第36話 本を読んでいただけなのに、午後の試合まで見に来る人が増えてるんだが
窓の外から届く歓声が少しずつ遠ざかり、図書室には紙をめくる音と、空調の低い稼働音だけが残っていた。
校内スポーツ交流会の最中とは思えないほど静かな空間で、七瀬春樹は文庫本へ視線を落としていた。午前のサッカー初戦を終えたばかりで脚にはまだ重さが残っているものの、椅子に腰を落ち着けて物語へ意識を向けていると、試合中に上がっていた呼吸もすっかり平常へ戻っている。
向かいには白石栞が座っている。
彼女もまた、春樹が以前選んだ本を静かに読み進めていた。ときおり窓の外から大きな歓声が届いても顔を上げることはなく、ページの上をゆっくりと追う視線には、普段の放課後と変わらない落ち着きがある。
(やっぱりいいな、これ)
春樹が読んでいるのは、栞から薦められた短編集だった。
同じ町を舞台にしながら、物語ごとに主人公も立場も違う。最初は無関係に見えていた人物たちが別の物語では背景へ現れ、一つ前の話で何気なく描かれていた出来事が、別人の視点から見るとまるで違う意味を持ってくる。
春樹が今読んでいる三つ目の物語では、最初の話に登場した喫茶店の常連客が主人公になっていた。
(最初の話だと、ただ愛想の悪い人に見えたんだけどな。こっちから読むと、あのとき喋らなかった理由がちゃんとあるのか)
こういう構成は好きだ。
一度読んだ場面の意味が、あとから少しだけ変わる。
最初の印象が間違っていたわけではなく、見えている範囲が狭かっただけだと分かる瞬間には独特の気持ちよさがある。
春樹がページをめくったところで、向かいから小さな衣擦れの音がした。
栞が本を閉じたわけではない。ただ、少し姿勢を変えて窓の方へ目を向けている。
「どうしました?」
声を抑えて尋ねると、栞は一瞬だけ迷ってから春樹へ視線を戻した。
「次の試合、何時からでしたっけ」
「十一時五十五分集合です。試合はそのあとですね」
「そうなんですね」
それだけ答えて、栞はまた本へ視線を落とした。
春樹も自分の本へ戻りかけたが、数秒してから顔を上げる。
「白石先輩、何か予定あります?」
「午後の競技までは少し空いています」
「じゃあ、まだここにいる感じですか?」
「そのつもりだったんですけど……」
栞の声が少しだけ弱くなる。
春樹は続きを待った。
栞は本の端へ指を添えたまま、視線をページへ落としている。普段なら読書中に言葉を探すことはあまりない彼女が、今日は珍しく少し長く沈黙した。
「七瀬君の次の試合、見に行ってもいいですか?」
「え?」
春樹は思わず聞き返した。
栞がわずかに肩を縮める。
「すみません。急に」
「いや、謝ることじゃないですけど。白石先輩、サッカー興味ありました?」
「詳しくはないです」
「ですよね」
「でも……」
栞はそこで一度言葉を止めると、春樹の顔を見た。
「さっき七瀬君が、神谷君と試合をするのが楽しかったって言っていたので」
「はい」
「本を読んでいる七瀬君は、よく見ています。でも、サッカーをしている七瀬君はほとんど知らないから、少し見てみたいと思いました」
春樹は目を瞬かせた。
朝にも似たようなことを言われた気がする。
雫は「私が見たいから来る」と言った。
栞も、サッカーそのものに興味があるというより、自分がやっているところを見たいらしい。
(何で今日はそんなに見られるんだ?)
試合を見てもらうこと自体が嫌なわけではない。
ただ、理由がよく分からない。
「もちろんいいですよ。観戦自由ですし」
「ありがとうございます」
「でも、白石先輩も競技あるなら無理しないでくださいね」
「時間は大丈夫です。少し見てからでも間に合います」
「なら大丈夫ですね」
春樹はそこで納得し、また本を開いた。
栞はそんな春樹を数秒見つめてから、自分の本へ戻る。
(本当に、それだけなんですね)
自分が見に行くと言っても、春樹は必要以上に意識しない。
嬉しそうでも嫌そうでもなく、ただ「来るならどうぞ」と自然に受け入れる。
その反応に少し安心しながらも、栞の胸には説明しにくい小さな物足りなさが残った。
けれど、その感情へ名前をつけるほど、彼女自身もまだ自分の気持ちを理解していない。
今はただ、知りたい。
本について話しているときとは違う春樹が、どんな顔をするのか。
それだけだった。
◇◇◇
十一時四十分を過ぎた頃、春樹は栞より先に本を閉じた。
「そろそろ行きます」
「はい」
栞も栞を挟み、本を閉じる。
「白石先輩はまだここにいても大丈夫ですよ。集合してすぐ試合じゃないんで」
「少ししてから行きます」
「了解です」
春樹は立ち上がったところで、自分の脚の状態を確かめるように軽く膝を曲げた。痛みはないものの、午前の初戦で久しぶりに本気で走った影響は確実に残っている。
(次は最初から全部出ない方がいいかな)
交流会なのだから、勝つことだけが目的ではない。
参加者全員に出番を作る必要もあるし、午後まで競技が残っている生徒もいる。自分自身も、ここで無理をして脚を痛めれば周囲へ余計な迷惑をかける。
図書室を出る直前、栞が春樹の歩き方を見て声をかけた。
「七瀬君」
「はい?」
「脚、大丈夫ですか?」
