第41話 幼なじみと本屋に行くだけなのに、どうして前より待ち合わせが気になるんだ?
土曜日の朝、七瀬春樹は目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
昨日一日走り回った影響は、布団から起き上がろうとした瞬間にはっきり分かった。太ももにあった張りは痛みへ変わっていないものの、脚全体に重さが残っており、階段を勢いよく下りるのは避けた方がよさそうだった。
(やっぱり四試合は多かったな)
中学時代なら、もう少し平気だったかもしれない。
高校へ入ってから本格的なサッカーを続けていない以上、昔と同じ感覚で身体が動くと思わない方がいい。昨日も途中で休んだから最後まで動けただけで、無理をしていたら今日の状態はもっと悪かっただろう。
春樹はベッドの端へ腰掛け、脚を軽く動かして状態を確かめた。違和感はあるが、普通に歩くぶんには問題ない。
そこで昨夜の凛の言葉を思い出す。
(九条に言われた通り冷やしといてよかったかも)
本人に言えば、「だから言ったでしょう」と少し得意そうな顔をされそうなので、わざわざ報告するつもりはない。
時計を見ると八時を少し過ぎている。
雫との待ち合わせは午前十時。
駅前の本屋なら、家を出るのは九時半より少し前で十分だった。
(まだ一時間以上読める)
そう判断した春樹は、洗面所へ向かう前に机の上へ置いてあった短編集へ目を向けた。
昨夜、栞から薦められた短編集の四つ目を読み終えている。主人公がようやく自分へ向けられていた感情を認めるまでの話で、途中までは「さすがに鈍すぎる」と思っていたものの、最後まで読むと印象が少し変わった。
気づいていなかったのではない。
気づいたあとに関係が変わることを怖がっていたから、気づいていないことにしていた。
その部分まで含めれば、春樹にも理解できる。
(分かってるのに認めないなら、まあ……あるのかもな)
自分には経験がないので、本当のところは分からない。
それでも物語としては面白かった。
五つ目へ進みたいところだったが、先に顔を洗って朝食を済ませなければならない。
春樹は名残惜しそうに本から視線を外し、部屋を出た。
◇◇◇
九時二十五分。
家を出た春樹は、駅前へ向かって歩いていた。
十月に入り、朝の空気には夏の名残より秋らしい涼しさの方が強くなっている。昨日は運動をしていたため暑く感じたが、今日は薄手の長袖でちょうどいい。
もちろん、歩きながら本は読んでいない。
以前なら移動時間すら惜しく感じていたが、凛から注意されて以降、その習慣は完全にやめている。好きなことと危険なことは別だと理解してしまえば、続ける理由もなかった。
その代わり、少し早めに家を出た。
駅前へ着いてから待ち時間ができれば、安全な場所で読める。
(完璧だな)
自分の計画に満足しながら歩く。
待ち合わせ場所へ着いたのは九時四十三分だった。
駅前の時計を確認してから、春樹は少しだけ考える。
「十七分」
十分以上ある。
春樹は駅前広場の端にあるベンチへ向かい、腰を下ろして鞄から短編集を取り出した。
五つ目の物語を開く。
冒頭は、長年続いていた商店を閉める老夫婦の話らしい。
(恋愛だけじゃないんだよな、この短編集)
栞が薦めてきた理由も少し分かる。
人間関係そのものを描いた話が多い。
春樹が数ページ読み進めたところで、視界の端に人影が止まった。
気づいて顔を上げる。
「……何してんの?」
西条雫が立っていた。
「読書」
「それは見れば分かる」
雫は呆れたように言いながら、スマートフォンで時刻を確認した。
「まだ十分前なんだけど」
「俺はもっと前からいる」
「何時に来たの?」
