第34話 十分で終わる説明会のはずなのに、どうして生徒会長まで待ってるんですか?
木曜日の朝、七瀬春樹はいつもより少し重くなった鞄を肩へ掛けながら、玄関先でもう一度中身を確認した。
教科書とノート、筆箱、自分が読むための文庫本。昨日受け取ったスポーツ交流会の競技代表者用資料は透明なクリアファイルへ入れてあり、その隣にはもう一冊、昨夜かなりの時間をかけて本棚の奥から発掘した本が収まっている。
小日向ひよりへ薦めるための一冊だった。
(まさか収納ケースの一番下にあるとは思わなかった……)
春樹は昨夜の捜索を思い出し、わずかに眉を寄せる。
本そのものを選ぶより、見つけ出す方が時間がかかった。
自室の本棚はすでに限界を迎えて久しく、前後二列になっている場所もあれば、棚へ収まらなかった本を収納ケースへ移している場所もある。電子書籍で買う作品も増えているが、気に入った作品は紙でも欲しくなるため、結局冊数は増え続けていた。
昨夜はひよりへ薦める本を探すだけのつもりだったのに、途中で数年前に読んだ別作品を発見し、危うくその場で読み始めるところだった。
(あれは危なかった。本棚整理で一番やっちゃいけないやつだ)
目的の本を見つけたあと、その別作品も机の上へ出してしまったので、近いうちに再読する可能性は高い。
春樹は鞄を閉じ、玄関を出た。
空は昨日より明るかった。梅雨の合間らしく湿気は残っているものの、雲の隙間には青空も見え、道路もほとんど乾いている。
門の前まで出たところで、ちょうど雫が歩いてくるのが見えた。
「おはよう」
「おはよう。今日は待たせてないぞ」
「昨日のこと気にしてたの?」
「別に。今日は本探してないから早かっただけ」
「ひよりちゃんの本、見つかった?」
「見つかった。収納ケースの底から」
「そんなところに入ってたんだ」
「俺もそこまで奥だと思ってなかった。途中で別の本見つけて読みそうになったし」
雫が呆れたように笑い、二人は並んで駅とは反対方向の学校へ歩き始める。
「結局どんな本にしたの?」
「商店街の喫茶店が舞台の青春もの。高校生が何人か出てきて、それぞれ事情があるんだけど、重すぎない。会話多めで、章ごとに中心になる人物も分かりやすい」
「ひよりちゃん、好きそう」
「たぶんな。前より登場人物は多いけど、連作短編集も普通に読めてたし、そろそろ少し広げても大丈夫だと思う」
「本当に段階つけて選んでるんだね」
「いきなり四百七十ページ渡したら逃げるだろ」
「本人も厚さ気にしてたもんね」
「昨日のメッセージでも念押しされた」
春樹は笑いながら答えた。
雫はその横顔を眺め、それから視線を前へ戻す。
昨日、紗弥へ「もう少し春樹を知りたいのかもしれない」と話した。
その言葉は、一晩経っても不思議と後悔していなかった。
恋だと認めたわけではない。
けれど、幼馴染だから知っていて当然だと思っていた相手を、改めて知りたいと感じている。その事実だけなら、もう否定する必要もない気がしていた。
「春樹」
「ん?」
「今日、代表の説明会だよね」
「そう。放課後十分」
「そこ強調するんだ」
「先生が十分って言ったからな。十一分になったら抗議していいと思う」
「一分くらい許してあげなよ」
「一分あれば文庫本なら二ページくらい読める」
「そういう換算する人、初めて見た」
「積み重ねが大事なんだよ」
「はいはい」
雫は笑い、それから少しだけ声を柔らかくした。
「明日、頑張ってね」
「交流会?」
「うん」
「まあ、出るからにはちゃんとやるよ。クラス対抗だし」
「見に行ける時間あったら、サッカー見に行くから」
「雫も競技あるだろ?」
「時間被ってなかったらね」
「じゃあ見られても恥ずかしくないくらいには動く」
「前も普通に格好よかったよ」
さらりと返された言葉に、春樹が一瞬だけ黙る。
雫自身も言ったあとで少しだけ頬を熱くしたが、今さら取り消すのも不自然だった。
「……そういうの朝から普通に言うようになったな」
「本当のことだからいいでしょ」
「まあ、悪い気はしないけど」
春樹は少し照れくさそうに頭を掻く。
その反応を見て、雫の胸が小さく跳ねた。
(あ、照れるんだ)
以前なら、春樹がどう受け取ったかまで気にしなかったかもしれない。
今はその小さな反応まで目に入る。
「何?」
「何でもない」
「最近それ多くない?」
「春樹が気にしすぎなんじゃない?」
「そうかなあ」
春樹は首を傾げたものの、やがて校門が見えてくると、今日の授業と放課後の説明会へ意識を移した。
雫はその隣を歩きながら、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
◇◇◇
