第39話 最後まで走るだけなのに、どうして終わるのが少し惜しいんだ?
再開の笛が鳴る。
残り時間はわずか。
二対一で三組がリード。
神谷がボールを受けると同時に前へ出て、春樹もその進路へ身体を向けた。
今度は味方ではない。
だからこそ、遠慮はいらない。
朝から積み重ねてきた最後の数分が、そこで始まった。
神谷は春樹が正面へ入るより先に、右足の外側でボールを横へ流した。二組の男子が受け、そのまま右側を駆け上がろうとする。
「高木、外!」
「分かってる!」
春樹が声を出すより早く、高木が動いていた。
相手とゴールの間へ入り、縦へ抜かせないよう身体を向ける。午前中なら相手が近づいただけで足を出してしまっていた高木が、今は焦らず距離を保っていた。
相手が一度止まる。
高木も止まる。
無理に奪いに行かない。
「後ろ!」
山岸の声が飛ぶ。
「見えてる!」
高木は返事をしながら、相手が中央へ戻そうとしたパスへ足を伸ばした。
完全には奪えない。
それでもボールの勢いが弱くなり、中央へ転がった。
春樹が先に入る。
「七瀬!」
神谷が迫る。
春樹はボールへ触れる直前に周囲を確認した。
杉浦が左前方。
山岸が後ろ。
高木は右側から戻っている。
そして神谷は、自分が前を向く瞬間を狙っている。
(なら――)
春樹は前を向かなかった。
ボールを右足の裏で止め、そのまま山岸へ戻す。
「山岸!」
「おう!」
神谷の足が一瞬止まった。
「またそれかよ」
「何が?」
「俺がお前に行ったら他使うやつ」
「使えるなら使うだろ」
「最後くらい一対一しろよ」
「サッカーだって言ってんだろ」
春樹は笑いながら、神谷から離れるように左へ走った。
山岸から杉浦へボールが渡る。
杉浦が前を向いたところへ二組の選手が寄る。
「七瀬!」
杉浦から春樹へパス。
神谷も来る。
今度は春樹も戻さなかった。
右足で受け、身体を左へ傾ける。
神谷は動かない。
「それ、朝も見た」
「覚えてた?」
「お前のそういうのはな」
「じゃあこれは?」
春樹は左へ行くふりをしたまま、右足の外側でボールを逆へ押し出した。
「うわっ」
神谷が半歩遅れる。
春樹はその横を抜けた。
ただし、全力では走らない。
太ももの張りは消えていない。
抜いた直後、二組の別の選手が前へ入る。
(ここで無理して二人目まで行く必要はない)
春樹は顔を上げる。
杉浦が中央へ走っている。
高木も右側から上がってきた。
春樹は杉浦へ出すように身体を開いた。
二組の守備が中央へ寄る。
その瞬間、高木へパスを通した。
「俺!?」
「行ける!」
「おう!」
驚きながらも、高木は止まらなかった。
ボールを受け、そのまま右側を進む。
観戦場所から歓声が上がった。
「高木君、頑張って!」
誰かの声が聞こえる。
高木も聞こえたのか、ほんの少しだけ顔を上げた。
相手が一人寄ってくる。
朝なら止まっていた。
少し前なら中央へ戻していた。
今回は違う。
高木は一度ボールを内側へ触り、相手が反応したところで外へ運んだ。
「おっ!」
春樹の口から声が漏れる。
完全に抜いたわけではない。
それでも半歩前へ出た。
高木はその半歩を使い、ゴール前へ低いパスを送った。
「杉浦!」
「来た!」
杉浦が飛び込む。
二組の守備も足を伸ばす。
わずかに杉浦へ届かない。