「九時四十三分」
「早すぎない?」
「読書時間確保のため」
「やっぱりそれなんだ……」
雫は肩を落とした。
春樹は栞を挟んで本を閉じる。
「雫も早いじゃん」
「私は……」
雫の言葉が少し止まった。
約束は十時。
自分が駅前へ着いたのは九時四十九分。
十一分前。
普段なら、ここまで早く来る必要はない。
(別に、楽しみで早く来たわけじゃないし)
そう考えた瞬間、自分で自分に言い訳しているような気がして、雫は少し困った。
昨日の帰り道から、今日の予定を何度か思い出していた。
どの本を選ぼうか。
何を着ていこうか。
春樹は本当に覚えているだろうか。
寝坊しないだろうか。
考えるたびに少し楽しみになって、結局予定より早く家を出た。
そこまで自覚してしまっている以上、「たまたま早く着いた」では自分自身すら納得できない。
「……遅れるよりいいでしょ」
雫は結局、それだけ答えた。
「それはそう」
春樹は深く追及しない。
雫は少し安心しながら、同時にほんの少しだけ不満を覚える。
(聞かれたら困るくせに、聞かれないとそれはそれで何か……)
自分でも面倒だと思う。
「どうした?」
「何でもない」
「昨日からそれ多くない?」
「春樹がいちいち気にしすぎなの」
「顔に出てるんじゃない?」
「春樹にだけは言われたくない」
「何で?」
「そういうところ」
春樹はやはり意味が分からないらしく、首を傾げた。
雫はそれを見て、小さく息を吐く。
今日もいつもの春樹だった。
それが少し安心する。
「それで、行く?」
「まだ十時じゃないけど」
「二人ともいるのに時間まで待つ意味ある?」
「ないな」
春樹は立ち上がった。
「じゃあ行こう」
「うん」
二人は並んで歩き始めた。
駅前の書店までは、ここから数分。
前にも一緒に歩いた道だった。
けれど雫には、前回とは少しだけ違って感じられた。
◇◇◇
自動ドアが開くと、紙とインクが混ざった書店独特の匂いが二人を迎えた。
春樹の表情が分かりやすく緩む。
「やっぱ本屋いいな」
「入って三秒でそれ言う?」
「いいものはいい」
「春樹って本屋入るとちょっと機嫌よくなるよね」
「普通だろ」
「普通ではないと思う」
土曜の午前ということもあり、店内にはそれなりに客がいる。雑誌売り場には立ち読みをする人が並び、児童書の辺りでは親子連れが本を選んでいた。
春樹は自然に新刊台へ目を向ける。
しかし、そのまま歩き出そうとして止まった。
「今日は雫の本だった」
「忘れないでよ」
「今思い出したから大丈夫」
「それ忘れてたって言わない?」
「本屋入ったら新刊見るのは反射だから」
「犬みたいに言わないで」
「誰が犬だよ」
「自分で反射って言ったんでしょ」
雫は笑いながら、春樹の少し前を歩く。
「で、どうする?」
「何が?」
「本。自分用にするか、俺に読ませるやつにするか」
昨日の帰り道で話したことを、春樹はきちんと覚えていた。
雫は少し嬉しくなる。
「まだ決めてない」
「じゃあ見ながら決める?」
「うん」
「了解」
春樹はいつものように先導しなかった。
普段なら自分が本を探すときは迷いなく目的の棚へ向かうし、誰かへ本を薦めるときも候補を絞りながら歩く。
今日は雫が選ぶ側だ。
だから春樹は半歩後ろからついてくる。
(こういうところなんだよね)
雫は少しだけ振り返る。
「何?」
「別に」
「また?」
「いいから」
春樹は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
雫はまず恋愛小説の棚へ向かった。
春樹から薦められた三冊を読んでから、以前よりこの棚を見ることが増えている。昔なら表紙とあらすじだけで何となく選んでいたが、今は少し違う。
