第33話 本を渡すだけのはずなのに、どうして感想を聞く前から楽しみなんだ?
水曜日の朝、七瀬春樹は玄関を出る直前になって、一度だけ自分の鞄を開いた。
教科書、ノート、筆箱、昼休みに読む予定の文庫本。その横には、昨夜自室の本棚から抜き出しておいたもう一冊の本が入っている。
大学の写真サークルを舞台にした青春小説。
白石栞へ貸すための本だった。
春樹は表紙が折れないよう教科書との位置を調整し、ファスナーを閉める。自分の本なら多少鞄の中で擦れても気にしないが、人へ貸すとなると話は別である。
(これでよし。白石先輩のは忘れてない。小日向の方も、昨日の夜にだいたい決めたし……あとは家にあるか確認だな)
ひよりへ薦める候補は三冊から二冊まで絞っていた。
一冊は会話のテンポが軽快な学園青春もの。もう一冊は、小さな商店街の喫茶店を舞台に、高校生数人が店の手伝いをしながらそれぞれの悩みへ向き合っていく群像劇である。
どちらも三百ページ前後で、ひよりが苦手とする重すぎる展開はない。
昨夜かなり悩んだ結果、春樹は後者へ傾いていた。
(今までより少し登場人物多いけど、視点は分かりやすい。小日向、連作短編集で複数の登場人物追うのも平気だったし、たぶんいける)
問題は、自宅の本棚のどこに置いたか覚えていないことだった。
数年前に読んだ本で、捨てた記憶はない。だが春樹の部屋では、本棚へ収まり切らなくなった本が収納ケースや机の脇へ進出しており、目当ての一冊を探すだけで時間がかかることも珍しくない。
「春樹ー、出ないの?」
外から雫の声が聞こえた。
「今行く!」
春樹は鞄を持ち上げ、玄関を出た。
昨日までの雨は上がっていた。空にはまだ薄い雲が残っているものの、その切れ間から朝の光が差し込み、濡れた道路を白く照らしている。
門の前では西条雫が待っていた。
「珍しいね。春樹が私を待たせるなんて」
「本確認してた」
「朝から読んでたの?」
「違う。白石先輩に貸すやつ」
「ああ、昨日言ってたやつ?」
雫が歩き出し、春樹も隣へ並ぶ。
「そう。自分じゃ選ばなそうな本を選んでほしいって頼まれてたから」
「もう決めたんだ」
「昨日図書室で話して決めた。俺の家にあるから今日持ってくるって約束したんだよ」
「ふうん」
雫の視線が一瞬だけ春樹の鞄へ落ちる。
以前なら、その反応の中に自分でも扱いづらい引っ掛かりが混じったかもしれない。
今は少し違った。
栞には栞のために選んだ本がある。
自分には自分のために選んでもらった本がある。
同じ「春樹から本を薦められる」という出来事でも、そこへ至る理由や積み重ねはそれぞれ違う。
そう理解できるようになったことで、雫は前ほど誰かと比べなくなっていた。
「白石先輩、どんな本好きなんだっけ?」
「ミステリー多め。でも事件そのものより、登場人物の関係とか、言わなかったことの意味とかを見る方が好きだと思う」
「春樹、すごい具体的だね」
「何冊も話してるからな」
「私の好みも同じくらい言える?」
「言えると思うけど」
「じゃあ言ってみて」
突然の要求に、春樹は少し眉を上げた。
「朝から何の試験だよ」
「いいから」
「そうだな……」
春樹は歩きながら少し考える。
「雫は恋愛もの自体は結構読むけど、最初から相手が完璧すぎるとあんまり刺さらない。主人公が何もしないで全部助けてもらう話より、本人もちゃんと選んだり動いたりする方が好き」
「うん」
「幼馴染ものは昔から読むけど、幼馴染ってだけで最初から特別扱いされる話より、長く一緒にいたからこそ分かってない部分がある方が反応いい。あと、すれ違いは嫌いじゃないけど、普通に一言話せば済むことを何十ページも引っ張ると文句言う」
「……そこまで言えるんだ」
「まだあるぞ」
「まだあるの?」
「雫、恋愛以外なら仕事ものとか部活ものも意外と好きだろ。主人公一人だけじゃなくて、周りの人間にもちゃんと役割があるやつ。あと文章が重すぎるより会話がそこそこある方が読みやすいって言ってた」
雫は返事をしなかった。
