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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 最後の試合をするだけなのに、どうして朝よりみんな本気なんだ?

昇降口を出た瞬間、図書室の涼しさに慣れていた身体へ午後の熱気がまとわりついた。


 春樹は思わず目を細めながらグラウンドへ視線を向ける。午前より傾いた日差しは校舎の影を長く伸ばしているものの、土の上にはまだ十分な熱が残っており、競技を終えた生徒たちの声や次の試合を待つ生徒たちの歓声が、校庭全体を包むように入り混じっていた。


「図書室から出たくなくなる気持ちは分かるかも」


 隣を歩く雫が、手で顔の前を扇ぎながら呟いた。


「だろ? だから図書室は偉大なんだよ」


「そこまで言ってない」


「白石先輩なら分かりますよね?」


 春樹が反対側へ顔を向けると、栞は少し困ったように笑った。彼女も図書室を出てすぐの暑さには驚いたらしく、長い黒髪を片手で軽く押さえながら、それでも春樹の言葉には小さく頷いている。


「涼しくて静かで、本もたくさんありますから」


「ほら」


「でも、今日は外も少し楽しそうです」


「白石先輩まで交流会に染まってる……」


「七瀬君も、さっき楽しみだと言っていましたよね?」


「それはサッカーの話です」


「同じじゃない?」


 雫が横から口を挟むと、春樹は数秒考えた末に反論を諦めた。


 確かに今日に限れば、図書室だけに籠もっていたかったとは思わない。試合の合間に本を読めたことも大きいが、久しぶりに本気に近い形でサッカーをして、普段は一緒に競技をしないクラスメイトたちと声を掛け合う時間も思っていた以上に楽しかった。


(結局、両方できるならそれが一番いいんだよな)


 ただし毎日部活動へ参加して読書時間を削るつもりはない。その部分だけは、今日どれだけサッカーが楽しくても揺らぎそうになかった。


 三人がグラウンド脇まで来ると、先に集まっていた杉浦拓海が大きく手を振った。


「七瀬! 遅い!」


「集合十分前だろ」


「俺ら十五分前からいる」


「早く来たやつ基準にするなよ」


 春樹はそう返しながら、雫と栞へ「じゃあ」と片手を上げる。二人も観戦場所へ向かい、春樹はそのまま二年三組の参加者が集まっている木陰へ歩いていった。


 杉浦のほかに山岸浩平、高木、そして午後から交代要員として入る男子生徒たちが集まっている。全員に午前中ほどの硬さはなく、疲労こそ見えるものの、自分たちから対戦相手の話をする程度には試合へ意識が向いていた。


「で、神谷のところなんだろ?」


 山岸が尋ねてくる。


「二年二組。朝の最初にやった相手」


「朝って負けたんだっけ?」


「引き分け」


「あ、そうだった。なんか今日いっぱい試合したから分かんなくなってきた」


「まだ三試合だぞ」


「バスケも出てんだよ、俺は!」


 山岸が抗議すると、周囲から笑いが起きる。春樹も笑いながら彼の顔色と動きを確認したが、極端に疲れている様子はない。


「バスケはもう終わった?」


「終わった。だから最後は出られる」


「脚は?」


「普通。七瀬の方がやばいんじゃね?」


「重いけど、痛くはない」


「先生に怒られる前にちゃんと抜けろよ」


「何でお前が先生側なんだよ」


「午前から見てたら心配にもなるって」


 山岸は笑いながら言ったが、春樹はその言葉を冗談だけで流さなかった。


 実際、脚には疲れが残っている。先ほど図書室で二十分ほど座っていたことで多少は回復したものの、朝のように好きなだけ走れる状態ではない。


「最初から出るけど、様子見て交代する。今日は再出場できるから、必要なら最後だけ戻る」


 春樹がそう言うと、杉浦が意外そうに眉を上げた。


「最後まで出ないの?」


「出られるかどうかと、出た方がいいかは別だろ。俺が疲れて動けないなら、元気なやつ出した方がいい」


「代表っぽいこと言うなあ」


「だから連絡係だって」


「もう誰も信じてないぞ、それ」


 杉浦の言葉に周囲が笑い、春樹は諦めたように肩をすくめた。


 そのとき、少し離れた場所から聞き覚えのある声が届く。


「七瀬ー!」


 振り向くと、二年二組の集団から神谷蓮がこちらへ歩いてきていた。運動着の袖を肩近くまで捲り、いかにも試合を待ちきれないといった表情で笑っている。


「またお前か」


「何だよ、その嫌そうな言い方」


「藤堂に余計な情報流しただろ」


「ああ、直哉とやったんだって?」


「俺が本のためにサッカー部入らなかった変人だって説明したらしいな」


「だいたい合ってるだろ」


「悪意しかない」


「褒めたんだけどなあ」


 神谷はまったく悪びれずに笑い、春樹も本気で怒っているわけではないため、それ以上追及はしなかった。


「それより、朝より面白くなりそうじゃん」


 神谷の視線が、春樹の後ろにいる三組のメンバーへ向かう。


「さっき二年一組とやってるの、途中から見たぞ。朝より全然動けてた」


「見てたのか」


「次当たる可能性あったしな。それに、お前がどうしてるか気になった」


「偵察じゃん」


「半分はな」


 神谷は笑って認めた。


「高木だっけ? 右にいたやつ。朝はボール来るたび慌ててたのに、さっき普通に前見てたし、山岸も結構声出してた。杉浦も朝より周り使うようになってる」


 名前まで覚えているとは思わなかったのか、高木が少し驚いた顔をする。


 春樹も神谷を見直した。


「ちゃんと見てるな」


「俺、一応サッカー部なんだけど」


「普段の言動で忘れてた」


「ひどくない?」


「神谷だからな」


「どういう意味だよ」


 二人が笑い合う。


 中学時代には何度も同じユニフォームを着て、同じ方向へ攻めた。春樹が後ろから出したボールへ神谷が走り、逆に神谷が相手を引きつけて空いた場所へ春樹が入ることもあった。


 高校では別のクラスになり、春樹は部活にも入らなかった。


 その二人が今日、二度目の対戦相手として向き合う。


「朝と同じだと思うなよ」


 春樹が言うと、神谷の笑みが深くなった。


「それ、こっちの台詞。朝は俺もお前の動き思い出しながらやってたからな。今度は最初から分かってる」


「じゃあちょうどいいな」


「何が?」


「その方が面白い」


 春樹が自然に答えると、神谷は一瞬だけ目を丸くした。


 すぐに、呆れたような笑いへ変わる。


「やっぱお前、サッカー好きじゃん」


「だから好きだって何回言えば分かるんだよ」


「じゃあ部活――」


「入らない」


「まだ最後まで言ってない!」


「言うこと分かるから」


 春樹が手を振ると、神谷は笑いながら二組の方へ戻っていった。


 その背中を見送った杉浦が、隣から春樹の顔を覗き込む。


「七瀬、めっちゃ楽しそう」


「今日それ何回言われるんだよ」


「だって顔に出てるし」


「そんな出てる?」


「出てる」


 山岸と高木まで揃って頷いたため、春樹は反論するのをやめた。


(そんなに分かりやすいか?)