「筋肉がちょっと重いくらいです。痛くはないですよ」
「無理しないでくださいね」
「しません。俺、怪我して読書に支障出るの嫌なんで」
栞は一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。
「そこも本なんですね」
「かなり重要ですよ。手ならページめくれないし、脚でも図書室来るの面倒になるし」
「そう考える人、あまりいないと思います」
「怪我しない理由なんて何でもいいでしょう」
「それはそうですけど」
春樹も笑い、図書室を出た。
廊下へ出た瞬間、静かな空間から一気に交流会の空気へ戻される。体育館の方角から笛と歓声が響き、窓の外では運動着姿の生徒たちが次の競技場所へ移動していた。
階段を下り、昇降口からグラウンドへ向かう。
六月末の空は朝より明るくなっており、薄い雲の隙間から差し込む日差しが地面を温めていた。湿度も高く、図書室の涼しさに慣れた身体には外気が余計に重く感じられる。
「七瀬!」
グラウンド脇へ近づくと、杉浦拓海が手を上げた。
「早いな」
「お前が遅いんだよ。代表」
「集合五分前だぞ」
「みんなもう来てる」
「なら優秀じゃん」
「代表が最後でいいのか?」
「遅刻してないなら問題ない」
春樹が平然と答えると、杉浦は呆れたように笑った。
近くには山岸浩平や高木たちもいる。
午前の初戦で得点した山岸は、まだ少し興奮が残っているらしく、春樹を見るなり自分の右足を指差した。
「七瀬、次も俺前でいい?」
「調子乗ってない?」
「一点取った男だぞ?」
「サッカー人生初得点で急にストライカーになろうとするな」
「夢見させろよ!」
周囲から笑いが起こる。
春樹は参加者の顔色を一人ずつ確認しながら、手元の資料へ目を落とした。
「山岸はバスケも出てるんだから、次は最初休み。後半から入れる」
「えー」
「脚つったら午後困るだろ」
「それは困る」
「じゃあ休め」
「代表っぽい」
「連絡係です」
「まだ言ってんのかよ」
杉浦が笑う。
春樹は聞き流しながら、高木へ視線を向けた。
「高木は?」
「俺は大丈夫。さっき休んだし」
「じゃあ最初から。午前と同じで、無理に抜かなくていいから」
「分かった」
「杉浦は前。俺は最初ベンチ入る」
その言葉に、数人が同時に春樹を見た。
「七瀬出ないの?」
「後から出る。俺が全部出る必要ないだろ」
「でも次の相手、強いらしいぞ」
「交流会だぞ。勝つために経験者だけ固定したら、他の人が出られないじゃん」
春樹は当然のことのように答えた。
杉浦は少し考え、それから頷く。
「じゃあ最初、俺らでやってみるか」
「そうして。困ったら外から声出す」
「それもう監督じゃん」
「連絡係」
「外から指示出す連絡係って何だよ」
「便利な連絡係」
また笑いが起こった。
午前の試合前にあった緊張は、もうかなり薄れている。
高木も山岸も、自分たちが経験者ではないことを必要以上に気にしなくなっていた。勝ったことも大きいが、それ以上に、自分たちが実際にボールへ触れ、プレーへ関われたことが自信になっている。
春樹はその空気を見て、少しだけ安心した。
(これなら俺が最初からいなくても大丈夫そうだな)
自分がいなければ何もできないチームにするつもりはない。
それは交流会としてもつまらないし、何より自分が疲れる。
春樹にとっては、後者もかなり重要だった。
◇◇◇
試合開始まであと十分ほどになった頃、観戦スペースにも人が集まり始めた。
春樹は軽く身体を動かしながら、何となくそちらを見る。
最初に見つけたのは雫だった。
朝言っていた通り、自分の競技と時間が重ならなかったらしい。赤木紗弥の姿はなく、代わりに真実とひよりが一緒にいる。
「またいる」
春樹が思わず呟くと、隣でストレッチしていた杉浦が吹き出した。
「言い方ひどくない?」
「いや、みんな自分の競技あるだろ」
「見に来てくれてるんだから喜べよ」
「嬉しくないとは言ってない」
「じゃあ嬉しいんじゃん」
「何で二択なんだよ」
春樹が言い返している間にも、ひよりはこちらに気づいて大きく手を振っていた。
「春樹先輩ー!」
「声でかい!」
「聞こえるように言ってます!」
「聞こえてる!」
ひよりは満足そうに笑う。
真実が隣で恥ずかしそうにしながらも、春樹へ小さく手を振った。
雫はその様子を見て笑っていたが、春樹と目が合うと片手を上げた。
「間に合ったよ」
「自分の方は?」
「一個終わった。次は午後」
「ならいいけど」
「ちゃんと見に来たのに、その反応?」
「朝から何回も言われてるから」
「じゃあもっと喜んでよ」
「ありがとう」
「素直すぎると逆に調子狂う」
「どうしろっていうんだよ」
雫が笑う。
そのとき、真実が少し離れた方向へ視線を向けた。
「あれ、白石先輩じゃないですか?」
春樹も振り返る。
校舎側から栞が歩いてきていた。
手に本は持っていない。図書室へ置いてきたのか鞄へしまったのだろう。
栞は人の多い観戦スペースへ少し戸惑うように近づいてきたが、春樹たちを見つけると小さく会釈した。
「白石先輩!」
ひよりが明るく呼ぶ。
栞はその声に安心したように、三人の近くへ向かった。
「こんにちは」
「先輩も春樹先輩の試合ですか?」
