第37話 次の試合に出るだけなのに、どうして応援する側まで本気になってるんだ?
午後の競技開始を知らせる放送が流れてからも、七瀬春樹はすぐには席を立たなかった。
窓の外では運動着姿の生徒たちがグラウンドや体育館へ向かっており、廊下からも普段の授業日には聞こえない賑やかな声が途切れず届いている。それでも春樹は開いた文庫本へ視線を落とし、白石栞から薦められた短編集の続きをじっくり読み進めていた。
三つ目の物語も終盤に差しかかっている。
最初の話では無愛想な常連客として登場していた男が、実は離れて暮らす娘から届く手紙を待つため、毎週同じ曜日、同じ時刻に喫茶店へ通っていた。その事情を店員もほとんど知らず、本人も誰かに説明しようとはしないため、周囲から見ればただ無口で愛想の悪い客にしか見えない。
(こういうの好きだな。事情を全部説明しないまま、それでも前の話で変だった行動にはちゃんと理由がある)
最初から事情を知った状態で読めば、きっと印象は違う。
けれど、あえて一度誤解させてから別の視点を与えることで、同じ人物の見え方が変わっていく。その変化そのものが面白い。
春樹は残りページを確認しそうになり、途中でやめた。
(時間は……)
代わりに机の端へ置いていたスマートフォンの画面を見る。
集合時刻まで十三分。
十分前には行くつもりだったので、もう出た方がいい。
「うわ、すごい顔してる」
正面から声がして、春樹は本から顔を上げた。
高坂悠斗が自分の席へ戻ってきていた。片手には飲み物、もう片方には途中まで読んでいる映画原作の文庫本を持っている。
「何が?」
「本を閉じたくない顔」
「あとちょっとで一区切りなんだよ」
「じゃあ読めば?」
「集合に遅れる」
「代表が遅刻したら大問題だもんな」
「連絡係」
「午後になっても諦めないんだな、その設定」
「設定じゃない」
春樹は栞を挟んで本を閉じると、名残惜しさを振り切るように鞄へしまった。
悠斗はその様子を見ながら笑っていたが、自分も午後の競技予定を確認すると、少しだけ表情を引き締める。
「俺もそろそろ体育館行くわ。次、勝てば結構いいところまで行けるらしい」
「頑張れ」
「軽いな」
「じゃあ、全力で勝って赤木に格好いいところ見せてこい」
「急に余計なもの足すな!」
悠斗の声が少し大きくなり、近くにいたクラスメイトが何事かと振り返った。
春樹は笑いを堪えながら立ち上がる。
「でも、赤木も出るんだろ?」
「同じチームだからな。だから俺が格好つけるとかじゃなくて、普通に勝ちたいだけだって」
「分かってるよ」
「絶対分かってない顔してる」
「他人の恋愛って面白いな」
「お前、いつか刺されるぞ」
「何でだよ」
悠斗は呆れたように息を吐いたものの、本気で嫌がっているわけではない。
むしろ午前中に紗弥と交わした会話を思い出したのか、教室を出る直前には少しだけ口元が緩んでいた。
春樹はそれを見逃さなかったが、今度は何も言わない。
(楽しそうならいいじゃん)
自分のことならともかく、他人の恋愛模様を眺めるのは好きだ。
小説でも現実でも、本人たちが少しずつ距離を縮めていく過程は面白い。もっとも、現実の場合は小説と違って作者が都合よく展開を用意してくれるわけではないので、春樹も余計な介入をするつもりはなかった。
悠斗と別れた春樹は、階段を下りてグラウンドへ向かった。
◇◇◇
午後の日差しは午前より明らかに強くなっていた。
薄い雲は残っているものの、校舎から外へ出た瞬間に湿った熱気が身体を包み、春樹は思わず目を細める。グラウンドの土も午前より乾いており、生徒が走るたびに細かな砂埃が浮かんでいた。
「暑……」
思わず漏れた言葉に、すぐ近くから笑い声が返ってくる。
「午前はあんなに走ってた人が何言ってるの」
「雫?」
西条雫が木陰に立っていた。
午前と同じ運動着姿だが、髪は少し乱れており、首にはタオルを掛けている。どうやら自分の競技を一つ終えた直後らしい。
「そっちも終わったの?」
「今一個終わったところ。勝ったよ」
「お、よかったじゃん」
「もっと褒めて」
「すごいすごい」
「雑」
「何の競技かも聞いてないのに褒めようがないだろ」
「じゃあ先に聞いてよ」
「面倒くさいな」
「何ですって?」
雫が眉を寄せる。
春樹は反射的に一歩だけ距離を取ったが、雫が本気で怒っていないことは分かっている。
「で、何だった?」
「ドッジボール。最後まで残った」
「普通にすごいじゃん」
「でしょ?」
「昔から逃げるの上手かったもんな」
「褒めてないよね、それ」
「褒めてるって。小学生のときも俺のボール避けてたし」
「春樹が本気で投げるからでしょ!」
「本気じゃなかったよ」
「こっちは怖かったの!」
昔の記憶が自然に出てきて、二人とも笑った。
春樹にとっては、それだけの会話だった。
けれど雫は、笑いながら少しだけ不思議な感覚を覚えていた。
午前、栞や真実たちと一緒に春樹の試合を見た。
みんながそれぞれ、自分の知っている春樹について話していた。
自分だけが知っている春樹ではない。
それを寂しいと思う気持ちは、確かに少しある。
けれど同時に、こうして何気なく昔の話をして、説明しなくても同じ記憶へ戻れる関係は、やはり自分にとって大切だった。
(だからって、それが何なのかはまだ分かんないけど)
無理に答えを出す必要はない。
少なくとも今は、そう思っている。
「春樹、次も出るんでしょ?」
「たぶん。組み合わせ見てからだけど」
「次の相手決まったって聞いたよ」
「本当?」
「二年一組」
「へえ」
「反応薄い」
「強いか分かんないし」