 自覚がないわけではない。


 疲れているのに、早く始まらないかと思っている。


 相手が自分の癖を知っているなら、どう崩すか考えたい。朝とは違う三組のメンバーが、今の二組を相手にどこまでできるのかも見てみたい。


 それを楽しみにしている時点で、否定する方が無理があるのだろう。


     ◇◇◇


 観戦場所へ移動した雫と栞のところには、数分もしないうちに真実とひよりが合流した。


「間に合いました!」


 ひよりが勢いよく駆け寄ってきたため、雫は思わず笑う。


「そんなに走らなくてもまだ始まらないよ」


「いい場所なくなったら困るじゃないですか!」


「ライブじゃないんだから」


「似たようなものです!」


「違うと思うけどなあ」


 真実はひよりより少し遅れて到着し、呼吸を整えながら栞へ会釈した。


「白石先輩も来られたんですね」


「はい。次まで少し時間があるので」


「よかったです」


 真実は素直に笑い、そのまま四人でグラウンドへ視線を向けた。


 春樹は杉浦たちと話している。


 少し離れたところには神谷がいて、二人が何か言い合ったあと同時に笑うのが見えた。


「あの人が神谷先輩ですか?」


 ひよりが尋ねる。


「そう。春樹と中学で同じチームだった人」


 雫が答える。


「仲いいんですね」


「今も会えば普通に話すみたい。高校入ってからはクラス違うし、春樹は部活入ってないから前ほどじゃないと思うけど」


「西条先輩、本当に何でも知ってますね」


「何でもではないよ」


 雫は以前なら即座に否定しなかったかもしれない。


 幼馴染なのだから春樹のことは自分が一番知っている。そんな感覚が、どこかにあった。


 けれど最近は、自分の知らない春樹を何度も見ている。


 栞と本の話をするときの表情も、真実へ勉強を教えていたときの姿も、生徒会長の怜華と軽口を交わす距離も、自分が最初から知っていたものではない。


 それを寂しいと思うだけではなく、知りたいと思うようになった。


「でも、昔の春樹なら結構知ってるかな」


 雫が言い直すと、真実が小さく笑った。


「それはちょっと羨ましいです」


「え?」


「私が知ってる七瀬先輩って、最近の七瀬先輩だけなので。昔どんな人だったのかなって、たまに思います」


 真実は言ってから少し恥ずかしくなったのか、視線をグラウンドへ戻した。


 雫はそんな後輩の横顔を見る。


 胸の奥に、ごく小さな引っかかりが生まれた。


 以前なら、その感覚に戸惑っていたかもしれない。


 今は少し違う。


(新海さんも、春樹のこと知りたいんだ)


 その事実を認めたうえで、自分はどう感じているのか。


 嫌ではない、と言えば嘘になる。


 けれど、だからといって真実に「知らなくていい」と思うわけでもなかった。


「昔もそんなに変わらないよ」


 雫は少し考えてから答えた。


「本は今ほどじゃなかったけど、好きなこと見つけると急に集中するし、変なところ頑固だし、人のこと見てないようで意外と見てる」


「最後のは、今もそうですね」


 栞が静かに言う。


「ですよね」


 真実も頷く。


「あと本人だけ、自分が見られてることには気づかない」


 雫が付け加えると、三人の間に一瞬だけ妙な沈黙が生まれた。


 最初に吹き出したのはひよりだった。


「それ、すっごく分かります!」


「小日向さんまで」


 栞も口元を隠しながら笑う。


 真実は何か思い当たることがあったらしく、困ったように笑っていた。


 雫もつられて笑いながら、ふと不思議に思う。


 こうして春樹の話をしている。


 相手は、自分とは違う形で春樹と関わっている女の子たちだ。


 なのに、思っていたほど居心地は悪くない。


 もちろん、何も感じないわけではなかった。


 ただ、誰かが知っている春樹を聞くことで、自分の知らなかった彼を知ることもできる。そのことを、最近の雫は少しずつ受け入れられるようになっていた。


「始まるみたいです」


 栞の声で、全員の視線がコートへ戻った。


     ◇◇◇


 試合開始前、春樹は最後に全員を集めた。


 朝とは違い、誰も「どうすればいい?」という顔だけでこちらを見てはいない。杉浦は相手側の配置を確認し、山岸は自分から後ろの人数を数え、高木も右側のスペースを気にしている。


 それだけで、春樹は少し嬉しくなった。


「朝と同じ相手だけど、朝と同じことはしなくていいから」


 春樹が話し始めると、全員が顔を向ける。


「神谷は俺の動き知ってる。たぶん最初から俺へのパスを結構切ってくると思う」


「じゃあ七瀬に出さない方がいい?」


 高木が尋ねた。


「いや、出せるなら出して。でも俺だけ見ないでいい。むしろ神谷が俺についてくるなら、その分どこか空くから」


 春樹は地面へ靴先で簡単な位置関係を描いた。


「杉浦は朝より少し左寄り。高木は右を広く使って。山岸は最初後ろだけど、俺が下がったら一個前へ出てもいい」


「俺が?」


「さっき結構パス出せてただろ」


「まあ……前よりは」


「じゃあやってみよう」


 山岸は少し不安そうだったが、拒否はしなかった。


 その様子を見ていた杉浦が口を開く。


「七瀬、俺らからも一個いい?」


「何?」


「お前もシュート打てよ」


「は?」


 予想していなかった言葉に、春樹は目を瞬かせた。


「朝からずっとパス多いじゃん。さっきの試合も自分で行けそうなとこで俺に出したし」


「あれは杉浦の方が確率高かったから」


「そういうとこ。俺らも前より動けるようになったんだから、七瀬が前行っても何とかする」


 杉浦の言葉に、山岸も頷く。


「俺もそう思う。七瀬が全部後ろ見なくても、さっき最後できてたし」


「高木は?」


 春樹が尋ねると、高木は一瞬迷ったものの、やがて頷いた。


「俺も……たぶん朝よりはできる。まだ怖いけど」


「そこは正直なんだな」


「怖いもんは怖い」


 高木自身が笑い、周囲にも笑いが広がった。


 春樹は三人を見る。


(そっか)