春樹は横を見る。
「違った?」
「……合ってる」
「なら良かった」
「良かった、じゃなくて」
雫は前へ視線を戻す。
朝の通学路には他の生徒たちも増え始めており、自転車で追い越していく男子生徒のベルが遠ざかっていく。
「そんなに覚えてたんだなって思っただけ」
「感想聞くの好きだからな。誰が何言ったか全部覚えてるわけじゃないけど、何回も話してると残るよ」
「そっか」
「雫とは特に長いし」
春樹は何でもないことのように付け加えた。
その一言で、雫の足がほんのわずかに遅れる。
「どうした?」
「何でもない」
「またそれ?」
「本当に何でもないって」
春樹は不思議そうにしたものの、それ以上は聞かなかった。
雫は隣を歩きながら、少しだけ顔を伏せる。
(そういうの、急に言うんだもんなあ)
長いから覚えている。
ただ、それだけの意味なのだろう。
春樹にとっては。
それでも雫の胸には、その言葉が思ったより長く残った。
◇◇◇
「七瀬、ちょっといいか」
朝のホームルームが終わった直後、永山剛志が教室を出る前に春樹を呼び止めた。
春樹は開こうとしていた本を机へ置き、露骨に嫌そうな顔をする。
「先生、その呼び方で朝からいいことあった試しがないんですけど」
「教師に呼ばれて最初の反応がそれか」
「昨日までに交流会の仕事は終わらせたはずです」
「安心しろ。増やすわけじゃない」
「本当ですか?」
「お前、俺を何だと思ってる」
「読書時間へ定期的に仕事を投げ込んでくる人」
近くで聞いていた悠斗が吹き出した。
永山は眉間へしわを寄せたものの、口元は笑っている。
「いいから来い。競技代表の最終確認だけだ」
「増えてるじゃないですか」
「確認だっつってんだろ」
春樹はため息をつき、本へ栞を挟んだ。
教卓まで行くと、永山が一枚の用紙を見せる。
スポーツ交流会の競技別代表者一覧だった。
二年三組のサッカー欄には、しっかりと「七瀬春樹」の名前が記載されている。
「……先生」
「何だ」
「俺、連絡担当じゃなかったんですか?」
「実質同じだ」
「絶対違いますよね」
「競技代表って言っても、試合前に人数確認して、交代順を把握して、何かあったら本部へ連絡するだけだ。お前がもうやってることと大差ない」
「名前だけ昇格してません?」
「仕事増えてないんだからいいだろ」
「肩書きが重くなってる」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
春樹が用紙を睨んでいると、永山は低く笑った。
「嫌なら杉浦にするか?」
「杉浦にしたら結局俺に聞きに来ますよ」
「本人もそう言ってた」
「……逃げ道潰されてるじゃないですか」
「諦めろ」
春樹は額を押さえた。
先日、杉浦自身が「代表になったら七瀬に聞く」と言っていたことを思い出す。
(それなら俺がやった方が話は早いけど……それを認めると負けた気がする)
永山は用紙の下部を指で叩いた。
「本番は金曜。明日は通常授業のあとに最終説明があるが、十分程度で終わる。集合場所と時間、交代の確認だけだ」
「本当に十分ですか?」
「お前は時間の話になると疑い深いな」
「三十分が三十二分になった実績がありますから」
「それは神谷だろ。俺に言うな」
「先生も似たようなことします」
「しねえよ」
永山は笑いながら用紙を春樹へ渡す。
「持っとけ。なくすなよ」
「本の栞にしていいですか?」
「なくさないなら好きにしろ」
「本当にやりますよ?」
「お前ならその方がなくさなそうだな」
春樹は反論できず、用紙を折らないようクリアファイルへ入れた。
席へ戻ると、悠斗が待ち構えていた。
「おめでとう、代表」
「何がおめでたいんだよ」
「正式就任」
「仕事は変わらないらしい」
「肩書きは?」
「変わった」
「じゃあ昇進じゃん」
「給料出ない昇進に何の価値があるんだ」
「高校生が交流会で給料要求すんなよ」
悠斗が笑う。
雫も近くで聞いていたらしく、春樹へ視線を向けた。