「一人、サッカー部いるって」
「それならちょっと面白そう」
春樹の目がわずかに変わる。
雫はそれに気づいた。
「やっぱりサッカー好きじゃん」
「好きだよ。何回言わせるんだよ」
「でも部活はやらない」
「本読む時間減るから」
「そこは絶対なんだね」
「絶対」
迷いのない答えに、雫は笑った。
サッカーをしている春樹を見れば、どうして続けなかったのかと思う。
けれど、こうして本人と話すと納得する。
春樹はサッカーを捨てたわけではない。
好きなものの中で、より好きなものを選んだだけだ。
「じゃあ、次も見てくね」
「雫、次の競技は?」
「まだ時間ある」
「ならいいけど」
「……止めないんだ」
「何で止めるんだよ」
「ううん。何でもない」
雫は少しだけ嬉しそうに笑った。
◇◇◇
集合場所へ着くと、二年三組のサッカー参加者はほぼ揃っていた。
杉浦拓海は木陰で座り込み、山岸浩平は靴紐を結び直している。高木は午前より疲れが見えるものの、表情そのものは明るい。
「七瀬来た!」
山岸が顔を上げる。
「お前ら早いな」
「午後の作戦会議」
「俺抜きで?」
「何となく集まってただけ」
「それ作戦会議じゃないだろ」
春樹が笑いながら近づく。
そこへ杉浦が紙を一枚差し出した。
「次、二年一組だって」
「聞いた」
「サッカー部いるらしい」
「それも聞いた」
「誰から?」
「雫」
「情報早っ」
「たまたま知ってただけだろ」
春樹は対戦表へ目を落とした。
午前の二勝によって、三組は順位決定側へ進んでいる。
次に勝てばさらに上位の試合へ進むことになるが、交流会なので公式大会ほど厳密なトーナメントではない。各クラスが複数試合できるよう組まれており、最終的な順位も全競技の総合点へ加算される程度だ。
「七瀬、最初から出る?」
高木が尋ねる。
春樹は少し考えた。
脚にはまだ疲労が残っている。
午前ほど重くはないが、二試合分の負担が消えたわけではない。
「最初は出る。ただ、ずっとは無理」
「じゃあ途中で交代?」
「そうする。山岸もバスケあるんだろ?」
「このあと一本ある」
「なら山岸も途中で抜く」
「俺、今日めっちゃ管理されてる」
「午後に動けなくなっても知らないぞ」
「分かってます、代表」
「連絡係」
「もういいって」
全員が笑う。
午前の試合前と比べると、明らかに空気が柔らかい。
最初は春樹の指示を待つことが多かったメンバーも、今では自分から話すようになっている。
「俺、前でいい?」
杉浦が聞く。
「いいけど、相手に経験者いるなら杉浦だけ前残ると中盤きついかも」
「じゃあ下がる?」
「ボール取られたときだけ戻って。攻撃のときは前でいい」
「了解」
「高木は最初右側。午前みたいに無理して抜かなくていいから、近くに出せる相手探して」
「分かった」
「山岸は後ろ」
「また守備かー」
「一番安定してきたから」
「……それ褒めてる?」
「褒めてる」
山岸は少し嬉しそうに口元を緩めた。
「じゃあやる」
春樹はそれを見て笑った。
(最初より全然いいな)
自分が全部決めなくても、話が進む。
誰がどこで動くかを説明すれば、それぞれが考えてくれる。
こういう変化は面白い。
「七瀬」
背後から低い声がした。
振り返ると、永山剛志が腕を組んで立っていた。
「先生」
「午後も随分と監督らしくなったな」
「先生まで言わないでください。俺は連絡係です」
「連絡係は普通、選手の配置まで決めない」
「成り行きです」
「お前の人生、最近その成り行きが多すぎないか?」
「俺もそう思います」
春樹が真顔で答えると、周囲から笑いが漏れる。
永山も口元をわずかに上げたが、すぐ春樹の脚へ視線を落とした。
「午前二試合出たんだろ」
「はい」
「痛みは?」
「ないです。疲れてるだけです」
「ならいい。ただし、違和感が出たらすぐ抜けろ。交流会で怪我して来週から体育見学なんて笑えんぞ」
「分かってます」
「本が読めなくなるとか言う前に、自分の身体を心配しろよ」
「脚なら本は読めます」
「七瀬」
「冗談です」
「お前は本が絡むと判断力が三割くらい落ちるんだよ」
「今日は落ちてません」
「ならそのまま保て」
永山はそう言い残し、別競技の生徒たちの方へ向かった。
杉浦が笑いを堪えながら春樹を見る。
「先生にも読書馬鹿認定されてんじゃん」
「認定じゃない。誤解」
「三割落ちるのは事実だろ」
「落ちない」
「授業中に本読んで怒られてるやつが言ってもなあ」
「今日は交流会だから授業ないし」
「そこじゃねえよ」
また笑いが起きた。
◇◇◇
観戦スペースには、午前より多くの生徒が集まっていた。
二年三組が連勝しているという話がクラス内で広がったらしく、自分の競技を終えた生徒たちが何人も様子を見に来ている。
その中には雫のほか、真実とひよりの姿もあった。
「また来たんだ」
雫が二人を見て笑う。
「時間が空いたので」
真実は少し照れながら答える。
「私は最初から来るつもりでした!」
ひよりは胸を張る。
「ひよりちゃんは本当に元気だね」
「応援は声が大事です!」
「春樹、たぶんそこまで大声じゃなくても聞こえるよ」
「でも大きい方が届きます!」
「何を届けたいの?」
「応援です!」
あまりにも迷いのない答えに、雫は笑った。
真実も口元を緩めながらグラウンドを見る。
「白石先輩は来ないんでしょうか」
「午前見たし、午後は自分の競技じゃない?」
雫が答える。
栞が午後も見に来るとは聞いていない。
午前に少し見たいと言っていたことは知っているが、彼女にも予定がある。
「一ノ瀬先輩は忙しそうでしたね」
「生徒会長だもん。ずっと見てられないでしょ」