 自分が助ける側だと思っていた。


 経験の少ないメンバーが困らないよう、後ろから見て、使いやすいところへボールを出す。その方が全員で楽しめるし、試合としても安定すると思っていた。


 けれど彼らはもう、朝のままではない。


 なら、自分だけが朝と同じ役割へ留まる必要もない。


「分かった」


 春樹は小さく笑った。


「じゃあ、行けそうなら行く」


「最初からそうしろよ」


「でもお前らが崩れたら戻るからな」


「信用ねえ!」


「朝の状態知ってるから」


「今は午後だ!」


「それを見せてくれよ」


 杉浦が一瞬黙ったあと、にやりと笑った。


「言ったな?」


「言った」


 開始位置へ向かう全員の足取りは、朝より明らかに軽かった。


     ◇◇◇


 笛が鳴り、最後の試合が始まった。


 二組のボールから開始され、神谷が中央で受ける。


 春樹はすぐには寄らなかった。


 朝なら、神谷の次の選択肢を消すため中央へ入っていた。だが今回は半歩だけ外へ位置をずらし、あえて内側に狭い道を残す。


 神谷がそれを見る。


 視線が一瞬ぶつかった。


(来るだろ)


 春樹の予想通り、神谷は中央へ運んだ。


 そこへ山岸が出る。


「山岸、今!」


「おう!」


 山岸は真正面から奪いに行かず、神谷が次に出そうとしたパスの先へ身体を入れた。


 神谷がわずかに止まる。


 その一瞬で春樹が距離を詰めた。


「やっぱ罠かよ!」


「知ってて来たのは神谷だろ!」


「行けると思ったんだよ!」


 神谷は笑いながらボールを横へ逃がす。


 完全には奪えなかった。


 それでも攻撃の速度は落ちた。


 二組が横へつなぎ直す間に、三組の守備が戻る。


「高木、外!」


「分かってる!」


 高木が自分から右側へ広がり、相手のパスコースを消す。


 春樹はその声を聞きながら、少しだけ口元を緩めた。


(ちゃんと自分で見てる)


 相手のパスが後ろへ戻る。


 そこから逆側へ展開されるが、杉浦も戻っていた。


 二組は簡単には前へ進めない。


 神谷が再び中央へ顔を出し、ボールを受ける。


 今度は春樹が近づく。


「お前、朝より前出てるな」


「そう?」


「そうだよ。ずっと後ろで人使ってたくせに」


「文句は杉浦たちに言って」


「何で?」


「前行けって言われた」


 神谷の目がわずかに動く。


 春樹の後ろにいる三組のメンバーを見る。


「へえ」


 その一言には、少し嬉しそうな響きがあった。


「じゃあ見せてもらうわ」


「何を?」


「今の三組」


 神谷が急に速度を上げる。


 春樹も追う。


 ボールを左へ運んだ神谷は、春樹が並びかけた瞬間に外側へパスを出した。


 二組の選手が受ける。


 山岸が寄る。


 朝なら、春樹はすぐ山岸の後ろを埋めていた。


 しかし今回は止まる。


「山岸!」


「任せろ!」


 山岸が自分で相手の進路を狭める。


 抜かれそうになっても慌てず、中央へ入らせない。


 相手はクロス気味のボールを蹴るしかなくなり、ゴール前へ入ったボールを三組の別の男子が外へ弾いた。


「ナイス!」


 春樹の声が飛ぶ。


 山岸が振り返り、得意そうに笑った。


「見たか!」


「見てた!」


「俺、止めたぞ!」


「試合中だから戻れ!」


「分かってる!」


 言いながら山岸が走って戻る。


 観戦場所から笑い混じりの歓声が聞こえた。


     ◇◇◇


「山岸君、すごく楽しそう」


 真実が笑う。


「朝と全然違いますね」


 栞も頷いた。


 午前の最初の試合では、三組の選手たちは春樹の声を待つことが多かった。ボールが来るたびに慌て、春樹が空いている場所を示してから動く場面も少なくなかった。


 今は違う。


 春樹の声は聞こえる。


 けれど、それだけではない。


 山岸が高木へ声を出し、高木も杉浦へ知らせ、杉浦が後ろの位置を確認する。春樹を中心にしていること自体は変わらなくても、そこから何本もの線が伸びているように見えた。


「春樹、嬉しいだろうなあ」


 雫が呟く。


「分かるんですか?」


 真実が尋ねる。


「うん。たぶん」


 雫は春樹の横顔を見る。


 遠くて細かな表情までは分からない。


 それでも、分かる気がした。


「自分がいなくてもできるようになるの、あいつ結構好きだから」


「普通は自分が必要とされる方が嬉しくないですか?」


 ひよりが首を傾げる。


「春樹も頼られるの嫌いじゃないと思うよ。でも、ずっと頼られたいわけじゃないんじゃないかな」


 雫は少し考えてから続けた。


「勉強でもそうだったし。昔、私が分かんないところ聞いたときも、答えだけ教えるんじゃなくて、自分で解けるまで説明するタイプだった」


「西条先輩も勉強教えてもらってたんですか?」


「小学生の頃ね。逆もあったよ。春樹、夏休みの工作とか最後まで放置するから」


「七瀬先輩にもそういう時代が……」


「今も本が絡んだら似たようなもんだよ」


 真実が思わず笑う。


 栞も静かに笑っていたが、視線は春樹から離れなかった。


 自分は昔の彼を知らない。


 それでも、本について話すときの春樹を知っている。


 誰かへ本を薦めるとき、相手が自分とは違う感想を持っても喜ぶ人だということも知っている。


(似ているんですね)


 今グラウンドにいる春樹は、図書室にいる春樹とまったく別の人ではない。


 好きな本について語るときと同じように、相手が自分なりに何かを掴んだことを喜んでいる。


 そのことが分かると、サッカーをしている春樹が先ほどより少し近く感じられた。


     ◇◇◇


 開始から数分が過ぎても、両チームに得点はなかった。


 二組は朝より明確に春樹を警戒している。


 春樹が中央へ下がれば神谷が近づき、前へ出れば別の選手が受け渡す。露骨なマンマークではないものの、自由にボールを持たせない意図は明らかだった。


(朝の俺を基準にしてるな)