「でも、昨日ちゃんとみんな見てたし、春樹でいいと思うけど」
「雫まで先生側?」
「別に先生側じゃないよ。春樹なら、上手い人だけで勝とうとしないでしょ」
「交流会なんだから、出るやつ全員ある程度触れた方がいいだろ」
「そういうところ」
「何が?」
「代表向いてるって話」
「それとこれとは別だ」
「たぶん別じゃないと思う」
雫が笑う。
春樹は納得できないまま自分の席へ座り、今度こそ本を開いた。
しかし数行読んだところで、競技代表という文字が頭の隅へ戻ってくる。
(まあ、本番だけならいいか。金曜終われば解放されるし)
そう考えた春樹は知らなかった。
周囲から見れば、すでに十分すぎるほど代表らしい動きをしていたことを。
◇◇◇
二時間目と三時間目の間の休み時間。
春樹が教科書を入れ替えていると、教室の前方から女子生徒が近づいてきた。
九条凛だった。
二年二組の彼女が三組まで来ること自体は、最近ではそれほど珍しくなくなっている。風紀委員の仕事や森下の勉強の件、スポーツ交流会の代表者関係で顔を合わせる機会が増えていたからだ。
「七瀬」
「九条。今日は森下じゃないよな?」
「違う。あの子はもう自分でやれる」
「それなら良かった」
春樹は少し安心したように笑う。
「じゃあ何?」
「交流会の確認だ。永山先生から聞いたと思うが、正式な競技代表が決まった」
「今まさに不本意な昇進を受け入れたところ」
「何だ、その言い方は」
「俺は連絡担当のつもりだったんだよ」
「やっていることは最初から代表と変わらなかっただろう」
「九条まで同じこと言うのか」
「事実だからな」
凛は呆れたように息を吐く。
「私はクラスリレーの代表だ。明日の最終説明で一緒になる」
「十分で終わるって聞いた」
「そこが一番気になるのか?」
「大事だろ。明日は放課後に読みたい本がある」
「相変わらずだな」
以前なら、その言葉にはもう少し強い呆れが混じっていた。
今の凛の表情は柔らかい。
「ただ、昨日の練習を少し見た」
「九条も?」
「体育館へ向かう途中だけだ。お前が初心者に説明していたところ」
「山岸かな」
「名前までは知らない。だが、無理に上手い者へ合わせさせていなかった」
「交流会なんだから普通だろ」
「普通にできない者もいる」
凛の声が少し真面目になる。
「勝負になると、どうしても上手い者だけで進めようとする者はいる。お前は違うらしい」
「別に聖人みたいに言うなよ。俺だって勝つなら勝ちたい」
「それでも、勝つことと全員が参加することを両方考えているのだろう?」
「まあ」
春樹は少し考えた。
「出るって決まったのに、何もできずに終わったらつまらないだろ。経験者だけでやった方が強いとしても、それなら最初から経験者だけでチーム組めばいい話だし」
「そういうところを言っている」
「何が?」
「お前は自分が思っているより、人を見るのが上手い」
春樹は怪訝そうな顔をした。
「急にどうした?」
「森下の勉強を見ていたときもそうだった。分からないところを全部教えるのではなく、本人がどこで止まっているかを見ていた」
「それは教えるなら普通じゃない?」
「だから、その『普通』を誰でもできると思うな」
凛は少し強めに言い、そこで自分でも熱が入ったことに気づいたのか、わずかに視線を逸らした。
「……とにかく、代表は妥当だと思う」
「九条まで先生に買収された?」
「されるか!」
「じゃあ何で全員同じこと言うんだよ」
「お前だけ認識がおかしいからだ!」
凛の声が少し大きくなり、近くにいた生徒たちがこちらを見る。
春樹は肩を揺らして笑った。
「分かった分かった。明日ちゃんと行くから」
「最初からそう言えばいいんだ」
「ただし十分」
「そこは先生に言え」
「延びたら九条が止めてくれ」
「なぜ私が」
「風紀委員だろ?」
「時間超過を取り締まる委員ではない!」
凛は呆れながらも、最後には小さく笑った。
「では明日。忘れるなよ」
「忘れない。紙ももらったし」
「お前のことだから本に挟んでなくしそうだな」