「九条先輩も風紀委員の仕事あるって言ってました」
ひよりが周囲を見回す。
「何でみんな春樹先輩の予定知ってるんですかね?」
「ひよりちゃんが言う?」
雫がすぐ返す。
「私は春樹先輩本人から聞きました!」
「私もです」
真実も控えめに手を上げる。
雫は二人を見てから、グラウンドの春樹へ視線を戻した。
本人は準備運動をしながら杉浦たちと話している。
(本当に、増えたなあ)
春樹の周りに人が増えた。
それは今に始まったことではないが、最近は特にそう感じる。
本の話をする相手。
相談をする相手。
一緒に昼を過ごす相手。
サッカーを見に来る相手。
昔の自分なら、その中心にいるのは当然自分だと思っていたかもしれない。
今はそうではない。
それでも、不思議と完全に嫌ではなかった。
春樹が楽しそうだからだ。
ただし、自分の場所まで誰かに譲りたいとは思わない。
(……私、結構わがままなのかな)
そんな考えが浮かび、雫は小さく息を吐いた。
「西条先輩?」
真実が気づく。
「何でもないよ。始まりそう」
三人の視線がグラウンドへ戻った。
◇◇◇
試合開始の笛が鳴った。
春樹は中央より少し後ろの位置から動き始める。
開始してすぐ、相手の二年一組がボールを持った。
(確かに一人上手いな)
中央にいる男子生徒の動きが明らかに違う。
ボールを受ける前に周囲を確認し、足元へ来た瞬間には次のプレーを決めている。春樹と目が合うと、相手も少しだけ表情を変えた。
春樹は距離を詰めすぎない。
相手が右へ運ぶ。
春樹は正面へ入るのではなく、中央への進路を消すように身体の向きを調整した。
(外へ行かせる)
狙い通り、相手は右側へパスを出す。
高木が反応する。
「高木、縦だけ切って!」
「分かった!」
高木は抜こうとする相手へ無理に足を出さず、縦方向へ進ませないよう身体を寄せる。
相手は中央へ戻した。
そこには山岸がいる。
「山岸!」
「見えてる!」
山岸が先に身体を入れ、ボールを触った。
完全には奪えなかったものの、相手の攻撃が一度止まる。
春樹はこぼれたボールへ入り、そのまま杉浦へ送った。
「前!」
「おう!」
杉浦が走る。
観戦スペースから歓声が上がる。
春樹も後ろから追い上げた。
杉浦が一人をかわそうとしたところで、相手の守備に止められる。
ボールが中央へこぼれた。
春樹が拾う。
正面には先ほどのサッカー部らしい男子。
相手が少し笑った。
「七瀬だっけ?」
「そうだけど」
「神谷から聞いた。上手いのに部活入らなかったやつ」
「何で情報回ってんの?」
「有名なんじゃね?」
「嫌だな、それ」
言葉を交わしながらも、二人の足は止まっていない。
相手が距離を詰める。
春樹は右へ行くように身体を傾けた。
相手は簡単には動かない。
(ちゃんと見てる)
なら、無理に抜く必要はない。
春樹は山岸へ戻した。
「逃げる?」
相手が笑う。
「サッカーって一対一の競技じゃないだろ」
春樹はそのまま別の場所へ走る。
山岸から高木へ。
高木から杉浦へ。
相手の守備が横へ動く。
空いた中央へ春樹が入った。
「杉浦!」
パスが来る。
今度はワンタッチで前へ流す。
右側から高木が走り込んでいた。
「高木、そのまま!」
高木が受ける。
ゴール前へ近づく。
相手が寄る。
高木は午前なら慌てて蹴っていたかもしれない。
しかし今回は一度だけ顔を上げた。
中央に杉浦。
後ろに春樹。
高木は杉浦へ低いパスを送った。
杉浦が右足を振る。
シュートは相手キーパーに止められたものの、三組側から大きな歓声が上がった。
「惜しい!」
ひよりが両手を叩く。
真実も笑顔で拍手している。
雫は高木へ目を向けた。
「高木君、上手くなってる」
「昨日の練習のときより落ち着いてますね」
真実も気づいたらしい。
「春樹先輩がずっと周り見ろって言ってたからでしょうか」
「たぶんね」
雫は春樹を見る。
シュートを外した杉浦へ何か声をかけ、高木には親指を立てている。
自分が目立つことより、誰かができるようになったことを喜ぶ。
昔からそういうところはあった。
ただ、今の春樹は以前より人に教えるのが上手くなったように見える。
(本を選ぶようになったからかな)
相手が何を知っていて、何を知らないのか。
何が好きで、何が苦手なのか。
その人に合わせて考える。
栞が午前に言っていた通り、読書を通して増えたものが、サッカーにも表れているのかもしれない。
◇◇◇
試合開始から五分ほどが過ぎても、得点は動かなかった。
二年一組は強い。
特に中央の経験者が攻守の切り替えを担っており、春樹が自由に動こうとすると必ず近くへ寄ってくる。
春樹も相手を警戒しているため、互いに大きな決定機を作れない。
「七瀬、結構やるじゃん」
「そっちも」
「やっぱ部活来れば?」
「行かない」
「即答?」
「練習毎日あるだろ」
「あるけど」
「本読めないじゃん」
相手は一瞬黙った。
「神谷が言ってたの、本当なんだな」
「何を聞いたんだよ」
「サッカーより本を選んだ変なやつがいるって」
「神谷、あとで覚えとけよ」
春樹は笑いながらも、相手の足元を見ていた。
次の瞬間、相手が急に前へ出る。
春樹も反応する。
右へ。
そこから中央へ切り返す。
(速い)
春樹は身体を入れようとするが、半歩遅れた。
相手が抜ける。
「山岸!」
「任せろ!」
山岸が前へ出る。
相手は山岸を引きつけ、左へパス。
別の選手が受ける。
シュート。
ボールがゴール右隅へ入った。
二年一組の観戦側から歓声が上がる。
零対一。
春樹は一度息を吐き、腰へ手を当てた。
