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『俺は本が読みたいだけ!! 〜恋愛小説を読んでいたいだけなのに、どうして俺がラブコメしてるんだ!?〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第35話 ただの校内交流会のはずなのに、どうして応援席ができてるんだ?


 金曜日の朝、七瀬春樹が目を覚まして最初に確認したのは、スポーツ交流会の対戦表でも天気予報でもなかった。


 枕元に置いてあった文庫本を手に取り、昨夜挟んだ栞の位置を確かめる。


(あと七十ページくらいか。朝に二十分、学校着いてから十五分あれば、昼までにはいけるか……いや、今日は朝から準備あるんだっけ)


 そこまで考えたところで、春樹はようやく今日が普段の授業日ではないことを思い出した。


 校内スポーツ交流会。


 二年三組のサッカー代表として、春樹は通常より早めに参加者を確認しなければならない。しかも初戦は二年二組で、中学時代から一緒にサッカーをしていた神谷蓮がいる。


 楽しみではある。


 それでも、朝の読書時間が削られることについては別問題だった。


「……十五分は読めるな」


 春樹はベッドから起き上がると、洗面と朝食を手早く済ませた。


 運動着やタオル、飲み物は昨夜のうちに用意してある。代表者用資料も鞄へ入っており、忘れ物がないことを確認してから家を出た。


 外へ出ると、昨夜まで残っていた雲が薄くなっていた。


 青空が広がっているわけではないものの、雨の気配はない。湿った風にはすでに夏の近さを感じさせるぬるさが混じり、朝の時間帯にもかかわらず、少し歩くだけで額へ汗が浮かびそうだった。


 門の前には、すでに雫が立っている。


「おはよう、春樹」


「おはよう。今日は早いな」


「今日はって何?」


「いつも俺の方が先のこともあるだろ」


「昨日、代表なんだから遅れるなって言われてた人に合わせてあげたの」


「俺が遅刻する前提なのやめろ」


「本読んでたらありそうだから」


「今日は家で読まずに出てきた」


 春樹が胸を張ると、雫は一瞬だけ感心したような顔をした。


「珍しい」


「その代わり学校で読む」


「やっぱり読むんじゃん」


「集合まで時間あるからな」


 二人は学校へ向かって歩き始める。


 春樹は歩きながら本を取り出さない。


 それが今では当たり前になっていることに、雫はふと気づいた。


 以前なら、春樹はこの時間すら惜しむように本へ目を落としていた。九条凛から注意され、危険だと納得してからは本当にやめている。


 注意されたから仕方なくではない。


 危険だと理解したからやめた。


 そういうところも、昔から変わっていないのかもしれない。


「春樹、今日暑くなりそうだよ」


「説明会でも言われた。水分多めに持ってきた」


「ちゃんとしてる」


「代表だから」


「昨日まで嫌がってたのに」


「決まった仕事を適当にやる方が後で面倒だろ」


「そういうところだよ」


「最近そればっかり言われるんだけど」


 春樹が眉を寄せる。


 雫は笑いながら前を向いた。


「初戦、十時二十分だよね?」


「予定では。前の競技が押したら多少ずれるかもしれないけど」


「私、その時間なら見に行ける」


「本当に来るんだ」


「昨日も言ったでしょ」


「いや、雫も自分の競技あるし」


「被ってないから大丈夫。それに……」


 雫は少しだけ言葉を止める。


 春樹が横を見る。


「それに?」


「久しぶりに、ちゃんと試合してる春樹見たいし」


 春樹は数秒だけ黙った。


 中学時代には、雫が試合を見に来ることもあった。


 当時はそれが特別だと思ったことなどない。幼馴染なのだから、時間が合えば来るものだと考えていた。


 高校へ進み、春樹がサッカー部へ入らなかったことで、そうした機会は自然となくなった。


「じゃあ、まあ……変なところは見せられないな」


「失敗したら笑うけどね」


「応援する気ある?」


「あるよ。失敗しても笑ってあげる」


「最悪の応援じゃん」


 春樹が笑う。


 雫も笑った。


 ただ、その笑顔の奥では、昨夜から少しだけ違う感情が続いていた。


(楽しみなんだ、私)


 春樹がサッカーをしているところを見ることが。


 昔から知っている姿を、今の自分でもう一度見ることが。


 それをただの懐かしさだけで説明していいのか、雫にはまだ分からなかった。


 だから今は、答えを急がない。


 以前読んだ本の中で、登場人物たちは自分たちの関係を理解するまで長い時間をかけていた。


 なら、自分も分からないまま少しずつ知っていけばいい。


「何か機嫌いいな」


 春樹の声で、雫は思考から戻った。


「交流会だからじゃない?」


「雫、そんなスポーツ好きだったっけ?」


「春樹よりは普通に学校行事楽しめるよ」


「俺だって楽しんでるよ」


「昨日、説明会九分四十七秒だったって喜んでた人が?」


「十三秒の余裕は大きい」


「何が大きいのよ」


 朝の道に、二人の笑い声が混じった。


     ◇◇◇


 清涼学園へ到着した時点で、普段とは明らかに空気が違っていた。


 校庭には複数の競技用ラインが引かれ、グラウンドの一角には簡易テントが設置されている。体育館へ向かう生徒たちはすでに運動着姿で、廊下でも競技予定を確認する声が飛び交っていた。