 なら、使える。


 春樹は中央から右へ移動した。


 神谷がついてくる。


 さらに外へ。


「七瀬、どこまで行くんだよ」


「散歩」


「試合中にするな」


 神谷が笑いながら追う。


 中央が空く。


「山岸!」


 春樹が呼ぶより先に、杉浦が声を出した。


「前!」


「おう!」


 山岸が中央へ上がる。


 高木からパスが入った。


 山岸は受ける直前に周囲を確認し、杉浦へ出す。


 杉浦が前を向く。


 二組の守備が寄った。


「右!」


 今度は高木自身が走る。


 杉浦から高木へ。


 高木が受けた瞬間、春樹は神谷から離れる方向へ一気に走った。


「うわ、そっちか!」


 神谷も反応する。


 しかし一歩遅い。


 高木が顔を上げた。


 春樹と目が合う。


 午前なら、ここで春樹へ出していただろう。


 けれど高木は一瞬だけ別の場所を見た。


(見えてる)


 春樹はそのまま走る。


 高木のパスは春樹へ来なかった。


 逆側の杉浦へ通る。


 二組の守備は春樹の動きにつられ、中央に一瞬だけ隙間ができていた。


「杉浦!」


「分かってる!」


 杉浦がシュートを打つ。


 低く速いボールがゴールへ向かう。


 キーパーが横へ飛び、辛うじて手に当てた。


 ボールはゴール横へ外れる。


「うわあ!」


 観戦場所から大きな声が上がった。


 杉浦は頭を抱えたが、すぐ高木へ振り返る。


「今のナイス!」


「俺!?」


「パス!」


「……おう!」


 高木の顔が一気に明るくなる。


 春樹も走りながら親指を立てた。


「高木、今のよかった!」


「七瀬に出さなかったぞ!」


「それでいいんだよ!」


「何か変な会話だな!」


 高木自身が笑う。


 神谷はそのやり取りを聞きながら、春樹の隣へ戻ってきた。


「お前、囮にされたぞ」


「俺がそうしろって言ってたからな」


「悔しくない?」


「何で? シュートまで行けたじゃん」


「やっぱ変わってねえな」


「何が?」


「中学のときもそうだった」


 神谷は一度息を整えながら、少し懐かしそうに笑った。


「お前、自分が二人引きつけて俺がフリーになると、自分で抜いたときより嬉しそうだった」


「そうだっけ?」


「そうだよ。こっちは点取ったのに、お前が『今二人来ただろ!』ってそこばっか喜ぶから覚えてる」


「全然覚えてない」


「俺は覚えてる」


 神谷の言葉に、春樹は少しだけ目を細めた。


 自分では忘れているようなことを、誰かが覚えている。


 それは最近、何度か経験した感覚だった。


 本の感想を自分が覚えていることで驚かれることもあれば、自分が忘れていた昔のことを雫が覚えていることもある。


 人との間に積み重なるものは、案外そういうものなのかもしれない。


「でも、今度は止める」


 神谷が笑う。


「聞こえてたぞ、高木! 次は杉浦へのパスも見るからな!」


「言うなよ!」


 高木が遠くから抗議し、周囲に笑いが広がった。


     ◇◇◇


 その後、試合は一気に動いた。


 二組が右側から攻め、神谷が中央へ走り込む。


 春樹もついていく。


 神谷へのパスが入る直前、春樹は足を出さず身体を寄せた。神谷は背中でボールを守りながら反転しようとするが、春樹も簡単には許さない。


「重っ!」


「失礼だな」


「体重じゃねえよ!」


「分かってる」


 神谷が笑いながらボールを戻す。


 その瞬間、二組の別の選手が左側から走り込んだ。


「左!」


 山岸の声が響く。


 高木が反応する。


 パスが出る。


 高木は完全には追いつけない。


 相手が先に触った。


 そのままゴール前へ低いボールが送られる。


 三組の守備が一瞬遅れた。


 神谷が春樹の前へ出る。


(来る)


 春樹も追う。


 神谷が右足を合わせた。


 シュートはキーパーの横を抜け、ネットへ入った。


 二組側から歓声が上がる。


 神谷は大きく息を吐きながら、春樹へ振り返った。


「一本!」


「やられた」


「今のは俺だろ?」


「パス出したやつが上手かった」


「そこは俺を褒めろよ!」


「動き出しはよかった」


「急に冷静な評価すんな!」


 神谷は笑いながら仲間のところへ戻る。


 春樹も笑っていたが、頭の中では失点までの流れを振り返っていた。


(俺が神谷に寄りすぎた。左から来るのは山岸が見てたけど、高木一人じゃ間に合わなかった)


 誰かの失敗ではない。


 全員が動いた結果、わずかな隙間を使われた。


 朝なら、失点したことで何人かが縮こまっていたかもしれない。


 春樹は三組のメンバーを見る。


「七瀬!」


 先に声を出したのは杉浦だった。


「取り返そう!」


 山岸もすぐ頷く。


「まだ時間ある!」


 高木だけは少し悔しそうだったが、それでも俯いてはいなかった。


「左、俺遅れた」


「次見ればいい」


 春樹が返すと、高木は一度だけ強く頷いた。


「次は行く」


 春樹の口元が自然に上がった。


「よし」


 それ以上、何も言う必要はなかった。


     ◇◇◇


「一点入りましたね」


 真実が少し悔しそうに呟く。


「まだ大丈夫です!」


 ひよりは両手を胸の前で握っている。


「春樹先輩たちなら返せます!」


「小日向さん、朝より応援が本気になってない?」


 雫が笑う。


「だって、ここまで見たら勝ってほしいじゃないですか!」


「それは分かるかも」


 真実も頷いた。


 栞は声こそ大きく出さないものの、先ほどから本を持つ手に少し力が入っている。読むつもりで持ってきたはずなのに、試合が始まってから一度も開いていなかった。


 雫がそれに気づき、少し笑う。


「白石先輩も結構本気ですね」


「え?」


「本、全然読んでないです」


 指摘されて、栞は自分の手元を見る。


 文庫本は閉じたままだった。


「……本当ですね」


「春樹が見たら驚きそう」


「読書よりサッカーを優先したって?」


「たぶん」


 二人は小さく笑う。


 栞は再びグラウンドへ目を向けた。


「でも、今はこっちを見たいです」


 その言葉はとても静かだったが、迷いはなかった。


 雫は栞の横顔を見てから、自分も春樹へ視線を戻す。


 胸の奥が少しだけざわついた。


 それでも、以前のようにその感情から目を逸らそうとは思わなかった。


(白石先輩も、見たいんだ)


