第40話 交流会が終わっただけなのに、どうして次の約束が増えてるんだ?
校内放送が流れてからしばらくして、図書室の外を行き交う生徒の数が少しずつ増えてきた。
競技を終えた生徒たちが教室へ戻り始めたのだろう。廊下の向こうから聞こえてくる声には、一日中身体を動かした疲労と、勝敗について語り足りない興奮が混ざっている。
そんな外の賑やかさとは対照的に、図書室の窓際には静かな時間が流れていた。
春樹は栞から薦められた短編集の四つ目を読み進めている。
向かいでは栞が自分の本を開き、隣では雫が春樹から薦められた恋愛小説を読んでいた。
三人とも、少し前までグラウンドにいたとは思えないほど静かだった。
春樹はページをめくる。
物語の中では、主人公がようやく自分へ向けられていた感情について考え始めている。しかし、ここまで来てもなお「自分の勘違いかもしれない」と逃げ道を作っており、そのたびに春樹は心の中で突っ込みたくなった。
(いや、もう無理あるだろ)
わざわざ予定を合わせる。
ほかの人にはしないことをする。
会えるだけで明らかに嬉しそうにする。
それを全部偶然で片づける主人公に、春樹は少し呆れていた。
(こういう主人公って、読者から見ればすぐ分かるのにな)
ただ、その分だけ面白い。
本人だけが気づかないまま周囲の人間関係が少しずつ変化し、読者には「もうそこまで来ている」と分かる。その距離感こそ、春樹が恋愛小説を読むときに好きな部分でもあった。
先ほど栞と雫に「主人公が鈍すぎる」と言ったとき、なぜか二人とも妙な反応をしていた気がするが、その理由までは分からない。
(まあ、作品の好みが違うのかもしれない)
春樹はそう結論づけ、続きを読む。
数ページ進んだところで、予鈴代わりの校内放送が流れた。
『各クラス、帰りのホームルームおよび交流会結果発表を行います。生徒は十五分後までに各教室へ戻ってください』
春樹の視線が本から時計へ移る。
「……十五分」
まだ読める。
そう判断して再び本へ視線を戻した瞬間、隣から呆れた声が飛んできた。
「普通は今ので片づけ始めるんじゃない?」
「十五分あるだろ」
「移動時間は?」
「三分」
「余裕は?」
「二分」
「残り十分を全部読む気?」
「当然」
雫は本を閉じながら、深いため息をついた。
「さっきまでサッカーしてた人とは思えない」
「サッカーしたからって読書できなくなるわけじゃないだろ」
「普通は疲れて休みたくなるの」
「だから読書して休んでる」
「それ言われると思った」
雫は完全に諦めたらしく、椅子の背もたれへ身体を預けた。
栞は二人のやり取りを聞きながら、小さく笑っている。
「でも、七瀬君らしいと思います」
「ですよね?」
「白石先輩、春樹を甘やかさないでください」
「甘やかしてはいません」
「ほら」
「ただ、七瀬君ならそうするだろうなと思っただけです」
「それは褒められてない気がする」
「やっと気づいた?」
雫に笑われ、春樹は少し不満そうな顔をした。
それでも本を閉じる気はない。
栞はそんな春樹を見たあと、自分の手元にある本へ視線を落とした。
今日は、春樹が本を読んでいるところも見た。
サッカーをしているところも見た。
クラスメイトへ声をかけるところも、自分が得点したときより仲間が得点したときの方が嬉しそうにしているところも見た。
どれも違うように見えて、根にあるものは同じだった。
(七瀬君は、相手を見る人なんですね)
本を薦めるときもそうだ。
自分が好きな本を押しつけるのではなく、その人が何を好み、何を苦手とし、どんな物語なら楽しめるのかを考える。
サッカーでも、自分一人で目立つことより、周囲の人が動ける場所を探していた。
本人は、それを特別なことだとは思っていない。
きっとそこも春樹らしい。
「白石先輩?」
呼ばれて、栞は顔を上げる。
「はい?」
「何か俺のこと見てませんでした?」
「……見ていました」
素直に答えられ、今度は春樹が少し困る。
「何で?」
「今日のことを考えていました」
「今日?」
「七瀬君がサッカーをしているところを初めて見たので」
「ああ」
春樹は納得した。
「どうでした?」