「はい。少しだけ」
「やっぱり!」
ひよりが嬉しそうに場所を空ける。
春樹はその光景を見ながら眉を寄せた。
「……また増えた」
「お前、本当にその感想なんだな」
杉浦が笑う。
「だって午前より増えてない?」
「人気者は大変だな」
「違うって」
「じゃあ何で来てるんだよ」
春樹は答えようとして、言葉に詰まった。
雫は昔から自分のサッカーを知っている。
真実とひよりは、最近自分がサッカーをしていたことを知った。
栞はさっき、知らない春樹を見てみたいと言った。
理由はそれぞれ分かる。
ただ、それらをまとめて説明しようとすると、妙に難しい。
「……時間が空いてるから?」
「全員?」
「たまたまだろ」
「お前がそう思うならいいけど」
「何だよ、その言い方」
杉浦は笑うだけで答えなかった。
◇◇◇
「白石先輩、こっちです」
真実が場所を少し空けると、栞は雫の隣へ立った。
「ありがとうございます」
「白石先輩、サッカー見るんですね」
「詳しくはないんですけど……七瀬君が出るので」
栞は答えたあと、自分の言葉が思ったより直接的だったことに気づいたらしく、少しだけ目を伏せた。
ひよりは特に気にした様子もなく頷く。
「分かります! 春樹先輩、普段本ばっかりなのにサッカーになると急に格好いいですよね!」
「普段も別に格好悪くはないと思いますけど」
真実が苦笑する。
「あ、そういう意味じゃないですよ! 普段は何ていうか……」
「本の人?」
雫が助け舟を出す。
「それです!」
ひよりが勢いよく頷いた。
「春樹先輩って、まず本の人なんですよ。でもサッカーしてると、ちゃんと運動できる人なんだってなります!」
「本人が聞いたら怒りそう」
雫が笑う。
栞もつられるように小さく笑った。
彼女はグラウンドへ視線を向ける。
春樹は今、杉浦たちと話している。
図書室にいるときとは表情が違う。
声はここまではっきり聞こえないものの、誰かの位置を指差したり、相手の話を聞いて頷いたりしている姿には、普段より活動的な印象があった。
「七瀬君、最初から出るんですか?」
栞が尋ねる。
「どうだろ。午前は最初からだったけど」
雫が答える。
「でも春樹、結構疲れてたから休むかも」
「分かるんですか?」
「歩き方ちょっと重かったから」
雫は何気なく答えた。
栞はそこで少しだけ雫を見る。
自分も図書室で同じことに気づいた。
けれど、雫は遠くから見ても分かっていたらしい。
(やっぱり、長いんだな)
以前なら、そこで小さな距離を感じて終わっていたかもしれない。
自分にはない時間を雫は持っている。
春樹の昔を知り、癖を知り、歩き方の微妙な違いまで自然に分かる。
それは自分には真似できない。
けれど、栞は今度はそこで思考を止めなかった。
(でも、私が知っている七瀬君もある)
本を読むとき、面白いところへ差しかかるとほんの少し口元が緩むこと。
薦めた本の感想を聞くとき、普段より質問が多くなること。
静かな時間を大切にしているのに、好きな本の話になると自分から会話を続けること。
それらは雫が知らないという意味ではない。
誰かと比べる必要がないだけだ。
自分には、自分が積み重ねてきた時間がある。
栞はそう考えると、胸の奥にあった小さな緊張が少しだけほどけた。
「白石先輩?」
真実の声で、栞は顔を上げる。
「はい?」
「七瀬先輩、今日は途中からみたいですよ」
グラウンドを見ると、春樹はコート外へ移動していた。
試合開始の笛が鳴る。
◇◇◇
春樹はベンチ代わりの椅子へ腰を下ろし、コートの中を見ていた。
相手は二年五組。
事前に聞いていた通り、経験者が二人ほどいるらしい。突出して上手い選手がいるわけではないものの、全体の動きは午前の二組よりまとまっている。
開始直後から三組は押され気味だった。
「杉浦、もう少し中央!」
春樹が外から声を出す。
杉浦が手を上げて応える。
高木は相手の動きについていこうとしているが、どうしてもボールばかり見てしまう。
「高木! 後ろ一回見て!」
春樹の声に、高木が肩越しに確認する。
その直後、背後へ走り込もうとしていた相手へ気づき、慌てて身体の向きを変えた。
パスは出されなかった。
「そう、それでいい!」
春樹が手を叩く。
隣で休んでいる山岸が、感心したようにコートを見る。
「外から見ると分かりやすいな」
「だろ?」
「俺、午前ずっとボール見てたわ」
「みんな最初はそうなる。慣れてる人はボール見ながら周りも見るけど、いきなり無理だから、時々後ろ確認するだけでいい」
「七瀬って教えるの上手いよな」
「そう?」
「何か、できないことやれって言わないじゃん」
春樹は少し考えた。
「できないこと言ってもできないだろ」
「そりゃそうだけど」
「今できること一個増やした方が楽じゃん」
山岸は数秒春樹を見たあと、笑った。
「お前、先生向いてんじゃね?」
「嫌だよ。授業中に本読めないじゃん」
「教師側が読むなよ」
二人が笑っている間にも試合は続く。
五組が右から攻め込み、中央へ低いパスを入れた。
三組の選手が触れたものの、ボールは中途半端な位置へこぼれる。
五組の選手が先に反応した。
シュートが放たれ、ゴール左へ入る。