(上手いな。俺を抜いたあと、山岸までちゃんと見てた)
悔しくないわけではない。
ただ、それ以上に面白い。
自分が読んだ動きの一つ先を相手が選んだ。
久しぶりに、純粋に相手との駆け引きを楽しいと思った。
「七瀬、悪い!」
山岸が寄ってくる。
「いや、今のは俺が抜かれた。山岸はちゃんと止めに出てたからいい」
「でも点入ったぞ」
「一点だろ。まだ時間ある」
春樹は周囲を見る。
高木は少し不安そうだ。
杉浦も悔しそうに唇を噛んでいる。
「焦らなくていい。さっきの形作れてるから、同じこと続けよう」
「でも勝つなら七瀬がもっと前行った方がよくない?」
杉浦が尋ねる。
春樹は少し考えてから首を振った。
「今俺が前行くと、中央空く。相手の上手いやつ自由にした方がきつい」
「じゃあこのまま?」
「このまま。ただし、俺があいつについてる間は、他が一人空くから」
春樹は高木を見る。
「高木」
「俺?」
「さっきみたいに右で受けたら、今度は一回自分で前行ってみて」
「抜けるかな」
「抜けなくていい。相手を一人引きつければ、杉浦が空く」
「……分かった」
「失敗しても戻ればいいから」
高木は一度深く息を吐き、頷いた。
◇◇◇
観戦スペースでは、失点した直後からひよりが落ち着かなくなっていた。
「負けてます」
「一点だよ」
雫が宥める。
「でも春樹先輩抜かれました!」
「相手もサッカー部なんだから、そういうこともあるよ」
「西条先輩、冷静ですね」
「昔から見てるから」
そう答えた雫の声には、不思議な安心感があった。
春樹は負けず嫌いではある。
ただ、一度抜かれた程度で頭に血が上るタイプではない。
むしろ相手が上手いほど楽しそうになる。
実際、今も春樹の表情に苛立ちはない。
「……笑ってますね」
真実も気づいた。
「うん」
「負けてるのに」
「相手が上手いからじゃないかな」
「それで楽しいんですか?」
「春樹、昔からそういうとこあるよ。簡単に勝てるより、考えないといけない方が好きだった」
雫はそこまで言ってから、少し考える。
「本も同じなのかも」
「本も?」
「春樹って、何でも簡単な話ばっかり読むわけじゃないでしょ?」
「確かに」
「分からないことがあったり、あとから意味が変わったりする話も好きだし。たぶん、考えるのが好きなんだと思う」
真実はグラウンドの春樹を見る。
自分はまだ、春樹の昔を知らない。
雫のように中学時代の彼を見ていたわけではない。
それでも最近、少しずつ分かることが増えている。
本を選ぶとき。
勉強を教えるとき。
サッカーをするとき。
違うことをしているのに、同じ人だと思える部分がある。
(もっと知りたいって思うの、変じゃないよね)
真実はそう考えながら、試合へ視線を戻した。
まだ、その「知りたい」がどこへ向かうのかまでは分からない。
◇◇◇
再開後、高木の動きが変わった。
右側でボールを受けても、すぐ近くへ返さない。
一度前を見る。
相手が来る。
高木はボールを大きく蹴り出すのではなく、前へ二歩だけ運んだ。
「そのまま!」
春樹の声が届く。
相手が高木へ寄る。
高木はさらに一歩進み、相手が完全に自分へ向いたところで中央へパスを出した。
杉浦が空いている。
「ナイス!」
杉浦が受ける。
春樹は相手の経験者を引きつけたまま、中央から少し左へ動く。
相手もついてくる。
杉浦の前には一人。
「杉浦、山岸!」
「え?」
後ろから山岸が上がっていた。
杉浦が戻す。
山岸が受ける。
相手の守備が一瞬迷う。
春樹はその隙に方向を変えた。
「山岸、こっち!」
パスが来る。
相手の経験者も追う。
春樹は受ける直前、右足を振るように見せた。
相手がシュートコースへ身体を寄せる。
春樹は触らない。
ボールをそのまま後ろへ流す。
「えっ」
相手の声が漏れる。
春樹の背後から杉浦が走り込んでいた。
「杉浦!」
「任せろ!」
杉浦が右足を振る。
低いシュートがゴール左へ飛ぶ。
キーパーが手を伸ばす。
指先を抜けた。
ネットが揺れる。
「入った!」
高木が真っ先に声を上げる。
杉浦は両腕を広げて走り出した。
「よっしゃあ!」
山岸も駆け寄る。
春樹は笑いながら杉浦の肩を叩いた。
「ナイス!」
「今の七瀬、触ってないよな!?」
「触ってない」
「何で分かったんだよ!」
「お前が来てるの見えてたから」
「怖っ!」
「褒めろよ」
「褒めてる!」
一対一。
試合は振り出しへ戻った。
観戦スペースからも大きな歓声が上がる。
「春樹先輩、今何したんですか!?」
ひよりが真実へ聞く。
「私に聞かれても……」
「ボールを触るふりして、後ろの杉浦君に通したんだと思う」
雫が答える。
「触らない方がいいって分かったんですか?」
「たぶん」
「何で?」
「春樹だから?」
「説明になってません!」
ひよりが抗議する。
雫も笑うしかない。
正確な判断理由までは、雫にも分からない。
ただ、昔から春樹は周囲を見るのが上手かった。
自分で全部やるより、誰かを使う。
それが今も変わっていない。
「でも、春樹先輩すごく嬉しそうです」
真実が言う。
春樹は得点した杉浦と何か話しながら笑っている。
自分が得点したときより、確かに楽しそうに見えた。
「そういう人なんだよ」
雫は小さく答えた。
その言葉を口にした自分の胸へ、少しだけ温かいものが広がる。
春樹のことを知っている。
その事実が、以前とは違う意味で嬉しくなっていることに、雫自身も少しずつ気づき始めていた。
◇◇◇
同点になったあと、試合はさらに激しくなった。
二年一組も勝ちに来ている。
相手の経験者は春樹へ寄るだけでなく、自分から積極的に攻撃へ参加するようになった。