朝のホームルームが終わって十分ほど経った頃、二年三組の後方扉から明るい声が飛び込んできた。
「春樹先輩、おはようございます!」
机へ向かって文庫本を読んでいた春樹は、ページから顔を上げる。
「小日向。朝から元気だな」
「昨日から楽しみにしてましたから!」
「授業前だぞ。声抑えろ」
「はい!」
「返事が一番でかい」
周囲から笑いが起きる。
ひよりは慌てて口元を押さえ、小声で「すみません」と言いながら春樹の机まで近づいた。
その後ろには真実もいる。
「おはようございます、春樹先輩」
「真実も一緒だったのか」
「廊下で捕まりました」
「捕まえたって何ですか。ちょうど教室へ行くところだったから誘っただけですよ」
「一年の教室、反対方向だけど?」
「細かいこと気にしない!」
「小日向は気にした方がいいと思う」
春樹が笑い、鞄へ手を伸ばす。
「ちゃんと見つかったぞ」
「本当ですか?」
「昨日言っただろ」
「でも春樹先輩の部屋、本多そうだから見つからない可能性もあるかなって」
「何で俺の部屋の状況まで想像されてるんだよ」
「本棚すごそうじゃないですか」
「そこは否定できない」
春樹は一冊の本を取り出した。
厚さはひよりが警戒するほどではない。表紙には古い商店街と、小さな喫茶店の前へ並ぶ数人の高校生が描かれている。
「はい」
「おお……!」
ひよりは両手で受け取り、まず本の厚さを確認した。
「三百ページくらい!」
「最初に見るのそこかよ」
「重要です!」
「四百七十ページじゃないから安心しろ」
「優しい!」
「ページ数だけで優しさ判定するな」
ひよりが嬉しそうに表紙を見る横で、真実も少し身を寄せる。
「私、これ見たことあります」
「読んだ?」
「まだです。本屋さんで平積みされてた気がします」
「少し前に文庫になったから、そのときじゃないかな」
春樹は机へ片肘をつきながら、ひよりへ視線を戻す。
「前に読んだやつより登場人物は多い。でも章ごとに中心になる人が分かりやすいから、たぶん迷わないと思う」
「恋愛あります?」
「ある。ただし恋愛だけじゃない。友達関係とか進路とか家族の話もある」
「悲しいです?」
「ずっと重い話ではない。ちょっとしんどいところはあるけど、救いがないタイプじゃない」
「怖いです?」
「ホラーじゃない」
「よし!」
「条件確認が面接みたいになってるぞ」
ひよりは笑いながら本を開き、最初の数ページをぱらぱらと確認する。
「会話多い」
「小日向、そこ大事だろ?」
「大事です。文字がびっしりだと最初に心折れそうになります」
「そのうち慣れるよ。無理に慣れる必要もないけど」
「春樹先輩は文字びっしりでも平気ですよね」
「面白ければな。逆に読みやすくても合わなければ止まるし」
「じゃあ、これにした決め手は?」
ひよりが聞く。
春樹は少し考えてから答えた。
「小日向、今まで読んだ本で主人公一人より周りのキャラの話をよくしてただろ。最初の文化祭のやつでも、主人公が周囲に頼るところ好きって言ってたし、商店街の日常ミステリーでは眼鏡の友達を気に入ってた」
「はい」
「連作短編集でも、自分の話じゃないところで誰かが誰かを助けてるの好きそうだった。だから、今回は最初から何人かの関係が動くやつにした」
ひよりの指がページの端で止まる。
「そこまで考えたんですか?」
「本選ぶんだから考えるだろ」
「春樹先輩の『本選ぶんだから』、たぶん普通の人より範囲広いですよ」
「そうか?」
「そうだと思います」
真実が横から静かに同意した。
「私のときも、前に言ったこと覚えてましたし」
「二人して何なんだよ」
「褒めてます」
「ならいいけど」
春樹は少し照れくさそうに視線を本へ戻した。
ひよりはそんな彼を見たあと、借りた本を胸の前で持ち直す。
(やっぱり、適当に選んでないんだよなあ)
以前から分かっていた。
それでも、自分が何を面白いと言ったかまで具体的に返されると、改めて実感する。
自分のために選ばれた一冊。
その事実が、本そのものへの興味を少しだけ大きくしていた。
「絶対感想言いますね」
「絶対じゃなくていいよ。読み終わったらで」
「途中でも言いに来ていいです?」
「いいけど、俺が読書中なら区切りまで待ってくれ」
「九ページくらい?」
「昨日のこと覚えてるな」
「待てる後輩ですから!」
「自分で言うな」
ひよりが笑う。
そのとき一時間目開始前の予鈴が鳴り、真実が時計へ目を向けた。
「戻らないと」
「本当だ。春樹先輩、ありがとうございます!」
「おう。合わなかったら無理して読まなくていいからな」
「分かりました!」
二人が教室を出ていく。
入れ替わるように悠斗が近づいてきて、春樹の机へ手をついた。