三組の応援側から「あーっ」と声が上がった。
開始から四分ほど。
零対一。
杉浦が悔しそうに頭を掻く。
春樹は立ち上がったが、すぐに交代を求めなかった。
(まだいい)
一点取られたから自分が出る。
それでは、結局自分がいなければ駄目だと言っているようなものだ。
杉浦たちは午前に一試合経験している。
今の失点も、完全に崩されたわけではない。
「杉浦!」
春樹が呼ぶ。
杉浦が振り返る。
「焦らなくていい! まだ時間ある!」
「分かった!」
杉浦が大きく頷く。
試合が再開する。
観戦スペースでは、ひよりが落ち着かない様子で身体を揺らしていた。
「春樹先輩、まだ出ないんですか?」
「たぶん、今出る必要ないと思ってるんじゃない?」
雫が答える。
「一点負けてるのに?」
「春樹って、勝ちたいから全部自分でやるタイプじゃないから」
栞はその言葉を聞きながら、コート外の春樹を見る。
春樹は座っていない。
立ったまま試合を見て、ときどき声をかけている。
自分が出ていないのに、退屈そうには見えない。
「七瀬先輩らしいですね」
真実が呟いた。
「本を選ぶときもそうです。自分が好きな本をそのまま渡すんじゃなくて、その人が読めそうなものを考えるから」
「そうなんです」
栞も頷いた。
「七瀬君、自分ならできることを相手にも求める人じゃないです」
雫は二人の言葉を聞きながら、少しだけ笑った。
「何か、みんな春樹に詳しくなったね」
冗談のように言ったつもりだった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、胸の奥にほんの少しだけ引っかかるものがあった。
以前なら、自分が一番春樹を知っていると迷わず思えた。
今も、昔のことなら自分が一番知っている自信がある。
けれど今の春樹には、自分が知らない時間がある。
図書室で栞と過ごす時間。
後輩たちへ本を選ぶ時間。
怜華と本について話す時間。
凛と委員会絡みで言い合う時間。
それを嫌だと言い切れるほど、雫は自分の感情を整理できていない。
(でも、知らないままなのは嫌かも)
以前より、春樹を知りたい。
昔を知っているだけではなく、今の春樹をもっと見たい。
その感情だけは、少しずつ明確になっていた。
◇◇◇
試合開始から七分。
三組はまだ零対一だった。
ただ、最初ほど一方的ではない。
高木が周囲を見る回数を増やし、杉浦も無理に前へ張り続けず、中盤まで下がってボールへ関わるようになっている。
春樹は時計を確認した。
「山岸、準備」
「俺?」
「後半じゃなくて、次の止まったタイミングで入る」
「分かった」
「俺もその次に入る」
「お、ついにエース登場?」
「その言い方やめろ」
ちょうどボールが外へ出た。
山岸が一人と交代してコートへ入る。
春樹はまだ外だ。
「山岸! 午前と同じで最初は後ろ!」
「了解!」
試合が再開する。
山岸は午前より明らかに落ち着いていた。
ボールが来ても慌てて蹴り出さず、近くの味方を探している。
一度目は杉浦へ。
二度目は高木へ。
そして三度目。
相手のパスを途中で触ったボールが、山岸の足元へ転がった。
「前!」
春樹が叫ぶ。
山岸が顔を上げる。
杉浦が走っている。
山岸から縦へパス。
少しずれた。
それでも杉浦が追いつく。
「いける!」
観戦スペースからひよりの声が響く。
杉浦が相手一人と並走しながら、ボールを前へ運ぶ。
無理に抜こうとせず、身体を入れて守る。
ゴール前へ近づいたところで、中央へボールを送った。
高木が走り込んでいる。
「高木!」
春樹が思わず声を上げた。
高木が右足を振る。
ボールはゴール正面へ飛び、相手のキーパーが触れた。弾かれたボールが横へ転がり、杉浦がもう一度詰める。
今度はネットが揺れた。
「よっしゃあ!」
杉浦が両腕を上げる。
高木も山岸も駆け寄った。
一対一。
春樹は大きく手を叩いた。
「ナイス!」
山岸がこちらへ向かって拳を突き上げる。
「七瀬! 俺のパス!」
「見てた!」
「今の良かっただろ!」
「良かった!」
「よし!」
山岸が嬉しそうに戻っていく。
春樹は笑いながら、その姿を見送った。
(ちゃんとできるじゃん)
自分が入らなくても、点を取った。
それが単純に嬉しい。
午前は春樹から始まる攻撃が多かった。
今は自分が外にいる状態で、山岸、高木、杉浦がつないで得点まで持っていった。
交流会としては、その方がずっといい。
「七瀬」
交代待ちの生徒が声をかける。
「お前、めっちゃ嬉しそう」
「そりゃ点入ったから」
「自分が決めたときより嬉しそうじゃない?」
「午前俺決めてないし」
「そういう意味じゃなくて」
春樹は首を傾げた。
自分では違いがよく分からない。
ただ、できないと言っていた山岸がパスを出し、高木がシュートまで持っていき、杉浦が決めた。
昨日の練習から見ていた流れが、試合の中で形になった。
それが面白かった。
◇◇◇
同点になってから、五組の動きが変わった。
中央の経験者二人が前へ出るようになり、三組の守備へ圧力をかけてくる。
春樹はその変化を見て、交代を決めた。
「次、俺入る」
「待ってました」
山岸が笑う。
「山岸はそのまま。高木、一回休んで」
「分かった」