「先生にも同じこと言われた」
「実際にやりそうだからだ」
「俺の信用どうなってるんだよ」
凛は答えず、二組へ戻っていった。
その背中を見送っていると、後ろから悠斗が声をかける。
「九条とも普通に話すようになったよな」
「前から話してただろ」
「前はもっと毎回怒られてなかった?」
「俺が歩き読みやめたからだろ」
「それだけかなあ」
「それ以外に何があるんだよ」
春樹は本気で分からないらしい。
悠斗は何か言おうとして、結局やめた。
「いや、いいわ」
「何だよ」
「春樹に説明するの面倒になった」
「失礼だな」
春樹は首を傾げながら、次の授業の準備へ戻った。
◇◇◇
昼休みになると、春樹の机の周りには昨日より少し多く人が集まった。
理由はスポーツ交流会だった。
正式な競技代表が発表されたことで、サッカーへ出る生徒たちが集合時間や交代順を確認しに来たのである。
「七瀬、俺って最初から出る?」
杉浦が机の横へ立ち、配られた予定表を見せる。
「たぶん最初から。昨日の動きなら前にいてもらった方がいいと思う。ただ、明日の説明で交代ルール最終確認してから決める」
「山岸は?」
「最初から出すか途中からにするか迷ってる。バスケもあるから時間被るかもしれないし」
「俺はサッカーだけだから平気」
「じゃあ杉浦はほぼ最初からで考えとく」
春樹は自分の弁当を食べながら答える。
その隣では山岸も話を聞いていた。
「俺、途中からでもいいぞ」
「遠慮してる?」
「いや、バスケもあるし。昨日ちょっとできたから、本番でも少し出られれば十分」
「なら時間確認してからだな。出られる時間に合わせる」
「分かった」
そこへ悠斗が横から口を挟む。
「もう完全に代表じゃん」
「今朝正式にされたからな」
「受け入れるの早くない?」
「決まったものに文句言い続けても仕事減らないだろ」
「切り替え早っ」
「本番終わったら全部返すけどな」
春樹が答えると、周囲の男子たちが笑う。
少し離れたところで弁当を食べていた雫も、その様子を眺めていた。
春樹は目立ちたいわけではない。
むしろ面倒事は避けたがるし、放っておけば本を読んでいる。
それなのに、誰かから具体的に頼られると雑には扱わない。
杉浦の得意な動きも、山岸が不安に感じていることも、きちんと覚えている。
(昔からこうだったっけ)
雫は少し考える。
小学生の頃から、困っている人を放っておけないところはあった。
ただ、今ほど相手を見て動く人だったかと聞かれると、よく分からない。
春樹自身が変わった部分もあるのだろう。
そして自分が以前より細かく春樹を見るようになった部分もある。
「雫」
紗弥に呼ばれ、雫は顔を向けた。
「また見てた」
「……何を?」
「七瀬」
「見てたけど、それが何?」
「別に」
「その『別に』絶対何かあるでしょ」
「最近、雫って前より七瀬のことよく見てるなと思っただけ」
雫はすぐに否定しようとして、言葉を止めた。
昨日も似たことを言われた。
その前にも、自分で春樹を見る時間が増えたと感じている。
「……そうかも」
紗弥が少し驚いた。
「認めるんだ」
「だって本当なら否定しても仕方ないし」
「何かあった?」
「何かっていうか」
雫は弁当箱の端を箸で軽くつつく。
「今まで知ってるつもりだったけど、知らない春樹も結構あるんだなって思って」
「例えば?」
「本を人に選ぶとき、思ってたより相手のこと見てるとか。後輩に勉強教えてるときもそうだし、サッカーでも初心者に合わせたりするし」
「昔から優しくはなかった?」
「優しいって言うと、本人は絶対否定すると思う」
「じゃあ面倒見がいい?」
「それも嫌がりそう」
二人は小さく笑った。
雫は春樹の方へもう一度目を向ける。
「何て言えばいいか分かんないけど……私が知ってる春樹だけが全部じゃないんだなって」
「それ、普通じゃない?」
「うん。普通なんだけどね」
当たり前のことだ。
幼馴染だからといって、相手のすべてを知っているわけではない。
