから、本を見たときに思い出す。
そこまでは自然だ。
春樹は納得して続きを読む。
しかし物語の主人公は、その本を買わなかった。
自分がわざわざ送る理由が分からなかったからだ。
「買えばいいのに」
春樹は思わず声に出した。
気になるなら買えばいい。
相手が好きそうだと思ったなら薦めればいい。
理由など「好きそうだったから」で十分だろう。
春樹自身、最近はそれを何度もやっている。
栞へ選んだ写真部の青春小説もそうだ。
ひよりへ渡した商店街のカフェを舞台にした青春群像小説もそうだし、真実からも次の一冊を頼まれている。怜華や桐谷にも選ぶ約束が残っている。
(この主人公、変なところで考えすぎなんだよな)
春樹はそう思いながらページをめくった。
物語の中では、主人公が結局その本を買わずに店を出る。
しかし数日後、女友達との電話で彼女が最近読む本を探していると知り、買っておけばよかったと後悔する。
(ほら)
春樹は少し得意な気分になった。
やはり最初から買えばよかったのだ。
ところが、その数ページ先で女友達側の視点へ切り替わった。
彼女もまた、雑貨店で主人公が使いそうな小物を見つけていた。
買うか迷い、結局やめている。
理由も同じだった。
離れて暮らしているただの友達へ、わざわざ贈るほどのものなのか分からない。
二人とも相手を思い出しているのに、自分だけがそうしていると思っている。
春樹はそこで少し笑った。
(両方同じことしてるじゃん)
読者から見れば分かりやすい。
互いに相手が日常の中へ残っている。
本人たちだけが、その意味をまだ理解していない。
春樹はこういう構造が好きだった。
片方だけが一方的に想い続けるのではなく、二人とも少しずつ同じ方向へ進んでいる。それでも本人たちには見えている景色が違うため、なかなか噛み合わない。
(雫、こういうの好きになったんだな)
自然に顔が浮かんだ。
午前中、本屋の棚の前で真剣に本を探していた雫。
表紙を隠しながらレジへ向かった雫。
感想を聞かせてほしいと言った雫。
お互いに一冊ずつ選ぶのもやってみたいと話したとき、すぐに「やる」と答えた雫。
春樹はページから視線を上げた。
「……」
数秒してから、もう一度本を見る。
(何で雫の顔ばっか浮かぶんだ?)
理由を考える。
そして、すぐに答えへ辿り着いた。
(雫が選んだ本だからか)
納得した。
自分が栞から薦められた短編集を読めば、栞がどうして薦めたのか考えることがある。誰かのために本を選ぶときも、その人の好みを思い浮かべる。
それと同じだろう。
春樹は特に疑問を残さず、続きを読む。
◇◇◇
一時間ほど読み進めたところで、春樹は一度本を閉じた。
喉が渇いた。
部屋を出て飲み物を取りに行き、戻ってくる途中でスマートフォンが震える。
画面を見ると、白石栞からメッセージが届いていた。
『七瀬君、今大丈夫ですか?』
「珍しいな」
栞からこういう確認が来ることは多くない。
春樹は部屋へ戻りながら返信する。
『大丈夫です。本読んでました』
少しして既読がついた。
『やっぱり読んでいたんですね』
『休日なので』
『昨日あれだけ動いたのに』
『今日は動かなくていいので読めます』
送ってから、どこかで似た会話をした気がして春樹は笑った。
栞から次のメッセージが届く。
『写真部の本、読み終わりました』
春樹の表情が変わった。
すぐベッドへ座る。
『本当ですか?』
『はい』
『どうでした?』
送信してから、春樹は画面を見つめた。
栞へ渡した本は、自分の蔵書だ。
大学の写真部を舞台にした青春小説で、恋愛だけが中心ではない。登場人物同士が言葉にしない理由や、写真に残すものと残さないものの違いを描いている。
栞なら合うと思って選んだ。
だから感想がかなり気になっている。
少し長めの間が空いてから、返信が届いた。
『好きでした』
春樹は思わず笑う。
『よかった』
さらに続く。
『特に、最後に主人公が写真を撮らなかった場面が好きです』
春樹の指が止まる。
(そこか)
自分も好きな場面だった。
写真部を題材にした物語なのに、最後の重要な場面で主人公はカメラを構えない。
残したくないからではない。
写真に残すより、自分の目で見ていたいと思ったからだ。
『俺もそこ好きです』
返信すると、栞からすぐに返ってくる。