「朝から後輩二人に本渡して、好みまで語って、何かもう図書室の司書みたいになってない?」
「一冊しか渡してないだろ」
「そこじゃない」
「じゃあ何だよ」
「いや、いいわ。説明してもお前は本の話に戻す」
「本の話してたんだから当たり前だろ」
悠斗は深く息を吐き、近くで聞いていた雫が笑った。
◇◇◇
昼休み。
春樹は弁当を食べながら、明日のスポーツ交流会の予定表を確認していた。
自分のサッカーの試合時間。
クラスリレー。
バスケットボールやバレーボールとの重複。
昨日までにも確認しているが、正式な競技代表となった以上、最低限は把握しておく必要がある。
「……山岸のバスケが先か」
小さく呟き、時間を書き込む。
山岸はバスケットボールを優先し、サッカーは人数調整で参加する予定だ。試合時間が近ければ無理に最初から出す必要はない。
杉浦はサッカーのみ。
経験の浅い生徒も数人いる。
交代と再出場が柔軟に認められるなら、前半と後半で全員へある程度出番を作れるはずだった。
「春樹、完全に監督みたいになってる」
隣から雫が覗き込む。
「監督じゃない。時間確認してるだけ」
「その紙、交代順まで書いてあるけど」
「明日の説明でルール確定したら調整する」
「それを監督って言うんじゃない?」
「代表」
「朝まで嫌がってたのに、もう受け入れてる」
「決まったならやるよ。適当にして本番ぐちゃぐちゃになる方が面倒だし」
「そういうところなんだよね」
「何が?」
「みんなが春樹でいいって言う理由」
「またそれ?」
春樹は納得できない顔をしながら弁当へ戻る。
そこへ教室の入口から、聞き覚えのある落ち着いた声が届いた。
「七瀬君、少しいいかしら」
春樹の箸が止まった。
雫も入口を見る。
一ノ瀬怜華が立っていた。
昼休みの二年三組へ三年の生徒会長が現れるだけでも目立つ。しかも最近、怜華が春樹を訪ねてくることが何度かあったため、近くの生徒たちが露骨にこちらへ視線を向けた。
「一ノ瀬先輩」
「そんなに警戒しなくても、仕事を増やしに来たわけじゃないわ」
「俺、顔に出てました?」
「かなり」
「最近、生徒会長を見ると仕事が増える反射ができてきて」
「失礼ね」
怜華は口元を柔らかく上げる。
完璧な生徒会長の笑顔に見える。
ただ、春樹には目元に混じる面白がっている色が分かるようになっていた。
「その顔、絶対半分くらい楽しんでますよね」
「あら。何のこと?」
「それです」
「何もしていないのに疑われるなんて悲しいわ」
「悲しい人はそんな楽しそうな目しないでしょう」
怜華の笑みが少し崩れた。
「本当に、そういうところだけよく見てるわね」
「だけって何ですか」
「褒めているのよ」
「一ノ瀬先輩に言われると信用しづらい」
教室のあちこちから小さな笑いが起きる。
雫は二人の会話を聞きながら、以前より落ち着いていられる自分に気づいていた。
怜華と春樹には、雫にはない会話のテンポがある。
春樹が怜華の表向きの笑顔を見抜き、怜華がそれを楽しむ。
自分と春樹の関係とは違う。
だからといって、自分の場所がなくなるわけではない。
(同じじゃないから、比べても仕方ないんだ)
最近ようやく、それが少しずつ分かってきた。
「それで、何かありました?」
「これ」
怜華が鞄から一冊の本を取り出した。
春樹が選び、貸していた連作短編集だった。
「読み終わったんですか?」
「昨日」
春樹の表情が一気に変わる。
先ほどまで仕事を警戒していた顔が消え、純粋な興味が浮かんだ。
「どうでした?」
「その反応、分かりやすいわね」
「感想聞きたいんで」
「それなら、ここで全部話してもいいの?」
怜華が周囲を見回す。
教室内にはまだ多くの生徒がいる。
春樹は少し考えた。
「ネタバレあるなら場所変えた方がいいかも。読んでるやついるかもしれないし」
「そういうところを気にするのね」
「当たり前でしょう」
「では廊下で少しだけ付き合って」
「弁当食べ終わってからでも?」
「もちろん」
怜華は急かさなかった。
春樹が残っていた弁当を食べ終えるまで、雫の向かいに空いていた椅子へ座る。
生徒会長が自然にクラスへ混じったことで、周囲の視線がさらに増えた。
「一ノ瀬先輩、今日の放課後も説明会いますよね?」
春樹が弁当箱を片づけながら聞く。
「いるわよ」
「じゃあ感想、そのときでもよくないですか?」
「説明会で本の話を始めたら、誰かさんが『十分で終わるんじゃなかったんですか』って怒りそうだから」
「よく分かってますね」
「最近、七瀬君の扱いが分かってきたもの」
「その言い方やめてください」
「嫌?」
「何かペットみたいで」
怜華が堪えきれず笑う。
雫も横で肩を揺らした。