頭では分かっていたはずなのに、最近になってその意味が実感として胸へ落ちてくる。
「だから、もう少し知りたいのかも」
雫がそう口にしたあと、自分自身で少し驚いた。
紗弥も箸を止める。
「七瀬のこと?」
「……たぶん」
声は小さかった。
恋だとは言わない。
まだ、そこまで自分の気持ちへ名前をつけられない。
けれど以前のように、全部を「幼馴染だから」で片づけることもできなくなっている。
「そっか」
紗弥はそれ以上踏み込まなかった。
ただ少しだけ笑い、弁当へ視線を戻す。
雫も同じように食事を再開したものの、胸の奥には自分が口にした言葉がしばらく残り続けていた。
◇◇◇
放課後、春樹は授業が終わるとほぼ同時に鞄を持って図書室へ向かった。
今日はサッカーもない。
代表者の最終説明は明日。
ひよりへ貸す本は自宅にあるため、今日学校でできることもない。
つまり、ようやくまとまった読書時間が手に入る。
(今日は読む。絶対読む。少なくとも一時間は読む)
廊下を歩きながら、春樹は妙な決意を固めていた。
図書室へ入ると、いつもの窓際に栞がいる。
春樹を見つけると、栞はすぐに顔を上げた。
「七瀬君」
「こんにちは。持ってきました」
春樹は席へ着く前に鞄を開き、朝から守るように入れていた一冊を取り出した。
「これです」
栞は両手で受け取る。
淡い青を基調とした表紙には、夕方の大学構内らしい風景と、カメラを持った二人の若者が小さく描かれていた。
「思っていたより明るい表紙ですね」
「内容も暗くはないですよ。ただ、ずっと明るいわけでもない」
「七瀬君の本なんですよね」
「高校入った頃に買いました。二回くらい読んでます」
栞は表紙を眺めてから、本の側面へ目を向ける。
何度か読まれた本らしく、新品のような硬さはない。ページの角もわずかに柔らかくなっている。
「二回も」
「一回目と二回目で、結構印象変わったんですよ」
「どう変わったんですか?」
「それ言うと先入観になるから、先輩が読み終わってから話します」
「気になります」
「そこは我慢してください」
春樹が笑う。
栞は本を胸元へ寄せるように持ち直した。
「大切に読みます」
「普通に読んでください。多少曲がっても気にしないので」
「でも七瀬君の本ですから」
「本は読んでなんぼですよ。汚すのは困りますけど、開き跡とかは全然」
「はい」
栞はもう一度表紙を見る。
図書室の本ではない。
春樹が自分で買い、二度読んだ本。
雫が先日、春樹自身の本を借りたと聞いたときには、その共有された時間の長さを少し羨ましく思った。
今、自分の手の中にも春樹の本がある。
(……同じじゃないけど)
雫と同じになる必要はない。
これは自分が頼み、春樹が自分のために考えて選んでくれた一冊だ。
その違いが、今は素直に嬉しかった。
「白石先輩?」
「すみません。表紙見てました」
「読む前にそんな見ても内容変わらないですよ」
「分かってます」
「ならいいですけど」
栞は小さく笑い、借りた本を自分の鞄へ丁寧に入れた。
「今日から読みます」
「急がなくていいですよ」
「でも、早く感想を話したいです」
春樹は少し目を丸くしたあと、すぐ嬉しそうに笑った。
「俺も聞きたいです」
栞の胸がわずかに温かくなる。
春樹にとって、その言葉は純粋に本の感想を聞きたいという意味だ。
分かっている。
それでも、自分が読み終える未来を春樹も楽しみにしているという事実は、栞にとって十分嬉しかった。
◇◇◇
「やっと読める」
栞への本を渡し終えた春樹は、自分の席へ座ると満足そうに文庫本を開いた。
今日はウェブ小説発の恋愛作品の続きである。
昨日の時点では、主人公の青年が好きな女性へ誕生日の贈り物を渡そうとして失敗し続けていた。
仕事では有能。
周囲からの信頼も厚い。
会議なら何十人を相手にしても堂々と話せる。
ところが好きな相手の前では、渡すタイミングを考えすぎて話しかけられない。
(いや、今だろ。今渡せよ。二人きりになっただろ)
春樹はページをめくる。
主人公は渡さない。
(何でだよ!)