関係がどう変化するのか。
なぜ相手を好きになるのか。
登場人物同士がどれくらいの時間を一緒に過ごすのか。
そういう部分が気になるようになった。
それが春樹との読書会話の影響なのか、自分自身の変化なのかは分からない。
「雫、これ前に気になってるって言ってなかった?」
横から春樹が一冊を指す。
「覚えてたの?」
「前来たとき見てたじゃん」
「見てただけだよ?」
「裏まで読んでたから」
雫は言葉を止めた。
確かに前回、この本を手に取った。
ただ、買うほどではないと思って戻した。
自分ですら忘れかけていたことを、春樹は覚えている。
「……そういうの覚えてるんだ」
「本のことだから」
「はいはい」
「何で呆れるんだよ」
「別に」
春樹にとっては、本に関係する情報だから覚えていただけなのだろう。
分かっている。
それでも嬉しい。
(本のことだから、か)
以前なら、その一言で終わっていた。
今は少しだけ、その先を考えてしまう。
春樹は誰にでも同じように覚えているのだろうか。
真実の好みも。
栞の好みも。
ひよりの好みも。
怜華の好みも。
きっと覚えている。
それを考えると胸の奥が少しだけ落ち着かなくなるが、昨日までの雫なら、その感覚を慌てて否定していた。
今日は違う。
(気になるんだから、仕方ないよね)
それが恋なのかはまだ分からない。
ただ、春樹がほかの女の子のことを自分と同じように覚えていると、少し気になる。
そこまでは認めてもいいと思えるようになった。
「雫?」
「ん?」
「その本、買う?」
「ううん。今日は違うの探す」
「了解」
雫は本を棚へ戻した。
◇◇◇
三十分ほど経った。
春樹は驚くほど口を出さなかった。
雫が本を手に取ればあらすじを横から覗くことはあるが、「それがいい」「こっちの方がいい」とは言わない。
最初の十分はありがたかった。
二十分を過ぎた頃から、雫は少し気になり始めた。
「ねえ」
「何?」
「暇?」
「全然」
春樹は近くの棚から取った新刊の帯を読んでいる。
「むしろ楽しい」
「私の本選びなのに?」
「本屋だからな」
「それだけ?」
「あと、雫が何選ぶか見るのも面白い」
春樹は何気なく言った。
雫の指が、手にしていた本の背表紙で止まる。
「……何で?」
「普段は俺が選んでただろ。逆だとどうなるのかなって」
「私が春樹用を選ぶって決めたわけじゃないけど」
「自分用でも、今の雫が何選ぶかは気になる」
「今の私?」
「前より読むようになったし、好みも分かってきたじゃん」
春樹はそこで本を棚へ戻した。
「前なら、たぶん分かりやすく甘いやつか、表紙で気になったの選んでたと思う。でも今は結構あらすじ見て、登場人物の関係とか確認してるだろ」
雫は何も言えなかった。
見られている。
春樹は、自分が思っていた以上にこちらを見ている。
「……春樹ってさ」
「うん?」
「そういうの、ほかの子にも言う?」
「何が?」
「よく見てるよねって話」
春樹は少し考える。
「本選ぶ相手なら見るけど」
「そっか」
「でも雫は長いから分かりやすい」
さらりと言われる。
胸の奥が跳ねた。
「長いって?」
「付き合いが。小さい頃から知ってるし」
「……そっちね」
「ほかに何があるんだよ」
「何でもない」
雫は棚へ視線を戻した。
(分かってた。絶対そっちだって分かってたのに)
少し期待した自分が恥ずかしい。
ただ、その恥ずかしさまで以前とは違っている。
雫は自分の頬が熱くなっていないことを願いながら、本を探し続けた。
◇◇◇
「これ、どう思う?」
さらに十五分ほど経った頃、雫が一冊の文庫本を差し出した。
春樹は受け取らず、まず表紙を見る。