『やっぱりそうなんですね』
『分かりました?』
『少しだけ』
『何で?』
今度は少し間が空いた。
『七瀬君は、残すことより、そのとき自分がどう見ていたかを大事にしそうだからです』
春樹は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
(俺、そんなふうに見えるのか)
自分では考えたことがない。
けれど、完全に違うとも思わない。
昨日のサッカーでも、写真を撮ろうとは一度も考えなかった。
楽しかった場面は頭に残っている。
高木の動きも、山岸の守備も、杉浦の得点も、神谷との競り合いも。
『たぶんそうかもしれません』
そう返した。
栞から、
『だから七瀬君がこの本を選んでくれた理由も、少し分かった気がしました』
と届く。
『俺は白石先輩が言葉にしない部分を読むの好きそうだと思ったからです』
『はい。そこも好きでした』
さらに続けて、
『でも、自分では選ばなかったと思います』
と送られてくる。
春樹は少し考えた。
『じゃあ選んでよかったです』
『はい。選んでもらえてよかったです』
短い文章なのに、栞が嬉しそうにしている姿が何となく浮かぶ。
図書室で静かに笑う顔。
昨日、試合を見に来て「今はこっちを見たいです」と言ったときの顔。
(……また人の顔浮かべてるな、俺)
今日だけで何度目だろう。
ただ、不思議と嫌ではない。
むしろ、感想を文字だけで受け取るより、相手がどういう表情でそう言っているのか想像する方が楽しかった。
『月曜、本返します。そのときもう少し話してもいいですか?』
『もちろん』
即答する。
『俺も短編集の感想あります』
『楽しみにしています』
そこでやり取りは一度終わった。
春樹はスマートフォンを置き、少し考える。
栞へ本を選んだとき、自分は彼女のことをかなり考えた。
普段何を読むか。
何を面白いと思うか。
何を苦手とするか。
どんな余白を好むか。
そして今、栞も自分がその本を選んだ理由を考えていた。
(本を挟むと、こういうの分かるんだな)
相手のことを知る。
自分のことも知られる。
以前の春樹にとって読書は、ほとんど一人で完結する趣味だった。
今も一人で読む時間は好きだ。
けれど、本を誰かとの間へ置く楽しさも少しずつ分かってきている。
「……悪くないな」
春樹は小さく呟いた。
◇◇◇
その頃、白石栞は自室の机でスマートフォンを両手に持っていた。
机の上には、読み終えた写真部の青春小説が置かれている。
春樹から借りた本。
自分のために選んでもらった本。
読み始める前から大切に扱おうと思っていたが、読み終えた今は少し意味が変わっていた。
(七瀬君も、あそこが好きだったんだ)
同じ場面を好きだと思えたことが嬉しい。
もちろん、好きな本の好きな場面が一致しただけだ。
それだけなら珍しいことではない。
それでも栞にとっては、その「それだけ」が嬉しかった。
春樹とは、最初から本を通じて話してきた。
静かに読める人。
自分が黙っていても気まずくならない人。
本の話なら、いつもより少し多く話せる相手。
最初はそれだけだった。
けれど今は、春樹がサッカーをしている姿も知っている。
友人と冗談を言うところも知っている。
後輩へ本を選ぶところも、初心者のクラスメイトへ声をかけるところも知っている。
知るたびに、図書室にいる春樹と別人になるのではなく、むしろ同じ人だと分かっていく。
(もっと知りたい、って思ってるんですね。私)
栞はスマートフォンの画面へ視線を落とす。
自分の気持ちへ名前をつけるには、まだ少し怖い。
春樹と話せるだけで嬉しい。
本を薦め合えるのが楽しい。
同じ場所で静かに読める時間が好き。
今は、それを大切にしたかった。
ただ一つだけ、以前とは違うことがある。
春樹がほかの誰かと本の話をしているとき、自分もそこへ入りたいと思うことが増えた。
独り占めしたいというほど強くはない。
けれど、自分だけが知らない春樹が増えるのは、少し寂しい。
(西条さんは、ずっと前から七瀬君を知っている)
昨日、雫から昔の春樹について聞いた。
自分が知らない時間が、二人の間にはたくさんある。
それを消すことはできないし、消したいとも思わない。
なら、自分はこれから知っていけばいい。
栞は机の上の本をそっと撫でた。