「楽しかったです」
「俺のサッカーの感想としてそれでいいんですか?」
「駄目ですか?」
「いや、駄目じゃないですけど」
栞は少し考える。
「それと……安心しました」
「安心?」
「はい」
春樹には意味が分からず、首を傾げる。
「本を読んでいるときの七瀬君と、全然違う人だったらどうしようと思っていたわけではないんですけど」
「そこまで人格変わらないですよ」
「分かっています」
栞は笑った。
「でも、見てみたら同じだったので」
「同じ?」
「周りをよく見ているところが」
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
昨日から似たようなことを何人かに言われている。
自分ではそこまで意識したことがなかった。
「俺、そんなに人見てます?」
「見ていると思います」
「本読んでるときは本しか見てないですけど」
「本を選ぶときは、人を見ていますよ」
栞の返答に、春樹は言葉を止めた。
それなら確かに否定しづらい。
誰かに本を選ぶなら、相手のことを知らなければ選べない。
雫なら何を嫌うか。
栞ならどんな余白を楽しむか。
真実ならどれくらいの重さまで読めるか。
ひよりなら、どんな文章なら入りやすいか。
怜華なら、どの程度の複雑さを面白がるか。
そういうことを考えている時間が、最近はかなり増えている。
「……言われてみれば、そうかも」
春樹が認めると、栞は嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
「何で白石先輩が嬉しそうなんですか?」
「秘密です」
「またそれ?」
「はい」
以前にも同じようなことを言われた気がする。
春樹が理由を考えようとしたところで、隣から雫の声が飛んできた。
「春樹、あと八分」
「やば」
「本当にぎりぎりまで読むつもりだったんだ……」
「白石先輩、続きはまた今度話しましょう」
「はい」
春樹は残り数ページだけ進めようとしたが、雫が無言で時計を指したため、さすがに諦めた。
栞も本を閉じる。
三人は席を立ち、使った椅子を戻した。
図書室を出る直前、春樹は読みかけの短編集を鞄へしまいながら振り返った。
「結局、四つ目終わらなかったな」
「帰ってから読めば?」
「もちろん読む」
「聞くまでもなかった」
雫が笑う。
栞も小さく笑いながら、二人と一緒に図書室を出た。
◇◇◇
二年三組へ戻ると、教室の中は朝とは比べものにならないほど騒がしかった。
自分たちの競技結果を話す者。
別の競技を見に行っていた者。
写真を見せ合う者。
勝った負けたと騒ぐ者。
一日中別々の場所へ散っていたクラスメイトたちが再び集まり、それぞれが持ち帰った出来事を一斉に話している。
「七瀬!」
席へ向かおうとした春樹へ、杉浦が声を飛ばした。
「何?」
「こっち来い!」
「嫌な予感しかしない」
「いいから!」
杉浦の周囲には山岸、高木、藤原、それ以外のサッカー参加者も集まっていた。
春樹が近づくと、山岸が机を軽く叩く。
「反省会!」
「今やるの?」
「反省じゃねえな。勝ったから祝勝会?」
「教室で?」
「気分だけ」
「じゃあ俺いなくてもよくない?」
「代表がいなくてどうすんだよ」
「連絡係」
「まだ言ってる!」
今日何度目か分からないやり取りに、周囲から笑いが起きた。
春樹ももう本気で訂正する気はなく、空いている机へ腰を預ける。
「で、何するんだよ」
「とりあえず今日のサッカー、二勝一分け?」
杉浦が指を折る。
「違う」
春樹が即座に訂正する。
「最初の二組に二対一で勝ち。二試合目の五組も二対一で勝ち。三試合目の一組が一対一の引き分け。最後の二組との再戦が二対一で勝ち」
「三勝一分け?」
「そう」
「普通に強くね?」
山岸が驚く。
「今気づいたの?」
「試合ごとに必死だったから数えてなかった」
「俺も」
高木が頷く。
「最初、絶対全部負けると思ってた」
「そこまで?」
春樹が笑う。
「だって俺、まともにサッカーしたことなかったし」
「最後普通に一人かわしかけてたじゃん」
「あれ、俺もびっくりした」
「本人が一番驚いてどうする」
「でも楽しかった」