思わず眉間にしわが寄る。
向かいで別の本を開いていた栞が、その変化に気づいた。
「七瀬君?」
「いや、主人公が」
「また何か?」
「好きな相手にプレゼント渡したいのに、三回目のチャンスも逃しました」
「三回目」
「一回目は他の人が来たから仕方ない。二回目は相手が忙しそうだったから、まあ分かる。でも今のは完全に二人きりだったんですよ。それで『今渡したら意識してたと思われるかもしれない』って」
春樹は本を閉じないまま、栞へ訴える。
「誕生日プレゼントなんだから意識して選んでるに決まってるでしょう。何を今さら気にしてるんだこいつ」
栞は口元を押さえた。
「七瀬君、楽しそうですね」
「楽しいですよ。めちゃくちゃじれったいですけど」
「主人公の気持ちは分からないですか?」
「分からなくはないです。でも読んでる側だと『行け!』って思う」
「自分だったら?」
「何がです?」
「好きな人にプレゼントを渡すなら」
春樹はそこで黙った。
数秒、本のページと栞を交互に見る。
「普通に渡せばいいんじゃないですか?」
「緊張しない?」
「相手によるんじゃないですかね。そもそも好きな人にプレゼント渡した経験ないから分かりませんけど」
「では、もしできたら」
「白石先輩、最近みんな俺に仮定の恋愛させたがりません?」
「みんな?」
「悠斗にも昨日聞かれました。自分が好きなやつできたら冷静でいられるかって」
「何て答えたんですか?」
「分からないって。経験ないこと想像しても仕方ないし」
栞は少し考える。
「恋愛小説はたくさん読むのに?」
「読むのと自分がやるのは別ですよ」
「七瀬君らしいです」
「白石先輩までその言い方」
「でも」
栞は少しだけ視線を落とした。
「七瀬君が本当に誰かを好きになったら、少し見てみたいです」
「何を?」
「どうなるのか」
「観察対象が一ノ瀬先輩だけじゃなくなってるんですけど」
「すみません」
「謝りながら笑わないでくださいよ」
春樹も笑う。
「まあ、俺はこの主人公みたいにはならないと思いますけどね」
「そうですか?」
「プレゼントくらい渡しますよ」
「では、相手に『どうして私に?』と聞かれたら?」
「誕生日だから、でいいでしょう」
「好きだから選んだものでも?」
「……それは」
春樹が止まる。
栞は静かに待つ。
「好きだからって言う必要あるんですか?」
「言わなかったら、相手は分からないかもしれません」
「告白するつもりなら言えばいいですけど、プレゼント渡すだけなら別に」
「では、まだ告白するつもりがなかったら?」
「普通に誕生日だからでいいんじゃないですか?」
春樹は真剣に考えている。
栞はその顔を見ながら、思わず笑ってしまった。
「何で笑うんです?」
「七瀬君も、意外とこの主人公と同じになるかもしれないと思って」
「いやいや、こいつ三回逃してますからね?」
「理由を考え始めるところは似ている気がします」
「俺、そんな面倒ですか?」
「本のことならすぐ決めるのに、自分のことだと考えすぎそうです」
「白石先輩、俺への評価どうなってるんです?」
「悪くはないです」
「そこは即答なんですね」
「はい」
栞は微笑む。
春樹は納得できない顔をしながら本へ戻った。
けれど数行読んだところで、先ほどの会話が少しだけ頭へ残る。
(俺が誰か好きになったら、か)
悠斗にも聞かれた。
栞にも聞かれた。
以前なら、考える前に興味がないと切り捨てていたかもしれない。
今も恋愛したいとは思わない。
ただ、自分なら絶対こうならないと言い切るほどの根拠もないことには気づいていた。
(まあ、好きなやつできてから考えればいいか)
結局、そこへ戻る。
春樹はページをめくった。
主人公は四度目の機会でようやくプレゼントを渡した。
(やっとかよ!)