 二年三組へ入ると、永山剛志が教卓の前で出席表と競技一覧を確認している。


「おう、七瀬。来たか」


「来ましたよ。何で意外そうなんです?」


「本を読んで遅れる可能性を三割ほど考えていた」


「先生まで三割理論を何にでも使うのやめてください」


「安心しろ。今日は本が絡んでないから二割だ」


「下がっても高い」


 クラスから笑いが起こる。


 春樹は自分の席へ鞄を置くと、まず資料を取り出した。


「サッカーの参加者、欠席います?」


「今のところ全員来てる。体調不良もなしだ」


「山岸はバスケ先ですよね」


「ああ。本人にも確認した。サッカーへ回るときは無理させるな」


「分かってます」


 春樹が資料へ小さく印をつける。


 その様子を見ていた永山が、少しだけ目を細めた。


「すっかり代表だな」


「連絡係の延長です」


「まだ抵抗するのか」


「名称は大事でしょう」


「やってることは代表だ」


「仕事内容が同じでも気分が違うんですよ」


「面倒くさい奴だな」


「先生にだけは言われたくないです」


 永山の怖そうな顔に笑みが浮かび、近くにいた杉浦拓海が吹き出した。


「七瀬、今日よろしくな」


「おう。杉浦は最初から前でいく予定」


「俺、そんな上手くないぞ?」


「分かってる。だから無理に抜こうとしなくていい。前で受けて、近くへ戻せれば十分」


「お前、昨日も言ってたけど本当に俺ら使う気なんだな」


「使うって言い方やめろ。全員参加する交流会なんだから、出るなら普通にやればいいだろ」


 杉浦は一瞬だけ黙り、それから笑った。


「了解、代表」


「連絡係」


「もう諦めろって」


 周囲からまた笑いが起きた。


 その少し後ろで、サッカーへ参加する男子の一人が資料を覗いている。経験はほとんどなく、昨日まで自分が足を引っ張らないか気にしていた生徒だった。


「七瀬、俺も本当に出ていいんだよな?」


「そのための交流会だろ」


「でも二組、サッカー部いるんだろ?」


「神谷はいる。たぶん他にも経験者いるけど、それで俺たちが経験者だけ出したら意味ないし」


「ミスったら?」


「俺もミスする」


「いや、お前と俺じゃ違うだろ」


「ミスした後どうするかは同じだよ。取られたら戻る。パスずれたら次の位置取る。分かんなくなったら俺か杉浦に声かけろ。それで十分」


 春樹は大げさに励ますことなく、当たり前のように言った。


 その方が相手にも伝わりやすい。


「……分かった」


「あと最初から全力で走り続けるなよ。十分もたないから」


「それは分かる」


「俺も一年以上まともにやってないから、そこは同じ」


「絶対同じじゃない」


 今度はその男子も笑った。


 少し離れた場所で話を聞いていた雫は、春樹の横顔を静かに見ていた。


 誰かを強引に引っ張るわけではない。


 自分が全部やるとも言わない。


 相手ができる範囲を見て、その範囲で参加できる場所を作る。


 本を選ぶときも、勉強を教えるときも、サッカーでも同じなのだ。


(春樹って、こういう人なんだ)