「雫まで笑うなよ」
「だって、春樹の扱い分かりやすいもん。本の時間保証すればだいたい動くし」
「俺を餌付け可能みたいに言うな」
「実際、一ノ瀬先輩に本の話振られたらついていくでしょ?」
「……内容による」
「否定できてない」
雫と怜華が顔を見合わせる。
春樹は妙なところで二人の意見が一致したことに不満そうだった。
◇◇◇
昼休みの廊下は、教室より少しだけ涼しかった。
春樹と怜華は窓際の、人通りを邪魔しない場所へ移動する。窓の外には湿った校庭が広がり、明日の交流会へ向けてラインを引き直している教師と生徒たちの姿が見えた。
「それで?」
春樹は待ちきれないように怜華を見る。
「どの話が一番好きでした?」
「最初にそこを聞くのね」
「気になるんで」
「四編目」
「え、四?」
春樹が少し驚く。
「三か五だと思ってました」
「どうして?」
「三編目は、相手の嘘を見抜いても全部暴かない話だったでしょう。一ノ瀬先輩、ああいう『分かってるけど言わない』関係好きそうだったから」
「好きよ」
「五編目は、ずっと仲良かった二人が最後まで完全には分かり合わない。それでも関係が切れない。前にそういう友情もの好きって言ってたし」
「それも好き」
「じゃあ何で四?」
怜華は本の表紙へ目を落とす。
「主人公が、自分では相手をよく見ているつもりだったでしょう?」
「はい」
「でも実際には、自分が見たい部分ばかり見ていた。相手の本音を知ろうとしているようで、自分の中にある『この人はこういう人』という像を守っていた」
「ああ」
「最後にそれを認めても、急に全部理解できるわけではない。その終わり方が好きだった」
春樹はしばらく考え、頷く。
「なるほど。そこか」
「予想と違った?」
「違いました。でも言われると分かる気がします」
「どうして?」
「一ノ瀬先輩、人を見るの好きでしょう」
「好き、という言い方は少し語弊があるわね」
「じゃあ観察?」
「それなら近いかしら」
「人が表で言ってることと、本当の理由が違うのを見つけるの好きそうですし」
「七瀬君をからかうのも?」
「それは趣味悪いだけです」
「残念」
怜華は楽しそうに笑った。
「でもね、読みながら少し気になったの」
「何がです?」
「七瀬君は、私がこういう話を好きだと思って選んだのよね?」
「そうですよ」
「読書の好みだけで?」
春樹は質問の意図を考えるように目を細めた。
「だけ、ではないかも」
怜華の目がわずかに動く。
「へえ」
「前に話した好みが一番大きいですけど、普段の一ノ瀬先輩も多少は入ってます」
「例えば?」
「……聞きます?」
「聞きたいわ」
春樹は窓枠へ軽く背を預ける。
「一ノ瀬先輩って、生徒会長として話すときと、普通に俺をからかってるときで顔違うでしょう」
「本人に言う?」
「前から言ってるじゃないですか」
「そうだったわね」
「最初は、全部計算して人を動かすタイプなのかと思ってました」
「ひどい評価ね」
「実際ちょっとそうでしょう」
「否定はしないわ」
「でも最近は、意外とその場で面白がってるだけのときもあるって分かってきたし」
「……意外と?」
「俺を会議で喋らせたときとか、完全に楽しんでたでしょう」
「それは否定しない」
「だから、表向きの顔と本音が違う話なら好きかなって」
怜華は黙って春樹を見る。
春樹の声に特別な意味はない。
本当に選書の理由を説明しているだけだ。
けれど、怜華は思っていた以上にその答えが嬉しかった。
読書の好みだけではない。
普段の自分を見たうえで、春樹は一冊を選んでいた。
(そういうところなのよね)
本人は、これを特別なことだと思っていない。
ひよりにも、栞にも、雫にも、その人を見て本を選ぶ。
だからこそ厄介であり、面白い。
「何です?」
「何が?」
「急に黙ったから」
「少し嬉しかっただけ」
怜華は素直に答えた。
「俺の予想外れてたのに?」
「それでもよ。私が何を好きそうか、ちゃんと考えてくれたのでしょう?」
「そりゃ選ぶなら考えますよ」
「ええ。七瀬君ならそう言うと思った」
怜華は本を春樹へ差し出す。
「ありがとう。面白かったわ」
「それなら良かった」
春樹は受け取った本を見て、心底満足そうに笑う。
怜華はその表情を見つめる。
本を返されたことより、自分の選んだ本を楽しんでもらえたことを喜んでいる顔だった。
その分かりやすさに、怜華の口元も自然に緩む。
「次もお願いしたら?」
「読みたいの決まってないならいいですよ」
「簡単に引き受けるのね」
「本ですから」
「それ、便利な言葉ね」
「便利じゃなくて事実です」
「では、今度は少し違うものを選んでもらおうかしら」