そのままボールが逆側へ抜けた。
「惜しい!」
山岸の声が響く。
高木は頭を抱えた。
「ずれた!」
「でも今のよかった!」
春樹がすぐ声をかける。
「自分で行けたじゃん!」
「行けたけど最後ミスった!」
「次合わせればいい!」
「もう時間ないだろ!」
「じゃあ次の機会!」
「今日最後なんだけど!」
高木が叫び、周囲から笑いが起こる。
神谷まで笑っていた。
「七瀬、お前完全に先生みたいになってるぞ」
「嫌なこと言うなよ」
「褒めてんだけど」
「高校二年で先生扱いされたくない」
「じゃあ監督」
「もっと嫌だ」
「代表」
「連絡係」
「まだ言ってんのかよ!」
神谷が呆れた直後、二組のキーパーからボールが蹴り出された。
笑っていた空気が一瞬で切り替わる。
神谷が走る。
春樹も戻る。
残り時間はさらに少なくなっていた。
◇◇◇
「高木君、本当に変わりましたね」
栞が小さく呟いた。
観戦場所では、雫、真実、ひよりが同じように高木の背中を目で追っていた。
「朝、あんなに不安そうだったのに」
真実も頷く。
「春樹先輩が育てました!」
ひよりが胸を張る。
「小日向さんが誇らしげなのは何で?」
雫が笑う。
「応援してたので!」
「それなら私たちも同じでしょ」
「じゃあみんなで育てました!」
「本人の努力どこいったの?」
真実が笑いを堪えながら突っ込む。
栞も口元を隠していた。
雫は笑いながらも、すぐグラウンドへ視線を戻した。
春樹が走っている。
朝より明らかに速度は落ちている。
それでも無理に一人で追わず、山岸や杉浦へ声をかけながら位置を調整していた。
(本当に最後なんだ)
そう思った瞬間、少しだけ寂しいような感覚が胸に生まれた。
自分の競技はもう終わっている。
春樹のサッカーも、この試合で終わる。
今日の交流会そのものも、もう終盤だ。
朝は一日が長いと思っていた。
春樹の試合を何度も見ることになるとも思っていなかった。
それなのに今は、もう少し見ていたいと思っている。
「西条先輩」
真実が隣から声をかける。
「何?」
「七瀬先輩、疲れてますよね」
「うん」
「でも、楽しそうです」
真実の言葉に、雫は春樹を見る。
「そうだね」
間違いない。
疲れている。
息も上がっている。
それでも、笑っている。
「春樹って、ああいう顔するんだよね」
「昔もですか?」
「うん。サッカーやってた頃」
雫は少しだけ懐かしくなる。
「試合終わったあと、もう動けないとか言うくせに、次の日にはまたボール蹴ってたりしてた」
「じゃあ、やっぱり本当に好きなんですね」
「好きなんだよ。でも本の方がもっと好き」
「七瀬先輩らしいです」
真実が笑う。
雫も笑った。
以前なら、春樹がサッカーをやめたことを少しもったいないと思っていた。
今日これだけ動ける姿を見れば、今でもそう思わないわけではない。
けれど、春樹自身が選んだのだ。
サッカーを嫌いになったからではなく、本を読む時間をもっと大切にしたかったから。
そして今は、その選択をしたまま、こうしてサッカーも楽しんでいる。
(それでいいんだろうな)
雫はそう思った。
春樹が春樹らしく楽しそうなら、それが一番いい。
ただ、その隣に自分もいられたら嬉しい。
そんな考えが自然に浮かび、雫は少しだけ目を瞬かせた。
(……隣に?)