春樹もそれに合わせて走る。
ただ、脚の重さは確実に増していた。
(そろそろ交代した方がいいな)
時計を見る。
残りはまだある。
自分が抜けても、今の三組なら試合はできる。
春樹はボールが外へ出たタイミングで、コート外の高木と目を合わせた。
「高木! 次俺と交代!」
「俺?」
「いける?」
「いける!」
高木が立ち上がる。
春樹は交代を申告し、コート外へ出た。
「七瀬抜けるの?」
山岸が驚く。
「脚重い。無理する意味ないから」
「分かった」
「中央ちょっと狭めて。高木は右、杉浦が少し下がる!」
「了解!」
春樹はベンチへ戻る。
座った瞬間、脚へ一気に疲労を感じた。
「はぁ……」
息を整えながらスポーツドリンクを飲む。
そこへ声が飛んできた。
「春樹ー!」
雫だった。
「何?」
「大丈夫?」
「疲れただけ!」
「ならいい!」
短いやり取りだった。
けれど、春樹は少し笑った。
(よく見てるな)
自分が交代した理由まで何となく察したのだろう。
昔から、雫はそういうところがある。
春樹はそれ以上深く考えず、再び試合へ視線を戻した。
◇◇◇
春樹が抜けてからの三組は、やはり少し押された。
それでも崩れなかった。
山岸が中央を埋め、杉浦が前後へ動く。
高木も午前のように慌ててはいない。
「高木、後ろ!」
春樹が外から声を出す。
高木が確認する。
相手の走り込みへ気づき、パスコースへ身体を入れた。
ボールを奪う。
「ナイス!」
高木は春樹の声に反応し、すぐ前を見る。
杉浦へパス。
杉浦が受ける。
相手が寄る。
山岸が横へ動く。
「山岸!」
今度は杉浦自身が声を出した。
パスがつながる。
春樹は椅子に座ったまま、思わず身を乗り出した。
(いい)
自分がいなくても声が出ている。
誰か一人に任せず、それぞれが周囲を見るようになっている。
山岸が高木へ。
高木が杉浦へ。
杉浦が前へ運ぶ。
シュートまでは行けなかったが、相手ゴール近くまでボールを運んだ。
「惜しい!」
春樹が手を叩く。
山岸が遠くからこちらへ親指を立てた。
その直後、終了の笛が鳴った。
一対一。
引き分けだった。
勝敗だけを見れば、午前から続いていた連勝は止まった。
それでも三組の選手たちに落胆した様子はほとんどない。
「引き分けかー!」
杉浦が戻ってくる。
「惜しかったな」
春樹が言う。
「最後もうちょいだった」
「でもよかったじゃん」
「何が?」
「俺抜けてからも普通にできてた」
杉浦が一瞬黙る。
山岸も近づいてきた。
「確かに」
「俺ら、成長してる?」
「一日で?」
「一日でもするだろ!」
山岸が笑う。
高木も少し遅れて戻ってきた。
「最後、俺ボール取れた」
「見てた。後ろ確認できてたじゃん」
「七瀬に言われる前に一回見た」
「じゃあ俺いらないじゃん」
「それは困る」
「何でだよ」
「何かいると安心する」
高木の言葉に、春樹は少しだけ困った顔をした。
「俺をお守りみたいに扱うなよ」
「代表だから」
「連絡係」
「そこはまだ譲らないんだな」
全員が笑った。
勝てなかったのに、空気は悪くない。
むしろ午前の勝利とは違う満足感があった。
自分たちで試合をした。
自分たちで声をかけた。
春樹がいない時間にも崩れなかった。
それが、初心者の多い二年三組にとっては十分な成果だった。
◇◇◇
試合後、春樹たちが水分を取っていると、二年一組の経験者が近づいてきた。
「七瀬」
「ん?」
「面白かった」
「俺も」
「マジで部活来ない?」
「行かない」
「まだ何も説明してないんだけど」
「毎日練習ある時点で無理」
「本か?」
「本」
「神谷が嘘ついてなかった……」
相手は額の汗をタオルで拭きながら笑った。
「俺、二年一組の藤堂直哉。サッカー部」
「七瀬春樹。二年三組。帰宅部」
「知ってる」
「何で俺だけ知られてるんだよ」
「神谷が面白そうに話してたから」
「やっぱり神谷か」
春樹は眉を寄せる。
藤堂はさらに笑った。
「でも、お前が上手いって話だけじゃなかったぞ」
「他に何言ってた?」
「サッカー好きなくせに、それ以上に本が好きだから部活やらない変人って」
「悪口じゃん」
「褒めてたと思うけど」
「どこが?」
「自分の好きなもん分かってるやつって、案外少ないだろ」
春樹は少しだけ目を瞬かせた。
予想していなかった言葉だった。
「神谷がそんな真面目なこと言ったの?」
「そこ?」
「そこだろ」
「本人に聞けよ」
「聞いたら絶対調子乗るから嫌だ」
二人は笑う。
「またやろうぜ」
藤堂が手を上げる。
「機会あったら」
「部活来ればいつでもできる」
「だから行かないって」
「しぶといなあ」
「そっちがな」
藤堂は笑いながら自分のクラスへ戻っていった。
春樹はその背中を見送りながら、少しだけ考える。
(自分の好きなものが分かってる、か)
別に難しく考えたことはない。
サッカーは好きだ。
本はもっと好きだ。
だから高校では部活に入らなかった。
それだけの話だった。
けれど、最近はそこへ別のものも少しずつ増えている。
友人と話す時間。
誰かに本を薦める時間。
感想を聞く時間。
こうして久しぶりにサッカーをする時間。
好きなものが一つ増えたからといって、もともと好きだったものを減らす必要はない。
(まあ、本読む時間だけは減らしたくないけど)
そこだけは譲れない。
◇◇◇
「春樹、お疲れ」
また雫たちが近づいてきた。
「今回は引き分けだったね」
「相手強かった」
「見てた」
「知ってる」
「途中で抜かれたとき、ちょっと嬉しそうだったでしょ」
雫に言われ、春樹は眉を上げた。