 幼馴染なのに。


 いや、幼馴染だからこそ、近すぎて見えていなかった部分がある。


 そのことを最近何度も思い知らされていた。


     ◇◇◇


 開会の簡単な説明が終わると、生徒たちはそれぞれの競技へ散っていった。


 午前九時を過ぎる頃には、校内のあちこちから歓声が聞こえ始める。


 春樹の最初の役目は、サッカー参加者の集合確認だった。


 試合開始十五分前。


 グラウンド脇のテント近くで、春樹は資料と参加者を見比べる。


「杉浦いる。高木いる。藤原いる……山岸はバスケだから後半から」


「七瀬、点呼が先生みたい」


「抜けたら困るだろ」


「全員いるって」


「一応確認するんだよ」


 杉浦が笑う。


 春樹は人数を確認し終えると、グラウンドへ目を向けた。


 二年二組もすでに集まり始めている。


 その中心には神谷がいた。


 春樹と目が合う。


 神谷はすぐに片手を上げ、こちらへ歩いてきた。


「よう、代表」


「お前までそれ言う?」


「二組代表の神谷です。よろしくお願いします」


「急に真面目になるな」


「試合前の挨拶大事だろ」


「はいはい。よろしく」


 二人が軽く拳を合わせる。


 神谷は春樹の後ろにいる三組のメンバーを見た。


「昨日の練習のメンバー?」


「だいたいな。山岸だけバスケ終わってから」


「なるほど」


「そっちは?」


「経験者三人。あとは未経験か体育くらい」


「思ったより同じだな」


「交流会だからな。部活対抗じゃないし」


 神谷は笑いながら、それでも目には試合前らしい高揚を浮かべている。


「でも春樹」


「何?」


「お前には普通にいくから」


「当たり前だろ」


「中学のとき、ずっと同じ側だったからさ。敵でやるのちょっと楽しみなんだよ」


「俺も昨日から少し楽しみ」


「お、認めた」


「サッカー嫌いじゃないって何回言えば分かるんだよ」


「じゃあ高校でも部活――」


「入らない」


「そこだけ即答なんだよなあ」


「毎日放課後潰れるだろ」


「本当にぶれない」


 神谷が笑う。


 そのとき、後方から明るい声が飛んできた。


「春樹先輩ー!」


 春樹と神谷が同時に振り返る。


 グラウンド脇の観戦スペースに、小日向ひよりがいた。


 その隣には新海真実。


 さらに少し離れた場所から、雫と赤木紗弥、悠斗まで歩いてくる。


「……多くない?」


 春樹が呟く。


 神谷は楽しそうに周囲を見た。


「人気者じゃん」


「違う。たまたま時間空いてるだけ」


「はいはい」


「その返事何だよ」


「俺、何も言ってない」


 神谷は笑いながら二組の方へ戻っていった。


 春樹は観戦スペースを見る。


「小日向、自分の卓球は?」


「一試合目終わりました! 次まで空いてます!」


「真実は?」


「私もまだ競技まで時間あります」


「悠斗、お前バレーは?」


「昼前。今空いてる」


「紗弥も?」


「私も同じ。だから見に来た」


 春樹は最後に雫を見る。


「雫は聞いてたからいいとして」


「何で私だけ許可済みみたいなの」


「朝聞いたし」


「私は?」


 ひよりが不満そうに手を挙げる。


「昨日聞いた」


「じゃあ私も許可済みです!」


「許可制じゃないって」


 真実が笑う。


 春樹は額へ手を当てた。


「普通に見ればいいけど、何で全員固まってるんだよ」


「たまたま会ったから」


 真実が答える。


「途中で西条先輩たちが来て、それで一緒に」


「なるほど」


 そこまでなら理解できる。


 しかし、さらに後方から聞き覚えのある声がした。


「ずいぶん賑やかね」


 春樹が嫌な予感とともに振り返る。


 一ノ瀬怜華が、生徒会用の腕章をつけて立っていた。


「一ノ瀬先輩まで?」


「本部の巡回よ」


「本当に?」


「本当よ」


「半分くらい俺を見に来てません?」


「自意識過剰ね、七瀬君」


「昨日見るかもって言ってたでしょう」


「結果として巡回時間が重なっただけ」


 怜華は完璧な笑顔で答える。


 その少し後ろから、今度は九条凛まで現れた。


「九条」


「私はリレーまで時間があるだけだ」


「まだ何も聞いてない」


「顔に書いてあった」


 春樹は周囲を見渡した。


 雫。


 真実。


 ひより。


 悠斗。


 紗弥。


 怜華。


 凛。


 さらに同じクラスの生徒たちも、三組の試合ということで何人か集まっている。


「……何だこれ」


 昨日までは、見に来る人間が増えたとは思っていた。


 実際に一か所へ集まると想像以上だった。


「応援席できてるじゃん」


 杉浦が後ろから笑う。


「作ってない」


「七瀬応援団」


「やめろ」


「春樹先輩応援団!」


 ひよりが両手を上げる。


「小日向、乗るな」


 周囲から笑いが起こった。


 春樹はため息をついたものの、嫌そうな顔ではなかった。


 雫はそれに気づく。


 以前なら、本当に面倒そうな顔をしていたかもしれない。


 今は照れくさそうにしているだけだ。


「春樹」


「ん?」


「ちゃんと見てるからね」


「失敗したら笑うんだろ?」


「それも含めて」


「応援じゃないな、それ」


 そう言いながら、春樹は笑った。


     ◇◇◇


 試合開始を知らせる笛が鳴った。


 二年三組の最初の配置は、経験者と未経験者を混ぜた形になっている。


 春樹は中央より少し後ろ。


 杉浦は前。


 神谷は二組の中央に入っていた。


 交流会用の短い試合で、コートも正規の広さより狭い。人数も調整されているため、本格的な試合とは違う。


 それでも、ボールが転がり始めれば空気は変わった。


「杉浦、無理に追わなくていい! 中切って!」


「了解!」


「高木、こっち見なくていい、相手見て!」


「お、おう!」


 春樹は自分がボールを持っていない時間にも周囲を見ていた。


 誰が緊張しているか。


 誰が走りすぎているか。


 相手の経験者がどこへ寄っているか。


 神谷がどこを狙っているか。


 中学時代なら意識せず分かっていたものが、一年以上の空白を挟んだ今でも完全には消えていない。


 二組からパスが中央へ入る。


 神谷が受ける。


 春樹は真正面から奪いに行かず、半歩だけ右へ寄った。


 神谷の身体が動く。


(外に出すふりして、中へ戻す)