以前なら何も引っかからなかった言葉が、今日は妙に胸へ残る。
幼馴染なのだから隣にいる。
ずっとそうだった。
けれど今、自分が思った「隣」は、本当にそれだけなのだろうか。
「西条先輩?」
「ううん。何でもない」
雫は答えを探すのをやめた。
試合はまだ終わっていない。
今は、最後まで見ていたかった。
◇◇◇
二組の攻撃が続く。
神谷が中央で受けた。
春樹は少し距離を取る。
残り時間を考えれば、二組は同点にするため前へ人数をかけてくる。
実際、朝より明らかに後ろの選手が上がっていた。
(ここで奪えれば逆に空いてる)
ただし、無理に取りに行けば抜かれる。
春樹は神谷の足元ではなく、周囲を見る。
右。
一人。
左。
二人。
後ろからも一人来ている。
神谷自身も前へ行ける。
「七瀬」
「何?」
「どこ見てる?」
「いろいろ」
「俺見ろよ」
「見てるよ」
「絶対半分くらい別のとこ見てるだろ」
「神谷だけ見てたら他にやられるし」
「ほんと可愛くねえな!」
神谷が前へ出る。
春樹も身体を寄せる。
右へ切り返す。
春樹はついていく。
もう一度左。
今度は半歩遅れた。
(まずい)
神谷が抜ける。
「山岸!」
春樹が呼ぶ。
「行く!」
山岸が前へ出た。
神谷は山岸が来る直前、右へパスを出す。
そこには二組の選手。
高木が追う。
間に合わない。
相手がゴール前へボールを入れる。
「杉浦、戻れ!」
「分かってる!」
杉浦が全力で戻る。
二組の選手が中央へ走り込む。
ボールが来る。
シュート。
三組のキーパーが横へ飛んだ。
手に当たる。
ボールが前へ弾かれた。
「まだ!」
神谷が走り込んでいる。
春樹も追う。
脚が重い。
神谷の方が速い。
(届かない)
そう判断した瞬間、春樹は神谷ではなくボールの次の位置を見る。
キーパーが弾いたボールは神谷の真正面ではない。
少し右。
神谷が右足で触るなら、一度身体を開く。
「山岸、右!」
「えっ――おう!」
山岸が反応する。
神谷がシュートを打とうと身体を開いた瞬間、その前へ山岸が滑り込むように身体を入れた。
「うわ!」
神谷のシュートが山岸の足に当たる。
ボールが横へ飛ぶ。
「高木!」
「いる!」
高木が拾った。
「前!」
今度は春樹だけではない。
杉浦も、山岸も、ベンチの三組の生徒たちも同時に叫んだ。
高木は一瞬驚き、それから笑った。
「分かってる!」
前へ蹴り出す。
杉浦が走る。
二組は人数を前へかけていたため、後ろが少ない。
杉浦がボールへ追いつく。
相手が一人戻ってくる。
「杉浦、無理するな!」
春樹が叫ぶ。
「分かってる!」
杉浦はゴールへ一直線に行かず、コーナー側へボールを運んだ。
時間を使う。
相手が奪いに来る。
杉浦は身体を入れて守る。
「お前、そんなことできたのかよ!」
春樹が思わず笑う。
「朝から何試合したと思ってんだ!」
「三試合!」
「数えるな!」
相手が杉浦からボールを奪う。
しかし、その頃には三組も戻っていた。
山岸が中央。
高木が右。
春樹も息を切らしながら後ろへ入る。
神谷がこちらを見る。
「時間ない!」
二組の誰かが叫ぶ。
ボールが神谷へ入る。
残りは、本当にあとわずか。
神谷が前を向く。
春樹が立つ。
互いに息が上がっている。
「最後、来いよ」
神谷が笑う。
「だから何でお前が誘うんだよ」
「中学以来だろ。こういうの」
「今日二回目だよ」
「そういう意味じゃねえって」
春樹は少しだけ笑った。
分かっている。
真剣に勝ちたいと思いながら、同時にこの時間が終わることを惜しいとも思っている。
それは春樹も同じだった。
(……もう少しやりたいな)
自分の中に浮かんだ言葉へ、春樹自身が少し驚く。
脚は重い。
汗も止まらない。
終われば涼しい図書室へ戻れる。
鞄には読みかけの本がある。
いつもの自分なら、そちらを楽しみにしていてもおかしくない。
