第32話 本を選んでほしいと言われただけなのに、相手のことを考える時間が増えている
翌朝、七瀬春樹が目を覚まして最初に確認したのは、昨日のサッカーによる筋肉痛ではなかった。
枕元へ置いていたスマートフォンの時刻を見て、まだアラームが鳴るまで数分あると分かると、そのまま身体を起こして机の上へ目を向ける。昨夜、寝る直前まで読んでいた短編集がそこに置かれており、残っているのは最後の一編だけだった。
(あと三十分くらいあれば読み終わるんだよな。朝は無理でも、学校で十分、昼に十五分取れれば……いや、最近の昼休みに十五分確保できる前提で考えるのは危険か)
ここ最近の経験から、春樹は自分の昼休みが以前ほど安定した読書時間ではないことを学んでいる。
誰かが本の感想を持ってくる。後輩が相談へ来る。悠斗が恋愛相談を始める。スポーツ交流会関係の確認が入る。生徒会長に捕まることまである。
どれも嫌というわけではない。むしろ本の感想を聞く時間などは、今では春樹自身がかなり楽しんでいる。
だからこそ厄介だった。
(嫌なら断れるんだけど、面白いから話しちゃうんだよな)
そんなことを考えながら制服へ着替え、朝食を済ませる。家を出る頃には昨夜から降っていたらしい細かな雨がまだ残っており、春樹は玄関脇の傘立てから透明なビニール傘を一本抜き取った。
六月の雨は冷たさより湿気を連れてくる。
住宅街のアスファルトは黒く濡れ、軒先の紫陽花には細かな水滴が残っていた。傘へ落ちる雨音を聞きながら歩いていると、前方の交差点で見慣れた紺色の傘が揺れる。
「雫」
声をかけると、西条雫が振り返った。
「あ、おはよう。今日は私の方が先だったね」
「雨だから少し出るの遅れた」
「五分早く出て読書時間確保する作戦は?」
「雨の日は安全優先。急いで転んだら本読むどころじゃないからな」
「そこまで考えられるようになったなら、九条さんも安心するんじゃない?」
「俺だって学習するんだよ」
「読書時間を守る方向にだけ異常に学習速度が速いんだよね」
「目的が何であれ安全になってるならいいだろ」
春樹が傘を少し持ち上げると、雫は笑いながら隣へ並んだ。
雨のため通学路を歩く生徒の速度も普段より遅く、校門へ続く道には色とりどりの傘が連なっている。二人は水溜まりを避けながら、自然に同じ歩幅で学校へ向かった。
「昨日、借りた本さ」
しばらく歩いたところで雫が口を開く。
「もう読んだ?」
「まだ最初の方だけ。さすがに一晩で全部は無理」
「雫ならたまにやるからな」
「春樹に薦められたやつ、続き気になって夜更かししたことあるから否定できないけど」
「睡眠削ってまで読めとは言ってないぞ」
「それを春樹が言う?」
「俺は翌日に支障が出ない範囲で調整してる」
「午前二時まで読んでたって前に言ってなかった?」
「あれは休日だったから翌朝遅く起きれば問題ない」
「そういうところだけ計画的なの、何か腹立つ」
雫が呆れたように笑う。
「でも、今のところ結構好きかも」
「本?」
「うん。まだ二人が仲良くなる前だけど、最初から『この二人は絶対くっつきます』って感じが強くないのがいい。ちゃんと相手を嫌だと思う理由もあるし」
「だろ? 雫、最初から運命の相手ですって押されるより、読んでる途中で距離変わる方が好きそうだから」
「……そういうの、いつ覚えたの?」
「何が?」
「私がどういう恋愛もの好きか」
春樹は質問の意味がよく分からないらしく、傘越しに雫を見る。
「今まで散々感想聞いてるだろ。別に全部覚えようとして覚えたわけじゃないけど、何冊か話してれば傾向くらい分かる」
「そっか」
「逆に雫だって、俺がどんなの好きか結構分かるだろ?」
「まあね。じれったいの好きだし、主人公本人より読者が先に気づくやつ好きだし、完璧な男が好きな相手の前だけ失敗するのも好きでしょ」
「分かってるじゃん」
「長い付き合いですから」
雫はそう答えたあと、自分の言葉を胸の内でもう一度なぞった。
以前なら、それで終わっていた。
長い付き合いだから知っている。
幼馴染だから当たり前。
けれど最近は、その「当たり前」が何でできているのかを考えることが増えた。