「俺が読んだことあるかって意味?」
「違う。面白そう?」
「それ聞いたら俺の好みで選ぶことにならない?」
「……確かに」
「雫が選ぶんだろ?」
「そうだけど」
雫は本を胸元へ戻す。
春樹は少し笑った。
「悩んでる?」
「結構」
「そんなに真剣に選ばなくてもいいぞ」
「春樹がそれ言う?」
「何で?」
「人に本選ぶとき、めちゃくちゃ考えてるじゃん」
「それは外したくないから」
「私だって外したくないの」
「自分用なのに?」
春樹が首を傾げる。
雫は一瞬黙ったあと、観念したように息を吐いた。
「春樹に読ませるやつにする」
「決めた?」
「うん」
その瞬間、春樹の目が少し輝いた。
「おお」
「何、その反応」
「いや、楽しみになってきた」
「プレッシャーかけないでよ」
「俺が選ぶとき、みんなこんな気分なのかな」
「たぶんね」
「なるほど」
春樹は妙に納得している。
雫は手にしている本へ視線を落とした。
現代青春恋愛小説。
高校時代から長く友人だった男女が、大学進学をきっかけに別々の場所へ進み、離れて初めて互いの存在について考え直していく物語らしい。
あらすじを読んだ瞬間、少し気になった。
けれど同時に、春樹へ渡すには意識しすぎているような気もした。
(幼馴染じゃない。友達だし、離れる話だし、私たちとは全然違う)
自分へ言い聞かせる。
それでも「長く一緒にいた相手を、離れてから違う目で見る」という部分が胸へ残っている。
春樹なら、どう読むのだろう。
物語として何を面白いと思うのか。
主人公たちの気持ちに、どんな感想を持つのか。
(聞いてみたい)
それが一番大きかった。
「決まった?」
春樹が尋ねる。
「……これにする」
「見せて」
「まだ駄目」
「何で?」
「買ってから」
「表紙くらいいいだろ」
「駄目」
「俺が金払うんだけど」
「だから何?」
「理不尽」
春樹は笑いながらも、それ以上覗こうとはしなかった。
雫は本を裏返し、表紙が見えないように持ったままレジへ向かう。
「俺が払うんだから一緒に行くぞ」
「分かってる」
「だったら隠す意味なくない?」
「レジまで我慢して」
「数十秒だろ」
「じゃあ我慢できるでしょ」
「それもそうか」
春樹はあっさり引き下がった。
雫は少し拍子抜けしながらも、笑ってしまう。
◇◇◇
会計を終えると、雫は店員から受け取った紙袋をそのまま春樹へ差し出した。
「はい」
「俺に?」
「春樹に読ませる本なんだから」
「雫が持って帰るんじゃないの?」
「何で?」
「景品だから」
「私の景品は、春樹にこれを読ませること」
「変な景品」
「嫌なら返して」
「嫌とは言ってない」
春樹は紙袋を受け取る。
中から本を取り出した。
表紙を見て、タイトルを確認する。
「『君がいない街で、君のことを考えた』」
「……うん」
「青春恋愛?」
「たぶん」
「たぶんで選んだの?」
「ちゃんとあらすじ読んだ!」
「じゃあ何でたぶんなんだよ」
「まだ読んでないから!」
雫は少し恥ずかしそうに言う。
春樹は裏表紙のあらすじへ目を落とした。
高校時代、いつも一緒にいた男女。
恋人ではない。
互いに特別だとも思っていなかった。
卒業後、それぞれ違う土地へ進み、離れてから初めて日常に相手がいた意味を考え始める。
「へえ」
春樹の反応に、雫は無意識に緊張する。
「どう?」
「面白そう」
「本当?」
「うん。こういう、離れてから関係見直すやつ結構好き」
「……そっか」
「しかも最初から恋愛って自覚してないタイプっぽいな」
「そうみたい」
「いいじゃん」
春樹はもう一度表紙を見る。
「ありがとう」
「私が買ってもらった側なんだけど」