今も本は読みたい。
それなのに。
(終わるの、ちょっと惜しいかも)
神谷が動く。
右。
春樹も動く。
切り返し。
知っている癖。
だが、神谷も春樹が知っていることを知っている。
もう一度逆へ行く。
春樹は引っかからない。
「しつこっ!」
「お互い様!」
神谷がボールを足元から少し離した。
春樹が足を伸ばす。
触れた。
神谷も触る。
ボールが二人の間で跳ねる。
「七瀬!」
「神谷!」
両クラスから声が飛ぶ。
春樹はもう一歩出る。
神谷も出る。
ほぼ同時に足が届いた。
ボールが横へ転がる。
そこへ山岸が走り込んだ。
「もらった!」
「山岸!」
春樹が叫ぶ。
山岸はボールを奪うと、今度は迷わず前を見た。
杉浦が走っている。
高木もいる。
そして春樹は、神谷と競った直後でまだ戻り切れていない。
山岸は一瞬だけ春樹を見た。
朝なら、きっと春樹へ渡していた。
けれど今は違う。
「杉浦!」
自分で選んだ。
杉浦へ長めのパスを出す。
その瞬間。
試合終了の笛が鳴った。
◇◇◇
一瞬、全員の動きが止まった。
転がっていくボールを杉浦が見送り、それからゆっくり両手を上げる。
「……終わった?」
高木が呟く。
「終わった!」
山岸が叫ぶ。
次の瞬間、三組側から歓声が上がった。
「勝ったあああ!」
杉浦が走って戻ってくる。
「二対一!」
「勝った!」
「最後やばかった!」
高木も山岸も笑っている。
春樹はその場で膝へ手をつき、荒い呼吸を整えた。
「疲れた……」
「第一声それかよ」
神谷が隣で同じように息を切らしている。
「だって疲れた」
「帰宅部弱っ」
「朝から何試合出たと思ってんだ」
「三試合」
「数えるなよ」
「さっきお前が数えてただろ」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
負けた神谷に悔しさがないわけではないだろう。
それでも、その表情には満足感も混ざっている。
「朝と全然違ったな」
神谷が三組の選手を見る。
杉浦たちはまだ得点場面について騒いでいる。
「お前ら、普通にチームになってた」
「だろ?」
「何でお前が自慢するんだよ」
「ちょっとくらいいいだろ」
「監督だから?」
「連絡係」
「最後までそれで行くんだな」
「最初から最後まで連絡係だよ」
「シュート決めて、配置決めて、交代決めて、声出して、最後は相手のエースと競ってる連絡係がどこにいるんだよ」
「ここ」
「認めてるじゃねえか」
神谷が笑う。
そこへ杉浦たちが駆け寄ってきた。
「七瀬!」
「何?」
「勝ったぞ!」
「見てたよ」
「最後、山岸が自分で杉浦に出した!」
高木が興奮気味に言う。
「見てた」
「俺、神谷のシュート止めた!」
山岸も胸を張る。
「それも見てた」
「俺、右から一人ちょっと抜いた!」
「それも見てたって」
「じゃあもっと褒めろ!」
「全員よかったよ!」
春樹が笑いながら答えると、三人が一瞬だけ静かになった。
「……雑じゃない?」
杉浦が言う。
「何でだよ!」
「もっと具体的に」
「感想文の先生かよ」
「七瀬、本の感想聞くとき細かいじゃん」
「何で知ってるんだよ」
「昼休み見てたら分かる」
春樹は呆れながらも、一人ずつ見る。
「杉浦は最後ちゃんと時間使えてた。朝はボール持ったら前しか見てなかったのに」
「おう」
「山岸は神谷のシュート止めたのもそうだけど、最後に俺じゃなく杉浦へ出したのがよかった。自分で見て決めたから」
「……おう」
「高木はもう朝と別人。最後、自分で一回行っただろ。あれが一番よかった」
高木が目を丸くする。
「パスずれたけど」
「そこは次直せばいい。行こうって判断したことがよかった」
「次って、もう今日ないぞ」
「また体育とかでやるだろ」
「そっか」
高木が嬉しそうに笑う。
杉浦はそんな春樹を見ながら、にやにやしていた。