春樹は雫が過去に話した本の感想を覚えている。雫も春樹が好きな物語の傾向を知っている。それは幼馴染という肩書きだけで勝手に生まれたものではなく、何年も一緒にいて、互いの話を聞いてきた結果なのだ。
「どうした?」
「ううん。何でもない」
「ならいいけど」
春樹はそれ以上聞かず、少し大きな水溜まりを避けるために歩道の内側へ寄った。
その動きに合わせるように雫も自然と位置を変える。
二人の傘が一瞬だけ触れ、透明なビニールと紺色の布が擦れる小さな音がした。
「近い」
「春樹が寄ってきたんでしょ」
「水溜まりあったからだよ」
「分かってるって」
雫は笑いながら傘を少し外側へ傾けた。
ほんの少しだけ速くなった自分の鼓動については、雨のせいにできそうになかった。
◇◇◇
朝のホームルームが終わり、一時間目までの短い時間。
春樹は予定通り短編集を開いていた。
最後の一編は、それまでの物語に登場した人物たちが少しずつ交差する構成になっている。とはいっても全員集合して大事件を解決するような派手な展開ではなく、同じ商店街を歩き、同じ喫茶店へ入り、ある人物が落としたものを別の人物が拾う程度の緩やかなつながりだ。
(こういうのでいいんだよな。全員が互いを知ってる必要なんてないし、同じ場所で別々に生活してるって分かるだけで街が広く感じる)
残りページを確認する。
あと二十数ページ。
さすがに授業開始までには終わらない。
諦めて栞を挟もうとしたところで、斜め前から悠斗が椅子を引き寄せてきた。
「春樹」
「その顔は本の話じゃないな」
「何で分かるんだよ」
「本の話ならもっと普通に来る。お前、恋愛相談するときだけ妙に周り見るから」
指摘された悠斗は、反射的に左右を確認してから顔をしかめた。
「今のでまた見ちゃったじゃん」
「知らんよ」
春樹は本へ栞を挟み、机の上へ置く。
悠斗が恋愛相談をしている相手が赤木紗弥だと知っているのは、少なくとも本人から直接聞いた中では春樹だけである。だから周囲へ聞こえるような声で名前を出すつもりはない。
「で、何?」
「昨日の夜、またメッセージ来た」
「良かったじゃん」
「まだ内容言ってないだろ」
「嫌な内容ならその顔してない。むしろどう返すか迷ってる顔」
「お前、俺のこと分かりすぎじゃない?」
「中学から付き合ってれば分かることもある」
春樹が肩をすくめると、悠斗はスマートフォンを机の陰で確認した。
「この前、映画と原作で違うって話しただろ?」
「ああ」
「そこから何回か感想送り合っててさ。昨日、『次に読むなら何がいいと思う?』って聞かれた」
「……それ、俺じゃなくてお前に?」
「俺に」
「じゃあお前が選べばいいだろ」
「だから困ってんだよ!」
悠斗は声を上げかけ、慌てて音量を落とした。
「俺、春樹みたいに本詳しくないし。変なの薦めてつまんなかったらどうすんだよ」
「別に一冊外したくらいで人間関係終わらないだろ」
「好きな相手に薦めるんだぞ? 外したくないだろ!」
「そこだけ切り取ると、最近の俺がやたら人間関係に命懸けで選書してるみたいになるな」
「実際めちゃくちゃ真剣に選んでるじゃん」
「それは合う本渡した方が面白いからだよ」
春樹は少し考え、悠斗のスマートフォンではなく本人を見る。
「そもそも、何で紗弥がお前に聞いたかは分からない。単純に最近本の話してるからかもしれないし、映画の好みが近いと思ったのかもしれない。そこに恋愛的な意味があるかどうかは俺には分からない」
「まだ何も聞いてないのに先回りするなよ」
「お前そのうち聞くだろ」
「……聞こうとは思ってた」
「ほら」
春樹は苦笑する。
「でも、本を選ぶこと自体はそんな難しく考えなくていいんじゃないか? 紗弥が好きだった映画とか、今まで話して反応良かったところから考えればいい」
「例えば?」
「俺が選んだら意味ないだろ」
「一冊くらい候補くれよ」
「候補を出すことはできる。でも最終的にお前が選べ。紗弥は俺に聞いたんじゃなくて、お前に聞いたんだから」
悠斗が黙る。
その言葉を考えるように、机へ視線を落とした。
「……それ、結構大事?」