月曜日には返す。
そのとき、もう少し話せる。
それが今から楽しみだった。
◇◇◇
春樹が雫の選んだ本へ戻ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
物語は中盤へ入っている。
離れた二人は、それぞれの生活を送りながら連絡を続けていた。しかし、毎日顔を合わせていた頃とは違い、相手の知らない時間が少しずつ増えていく。
女友達に大学の男友達ができる。
主人公にも、よく話す女子学生ができる。
どちらも恋愛関係ではない。
それでも、互いにその話を聞いたときだけ、返事が少し遅れる。
(分かりやす)
春樹は苦笑した。
嫉妬だろう。
本人たちは「別に気にしていない」と思っているが、読者から見れば明らかだ。
特に主人公は、女友達から男の名前が出るたびに「どんなやつ?」と聞いている。
(気になってる時点で答え出てるじゃん)
春樹はページをめくる。
すると次の場面で、主人公の友人が本人へ「お前、それ嫉妬してるんじゃないか」と指摘する。
主人公は否定する。
長い付き合いだから変な男に引っかからないか心配なだけだ、と。
「いや、それ作中でも言われるのかよ」
春樹は笑った。
しかし、その直後に少しだけ指が止まる。
なぜか昨日の帰り道を思い出した。
凛と片づけのときに会った話をしたら、雫が少し変な反応をしていた。
(……あれ何だったんだ?)
さらに今日。
栞から薦められた本を読んでいると言ったときも、ほんの少し間があった。
春樹は数秒考える。
(いや、まさかな)
何が「まさか」なのか、自分でも明確には言葉にしていない。
ただ、目の前の物語が嫉妬を扱っているせいで、似たような反応を結びつけただけだ。
(雫だぞ?)
幼馴染。
昔から互いの友人関係も知っている。
自分が誰と話していようと、今さら気にする理由などない。
それに雫自身、栞や真実たちと普通に話している。
(やっぱ違うな)
春樹はあっさり結論づけた。
そしてページをめくる。
作中の主人公もまた、「長い付き合いだから気になるだけだ」と結論づけていた。
「お前は違うだろ」
春樹は迷いなく突っ込んだ。
自分と作中人物の結論がほとんど同じであることには、まったく気づいていなかった。
◇◇◇
夕方近くになり、春樹は一度読書を中断した。
残りは三分の一ほど。
一気に読めなくもないが、少し休憩したい。
スマートフォンを確認すると、通知がいくつか溜まっている。
ひよりからだった。
『春樹先輩! カフェの本半分超えました!』
続けて、
『店長さん、絶対なんか昔ありますよね!?』
さらに、
『ネタバレ禁止でお願いします!!』
「聞いといて禁止なのかよ」
春樹は笑う。
『あるかないかも含めて言わない。最後まで読め』
返信する。
すぐに既読がつき、
『鬼!!』
と返ってきた。
『自分でネタバレ禁止って言っただろ』
『そうでした!!』
相変わらず勢いがある。
春樹が笑っていると、さらにメッセージが届いた。
『でもこれ読みやすいです! 前だったら三百ページって見ただけで無理って思ってました!』
春樹は少し嬉しくなる。
ひよりへこの本を選んだ理由の一つが、それだった。
厚さへの苦手意識を少しだけ崩せる本。
文章が軽く、会話が多く、章も短い。
ページ数だけ見ればひよりが避けそうだが、読み始めれば進めやすい。
『じゃあ選んだ意味あったな』
『ありました!』
『読了したら感想聞かせて』
『もちろんです!』
春樹はスマートフォンを置こうとして、真実からのメッセージも来ていることに気づいた。
内容は短い。
『七瀬先輩、本当に急がなくて大丈夫ですからね』
午前中の返信を気にしたのだろうか。
春樹は少し考える。
真実へ次に薦める本。
以前までの読書傾向を思い返す。
長すぎるものは避ける必要はない。
恋愛も読める。
ただ、真実は登場人物の感情が丁寧に積み重なる話の方が合いそうだ。
(候補、二冊くらいあるな)
一冊は、兄妹とその友人たちを描いた青春小説。
もう一冊は、同じ委員会になった高校生二人が一年かけて少しずつ距離を縮める恋愛小説。
後者の方が今の真実には合いそうだが、以前読んだ本と少し方向が近い。
(違うの挟んでもいいか)
選択肢を広げる。
気づけば数分、本棚を眺めながら真実のことを考えていた。