「今回ので好み一個増えたんで、次はもう少し外してもいいかもしれないですね」
すでに次の選書を考え始める春樹を見て、怜華は小さく笑う。
「急がなくていいわ。交流会が終わってからで」
「それは助かります」
「本当に分かりやすい」
「何がですか」
「秘密」
「またそれ?」
予鈴までまだ少し時間がある。
二人は教室へ戻りながら、四編目の細かな場面についてもう少しだけ話した。
怜華の中に生まれているものは、まだ恋と呼ぶには早い。
ただの面白い後輩という位置から、少しずつ興味の向きが変わっている。
春樹の反応を見るだけではなく、春樹が自分をどう見ているのかを知りたい。
その変化を、怜華自身はすでにぼんやりと自覚し始めていた。
◇◇◇
放課後。
春樹は約束通り、代表者向けの最終説明会へ出席した。
場所は二階の多目的教室で、各競技の代表者と生徒会役員が集まっている。窓側にはサッカー、中央にはバスケットボールとバレーボール、廊下側には卓球とリレーの代表が座り、前方のホワイトボードには明日の進行表が貼られていた。
春樹の斜め前には神谷蓮がいる。
少し離れた列には九条凛。
そして教室前方には怜華が立っていた。
「では、明日の最終確認を始めます」
怜華の声が教室へ通る。
昼休みに本の話をしていたときとは違う。
背筋を伸ばし、無駄のない口調で全体へ指示を出す姿は、誰が見ても信頼される生徒会長だった。
(やっぱ切り替え早いよな)
春樹は感心しながら資料を見る。
「全競技共通で、開始十五分前には代表者が参加者を確認してください。欠席や体調不良がある場合は、本部へ報告をお願いします。また、競技が重複している生徒については、すでに提出された優先競技を基準に調整しています」
説明は簡潔だった。
春樹は壁の時計を見る。
開始から二分。
(このペースなら本当に十分で終わるか?)
サッカーについては、生徒会役員から試合時間と交代ルールが説明された。
十分快の前後半。
ハーフタイム五分。
交代した選手の再出場は可能。
ただし試合進行を妨げないよう、交代は代表者がまとめて申告する。
春樹は資料へ書き込む。
これなら昨日考えていた配置で問題ない。
杉浦は前半から。
山岸はバスケットボール終了後の体調を見て後半。
初心者二人は経験者と同時に入れる。
自分と神谷が対戦する可能性もあるが、クラスが違う以上そこは本番で考えればいい。
「七瀬」
前から神谷が小声で呼ぶ。
「何?」
「顔がもう試合考えてる」
「交代順考えてただけ」
「それを試合考えてるって言うんだよ」
「代表の仕事だろ」
「昨日まで代表嫌がってたくせに」
「決まったらやるって」
神谷が楽しそうに笑う。
「明日、当たったら手加減すんなよ」
「交流会で何言ってんだよ」
「中学以来だろ、ちゃんと敵でやるの」
「そうかもな」
「楽しみだわ」
「俺も別に嫌じゃないけど、怪我だけはすんなよ」
「それ俺の台詞」
二人の小声を聞きつけた凛が振り返る。
「説明中だぞ」
「すみません」
春樹が素直に謝る。
神谷は笑いを堪えて前を向いた。
凛もすぐに視線を戻したが、その口元にはわずかな笑みが残っていた。
説明開始から八分。
全競技の確認が終わる。
「最後に、明日は気温が上がる予報です。水分補給を優先し、体調が悪い場合は無理をしないでください。勝敗も大切ですが、校内交流が目的の行事です。怪我のないようお願いします」
怜華が時計を見る。
「以上です」
春樹も時計を見る。
九分四十七秒。
「……十三秒余った」
思わず呟いた。
近くの神谷が吹き出す。
「お前、本当に測ってたの?」
「先生が十分って言ったから」
「怖えよ」
凛まで呆れた顔をしている。
「七瀬、お前は説明の内容より時間を気にしていたのか?」
「内容も聞いてたよ。交代再出場あり、十五分前集合、体調不良は本部、明日は気温上がる」
「聞いていたならいいが」
「俺を何だと思ってるんだ」
「読書が絡むと判断力が落ちる人間」
「永山先生みたいなこと言うなよ」
周囲の代表者が笑う。
怜華も前方でそのやり取りを聞いていたらしく、資料をまとめながら口元を上げた。
「約束通り十分以内だったでしょう、七瀬君」
「完璧でした。一ノ瀬先輩、今日初めて心から尊敬しました」
「今までしていなかったの?」
「生徒会長としてはしてましたよ」
「その言い方、引っ掛かるわね」
「気のせいです」
春樹は資料をクリアファイルへ戻し、すぐに席を立つ。
「じゃあ俺、図書室行くんで」
「待って」
怜華が呼び止めた。
春樹の動きが止まる。
「……一ノ瀬先輩」
「何?」
「説明会は終わりましたよね?」
「終わったわ」
「仕事増えませんよね?」
「増えないわよ」
「じゃあ何です?」