 長く一緒にやっていたから分かる癖だった。


 春樹が先に身体を入れる。


「うわ、やっぱ読んでる!」


 神谷が笑いながらボールを守る。


「お前、その戻し方昔から変わってない!」


「分かってても取れないだろ!」


「じゃあ取る!」


 神谷が足裏でボールを引き、身体を反転させる。


 春樹は無理に足を出さず、進行方向だけを塞いだ。


 そこへ杉浦が戻ってくる。


「杉浦、今!」


「おっ!」


 二人で挟み、ボールがこぼれる。


 春樹は拾うと、すぐに前を見た。


 左には経験の浅い高木。


 右には杉浦。


 相手は春樹が自分で運ぶと判断したのか、中央へ寄っている。


 春樹は右へ身体を向けた。


 神谷が反応する。


 その瞬間、春樹は左足で高木の前へ短いパスを通した。


「高木、そのまま!」


「え、俺!?」


「前空いてる!」


 高木は一瞬だけ慌てたものの、目の前には確かに空間がある。


 春樹が自分へボールを戻せと要求していないことにも気づいた。


 高木はそのまま走った。


 相手が一人寄る。


「杉浦!」


 高木が横へ出す。


 杉浦が受ける。


「そのまま打て!」


 春樹の声が飛ぶ。


 杉浦は迷わず右足を振った。


 ボールはゴールの左側へ飛び、相手の足に触れながらもネットへ入った。


「入った!」


 杉浦が声を上げる。


 高木も目を見開いている。


「マジか!」


「ナイス!」


 春樹が二人の方へ駆け寄り、軽く手を合わせる。


「高木、今の良かった。ちゃんと前見えてた」


「七瀬があそこ出したからだろ!」


「でも最後に杉浦へ出したの高木だろ」


「いや、そうだけど……」


「なら一本分仕事した」


 高木の顔に笑みが広がる。


 観戦スペースから歓声が上がった。


「春樹先輩ー! すごいです!」


「杉浦君も高木君もナイスー!」


 ひよりの声がよく通る。


 春樹はそちらへ一瞬だけ目を向けた。


「小日向、声でかい!」


「応援です!」


「分かったから!」


 試合中にもかかわらず笑いが起きる。


 雫も手を叩きながら、春樹の姿を追っていた。


 派手なドリブルで何人も抜いたわけではない。


 自分でシュートしたわけでもない。


 それでも、春樹が入ることで三組の動きが明らかに変わっている。


 昔からそうだった。


 春樹は自分だけが目立つプレーを好まなかった。


 味方が動ける場所を作り、相手が嫌がるところへボールを出す。


 中学生の頃より体力は落ちているのだろう。


 それでも、春樹らしさは変わっていない。


「西条先輩」


 隣から真実が声をかける。


「春樹先輩、やっぱりすごいですね」


「うん」


 雫は素直に頷いた。


「昔から、ああいう感じだったよ」


「自分で全部やるんじゃなくて?」


「そう。上手いのに、周り使うの好きだった」


「本当に本選ぶときと同じですね」


 真実が笑う。


 雫も思わず笑った。


「私も最近それ思ってた」


「西条先輩も?」


「うん。春樹って、たぶん何やっても人のこと見てるんだよね」


 その言葉を口にしたあと、雫は少しだけ目を細めた。


 春樹自身は、自分が見られていることには驚くほど鈍いのに。


     ◇◇◇


 試合は一点差のまま進んでいた。


 二組も簡単には崩れない。


 神谷が中央でボールを受けるたび、攻撃の速度が上がる。


 前半終了直前。


 神谷が春樹の逆を取った。


 春樹がパスコースを塞ぐと読んだ神谷は、あえて自分で縦へ持ち込む。


「そっちか!」


「読めてないじゃん!」


「うるさい!」


 春樹が追う。


 神谷は前の味方へ一度預け、そのまま走る。


 ワンツー。


 返ってきたボールを受け、神谷がシュートする。


 ゴール。


 二組側から歓声が上がった。


「よっしゃ!」


 神谷が拳を握る。


 春樹は腰へ手を当て、息を整えながら笑った。


「今のは完全にやられた」


「中学の頃から俺だって成長してんだよ!」


「そりゃそうだ」


 悔しい。


 だが、それ以上に楽しい。


 自分の読みを知っている相手が、その読みを逆手に取ってくる。


(やっぱ神谷とやるの面白いな)