 春樹が楽しそうにしているところを。


 普段とは違う春樹を。


 それは自分だけではない。


 分かっている。


 それでも自分も見たい。


 その気持ちは、誰かと同じだから消えるものではなかった。


「春樹ー! 取り返して!」


 雫が声を上げた。


 普段より少し大きな声だった。


 春樹がグラウンドの中からこちらを見る。


 一瞬だけ目が合った気がした。


 春樹は片手を上げる。


 それだけの反応なのに、雫の胸が少しだけ跳ねた。


「西条先輩、声大きいですね」


 ひよりが楽しそうに笑う。


「応援は声が大事なんでしょ?」


「そうです!」


「小日向さんに影響されてる……」


 真実が笑い、栞も口元を緩めた。


 そして次の瞬間には、四人とも再びグラウンドへ視線を戻していた。


     ◇◇◇


 一点を追う三組のボールで試合が再開された。


 春樹は中央で受ける。


 神谷がすぐ近くへ来た。


「今度はお前が来る?」


「どうだろ」


「その顔嫌なんだよな」


「どんな顔だよ」


「何か考えてる顔」


 春樹は答えず、後ろの山岸へボールを戻した。


 神谷の視線が一瞬そちらへ向く。


 春樹は走る。


 ただし前ではない。


 右側へ。


 高木の近くへ寄る。


「高木」


「うん」


「一回返して」


 山岸から高木へボールが渡る。


 高木は春樹へ出す。


 春樹が受ける。


 神谷が寄る。


 春樹はすぐ高木へ返した。


「また!」


 高木が前へ運ぶ。


 神谷が春樹についているため、高木の前には一人しかいない。


「行ける!」


 春樹の声に、高木は止まらなかった。


 相手が寄ってくる。


 高木は右へ抜こうとする。


 止められる。


 ボールが少し離れた。


「高木!」


「まだ!」


 高木が身体を入れる。


 完全には奪われない。


 相手と競りながら、どうにか後ろへボールを戻した。


 山岸が拾う。


「杉浦!」


 今度は山岸が自分で判断して逆側へ出した。


 杉浦が受ける。


 二組の守備が横へ動く。


 春樹は中央へ戻った。


 神谷もついてくる。


「お前、ずっと俺についてていいの?」


「そのためにいるんだけど」


「じゃあ、ありがと」


「何が?」


 春樹は急に速度を落とした。


 神谷も反応して止まりかける。


 その瞬間、春樹は再び前へ走るのではなく、杉浦から離れる方向へ大きく下がった。


 神谷が迷う。


 ついてくれば、ゴール前から一人消える。


 残れば、春樹がフリーになる。


 ほんの一瞬だった。


 けれど杉浦には十分だった。


「山岸!」


 杉浦は中央の山岸へ戻す。


 山岸が前を見る。


 春樹はまだ下がっている。


 神谷が一歩だけ春樹へ寄った。


「高木!」


 山岸のパスが右へ飛ぶ。


 高木が受ける。


 先ほどと同じ形。


 二組の守備が高木へ向かう。


 今度の高木は、前へ運ばなかった。


 受けた瞬間に中央へ返す。


 そこへ杉浦が走り込んでいる。


「杉浦!」


「おう!」


 杉浦が受ける。


 ゴールまではまだ距離がある。


 守備が一人寄る。


 杉浦はシュートを打たず、左へ流した。


 そこには誰もいないように見えた。


 だが、次の瞬間。


「七瀬!」


 春樹が走り込んでいた。


 下がったあと、神谷の視線がボールへ移った瞬間に方向を変えていた。


「お前……!」


 神谷が追う。


 春樹がボールを受ける。


 ゴールは斜め前。


 キーパーが構える。


 右側には杉浦。


 後ろには高木。


 神谷が左後方から迫る。


(パス――)


 いつもの癖で、最初に味方の位置が頭へ入る。


 杉浦なら出せる。


 高木へ戻してもいい。


 けれど、試合前に言われた言葉が蘇った。


『お前もシュート打てよ』


 春樹はほんの少しだけ笑った。


(じゃあ、一回くらい)


 右足を振る。


 神谷がコースへ身体を入れようとする。


 春樹はゴール右を狙うように身体を開き、最後の瞬間だけ足首の角度を変えた。


 ボールは低く、左側へ飛ぶ。


 キーパーの重心は逆へ動いていた。


 伸ばされた手の先を抜け、ボールがゴールネットへ吸い込まれる。


 直後、観戦場所から大きな歓声が上がった。


「春樹ぃー!」


「七瀬先輩!」


「春樹先輩、すごいです!」


 複数の声が混ざり、誰の声なのか一瞬では分からない。


 春樹はゴールを確認したあと、その場で息を吐いた。


「……入った」


「反応薄っ!」


 真っ先に駆け寄ってきた杉浦が春樹の肩を叩く。


「お前が決めたんだぞ!」


「分かってるよ」


「もっと喜べ!」


「喜んでるって!」


 春樹が笑う。


 そこへ山岸と高木も集まってきた。


「七瀬がシュート打った!」


「珍しいもの見たみたいに言うなよ」


「だって今日ほとんど打たないじゃん!」


「必要なら打つって」


「最初から打て!」


「お前らが前行けって言ったから行ったんだろ!」


 全員が笑う。


 少し離れたところでは、神谷が両手を腰へ当てながら空を仰いでいた。


「最悪……」


「何が?」


「中学のときから知ってるから、絶対最後パスすると思った」


「俺も最初はそのつもりだった」


「途中で変えたのかよ」


「杉浦たちにシュート打てって言われてたの思い出した」


 神谷が三組のメンバーを見る。


 杉浦たちはまだ嬉しそうに話している。


 それから神谷は、春樹へ視線を戻した。


「そっか」


「何?」


「いや」


 神谷は少し笑った。


「朝より面白いなって」


「だろ?」


「お前が言うな」


 得点は一対一。


 試合は再び振り出しへ戻った。


     ◇◇◇


 観戦場所では、ひよりが誰よりも大きく拍手していた。


「春樹先輩、シュートもできるじゃないですか!」


「できるよ。昔から」


 雫も笑いながら拍手している。


 胸の鼓動が、少しだけ速い。


 走っていたわけでもないのに。


 春樹がゴールを決めた瞬間、考えるより先に名前を呼んでいた。


 以前にも春樹がサッカーをする姿を見たことはある。


 中学時代も、試合を見に行ったことがあった。


 その頃だって格好いいと思ったことはある。


 けれど、今感じたものは少し違った。


(……何が違うんだろ)