そこで春樹はふと止まる。
「……本当に増えたな」
本を見て、人を考える時間。
昨日までにも分かっていたことだが、休日に一人でいると余計にはっきりする。
栞。
ひより。
真実。
怜華。
雫。
桐谷。
それぞれ好みが違う。
選ぶ本も変わる。
同じ一冊を渡して終わりではない。
(だから面白いのか)
春樹は少し納得した。
自分一人では選ばない本まで候補に入る。
相手の感想を聞けば、自分が気づかなかった読み方を知ることもある。
それはもう、読書とは別の邪魔な予定ではなかった。
春樹自身の読書生活の一部になり始めている。
◇◇◇
夜。
夕食と風呂を済ませた春樹は、再び自室で雫の本を開いていた。
残りは多くない。
物語の中では、離れていた二人が長期休暇で地元へ戻り、数か月ぶりに再会している。
駅前。
以前なら何度も一緒に歩いた場所。
久しぶりに会った二人は、最初だけ少しぎこちない。
けれど数分話せば、昔の距離へ戻る。
主人公は安心する。
同時に、以前とは違う感覚にも気づき始める。
女友達が少し髪を伸ばしていた。
服装が変わっていた。
話し方そのものは同じなのに、自分の知らない時間を過ごしてきたことが分かる。
そこで初めて、主人公は「昔と同じ」だけではいられないのかもしれないと考える。
春樹はページをめくる手をゆっくりにした。
(こういう変化、いいな)
急に恋へ落ちるのではない。
もともとあった関係を失わず、その上へ別の感情が重なっていく。
春樹が以前から好んでいるタイプの恋愛描写だった。
そして、その物語を選んだのが雫である。
(やっぱり好み変わってきてる)
春樹は少し嬉しくなる。
自分が薦めた本を読んで、雫がこういう関係性を面白いと思うようになったのなら、薦めた側としてはかなり嬉しい。
物語は終盤へ入る。
二人はまだ告白しない。
けれど、離れていた時間を経て、互いが日常の中でどれだけ大きな存在だったのかを少しずつ認めていく。
主人公が最後に言う。
次に帰ってくる日が決まったら、今度は先に教えてほしい。
理由は言わない。
女友達も聞かない。
ただ、「分かった」と笑う。
そこで物語は終わった。
春樹は最後のページを見たまま、しばらく動かなかった。
「……ここで終わるのか」
告白はない。
付き合わない。
それでも、二人がこれからどうなるのかは分かる。
全部を説明しない。
最後の一歩を読者へ預ける。
(好きだな、これ)
春樹は本を閉じた。
雫がなぜこれを選んだのか、明日――ではなく月曜に聞いてみたい。
いや、メッセージで聞いてもいい。
春樹はスマートフォンを手に取る。
時刻は午後九時を少し過ぎたところだった。
遅すぎる時間ではない。
『読み終わった』
送る。
既読がつくまで十秒もかからなかった。
『早くない!?』
『面白かったから』
返信すると、少し間が空く。
『本当に?』
『うん。かなり好き』
また間が空いた。
今度は少し長い。
春樹はその間に本の表紙を見る。
やがて返信が届いた。
『よかった』
たった四文字。
けれど、その文字を見た瞬間、春樹の頭には本屋で本を選んでいた雫の顔が浮かんだ。
嬉しそうに笑っている気がした。
『特に最後よかった。告白までやらないのがいい』
『春樹、そういうの好きだもんね』
『雫もそこ狙って選んだ?』
既読。
少し間。
『半分くらい』
『残り半分は?』
今度はさらに長い。
春樹は首を傾げる。
数十秒して、返信が来た。
『秘密』
「また秘密かよ」
春樹は笑った。
◇◇◇
自室のベッドで、雫はスマートフォンを胸元へ抱えていた。
春樹から届いた「かなり好き」という文章を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。
本の話だと分かっている。
分かっているのに、文字だけを先に見てしまった。
(びっくりした……)
雫はゆっくり息を吐く。
春樹が本を気に入ってくれたことは素直に嬉しい。
自分が一時間近く迷って選んだ本。
春樹に読んでほしいと思った本。
それを面白いと言ってくれた。
だからこそ、「なぜ選んだのか」と聞かれたときに全部は答えられなかった。
物語の関係性が春樹の好みに合いそうだった。
それが半分。
残り半分。
(私が、気になったから)