 笛が鳴り、前半終了。


 一対一。


 春樹たちはグラウンド脇へ戻った。


「七瀬、水!」


 杉浦がペットボトルを投げようとして、春樹が慌てて止める。


「投げるな! 落とす!」


「サッカー上手いのにそこは取れないの?」


「今手滑るだろ!」


 笑いながら受け取る。


 春樹は水分を取りつつ、参加者の様子を確認した。


 高木は疲れているが、表情は明るい。


 杉浦もまだ動ける。


 予定通りなら後半から一部を交代させる。


 そこへ山岸浩平が走ってきた。


「七瀬!」


「山岸、バスケ終わった?」


「終わった。ちょっと休んできた」


「体調は?」


「大丈夫。出られる」


「無理してない?」


「してない。さっき水も飲んだ」


 春樹は山岸の呼吸と顔色を見る。


 明らかに無理をしている様子はない。


「じゃあ後半途中から入って。最初二分くらい見てから」


「了解」


「高木、一回休む?」


「いや、もう少し出たい」


「じゃあ三分。疲れたらすぐ言って」


「分かった」


 春樹が次々と調整する。


 その様子を少し離れたところから見ていた怜華は、腕を組みながら小さく笑った。


「本当に代表をやっているわね」


 隣にいた凛が答える。


「本人は連絡係だと言い張っていますが」


「そこまで嫌なのかしら」


「責任が嫌というより、読書時間が減るのが嫌なのだと思います」


「でしょうね」


 怜華は春樹を見る。


 春樹は高木へ何か説明しながら、指で位置を示している。


 目立ちたいわけではない。


 自分が中心だと主張するわけでもない。


 必要だからやる。


 相手が困っているなら、自分にできる範囲で助ける。


 その行動原理は、本を選ぶときにも似ていた。


「九条さんは、七瀬君のことをよく見ているのね」


 突然言われ、凛が怜華を見る。


「何ですか、急に」


「感想よ」


「委員会で関わることが増えただけです」


「そう」


 怜華はそれ以上追及しなかった。


 凛は少しだけ眉を寄せる。


「一ノ瀬先輩こそ、最近七瀬と話していることが多いのでは?」


「生徒会の仕事で関わるから」


「そうですか」


「ええ」


 二人の視線が一瞬だけ重なる。


 どちらも笑ってはいないが、険悪でもない。


 ただ互いに、相手が春樹をどう見ているのかをほんの少しだけ意識した。


 それ以上の意味をつけるには、まだ早い。


「始まるみたいですよ」


 凛がグラウンドへ視線を戻す。


 怜華もそれに続いた。


     ◇◇◇


 後半。


 春樹は開始から少しだけ位置を上げた。


 二組が春樹からの配球を警戒し始めているため、同じことを続けても通用しない。


 神谷もそれを分かっている。


「春樹!」


 神谷が寄ってくる。


「今度は出させないからな!」


「じゃあ出さない!」


「は?」


 春樹は味方から受けたボールを足元へ置き、神谷と向き合った。


 右へ軽く身体を揺らす。


 神谷は動かない。


「それ中学で何回も見た!」


「だろうな」


 春樹は右へ行くと見せたまま、左足でボールを内側へ運んだ。


 神谷が半歩遅れる。


「新しいの混ぜるなよ!」


「お前が成長してるなら俺も多少は変わるだろ!」


「部活やってないくせに!」


「体育はある!」


「それで増える技じゃねえ!」


 笑いながら競り合う。


 春樹は神谷を完全に抜こうとはせず、寄ってきた二組の選手を引きつけたところで杉浦へボールを預ける。


 自分はそのまま前へ走る。


「杉浦、山岸!」


「分かった!」


 杉浦から山岸へ。


 山岸はバスケットボールで培った周囲を見る感覚があり、サッカー経験が少なくても人の位置を捉えるのは早い。


 春樹が中央へ走り込む。


 だが山岸は春樹へ出さなかった。


 逆側の高木へ送る。


「おっ」


 春樹が笑う。


 高木が受ける。


 前半なら慌てていた場面だった。


 しかし今回は一度顔を上げた。


 相手が来る。


 無理に抜かず、後ろの杉浦へ戻す。


「それでいい!」


 春樹の声が飛ぶ。


 ボールが再び動く。


 杉浦から春樹。


 春樹は受ける前にゴールを見る。


 神谷が中央を切っている。


 なら、自分で打つ必要はない。


 春樹は右足の外側でボールを流した。


 走り込んでいた山岸の前へ。


「山岸!」


「分かってる!」


 山岸が足を振る。


 ボールは強くなかった。


 しかしコースが良かった。


 ゴール右隅へ転がり込む。


 二対一。


 三組側から大きな歓声が上がった。


「入った!」


 山岸自身が一番驚いた顔をしている。


 春樹が駆け寄る。


「ナイス!」


「俺、サッカーで点取ったの初めてかも!」


「じゃあ記念だな」


「七瀬、今の俺に出したの?」


「他に誰がいるんだよ」


「お前、自分で打てただろ!」


「神谷が俺見てたから山岸空いてた」


 山岸は一瞬言葉を失い、それから大きく笑った。


「何かお前とやるとサッカー上手くなった気するわ」


「気のせい。位置が良かっただけ」


「そこは褒めろよ!」


「今褒めただろ」


 周囲から笑いが起こる。


 観戦スペースでは、ひよりが両手を叩いていた。


「春樹先輩、自分で全然シュートしないですね!」


「でも、あれが春樹先輩らしい気がします」


 真実が答える。


「前の練習でもそうでした。自分でできるのに、周りを見てる」


「春樹先輩って、主人公より参謀タイプ?」


「本人に言ったら喜びそうですね。主人公扱い嫌がりますし」


「あ、確かに!」


 二人が笑う。


 その会話を聞いていた悠斗は、何とも言えない顔をした。


「お前ら、あいつの扱い分かってきたな」


「高坂先輩は昔から知ってるんですよね?」


「中学からだけど。あいつ、昔からああだよ。人のことは妙に見てるくせに、自分のことになると全然分かってない」


「自分のこと?」


 ひよりが首を傾げる。


 悠斗は危うく余計なことを言いそうになり、すぐに笑って誤魔化した。


「いや、サッカーでもさ。自分が目立ってるの分かってないだろ?」


「ああ!」


「たぶん試合終わったら『何でこんな人いるんだ』って言うぞ」


「もう言ってました」


「だろ?」


 悠斗は笑いながら、少し離れたところにいる紗弥を見る。


 紗弥も試合を見ている。


 自分のバレーボールはまだ先。


 昨日話していた映画の原作も、悠斗は昨夜かなり読み進めた。


 今日の競技が終わったら、その話をしてみようと思っている。


 春樹に台詞を考えてもらうつもりはない。


 自然に話せばいいと言われたから。


(まあ、それくらいなら俺でもできるよな)