高木は照れたように笑った。
「また体育でサッカーあったら、今度はもうちょっとできる気がする」
その言葉に、春樹は自然に笑う。
「じゃあ今日やった意味あったな」
「七瀬のおかげでもあるけどな」
「みんながやったからだろ」
「そういうこと普通に言うよな、お前」
杉浦が呆れたように言う。
「何が?」
「いや、いい」
春樹は意味が分からず首を傾げた。
少し離れた場所では、紗弥と話していた悠斗がこちらを見ている。
春樹と目が合った瞬間、悠斗がにやりと笑った。
「何だよ」
「いやぁ、人気者だなと思って」
「サッカーの話だろ」
「それだけかなあ」
「それ以外何があるんだよ」
「何でもない」
悠斗はそれ以上言わず、紗弥のところへ戻った。
(何なんだ、あいつ)
春樹が怪訝な顔をしていると、永山が教室へ入ってきた。
「席につけー。結果発表するぞ」
その一言で、教室内の生徒たちがそれぞれの席へ戻り始める。
春樹も自分の席へ座った。
隣では雫が鞄を机の横へ掛けながら、まだ少し楽しそうにしている。
「何?」
「別に」
「笑ってたけど」
「春樹、本当に今日ずっと代表だったなって」
「お前まで言う?」
「だって最後までみんな春樹のところ集まってたし」
「俺が結果覚えてたからだろ」
「そういうことにしといてあげる」
「何で上からなんだよ」
春樹が言い返したところで、永山が教卓を軽く叩いた。
「そこ、幼馴染漫才はあとにしろ」
「してません!」
「先生、雫と一緒にしないでください」
「何で私だけ嫌みたいに言うの!?」
「お前ら静かにしろ」
教室中から笑いが起きる。
春樹は仕方なく前を向いた。
◇◇◇
「まず、今日一日お疲れさん」
永山が出席簿を教卓へ置く。
「大きな怪我もなく終わった。そこが一番だ。勝敗については、その次だな」
いつもの少しぶっきらぼうな口調だったが、教室の空気は自然と落ち着いた。
「とはいえ、せっかく結果も出たから発表する。総合順位については各競技の成績を点数化した結果――二年三組は、学年二位だ」
一瞬の沈黙。
直後、教室が沸いた。
「二位!?」
「マジで!?」
「結構よくない!?」
杉浦が大きく拳を上げ、山岸も隣の男子と笑い合う。
雫も驚いたように目を丸くした。
「二位なんだ」
「十分すごいな」
春樹も素直に感心する。
「ちなみに一位は二年二組」
永山の追加発表に、春樹は思わず笑った。
「神谷のところか」
「最後サッカー負けたのに総合で勝ってるじゃん」
雫が言う。
「他競技強かったんだろ」
「九条さんも二組だよね」
「そうだな。リレーもあったし」
凛たちのクラスが総合一位なら、それはそれで納得できる。
サッカー一競技の勝敗だけで全体が決まるわけではない。
永山は黒板へ簡単に結果を書きながら、各競技の成績を読み上げていった。
サッカーは上位。
女子のドッジボールも好成績。
バレーやバスケットも大崩れせず、全体的に点数を積み上げた結果の二位らしい。
「というわけで、優勝ではないがよくやった」
永山が教室を見渡す。
「特に普段あまり話さないやつ同士でも、今日はそれなりに声を掛け合ってた。交流会の目的としてはそっちの方が大事だ」
春樹は何気なく周囲を見る。
確かにそうかもしれない。
高木とは、今日までまともに長く話した記憶がなかった。
杉浦とも普段から会話はするものの、ここまで一緒に何かをすることはなかった。
山岸に至っては、バスケ優先でサッカーは人数合わせに近かったはずだ。
それが一日終わった今では、全員の動き方まで分かる。
(交流会って、ちゃんと交流会だったんだな)
今さらすぎる感想に、春樹は自分で少し笑った。
永山の話は続く。
「明日は通常授業だ。筋肉痛だから休むとか言うなよ」
「先生、俺もう脚痛いです!」
誰かが叫ぶ。
「今日のうちに風呂入って寝ろ」
「宿題は?」
「やれ」
「鬼!」
「誰が鬼だ」
教室に笑いが広がった。
「あと、各競技の代表は片付け確認だけして帰れ。五分もかからん」
春樹の笑顔が止まる。
「……先生」
「何だ、七瀬」
「俺も?」
「当たり前だ」
「もう終わったじゃないですか」
「終わったから片づけるんだ」