「何で分かった?」
「昔もそうだったから」
「俺そんな顔してた?」
「してた。上手い相手とやると、すぐ楽しそうになる」
「自覚ないな」
「知ってる」
雫は笑う。
真実がそのやり取りを聞きながら、少しだけ羨ましそうに目を細めた。
自分が知らない春樹を雫は知っている。
以前なら、それはただの事実だった。
最近は、そこへほんの少しだけ別の感情が混じる。
(私も、これから知っていけばいいのかな)
そう思うと、不思議と嫌な気持ちは薄れた。
「春樹先輩!」
ひよりが前へ出る。
「次もありますか?」
「組み合わせ次第。たぶん順位決定でもう一試合ある」
「じゃあ見ます!」
「小日向、自分の競技は?」
「終わりました!」
「全部?」
「はい!」
「元気だな」
「なので最後まで応援できます!」
「そんな宣言されても」
「迷惑ですか?」
ひよりが少しだけ上目遣いになる。
春樹は首を横に振った。
「迷惑ではないけど」
「じゃあ見ます!」
「好きにしろよ」
ひよりが嬉しそうに笑う。
「新海は?」
「私も、次の予定まで時間があるので」
「無理しなくていいぞ」
「無理じゃないです」
真実は少しだけ迷ったあと、春樹をまっすぐ見た。
「私が見たいので」
春樹が目を瞬かせる。
どこかで聞いた言葉だった。
隣の雫も気づいたらしく、ほんの一瞬だけ真実を見る。
しかし何も言わなかった。
「そっか」
春樹はそれ以上深く考えず、頷いた。
「じゃあ、ありがとう」
「……はい」
真実の頬がわずかに緩む。
そのとき、少し離れたところから別の声が飛んできた。
「随分と賑やかね」
全員が振り返る。
一ノ瀬怜華が、生徒会の腕章をつけたまま歩いてきていた。
「一ノ瀬先輩」
「試合、お疲れさま。最後の方だけ見られたわ」
「また増えた……」
春樹が小さく呟く。
怜華は聞き逃さなかった。
「何が?」
「いや、何でもないです」
「私が見ていたら困る?」
「困らないですけど、今日やたら見られるなって」
「人気者は大変ね」
「杉浦にも同じこと言われました」
「なら事実なんじゃない?」
「違います」
「そういうことにしておきましょうか」
怜華は楽しそうに笑う。
その手には、昼にも持っていた文庫本があった。
春樹の視線がすぐそこへ向かう。
怜華はわざと本を少し持ち上げた。
「気になる?」
「読み終わりました?」
「まだ」
「またですか」
「でも、本当にあと少し」
「じゃあ読んでくださいよ」
「生徒会長に向かって、仕事より読書を優先しろと言ってる?」
「空き時間で」
「ふふ。分かってるわ」
怜華は本を下ろす。
「次に会うときには、たぶん感想を話せると思う」
「楽しみにしてます」
春樹の表情が明らかに変わる。
それを見た怜華は、ほんの少しだけ胸の奥にくすぐったさを覚えた。
自分の感想を待たれている。
本が理由だと分かっている。
それでも、悪くない。
(私が何を言うか、あんなに楽しみにするのね)
誰かの期待に応えることには慣れている。
生徒会長として、優等生として、周囲から求められる答えを返すことも多い。
けれど春樹が待っているのは、正しい答えではない。
自分がどう感じたかという、ただそれだけのものだ。
その違いを、怜華は少し面白いと思った。
「じゃあ、またあとで」
「はい」
怜華は仕事へ戻っていく。
春樹はその背中より、手に持たれた本を最後まで見ていた。
「春樹」
雫が呼ぶ。
「何?」
「一ノ瀬先輩より本見てなかった?」
「だってあと少しなんだぞ」
「そういうとこだよね」
「何が?」
「何でもない」
雫は呆れながらも笑っていた。
◇◇◇
次の試合まで、まだ三十分以上ある。
春樹は休憩場所へ戻る途中で予定表を確認し、そのまま校舎の方角へ身体を向けた。
「春樹、どこ行くの?」
雫が尋ねる。
「図書室」
「今から?」
「三十分ある」
「その脚で?」
「歩けるし」
「休んだ方がよくない?」
「図書室で座って読むから休憩になる」
「春樹にとってはそうなんだろうけど……」
雫は呆れたように息を吐く。
「私も行こうかな」
「雫、本持ってる?」
「図書室で借りたのあるよ」
「この前の?」
「うん」
春樹が彼女の感想を聞いて、さらに薦めた恋愛小説。
幼馴染ものではなく、最初はそれほど近くない二人が時間をかけて距離を縮めていく話だ。
「どこまで読んだ?」
「まだそんなに。昨日借りたばっかりでしょ」
「そりゃそうか」
「でも、最初の感じは結構好きかも」
春樹の目が少し明るくなる。
「どこが?」
「今ここで感想会始める?」
「駄目?」
「図書室行くんでしょ」
「じゃあ歩きながら」
「読書は歩きながらしないのに、感想はいいんだ」
「会話だからな」
「変なところ真面目」
二人は並んで校舎へ向かう。
真実とひよりはそれぞれ別の友人から呼ばれ、その場で一度別れることになった。
春樹と雫の背中を見送りながら、真実はほんの少しだけ胸に残るものを感じていた。
自分も春樹の試合を見たいと言えた。
そのことは嬉しい。
けれど、雫は試合を見るだけではなく、こうして自然に春樹と次の時間へ進んでいく。
その距離を羨ましいと思った自分に、真実は少し驚いた。
(これって、何なんだろう)
答えはまだ出ない。
無理に出そうとも思わない。
ただ以前より、春樹と話せる時間が増えたら嬉しいと思う。
その気持ちだけは、もう否定する必要がないように感じていた。
◇◇◇
図書室へ入ると、外の熱気が嘘のように遠ざかった。
空調の涼しい風と紙の匂いが春樹を迎える。
「生き返る……」
「サッカーのあと最初に言うことがそれ?」
「ここ最高」