「俺なら大事だと思う。相手が『高坂は何がいいと思う?』って聞いてるなら、高坂が考えた答えの方がいいだろ。正解の本を当てる試験じゃないんだから」
「なるほど」
「あと、薦めるなら自分が読んだことあるやつにしろよ。感想返ってきたとき話せるから」
「それだと一気に候補減るんだけど」
「なら映画の原作でお前も読んだやつとか、最近読んだやつから選べば?」
悠斗はしばらく考え、やがて一冊思い当たったらしく顔を上げた。
「前に紗弥から薦められた映画の原作者が書いてる別作品、俺も一本読んだ」
「それでいいんじゃない? 内容が紗弥の苦手そうなやつじゃなければ」
「ちょっと恋愛入ってる」
「むしろいいだろ。恋愛入ってるだけで意識してるって思われるような関係じゃないだろ、お前ら」
「俺は意識してるんだけど」
「それは知ってる」
「冷静だなあ」
「俺まで緊張してどうするんだよ」
春樹が笑うと、悠斗もようやく肩の力を抜いた。
そこへ教室前方から紗弥と雫が戻ってくるのが見えたため、悠斗は素早く椅子を自分の席へ戻した。
「じゃ、あとでタイトル送る」
「俺に?」
「一応見て」
「内容知らないやつなら何も言えないぞ」
「知ってたらでいいから」
「はいはい」
悠斗が離れた直後、雫が春樹の机へ目を向けた。
「また悠斗と内緒話?」
「まあ、ちょっと」
「男子同士の?」
「そういうことにしといて」
春樹が曖昧に答えると、雫は追及しなかった。
悠斗から直接聞いていない話を、勝手に他人へ共有するつもりはない。雫も春樹がそういうところでは口が堅いと知っているため、無理に聞こうとはしなかった。
「じゃあ私はこっち」
雫が鞄から昨日借りた本を少しだけ見せる。
「昼休み、続きを読む」
「お、もうそこまで読む気になった?」
「今のところね」
「じゃあ邪魔しないようにする」
「春樹が?」
「何その疑い」
「最近、昼休みの春樹って誰かと喋ってること多いじゃん」
「俺だって今日は読みたいんだよ。あと二十数ページで一冊終わる」
「じゃあ競争?」
「何を競うんだよ」
「どっちが昼休みに多く読めるか」
「雫の本の方が文字大きいから不公平だろ」
「本気で検討しないでよ」
雫が吹き出したところで、授業開始を告げるチャイムが鳴った。
◇◇◇
昼休み。
春樹は弁当を食べ終えると、すぐに短編集を開いた。
今日は誰かと約束しているわけでもない。スポーツ交流会関係の確認も、昨日の練習で必要な部分は済ませている。永山から新しい仕事を振られる気配もなく、悠斗は自分の席でスマートフォンを見ながら何やら真剣に考えていた。
(いける。今日は読める)
珍しく静かな昼休みになりそうだった。
雫も近くの席で昨日借りた本を読んでいる。紗弥は友人たちと廊下へ出ており、教室の中には昼食を終えて談笑する生徒と、机に伏せて休む生徒が半々ほど残っていた。
窓の外では朝から続いていた雨が弱まり、校舎の屋根から落ちる水滴が一定の間隔で音を立てている。
春樹は最後の一編へ集中した。
それまで別々の物語で生きていた人物たちが、互いの人生を大きく変えるわけでもなく、ほんの少しだけ接触していく。喫茶店の店主が何気なく差し出した傘が、別の物語で誰かを助け、その人物が置いていった古本をさらに別の人物が手に取る。
(これ、最初から全部つながるように置いてたのか。二編目の古本屋、ただの舞台じゃなかったんだな)
残り十ページ。
そのとき、教室の入口から声がした。
「春樹先輩ー……あ」
聞き慣れた明るい声が途中で小さくなる。
春樹はページから顔を上げた。
入口には小日向ひよりが立っていた。
いつもなら迷いなく近づいてくる後輩が、今日は春樹の手元を見て動きを止めている。
「どうした、小日向」
「いや、めちゃくちゃ集中してたから、今声かけたらダメかなって」
「声かけたあとに言うんだな」
「だから途中で小さくしたじゃないですか」
「最初の『春樹先輩』で十分聞こえてる」
「じゃあ意味なかったですね」
ひよりは悪びれず笑った。
春樹は栞を挟む前に残りページを確認し、ほんの少しだけ名残惜しそうな顔をした。
「あと九ページ」
「うわ、絶妙に申し訳ない!」
「別にいいよ。何か用事あったんだろ?」