「本が俺を待ってるんですけど」
「五分待たせろ」
「本に罪はないですよ」
「お前の判断力が三割落ち始めてるぞ」
教室から再び笑いが起きた。
「ほらね」
雫が小声で言う。
「何が?」
「結局最後まで代表」
「連絡係」
「もう好きにして」
◇◇◇
ホームルーム終了後、春樹は永山に言われた通りグラウンド脇の用具確認へ向かった。
片づけ自体はほとんど終わっている。
残っているのはボールの数とビブス、コーンの確認程度だった。
「本当に五分で終わりそうだな」
春樹が呟く。
「だから言っただろ」
永山がチェック表を渡してくる。
「ボール十、ビブス二十、コーン十二。数えろ」
「先生が数えた方が早くないですか?」
「代表の仕事だ」
「連絡係です」
「今日はもうどっちでもいい」
「ついに先生が折れた」
「早くやれ」
春樹は笑いながら数え始める。
ボール。
ビブス。
コーン。
数は合っている。
チェックをつけて永山へ返そうとしたところで、背後から声が飛んできた。
「七瀬」
振り返る。
凛がいた。
手には別競技のチェック表を持っている。
「九条も片づけ?」
「リレーの備品確認。そっちは終わった?」
「今終わった」
「脚は?」
「まだそれ聞く?」
「さっき張ってると言っていたでしょう」
「痛くはないって」
「ならいいけど」
凛は少しだけ眉を寄せたまま春樹を見る。
「帰ったら冷やした方がいいわよ」
「そこまで?」
「明日痛くなってから後悔しても遅いでしょう」
「分かった。帰ったらやる」
春樹が素直に答えると、凛の表情が少し緩んだ。
「今日は珍しく素直ね」
「九条まで永山先生みたいなこと言うなよ」
「普段の行いじゃない?」
「俺、そんな問題児じゃないだろ」
「歩きながら本を読んでいた人が言っても説得力がないわ」
「それはもうやってない」
「知ってる」
凛はすぐに答えた。
春樹が少し目を瞬かせる。
「見てた?」
「風紀委員だから」
「学校中の生徒見てるの?」
「……あなたは一度注意したから、たまたま目に入るだけ」
「なるほど」
春樹はあっさり納得した。
凛はほんの少しだけ視線を逸らす。
(本当に、それで納得するのね)
自分でも、以前より春樹を目で追うことが増えているとは分かっている。
廊下で見かければ、本を読みながら歩いていないか確認する。
教室の前を通れば、今日も本を読んでいるのかと思う。
サッカーをしていれば、どんなプレーをするのか見てしまう。
最初は問題行動をしないか確認するためだった。
今も、その理由が完全になくなったわけではない。
けれど、それだけでは説明できない気もしていた。
「そういえば」
春樹の声で、凛は思考を止める。
「総合一位おめでとう」
「もう聞いたの?」
「二組だって」
「ありがとう。三組も二位だったでしょう?」
「うん」
「最後のサッカーは負けたけど、クラス全体では勝ったわ」
「そこ張り合うんだ」
「当然でしょう」
「九条、意外と負けず嫌いだよな」
「意外は余計」
凛は少し得意そうに笑う。
「でも、サッカーは三組の勝ち」
「総合は二組」
「サッカーは三組」
「総合は二組」
「子供かよ」
「あなたに言われたくない」
二人が言い合っていると、少し離れた場所で永山が呆れたように息を吐いた。
「お前ら、片づけ終わったなら帰れ」
「はい」
「分かりました」
春樹と凛の返事が重なった。
互いに顔を見て、少し笑う。
◇◇◇
昇降口へ戻る頃には、校内の人影もかなり減っていた。
春樹が靴を履き替えていると、背後から肩を叩かれる。
「お疲れ、名監督」
「殴るぞ」
「怖っ」
悠斗が笑いながら隣へ並ぶ。
「帰る?」
「そのつもり」
「本屋寄らないの?」
「今日は寄らない。家に読みかけあるし」
「珍しいな」
「何で本屋寄らないだけで珍しいんだよ」
「お前だから」
悠斗は靴を履き替える。
少し離れたところでは紗弥が友人と話していた。
春樹はそれを見てから、悠斗へ視線を戻す。
「で?」
「何が?」
「赤木とは?」
「何で急にその話になるんだよ」
「今日バレー一緒だったんだろ」
「一緒だったけど」
「本の話もしたって言ってたじゃん」
「したよ」
悠斗は少し声を落とす。