長く一緒にいた相手を、今までとは少し違う目で見る。
離れて初めて、その人が日常の中でどれほど大きかったか気づく。
そこまで自分たちと同じではない。
春樹と離れたわけでもない。
けれど、「昔から知っているからこそ、自分の気持ちに気づきにくい」という部分が、どうしても気になった。
それを春樹へ説明する勇気はまだない。
(だって私だって、まだ分かってないし)
以前より春樹を見る。
春樹がほかの女の子と話していると少し気になる。
二人で本屋へ行くのが楽しみだった。
次の約束ができて嬉しかった。
自分が選んだ本を春樹が気に入ってくれて、こんなに嬉しい。
ここまで並べれば、物語の中なら答えは分かりやすいのかもしれない。
春樹ならきっと、「このヒロイン絶対主人公好きだろ」と言うだろう。
(……人のことなら分かるんだよね、春樹)
雫は小さく笑った。
そして、自分も同じなのだと気づく。
他人の恋なら分かる。
自分のことになると、途端に怖くなる。
もし答えを出してしまったら、今までと同じではいられない気がする。
幼馴染という関係は、あまりにも長い。
失いたくない。
だから急がなくていい。
少なくとも今は、春樹と一緒にいる時間が楽しい。
その気持ちだけ大切にすればいい。
スマートフォンが震える。
『じゃあ残り半分は今度聞く』
春樹からだった。
雫は目を見開く。
「……今度?」
諦めていないらしい。
思わず笑う。
『忘れてなかったらね』
送る。
すぐに、
『覚えとく』
と返ってきた。
(本のことだから、本当に覚えてそう)
困る。
でも、少し嬉しい。
『感想、月曜にも聞かせて』
『今日結構送ったけど?』
『文字じゃなくて聞きたい』
送信したあと、雫は自分で少し恥ずかしくなった。
取り消そうか迷っている間に既読がつく。
もう遅い。
春樹から返信が届いた。
『いいよ。俺も話したい』
雫は画面を見つめた。
頬が少し熱くなる。
「……ずるいなあ」
本人には、きっと何の自覚もない。
だから余計に困る。
それでも雫は、そのメッセージを見ながらしばらく笑っていた。
◇◇◇
一方の春樹は、自分が雫を困らせているなどとは考えていなかった。
単純に本の感想を話したい。
メッセージでも話せるが、対面なら細かいところまで話せる。
それだけだ。
(最後の駅の場面とか聞きたいな)
雫がどこを一番好きだったのか。
なぜこの本を選んだのか。
自分と同じ場面を気に入ったのか。
話したいことはいくつもある。
春樹は本を机へ置き、次に自分で買った図書館の青春小説へ手を伸ばしかけた。
そこで止まる。
「……さすがに今日は読みすぎか?」
朝から短編集。
雫と本屋。
帰って短編集。
雫の本を一冊読了。
さらにここから新しい一冊を始めようとしている。
(でもまだ十時前だし)
明日は日曜日。
問題ない。
そう結論づけかけたところで、スマートフォンが震えた。
今度は怜華だった。
『七瀬君。まさか交流会が終わった瞬間、私との約束を忘れていないでしょうね?』
「忘れてないって昨日返しただろ……」
春樹は苦笑する。
『覚えてます』
『候補は?』
即座に返ってくる。
「早いな」
春樹は少し考えた。
怜華の好みは覚えている。
ミステリー。
恋愛。
歴史。
救いがない話は苦手。
人間関係のずれや、言葉にしきれないものは好き。
前回は、同じ町を舞台にした連作短編形式のミステリーを選んだ。
次は少し方向を変えたい。
『まだ絞ってません。前と違う方向にしようと思ってます』
『へえ。楽しみ』
『急ぎます?』
『いいえ。急がせて適当に選ばれる方が嫌だもの』
怜華らしい返答だった。
『ちゃんと考えます』
『期待してるわ』
そこで終わると思ったが、もう一通届く。
『それと、今日西条さんと本屋に行ったでしょう?』
春樹の指が止まった。
「何で知ってるんだ?」
『何で知ってるんですか』
『秘密』
「秘密流行ってんの?」
今日だけで何度聞いただろう。
実際には駅前で見かけた知り合いから聞いた程度かもしれないが、怜華の場合は妙に意味ありげに言うので困る。
『行きましたけど』
『楽しかった?』
春樹は質問の意図が分からない。
しかし答えは簡単だった。
『楽しかったです』
少しして、
『そう。ならよかった』
と返ってくる。
それだけだった。
(何だったんだ?)