「何?」
「いや、やっぱ監督」
「もういいよ、それ」
「諦めた?」
「否定するのに疲れた」
「代表は?」
「それも今日はもう終わりだろ」
春樹はそう答えたあと、ふと少しだけ寂しいような感覚を覚えた。
代表だの連絡係だのと散々言い合っていた。
面倒だと思っていた。
それが終わる。
(……変なの)
読書時間が戻ってくる。
明日からまた、好きなだけ本を読める。
嬉しいはずなのに。
今日のこの騒がしい時間が終わることも、ほんの少しだけ惜しかった。
◇◇◇
「春樹!」
聞き慣れた声がして、春樹が振り返る。
雫たちが観戦場所から近づいてきていた。
競技区域へ入りすぎないところで止まり、雫が大きく手を振る。
「お疲れ!」
「ありがとう」
「勝ったね」
「うん」
「最後すごかった!」
ひよりが雫の横から身を乗り出す。
「春樹先輩が点取ったところもすごかったですけど、そのあとみんなだけで点取ったところ、もっとすごかったです!」
「小日向、分かってるじゃん」
「ですよね!」
春樹が嬉しそうに答えると、ひよりも満面の笑みになる。
「やっぱりそっちの方が嬉しいんですね」
真実が笑う。
「何でみんな同じこと言うの?」
「だって分かりやすいです」
「そんなに?」
「はい」
即答された。
春樹は少し納得できない顔をしたが、今度は否定しなかった。
「まあ……今日は認める」
「珍しい」
雫が笑う。
「何が?」
「春樹が素直」
「俺いつも素直だろ」
「自分に都合のいいところだけね」
「失礼だな」
二人がいつもの調子で言い合う。
栞はその横で静かに笑っていた。
「七瀬君」
「はい?」
「見に来てよかったです」
春樹の表情が少し柔らかくなる。
「本、読めなかったんじゃないですか?」
「読めませんでした」
「俺の試合のせいで?」
「はい」
栞は少しだけ迷ってから、続けた。
「でも、今はこっちを見たかったので」
春樹は一瞬だけ黙った。
本を読むことを大切にしている栞が、自分たちの試合を見るために本を閉じた。
その意味を恋愛へ結びつけることは、春樹にはできない。
けれど、自分が本を好きだからこそ、その選択が軽いものではないことくらいは分かった。
「……ありがとうございます」
自然に出た言葉だった。
「嬉しいです」
栞も柔らかく笑う。
そのやり取りを見ていた雫の胸が、ほんの少しだけざわつく。
けれど今は、その感情の存在に驚かなかった。
栞が春樹の試合を見たかった。
春樹がそれを喜んだ。
それを見て、自分は少し気になる。
そこまでを、もう否定する必要はない。
「私も見てよかったよ」
雫が言う。
「知ってる」
「何で?」
「ずっといたじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
雫は少しだけ唇を尖らせる。
「今日、春樹がサッカーしてるところ、ちゃんと見られてよかったってこと」
「午前も見てただろ」
「だから、今日全部」
春樹は雫を見る。
少しだけ真面目な顔をしている。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、ありがとう」
「……うん」
雫は笑った。
たったそれだけなのに、妙に嬉しい。
昔なら、わざわざこんなことを言わなかった。
春樹も、素直に礼を言わなかったかもしれない。
少しずつ変わっている。
その変化が嫌ではなかった。
◇◇◇
「七瀬」
今度は後ろから低い声が飛んできた。
春樹が振り返ると、永山が歩いてくる。
「先生」
「終わったな」
「はい」
「脚は?」
「疲れてます。痛くはないです」
「張りは?」
「ちょっと」
「なら今日はもう走るな。整理運動して、水分取って、痛みが出るようなら保健室」
「分かりました」
春樹が素直に答えると、永山は少し意外そうな顔をした。
「何ですか」