「グラウンドで楽しそうだった人と同一人物とは思えない」
「どっちも俺だよ」
春樹は当然のように答える。
その言葉を聞いて、雫は少しだけ目を細めた。
どちらも春樹。
昔サッカーをしていた春樹も。
今、本を何より優先している春樹も。
人に本を選ぶ春樹も。
クラスメイトを助ける春樹も。
どれか一つだけが本物なのではない。
「……そうだね」
「何?」
「ううん」
雫は笑った。
いつもの席へ向かうと、そこにはすでに栞がいた。
午前と同じように本を開いている。
春樹たちの気配に気づき、栞が顔を上げた。
「七瀬君。西条さん」
「白石先輩」
「こんにちは」
雫も会釈する。
春樹は栞の向かいへ座りながら尋ねた。
「先輩、午後の競技終わったんですか?」
「一つ終わりました。次まで少し時間があります」
「みんな同じことしてるな」
「七瀬君もですよね」
「俺は本を読むために時間使ってます」
「私もです」
「じゃあ同じですね」
栞が小さく笑う。
雫はそのやり取りを聞きながら、春樹の隣へ座った。
以前なら、この位置へ座ることに何の意味も感じなかっただろう。
今も、特別な意図があるわけではない。
ただ、向かいに栞がいるのを見て、何となく春樹の隣を選んだ自分には気づいていた。
(……考えすぎかな)
そう思いながら、借りた本を取り出す。
春樹はすでに自分の短編集を開いていた。
「七瀬君」
栞が小さな声で呼ぶ。
「はい?」
「さっきの試合、どうでした?」
「引き分けでした」
「そうだったんですね」
「相手にサッカー部の上手いやついて、結構面白かったです」
「見たかったです」
栞の口から自然に出た言葉に、春樹が少し驚く。
「先輩、サッカー興味出てきました?」
「サッカーというより……」
栞はそこで言葉を止めた。
春樹が待つ。
雫も本を開きながら、耳だけは自然に会話へ向いていた。
「七瀬君たちがどうなったのか、気になったので」
「俺たち?」
「午前の試合で、みんな少しずつできるようになっていましたよね。次はどうなるのかなって」
春樹の表情が柔らかくなる。
「ちゃんとできてましたよ。俺、途中で抜けたけど、普通に試合続けてたし」
「嬉しそうですね」
「それ、今日何回言われるんだろ」
「本当に嬉しそうなので」
栞が笑う。
雫も本から顔を上げた。
「私もそう思った」
「雫まで」
「春樹、自分で点取ったときより、みんながパスつないだときの方が嬉しそうだもん」
「そんなことないだろ」
「あるよ」
「白石先輩もそう思います?」
「……はい」
「二対一」
「何の勝負?」
雫が笑う。
春樹は納得できない顔をしながらも、本気で否定し続けることはしなかった。
(そんなに分かりやすいのかな)
自分では意識していない。
ただ、山岸や高木たちが最初よりできることを増やしているのを見るのは確かに楽しい。
本を薦めた相手から「面白かった」と言われると嬉しいのと、少し似ているのかもしれない。
自分が好きなものを押しつけるのではなく、その人なりの楽しみ方を見つけてもらえる。
そこに共通点があるのだろうか。
(……まあ、考えるのはあとでいいか)
春樹は本へ視線を戻した。
隣では雫が、向かいでは栞が、それぞれ別の本を読んでいる。
外からはまだ歓声が聞こえる。
グラウンドでは試合が続き、体育館でも別の競技が行われている。
その中心から少し離れた図書室で、三人は同じ机を囲みながら別々の物語を読んでいた。
春樹にとって、その時間は不思議なくらい自然だった。
◇◇◇
二十分ほどが過ぎた頃、春樹は短編集の三つ目の物語を読み終えた。
最後の一文まで読み、すぐにはページをめくらず余韻に浸る。
(なるほど。娘からの手紙そのものは見せないのか)
男が待っていたものが届いたことだけを描き、その中身は読者にも明かさない。
それでも、彼が帰るときに初めて店員へ笑ったことで、十分に伝わる。
「……好きだな、これ」
無意識に声が漏れた。
栞が顔を上げる。
「三つ目、終わりました?」
「はい」
「どうでした?」
「今のところ一番好きかもしれません」
栞の表情が少し明るくなる。
「本当ですか?」
「最初の話であの人がほとんど喋らなかった理由、こう回収するんですね。でも全部説明しないのがいい」
「私もそこが好きです」
「ですよね」
春樹の声が少し弾む。
「手紙の中身まで書いたら、たぶん説明しすぎなんですよ。読者が知りたいのは分かるけど、本人にとって大事なものを全部覗かなくても、最後の表情だけで十分というか」
「はい。知らないままでも、その人が嬉しかったことは分かるので」
「そうなんですよ」
二人の会話が自然に続く。
雫は本から顔を上げ、そんな二人を見た。
春樹は本当に楽しそうだ。
栞も普段より少しだけよく喋っている。
(こういう春樹は、白石先輩の方が知ってるのかな)
胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
けれど、それを嫌なものとして押し込める代わりに、雫は自分の手元の本へ視線を落とした。
今読んでいるのは、春樹が自分の言葉を覚えたうえで選んでくれた一冊だ。
幼馴染だからではない。
賭けだからでもない。
自分が前に「理由もなく会話しないだけのすれ違いは苦手」と言ったことを春樹が覚えていて、それならこういう話はどうかと選んだ。
(私にもあるんだ)
栞とは違う。
真実とも、ひよりとも違う。
自分と春樹の間に積み重なったものがある。
そう思うと、胸の奥の引っかかりが少しだけ形を変えた。
消えたわけではない。
ただ、それを怖がる必要もない気がした。