「でも俺が読む本選んでくれたんだろ?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあありがとうでいいだろ」
雫は返事をするまで少し時間がかかった。
「……うん」
自分が選んだ本を、春樹が嬉しそうに見ている。
ただそれだけなのに、思っていた以上に嬉しかった。
(春樹も、いつもこういう気持ちなのかな)
自分が薦めた本を相手が受け取る。
読んでもらえるのを待つ。
感想を聞くのを楽しみにする。
春樹が最近何人もの相手へ本を選んでいる理由が、少し分かった気がした。
「いつ読む?」
「今日」
「早っ」
「読みかけ終わったら」
「読みかけあるんだ」
「白石先輩に薦めてもらった短編集」
名前を聞いた瞬間、雫の胸がわずかに反応した。
以前なら、その感覚をすぐ押し込めていただろう。
今は少しだけ考える。
(また気になった)
栞から薦められた本。
栞と春樹の間にある、自分とは違う読書の関係。
それを嫌だと思うわけではない。
栞のことも嫌いではない。
むしろ話しやすい先輩だと思っている。
それでも、気になるものは気になる。
「白石先輩の本、面白い?」
「今のところかなり。五つ目読んでる」
「そっか」
「雫のもそのあと読む」
「別に急がなくていいよ」
「俺が早く読みたい」
春樹は何気なく言った。
雫はまた言葉を失う。
「……そういうこと普通に言うよね、春樹」
「何が?」
「何でもない」
「またそれ?」
「いいの」
雫は笑った。
今の一言を、春樹が特別な意味で言っていないことくらい分かっている。
それでも嬉しいものは嬉しい。
以前より、自分の気持ちを少しだけ素直に受け止められるようになっていた。
◇◇◇
本を買い終えたあとも、二人はすぐ店を出なかった。
「春樹も見る?」
「いいの?」
「何で私の許可取るの?」
「今日は雫の買い物だったから」
「もう終わったし。好きに見れば?」
「じゃあ新刊」
「やっぱりそこなんだ」
春樹の足取りが明らかに軽くなる。
雫は笑いながら後を追った。
新刊台へ着くと、春樹は先ほど入口で見かけた本を手に取る。
「これ気になってたんだよな」
「どんなの?」
「恋愛ミステリー。主人公に毎週差出人不明の手紙が届くんだけど、その内容が未来の出来事っぽい」
「恋愛なの?」
「たぶん途中から」
「春樹、そういうのも読むよね」
「面白ければ何でも読む」
春樹はあらすじを読みながら、隣の本にも目を向ける。
雫はそんな姿を横から眺めた。
昔から知っている。
本屋へ来ると楽しそうにすることも知っている。
欲しい本が複数あると、その場で何分でも悩むことも知っている。
それなのに最近は、同じ姿を見ても少し違って見える。
(私が変わったのかな)
以前にも思ったことだ。
春樹そのものが急に変わったわけではない。
サッカーをすれば昔と同じように周囲を見て動くし、本屋へ来れば昔と同じように目を輝かせる。
変わったのは、自分がそれをどう見るか。
以前なら「また本のことばっかり」と呆れていた。
今も呆れることはある。
でも同時に、楽しそうな春樹を見るのが好きだと思う。
その「好き」が何を意味するのかは、まだ決めなくていい。
ただ、昨日までより少しだけ、その言葉を怖がらなくなった。
「雫」
「ん?」
「これとこれならどっちがいいと思う?」
春樹が二冊を持っている。
「私に聞くの?」
「うん」
「珍しい」
「せっかくだし」
差し出された二冊を受け取る。
一冊は先ほどの恋愛ミステリー。
もう一冊は、地方の小さな図書館を舞台にした青春小説だった。
「春樹なら両方買うんじゃない?」
「今月もう結構買ってる」
「じゃあ我慢しなよ」