「急ぎじゃないです。九ページなら読んでください。私、待ちます」
「待つの?」
「待ちます。雫先輩の隣で」
「私?」
突然名前を出された雫が本から顔を上げる。
ひよりは教室へ入ってくると、空いている椅子を借りて雫の近くへ座った。
「何読んでるんですか?」
「昨日、春樹に薦められたやつ」
「またですか?」
「またって何」
「雫先輩、最近めちゃくちゃ春樹先輩に本選んでもらってません?」
「そうかな?」
「私も次の本選んでもらおうと思って来たんですけど」
春樹はその会話を聞きながら、本へ視線を戻しかけて止まった。
「小日向、次の本?」
「はい。でも急がないので九ページ読んでください」
「……分かった。じゃあ本当に読むぞ」
「どうぞ!」
ひよりが両手で本を開く仕草をする。
春樹は苦笑しながら読書へ戻った。
最初の数分、ひよりは本当に静かだった。
雫の本を覗き込んでは小声で内容を聞き、途中から自分のスマートフォンを触り始める。それでも春樹へ話しかけることはなく、残り九ページを読み終えるまで待っていた。
やがて最後の一行まで読み終えた春樹は、すぐ本を閉じずに数秒だけページへ視線を残した。
派手ではない終わり方だった。
最後の主人公は、自分が誰かの物語へ影響したことなど知らないまま、いつもの街を歩いていく。
(ああ、これ好きだな)
胸の奥に残る感覚を味わってから、本を閉じる。
「読み終わった」
「おめでとうございます!」
「何のお祝いだよ」
「一冊読了祝い?」
「毎回やってたら大変だぞ」
「春樹先輩の場合、週に何回祝えばいいんですか?」
「本による」
ひよりが笑い、雫も本から顔を上げた。
「どうだった?」
「良かった。最後に全部の話を無理やり一つへまとめなかったのが特に好き」
「白石先輩に薦められたやつだっけ?」
「そう。あとで感想話したい」
春樹は満足そうに本を鞄へしまい、ひよりへ向き直った。
「で、次の本って?」
「それです」
ひよりは待ってましたと言わんばかりに姿勢を正した。
「この前の連作短編集も読み終わったし、次何読もうかなって。自分で選ぼうとも思ったんですけど、本屋行ったらいっぱいありすぎて分かんなくなりました」
「何か気になったのなかった?」
「表紙で気になったのはありました。でも分厚かったです」
「何ページ?」
「四百七十くらい」
「小日向にはまだ重いかもな」
「ですよね!」
「物理的にも内容的にも?」
「両方です」
春樹は笑いながら腕を組む。
ひよりがこれまで読んだ本の反応は覚えている。
最初に薦めた文化祭を舞台にした学園ものでは、主人公が一人で抱え込むのをやめて周囲へ頼れるようになる部分を気に入っていた。次の商店街の日常ミステリーでは、主人公より眼鏡の友人を気に入り、会話のテンポを楽しんでいた。
連作短編集では四編目が一番好きだった。
幼馴染が直接言葉にしなくても行動で相手を支え、主人公自身より読者の方がその関係に先に気づく構造を面白がっていた。
(軽めで会話多め。恋愛は入っててもいい。暗すぎるのはなし。厚すぎると手を出しにくい。前より少しだけ長くても読めるようになってきてるから……)
春樹は頭の中で候補を並べる。
「前よりちょっと長いのでもいい?」
「どのくらいですか?」
「三百ページ前後」
「四百七十よりだいぶ優しい」
「比較対象がおかしいんだよ」
「内容は?」
「まだ決めてない。候補が三冊くらいある」
「もう三冊出たんですか?」
「小日向は好み分かりやすいから」
その言葉に、ひよりが一瞬目を丸くした。
「私、分かりやすいです?」
「本の好みがな。会話多い方が読みやすい、暗すぎるの苦手、ホラーは避けたい、恋愛は軽いのなら好き。あと主人公一人だけが活躍する話より、周りのキャラがちゃんと動く方が反応いい」
「……そんなに言いましたっけ?」
「一回で全部聞いたわけじゃないよ。今までの感想合わせたらそうかなって」
「へえ」
ひよりの声が少しだけ変わる。
自分でも意識していなかった好みを、目の前の先輩が覚えている。
以前にも似たことはあった。だから初めて知ったわけではない。
それでも何度経験しても、少し不思議な気分になる。
(春樹先輩って、本当に覚えてるんだ)