「いや。今日はちゃんと判断力残ってるなと思ってな」
「本が絡んでないので」
「さっき試合の合間に図書室行ったって聞いたぞ」
「誰からですか」
「西条」
「雫!」
「聞かれたから答えただけ!」
少し離れたところから雫が反論する。
永山は口元を上げた。
「それでも試合中は三割落ちなかったらしいな」
「むしろ上がってました」
「自分で言うな」
春樹は笑う。
永山はそのまま杉浦たちへも視線を向けた。
「お前らもお疲れ。朝より随分まともなサッカーになってたな」
「先生、それ褒めてます?」
山岸が尋ねる。
「最大限な」
「最大限でそれ?」
「朝を知ってるからな」
「ひどい!」
笑い声が広がる。
永山もわずかに笑ったあと、春樹を見る。
「七瀬」
「はい?」
「連絡係、ご苦労」
春樹は一瞬黙った。
周囲も静かになる。
そして杉浦が真っ先に吹き出した。
「先生まで連絡係って言った!」
「本人がそう言い張ってるんだろ」
「先生、分かってるじゃないですか」
「ただし来年も同じ役をやらせるかは別だ」
「絶対嫌です」
「本が読めないから?」
「今日は結構読めました」
「じゃあ問題ないな」
「そういう話じゃないです!」
春樹の抗議に、全員が笑った。
◇◇◇
競技終了を知らせる放送が校内へ流れたのは、それからしばらくしてからだった。
まだ一部の試合は片付けや結果確認が残っているものの、グラウンドを覆っていた熱気は少しずつ終わりの空気へ変わり始めている。
クラスごとの集合まで少し時間がある。
春樹は整理運動を終え、水分を取りながら校舎へ向かった。
雫が隣を歩く。
「本当に図書室行くの?」
「行く」
「即答」
「集合まで二十五分ある」
「脚疲れてるんでしょ?」
「だから座る」
「その理屈だけは一日中変わらないね」
「合理的だろ」
「春樹にとってはね」
雫は笑う。
少し後ろには栞もいる。
真実とひよりはそれぞれ自分のクラスの友人に呼ばれ、途中で別れていた。
「白石先輩も図書室ですか?」
春樹が尋ねる。
「はい。私も集合まで少し時間があります」
「じゃあさっきの続き読めますね」
「七瀬君も?」
「もちろん」
「試合終わった直後なのに……」
雫が呆れる。
「だから何で驚くんだよ」
「いや、春樹らしいなって」
春樹は少しだけ考えた。
「でも、今日は本だけじゃなかったけどな」
雫と栞が同時に春樹を見る。
「何?」
雫が尋ねる。
春樹はグラウンドを振り返った。
片付けを始める生徒たち。
まだ試合の話をしている杉浦たち。
二組のところには神谷もいる。
朝から何度も走った場所。
「サッカーも楽しかったし、みんなでやるのも思ったより楽しかった」
春樹はそこで一度言葉を切る。
「終わると、ちょっと惜しいな」
雫が目を丸くした。
栞も驚いたように春樹を見る。
「……何だよ」
「春樹がそんなこと言うと思わなかった」
「俺だって楽しかったら惜しいくらい思うよ」
「でも交流会始まる前、読書時間が減るってずっと言ってたじゃん」
「それは今でも思ってる」
「そこは変わらないんだ」
「本読む時間は大事だからな」
春樹は当然のように答える。
「でも、別にどっちかしか楽しんじゃ駄目ってわけじゃないだろ」
雫はしばらく春樹を見ていた。
それから、ゆっくり笑う。
「うん。そうだね」
栞も小さく頷いた。
「私もそう思います」
「白石先輩まで」
「今日は、本を読む時間も楽しかったですし、試合を見るのも楽しかったので」
「じゃあ同じですね」
「はい」
三人は校舎へ入る。
外の騒がしさが少し遠くなり、涼しい空気が身体を包んだ。
◇◇◇
図書室へ戻ると、春樹は迷わずいつもの窓際の席へ座った。
「はぁ……」
椅子の背もたれへ身体を預ける。
「疲れた」
「さっきまで走ってたもんね」
雫が隣へ座る。
栞は向かい側。
春樹は鞄から文庫本を取り出した。