「一冊は買う」
「そこは確定なんだ」
「本屋まで来て何も買わずに帰れると思う?」
「思わない」
雫は二冊のあらすじを読む。
以前なら、春樹の本選びへここまで真剣に付き合わなかったかもしれない。
けれど今日は、自分が春樹へ一冊選んだ直後だ。
「こっち」
雫は図書館の青春小説を差し出した。
「理由は?」
「今の春樹なら、こっちの方が面白いんじゃない?」
「今の俺?」
「人に本選んだり、感想聞いたりするの楽しいんでしょ?」
「まあ」
「これ、あらすじ見ると図書館に集まる人たちの話じゃん。前の春樹なら一人で読む側に一番共感したかもしれないけど、今ならほかの人のところも面白いんじゃないかなって」
春樹が黙る。
雫は急に不安になる。
「何?」
「いや」
春樹は図書館の本を見る。
「それ、俺も考えてなかった」
「え?」
「雫、ちゃんと俺の本選んでるじゃん」
「ちゃんとって何よ」
「いや、すごいなと思って」
「……何それ」
「褒めてる」
春樹は素直に笑った。
雫は視線を逸らす。
「じゃあ、それにすれば」
「うん。こっち買う」
「即決?」
「理由聞いたら読みたくなった」
「そっか」
胸の奥が温かくなる。
自分が選んだ理由で、春樹が一冊を決めた。
それが思った以上に嬉しい。
「でも今日二冊読む本増えたな」
「一冊は私が選んだやつだけどね」
「嬉しい悲鳴だな」
「本当に幸せそう」
「幸せだよ」
迷いのない返事だった。
雫は笑う。
「知ってる」
◇◇◇
書店を出た頃には、十一時半を少し過ぎていた。
駅前の人通りは来たときより増えており、昼食へ向かう人や買い物客が行き交っている。
春樹は紙袋を二つ持っていた。
一つは自分で買った図書館の青春小説。
もう一つは、雫が選び、春樹が代金を払った『君がいない街で、君のことを考えた』。
「変な状態だな」
春樹が紙袋を見る。
「何が?」
「俺が金払って、雫が選んで、俺が読む」
「私が勝った景品だからいいの」
「雫に物が残ってないけど」
「残るよ」
「何が?」
「感想」
雫は少し照れながら答える。
「春樹が読んだら、ちゃんと感想聞かせて」
春樹は一瞬だけ目を丸くした。
それから笑う。
「それ、いつも俺が言ってるやつじゃん」
「だから言ってみたかったの」
「なるほど」
「適当に読まないでよ?」
「本を適当に読むわけないだろ」
「それもそうか」
二人で笑う。
そのとき、春樹のスマートフォンが震えた。
「誰?」
「確認する」
立ち止まって画面を見る。
真実からだった。
『昨日お願いした本のことなんですけど、急がなくて大丈夫ですからね。七瀬先輩、昨日かなり疲れてたと思うので』
春樹は少し笑う。
「新海」
「真実ちゃん?」
「昨日頼まれた本、急がなくていいって」
「次のおすすめ?」
「うん」
雫の胸がほんの少しだけざわつく。
ただ、昨日までとは違う。
真実が春樹へ本を頼んでいることは知っている。
春樹が真実のために本を考えることも知っている。
それと、今日自分と春樹が一緒に本を選んだ時間は別だ。
(同じじゃなくていいんだよね)
以前、似たようなことを考えた。
誰かに本を薦めるという行動が同じでも、その相手との積み重ねまで同じになるわけではない。
「返さないの?」
「返す」
春樹は、
『大丈夫。脚も痛くないし、今日考える時間あるから。急がず選ぶ』
と送る。
雫は横から画面を覗いたりはしない。
「春樹、楽しそうだね」
「本選ぶの?」
「うん」
「最近結構好き」
「前は自分が読む方が圧倒的だったのに」
「今も自分で読む方が好きだよ」
「そこは変わらないんだ」
「でも選ぶのも別枠で楽しい」
春樹はスマートフォンをしまう。