「春樹」
「ん?」
「この本、今のところ好き」
唐突に言うと、春樹の目がすぐこちらへ向いた。
「本当?」
「うん」
「どこまで読んだ?」
「まだ序盤。二人が最初にちゃんと話したところ」
「ああ、そこか」
「主人公の男の子が、無理に格好つけないのがいいかも。女の子の方も、最初から急に意識してないし」
「そこ雫好きそうだと思った」
「……そうなの?」
「前の本の感想で、関係変わるのに理由が欲しいって言ってたから」
春樹は当然のように答えた。
雫は少しだけ言葉を失う。
覚えている。
やはり春樹は、自分が何気なく言った感想を覚えている。
「そっか」
「何?」
「ううん。続きを読んだらまた言う」
「頼む」
春樹は嬉しそうに笑った。
雫はその笑顔から目を逸らすように本へ戻る。
(……ずるいなあ)
何がずるいのか、自分でもまだ上手く説明できない。
けれど、胸の奥が少しだけ温かい。
同時に、春樹が自分の感想を楽しみにしているという事実が、以前よりずっと嬉しく感じられた。
◇◇◇
集合時刻の十分前になり、春樹は今度こそ迷わず本を閉じた。
「そろそろ行きます」
「次が最後?」
雫が尋ねる。
「たぶんサッカーは最後。順位決定戦」
「相手は?」
「まだ見てない」
「神谷君のクラスだったりして」
「それなら面白いけど」
「本当に楽しそう」
「だからサッカー嫌いじゃないって」
春樹が立ち上がる。
栞も本を閉じた。
「白石先輩は次の競技?」
「もう少しあとです」
「じゃあまだ読めますね」
「はい。でも……」
栞は一度窓の外へ目を向けた。
遠くから、次の試合開始を知らせる笛が聞こえる。
「七瀬君の最後の試合、時間が合えば少し見に行ってもいいですか?」
春樹は目を瞬かせた。
午前に一度見た。
それでも、もう一度見たいらしい。
「もちろん。白石先輩の方が間に合うなら」
「ありがとうございます」
栞が小さく笑う。
「私も行くよ」
雫がすぐ続ける。
「雫は次ないの?」
「もう終わった」
「じゃあ完全に暇人じゃん」
「応援してあげようとしてる幼馴染に言う?」
「ありがたいとは思ってるよ」
「なら最初からそう言って」
「ありがとう」
「……本当に素直になったね、最近」
「そう?」
「前なら絶対一回余計なこと言ってた」
「今も暇人って言っただろ」
「そうだった」
二人が笑う。
栞もそのやり取りを見ながら、柔らかく口元を緩めた。
以前なら、二人の長い距離を目の前にすると、自分が入り込めないものを見ているような気持ちになったかもしれない。
今は違う。
同じになる必要はない。
自分には自分の時間がある。
そして今日、サッカーをする春樹という新しい一面を知ることができた。
もう一度見たいと思った。
それで十分だった。
◇◇◇
三人で図書室を出る。
階段を下りる途中、春樹のスマートフォンが短く震えた。
立ち止まらず、踊り場で画面だけ確認する。
クラスの連絡用グループに杉浦からメッセージが入っていた。
『最後の相手決まった』
その下に、対戦表の写真が添付されている。
春樹は画像を拡大した。
「どうしたの?」
雫が横から覗こうとする。
「相手決まった」
「どこ?」
「二年二組」
雫が一瞬目を丸くした。
「神谷君のところ?」
「うん」
春樹の口元が自然に上がる。
午前の初戦で戦った相手。
中学時代から自分のサッカーを知る神谷蓮がいるクラス。
今度は、午前とは違う。
三組のメンバーも、朝の時点とはかなり変わっている。
高木は周囲を見るようになった。
山岸は自分から声を出すようになった。
杉浦も、自分だけで前へ行かず味方を使うようになった。
そして春樹自身も、午前より疲れている。
(面白そう)
勝ち負けだけではない。
今の三組が、もう一度神谷たちとやったらどうなるのか。
それを純粋に見てみたい。
「春樹、すごい顔してる」
雫が笑う。
「何が?」
「楽しそう」
「そりゃ、ちょっと楽しみだし」
「本より?」
「それは別」
「そこは即答なんだ」
「本は本。サッカーはサッカー」
「はいはい」
雫は呆れながらも、どこか嬉しそうだった。
階段を下り、昇降口へ向かう。
その途中で春樹は、ふと足を緩めた。
「どうしました?」
栞が尋ねる。
「いや」
春樹は少し考えてから、二人を見る。
「見に来てくれるなら、ちゃんと頑張ろうかなって」
雫と栞が同時に目を瞬かせた。
春樹自身には深い意味はない。
今日一日、何人もの人が自分たちの試合を見に来てくれた。
クラスメイトも。
後輩も。
先輩も。
幼馴染も。
なら、最後くらい少し格好悪くないところを見せたい。
それだけだった。
「……うん」
雫が先に笑った。
「頑張って」
栞も少し遅れて、柔らかく頷く。
「応援しています」
「ありがとうございます」
春樹は二人へ返すと、再び歩き始めた。
その背中を見ながら、雫は胸の奥が少しだけ騒がしくなるのを感じていた。
栞もまた、先ほどまでとは違う意味で春樹の最後の試合を見たいと思っている自分に気づいていた。
一方の春樹は、そんな二人の変化には当然気づかない。
頭の中にあるのは、神谷がどんな形で来るのか、三組のメンバーをどう動かすのか、そして試合が終わったら短編集の続きをどこまで読めるかということだった。
(最後の試合終わったら、四つ目までいけるかな)
やはり最後まで、最優先は本である。
それでも、これから始まる試合を楽しみにしていることだけは、春樹自身にもはっきり分かっていた。
午前とは違う二年三組で、もう一度神谷たちと戦う。
スポーツ交流会最後のサッカーが、まもなく始まろうとしていた。