 分からない。


 ただ、昔より春樹を意識して見ている自分がいる。


 走り方も。


 笑った顔も。


 誰かに声をかけるところも。


 以前なら「春樹だから」で済ませていた一つ一つが、今は妙に目に残る。


「西条先輩」


「ん?」


 真実が隣で笑っている。


「今、一番大きな声でした」


「……そう?」


「はい」


「小日向さんより?」


「私も負けてません!」


「競ってないから」


 雫は少し恥ずかしくなり、タオルで口元を隠した。


 真実も笑っていたが、胸の内には雫とは別の揺れがあった。


 春樹がシュートを決めた瞬間、素直に格好いいと思った。


 その感情を打ち消す理由が、以前より見つからない。


(七瀬先輩って、本当にいろんな顔するんだ)


 本しか見えていないような人だと思った。


 話してみれば、勉強を教えるのも上手かった。


 後輩の話も思った以上にきちんと聞いてくれた。


 サッカーでは、自分が目立つことより周囲を動かすことを楽しんでいる。


 そして今、自分でゴールを決めたあとも、真っ先に一緒に動いたクラスメイトと笑っている。


 知るたびに印象が増えていく。


 それが楽しい。


 もっと知りたいと思う。


 そこまでなら、もう自分でも認められる。


 その先に何があるのかは、まだ分からなかった。


「七瀬君、嬉しそうです」


 栞の声が聞こえ、雫と真実が同時にそちらを見る。


 栞はグラウンドを見たまま、柔らかく笑っていた。


「自分で点を取ったからですかね?」


 真実が尋ねる。


 栞は少し考えた。


「それもあると思います。でも……みんなが喜んでいるから、かなと思いました」


 雫は春樹を見る。


 確かに、春樹は自分の得点そのものより、杉浦たちが騒いでいることを楽しそうに見ている。


「白石先輩、春樹のこと分かってきましたね」


 雫が何気なく言うと、栞が目を瞬かせた。


「そうでしょうか」


「うん」


「……それなら、嬉しいです」


 栞は小さく笑った。


 その返事を聞いた雫の胸へ、また小さなざわめきが生まれる。


 けれど今度も、それをなかったことにはしなかった。


(私も、もっと知りたい)


 同じ気持ちを持つ人がいるからといって、自分の気持ちが偽物になるわけではない。


 そのことだけは、少しずつ分かり始めていた。


     ◇◇◇


 同点になったあとも、試合の勢いは落ちなかった。


 むしろ両チームとも、ここからが本番だと言わんばかりに動きが激しくなる。


 神谷が前へ出れば春樹が追い、春樹が中央へ入れば神谷が進路を塞ぐ。互いに相手の癖を知っているせいで、一度目の対戦よりも駆け引きが増えていた。


「七瀬、右見る癖まだあるぞ!」


「言うなよ!」


「知ってる情報は使う!」


「じゃあ神谷、切り返す前に左肩下がるからな!」


「お前も言うな!」


 二人のやり取りに、周囲の選手まで笑う。


 それでもプレーそのものは真剣だった。


 春樹が神谷の癖を読んでボールを奪えば、次は神谷が春樹の視線からパスコースを予測して遮る。中学時代に味方だったからこそ知っているものが、今は互いを止める材料になっていた。


(面白い)


 春樹の呼吸はかなり荒くなっている。


 脚も重い。


 それでも、頭は妙に冴えていた。


 自分が知っている神谷と、今の神谷は同じではない。


 高校でサッカーを続けてきた分、身体も動きも以前より強くなっている。自分が知っている癖を利用しようとしても、その先で修正されることがある。


 それはきっと神谷から見た自分も同じなのだろう。


「七瀬!」


 山岸の声が飛ぶ。


 春樹は振り返る。


 ボールが来る。


 受ける直前に周囲を見る。


 杉浦が前。


 高木が右。


 神谷が左から来る。


 春樹はワンタッチで山岸へ返した。


「もう一回!」


 山岸がすぐ返す。


 神谷が一歩前へ出た。


 春樹は身体を右へ向ける。


 神谷も反応する。


 しかしボールは右へ出さない。


 左足の内側で、神谷の背後へ小さく流した。


「うわ!」


 杉浦が走り込む。


「ナイス!」


 春樹も前へ出ようとした。


 その瞬間、右脚の太ももに強い張りを感じた。


「っ……」


 痛みではない。


 ただ、明らかに疲労が限界へ近づいている。


 春樹は無理に加速するのをやめた。


 杉浦が攻撃を続けている間に、自分の脚の状態を確かめる。


(ここで無理する必要ないな)