「雫に選んでもらうのも今日初めてだったし」
「どうだった?」
「楽しかった」
即答だった。
雫の歩みがほんの少しだけ遅くなる。
「……そっか」
「またやってもいいかもな」
「え?」
「俺が雫に選んで、雫が俺に選ぶやつ」
「交換?」
「そう。予算決めて、お互い相手に一冊選ぶとか」
雫は春樹を見る。
本人は完全に読書遊びの提案として話している。
それでも。
「やる」
答えはすぐに出た。
「即答じゃん」
「春樹が言ったんでしょ」
「じゃあ今度な」
「うん。今度」
新しい約束が増えた。
雫はそれだけで少し嬉しくなる。
春樹はきっと、また本に関係する予定が増えた程度にしか思っていない。
それでいい。
今はまだ、それでいいと思えた。
◇◇◇
駅前から少し離れたところで、二人は帰る方向へ分かれる。
「じゃあ、また月曜」
雫が言う。
「うん」
「本、忘れないでよ」
「何を?」
「私が選んだやつ!」
「忘れないって」
「学校に持ってこなくてもいいけど、読むの忘れないでって意味」
「今日読むよ」
「短編集のあとでしょ?」
「そう」
「無理して今日中に読まなくていいからね」
「面白かったらそのまま読むかも」
「じゃあ夜更かししない程度に」
「母親かよ」
「誰のせいよ」
雫は笑う。
春樹も笑いながら手を上げた。
「じゃあな」
「うん。またね」
二人はそれぞれ別の方向へ歩き始める。
数歩進んだところで、雫は一度だけ振り返った。
春樹はもう紙袋の中を確認している。
(歩きながら読まないでしょうね)
以前なら、本気で心配していたかもしれない。
今の春樹はもうしない。
それを知っている。
雫は少し笑って前を向いた。
(楽しかったな)
素直にそう思う。
本を一冊選んだだけ。
本屋を一緒に回っただけ。
特別な場所へ行ったわけでもない。
食事すらしていない。
それでも楽しかった。
(またやるんだ)
今度はお互いに一冊ずつ選ぶ。
その約束を思い出すと、自然に次が楽しみになる。
以前なら、「幼馴染だから」と説明して終わっていた気持ち。
今は、無理に説明しなくてもいいと思える。
まだ答えは分からない。
けれど、自分が春樹との時間を楽しみにしていることだけは、もう否定する必要がなかった。
◇◇◇
家へ戻った春樹は、昼食を済ませると自室へ直行した。
机の上には今日買った二冊。
その隣には読みかけの短編集。
「順番が問題だな」
短編集の五つ目を読み終える。
そのあと雫が選んだ本。
自分で買った図書館の青春小説。
さらに真実へ薦める候補も考えたい。
怜華の次の一冊もある。
桐谷から頼まれている本も忘れてはいない。
(……増えたな)
少し前まで、自分の読書予定は自分が読みたい本だけで構成されていた。
今は違う。
誰かへ渡す本。
誰かから薦められた本。
感想を聞きたい本。
感想を伝えたい本。
誰かと一緒に選ぶ本。
種類が増えている。
それでも窮屈ではない。
(まあ、本だからな)
結局そこへ落ち着く。
春樹はベッドへ腰を下ろし、短編集を開いた。
五つ目の物語を読み進める。
老夫婦が長年続けてきた店を閉めるまでの数日間を描いた話だった。大きな事件は起きないが、毎日来ていた客や、昔働いていた人、近所の子供たちが少しずつ顔を出し、店が誰かの日常の一部だったことが見えてくる。
春樹は途中から読む速度を少し落とした。
(こういうの好きだな)
なくなってから初めて大切だったと気づく話ではない。
なくなる前に、みんながそれぞれの形で大切だったと伝えに来る。
その違いがよかった。
最後まで読み終えると、春樹はしばらく本を閉じなかった。
昨日の交流会が少し頭に浮かぶ。
終わってみれば惜しいと思った。
今日、雫と本屋を歩いた時間もそうだ。