「配信の映画、紗弥も今週末に見るかもって」
「原作読み終わった?」
「昨日」
「じゃあ話せるじゃん」
「そうなんだけどさ」
「何?」
「俺が薦めた方の本も、今読んでるらしい」
悠斗の口元がわずかに緩む。
春樹はそれを見逃さなかった。
「よかったじゃん」
「まあな」
「感想来たら普通に話せよ」
「分かってる」
「変な文章考えて俺に送ってくるなよ」
「もうしねえよ!」
「成長したな」
「何で上からなんだよ」
悠斗が肩を小突いてくる。
春樹は笑いながら受け流した。
「でも、お前に聞いて正解だったわ」
「何が?」
「前にさ。紗弥が俺に本聞いてきたんだから、俺が選べって言っただろ」
「言ったな」
「自分で選んだやつ読んでもらえると、結構嬉しい」
春樹は少しだけ目を細めた。
「だろ?」
「お前、最近そればっかやってるもんな」
「本選ぶの面白いから」
「相手のこと考えるのも?」
「それ込み」
「ふーん」
悠斗が意味ありげな顔をする。
「何?」
「いや、別に」
「今日みんなそれ言うな」
「気のせいじゃね?」
「絶対違う」
春樹が追及しようとしたところで、紗弥がこちらへ歩いてきた。
「悠斗、帰るなら途中まで一緒に行かない? 美咲たち先に帰っちゃったから」
「え?」
悠斗の動きが止まる。
春樹はその横顔を見る。
(分かりやす)
他人のことなら、本当に分かりやすい。
「俺、先帰るわ」
春樹が言う。
「え、七瀬も途中まで同じ方向じゃん」
紗弥が不思議そうにする。
「ちょっと図書室――」
「今から戻るの!?」
「嘘。忘れ物思い出した」
「絶対嘘だろ!」
悠斗が小声で抗議する。
春樹はその声を無視した。
「じゃあまた明日」
「ちょ、七瀬!」
「高坂、またね」
春樹は軽く手を上げ、その場を離れる。
(あとは自分で頑張れ)
あそこへ自分が混ざる必要はない。
他人の恋愛なら、それくらいは分かる。
◇◇◇
昇降口を出た春樹は、そのまま校門へ向かおうとして足を止めた。
見慣れた後ろ姿が少し先にある。
「雫」
呼ぶと、雫が振り返った。
「あ、春樹。片づけ終わった?」
「終わった。待ってた?」
「別に」
「その割に昇降口の前にいるけど」
「ちょっとスマホ見てただけ」
「何分?」
「……五分くらい」
「待ってたじゃん」
「うるさい」
雫は少しだけ頬を膨らませる。
「一緒に帰る?」
「最初からそのつもりだったんじゃないの?」
「違うし。たまたま春樹が来たから」
「はいはい」
「その言い方腹立つ」
いつものように言い合いながら、二人は校門へ向かう。
朝より静かな道だった。
交流会を終えた生徒たちが前後を歩いているものの、学校を出るにつれて人数は少しずつ散っていく。
「脚、本当に大丈夫?」
雫が尋ねる。
「九条にも同じこと聞かれた」
「九条さんに?」
「片づけのとき会った」
「……ふーん」
「何?」
「別に」
「またそれ?」
「何でもないって」
雫は少しだけ歩く速度を上げた。
春樹は意味が分からないまま隣へ並ぶ。
「痛くはないよ。張ってるだけ」
「なら帰ったらちゃんと休んで」
「本読む」
「それはもう分かった」
「九条には冷やせって言われた」
「じゃあ冷やしながら読めば?」
「天才か」
「それくらい自分で思いついて」
春樹は笑う。
しばらく歩いたところで、雫がふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ」
「うん?」
「約束、忘れてないよね」
「何の?」
雫の足が止まった。
春樹も数歩進んでから振り返る。
「……春樹」
「何?」
「本気で言ってる?」
「だから何の約束?」
「本屋!」
「ああ」
思い出した。
「三冊当てたやつ」
「そう!」
雫がじっと睨む。
「交流会終わったら、私が一冊選んで春樹が買ってくれるって約束したでしょ」
「覚えてるよ」
「今忘れてたじゃん!」
「一瞬出てこなかっただけ」
「それを忘れてたって言うの!」
「ちゃんと行くから」
「本当に?」
「いつにする?」
春樹が尋ねると、雫の表情が少しだけ変わった。
怒っていたはずなのに、目元がわずかに柔らかくなる。
「……明日は?」
「土曜だし行ける」