心の中で盛大に突っ込みながら、春樹は満足そうに続きを読み進めた。
◇◇◇
同じ頃、生徒会室では一ノ瀬怜華が一冊の本を閉じていた。
放課後の仕事へ入る前に少しだけ読むつもりだった。
その「少しだけ」が、予定より長くなった。
七瀬春樹から借りた連作短編集である。
同じ町を舞台にしながら、話ごとに主人公が変わる。表面的には小さな謎を扱うミステリーだが、読み進めるほど「誰がやったか」より「なぜその人がそう振る舞ったか」の方へ重心が移っていく。
怜華は最後のページへ指を置いたまま、しばらく動かなかった。
(なるほどね)
春樹がこれを選んだ理由は聞いている。
人の動機。
表向きの顔と内側。
完全には理解し合えない人間関係。
怜華自身が読書の好みとして話した内容から選んだのだと言っていた。
だから、必要以上に意味を考えるつもりはない。
それでも読み終えると、少しだけ気になる。
(七瀬君は、私のどの辺を見てこれを選んだのかしら)
読書の好みだけなのか。
それとも、普段の自分との会話も多少は含まれているのか。
彼は生徒会長としての完璧な笑顔と、自分が本当に面白がっているときの表情が違うことに早い段階で気づいた。
だからこそ、からかうと面白いと思った。
けれど最近は、少し違う。
春樹の反応そのものだけではなく、彼が人をどう見ているのかを知ることが面白くなっている。
怜華は本の表紙を撫で、時計を見る。
まだ生徒会の仕事が残っている。
感想を話しに行くなら、明日でもいい。
そう考えたのに、椅子から立ち上がりかけたところで手が止まる。
「会長?」
同じ部屋で書類を整理していた生徒会役員が顔を上げた。
「どうしました?」
「何でもないわ」
怜華はいつもの整った笑顔を浮かべる。
「少し、本のことで考えていただけ」
「会長が小説って珍しいですね」
「そう?」
「読んでるイメージはありますけど、仕事中に続きが気になってるのは珍しいです」
怜華は一瞬だけ目を細めた。
「……そう見えた?」
「はい」
「気をつけないといけないわね」
「別に悪いことじゃないと思いますけど」
「そうかもしれないわ」
怜華は本を鞄へしまった。
感想を話すのは明日。
急ぐ必要はない。
けれど、春樹がどんな顔で聞くのかを少し楽しみにしている自分には、もう気づいていた。
◇◇◇
図書室を出る頃には、外の雲がかなり薄くなっていた。
春樹は今日だけで恋愛小説を百ページ近く読み進め、かなり満足している。
栞も一緒に図書室を出たが、委員会の用事があるため廊下の途中で別れた。
「では、借りた本、今日から読みます」
「はい。急がなくていいですから」
「七瀬君も、続き楽しんでください」
「ありがとうございます。主人公がやっとプレゼント渡したんで、ここからどうなるか気になってるんですよ」
「四回目で?」
「四回目で」
「良かったですね」
「本当に」
二人は笑って別れた。
昇降口へ向かう途中、春樹はスマートフォンを確認する。
ひよりからメッセージが届いていた。
『春樹先輩! 本決まりました!?』
その後ろに、期待している顔のスタンプがついている。
春樹は歩きながら返信しようとして、すぐに足を止めた。
廊下の端へ寄り、立ち止まった状態で画面を操作する。
『だいたい決めた。家にあるか確認して、あったら明日持ってく』
送信。
数秒で既読がついた。
『やったー!』
『楽しみにしてます!』
『分厚くないやつでお願いします!!』
「最後までそこ気にするのかよ」
春樹は笑いながらスマートフォンをしまった。
昇降口へ着くと、雫が下駄箱の近くで待っていた。
「遅かったね」
「白石先輩と本の話してた」
「渡せた?」
「うん。今日から読むって」
「春樹、嬉しそう」
「感想聞くの楽しみだからな」
「ひよりちゃんのも決めた?」
「ほぼ。家にあれば明日持ってく」
「本当に最近、ずっと誰かの本選んでるね」