ボールが外へ出たところで、春樹がコートへ入る。
観戦スペースから、ひよりの声が飛んだ。
「春樹先輩、頑張ってくださーい!」
春樹は片手を上げるだけで返した。
その様子を見て、栞が小さく笑う。
「小日向さん、すごいですね」
「ひよりちゃん、あれが通常運転だから」
雫が苦笑する。
「白石先輩も呼んでみます?」
「えっ?」
「春樹ーって」
「む、無理です」
栞は珍しくはっきりと慌てた。
真実が口元を押さえて笑う。
「私も大きい声はちょっと……」
「真実まで」
「西条先輩は呼べるんですか?」
「私は……」
雫は一瞬だけ言葉に詰まった。
昔なら、試合中の春樹へ声をかけることなど何とも思わなかった。
今も名前を呼ぶだけならできる。
なのに、真実と栞から見られている状況で意識すると、妙に恥ずかしい。
「必要なら呼べるよ」
「必要って何ですか?」
「春樹がぼーっとしてたら」
「試合中にぼーっとしませんよ」
「本が置いてあったらするかも」
「さすがにしないと思います」
三人が笑う。
ひよりだけは何の迷いもなく、再び「春樹先輩ー!」と声を上げていた。
◇◇◇
コートへ入った春樹は、まず味方の位置を確認した。
山岸が後ろ。
杉浦が前。
もう一人が右。
相手の経験者二人は中央寄りにいる。
(俺が入ったら、たぶん寄ってくる)
予想通りだった。
最初にボールを受けた瞬間、五組の一人がすぐ距離を詰めてきた。
春樹は正面から抜きに行かず、身体を横へ向けて山岸へ戻す。
「山岸、逆!」
「分かった!」
山岸が右へ送る。
相手がそちらへ動く。
春樹も中央から少し離れ、わざと相手を引っ張った。
「杉浦、中!」
杉浦が中央へ入る。
右からのパスが杉浦へ届く。
相手が寄る。
杉浦は背負ったまま春樹へ戻した。
「ナイス!」
春樹が受ける。
目の前には一人。
左には空間。
今度はパスではなく、自分で運んだ。
一歩目で相手の正面へ入り、身体を右へ傾ける。
相手が反応する。
春樹はボールだけを左へ運び、身体を入れ替えた。
観戦スペースから声が上がる。
もう一人が寄ってくる。
(ここで抜いたら面白いけど、二人目まで行くとその後が狭い)
春樹は無理をせず、右へ走ってきた味方へパスを出した。
自分はそのままゴール前へ走る。
返ってくる。
今度はシュートできる。
右足を振ろうとした瞬間、相手の一人がコースへ入った。
春樹は足を止めず、そのままボールを横へ流した。
「杉浦!」
「おう!」
杉浦がシュートする。
しかし、今度はキーパー正面。
「あー!」
杉浦が頭を抱える。
「悪い!」
「いや、今のでいい!」
春樹はすぐに戻りながら声をかけた。
外から見ていた栞は、思わず春樹を目で追っていた。
図書室にいるときとは、やはり違う。
普段の春樹は静かだ。
本の話になると声が少し弾むことはあるが、自分から大きな声を出すことはほとんどない。
今はコートの中で何度も名前を呼び、味方へ指示を出し、走りながら周囲を見ている。
(こんな顔もするんだ)
杉浦のシュートが止められたのに、春樹は悔しそうではなかった。
むしろ、狙った形まで持っていけたことを楽しんでいるように見える。
「白石先輩」
隣の真実が声をかける。
「春樹先輩、楽しそうですよね」
「はい」
栞は素直に頷いた。
「すごく」
雫も同じ春樹を見ていた。
その横顔には、少しだけ懐かしさが混じっている。
「昔もあんな感じだったよ」
「中学のときですか?」
「うん。自分で点取るより、いいパス通ったときの方が嬉しそうなことあった」
「本当に変わらないんですね」
真実の言葉に、雫はすぐには答えなかった。
変わっていない部分は確かにある。
でも、変わった部分もある。
高校へ入ってサッカーをやめ、本を読む時間を増やし、以前よりずっと多くの人と本を通じて関わるようになった。
そして自分自身も、そんな春樹を見る目が変わっている。
「変わってないけど、変わったのかもね」
雫が呟く。
「どっちですか?」
ひよりが不思議そうに聞く。
「私にもまだ分かんない」
雫は笑った。
◇◇◇
残り時間が少なくなるにつれ、試合はさらに拮抗した。
一対一。
春樹が入ってから三組はボールを持てるようになったものの、五組も中央を固めて簡単には崩れない。
春樹の呼吸も少しずつ荒くなっている。
(やっぱ二試合目きついな)
午前の疲労が残っている。
頭では動きが見えても、脚が半歩遅れる場面が増えてきた。
五組の選手が中央から抜ける。
春樹は追うが、いつもなら届く距離で届かない。
「山岸、そっち!」
「任せろ!」
山岸が前へ出る。
相手はシュートではなく横へ出した。
右から別の選手が走り込む。
杉浦が戻っている。
二人が競り合い、ボールが外へ出た。
「助かった……」
春樹が息を吐く。
山岸が近づいてきた。
「七瀬、疲れてんじゃん」
「疲れてるよ」
「何かお前でも疲れるんだな」
「俺を何だと思ってるの?」
「読書好きの化け物」
「読書要素いる?」
息を切らしながら笑う。
山岸も笑った。
「俺らもいるんだから、全部やろうとすんなよ」
その言葉に、春樹は少しだけ目を見開いた。
午前には、自分が似たようなことを山岸たちへ言っていた気がする。
「……そうだな」
「おう」