「じゃあ明日」
「駅前?」
「うん」
「何時?」
「前と同じくらいでいいんじゃない? 十時とか」
「分かった」
春樹はスマートフォンを取り出し、予定へ入れる。
「そこまでしなくても忘れないでしょ」
「さっき怒られたばっかりだから」
「それもそうか」
「納得するなよ」
雫は笑う。
「でも、一冊でいいの?」
「何が?」
「勝った景品。本当に一冊だけ?」
「約束は一冊でしょ」
「値段気にしなくていいぞ」
「それ言ったら高い本選ぶかもよ?」
「常識の範囲なら」
「じゃあ一万円の豪華本」
「常識どこ行った?」
「冗談」
雫が楽しそうに笑う。
春樹もつられて笑った。
「まあ、欲しいやつ選べばいいよ」
「春樹に読ませる本でもいい?」
「俺に?」
「うん」
「景品なのに?」
「私が選んだ本を春樹に読ませるのが景品」
「何だそれ」
「駄目?」
雫が少しだけ顔を覗き込む。
春樹は考える。
自分が雫のために本を選ぶことは何度もあった。
逆は少ない。
「いや、面白そう」
「本当に?」
「雫が俺に何選ぶか気になる」
「じゃあ候補に入れとく」
「自分用でもいいからな」
「明日決める」
「了解」
話がまとまる。
春樹にとっては、以前から決まっていた本屋へ行く約束を具体的な時間へ落とし込んだだけだった。
しかし雫にとっては少し違う。
(明日、また二人で本屋)
以前も二人で行った。
あのときは周囲にデートだとからかわれ、春樹は全力で否定していた。
自分も、幼馴染と本屋へ行くだけだと思っていた。
今も、予定そのものは同じだ。
ただ、自分の感じ方が少し変わっている。
(楽しみなんだ、私)
春樹と出かけることが。
自分が本を選ぶことが。
その本を春樹がどう思うのか聞くことが。
以前なら、それを全部「幼馴染だから」でまとめていた。
今は、それだけでは足りないような気がしている。
雫は隣を歩く春樹を見る。
「何?」
すぐ気づかれた。
「何でもない」
「今日それ何回目?」
「春樹が気にしすぎなんじゃない?」
「みんな変なところで黙るからだろ」
「じゃあ自分で考えたら?」
「何を?」
「それを」
「意味分かんない」
雫は思わず笑った。
「やっぱり春樹だね」
「何だよ、それ」
「秘密」
「白石先輩までそれ言ってたぞ」
「へえ」
雫の笑顔が一瞬だけ固まる。
「白石先輩と何の秘密?」
「知らない。教えてくれなかった」
「……ふーん」
「だから何でその反応なんだよ」
「別に」
「またそれ!」
春樹の声が夕方の道へ響き、雫は楽しそうに笑った。
◇◇◇
帰宅後。
春樹はシャワーを浴び、凛に言われた通り太ももを軽く冷やしながらベッドへ座っていた。
手には、栞から薦められた短編集。
「さて」
ようやく落ち着いて読める。
交流会は終わった。
代表――ではなく連絡係の仕事も終わった。
明日は休み。
午前十時に雫と本屋へ行く予定はあるが、それ以外は自由だ。
(読める)
春樹は少し嬉しくなり、四つ目の物語の続きを開く。
数分後。
スマートフォンが震えた。
「……」
無視しようか迷う。
もう一度震える。
春樹は栞を挟み、画面を見る。
真実からだった。
『今日はお疲れさまでした。サッカー、見に行けてよかったです』
続けてもう一通。
『今度お願いしていた本も、交流会が終わったので時間があるときにお願いします』
「あ」
忘れていたわけではない。
後回しになっていただけだ。
『了解。次の候補考えとく』
返信する。
すぐ既読がついた。
『ありがとうございます! 楽しみにしてます』
春樹はスマートフォンを置こうとする。
また震える。
今度はひより。
『春樹先輩お疲れさまでした!! サッカーすごかったです!』
その下には、
『あと本、今日帰ってからもうちょっと読みます! カフェの店長さん好きです!』
と続いている。
「元気だな……」
春樹は笑いながら、
『ありがとう。読み終わったらまた感想聞かせて』
と返す。
スマートフォンを置く。
また震える。
「今度は誰だよ」
怜華だった。
『交流会お疲れさま。代表のお仕事、最後までちゃんとできたみたいね』
「何で知ってんだ……」
生徒会長なので知っていても不思議ではない。