 朝から何度も言われている。


 永山にも、違和感が出たら抜けろと言われた。


 試合はまだ終わっていない。


 同点。


 ここで自分が抜けるのは、少し惜しい。


 それでも、その惜しさだけで無理をする理由にはならなかった。


 ボールが外へ出た。


 春樹はすぐコート外へ手を上げる。


「交代!」


 杉浦が驚いて振り返った。


「七瀬?」


「脚きつい。予定通り一回抜ける!」


「大丈夫か?」


「痛くはない!」


 交代要員の男子が準備する。


 神谷も近づいてきた。


「もう抜けんの?」


「朝から走ってるんだよ。現役と一緒にするな」


「情けねえなあ」


「帰宅部舐めんな」


「威張るところじゃないだろ」


 二人は笑う。


 春樹は交代する直前、杉浦たちを集めるように手招きした。


「俺抜けたら、山岸一個前。杉浦は中央寄りすぎない。高木は今のままでいい」


「分かった」


「あと――」


 春樹はそこで言葉を止めた。


 朝なら、もっと細かく指示していたかもしれない。


 誰がどこを見るか。


 誰へ最初に出すか。


 神谷をどう止めるか。


 けれど、今の三人の顔を見ていると、それを全部言う必要はないと思えた。


「いや、いいや」


「何だよ」


 杉浦が眉を上げる。


「自分たちでやってみて」


 三人が一瞬黙る。


 最初に笑ったのは山岸だった。


「それ、急に丸投げしてない?」


「嫌なら全部言うけど」


「いや」


 山岸は首を横に振った。


「やる」


 高木も頷く。


「俺もやってみる」


 杉浦は春樹の肩を軽く叩いた。


「ベンチで見てろ、代表」


「連絡係」


「まだ言うか」


「最後まで言う」


 笑いながら、春樹はコートを出た。


     ◇◇◇


 ベンチへ腰を下ろすと、身体の疲れが一気に表へ出てきた。


 春樹はスポーツドリンクを口に含み、ゆっくり呼吸を整える。太ももの張りはあるものの痛みはなく、休めば問題なさそうだった。


「七瀬」


 背後から声がして振り返る。


 九条凛が立っていた。


「九条?」


「今、交代したところ?」


「うん。脚重くなったから」


 凛は春樹の脚へ視線を落とす。


「痛みは?」


「ない。疲れだけ」


「ならいいけど、無理はしないで」


「永山先生にも同じこと言われた」


「先生に言われているなら、なおさら守りなさい」


「守ってるから今抜けたんだって」


「それなら、ちゃんと判断できたのね」


「俺、九条の中でどれだけ無茶する人間になってるの?」


「本が絡んだときほどではないと思ってる」


「そこ永山先生と同じ評価なんだ……」


 春樹が肩を落とすと、凛は少しだけ笑った。


「でも、思っていたよりちゃんと周りを見ていたわ」


「試合?」


「少し前から見てた。自分で全部やろうとしないのね」


「一人でやる競技じゃないし」


「そういう意味じゃなくて」


 凛はコートへ目を向ける。


 春樹が抜けたあとも、三組は自分たちで声を掛け合っていた。


「最初に見たときより、周りの人が自分で動いているように見える」


「それは俺も思った」


「嬉しそう」


「今日それ言われすぎてる」


「みんな同じことを言うなら、本当にそう見えるんじゃない?」


「九条までそっち側か」


「事実を言っているだけ」


 凛は平然と答えたが、その視線は一瞬だけ春樹の横顔へ向いた。


 初めて春樹を見たときは、歩きながら本を読んで周囲への注意を欠く、規則以前に危なっかしい生徒だと思った。


 それが今では、自分より経験の少ないクラスメイトを気にかけ、必要なら前へ出て、必要がなくなれば任せる。


(本当に、最初の印象だけでは分からないものね)


 春樹から以前「ちゃんと見て判断するところが九条らしい」と言われたことを思い出す。


 なら、自分も見たうえで評価を変えるべきなのだろう。


「七瀬」


「何?」


「さっきの得点、よかったと思う」


 春樹が目を瞬かせる。


「見てたの?」


「途中から」


「ありがとう。珍しいな、九条が素直に褒めるの」


「褒めるべきところは褒めるわよ」


「そういうところ」


「何が?」


「いや、やっぱ九条だなって」


 春樹は深い意味もなく笑った。


 凛は返事をしようとして、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。


 まただ。


 春樹は時々、本人にとっては何でもない言葉でこちらの調子を崩してくる。


「……試合を見なさい」


「見てるよ」


「ならいい」


 凛はわずかに顔を逸らし、春樹の隣ではなく少し離れた位置からコートへ視線を向けた。


 春樹はその反応の理由を考えることなく、すぐ試合へ意識を戻した。


     ◇◇◇


 春樹が抜けてからも、三組は崩れなかった。


 神谷を完全に止めることはできない。


 それでも山岸が中央で進路を狭め、高木が外側を見て、杉浦が必要に応じて戻ることで、大きな隙間を作らないようにしている。


「山岸、後ろ!」


 高木が声を出す。


「見えてる!」


 山岸が答える。


 相手のパスが中央へ入る。


 山岸が寄る。


 神谷はそこで無理をせず横へ逃がした。


「高木、そっち!」


「任せて!」


 高木が走る。


 春樹はベンチから見ながら、何度か声を出しそうになった。


 そのたびに止める。


(今のは自分たちで分かってる)


 必要なときだけでいい。


 すべて教える必要はない。


 その判断は、読書の感想を聞くときにも少し似ていた。


 自分が先に解釈を話しすぎれば、相手が感じたものを狭めてしまう。だから先に聞く。


 今も同じだ。


 彼らがどう動くのかを見る。


 失敗したら、そのあと考えればいい。


 神谷が中央でボールを受ける。


 山岸が寄った。


 神谷は山岸をかわそうと右へ動く。


 山岸がついていく。


「おっ」


 春樹は思わず身を乗り出した。


 神谷が切り返す。


 山岸は完全には追いつけない。


 それでも最後まで身体を寄せたことで、神谷のパスがわずかにずれた。


 高木が拾う。


「取った!」


「前!」


 今度は杉浦が叫ぶ。


 高木は顔を上げる。


 杉浦へ出す。


 杉浦が受けて前へ走る。


 二組の守備が戻る。


 山岸も後ろから上がってくる。


「杉浦、右!」


 高木が自分から走り直していた。


 杉浦が一度中央へ寄せ、相手を引きつける。


 そこから高木へ。


「行け!」


 春樹はとうとう声を出した。


 高木が受ける。


 目の前に相手が一人。


 朝なら、そこで止まっていた。


 今は違う。


 高木は一度だけ中央を見たあと、自分で前へ運んだ。


 相手が寄る。


 抜けない。


 それでもボールを奪われる直前、中央へ蹴り込んだ。


「山岸!」


 そこへ山岸が走り込む。


「俺!?」


 本人が一番驚いていた。


「打て!」


 杉浦の声。


 山岸はほとんど反射的に右足を振った。


 ボールは綺麗とは言えない軌道でゴールへ向かう。


 キーパーが反応する。


 手に当たる。


 弾かれたボールがゴール前へ転がった。


「杉浦!」


 春樹が立ち上がる。


 杉浦が走り込む。


 二組の守備も追う。


 ほんのわずかに、杉浦が早い。


 伸ばした足がボールへ届いた。


 押し込む。


 ネットが揺れた。


 一瞬遅れて、三組側から爆発したような歓声が上がった。


「入ったあああ!」


 高木が両腕を上げる。


 山岸は自分のシュートが起点になったことを理解した瞬間、その場で跳ねるように喜んだ。


「俺! 俺のシュート!」


「外してるだろ!」


「キーパー弾いたんだからシュートだろ!」


「杉浦が決めたんだよ!」


「でも俺もやった!」


「やったやった!」


 三人が笑いながら集まる。


 春樹はベンチの前で立ったまま、大きく手を叩いていた。


「ナイス!」


 声が自然に大きくなる。


「今の最高!」


 杉浦がこちらを向く。


 山岸も高木も見る。


 三人とも笑っていた。


 春樹も笑う。


 自分が決めたときより嬉しそうだと何度も言われた。


 今なら、少しだけ認めてもいいかもしれない。


(確かに、これは嬉しいわ)