単に本に詳しいから適当に薦めているわけではない。
自分が何を面白いと言ったのかを覚えて、その続きとして次の一冊を考えている。
ひよりは頬杖をつき、春樹を見る。
「じゃあ、春樹先輩が一番いいと思うやつで」
「丸投げしたな」
「だってその方が面白そうです。私が自分で選ぶと表紙で選んじゃうし」
「表紙で選ぶのも悪くないぞ」
「でも今回は春樹先輩に選んでもらいます」
「分かった。じゃあ今日か明日までに決める」
「やった」
ひよりが嬉しそうに笑う。
その様子を隣で見ていた雫は、不思議なくらい落ち着いていた。
以前なら、春樹が別の女子へ本を選ぶだけでも胸の奥に小さな引っ掛かりを覚えていた。
今は、それが春樹にとって特別な行為ではないと知っている。
誰かが本を読みたいと言えば、その人に合う一冊を本気で考える。
真実にも、ひよりにも、怜華にも、栞にも。
そして自分にも。
(同じことをしてる。でも、同じじゃないんだよね)
春樹がひよりへ選ぶ本と、自分へ選ぶ本は違う。
聞く内容も違えば、判断に使う記憶も違う。
誰かに本を選ぶこと自体を取り合う必要はない。
そのことが分かってから、以前より少しだけ楽になった。
「雫先輩?」
「ん?」
「何か笑ってません?」
「笑ってた?」
「ちょっと」
「たぶん本が面白かっただけ」
「本当に?」
「本当」
雫はそう答え、再び自分の本へ視線を落とした。
春樹は二人のやり取りを気にすることなく、ひより向けの候補を頭の中で絞り始めていた。
◇◇◇
放課後になっても、雨は完全には止まなかった。
昨日サッカーをしたグラウンドには薄く水が浮き、今日は運動部の多くが室内練習へ切り替えている。スポーツ交流会本番を控えているものの、無理に屋外で練習するような状況ではなかった。
春樹にとっては好都合だった。
「今日は最初から図書室に行ける」
廊下を歩きながら呟くと、隣を歩いていた悠斗が呆れた顔をする。
「嬉しそうだな」
「昨日三十分削られたからな」
「削られたって言うなよ。普通に楽しんでただろ」
「楽しかったのと読書時間が減ったのは両立する」
「お前の中ではするんだな」
「当たり前だろ。映画楽しかったからって飯食わなくていいことにはならないのと同じ」
「読書って飯と同じなの?」
「かなり近い」
「重症だな」
二人が階段へ差しかかったところで、悠斗が少し声を落とした。
「そういえば、朝のやつ送った」
「候補?」
「うん。自分で決めた」
「いいじゃん」
「春樹にタイトル送ろうと思ったけど、やめた」
「何で?」
「お前が、俺が選べって言ったから」
春樹は少し驚き、それから笑った。
「それでいいんじゃない?」
「まだ返事来てないけどな」
「授業中だったかもしれないし、急かすなよ」
「分かってる」
「既読ついたか三分ごとに確認するなよ」
「……何で分かった?」
「やってたのかよ」
春樹が吹き出す。
「お前、他人の恋愛なら本当に冷静だよな」
「自分のじゃないからな」
「もし春樹が好きなやつできたら、同じくらい冷静でいられると思う?」
「分からん。そもそも今いないし」
「想像で」
「想像する必要ある?」
「恋愛小説あれだけ読むくせに、自分の恋愛だけ想像したくないの何なんだよ」
「読みたいのと体験したいのは別だって何回言えば分かるんだ。ミステリー好きだからって殺人事件に巻き込まれたいか?」
「恋愛を殺人事件と同列にすんな」
「たとえだよ」
階段の途中で悠斗が笑う。
そのまま一階へ降りるところで、廊下の向こうから紗弥が歩いてきた。
「あ、高坂」
「お、おう」
悠斗の声が一瞬だけ硬くなる。
春樹はそれを聞いても表情を変えず、紗弥へ軽く手を上げた。
「七瀬も一緒だったんだ」
「俺は図書室。悠斗は知らん」
「俺も途中まで行くだけだよ」
「そうなんだ。あ、高坂、さっき送ってくれたやつ見た」
「お、おう。どうだった?」
「まだ読んでないよ」
「あ、そうだよな」
悠斗が明らかに焦る。
紗弥はそんな彼を不思議そうに見たあと、少し笑った。
「でも面白そう。映画になってないやつだよね?」
「うん。俺も読んだけど、結構良かったから」
「じゃあ今度探してみる。ありがと」