続きが来る。
『それと、約束していた次の本。交流会も終わったことだし、忘れてないでしょうね?』
春樹は天井を見る。
「増えた……」
真実。
ひよりの感想。
怜華の次の本。
明日は雫と本屋。
栞から借りた短編集の感想もまだ途中。
さらに栞へ渡した写真部の青春小説についても、いずれ感想を聞くことになる。
桐谷から頼まれている本選びまで残っている。
(交流会終わったら暇になるはずだったんだけどな)
予定を思い返す。
なぜか減っていない。
むしろ増えている。
春樹は怜華へ、
『覚えてます。少し待ってください』
と返した。
すぐに返信が来る。
『少し、ね。楽しみにしてるわ』
「圧があるんだよなあ……」
春樹は苦笑しながらスマートフォンを伏せる。
今度こそ読む。
短編集を開く。
数行進んだ。
またスマートフォンが震えた。
「……嘘だろ」
春樹は恐る恐る見る。
今度は栞だった。
『今日はありがとうございました。試合も、本の話も楽しかったです』
それだけなら、普通のお礼だ。
続けて、
『写真部の本も、今日もう少し読みます。読み終わったら、ちゃんと感想を伝えたいです』
春樹の表情が少し変わる。
(お)
こちらは純粋に楽しみだった。
『待ってます。途中で俺に聞くとネタバレしそうだから、読み終わるまでは聞かない方がいいです』
送る。
しばらくして返信。
『気をつけます』
そのあとに、少し間を置いてもう一通。
『でも、七瀬君が感想を楽しみにしてくれているなら嬉しいです』
春樹は数秒画面を見る。
(そりゃ楽しみだろ)
自分が選んだ本だ。
しかも栞自身が普段なら選ばない方向へ少し外した一冊。
どう感じるのかは気になる。
『かなり楽しみにしてます』
素直に返した。
それからスマートフォンを置く。
「よし」
今度こそ。
春樹は本を開く。
三十秒後。
また震えた。
「もうやめてくれ!」
思わず声が出た。
画面を見る。
悠斗。
『紗弥と途中まで帰った』
「知らん!」
思わず口に出した。
続き。
『本の話めっちゃできた』
「よかったな!」
さらに、
『お前先帰ってくれてありがと』
春樹は少しだけ笑う。
『貸し一つな』
送る。
『怖っ』
即座に返ってきた。
春樹はスマートフォンをサイレントモードへ変更し、机の上へ置いた。
「これでいい」
ようやく静かになった。
ベッドへ戻る。
本を開く。
四つ目の物語の続きへ入る。
主人公は、自分へ向けられていた感情についてようやく認め始めていた。
相手がなぜ何度も会いに来たのか。
なぜ自分の好きなものを覚えていたのか。
なぜ自分のために時間を使ってくれたのか。
ひとつずつ振り返り、ようやく答えへ近づいていく。
(遅いって)
春樹は心の中で笑う。
(こんなの、もっと前から分かるだろ)
読者なら分かる。
周囲から見ても分かる。
当人だけが、自分へ向けられた感情を特別なものとして考えない。
春樹はそんな主人公を面白がりながら読み進める。
机の上では、サイレントモードになったスマートフォンの画面が静かに光っていた。
新しい通知が届いている。
送り主は雫。
『明日、十時だからね。寝坊しないでよ』
春樹はまだ気づかない。
物語の主人公が自分へ向けられた好意に気づくまでの遅さを笑いながら、自分の周囲で少しずつ積み重なっているものについては、相変わらず何ひとつ結論を出していなかった。
交流会は終わった。
サッカーも終わった。
面倒だった代表の仕事も終わった。
けれど、春樹の読書生活を以前より賑やかにする人たちは、当然ながら今日だけで消えるわけではない。
むしろ交流会が終わったことで、止まっていた約束が一斉に動き始めようとしていた。
明日は雫との本屋。
真実へ選ぶ次の一冊。
怜華へ選ぶ次の一冊。
ひよりから届くであろう感想。
栞が読み進めている、自分が選んだ物語。
そして、まだ本人がまったく意識していない、それぞれの少女との距離。
春樹はそんなことなど知らないまま、満足そうにページをめくる。
(やっぱり休日の前日に読む本って最高だな)
結局のところ、七瀬春樹の最優先事項は、今日も変わらない。
俺はただ、本が読みたいだけなのだ。