「俺も思った」
二人は靴を履き替え、並んで校舎を出る。
雨は止んでいた。
濡れた地面には夕方の空がぼんやり映り、風が吹くたび木の葉から残った水滴が落ちてくる。
「面倒じゃないの?」
雫が聞いた。
「何が?」
「人の本選ぶの。好み覚えたり、候補考えたりするのって、結構時間使うでしょ」
「使うな」
「読書時間減るじゃん」
「それは困る」
「じゃあ何でやるの?」
春樹は少し考えた。
昨日も似たことを自分で考えた。
読む以外のことに、本へ使う時間が増えている。
それなのに、やめようとは思わない。
「読んだあと、どうだったか聞くのが面白いからかな」
「それだけ?」
「あと、自分が好きな本を誰かが好きになったら嬉しい。でも、俺がそこまで好きじゃなかった本でも、その人がすごい好きになることあるだろ? それも面白い」
「うん」
「俺と違うところで引っ掛かるのも面白いし、俺が気づかなかったところ言われると読み返したくなる。だから、選ぶところからもう読書の一部みたいになってるのかも」
春樹はそこまで言い、自分で少し驚いたように笑う。
「前だったら絶対こんなこと言わなかったな」
「前は、話しかけるなオーラすごかったもんね」
「そこまでじゃないだろ」
「図書室で本読んでるときの春樹、かなり近寄りづらかったよ」
「白石先輩は普通に来たけど」
「白石先輩は静かだからでしょ」
「まあ、それはある」
雫は少し歩いてから、春樹の横顔を見る。
「じゃあ、私が感想言うのも?」
「面白いよ」
返事はすぐだった。
「雫、結構俺と違うところ見るし。昔から」
「昔から?」
「漫画でも映画でもそうだっただろ。俺が主人公見てるときに、雫は脇役の女の子の方気にしてたりしたし」
「覚えてるんだ」
「そりゃな」
春樹は前を向いたまま続ける。
「長い付き合いなんだから、そういうのも含めて雫に本薦めるの楽しいよ」
朝にも似た言葉を聞いた。
けれど今度は、もう少しだけ具体的だった。
自分に本を薦めることが楽しい。
春樹にとって、それはきっと恋愛とは何の関係もない。
それでも雫の胸は、ゆっくりと温かくなる。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、今借りてるやつもちゃんと感想言う」
「楽しみにしてる」
「細かく言ってもいい?」
「むしろ細かい方がいい」
「長くなるよ?」
「本の話なら歓迎」
春樹は笑った。
雫もつられて笑う。
二人の間を、雨上がりの少し湿った風が通り抜けた。
昔から何度も一緒に歩いた帰り道。
同じ制服で、同じ道を歩いて、いつものように本の話をしている。
何も変わっていないようにも見える。
けれど雫の中では、確実に何かが変わり始めていた。
(もう少し知りたい、か)
昼休みに自分で口にした言葉を思い出す。
春樹のことを知りたい。
昔から知っているのに、今の春樹をもっと見たい。
誰かに本を選ぶ春樹も、サッカーをしている春樹も、後輩へ勉強を教える春樹も、自分の知らなかった部分まで。
その気持ちが何なのか、まだ雫は決めない。
急いで名前をつけたくもなかった。
ただ、以前より春樹を見ることが増えたという事実だけは、もう否定しなかった。
一方の春樹は、そんな雫の変化に気づかないまま、家へ帰ったらひよりへ貸す本を探さなければと考えていた。
さらに明日はスポーツ交流会の最終説明があり、その翌日には本番が待っている。
(明日の説明、本当に十分で終わるといいんだけどな)
春樹にとって今いちばん現実的な心配は、やはりそこだった。
その横で雫が何を考えているのかなど、想像すらしていない。
恋愛小説なら、読者の方が主人公より先に気づく展開が好きだと、春樹は何度も語っている。
けれど自分のことになると、どうやらその主人公たちを笑えるほど察しがいいわけではないらしかった。