「じゃあ任せる」
「急に責任重くない?」
「今いいこと言っただろ」
「言ったけど!」
笑いながら、それぞれの位置へ戻る。
春樹はそこで少しだけ走る範囲を狭めた。
全部へ顔を出すのではなく、中央でパスコースを作ることへ集中する。
その分、山岸や杉浦が動く。
残り一分。
五組のパスを山岸が途中で触った。
こぼれ球が春樹へ来る。
春樹は受ける前に前を見る。
杉浦は相手に付かれている。
右側の味方が空いている。
春樹はそちらへ出す。
相手が動く。
自分も前へ。
右から返ってくる。
五組の一人が春樹へ寄る。
春樹はワンタッチで杉浦へ落とした。
「杉浦!」
杉浦が受ける。
相手が背後から来る。
午前なら無理に振り向いていたかもしれない。
だが今回は、杉浦が春樹へ戻さなかった。
左側へ走り込んでいた山岸へ横パスを出す。
「え、俺!?」
山岸自身が驚いている。
「前!」
春樹の声で、山岸が顔を上げる。
ゴールまで距離はある。
相手が一人寄る。
山岸はシュートを選ばなかった。
中央へ戻す。
そこには春樹ではなく、別の三組の選手がいた。
その選手が受けて、さらに右へ。
ボールが三人、四人とつながっていく。
春樹はその中心にいない。
それでも攻撃は止まらない。
(いいじゃん)
自然に笑みが浮かぶ。
最後に右から低いボールが入る。
杉浦が飛び込む。
相手も足を出す。
ボールは二人の間を抜け、ゴール前へ転がった。
春樹は遅れて走り込んでいた。
目の前にはボール。
キーパーは杉浦側へ寄っている。
今度は、パスを出す相手がいない。
(これは打つしかないな)
春樹は右足を振った。
強く蹴る必要はない。
空いている左側へ、正確に転がす。
ボールがネットへ入った。
直後、観戦スペースから一気に歓声が上がった。
「春樹先輩ー!」
ひよりの声が最も大きい。
真実も手を叩いている。
栞も驚いたように目を見開いたあと、柔らかく笑って拍手していた。
雫は声を上げなかった。
ただ、誰よりも嬉しそうな顔で春樹を見ていた。
春樹は味方に囲まれる。
「七瀬、やっと自分で決めた!」
杉浦が肩を叩く。
「最後あれしかなかっただろ」
「もっと喜べよ!」
「喜んでるって」
「顔が冷静!」
「疲れてんだよ!」
春樹が笑いながら言い返したところで、終了の笛が鳴った。
二対一。
二年三組、二試合目も勝利だった。
◇◇◇
試合後、春樹はグラウンド脇のテントへ戻ると、椅子へ腰を下ろして大きく息を吐いた。
身体を動かすのは楽しい。
神谷と競うのも、クラスメイトとボールをつなぐのも面白い。
ただし、体力だけは中学時代と同じではない。
「七瀬、大丈夫?」
高木がスポーツドリンクを持ってくる。
「大丈夫。ありがとう」
「最後すごかったな」
「その前のつなぎが良かったんだよ。山岸から何人か経由しただろ」
「お前、自分のゴールなのにそこから説明するの?」
「だって俺が触ったの最後だけだし」
高木は呆れたように笑った。
「でもさ、午前よりちょっとサッカー楽しかった」
春樹はペットボトルの蓋を開ける手を止め、高木を見る。
「なら良かった」
「俺、最初は本当に足引っ張るだけだと思ってたから」
「ちゃんとシュートまで行ってたじゃん」
「外したけどな」
「杉浦が詰めて点になっただろ。ならいいじゃん」
「そういう考え方できるの、お前のおかげかも」
「大げさ」
「いや、マジで」
高木は少し照れくさそうに笑うと、ほかのクラスメイトの方へ戻っていった。
春樹はその背中を見ながらスポーツドリンクを飲む。
(交流会、思ったより悪くないな)
最初に代表のような役割を任されたときは、読書時間が削られることばかり気にしていた。
今でも読書時間が減るのは嫌だ。
そこは変わっていない。
ただ、自分が少し動いたことで、サッカーに慣れていなかったクラスメイトが楽しめたのなら、それはそれで悪くない。
「春樹」
聞き慣れた声に顔を上げる。
雫たちがこちらへ歩いてきていた。
その中には栞もいる。
「お疲れ」
「疲れた」
「最後、ちゃんと自分で決めたね」
「あそこは他に出すところなかったから」
「まずそれ言うんだ」
「事実だし」
雫が笑う。
真実も少し呆れたように微笑んだ。
「春樹先輩、自分のゴールより途中のパスの方が嬉しそうでした」
「よく見てるな」
「見に来たので」
真実が自然に返す。
春樹はその言葉に一瞬だけ黙り、今度は素直に頷いた。
「そっか。ありがとう」
真実の表情がわずかに止まった。
すぐに笑顔へ戻ったものの、胸の奥で何かが小さく跳ねた感覚だけは消えない。
(普通に言われただけなのに)
自分から「見に来た」と言った。
春樹は「ありがとう」と答えただけだ。
それだけのやり取りなのに、なぜか少し嬉しい。
真実はその理由を考えそうになり、今はまだ考えなくてもいい気がして、そっと胸の奥へしまった。
「春樹先輩!」
ひよりが一歩前へ出る。
「私も見てました!」
「知ってる。声で」
「じゃあ私にもありがとうください!」
「何だその要求」
「真実先輩だけずるいです!」
「はいはい。小日向もありがとう」
「やった!」
「何がやったなんだよ」
ひよりが満足そうに笑い、周囲にも笑いが広がる。
最後に栞が春樹の前へ来た。