春樹の警戒ぶりに、神谷が肩を震わせる。
凛も帰り支度をしながら成り行きを見ていた。
怜華は机の上から一枚の紙を取り、春樹へ差し出す。
「サッカーの対戦表。さっき配った資料には競技時間だけだったでしょう?」
「ああ、ありがとうございます」
春樹は受け取って確認する。
二年三組の初戦。
相手は二年二組だった。
「……神谷」
「マジ?」
神谷が横から覗き込み、すぐに笑う。
「いきなりじゃん」
「そうみたいだな」
「やった」
「何でそんな嬉しそうなんだよ」
「中学のとき同じチームだった相手と、高校で敵やれるんだぞ。面白いだろ」
「まあ、それは分かる」
春樹も少しだけ笑った。
胸の奥に、久しぶりの感覚が生まれる。
勝負前の、わずかな高揚。
本を読む前に感じる期待とは違う。
けれど嫌いではない感覚だった。
「二組って九条もいるけど、サッカーじゃないんだよな」
「私はリレーだ」
凛が答える。
「だから試合は見られるかもしれない」
「九条まで見に来るの?」
「時間が合えばだ。代表同士の動きも確認したい」
「真面目だなあ」
「お前が言うな」
「俺は本番だから真面目にやるだけ」
「十分真面目だ」
凛はそう言い切った。
春樹が反論する前に、怜華も続ける。
「私も本部から少し見られるかもしれないわ」
「一ノ瀬先輩まで?」
「生徒会長だから競技の様子を見るのは普通でしょう?」
「それはそうですけど」
「何か問題?」
「別にないです」
「では頑張って」
怜華は完璧な微笑みを浮かべる。
けれど春樹には、また少し楽しんでいるのが分かった。
「一ノ瀬先輩、絶対俺が失敗するの期待してません?」
「あら。そんなことないわ」
「その顔が信用できない」
「私は七瀬君がどんな代表をするのか楽しみにしているだけよ」
「それ、十分観察対象にしてますよね」
「気のせいよ」
「便利だな、その言葉」
昼休みの仕返しのような返答に、怜華が楽しそうに笑う。
春樹はため息をついた。
神谷。
凛。
怜華。
さらに朝には雫も見に来ると言っていた。
以前、真実とひよりもサッカーを見たがっていた。
(……何でただの校内交流会で観客増えてるんだ?)
考えても答えは出ない。
「じゃあ今度こそ行きます」
「ええ。明日は遅れないでね」
「代表が遅れたら笑えないでしょう」
「そういう自覚はあるのね」
「ありますよ」
春樹は資料を鞄へしまい、多目的教室を出た。
◇◇◇
図書室へ着いたとき、説明会開始から十五分ほどしか経っていなかった。
移動時間を含めても、予想以上に早い。
「よし」
小さく満足しながら扉を開ける。
窓際の席では栞がすでに本を読んでいた。
春樹が昨日貸した本だった。
「白石先輩」
声をかけると、栞が顔を上げる。
「あ、七瀬君。説明会は?」
「終わりました。九分四十七秒」
「……測っていたんですか?」
「約束が十分だったんで」
栞は数秒黙り、やがて小さく笑った。
「七瀬君らしいです」
「今日それ何回目だろ」
「みんな言うんですか?」
「最近よく言われます」
春樹は向かいへ座る。
栞の手元にある本へ目が行った。
「もう読んでる」
「昨日、少しだけ読んで……今日も続きが気になったので」
「どこまで?」
「まだ三分の一くらいです」
「どうです?」
春樹が身を乗り出しかける。
栞はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。
「途中なので、まだ全部は言いません」
「雫と同じことする」
「西条さんも?」
「理由分かったけど最後まで秘密って言われたことあります」
「では、私もそうします」
「何でそこ合わせるんですか」
「七瀬君が気になっている顔を見るの、少し面白いので」
春樹が目を見開く。
「白石先輩まで一ノ瀬先輩化してません?」
「それは困ります」
「本人に聞かれたら怒られますよ」
「内緒にしてください」
「本の感想と交換条件で」
「では読み終わったら」
「成立した」
二人は笑う。
栞は本へ栞を挟み、少しだけ表情を柔らかくした。
「でも、一つだけ言うなら」
「はい」
「自分では選ばなかったと思います」
「そこは狙い通り」
「それなのに、今のところ好きです」
春樹の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「はい。写真の話なのに、写真そのものより、撮る側と撮られる側の距離が変わっていく感じが好きです」
「そこなんですよ」
春樹は嬉しそうに頷く。
「写真って、同じ場所にいても撮る側と撮られる側で見てるもの違うでしょう。しかも主人公、最初は撮ることが相手を知ることだと思ってるけど――」
「あ」
栞が指を立てる。