「いや、全然」
「読んだら感想送るね」
「おう」
紗弥はそれだけ言い、友人の待つ教室へ向かっていった。
姿が見えなくなってから、悠斗が長く息を吐く。
「……死ぬかと思った」
「本薦めただけだぞ」
「お前には分からん」
「分からんけど、普通に会話できてたじゃん」
「途中までな」
「ならいいだろ」
春樹は笑い、悠斗の肩を軽く叩いた。
「少なくとも、俺に選ばせなくて正解だったな」
「それはちょっと思った」
「だろ?」
「何か、俺が読んで良かったから薦めたって言えたの、結構嬉しかった」
「なら次から俺に聞く前に自分でやれ」
「それは無理」
「何でだよ」
「相談相手は必要」
「都合いいなあ」
悠斗は笑いながら階段下で別れた。
春樹はその背中を見送り、自分ならどうするだろうと一瞬だけ考える。
もし本当に好きな相手ができたら、その人へ本を薦めるときも今と同じように考えるのだろうか。
(……いや、別に今考えることじゃないな)
答えのない想像へ時間を使うより、本を読んだ方がいい。
春樹はあっさり思考を切り替え、図書室へ向かった。
◇◇◇
図書室へ入ると、雨音が一段遠くなった。
窓ガラスには細かな水滴が流れ、灰色の空から差し込む光が室内をいつもより落ち着いた色にしている。放課後すぐのため利用者はまだ少なく、カウンター奥では図書委員が返却本を整理していた。
いつもの窓際には栞がいた。
「こんにちは、七瀬君」
「こんにちは。昨日の本、読み終わりました」
春樹が鞄から短編集を出すと、栞の表情が柔らかくなる。
「最後までどうでした?」
「かなり好きでした。特に最後。全員の物語を無理やり一個にしなかったのが良かったです」
「そこ、七瀬君は好きそうだと思ってました」
「分かりました?」
「今まで話した本でも、全部を説明しすぎない終わり方が好きだと言っていたので」
「確かに」
春樹は栞の向かいへ座る。
「あと、三編目の古本屋。最初はただの舞台だと思ってたのに、最後まで読むと結構重要でしたね」
「はい。でも、重要だと強調されないのがいいんです」
「分かる。読者が気づけばいいくらいの置き方なんですよね」
二人の会話は、そのまま自然に本の話へ流れていった。
どの話が一番好きだったか。
どの人物が印象に残ったか。
同じ場面でも視点人物が変わることで印象がどう変化したか。
栞は五編目を一番好み、春樹は最後の六編目を選んだ。理由を話していくうちに、以前読んだ連作短編集の話まで戻り、似ている部分と違う部分を比べ始める。
十五分ほど経ったところで、春樹はふと思い出した。
「そうだ、白石先輩の本」
「……覚えてたんですか?」
「そりゃ覚えてますよ。先輩から選んでほしいって言われたんだから」
栞は少しだけ姿勢を正した。
以前、自分では選ばなそうな本を、春樹の視点で一冊選んでほしいと頼んだ。
そのとき春樹は、栞が好きなものを残しつつ、少しだけジャンルをずらしてみたいと言っていた。
「候補、かなり絞りました」
「もう?」
「もうって言っても何日か考えてますよ。先輩、ミステリー好きだけど、事件そのものより事件の前後とか、人が何を言わなかったかを見る方が好きでしょう?」
「……はい」
「あと、派手な恋愛より関係が少しずつ変わる方が好き。静かな場面も苦じゃないし、登場人物が多すぎるより何人かをじっくり追う方が合ってる」
栞は春樹を見つめた。
自分の好みを聞かれているだけなのに、不思議な感覚がある。
春樹が本について話すとき、言葉は普段よりずっと多い。しかも今は一般的な作品論ではなく、自分が何を好きなのかを語っている。
(七瀬君から見ると、私はそういう本が好きな人なんだ)
以前から知っていることもある。
けれど、自分では意識していなかった部分もあった。
「それで、ミステリーから完全に離すか迷ったんですけど」
春樹は鞄からメモ帳を取り出した。
最近、選書候補が増えたため、さすがに頭だけで管理するのが面倒になり、作品名だけ簡単に書くようにしている。
「最終的に、これにしようかなと思ってます」
春樹が一つの題名を指差した。
栞はそこへ目を落とす。
「……青春小説?」
「はい。大学の写真サークルが舞台です」