普段なら一人でも楽しめる場所なのに、雫と本を選ぶのも楽しかった。
(最近こういうの増えたな)
誰かといる時間を、以前より自然に楽しんでいる。
別に一人が嫌になったわけではない。
一人で読む時間は今でも必要だ。
ただ、それとは別に楽しいものが増えただけだ。
春樹は短編集を閉じる。
次に手を伸ばしたのは、自分で買った図書館の青春小説ではなかった。
雫が選んだ一冊。
『君がいない街で、君のことを考えた』
表紙を見つめる。
「さて」
雫が何を面白いと思って、この本を選んだのか。
春樹はそこも含めて気になっていた。
ページを開く。
物語は、高校卒業の日から始まった。
主人公の男子は、幼い頃から一緒だった女友達と駅のホームで別れる。
恋人ではない。
告白もしない。
互いに「また連絡する」とだけ言って、別々の土地へ向かう。
春樹は数ページ読み進めたところで、少し笑った。
(これ、雫が選びそうだな)
関係が急に進まない。
長い時間をかけて積み重ねた距離がある。
本人たちはそれを特別だと思っていない。
以前、雫がそういう関係の変化を面白いと言っていたことを思い出す。
だから選んだのだろう。
春樹はそれ以上の意味を考えず、ページをめくった。
物語の中で、離れた二人はそれぞれ新しい生活を始めていく。
新しい友人。
新しい場所。
新しい日常。
それでも何かを見るたび、昔から隣にいた相手を思い出す。
(こういうの、距離できて初めて分かるやつか)
春樹は物語として楽しみながら読み進める。
ふと、自分だったらどうだろうと考えた。
もし雫が突然遠くへ引っ越したら。
学校で隣にいなくなったら。
帰り道でくだらない言い合いをすることもなくなったら。
自分が本を読みすぎていると呆れる声も聞こえなくなったら。
そこまで考えたところで、春樹の指がページの端で止まった。
(……普通に寂しいだろうな)
それは分かる。
幼い頃からずっといる相手なのだから、いなくなれば寂しいに決まっている。
春樹はそう整理し、再びページをめくろうとした。
けれど、なぜか先ほど駅前で別れたときの雫の顔が浮かんだ。
自分が選んだ本の感想を聞かせてほしいと言ったとき。
今度は互いに本を選ぼうと約束したとき。
楽しそうに笑っていた。
(……まあ、雫は雫だしな)
いつもの結論へ戻る。
それで何もおかしくないはずだった。
春樹は本へ視線を戻す。
ただ、少し前までなら物語の登場人物と自分を重ねること自体、ほとんどなかった。
恋愛小説は読むもの。
自分は読者。
その考えは今も変わっていない。
けれど今日は、ほんの一瞬だけ、物語の中にある「ずっと隣にいた相手がいなくなる」という状況を、自分の日常へ置き換えて考えてしまった。
そのことに春樹自身は特別な意味を見いださない。
(雫に感想聞かれるんだし、ちゃんと読もう)
結局、それだけ考えてページをめくる。
窓から入る午後の柔らかな光が、開かれた本の上へ落ちていた。
昨日まで学校中を包んでいた交流会の騒がしさはもうない。
静かな休日。
好きな本。
いつもなら、それだけで十分だった。
今も十分楽しい。
ただ、その本を選んだ相手の顔が、ページをめくるたびに時々浮かぶ。
春樹はまだ、その変化を恋愛とは結びつけない。
雫もまだ、自分の気持ちへ名前をつけてはいない。
それでも二人の間には、今日また一つ新しい約束が増えた。
次は、お互いのために一冊ずつ本を選ぶ。
本を読むことから始まったわけではない幼馴染の関係に、いつの間にか本まで加わっている。
春樹はそんな変化に気づいているようで、その意味には気づかないまま、雫が選んだ物語の続きを読み進めていった。