春樹の口が止まった。
「危ない」
「今、先のこと言おうとしましたよね」
「ぎりぎり止めました」
「西条さんが前に止めていた理由、分かりました」
「俺、感想聞くと喋りたくなるんですよ」
「知ってます」
「じゃあ読み終わるまで黙ります」
「お願いします」
栞は笑いながら本を開き直す。
春樹も自分の文庫本を取り出した。
図書室にはページをめくる音と、遠くで本を棚へ戻す音が静かに重なっている。
明日はスポーツ交流会。
自分がサッカーの代表として動き、初戦では中学時代から知る神谷と敵になる。
以前なら、そのことを考えて落ち着かなくなっていたかもしれない。
けれど今は、本を開けば自然と意識が物語へ向かう。
数ページ読み進めたところで、春樹は昨日の恋愛小説の主人公がようやくプレゼントを渡した後の場面へ入った。
渡された女性は喜んでいる。
ところが主人公は、相手が喜んでいる理由を「欲しかった品だったから」だと解釈していた。
(いや、そこだけじゃないだろ。渡したのお前だから喜んでるんだろ)
春樹は眉を寄せる。
読者から見れば明らかだった。
相手の女性は、贈り物そのものだけではなく、主人公が自分のために選んでくれたことを喜んでいる。
(こいつ、他人の気持ち分からなすぎるだろ)
春樹は心の中で呆れた。
向かい側では、栞が春樹から借りた本を大切そうに読んでいる。
今朝はひよりが、春樹に選んでもらった一冊を嬉しそうに抱えていた。
昼には怜華が、自分のために考えて選ばれたことが嬉しいと本人へ伝えている。
そして雫も、春樹が自分の好みを覚えていることへ何度も心を動かしていた。
だが、それらが春樹自身の中で一つにつながることはなかった。
彼にとっては、どれも「本を選んだ」「喜んでもらえた」「感想が楽しみ」という、ごく自然な読書の延長にすぎない。
(本当に鈍い主人公だな)
そう思いながらページをめくる春樹を、栞が本の向こうから一度だけ見た。
春樹は気づかない。
栞は何も言わず、少しだけ口元を緩めて再び本へ視線を落とした。
◇◇◇
図書室を出た頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。
今日は雫と帰る約束をしていなかったため、春樹は一人で昇降口へ向かう。
途中でスマートフォンを確認すると、ひよりからメッセージが届いていた。
『春樹先輩! 一章読みました!』
続けて、
『喫茶店のお姉さん好きです!』
『あと店長が思ったより適当です!』
『でも面白いです!』
と三件。
春樹は廊下の端へ寄って立ち止まり、返信を打つ。
『早いな』
『店長はそのまま最後までだいたい適当』
『お姉さんは後半もう少し出るからたぶん好きだと思う』
送信してから、最後の一文が少し先の情報だったかと考える。
だが展開を明かしたわけではない。
数秒後、返信が来る。
『やった!』
『続き読みます!』
「気に入ったなら良かった」
春樹は小さく笑い、スマートフォンをしまった。
そのまま昇降口へ向かおうとして、今度は後ろから呼び止められる。
「七瀬」
振り返ると凛がいた。
「九条。まだいたの?」
「委員会の確認が少しあった。お前は図書室だろう」
「正解」
「聞くまでもないな」
二人は並んで昇降口へ向かう。
「明日、二組と最初なんだってな」
「対戦表見た。神谷がすげえ喜んでた」
「あいつは勝負事が好きだからな」
「九条も見る?」
「リレーの時間と重ならなければな」
「一ノ瀬先輩も見るかもって言ってたし、何か妙に観客多いんだよ」
「見られて困るのか?」
「困らないけど、ただの交流会だぞ」
「お前が思っているより、昨日の練習を見ていた者が多かったんじゃないか?」
「そんなに?」
「少なくとも、上手いという話は聞いた」
春樹が少し嫌そうな顔をする。
「誰が広めてるんだよ」
「神谷ではないか?」
「ありえる」
「だが、お前なら注目されてもおかしくない」
「九条までそういうこと言う?」
「事実を言っただけだ」
凛は平然と答える。
その横顔を見て、春樹は少し笑った。
「最初に会った頃と比べて、九条も俺への評価変わったよな」
凛の足がほんの少しだけ緩む。
「……何だ、急に」
「いや、前は俺のこと『廊下で本読む危険人物』くらいに思ってたんじゃない?」
「実際危険だっただろう」
「それは反省してる」
「ならいい」
「最近は代表向いてるとか、人見るの上手いとか言うし」
「評価は行動で変わるものだ」
凛は前を向いたまま答える。
「お前が注意を聞かずに歩き読みを続けていたなら、今でも同じ評価だった」
「なるほど」
「だが、お前はやめた。森下のことも助けた。交流会でも必要なことはしている。それなら、最初と同じ評価を続ける方がおかしい」