「七瀬君、お疲れさまでした」
「ありがとうございます。どうでした?」
「どう、というのは?」
「初めてちゃんと見たんですよね」
「はい」
栞は少し考える。
春樹は急かさず待った。
「思っていたより、七瀬君でした」
「それ感想になってます?」
「私の中では」
「どういう意味です?」
栞は小さく笑った。
「図書室にいるときと全然違うように見えたんです。でも、見ているうちに同じだと思いました」
「同じ?」
「周りをよく見ているところです。本を選ぶときも、相手が何を好きなのか、何が苦手なのかを聞きますよね。サッカーでも、みんなが何をできるのかを見ていたので」
春樹は少しだけ目を見開いた。
午前にも似たようなことを雫や真実から言われた。
自分では意識していなかった。
「そんなに同じですかね」
「はい。だから、見に来てよかったです」
栞はそう言って、柔らかく笑った。
春樹もつられるように笑う。
「なら良かったです」
そのやり取りを、雫はすぐ隣で聞いていた。
嫌ではない。
栞が春樹の新しい一面を知ったことを、素直に良かったとも思う。
それでも胸の奥へ、ほんの少しだけ言葉にしにくい感覚が落ちた。
(白石先輩も、春樹のことちゃんと見てるんだ)
それは当たり前だ。
二人は何度も図書室で話し、本を薦め合っている。
けれど、その当たり前を目の前で感じると、以前とは違う重さがある。
雫はその感情を否定せず、かといってすぐ名前をつけることもしなかった。
今はただ、自分も春樹をもっと知りたいと思っている。
その事実だけを大切にする。
◇◇◇
昼休憩に入る頃には、午前の競技がほぼ終了していた。
春樹たちは教室へ戻り、それぞれ昼食を広げている。
窓際では午前の試合について話す男子たちの声が続き、別の場所では女子が午後の競技順を確認していた。普段の昼休みより明らかに騒がしいが、交流会の日らしい浮ついた空気を春樹も嫌いではなかった。
「二連勝の代表、お疲れ」
向かいの席へ座った悠斗が言う。
「連絡係」
「もう誰も信じてないぞ」
「仕事内容の呼び方は本人の自由だろ」
「外から指示出して、交代決めて、自分も出て、最後に決勝点取る連絡係って何だよ」
「決勝点はたまたま」
「それ言ったら神谷が怒りそう」
「神谷関係ないだろ」
春樹は弁当を開きながら笑う。
「悠斗の方は?」
「バレー、一試合終わった。勝った」
「お、よかったじゃん」
「紗弥も結構上手かった」
「一年やってたって言ってたな」
「覚えてたのか」
「聞いたことは覚えてるよ」
悠斗は箸を持ったまま少し黙った。
春樹が怪訝そうに見る。
「何?」
「いや……試合終わったあと、ちょっと話せた」
「赤木と?」
「うん」
「よかったじゃん」
「映画の原作、昨日かなり読んだって言ったら、どこまで読んだか聞かれてさ。交流会終わったら感想話そうって」
悠斗の声には隠しきれない嬉しさがある。
春樹は弁当のおかずを口へ運びながら頷いた。
「普通に進んでるじゃん」
「進んでるって言うな。まだ何もない」
「俺も何も言ってないだろ」
「顔が言ってる」
「どんな顔だよ」
「他人の恋愛だけ楽しそうに見る顔」
「それは否定しない」
春樹が即答すると、悠斗は呆れたように笑った。
「お前、自分の周りはあんなことになってるのにな」
「あんなこと?」
「……何でもない」
「またそれ?」
悠斗はそれ以上言わなかった。
午前のサッカーでは、雫だけでなく真実、ひより、怜華、凛が集まり、午後には栞まで加わった。
本人だけが、それを「時間が空いているから見に来た人たち」と認識している。
(まあ、まだ誰がどうって段階でもないしな)
悠斗自身、彼女たちの気持ちを断定できるわけではない。
ただ一つ確かなのは、春樹の周囲が以前より明らかに賑やかになっていることだ。
「そういえば」
春樹が箸を止める。
「何?」
「午後の空き時間、図書室行く?」
「俺に聞く?」
「いや、俺は行くけど」
「だろうな」
「悠斗も原作読むなら静かな方がいいかなって」
悠斗は少し驚いた。
「お前が俺を図書室誘うの珍しいな」
「別に誘ってない。選択肢の提示」
「その言い方、絶対本選ぶときと同じだろ」
「嫌なら来なくていいし」
「行くかも。紗弥に感想話すなら、もう少し進めたい」
「じゃあ来れば」
春樹はそれだけ言って食事へ戻った。
悠斗はそんな友人を見ながら、小さく笑った。
少し前までなら、春樹にとって図書室は一人で本を読むための場所だった。
今は、誰かが同じ場所で本を読むことを自然に受け入れている。
本人は大きな変化だと思っていないのだろう。
けれど悠斗から見れば、それは十分な変化だった。
◇◇◇
昼食を終えた春樹は、午後の予定表を確認した。
サッカーは次の試合まで時間がある。
クラス全体の競技状況によって順位決定戦の組み合わせが変わるため、今の段階では次の相手は確定していない。
自分の出番まで一時間近くある。
(読めるな)
迷う理由はなかった。
春樹が文庫本を取り出したところで、教室の入口から声がした。
「七瀬君」
振り返る。
一ノ瀬怜華が立っていた。
生徒会の腕章は午前と同じだが、片手には一冊の文庫本がある。
「一ノ瀬先輩?」
「少し時間ある?」