 そう思ったところで、紗弥がこちらを向いた。


「高坂君」


「え?」


「今のパス、すごかったね」


「あ、うん。春樹、ああいうの昔から上手いよ」


「高坂君もサッカーやってたの?」


「俺は遊びくらい。春樹と神谷がちゃんとやってた」


「そうなんだ」


 会話が自然に続く。


 悠斗は少しだけ嬉しくなりながら、再びグラウンドへ視線を戻した。


     ◇◇◇


 残り時間は二分を切った。


 二対一。


 三組が一点リード。


 ただし二組も攻め続けている。


 神谷が右から持ち込む。


 春樹は中央へ寄る。


 神谷が味方へ預ける。


 そのままゴール前へ入ってくる。


(来る)


 春樹は神谷の走る位置を見た。


 ボールが返る。


 春樹も追う。


 二人がほぼ同時にボールへ足を伸ばした。


 神谷が先に触れる。


 春樹は無理に奪わず、シュートコースへ身体を入れる。


 神谷が打てない。


「邪魔!」


「守備だからな!」


 神谷は笑いながら横へ出す。


 二組の別選手がシュート。


 ゴール脇へ外れた。


 歓声とため息が同時に上がる。


 春樹は息を吐きながら自陣へ戻った。


 脚が重い。


 練習のときより明らかに疲れている。


 短い試合でも、勝敗がつけば自然と運動量は増える。


(やっぱ体力落ちてるな)