 朝はボールが来るだけで困っていた三人が、自分たちで奪い、自分たちで声を掛け、自分たちでつないで点を取った。


 春樹は何もしていない。


 ベンチから最後に叫んだだけだ。


 それなのに、今日のどの得点より胸が熱くなる。


「……本当に嬉しそうね」


 隣から凛の声がした。


「うん」


 今度の春樹は否定しなかった。


「これは嬉しい」


 凛が少し驚いたように春樹を見る。


 そしてすぐ、柔らかく笑った。


「そう」


 それ以上は何も言わなかった。


     ◇◇◇


 二対一。


 三組が初めてリードした。


 観戦場所も、いつの間にかかなり賑やかになっている。


「すごい! 春樹先輩いないのに入りました!」


 ひよりが興奮したまま声を上げる。


「その言い方だと七瀬先輩がいない方がいいみたいになるよ」


 真実が笑う。


「違います! 春樹先輩がいなくても、です!」


「春樹、今すごく嬉しそう」


 雫はベンチの方を見ていた。


 得点した杉浦たち以上ではないかと思うほど、春樹が楽しそうに笑っている。


 その隣には凛がいた。


 二人が何か話している。


 凛が春樹を見て、少しだけ笑った。


 雫の視線がそこで止まる。


 胸の奥に、小さな引っかかりが生まれた。


(九条さんも来てたんだ)


 それだけのことだ。


 同じ学年で、以前から春樹と話すこともある。


 今日の競技で顔を合わせても不思議ではない。


 分かっているのに、少し気になる。


「西条先輩?」


 ひよりの声で、雫は我に返った。


「何?」


「今、九条先輩見てました?」


「……見てたけど」


「仲いいですよね、春樹先輩と」


「そうだね」


 自分でも驚くほど普通に答えられた。


 ただし胸の奥の小さなざわつきは消えない。


(これも、前と同じなのかな)


 栞と春樹が本の話をしているとき。


 怜華が春樹をからかっているとき。


 真実が春樹を見たいと言ったとき。


 以前なら全部、幼馴染として気になるだけだと思っていた。


 今は、その説明だけでは足りない気がしている。


 答えを急ぐつもりはない。


 それでも、自分が何も感じていないふりをするのは、そろそろ難しくなってきた。


「でも今は試合」


 雫が小さく呟く。


「え?」


「何でもない。あとどれくらい?」


 真実が時計を見る。


「残り、そんなにないと思います」


 グラウンドでは、二組が再開の準備をしている。


 神谷の表情は笑っていた。


 負けているのに、どこか楽しそうだ。


 春樹と似ている。


「まだ終わらなそうですね」


 栞が静かに言う。


 その言葉通り、試合の空気は二対一になってからさらに熱を帯びていた。


     ◇◇◇


「七瀬!」


 神谷がベンチへ向かって声を飛ばした。


「何?」


「戻ってこいよ!」


「何で相手に言われるんだよ!」


「最後くらいやろうぜ!」


 神谷が笑っている。


 春樹は時計を見る。


 残り時間はわずか。


 太ももの張りは、休んだことで少し軽くなっている。


 痛みはない。


 再出場は可能だ。


 ただし、無理をする必要はない。


 春樹が迷っていると、コートの中から杉浦も声を上げた。


「七瀬!」


「今度は何!」


「戻れるなら戻ってこい!」


「お前らだけで勝てそうじゃん!」


「だからだよ!」


 意味が分からず、春樹は眉を寄せる。


 杉浦は息を切らしながら、それでも笑っていた。


「俺らが今までやれたんだから、最後は全員でやろうぜ!」


 山岸も手を上げる。


「俺も賛成!」


 高木まで頷いている。


「七瀬、最後だけ!」


 春樹は三人を見る。


 朝なら、自分が必要だから呼ばれていた。


 今は違う。


 彼らは自分がいなくても点を取った。


 守れる。


 声を掛け合える。


 それでも、一緒に最後までやろうと言っている。


(……それは、断りにくいな)


 春樹は脚を軽く動かし、状態を確かめる。


 問題はなさそうだ。


「九条」


「何?」


「痛そうに見える?」


「私に聞くの?」


「外から見て」


 凛は呆れながらも春樹の歩き方を確認する。


「少なくとも庇っているようには見えない。でも、少しでも痛みが出たらすぐ抜けなさい」


「了解」


「あと、終わったらちゃんと休むこと」


「本読む」


「座って読むなら好きにしなさい」


「許可出た」


「許可したわけじゃない!」


 凛の声を背中で聞きながら、春樹は交代を申告した。


 コートへ戻る。


 杉浦が笑う。


「遅い!」


「お前らが呼んだんだろ」


「最後頼むぞ、代表」


「連絡係」


「もう何でもいい!」


 神谷も少し離れた場所で笑っている。


「やっと来た」


「相手が戻ってきて喜ぶなよ」


「だって最後だろ」


「まあな」


 春樹は周囲を見る。


 杉浦。


 山岸。


 高木。


 朝とは違う顔をしている。


 観戦場所には雫たちがいる。


 少し離れたところには凛もいる。


 ほかにも三組のクラスメイトが何人も集まっており、いつの間にか自分たちの試合を本気で応援している。


(ただの交流会だったんだけどな)


 最初は、読書時間を削られることばかり気にしていた。


 三十分だけ練習して、適当に役割を果たし、空いた時間は本を読む。


 そのつもりだった。


 実際、本も読んでいる。


 そこは譲っていない。


 けれど、それだけではなくなった。


 春樹はゆっくり息を吐き、神谷を見る。


「来いよ」


 神谷が笑う。


「言われなくても」


 再開の笛が鳴る。


 残り時間はわずか。


 二対一で三組がリード。


 神谷がボールを受けると同時に前へ出て、春樹もその進路へ身体を向けた。


 今度は味方ではない。


 だからこそ、遠慮はいらない。


 朝から積み重ねてきた最後の数分が、そこで始まった。

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