雫がその動きを見て、思わず笑う。
「本当に読むんだ」
「何しに図書室来たと思ってるんだよ」
「休憩」
「読書が休憩」
「知ってた」
春樹は栞を挟んだ場所を開く。
短編集の四つ目。
あと二十五分。
全部は読めない。
それでも十分だ。
栞も自分の本を開く。
雫も春樹から薦められた恋愛小説へ視線を落とした。
数分もすると、三人の間から会話が消えた。
ページをめくる音だけが小さく響く。
窓の外では片付けをする生徒たちの声が聞こえる。
今日一日、ずっと賑やかだった学校。
その中にある静かな図書室。
春樹は四つ目の物語を読み進めながら、ふと先ほどまでの試合を思い出した。
高木が自分で前へ出たこと。
山岸が神谷のシュートを止めたこと。
杉浦が最後に時間を使ったこと。
自分がゴールを決めたこと。
神谷と競ったこと。
観戦場所から聞こえた声。
(……集中しろ、俺)
本を読んでいるのに、今日の出来事が頭へ浮かぶ。
以前なら少し苛立ったかもしれない。
読書中に別のことを考えるのは、もったいない。
けれど今日は、不思議と嫌ではなかった。
春樹は一度だけ本から顔を上げる。
隣では雫が真剣にページを読んでいる。
向かいでは栞が静かに本へ視線を落としている。
外には、今日一緒に騒いだ友人たちがいる。
明日になれば、またいつもの学校生活へ戻る。
授業があり。
昼休みがあり。
図書室がある。
本を読む。
誰かと話す。
感想を聞く。
たまには、今日のように別のこともする。
(悪くないな)
そう思った。
本が読みたい。
その気持ちは何も変わっていない。
むしろ今だって、早く続きを知りたい。
ただ、本を読む自分の周りに別のものが増えた。
それだけなのだろう。
春樹は再びページへ視線を戻した。
四つ目の物語では、主人公が長い間「自分には関係ない」と思っていた誰かの感情へ、少しずつ気づき始めている。
(いや、これは分かるだろ)
春樹は心の中で突っ込む。
相手は何度も会いに来ている。
わざわざ予定を合わせている。
ほかの人にはしないことまでしている。
それなのに主人公は、「たまたまだろう」で全部済ませようとしていた。
(さすがに鈍すぎるって)
春樹は小さく笑った。
「どうしました?」
栞が顔を上げる。
「いや、主人公が鈍すぎて」
「四つ目ですね?」
「はい。これだけされたら普通気づくでしょ」
栞は春樹を見た。
そのまま数秒、何も言わない。
「……白石先輩?」
「いえ」
栞は視線を本へ戻す。
「そうですね」
「ですよね?」
「はい」
声が少しだけ笑っている。
隣では雫も顔を上げていた。
春樹と目が合う。
「何?」
「何でもない」
「今日それ多くない?」
「気のせい」
雫も本へ戻る。
ただ、その口元は少しだけ緩んでいた。
(本当に、自分のことだけ分かんないんだから)
今日、自分がどれだけ春樹を見ていたのか。
栞が本を閉じてまで試合を見たこと。
真実が「自分が見たい」と言ったこと。
ひよりが一日中楽しそうに応援していたこと。
凛がわざわざ春樹の脚を心配していたこと。
春樹は一つ一つをちゃんと見ている。
感謝もしている。
なのに、それらが自分へ向けられている意味だけは、まるで考えようとしない。
雫自身も、まだ自分の気持ちへ名前をつけられていない。
だから春樹だけを鈍いとは言えないのかもしれない。
(私も、人のこと言えないか)
雫は少しだけ笑い、自分の物語へ戻った。
向かいでは栞も静かにページをめくる。
三人の間へ、再び穏やかな沈黙が戻った。
春樹は何も知らないまま、四つ目の物語の続きを読み始める。
外では、交流会終了後の片付けを知らせる放送が流れていた。
賑やかだった一日が、少しずつ終わっていく。
それでも春樹の周りに増えたものまで、今日だけで終わるわけではない。
本人だけが、まだそのことを深く考えていなかった。