春樹は首を傾げる。
◇◇◇
同じ頃、怜華は自宅の机でスマートフォンを見ながら、小さく笑っていた。
「本当に普通に答えるのね」
昼過ぎ、同じ学校の生徒から駅前で七瀬と西条を見たという話を偶然聞いただけだった。
以前なら、少しからかって終わっただろう。
今もからかいたい気持ちはある。
けれど、それだけではない。
(楽しかった、か)
春樹は誰かと出かけたことを隠すような性格ではない。
雫が幼馴染なのも知っている。
だから二人で本屋へ行くこと自体は不思議ではなかった。
それでも、なぜか少し気になった。
「私も人のこと言えないわね」
怜華は自嘲するように笑う。
春樹が自分のために次の本を選んでくれることを、思っていた以上に楽しみにしている。
前回の本を選ぶために、春樹は自分の読書傾向を細かく聞いた。
そして、自分でも気づいていなかった部分まで見て選んだ。
完璧な生徒会長としてではなく、一人の読者として扱われた。
それが嬉しかった。
(次は何を選ぶのかしら)
その興味が本だけへ向いているのか。
選ぶ春樹本人にも向いているのか。
まだ答えを出す必要はない。
怜華はスマートフォンを伏せ、机の上の資料へ戻った。
口元には、しばらく小さな笑みが残っていた。
◇◇◇
日曜日。
春樹が目を覚ましたのは、いつもより少し遅い時間だった。
脚の重さは昨日よりかなり軽くなっている。階段を下りても痛みはなく、これなら月曜日にはほとんど気にならなくなりそうだった。
朝食を済ませ、自室へ戻る。
昨日買った図書館の青春小説を開こうとしたところで、春樹は本棚の前へ立った。
(新海の候補、決めるか)
急がなくていいと言われている。
だからこそ、時間があるうちに考えておきたい。
真実がこれまで読んだ本。
感想。
好きだと言った部分。
苦手そうだった要素。
頭の中で整理しながら本棚を見る。
数冊を抜き出し、机へ並べた。
一冊目は、同じ委員会になった高校生二人が一年かけて距離を縮める恋愛小説。
二冊目は、兄妹とその友人たちを描いた青春群像。
三冊目は、進路に迷う高校生たちが文化祭準備を通じて少しずつ互いを知る物語。
「……三冊目かな」
恋愛要素は薄い。
その代わり、人を見る話だ。
真実は以前、自分が思っていた春樹と実際の春樹が違ったという話をしていた。
人を一面だけで判断しない物語なら、何か感じるかもしれない。
(いや、それで選ぶと俺との話に寄せすぎか?)