「ミステリーじゃないんですね」
「一応、ちょっとだけ謎っぽい要素はあります。でも人が死んだり事件が起きたりはしないです」
「どんな話ですか?」
「そこを説明しすぎると面白くないんですよ」
春樹が楽しそうに笑う。
「ただ、主人公が写真を撮る理由と、もう一人の主要人物が写真に写りたくない理由が途中まで分からない。二人とも相手に全部話さないんですけど、黙ってることにちゃんと理由がある。最後まで読んでも全部が綺麗に言葉になるわけじゃないです」
「……七瀬君が好きそう」
「俺も好きです」
「私に、ではなく?」
「両方。俺が嫌いな本を無理に薦めても感想聞く楽しみ減るし」
栞は思わず笑った。
「七瀬君らしいです」
「ただ、先輩が普段自分で選ぶなら、たぶんこれよりミステリー寄りに行くと思うんですよ。だから今回はちょうどいいかなって」
「私が自分では選ばないけれど、好きそうな本」
「そういうことです。絶対合うとは言えないですけど」
「それがいいです」
栞の返事は早かった。
「外れるかもしれない方が、楽しみです」
「そうですか?」
「はい。私が絶対好きな本なら、自分でも選べると思うので」
「ああ、それは確かに」
「七瀬君が私をどう見て選んだのか、読んだあとに分かる方が面白そうです」
春樹はそこで一瞬止まった。
「俺が先輩をどう見てるか?」
「本の好みとして、です」
「ああ」
春樹は納得したように頷く。
栞はその反応を見て、胸の内に小さな可笑しさが広がるのを感じた。
もし別の誰かなら、今の言葉を少し違う意味へ受け取ることもあるのかもしれない。
春樹にはその心配がない。
良いのか悪いのかは、まだ分からない。
「じゃあ、明日持ってきます」
「七瀬君の本なんですか?」
「家にあります。図書室にもあった気がするけど、貸出中だったはずだから」
「借りてもいいんですか?」
「もちろん。期限は別にないです。先輩のペースで」
「ありがとうございます」
栞は丁寧に頭を下げる。
春樹は「そこまでしなくても」と笑いながらメモ帳を閉じた。
「これで一冊決まった。あとは小日向だな」
「小日向さんも?」
「今日、次の本選んでほしいって来たんです。あっちは候補三冊まで絞ったんですけど」
「一ノ瀬さんの本も選んでいましたよね」
「先輩のはもう渡しました。今読んでる途中です」
「……七瀬君、本当に本屋さんみたいになってきましたね」
「金取ってないですよ」
「そこなんですか?」
「本屋なら売上が必要でしょう」
栞が声を抑えて笑う。
「でも、七瀬君は楽しそうです」
「選ぶのは好きですよ。読んだあと感想聞くのも面白いし」
「前より、読む以外の時間も増えましたね」
「増えましたねえ」
春樹は少しだけ遠い目をした。
「俺、昔は本を読む時間が減るなら全部邪魔だと思ってたんですけど」
「今は違いますか?」
「本について話してるなら、まあいいかなって。もちろん一人で読む時間も絶対必要ですけど」
「両方ある方がいい?」
「たぶん」
春樹は窓の外を見る。
雨粒がガラスを伝い、その向こうでは校庭の水溜まりが薄暗い空を映している。
「昨日サッカーやってても思ったんですけど、好きなもの一個だけに絞る必要ないんですよね。ただ、全部同じ量にしようとすると無理だから、自分の中で順番が分かってればいいというか」
「七瀬君の一番は、本?」
「そこは迷わないです」
即答だった。
栞は微笑む。
「安心しました」
「何がです?」
「七瀬君がサッカー部に入って、図書室へ来なくなったら困るので」
春樹が目を丸くする。
「入らないですよ。昨日も一ノ瀬先輩に同じようなこと聞かれましたけど、毎日部活したら読む時間なくなるじゃないですか」
「そうですね」
「それに」
春樹は少し考えてから続けた。
「俺、今の図書室好きですよ」
栞の指が、開いていた本の端で止まった。
「前みたいに一人でずっと読む日もいいですけど、先輩と本の話したり、小日向が来たり、真実が感想持ってきたりするのも嫌じゃない。静かじゃなくなりすぎたら困りますけど」
「……はい」
「だから、サッカー始めたから来なくなるとかはないです」
春樹は何でもないことのように言う。