 中学時代なら、この程度で脚の重さを感じることはなかった。


 けれど、不快ではない。


 久しぶりに身体を使い切る感覚が、どこか懐かしい。


 残り一分。


 三組は無理に攻めない。


 春樹は高木へ声をかけ、杉浦へ位置を指示する。


 全員が戻るのではなく、前へ一人残す。


 二組が押し込む。


 神谷が最後にもう一度仕掛けてくる。


 春樹と目が合った。


 互いに笑った。


 神谷がドリブルで来る。


 春樹は下がりながらコースを限定する。


 神谷が右へ。


 春樹も合わせる。


 さらに切り返し。


 今度は春樹が少し遅れた。


「よし!」


 神谷が抜ける。


 しかし、その先には杉浦がいた。


「うおっ!」


 杉浦が慌てながらも身体を入れる。


 神谷のボールが少し離れる。


 春樹が追いつく。


「杉浦ナイス!」


「七瀬、任せた!」


 春樹がボールを奪い、前へ蹴り出す。


 その直後、終了の笛が鳴った。


 二年三組、二対一。


 初戦勝利。


 歓声が上がる。


 春樹はその場で大きく息を吐いた。


「疲れた……」


 神谷が近づいてくる。


「お前、それ勝った側の第一声?」


「一年以上まともに試合してないんだぞ」


「でも楽しかっただろ?」


 春樹は神谷を見る。


 否定する理由はなかった。


「楽しかった」


「だよな」


 二人は笑い、軽く拳を合わせた。


「次は勝つ」


「交流会で再戦あるの?」


「順位決定で当たるかもしれない」


「そのときはそのとき」


「部活入る気は?」


「ない」


「そこだけ一切揺れないな!」


「だって本読みたいし」


 神谷が声を上げて笑った。


     ◇◇◇


 春樹がグラウンド脇へ戻ると、真っ先にひよりが駆け寄りかけ、途中で生徒会の観戦ラインを越えそうになって怜華に止められた。


「小日向さん、そこまで」


「あっ、すみません!」


「競技者が出てくるまで待ちましょう」


「はい!」


 春樹はそのやり取りを見て笑いながら、自分から観戦スペースへ向かった。


「何で小日向が怒られてるんだよ」


「春樹先輩のせいです!」


「俺何もしてないだろ」


「勝ったからです!」


「理不尽だな」


 ひよりはすぐに笑顔へ戻る。


「でもすごかったです! 山岸先輩に出したやつ!」


「山岸がいいところいたから」


「自分で打てたんじゃないですか?」


「打てたかもしれないけど、神谷が俺見てたし」


「やっぱり参謀です!」


「何だそれ」


「さっき話してたんです。春樹先輩、主人公より参謀タイプだなって」


 春樹の目がわずかに輝いた。


「それはいいな」


「喜んだ!」


 真実が笑う。


「主人公じゃないところが?」


「物語なら参謀とか脇役の方が気楽に読めるだろ」


「自分が物語に入る前提になってますよ」


「例え話だからな」


 悠斗が肩を震わせる。


「お前、そこだけは本当に一貫してるな」


「何が?」


「何でもない」


 春樹は首を傾げる。


 そのとき、雫が少しだけ前へ出た。


「春樹」


「ん?」


「格好よかったよ」


 以前の練習後にも言われた言葉。


 けれど今日は、雫の声が少しだけ違って聞こえた。


 からかう調子がない。


 まっすぐ春樹を見ている。


「……ありがと」


 春樹も素直に答える。


「昔と変わってなかった」


「いや、体力めちゃくちゃ落ちてる」


「そこじゃなくて」


「じゃあ何?」


「周り見てるところ」


 雫は笑った。


「自分でできるのに、みんなができるようにするところ。昔からそうだったなって思った」


 春樹は少しだけ目を丸くする。


「そんなの覚えてたんだ」


「幼馴染だからね」


 雫はそう答えた。


 けれど口にしたあと、その言葉が以前とは少し違って胸へ残った。


 幼馴染だから。


 間違ってはいない。


 けれど、それだけではないのかもしれない。


 春樹が何かをしているところを見たいと思うこと。


 褒めたとき、少し照れたように「ありがと」と返されるのが嬉しいこと。


 他の人が知らない昔の春樹を、自分は知っていると感じること。


 それら全部を幼馴染という一言へ押し込める必要はない。


(……まだ分からないけど)


 分からないままでも、前より少しだけ自分の気持ちへ目を向けられるようになっている。


 春樹はそんな雫の内側を知ることなく、タオルで額の汗を拭いた。


「でも次の試合まで結構空くんだよな」


「休んだら?」


「休むけど」


「本読むつもりでしょ」


「もちろん」


「交流会の日くらいスポーツに集中したら?」


「試合終わったのに何へ集中するんだよ」


「余韻とか」


「余韻で四十分使うより四十分読んだ方がいい」


「春樹だねえ」


 雫が呆れながら笑う。


 真実もひよりも笑った。


 怜華は少し離れたところからその様子を眺めている。


 凛も同じだった。


 多くの人に見られ、声をかけられ、褒められている。


 それでも春樹自身は、特別なことをしたという顔をしていない。


 ただ試合へ出て、必要なことをして、勝った。


 そして空き時間ができたから本を読む。


 その自然さが、彼らしい。


「七瀬君」


 怜華が呼ぶ。


「はい?」


「代表の仕事、ちゃんとできていたわよ」


「上からですね」


「生徒会長だから」


「便利だな、その肩書き」


「褒めているのに」


「じゃあありがとうございます」


「素直でよろしい」


 春樹は笑う。


 凛も近づいてきた。


「七瀬」


「九条も何か褒める?」


「先回りするな」


「流れ的に」


「……悪くなかった」


「九条、それ褒めてる?」


「褒めている」


「もう少し分かりやすく」


「調子に乗るな」


 春樹が笑う。


 凛は少しだけ視線を逸らした。


「だが、最後まで周囲を見ていたのは良かった。経験の少ない者も動けていた」


「それなら良かった」


「お前自身は疲れているようだが」


「そこは仕方ない。一年以上まともにやってないし」


「水分を取れ」


「取ってる」


「ならいい」


 それだけ言って、凛は自分のリレー集合時間を確認するために離れていった。


 怜華も本部へ戻る。


 悠斗と紗弥はバレーボールの準備へ。


 真実とひよりも、それぞれ次の競技がある。


 少しずつ人が散っていく。


 最後に残った雫が、春樹へ言った。


「次の試合も時間合ったら来るね」


「自分の競技優先しろよ」


「分かってる」


「無理して来なくていいから」


「私が見たいから来るの」


 春樹は一瞬だけ言葉を止めた。


 雫も、自分で言った言葉に少し驚いたようだった。


 けれど、今度は言い直さなかった。


「……そっか」


「うん」


「じゃあ、時間合ったら」


「うん」


 雫は小さく笑い、友人たちの方へ戻っていった。


 春樹はその背中を数秒見送る。


(見たいから、か)