春樹は腕を組む。
自分との関係を基準に本を選ぶ必要はない。
真実本人が楽しめることが最優先だ。
もう一度考える。
「……二冊まで絞って本人に聞くか」
それもありだ。
完全に選んで渡すことだけが正解ではない。
春樹は候補二冊を机の端へ置いた。
次に怜華。
さらに桐谷。
考える相手はまだいる。
「本当に図書委員みたいになってきたな、俺」
自分で言って笑う。
ただ、嫌ではない。
むしろ楽しい。
◇◇◇
週末が終わり、月曜日。
春樹が教室へ入ると、金曜日までとは少し違う空気があった。
交流会という大きな行事が終わり、机の配置も完全に元へ戻っている。黒板の端に残っていた競技予定も消され、教室はいつもの授業前の姿へ戻っていた。
ただし、生徒たちの会話にはまだ交流会の名残がある。
「七瀬、おはよ」
「おはよう」
杉浦が近づいてくる。
「脚どう?」
「もうほぼ大丈夫」
「俺、筋肉痛やばい」
「普段使ってないからだろ」
「お前も帰宅部だろ!」
「元サッカー部」
「ずるい!」
何がずるいのか分からない。
そこへ高木も来る。
「七瀬、次の体育サッカーだったらまた教えて」
「いいよ」
「マジ?」
「俺が本読んでない時間なら」
「条件つくのかよ」
「当然」
春樹が答えると、杉浦が笑った。
「交流会終わってもそこは変わんねえな」
「何で変わると思ったんだよ」
「監督として目覚めたかと」
「目覚めてない」
「代表は?」
「終わった」
「連絡係」
「それも終わった!」
教室に笑いが起きる。
春樹も笑いながら自分の席へ向かった。
鞄を置き、椅子を引く。
隣の席には、まだ雫がいない。
(珍しいな)
遅刻するような時間ではない。
春樹は気にせず鞄から本を取り出した。
昨日読み始めた図書館の青春小説。
開こうとしたところで、教室の後ろの扉が開く。
「おはよー」
雫の声。
春樹は反射的に顔を上げた。
雫と目が合う。
「あ、おはよ」
「おはよう」
それだけ。
いつもと変わらない。
雫は友人へ挨拶しながら自分の席へ向かってくる。
春樹は本へ視線を戻そうとする。
けれど、土曜日に読んだ物語が頭をよぎった。
離れたあと、久しぶりに再会した二人。
相手が日常の中にいることを改めて意識する場面。
(いや、二日しか会ってないだけだろ)
そもそも土曜日に会っている。
久しぶりですらない。
春樹は自分で自分に突っ込みながら本を開く。
「春樹」
「ん?」
雫が隣へ座る。
「読んだ?」
何のことかは聞く必要がない。
「読んだ」
「全部?」
「土曜の夜に」
「本当に早いね」
「面白かったから」
雫の表情が少しだけ柔らかくなる。
「そっか」
「感想聞きたいんだろ?」
「うん」
「俺も雫がどこ好きだったか聞きたい」
雫は少し驚いたあと、笑った。
「じゃあ昼休み?」
「図書室?」
「そこまで行く?」
「本の話するなら」
「春樹らしい」
雫は頷く。
「じゃあ昼休み、図書室ね」
「了解」
また一つ、今日の予定が決まった。
春樹は本へ視線を戻す。
けれど、その直前。
「春樹」
「今度は何?」
「土曜日、楽しかった」
雫が前を向いたまま言った。
春樹は少し目を瞬かせる。
「俺も楽しかったよ」
「……うん」
雫はそれだけ言って、自分の鞄を整理し始めた。
春樹は再び本を開く。
数行読む。
ところが、なぜか内容が頭へ入りにくい。
(何だ?)
もう一度同じ行を読む。
今度は入る。
ただ、隣にいる雫の存在をいつもより少しだけ意識している自分に気づいた。
(昨日あの本読んだからだな)
長く一緒にいた相手を、改めて意識する物語。
読後だから引っ張られているだけだ。
春樹はそう考える。
それ以上の意味は探さない。
隣では雫が教科書を机へ入れながら、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
春樹が自分の言葉にどう反応したのか、雫には分からない。
けれど「俺も楽しかった」と返してくれた。
それだけで十分だった。
少なくとも今は。
交流会が終わり、学校はいつもの日常へ戻った。
けれど、その日常の中にいる人たちは、交流会の前とまったく同じではない。
春樹自身も例外ではなかった。
本人はまだ、読んだ本の影響だと思っている。
それでも、幼馴染が選んだ物語を一冊読み終えたことで、今まで当たり前すぎて考えもしなかった存在へ、ほんの少しだけ意識が向き始めていた。