栞はすぐには返さなかった。
自分が特別だと言われたわけではない。
図書室という場所について話しているだけだ。
それでも、その中に自分との時間を自然に含めてくれたことが嬉しかった。
(七瀬君にとって、ここに私がいることも、もう普通になってきてるのかな)
そうならいい。
今は、それだけで十分だった。
「白石先輩?」
「すみません。ちょっと考えてました」
「本のこと?」
「……半分くらいは」
「残り半分は?」
「内緒です」
「一ノ瀬先輩みたいなこと言いますね」
「え?」
「あの人も『半分は用事、半分は話』とか言うから」
栞は思わず笑った。
「一ノ瀬さんと同じにされると、少し勝てる気がしません」
「何の勝負ですか」
「秘密です」
「また?」
春樹は不思議そうに首を傾げた。
その様子があまりにも春樹らしく、栞はもう一度笑う。
◇◇◇
しばらくして、二人はそれぞれの読書へ戻った。
春樹は読み終えた短編集の代わりに、鞄から別の文庫本を取り出す。今度はウェブ小説発の恋愛作品で、主人公の青年が好きな相手へ贈り物を渡そうとして何度も失敗する話の続巻だった。
数ページ読んだところで、春樹の口元がわずかに緩む。
(また失敗してる。何でこいつ仕事だと何でもできるのに、好きな相手の前だとここまで駄目になるんだよ)
本人にとっては深刻な場面なのに、読者としては面白い。
好きな相手へどう話しかけるか悩み続け、たった一通のメッセージへ何度も文章を書き直す主人公を見ていると、朝の悠斗を少し思い出した。
(悠斗も似たようなもんか)
紗弥へ本を一冊薦めるだけで、あれほど悩んでいた。
春樹から見れば、そこまで難しく考えなくてもいいと思う。
相手の好みを考え、自分が良かったと思うものを渡せばいい。
少なくとも自分は、そうしている。
雫へ。
真実へ。
ひよりへ。
栞へ。
怜華へ。
それぞれに合いそうなものを考え、渡し、感想を聞く。
(……あれ?)
春樹の指がページをめくる途中で止まる。
(俺、最近めちゃくちゃ人のこと考えて本選んでないか?)
今さらのように気づいた。
以前なら自分が次に何を読むかだけ考えていればよかった。今は自分の読書予定に加えて、誰に何を薦めるかまで頭の中へ入っている。
怜華には、完全に分かり合えなくても続いていく関係を描いた本。
栞には、自分では選ばなそうだが静かな人間関係と余白を楽しめる青春小説。
ひよりには、読みやすく会話が多く、それでも今までより少しだけ読み応えのある作品。
雫には、これまで何度も聞いてきた感想を踏まえて、そのとき一番合いそうな本。
(……これ、読書時間増やすどころか、別方向に本へ使う時間増えてるな)
普通なら困るところなのかもしれない。
けれど春樹は、思ったほど嫌ではなかった。
むしろ次にどんな感想が返ってくるのかを想像すると、少し楽しみですらある。
春樹は小さく息を吐き、再びページへ視線を落とした。
(まあ、本に関係してるならいいか)
結論はいつも通りだった。
向かい側では、栞が静かに本を読んでいる。
窓の外では雨が少しずつ弱まり、雲の切れ間から夕方の淡い光が差し始めていた。濡れた窓ガラスを通った光が机の端へ細長く伸び、二人の間に積まれた本の影を床へ落としている。
明日は栞へ一冊渡す。
ひよりの本も決めなければならない。
怜華が読み終えれば感想を聞けるだろう。
雫も昨日借りた本を読み進めている。
数日後にはスポーツ交流会本番まで控えている。
以前の春樹なら、予定が増えていること自体を面倒だと思ったはずだった。
今も読書時間を削られるのは嫌だ。
それだけは変わらない。
ただ、その読書の周りに誰かとの会話や約束が増えることを、以前ほど邪魔だとは感じなくなっていた。
春樹本人はまだ、それを単純に「本の楽しみ方が増えた」としか考えていない。
だから今日も、恋愛小説の主人公が好きな相手へ贈り物を渡せずに右往左往する姿を眺めながら、他人の恋愛というものは本当に面白いと笑っている。
自分の周囲で少しずつ形を変え始めている関係については、何一つ恋愛として考えないまま。
七瀬春樹は今日も、自分は物語を読む側だと信じていた。