 少しだけ不思議だった。


 自分がサッカーをしているところなど、雫は昔何度も見ている。


 それでも今また見たいと言う。


 理由までは分からない。


 ただ、嫌な気はしなかった。


「七瀬ー!」


 後ろから杉浦に呼ばれる。


「次の集合時間、何時だっけ?」


「十一時五十五分!」


「了解!」


 春樹は答えながら、すぐに代表者としての意識へ戻った。


     ◇◇◇


 次の試合までの空き時間。


 春樹が向かったのは、当然のように図書室だった。


 交流会中のため普段より利用者は少なく、館内には校庭から遠く歓声が届いている。


 窓際のいつもの席へ座り、春樹は文庫本を開く。


「……やっと読める」


 思わず安堵の息が漏れた。


 身体にはまだサッカーの疲労が残っている。


 脚も少し重い。


 それでも椅子へ座って本を開けば、不思議と落ち着いた。


 数ページ進めたところで、図書室の扉が静かに開く。


 春樹は顔を上げる。


 入ってきたのは白石栞だった。


「白石先輩」


「七瀬君」


 栞は少し驚いた顔をする。


「試合は?」


「一試合目終わりました。次まで空いてるんで」


「それで図書室へ?」


「他にどこ行くんです?」


 栞が小さく笑った。


「七瀬君ならそうですよね」


「白石先輩は交流会参加してないんですか?」


「午前の競技は終わりました。午後にもう一つあります」


「じゃあ同じですね」


「はい」


 栞は春樹の向かいへ座った。


 手には、春樹が選んだ本がある。


「まだそれ読んでる」


「昨日の続きです」


「どこまで?」


「もう少しで半分です」


「感想は?」


「まだ秘密です」


「昨日からそればっかり」


「七瀬君が気にするので」


「白石先輩、絶対一ノ瀬先輩の影響受けてる」


「それは否定したいです」


 二人が小さく笑う。


 窓の外から歓声が聞こえた。


 どこかのクラスで点が入ったのだろう。


 栞は一度だけ外へ目を向け、それから春樹を見る。


「七瀬君、勝ったんですか?」


「見てたんですか?」


「いいえ。ここへ来る途中で聞きました」


「二対一で勝ちました」


「おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「七瀬君、嬉しそうですね」


「まあ、勝ったし。神谷と敵でやるのも楽しかったです」


「本当にサッカーも好きなんですね」


「好きですよ」


 春樹は迷わず答える。


「本の方が好きなだけで」


 栞はその答えに少し笑った。


「七瀬君らしいです」


「また言われた」


「でも、前より少し分かる気がします」


「何が?」


「七瀬君は、本以外を嫌っているわけじゃないんですよね」


「そうですよ。最初から」


「ただ、本を一番にしたい」


「それです」


「だから、サッカーも友達と話すことも、本について誰かと話すことも、全部楽しめる」


 春樹は少し考えた。


「最近はそうかもしれないです」


「最近?」


「前から友達と話すのは普通に楽しかったですけど、本読む時間減ると全部まとめて邪魔って思うことはあったんで」


「今は?」


「読む時間なくなるのは嫌です」


「そこは変わらないんですね」


「そこ変えたら俺じゃないでしょう」


 栞が笑う。


「でも、今は?」


 春樹は開いた本へ目を落とした。


 今朝は雫と話した。


 教室ではクラスメイトの役割を確認した。


 試合では神谷と競い、高木や杉浦、山岸と一緒に動いた。


 観戦スペースには真実やひより、悠斗、紗弥、凛、怜華がいた。


 そして今は栞と話している。


 読書時間は、確かに一人だけだった頃より減っている。


 けれど。


「……全部邪魔ではないですね」


 春樹は素直に答えた。


「むしろ、結構楽しいです」


 栞はその言葉を聞いて、静かに目を細めた。


「よかったです」


「白石先輩が喜ぶんですか?」


「最初に会った頃の七瀬君、図書室で一人で本を読んでいるときが一番楽しそうだったので」


「今も楽しいですよ」


「知っています」


「じゃあ何で?」


 栞は少しだけ考え、手元の本へ指を添えた。


「今は、一人で読んでいるとき以外にも同じくらい楽しそうな顔をすることがあるから」


 春樹は答えず、栞を見る。


 栞は照れたように少し視線を下げた。


「……すみません。変なこと言いました」


「いや」


 春樹は首を振る。


「自分じゃ分かんないんで、そう見えるならそうなのかも」


「はい」


「でも白石先輩と本の話してるのも普通に楽しいですよ」


 栞の指が、本の端で止まった。


「……ありがとうございます」


「何でお礼?」


「何となくです」


「最近みんな、俺に分からない返事するなあ」


「七瀬君が気づいていないだけかもしれません」


「何に?」


 栞は一瞬だけ春樹を見た。


 それから、小さく笑って首を横へ振る。


「今は秘密です」


「また秘密?」


「はい」


「今日秘密多くないですか?」


「感想も含めて、読み終わったら話します」


「じゃあ待ちます」


 春樹は納得して本へ戻った。


 栞も自分の本を開く。


 二人の間に静かな時間が戻る。


 外ではスポーツ交流会の歓声が続いている。


 校庭を走る生徒たちの声。


 体育館から漏れる笛。


 廊下を急ぐ足音。


 そんな普段とは違う学校の中で、二人だけはいつものように向かい合って本を読んでいた。


 春樹は数ページ進めたところで、ふと笑った。


 物語の主人公が、また相手の好意を見当違いの理由で解釈していたからだ。


(本当にこいつ、自分のことになると分かんないな)


 呆れながら読み進める。


 向かい側で栞が一度だけ顔を上げた。


 春樹が何に笑ったのかは分からない。


 けれど、試合を終えた直後に図書室へ来て、楽しそうに本を読んでいる姿を見ると、不思議と安心した。


 サッカーをしている春樹を、栞はまだ見ていない。


 ほかの人が知っている春樹の姿を、自分は知らない。


 以前なら、その事実をただ「そういうもの」と受け止めていたかもしれない。


 今はほんの少しだけ、知りたいと思う。


(午後、時間が合ったら……見に行ってみようかな)


 栞はその考えを誰にも言わず、再び本へ視線を落とした。


 午前のスポーツ交流会は、まだ半分も終わっていない。


 春樹の次の試合も残っている。


 それぞれの競技も、それぞれの時間も続いていく。


 けれど春樹にとって今日一番大きかった変化は、勝ったことでも、神谷と久しぶりに本気で競ったことでもなかった。


 大勢に見られながらサッカーをして、そのあと静かな図書室へ戻ってきた今、どちらの時間も「早く終わればいい」とは思わなかったことだった。


 好きな本を読む時間は、何より大切だ。


 その事実は変わらない。


 ただ、その本を閉じている時間の中にも、いつの間にか楽しみにできるものが増えていた。


 そして本人がその変化の意味を理解するには、まだもう少し時間が必要だった。

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