「九条らしいな」
「どういう意味だ」
「ちゃんと見て判断するところ」
春樹は深い意味もなく言った。
凛は返事をしようとして、一瞬だけ言葉を失う。
褒められたこと自体が珍しいわけではない。
ただ、春樹から真正面にそう言われると、妙に調子が狂う。
「……お前に言われると複雑だな」
「何で?」
「自分で考えろ」
「急に投げた」
春樹が笑う。
凛は少しだけ頬を背けながら、下駄箱から靴を取り出した。
恋愛感情などという言葉が浮かぶほどではない。
ただ、最初は規則を守らない厄介な男子だった。
それが今では、見かければ少し話してもいいと思える相手になっている。
頼まれれば応じ、必要なことは真面目にやり、誰かを助けても恩着せがましくしない。
(本当に、変な奴だ)
以前から使ってきた言葉なのに、その「変な」の意味は確実に変わっていた。
「じゃあ明日」
校門の手前で凛が言う。
「おう。九条もリレー頑張れよ」
「言われなくても」
「転ぶなよ」
「お前こそボール追って怪我をするな」
「分かってる」
そこで二人は別れた。
◇◇◇
夜。
春樹は自室のベッドへ背を預けながら、本を読んでいた。
机の上には明日のスポーツ交流会で使う資料と、運動用の着替えを入れたバッグが準備してある。
忘れ物はない。
集合時間も確認した。
交代順の大枠も決めた。
あとは明日、実際の状況を見て調整すればいい。
だから今は読む。
春樹にとっては、それで十分だった。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
雫からだった。
『明日のサッカー、最初の試合何時?』
春樹は本へ栞を挟み、時間を返信する。
『10時20分予定』
『二組と最初』
すぐに返事が来た。
『二組って神谷君のところ?』
『そう』
『たぶん普通に出てくる』
『見に行けそう』
『頑張って』
春樹は少し考え、
『ありがと』
『まあ交流会だし楽しんでくる』
と返した。
さらに少しして、別の通知が入る。
真実だった。
『春樹先輩、明日サッカー出ますよね?』
『ひよりから時間聞きました』
『私も競技と被らなかったら見に行きます』
「小日向、もう広めてるじゃん」
春樹は苦笑しながら、
『出るよ』
『自分の競技優先しろよ』
と返す。
すると間もなく、ひより本人からも来た。
『春樹先輩!』
『明日応援行きます!』
『あと本もう二章です!』
「読むの早いな」
春樹は思わず笑った。
『応援より自分の卓球優先』
『本は急がなくていい』
『分かってます!』
『両方やります!』
ひよりらしい。
スマートフォンを置こうとしたところで、もう一度通知が鳴った。
今度は悠斗。
『明日サッカー初戦二組ってマジ?』
『神谷とやるの?』
『やるみたい』
『見たい』
『俺バレーと被ってなかったら行く』
『お前まで?』
『中学のときのお前ら知ってるから見たい』
春樹は画面を見たまま、しばらく黙った。
(……何でこんな増えるんだよ)
ただの校内スポーツ交流会である。
公式戦でもなければ、部活動の大会でもない。
春樹自身、久しぶりにサッカーをするのは楽しいと思っているが、大勢に見てもらいたいとは一度も言っていない。
それなのに、いつの間にか見に来る予定の人間が増えている。
雫。
真実。
ひより。
悠斗。
時間が合えば凛。
本部の状況次第では怜華。
神谷は当然対戦相手としている。
さらに昨日の練習を見ていたクラスメイトたちもいる。
「……まあ、いいか」
嫌ではない。
そこが少しだけ意外だった。
以前の春樹なら、余計に注目されることを面倒だと思ったかもしれない。
今は、せっかく見に来るならそれなりに楽しんでもらえればいいと思う。
(出るならちゃんとやるって言ったしな)
春樹はスマートフォンを伏せ、本を開き直した。
恋愛小説の主人公は、プレゼントを渡したことで少しだけ相手との距離を縮めていた。
しかし本人はまだ、その変化へ十分気づいていない。
「だから何で分かんないんだよ」
春樹は小さく笑いながらページをめくる。
明日、自分を見るために何人もの人が競技の合間を縫ってサッカー場へ来ようとしていることにも、特別な意味など何一つ感じないまま。
それは恋愛だけの話ではない。
春樹がこの数週間で築いてきた人とのつながりが、少しずつ形になって表れているだけでもある。
本人が思っているより、七瀬春樹という人間は、もう多くの人の学校生活の中へ入り込んでいた。
それでも春樹は、明日の交流会が終わったあと何時から本を読めるかを考えながら、目の前の物語へ戻っていく。
校内スポーツ交流会本番は、もう翌日に迫っていた。