「ありますけど」
春樹の視線が、怜華の持っている本へ吸い寄せられる。
怜華はその反応に気づき、口元を少し上げた。
「本より先に私を見た方がいいんじゃない?」
「見てましたよ」
「本を見た瞬間、目が変わったけれど」
「それ、俺が選んだやつですよね?」
「ええ」
怜華が持っているのは、春樹が彼女の好みを聞いたうえで選んだ連作短編ミステリーだった。
昨日の時点では半分ほど。
最初の物語が好きだったという途中経過だけ聞いている。
春樹はすぐに立ち上がった。
「読み終わったんですか?」
「まだ」
「何だ」
「露骨にがっかりしないでくれる?」
「だって感想かと思ったから」
「でも、かなり進んだわよ」
怜華が本へ指を添える。
「あと一話」
「本当ですか?」
「ええ。午後の仕事の合間に読み終わるかもしれないわね」
春樹の表情が明らかに明るくなる。
怜華はそれを見ながら、少しだけ目を細めた。
自分が生徒会長として声をかけたときより、本の話をしたときの方が分かりやすく反応する。
普通なら失礼だと思うところかもしれない。
けれど、怜華にはその分かりやすさが面白かった。
「そんなに感想が聞きたい?」
「聞きたいですよ。かなり考えて選んだんで」
「私が面白くなかったと言ったら?」
「どこが合わなかったか聞きます」
「落ち込まないの?」
「多少は。でも次選ぶときの参考になるし」
「次も選んでくれるの?」
春樹はそこで初めて、自分の言葉が少し先まで進んでいたことに気づいた。
「……頼まれたら?」
「ふふ」
「何ですか」
「いいえ。七瀬君らしいと思って」
「今日そればっかり言われる」
「みんな同じことを思っているのね」
怜華は本を胸元へ戻す。
「読み終わったら、ちゃんと感想を伝えるわ」
「お願いします」
「長くなるかもしれないけれど」
「むしろ歓迎です」
「そこまで言われると、適当には話せないわね」
「一ノ瀬先輩、適当に感想言うタイプじゃないでしょう」
怜華の笑みが、ほんのわずかに止まった。
「どうしてそう思うの?」
「選ぶときにあれだけ細かく好み話してくれたし。途中の感想も、全部読んでから話すって言ってたから」
「……よく覚えているのね」
「本のことなんで」
「最後の一言がなければ、少し格好よかったのに」
「何でですか」
春樹が本気で分からない顔をする。
怜華は小さく息を漏らして笑った。
(本当に、こういうところなのよね)
自分が何を好み、何を嫌い、どんな物語なら楽しめるか。
春樹はそれを覚えている。
彼にとっては本を選ぶために必要な情報だからなのだろう。
それでも、自分の言葉を覚えられていること自体は悪い気がしない。
「それじゃあ、私は戻るわ。午後も代表のお仕事、頑張って」
「連絡係です」
「まだ言ってるの?」
「一ノ瀬先輩まで」
怜華は笑いながら教室を出ていった。
春樹はその背中を見送ったあと、自分の席へ座る。
「あと一話か」
思わず口元が緩んだ。
感想が楽しみだ。
どの話が一番好きだったのか。
人物同士のすれ違いをどう感じたのか。
最初の話で見えた人物像が後半で変化する構成をどう受け取ったのか。
聞きたいことはいくつもある。
「七瀬」
隣から悠斗の声がした。
「何?」
「今の一ノ瀬先輩との会話、他の男子が聞いたら泣くぞ」
「何で?」
「美人の生徒会長がわざわざ教室まで来て、本読み終わりそうって報告してるのに、お前の頭の中ずっと本の感想だけだろ」
「それ以外に何があるんだよ」
「そうだよな。お前だもんな」
「何なんだよ、今日はみんなして」
春樹は不満そうに言いながら、本を開いた。
その表情はやはり少し楽しそうだった。
◇◇◇
午後の競技開始を知らせる放送が校内へ流れる。
窓の外では、午前より強くなった日差しの下を生徒たちが移動していた。
春樹はページをめくりながら、次の集合時刻までの残り時間を頭の片隅で計算する。
あと三十五分。
十分前にはグラウンドへ行く。
なら二十五分は読める。
(十分あるな)
午前には二試合サッカーをした。
雫たちが見に来た。
栞まで試合を見に来た。
クラスメイトは少しずつサッカーに慣れ、自分がいなくてもボールをつなげるようになった。
悠斗と紗弥の間にも、映画と原作を通した会話が続いている。
怜華の本も、あと一話で読み終わる。
朝から普段よりずっと多くのことが起きている。
それでも春樹は、開いたページへ視線を落とした瞬間、自然に物語へ入っていった。
読書が一番好きだという事実は変わらない。
ただ、その本を閉じた先に待っている時間まで、以前より少し楽しみになっている。
次の試合では誰が出るのか。
クラスメイトたちはどこまで動けるようになるのか。
神谷ともう一度当たる可能性はあるのか。
雫たちはまた見に来るのか。
栞は午後も来るのか。
怜華はいつ本を読み終えるのか。
いくつものことが、読書の邪魔ではなく、本を閉じたあとに待っている予定として頭の片隅へ並んでいた。
(……まあ、今は読むけど)
春樹は小さく笑い、次のページをめくった。
スポーツ交流会はまだ終わっていない。
そして春樹が気づかないところで、彼を見に来る理由も、彼と話したい理由も、それぞれ少しずつ増え始めていた。




